2 暖かな森
「くっ!」
剣を捨てたライは、ついに気絶してしまったフローラを両手で抱いて必死に走った。すぐ後ろまで迫ったボルクスとグイードの攻撃を紙一重でやり過ごし、とにかく逃げることだけに集中した。
「!」
だが一対二、しかも敵は飛べる。グイードの速さはライの脚力を軽く凌駕し、あっという間に彼の前へと回り込んだ。
「ドラギレア!」
グイードの両手から巨大な炎が放たれる。
「練闘気!」
しかしライは構わずに炎に突っ込んだ。闘気のバリアは炎を多少なりとも弱めたが、防ぐには至らない。しかしライはフローラが傷つかないよう抱きしめて、地獄の業火を一気に駆け抜けた。それだけで皮膚が焼け爛れたが彼は怯まなかった。
「無駄だ!どこへ逃げても俺たちからは逃れられない!」
地響きを上げて、巨体のボルクスがライに併走する。次の瞬間、野太い拳が飛んできたがライが急ブレーキを掛けたことで、拳は彼の鼻面を掠めただけだった。
「つあああ!」
一瞬遅れて踏みとどまったボルクス。開いた足、ライはその膝に片足をかけて舞い上がると、ボルクスの坊主頭に強烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「!?」
「ふん。」
しかしボルクスは少し首を傾げただけ。そして___
「蹴りってのはこうやるもんだ。」
ドゴォッ!
宙に浮いたライの腰に丸太のような脚を叩き込んだ。鮮やかなボレーシュートに叩かれたボールの如く、体をねじらせたライが一直線に吹っ飛ばされる。
「!?」
しかし彼は笑みを浮かべていた。それに気付いたボルクスは、ライが吹っ飛んでいく先に目を移す。そこには幾らか焼かれて燻った煙を上げているものの、広大な森が広がっていた。
ここは森の女神リシスの世界。森に入れば彼らに何らかの加護があると想像するのは簡単だった。
「それが狙いか!」
ボルクスは舌打ちする。だがライの行く手に回り込む影を見つけてすぐに苛立ちを消した。
「グイード!」
「任せな、ボルクス。」
背中を向けて吹っ飛んでくるライを前に、グイードはその手に無数のナイフを握っていた。
「終わらせてやる!」
「僕がね!」
グイードがナイフを振り上げたその時、ライも勢い良く体を捻る。その胸は鮮血に染まり、左手には膨れあがった真っ赤なボールが握られていた。
「なっ!?」
それが自分のヒルだと知ったグイードに一瞬の躊躇いが生じる。先に腕を振りきったのはライの方だった。
「ちっ!」
「アレックス!」
遅れてグイードが腕を振るったのと、ライが叫んだのは同時だった。
ボバッ!
ヒルの爆弾がグイードの目前で破裂する。それは血の飛沫となってグイードの視界を奪い、背後のボルクスからもライの姿を隠した。
「おのれ___小癪な!」
「グイード!」
「手応えはあった!」
地に広がった赤い斑点から伸びて、血の滴りが森の中へと続いていた。その場に転がっているナイフは四本。グイードは六本のナイフを一度に放っていた。
「追うぞ!」
二人は森の中へ。ただジェトは少し離れた場所で、一人その背中を見送っていた。
森の中。リシスのテリトリーに踏み込めば何らかの攻撃があるかも知れないと踏んでいた二人だったが、森は静かそのものだった。
「観念したか?」
血の滴りを追いかけて行き着いた先で、ボルクスはニヤリと笑って問いかけた。そこには力つきたようにへたり込み、木に寄りかかるライの姿があった。
「女がいないな。」
「___隠したんだ。」
