3 眠れぬ夜に

 自分の汚らわしい過去。寝ても覚めても頭にまとわりつくのはそればかり。何もかも否定したくなって、自分に関わる全てを抹消したくなる。
 「___」
 でも今しがたまでの眠りは、やっぱりいつものように悪夢を見たけれど、少しだけ安らかな部分もあった。それだけに、今の自分の置かれた状況が理解できなかった。
 いや、理解しようと努力しても頭がついてこないと言った方が良いのかもしれない。ともかくここがフェリルの肌の香り、息の香りを感じない場所だというのは分かった。でもそれを素直に喜べない。むしろ怖がってしまう。
 「___」
 ソアラは鉛のように重たい頭に手を触れる。砂のベッドで目覚めた彼女は、半身を起こし、ひとまず辺りの景色を見た。そこは岩の隙間だ。大きな岩に走った亀裂か、或いは複数の岩が寄り集まった狭間か、ともかく空、それから前と右手の隙から僅かに景色を見ることができた。
 次に彼女は自分の手元を見た。そして困惑した。
 「どうして___」
 彼女は倒れているフュミレイを目の当たりにした。
 ソアラは戸惑い、フェリルを探した。しかしその影はおろか、気配さえも感じない。この人目に触れないだろう場所にフュミレイと二人でいる状況が、今のソアラには理解しがたかった。
 フェリルに見せられた夢の延長。その考えが先にたち、ソアラは一人で怯えていた。このとき、フュミレイは彼女が見たことのない服を着ていたが、それを根拠にこれが自分の過去から作られた幻想ではないと考えることはできなかった。
 ソアラはフェリルの手から逃れられたことをしらない。この都合のいい状況を受け入れられるだけの余裕もない。そればかりか、自分を惑わすもの、混沌はできる限り早く拒絶したいという思いが先に立っていた。
 「___」
 知らず知らず、彼女はフュミレイに触れていた。だが優しく頭を撫でるわけでも、少し怖々頬に触れるわけでもない。
 グ___
 その手はフュミレイの首へと押し当てられていた。ジワリと力が籠もる。気絶しているフュミレイには抵抗が無く、指は簡単に、彼女の首へと食い込んでいく。
 「何してるんですか。」
 しかし、一際冷静な声がソアラを止めた。幾らかでも咎める気持ちがあったからだろう、ソアラはつまみ食いをごまかすように手を引いて後ろに隠した。そして視線の先に見たものにギョッとしていた。
 「いま、何してました?」
 正面の隙間から大きな虎が入ってきた。驚いたことに、言葉を喋りながら。
 「フュミレイさんを殺そうとしてませんでしたか___?」
 虎の眼差しに殺気はない。しかし無防備でも無かった。フュミレイまで名指しして見せた虎の後ろには、別の大きな虎と子虎が一頭、続いていた。
 「誰___?」
 這いずるように後ずさりし、あからさまに怯えながらソアラは言った。
 「誰?ソアラさんならすぐに気付いてくれると思いましたが___」
 そして虎の姿が変わる。ほんの瞬間的な変化で、虎は棕櫚本来の姿に戻った。
 「___棕櫚___?」
 ソアラの反応は鈍かった。それでも怯えの色は多少和らいだ。
 「お久しぶりです。だいぶ___変わりましたね。変わり果てたと言った方がいいくらいに___」
 そんなソアラの姿が棕櫚には見るに耐えなかった。再会のとき、それは誰もが待ち望んでいたことだが、こんなに感動のない再会になるとは想像していなかった。ソアラは棕櫚を見て笑顔になるどころか、彼を疑いの目で見て、野良猫のように距離を保とうとしている。そこには快活の欠片もない。
 彼女がどんな目に遭ってきたか。細かいことは分からなくとも、それが鬼畜外道な所業だったろう事は今のソアラを見れば十分に想像できた。
 「ソアラさん。俺ではソアラさんの全てを埋めることはできないと思いますが、これだけはしっかりと理解してください。」
 ソアラは答えない。棕櫚は構わずに続けた。
 「あなたは魔の手から救出されたんです。助けてくれたのはフュミレイさんです。」
 「___」
 ソアラの目が大きく開いた。しかし疑いを消した様子ではない。
 「フュミレイさんはあなたを助けて必死にここまで逃げてきました。でも力つきて、おそらく最後の力を振り絞って人目に付かないだろうこの岩の隙間に入り込んだ。そこはこの虎の住処でした。」
 棕櫚の後に続いていたのは雌虎だった。彼女は取り乱す様子もなく、足を休めて毛繕いしていた。
 「彼女は最近、夫と幼い子虎を二頭無くしたばかりです。突然やってきた瀕死の来訪者に母性を刺激され、彼女なりの介抱をしたんですよ。後でちゃんとお礼を言ってくださいね。」