肩と腿に一本ずつ、ナイフが刺さっている。ヒルに吸われた傷からは新しい血が滲み続けていた。
「どこに?」
「分からない場所___おまえたちだけじゃきっと辿り着けない。」
嘲笑に歪んでいたボルクスの目つきが鋭さを増す。
「婆さんのところか。」
「虫の息でよくやる。貴様も逃げ込めただろうに、取引のつもりか?」
グイードは手にナイフを遊ばせて、虚仮にするように言った。
「聞きたいことがある___」
「答える必要はないな。おまえを治療せずにここに残しておく意味がない。裏の見える不毛な取引だ。」
「それは僕がどうしても聞きたいことがあるからだ___僕にとって不利な取引だというのは分かっている。ただ僕はどうしてもアレックスに何をしたのかを知りたい。リシス様は心の広い人だから、僕の我が儘を聞いてくれたんだ。」
「その心の広い婆さんは、何をしてくれるって?」
「直々に相手をすると___」
ふざけた言葉だ。約束としての価値はないし、守られるとも思えない。しかし「アレックスに何をしたか」というライの要求も、ボルクスとグイードにとっては只同然の賭け賃だった。
「お察しの通り、ジェトはザキエルが使っていたガキだ。それがアレックスってのかどうかは知らないがな。」
坊主頭のボルクスが語り出す。血の気のない顔で、ライは目を見開いた。
「おまえがガキのあいつをしってるならさぞ驚いたろうよ。ただあいつはダ・ギュール様の秘術で急速に成長した。人にすりゃ二十歳前くらいじゃねえか?頭と性格はガキのままだがな。」
「___なんてことを___」
愕然とするライを面白がって、グイードが続けた。
「俺たちは不本意ながら教育係を任されている。魔力は一流だが他が未熟すぎるからな。だがその任務もじきに終わるだろう。」
「おいおいグイード。」
「___どういうことだ?」
ライの頬が強張る。悪い予感が渦巻いた。
「さあ、俺たちも詳しいことは知らないが、ダ・ギュール様がこう言ってたんだ___秘術のテストは失敗だってな。」
「!?」
「失敗作の運命は知れたもんだろう?」
そう言ってグイードはせせら笑う。しかしそうしていられたのも一瞬のことだった。
「十分だよ。」
ライが何事もなかったかのように立ち上がったからだ。刺さっていたように見えたナイフは抜け落ち、傷口は赤く染まっているものの全て塞がっている。
「これでますますアレックスを取り返さないといけなくなった。」
「傷が塞がってもまた新しい傷を作るだけだぜ。」
「そしたらまた薬草を食べるだけだよ。」
「なるほど、森のババアらしい治療法だな。」
森の中に逃げ込んだライはフローラをリシスに託し、変わりに薬草を受け取った。効果は抜群。もちろんそれだけではなく、先程彼が座っていた周辺だけ酸素濃度を濃くして生命機能を活性化、さらには直接的に傷を塞ぐ樹液や菌類まで、この森そのものが生命維持装置のようなものなのだ。
「次は治療がきかないようにバラバラにしてやらないとな。」
「剣を捨てたおまえに勝機はない。」
ボルクスは指を鳴らしてじわりと間合いを詰めてくる。グイードも腕を引いてナイフを構えた。そしてライは足下に転がる棒きれを拾い上げた。
「笑止な___それで闘うつもりか!」
ボルクスは拳を振り上げてライに襲いかかる。木を背にしたライには横にしか逃げ場がない。グイードのナイフはそれを狙っていた。
「オーラブレード!」
しかしライは逃げなかった。棒きれを軸にして練闘気が吹き上がる。ライが両手で握る貧弱な棒は見事なまでに剣の柄となり、光り輝く刃が生まれた。
ダンッ!