 ソアラはまだ答えない。しかし少しずつ、陰鬱さは薄れているように見えた。
 「俺はここの近くのムンゾ神殿を調べていましたが、あいにく出口のない場所に迷い込んでいました。ただ状況が変わったようで、急に出られるようになったんです。そしたら食べ物を探して神殿に入り込んでいた彼女にあいましてね。」
 棕櫚が饒舌に状況を説明していると、子虎が何気なくソアラに近寄っていった。
 「ピギャッ。」
 愛らしい眼でソアラを見上げ、彼女の手にもっさりとした手を掛けて、甘えるようにじゃれつきはじめた。
 「___」
 ソアラは視線を移し、暫く子虎を眺めていた。甘噛みされても、軽く爪を立てられても、彼女は動じなかった。そして___
 「君、可愛いね。」
 微笑みながら言った。
 「ソアラさん___?」
 ソアラは子虎を見たままでいた。
 「ありがとう棕櫚。」
 「分かってくれましたか___?」
 「うん___まだ自信ないけど。」
 「ならこっちを見たらどうです?」
 「もうちょっと待って。多分泣きわめいちゃうから、この子がビックリするでしょ。」
 手元にじゃれつく子虎を見ているとはいえ、ソアラはあえて俯き、前髪を垂らして顔を隠しているように見えた。
 「分かりました。俺では役不足でしょうけど、必要でしたら胸を貸しますよ。」
 「うん、ありがとう。」
 涙の堰が切れるまで、それほど時間は掛からなかった。

 「う___」
 長い微睡みから目を覚ましたとき、フュミレイを襲ったのは激しい頭痛だった。しかし彼女は額に手を添えただけで体を起こし、自分に寄り添うように眠るソアラを見つけてホッとした顔をする。
 「おはようございます。」
 声に振り返ると、丸くなっていただろう虎が頭を上げてこちらを見ていた。
 「?___ああ、棕櫚か。」
 ほんの短い沈黙のあと、フュミレイは淡々と言った。その反応に虎は項垂れるように首を折れる。
 「そうあっさり言われると気付かれない以上にガッカリしますね。」
 溜息をつきながら、棕櫚は元の姿に戻った。そんな彼の落胆に触れるでもなく、フュミレイは岩の隙間から空を見ていた。
 「夕方か___あたしが気絶してからどれくらいたつ?」
 「まだ丸一日も過ぎていませんよ。彼女がそう言ってました。」
 そう言って棕櫚は子虎と共に丸くなる雌虎を指さした。寝ているように見えるが隙はない。ただ敵意もない。
 「ソアラはまだ目覚めてないのか?」
 「いえ。一度起きました。今は泣き疲れて___」
 「なら正気で___」
 「難しいですね。もし俺がいなければ、あなたはソアラさんに殺されていました。」
 そう言って棕櫚は自らの首に手を当てる。その意味を察し、フュミレイは少し顎を上げて唾を飲んでみる。言われてみれば喉元に引っかかる感覚があった。
 「とりあえず自分が助かったことは理解してくれました。で、一頻り泣いてもらって、ホッとしたら眠気が襲ってきたみたいなんですけど、眠ることを酷く嫌がってました。でも目の下もあの隈ですし、肉体的に限界に見えましたから一服もって無理矢理眠らせました。」
 「そうか___」
 フュミレイはソアラを見やる。首を絞められたという事実は彼女から笑顔を消した。しかし心からの安堵は確かに滲み出ていたし、なにより愛おしむようにソアラの髪を撫でていた。
 「お互いに状況を知りたいですよね。手早く話し合いませんか?」
 「そうだな。」
 それでもすぐにスイッチを変える。ささやかな安寧を脱し、フュミレイはいつもの顔を取り戻した。

 互いの事実を付け合わせることで、より多くの驚きを得たのはフュミレイの方だった。まずフェリルの正体がフェイ・アリエルという名の女神であったこと。彼女がムンゾの妻であったこと。フェリル自身が、自分たちがソアラ救出のために踏み込んだガラス玉、あれと同じようなものに封じられていたこと。
 棕櫚の話を聞くにつれ、この暴挙はフェリル単独によるものではないと強く感じられた。空雪の読み通りだ。鍵はフェイ・アリエルがどうやってムンゾの檻から出たのか、そこにあるのだろう。
 「安直な考えですけど、多分そうでしょう。」
 「出してもらった___か。」
 「そう、ムンゾ以外の誰かにね。」
 「でもムンゾを殺したのはフェリルだ。」
 「出してあげた上で復讐させたんじゃないですか?」
 「彼女のために?自分のために?」
 「___彼女のためかも知れませんね、その時は。」
 「今は自分のため?」
 「さあどうでしょう。」