ライが堅い木の根を蹴る。拳と実体のない剣の交錯は一瞬だった。ボルクスの拳はライが背にしていた木に打ち付け、ライは彼の懐をすり抜けると、飛んできたグイードのナイフもたたき落とし彼の横まで一気に駆け抜けた。
「ぐ___!」
ボルクスの体が傾き、グイードの右腕は痙攣していた。練闘気で作ったオーラブレードに切れ味はない。しかし鉄の塊、あるいはそれ以上の堅さがあった。鉄壁の盾を剣の形にして殴りつけたようなものだった。
「僕はこんなところで負けるつもりはないよ。」
ライの闘志が漲れば漲るほど、オーラブレードも輝きを増していく。練闘気は少なからず生命力を削る技だ。しかし今の彼にはどうでもいいことだった。
「はあああっ!」
剣だけに留まらない。ライが叫ぶと光の刃は膨れあがって、彼の全身を包み込む。次の瞬間、彼の背で無数の爆発が起こった。
「___」
だが光の盾の前で派手な音を立てたに過ぎない。密かに迫っていたジェトの放ったディオプラドはライに傷一つ付けられなかった。殺意に満ちた笑みを浮かべていたはずのジェトは、頬を引きつらせて立ちつくすしかなかった。
「___!」
ライが振り向いた。ジェトの肩があからさまに竦む。ライの精悍な面もち、暖かくも力強い眼差し、彼の自信を体現したかのような漲る光、ただ目があっただけでジェトは圧倒されていた。
「そこで大人しくしているんだ。僕が必ず君を救い出す。」
そう言い放ち、ライは襲いかかってきたボルクスとグイードに向き直った。
ほんのいくつかの木々を挟んだ向こうで、熾烈な戦いが繰り広げられている。ジェトは全く蚊帳の外にいた。いやそれどころか、ライの迫力に圧倒されて身動きがとれなくなっていた。それは何よりの屈辱だ。圧倒的な魔力、才能、その自負があるからこそ、自信に満ちあふれたライの姿、言葉、全てが彼を辱めるものだった。
「ぐぅぅぅ___!」
ジェトが唇を噛みしめる。叱られた子供のように、肩を竦め、目を潤ませ、唇を強く噛んだ。幼児は自重を知らない。思い通りにならなければ、感情に訴えるだけだ。
「うわあああああああ!」
大人の姿をした幼児が叫ぶ。その手に魔力を滾らせて、戦場へと突貫した。
「アレックス!」
ボルクスとグイードに相対していても、ライはジェトから意識を消した訳ではない。自らに迫る巨大な魔力を練闘気の盾で受け止めるつもりでいた。その隙をボルクスとグイードに突かれたとしても、アレックスを傷つけるよりはましだと思っていた。
「えっ!?」
しかしライは間違っていた。ジェトの手は自分の横を通り過ぎ、背からライにナイフを振り下ろそうとしていたグイードの額に触れたのだ。
ドバッ!
おそらくはディオプラド。しかしジェトが発していたのは呪文でなくただの奇声だった。振り向いたライの顔に血が降り懸かる。口から上あたりを丸々吹っ飛ばされたグイードだったものが、真っ赤な飛沫を上げていた。あまりにも無惨な死に様。しかしライの心を抉ったのは、赤い雨に打たれて笑うジェトの姿だった。
「ジェトてめえ___!」
ボルクスが狼狽してジェトに殴りかかる。揺らぐグイードの骸をボルクスに向かって蹴飛ばして逃れようとしたジェトだったが、血の滑りに足を取られて態勢が崩れた。
「つああ!」
ボルクスの拳が仰向けに倒れかけたジェトの胸に降り懸かる。しかし___
ガシッ!
そこにライが割って入った。おそらくジェトとボルクス、どちらがまともかと問われればボルクスだ。しかしライはジェトが何をしたにせよ、彼を傷つけさせることだけはできなかった。
「どけ!そいつは失敗作___!」
その台詞を言いきる前に、ボルクスの片耳にジェトの手が触れる。そして弾けた。顔の半分を破壊され、もう半分の顔が醜く歪む。反転した眼球、鼻と口から噴き出した血が、拳を受け止めていたライの体を濡らす。
ジェトはグイードとボルクスを葬り去った。
しかしそれは父であるライの暖かさに目覚めたからではない。
血を浴びて笑う彼はむしろ、ライの望むアレックスの姿からは一層遠ざかっていた。
「いちいち先輩面しやがって___鬱陶しいんだよ。」
真っ赤なジェト。ライはオーラブレードも、全身を包む練闘気も消せなかった。後方に飛んだり、切っ先を向けることはしなくても、警戒心を解くことはできなかった。彼がアレックスであると信じている。だが信じているからこそ、その一挙手一投足があまりにも痛かった。
「さあ次はおまえだ。この世界のルール、知ってるだろ?」
ジェトに過剰なまでの自信が戻っていた。そして自信はすぐに形となる。
「___!」
ジェトが襲いかかってきた。彼を傷つける気のないライは小枝を投げ捨て、練闘気を体の前へと結集する。これまでことごとくジェトの攻撃を跳ね返してきた光の壁。だがジェトは躊躇うことなく真正面から挑んでいった。
ゴゴゴ!