 その辺りはソアラの話からも、何かしら得るものがあるだろう。しかし今はまだ駄目だ。ソアラが進んで話せるようになるまでは、無理に問いつめるべきではない。二人の意見はそう一致した。
 「しかし気がかりですね。」
 「なにが?」
 「そりゃサザビーさんですよ。」
 「ああ___」
 「俺があそこから出れたっていうのは、ムンゾの能力を持っているフェリルに何かがあったってことです。」
 「サザビーがやったとでも?」
 「大いにあると思いますよ。」
 出口のない宮殿でレイノラの救出を待っていた棕櫚だったが、ある時を境に言葉一つで出口が開くようになった。しきりに自分の行動を反芻したが、何か特殊なことをした訳でもない。だとすれば環境が変わったのだ。棕櫚は一度ガラス玉の外へと出てから、もう一度中へ入ってみた。そしてまたすぐに出ることができた。
 ガラス玉の出口がムンゾの束縛によって封じられていたのは明白だ。その能力は今フェリルが握っている。だとすればフェリルに何かあったか、あるいは意図的に束縛を解いたかだ。
 「もしあたしがフェリルなら、あのままあそこにじっとしていようとは思わない。背後に誰かがいるならその指示を仰ぐこともあるだろう。」
 「そうですね。もしかしたらそれをサザビーさんが掴んで、敵を慌てさせたのかもしれません。」
 「だとすれば彼の身の上が心配だ。フェリルのトップシークレットに触れたわけだから。」
 「___ですね。さあ、そろそろ俺たちも神様に指示を仰ぎましょうか。」
 「そうだな。」
 すでに日は落ち、薄暗い空が広がっている。フュミレイは闇の鏡を手に取った。

 冷静沈着で皆の前ではあまり喜怒哀楽を見せない闇の女神レイノラだが、鏡に映ったフュミレイを見たときの破顔ぶりは、当のフュミレイの胸を高ぶらせるほどだった。
 「凛様って可愛いですね。」
 そんな言葉が喉元まで出かかった。それだけレイノラがフュミレイの帰還を喜んでいたと言うことだ。
 ソアラを取り返した。それを聞いたレイノラは感激を押し殺すような笑みで、彼女の周りではリュカとルディーが叫声を上げていた。だがサザビーがフェリルの元に残っていること、ミキャックも彼の脱出後の手引きをすべく、近くに身を潜めていることを聞くと笑顔は幾らか曇った。しかしソアラ救出という大目標の達成は、いつになく彼女に大きな勇気を与えていた。
 それもそのはず、レイノラはつい先程まで重苦しく、辛い顔をしていたのだ。
 「リシスが殺された。」
 レイノラを陰鬱にしていたのがその報せだった。それはフュミレイたちの連絡より一足早く、オコンから届いた。
 「しかし___フェリルはそのころ私たちとソアラの戦いを見ていたはず。」
 「アヌビスの手のものだという話だ。」
 レイノラはフローラから多少のいきさつを聞いていた。ジェトを囮に、アヌビスの手のものがリシスの隙を突いた___フローラはそう推察し、オコンもレイノラも真っ当な筋書きだと感じていた。
 「___それは確かですか?」
 だがフュミレイは違った。
 「疑う理由は?」
 「タイミングです。もう少し遅ければ分かります。サザビーが敵の全容を明かしたとして、アヌビスも彼の目からそれを知っていたなら、大胆な動きをするのも分かります。しかしこのタイミングはどうも釈然としません。今まで沈黙してきた男が動く時期でしょうか?」
 「アヌビスの意向ではないかもしれないわ。フローラの話ではアヌビスとダ・ギュールは別行動をしていて、ダ・ギュールは部下の誰かに神を一人殺させて、変化を調べようとしていたそうだから。」
 「___」
 しかしこの話はライとフローラがアヌビスの口から聞いたこと。当然、レイノラも話半分にしか受け止めていない。ただそれを加味しても、フュミレイは全く憮然としていた。
 「何か引っかかっていそうね?」
 「私は長らく副官、参謀といった立場にありました。いわば主家と従家の関係に生まれていますし、忠誠心も強く持っていたつもりです。だからダ・ギュールという男の動き方には共感できる部分があります。あれは天性の参謀です。アヌビスに不利益になるようなことは決してしません。参謀にとって重要なのは、自らが功を上げることではなく、全て主家の利になるように動くことです。その点で、リシスを殺めたのがダ・ギュールの差し金とするのには抵抗があります。」
 「___なるほど。心にとめておくわ。でもリシスの殺害がアヌビスの利益となる可能性を否定すべきでもない。違って?」
 「それは___そうです。」