地鳴りのような音を轟かせ、ジェトの拳が進む。そして、大地は割れた。大地のような大らかさを持つライの、その光の盾がジェトの拳に食い進められていた。指先が壁の向こうに覗くまで、時間は掛からなかった。
「エクスブラディール。」
「!」
光が広がり、轟音が森を揺るがす。練闘気が破れた瞬間、ライもまた自らの敗北を悟っていた。
森の一部が剥げた。剥き出しになった大地の端にはジェトが立ち、そこから扇形に剥き出しの大地や木々の残骸が広がる。
「ちっ___」
その扇の中央あたりに人影を見つけ、ジェトは舌打ちした。
「___」
そこではライを抱いて回復呪文を施すフローラがいた。彼女は傷つきながらも必死に目を凝らしているライと同じく、ジェトを見つめていた。
母の視線。しかしジェトは感慨を抱くどころか、不愉快そうに舌打ちしただけ。
「邪魔くさいのがもう一人いたか。そういや婆さんも見てねえしな。」
空に向かって突き出したジェトの手が光る。
ドドドドド!
まるでマシンガンのように、黒い斑の白熱球を乱発する。それはどこへでも無く飛び交い、森に、大地に、瓦礫に、あるいは球同士で炸裂し、大量の爆音と土煙を巻き上げる。
「グイードとボルクスを殺した!あいつらの力は全部俺のものだ!おまえらも殺し、ババアも殺す!」
ジェトは自分でも怖ろしくなるほどの肉体の充実を感じていた。どんなにディオプラドを放っても決して魔力が尽きない、そう思えるほど爽快な気分だった。
「さあ出てきやがれババア!俺が秒殺してやるぜ!」
「なら出ていこうかの。」
「!?」
連続する爆発は辺りの景色も音も全て掻き消していた。しかしジェトの耳にはまるで近くで囁かれたようにはっきりとその声が聞こえた。事実、彼の首元には蔦のようなものが近づいていたのだ。
「___う___?」
ライに覆い被さるようにして、必死に魔力で壕を作り、フローラは乱れ飛ぶ爆撃に耐えていた。しかし不意にそれが止んだ。彼女は半信半疑でゆっくりと顔を上げる。
「!?」
フローラが見たのは、大量の蔦植物に絡め取られたジェトだった。彼が意識を失っているのは一目瞭然、しかし安らかな寝顔はフローラの不安を掻き消した。
「___」
更地を突き破って現れた大量の蔦植物。それを操るのがリシスだというのは分かり切ったことだから、フローラはふらりと立ち上がった。
「アレックス___」
その名を呟く。
「いや、この子はアレックスじゃないよ。ジェトだ。」
帰ってきたのはリシスの声だった。
「リシス様___?」
「本当はこんな事はしたくなかったけどねぇ、おまえたちがあんまりだから、ついついやってしまったよ。」
ジェトが目を開け、口を動かしていた。しかし声はリシス。目つきや表情も先程のジェトとは違う、穏やかな、自分たちが思うアレックスの姿。ライに似ていて、彼の父のアレックス・フレイザーにも似ていて、どこかにフローラの愛らしさも持つ我が子の姿だった。
「いま、わしがこの子に憑依している。分かるかい?乗り移ってるのさ。わしが憑依している間、この子の全てはわしのものじゃ。この子の思想や記憶、感情までね。木は年輪に記録を刻む。人もそうさ。生きていく中で頭の中に年輪を残していく。髪だってそう、長い髪の先端はいつの記憶を知ってるか、考えたことがあるかい?」
フローラは首を横に振る。彼女は少し虚ろな顔で、ただジェトを見つめ続けていた。おそらくリシスの言葉も半分くらいしか耳に入らなかっただろう。
「近づいていいですか___?」
「んん?いいとも。悲しみが深くなってもよければね。」
それはリシスの警告だった。しかしフローラは構わずに前へと歩み、アレックスに触れられる距離まで近づいた。そして頬に手を伸ばす。怖々ではない、しかし手は震えていた。