 感覚の問題でしかない。もっとも、ライとフローラは戦場でダ・ギュールを見た訳ではないから、あの場に彼の意向が働いていたかも疑問だ。ジェトを初めとした連中が、独断で求められる以上の事をしてしまった可能性もあるだろう。
 「ともかく、一度オコンの神殿に戻りなさい。私たちも今向かっているから、そこで今後の動きを検討しよう。」
 「サザビーとミキャックはどうします?」
 「今は彼らに任せるしかないわ。まずはソアラを安全な場所へ運ぶことが先決。」
 「分かりました。」
 「ヘヴンズドアを使いなさい。」
 「?___しかしムンゾの障壁が___」
 「消えているよ。おそらく棕櫚が脱出できたのと時を同じくして。」
 「!」
 ほんの一夜の出来事でしかない。しかしソアラを取り戻したことで、世界は確かに変わろうとしている。
 暗躍するのはフェリル、その背後に見える何者かの影、アヌビス、別行動の噂があるダ・ギュール、さらにフュミレイの見解ではもう一つ、リシスを殺めた別の影があることになる。もちろんこの影がフェリルの背後の影と重なる可能性もあるだろう。
 そしてセラを殺した性骨。性骨を殺したかもしれない何か。百鬼の行方___
 レイノラたちの知らない影もまた、確かに存在するのである。
 しかも___
 「伝えよう、我らが同志に。我らの敵の居所を!」
 俄に世界は動き出そうとしていた。

 「お母さん!」
 「___」
 オコンの神殿。清らかな水流に包まれた部屋で、ソアラは呆然と海中を見ていた。水流の向こうには海が広がり、魚たちが遊び泳ぐ。心ここにあらずの顔で動く魚を目で追ったり追わなかったり。心の底からの呼び声にも、すぐに生気は戻らなかった。
 「___お母さん?」
 ルディーは敏感だった。母の姿が自分の知る母とあまりに違っていて、彼女はリュカのように駆け寄ることができなかった。
 「お母さん!」
 「リュカ___」
 母が子の名を呼ぶ。やがて、彼女の瞳に力が戻り、微笑みと、泣き顔が入り交じる。リュカ以上にくしゃくしゃな顔で彼女は我が子を抱きしめた。
 「リュカァァァ!」
 「おかぁさぁぁぁん!」
 二人は全力で抱き合い、全力で泣いた。自らを蚊帳の外に置いたルディーも、自然と顔が歪む。
 「お母さん___!」
 一瞬にしろ母を疑った自分への疑念は消し飛び、彼女もソアラの元へと駆けた。
 「ルディィィ!」
 ソアラは嗚咽するかのように我が子の名を呼んだ。離ればなれになることの多かった家族。長い離別の後の再会はこれまでも何度かあった。しかし今ほどソアラが感情をむき出しにしたことはなかった。

 暖かな息吹に包まれた部屋とは別の部屋。レイノラ、フローラ、フュミレイ、ライ、棕櫚、五人がそれぞれ深刻な顔でいた。ライとフローラがリシスの死を改めて伝え、彼らは息子の成れの果てであるジェトに気を取られたが故に、リシスを死なせてしまったことを悔いた。
 一方でセラの死を聞いたフュミレイも言葉を失っていた。リュカとルディーに変わって、彼らの見たものを読みとったレイノラが状況を伝える。性骨の暴虐、竜樹の克己、百鬼の奮闘、そして性骨と百鬼はオルローヌの世界へ消えたという。だが、オルローヌの世界にいた彼女はそれを見ていない。感じてもいない。彼なら大丈夫という安穏よりも、不安に駆られてしまった自分が憎かった。
 そしてサザビーとミキャックの現状。それがより重苦しい空気を作る。だがなによりも辛かったのはフローラの「診断」だった。
 「ソアラに怖がられるなんて考えたこともありませんでした___」
 レイノラにソアラの様態を問われ、そう切り出したフローラ自身に深いショックの色が滲んでいた。
 「それで?」
 レイノラが問う。フローラは医師らしい気丈さで答えた。
 「はい___ソアラは極度の精神薄弱状態にあります。思い出したくないのでしょう、何があったか聞かれるのをとても怖がりますし、怒り出しもします。極めて情緒不安定です。」
 「子供たちと再会して変わることは?」
 「あると思います。私も話しているうちに、少しは表情が明るくなりましたから。でも自分で爪を立てたのか、体に新しいひっかき傷をいくつも付けていました。」
 「それは精神的なものが原因?」
 「___それだけではないと思います。なにか、中毒性のあるものを与えられ続けていた可能性が。」
 「あのガスか___」
 フュミレイが呟いた。
 フローラの診断によると、ソアラは当面戦列復帰できる状態にないという。精神面での傷が深いだけでなく、一種の毒に体が蝕まれている。それはあの水晶の中、肉の迷宮に漂っていた黄色いガスなのだろうとフュミレイは考えた。
 「どうすればいい?」
 「時間を掛けて治すしかないと思います。楽しかったこととか、いっぱい話をして、とにかく彼女から不安を取り除いてあげることです。子供たちはもちろんですけど、百鬼が側について上げるのが一番の薬だと思います。何度も腕の印に触ってましたし___」
 沈黙が広がる。誰もがソアラの身を案じていたが、棕櫚はより冷静だった。
 「ソアラさんがフェリルの魔の手から完全に逃れられたと言えますか?」
 「え?」
 「フェリルがここにやってきて、ソアラさんに何か指示を送ったとして、彼女はそれを拒否できますか?」
 「棕櫚!それはソアラが僕らをってこと___!?」
 残酷な棕櫚の意見にライが反発する。しかし彼の隣にいたフローラがその手に触れた。
 「今は拒否できない可能性が高いわ。」
 「フローラ!」
 「事実は認めなければならないの。フェリルはそれができるようにソアラを___支配してきたんだから。」
 「ようはソアラを脅威と接触させないことだ。当面彼女はここにいてもらおう、リュカとルディーも一緒に。それからライとフローラもソアラの側にいるように。」
 「はい。」
 その時___
 『レイノラ!すぐに祭壇の間へ!』
 流水が波打ち、振動音が言葉となって響いた。波が慌ただしく動いたからだろうか?オコンの呼び声は酷く焦って聞こえた。

 「オコン、何事?」
 祭壇の間にレイノラが現れる。彼女の後ろにはフュミレイも続いていた。オコンは祭壇の上ではなく、その脇に置かれた台を睨んでいた。
 「動いたんだ。」
 「動いた?」
 その台の上にはビガロスの左手があったはず。しかし今はただ、小さな砂山が残るだけ。
 「たった今、ビガロスから一方的な報せが入った。敵を看破した手腕見事なり、後は我々に託されたし!___ってな。」
 「!!」
 レイノラは慄然とする。
 「全力を使うためにビガロスは左腕を体に戻した、その成れの果てがこの砂山だ。もう彼との通信はできない。」
 思いの外早く、そして勝手な行動だ。十二神がそう易々と自らの世界を離れることはないと考えていたレイノラは、オコンの神殿に向かうまでにフェリルの正体、居場所を鏡を持つ神々に伝えた。慎重に振る舞うよう念を押したし、もはや敵がその場にいる可能性は低い。にもかかわらず、ビガロスは迅速に動いたのだ。
 「バルカンは?彼も鏡を持っている。」
 「通じないよ。それにバルカン、ロゼオン、キュルイラはビガロスと共闘するそうだ。」
 レイノラは臍を噛む思いだった。ジェネリ神殿を探索し敵の陰影を知るバルカンなら、レイノラの言葉にも耳を傾けてくれるだろうと思ったのに。
 「危険だ___自らフェリルの前に身を晒すなんて___」
 「いや、十二神のうちすでに五つの神が消えたんだ。強い力があるうちに、総力を挙げて最大の敵を倒す。誤った判断とは思えない。」
 「敵がフェリルだけなら___」
 レイノラが何よりも危惧しているのはそこだ。フェリルの後ろに誰かいるのだとしたら、それはフェリル以上の存在。フェリルに神の力を食わせても、彼女を掌の上に乗せていられる存在だ。
 「案じてばかりでは敵を喜ばせるだけだ。」
 「そうだけど___」
 「俺もすぐに戦場に赴く。ジェネリのためにもな。」
 「レイノラ様。」
 神のやり取りに、フュミレイが割って入った。
 「私も行きます。」
 レイノラの眉間に力が籠もる。だが彼女以上に憮然とした顔でフュミレイを見やったのはオコンだった。
 「神の戦いに割って入るつもりか?自惚れが過ぎるな。」
 「サザビーとミキャックをむざむざ巻き添えにはできません。」
 だがオコンの叱責にもフュミレイは引かなかった。「フェリルの居場所に残る」というサザビーの危険な賭け、彼を案じて近隣で待つミキャック。一人温もりある場所に身を置くことを、彼女の責任感は良しとしなかった。
 だがオコンは違う。
 「助けるために向かうというのなら、俺はおまえをここに釘付けにする。おまえはきっと、ビガロスたちの勇気ある行動の邪魔になるからな。」
 「彼らの命はどうでもよいと___?」
 レイノラという後ろ盾がそばにいようといまいと、フュミレイはそう反論しただろう。オコンは彼女を視線で圧しようとするが、その手のプレッシャーで揺らぐフュミレイではない。
 「彼らが自らの命でフェリルをその場に留められるなら、そうしてほしいくらいだ。貴い犠牲として永遠に語り継がれるだろう。」