「___」
柔らかな頬。その体温を感じた瞬間、フローラの双眼から涙が溢れ出た。しかし声にはならない。もう片方の手を口元に宛い、嗚咽を抑えるようにして、それでも頬に触れた手は放さなかった。やがて口元の手を伸ばし、ジェトの顔を抱くようにする。
やはり声にはならない。それはとても静かな再会だったが、フローラの全身から愛が止めどなく溢れ出ていた。
「フローラ___」
ライも痛みを堪えて立ち上がる。だが駆け寄ろうとはしなかった。フローラの愛があまりにも偉大で、それを邪魔したくないという思いが自然と彼の足を止めていた。
「フローラぁぁ___」
アレックスを想うフローラの姿に、切なくなって顔をくしゃくしゃにする。直情的にならず、皆のことも考えながら振る舞ってきたフローラ。でも彼女のわが子を思う気持ち、心の底からの愛をみたライは、その胸の痛みが誰よりも分かるからこそ泣けた。
「わしの話を聞けるかい?」
頬に触れる手を通じ、フローラの拍動が落ち着くのを待ってからリシスは言った。フローラはコクリと頷く。やがてライも彼女の側へと歩み寄り、二人は互いに手を結び、ジェトの手も握る。三人の輪が生まれたとき、ライとフローラは確かに幸せを感じていた。
「この子がおまえたちの子だというのは間違いない。でもね、この子はそれを全く記憶していない。あんたたちは自分が誰のおっぱいで育ったかなんてわかるかい?」
ライが首を横に振る。事実彼が母ニーサ・フレイザーを知ったのは青年になってからの話だ。それはフローラも同じ。まして彼女にはクローディア・ハイラルドとミスティ・リジェートという二人の母がいた。
「それと同じことだよ。この子が自分が何者か知ったのは、ザキエルの手に渡ってからさ。この子にとって親はザキエルであり、ダ・ギュールなんだよ。もちろんアレックスという名前にも全く覚えがない。だからこの子はアレックスじゃなくてジェトなのさ。」
リシスはさらに続ける。
「おまえたちがこの子に自分たちが親だと主張しても、アレックスと呼んだとしても、それはこの子にとっては荒唐無稽な話でしかない。全く効果はないし、事実この子の感情には何も響いちゃいないよ。」
残酷な言葉だが、リシスは彼らに厳然たる事実を伝えるべきと考えていた。そしてこの二人がこれしきで絶望するような夫婦ではないことも感じていた。
「アレックスをどうすれば振り向かせることができますか?」
遠慮の無い真っ直ぐな質問に、リシスがジェトの顔で苦笑する。
「この子をジェトとして愛すればいいんじゃないのかね?アレックスという名前に拘るのはこの子を混乱させるだけだよ。それとね___どんな生き物でもすり込みってのがあるものだよ。生まれて最初に見た生き物の印象はずっと心のどこかに残る。もしかしたら、おまえたちがこの子に見せていた顔は、この子の記憶の奥底のどこかに埋まっているかもしれないよ。」
リシスは優しい神だ。その気になれば、自分に危険を及ぼすジェトをこのまま抹殺することもできる。でもそれをしないどころか、ライとフローラを突き放すこともせず、救いの手まで差し伸べる。
森の女神は、その名の通り森の優しさ、暖かみ、包容力に溢れていた。
フッ___
それが唐突に消えた。
「___!?」
二人は息を飲んだ。ジェトの体を支える蔦が突然解れた。それもただ緩んだわけではない。青々とした蔦が急に灰のような黒へと変わり、ボロボロに崩れたのだ。ジェトはグラリと倒れ、二人は反射的に彼の体を支える。
「こ___これは!?」
ジェトの温もりを全身で感じられた感動よりも、周囲の異変がフローラを慌てさせた。
「森が___!?」