 オコンは荒れて見えた。彼はビガロスが自らの部下を捨て石にしたことを酷く嫌悪していたはずなのに、今はその面影すらない。愛するジェネリの仇であるフェリル、それを打倒する絶好の機会を逃したくない、自らの手で決着を付けたいという焦燥が先に立っていた。
 「案ずるな。おまえたちとレイノラはこれまであまりにも良く働いた。後は俺たちに任せて___」
 「承服しかねます。」
 「なにを___?」
 「あなたでは、フェリルだけでなくサザビーとミキャックまで殺しかねない。」
 次の瞬間、目を見開いたオコンの眼前から水流が巻き起こり、フュミレイを襲った。しかし水は黒い渦にぶつかると四分五裂して宙に飛沫をまき散らした。
 「やめて。」
 レイノラだ。フュミレイ自身も全身に魔力を満たしていたが、その前に広がった闇の渦が水の槌を食い止めていた。
 「フュミレイ、慎みなさい。無礼にもほどがある。」
 強い叱責にフュミレイは沈黙し、レイノラはオコンへと視線を移す。
 「私がいく。それなら良いでしょう?」
 「おまえも甘いな。」
 「あなたのジェネリへの想いと同じ事よ。神であろうとなかろうと、大切な人を失いたくないと思うのはごく自然なこと。」
 バルディスの時代からジェイローグを想い続け、彼のために戦ってきたレイノラ。思えば、あの時オコンの隣にはジェネリがいて、レイノラの隣にはジェイローグがいた。互いの境遇を知るからこそ、オコンは寂しげな笑みを見せてレイノラの肩に手を掛けた。
 「君にそう言われたら俺は納得するしかない。」
 「オコン___」
 「すまなかった。俺の心も荒んでいたようだ。」
 そして唇を寄せる。レイノラは拒まなかったが、傷を舐めあうようなキスは心地の良いものではなかった。離れ際、オコンは彼女の頬を撫でた。微笑んではいたが、滲む悲壮感は隠しきれずにいた。
 「フュミレイだったな?おまえには留守中の神殿の守護を任せる。重大な任務だがおまえならできるだろう。引き受けてくれるか?」
 「心得ました。ただ___どうか、レイノラ様をお守り下さい。」
 深々と礼をしたフュミレイ。それを見たオコンは声を上げて笑い出し、レイノラは呆れ顔で額に手を当てた。
 「フハハッ、まったく生意気な口だ!なぁに、レイノラのことは俺に任せろ。おまえの方こそしっかり頼むぞ!」
 「はっ!」

 オコンとレイノラが神殿を出たのはそれからすぐのことだった。ソアラを刺激しないように、二人、そしてビガロスを中心とした神々の動きは、まずフュミレイから棕櫚だけに伝えられ、その後ライとフローラの耳に入った。
 「___」
 オコンがいなくなったからか、神殿からは活気が失われた。決して多くない神官たちはもちろん、魚たちさえも、この世界に「海」という性質を与えている神が消えると、命の灯を半減させたかのように静かになる。
 「___う___」
 水のように掴み所のない柔らかなベッドに座り、ソアラは水流の壁の向こうで泳ぐ魚を見ていた。でもその泳ぎはどこか元気が無く、なんだか急に切なくなったソアラの目尻からは自然と涙がこぼれ落ちた。
 雫が手元に落ちる。ソアラは視線を移し、自分の両脇で、それぞれの手に縋るように眠る子供たちがいたことを思い出した。
 「___いけない。」
 涙の雫で起こしてしまうかもしれない。ソアラは顎をローブの肩口に押し当てて、今にも滴りそうだった涙をしみこませた。
 「あ___」
 白いローブは生地が薄く、濡れると簡単に透けてしまう。左腕の付け根辺りを少し濡らしたことで、生地の向こうに「無限」の紋様が見えた。
 「百鬼___」
 その印に微笑みかけ、ソアラは呟いた。
 「大丈夫、大丈夫だよ。これは夢じゃないんだから。」
 自分にそう言い聞かせ、ソアラは目を閉じてみた。
 「___っ!」
 だが視界が閉ざされた途端、閃光とともに様々な影が脳裏を駆けめぐる。非業なる情景はすぐに彼女の瞼を開かせた。耳の奥にフェリルの声が聞こえたかのようだった。
 「___はぁ___はぁ___ふぅ___」
 荒くなりかけた息を、安らかに眠る子供たちを見ることで整える。泳いだ視線も落ち着きを取り戻した。
 (やらなきゃいけない___克服するための努力を___)
 そう心に決めて一つ唾を飲む。だが今度は目を閉じることさえ躊躇ってしまう。前に進むのは簡単なことではない。やらなければという意志も、なぜだかすぐに諦めてもいいかなと言う気分に変わる。
 「___ううん、やるのよ。」
 でもそんなときは子供たちを、そして左腕の無限を見ればいい。そうとも、今の自分の異常を認め、克服しようという位置に立っただけでも確かな進歩だ。
 「よし___」
 ソアラは目を閉じる。そして開ける。息苦しさを、昂ぶる鼓動を鎮める。子供たちを見る、無限を見る。そしてまた目を閉じる。その戦いは翌朝、子供たちが目覚めるまで続く。

 一方、自らの意志で眠らないものたちもいた。
 「___」
 海洋の神殿、そのテラスは夜になると冷たい風が吹いて、肌寒い。しかしフュミレイはその夜、テラスに椅子を置いてじっと海を見ていた。彼女の隣には、フラリとやってきた棕櫚が椅子を並べていた。
 一言二言交わしてから、フュミレイは夜の黒い海をじっと見ているだけでなにか物思いに耽り、棕櫚も黙って側に居続けた。
 バシャッ___
 あまりに静かな二人を気遣った訳でもないだろうが、大きな魚が水面を跳ね、派手な音を響かせた。
 「嫌なものだな。」
 静寂に終止符が打たれると、フュミレイは溜息混じりに言った。
 「俺が側にいるのがですか?」
 「いいや。おまえがわざとらしくそういうことを聞くのは嫌だけど。」
 「ははは。」
 愛想笑いの棕櫚に、フュミレイも小さな笑みを返した。だが顔つきは少し固かった。
 「黙って待ってるくらいなら、自分でやる方がよっぽど気が楽ですよね。」
 「だから他の神も動いたのかもしれない。」
 「そうですね。」
 会話が止まる。しかし今度の静寂は短かった。
 「これで良かったのかな___?」
 「なにがです?」
 「ソアラのあんな姿を見せられると___正直言って、あたしは今まであたしたちが進んできた道に自信を持てなくなる。」
 それは棕櫚にとって思いがけない言葉だった。
 「らしくないですね。」
 「あたしだって弱気な時もあるんだよ。」
 棕櫚の素直な感想に、フュミレイは苦笑して言った。それがますますらしくなかったので、棕櫚は穏やかに微笑んで座ったまま手を伸ばした。
 「手を繋ぎながら話しましょうか。」
 「___やめとく。見られたくない部分まで覗かれそうだから。」
 「俺ってそんな男ですか?」
 「そうだな。」
 そう言いつつも、フュミレイは彼の手を取った。
 「でも今日はそれもいいかもしれない。」
 フュミレイの手の感触を思い出すには、随分と時を遡らなければならない。確か戦いで焼けたソードルセイド復興のため、使者として彼女の元に向かったとき以来だ。あのときは冷血に見える彼女の温もりを喜んだものだが、今のフュミレイの手は外気の肌寒さを抜きにしても冷えて思えた。
 「大丈夫ですか?」
 「あたしは正気だよ。」
 「体です。随分無理をしているはずですよ。」
 見られたくないところまで見られるという疑念をあっさり現実にしてみた棕櫚に、フュミレイは呆れ顔で天を仰いだ。
 「魔力は休めば回復する。心配いらないよ。」
 「でも無いものを無理に絞りだそうとすれば、袋は傷みます。」
 「___」
 「オコンさんに感謝した方が良さそうですね。」
 「見抜いていた?」
 「多分。」
 フュミレイは夜空を見上げ、目を閉じる。
 「フュミレイさんがサザビーさんとミキャックさんに責任を感じているのと同じように、オコンさんとレイノラさんもあなたを酷使してしまっていることに胸を痛めていた、そういうことでしょう。」
 目を閉じたまま、フュミレイは小さく頷いた。それから二人は手を繋ぎながら、フュミレイは目を閉じ続け、棕櫚は海を見続けた。
 「棕櫚。」
 長い沈黙を経て、不意にフュミレイが問うた。
 「おまえはなぜ戦う道を選んだんだ?」
 「?」
 「おまえには戻るべき場所も、帰りを待つ人もいるはずだ。でもなぜだろう、あたしにはおまえがこの選択で葛藤する姿が想像できない。」
 「ハハッ、どういう性格ですか?俺って。」
 「なぜ黄泉に残らなかった?」
 冗談で終わらせようとしている棕櫚を見やり、フュミレイは真顔で問いかけた。握っている手に幾らか力が籠もっていた。
 「残るつもりなんて無かったですよ。俺はまだこの戦いで皆さんの役に立てる自信がありましたから。」
 「それだけ?」
 「ええ。黄泉の秩序の再興より、よっぽど俺向きだと思いませんか?」
 「うん、それは向いてるとは思うよ。おまえには秩序より混沌が似合うのは分かる。」
 「___いつもながらサラッと酷いこと言いますね。」
 「性分だから。」
 ニコリと笑うフュミレイに棕櫚も苦笑で応じた。
 「榊が待っていることは?」
 「気にしてもしょうがないです。彼女にはいつも迷惑かけてますけど、勝手なこと言えば俺と彼女ってそういうものなのかもしれないです。実際俺は甘えてるんだと思いますよ。戻れるところがあるって思えるのは良いことです。」
 「戻って榊が別の男のものになっていたら?」
 「あぁ、それは多分ガックリきますね。相当落ち込みますよ。」
 「良かった、そこは思ったよりも普通だ。」
 「ハハハ。」
 再び短い沈黙。でも先程よりも暖かかった。
 「自分の気持ちなんて自分でも良く分からないものでしょう?でもなんとなくですよ、俺がこうしてここにいるのも今のフュミレイさんやレイノラさんと同じなんですよ。自分でやれることをやっていた方が待っているよりも気が楽なんです。Gが昔話に聞くようなもので、それが復活するなら、黄泉だってただでは済まないでしょうし。」
 「なるほどね___その点、あたしたちはみんな根は臆病なのかも。」
 「そうですね。実際、果報を寝て待てないわけですし。」
 「フフッ、本当だ。」
 その時、水平線の向こうから光が伸び上がる。
 「あ〜、もう朝ですね。」
 「今日は少しソアラと話してみようと思うけど、どうかな?」
 「良いと思いますよ。でもまだ一対一で話すのはお勧めしません。」
 「分かってる。あたしもあいつに殺されたいとは思わないからね。」
 手を放し、フュミレイは立ち上がる。
 「ありがとう、暖かかったよ。」
 「百鬼さんが戻るまで、俺でよければいつでもどうぞ。」
 「___」
 渋面で視線を海へと移すフュミレイ。水平線は見る見るうちに黒から橙、薄青へと変わっていく。
 「朝を迎えるたびに世界は動く。今日は何が起こるか___」
 朝の光に思いめぐらせる。六人の神と一人の悪魔は相まみえたのだろうか?それは昨夜の出来事なのか、それともこれからの出来事なのか。いずれにせよ、今日は何か重大な一日になる、そんな予感が胸中を渦巻いていた。寝るに寝られなかったのも、棕櫚に弱音を吐露したのも、なにか胸に渦巻く不安感がそうさせたのかもしれない。
 (オルローヌと会ってから___この手の不安は良く当たる気がする。)
 フュミレイはテラスから海を眺めながら胸に手を当てた。
 「!?」
 そして胸元で巻き起こった魔力に肩を竦めた。
 「どうしました?」
 「クリスタル___!」
 服の胸元に隠していたのはミキャックのクリスタルだった。それは夜明けを迎えた空の下でも、眩しいぐらいに強く輝いていた。
 「それは___!」
 「ミキャックの髪飾り、これが最後の帰巣のクリスタルだ___フェリルの真実を掴んだら、彼女はサザビーと一緒にこれを使って帰還する!」
 だがフュミレイは喜々とした顔ではなかった。棕櫚がその理由に気付くには、一秒と掛からなかった。
 「なるほど。ということは使い方を知りさえすれば___」
 「ああ、誰が来るか分からない。嫌なシナリオだけどね___!」
 クリスタルの輝きが強くなる、海外線の上で、青白い光が急速に大きくなっていくが見えた。
 「来るぞ___!」
 微睡みは瞬時に消え失せ、フュミレイの全身に魔力が滾る。棕櫚も両手に大熊の爪を煌めかせた。
 ギャウン!
 フュミレイはクリスタルをテラスの床に放る。カモメが投げられた餌を宙で食らうように、青白い光はクリスタルに食らいついた。クリスタルは光を散りばめながら砕け、その中から女が現れる。
 白く美しい翼、金色の頭髪、涼やかな装束。それはフェリルの特徴でもあったが、身長の差は一目瞭然だった。
 「小鳥!」
 高ぶった魔力が霧散する。フュミレイは愛らしい妹分を笑顔で出迎えた。しかしミキャックには笑顔も悲哀もない。ただ敢然と、何者をも黙らせる凛とした空気だけを携えていた。
 「ミキャック___?」
 黄泉の名で呼んでしまったのは関係ないだろうが、フュミレイは今まで見たこと無いような彼女の表情に、改めてそう問いかけた。
 「___」
 ミキャックは揺るがない。ただただ張りつめている。フュミレイと棕櫚は振り向いた彼女の前で自然と沈黙し、彼女の言葉を待っていた。
 「本当の___」
 そしてミキャックが口を開く。声はしっかりとしていた。
 「本当の敵が分かりました。」
 それは衝撃的な言葉。もし熟睡していたとしても、一気に覚醒しただろう刺激的な言葉。
 「サザビーがやりました。」
 しかし殊勲の男の姿はない。ここにいるのは彼女だけ。
 「私たちの本当の敵、フェリルを操る本当の敵は___!」
 ___
 ___
 ___
 今日が重大な一日になるのは間違いない。
 それはオルローヌでなくとも断言できる、実に簡単な予言だった。




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