それは恐怖の情景だった。爆破や炎で傷を負ったとはいえ、リシスの世界の広大な森はいまだ青々として生命力を湛えていた。それがだ、見る見るうちに黒ずんだ灰の塊へと変わっていく。
「木が枯れている___」
枯れる。それは生命の終わりを意味する。
「リシスさんに何かあったんじゃ___!?」
認めたくはない。しかしそう考えざるを得ない状況だった。
不幸な結末を招く。
オルローヌの予言が今更になって二人の胸に思い枷となってのし掛かってくる。取り返しのつかないことが起こったのではないか?悪い想像が二人を激しく狼狽させた。
「とにかく森に入ってみよう!」
「ええ!」
気絶したジェトを抱いたまま、二人は朽ち果てていく森を目指そうとする。その時、不意に頬が熱くなった。
ポツ___ポツ___
「雨___?」
それは雨の滴だった。一つ、また一つ、水滴が二人の肌に触れた。それは確かに熱を持っているようだった。
「ライ___この雨おかしいわ___!」
フローラがそう言うに早く、雨は一気に本降りに変わった。そして二人はこれが地獄の雨だと知ることになる。
「うあああああ!?」
「いやあああっ!?」
激しい雨に身を打たれる二人の体から、真っ白い煙が立ち上っていた。触れた瞬間、服には穴が開き、皮膚は赤く染まる。それは人の体を溶かすほど、強烈な酸の雨だった。
「ぅぅぅああああ!ウインドランス!」
地に伏せば死が待っているだけ。フローラはかつてのアモンの修行、ヴェルディ岬で経験した酸の雨を思い出し、風の呪文で傘を作り出す。
「ううう___!」
あの時は風を破った雨滴に目を打たれ、傘を崩壊させてしまった。今度はそうはいかない。風では全ての雨滴を防ぐ事はできないが、それでも彼女は痛みを堪えて空に両手を翳す。
「練闘気!」
そしていまここにはライもいる。戦いのダメージで練闘気に先程までの力強い輝きはなかった。それでも彼は光のドームを作り出し、雨を防ごうとする。
「フローラ!交互に傘を作ろう!とにかくこの雨が止むまで___」
そこまで言いかけて、ライの言葉が止まった。
「___!」
フローラが凍り付いた。ライの口元からは血が溢れ、その腰の辺りにナイフが突き刺さっていた。握っているのはジェトだった。
「へへへ___へへはっ___」
僅かとはいえ雨に打たれたジェトの顔は、幾らか赤く焼けていた。その顔が血走った目で、口元を歪め、ただ衝動の赴くままにライにナイフを差していた。
「なんてことを___!」
光のドームが勢いを失う。
「隙だらけだぜぇぇぇっ!」
ジェトがナイフを抜く。そして今一度ライの背中へ!
ドス___
ライの脇腹に、ナイフは浅く刺さっていた。しかしライが体を捻ってジェトの手首を掴んだことで、それ以上は進まなかった。
「ジェト。」
ライは殺意に満ち満ちたジェトを見ていた。口元を血で濡らし、青ざめた顔で、それでも彼は優しく笑い、アレックスではなくジェトと呼んだ。
「この雨が止むまで待ってくれる?そうじゃないと、君も苦しむことになる。」
狂気が揺らいだ。ライの笑顔、穏やかな言葉を聞いたジェトに、ほんの僅かな理性が見えた。贔屓目かも知れないが、ライはそう感じた。
それは微かな希望。本当に微かな、でもジェトに感じた確かな希望。
生まれて最初に見た顔。それはライかフローラか、ともかく笑顔に違いない。そう思ったから、ナイフを突き立てられながらもライは穏やかな笑顔でいられたのだ。
「ぅぅぅ___うおああああああ!」
一瞬の虚無から、ジェトが絶叫した。強引に込められた力で、ナイフは深く進んだ。すぐさま抜き放たれ、懸命に風の傘を作り続けていたフローラの腹部へ。
「あなたが___少しでも迷ってくれて___」
死に直面した人物の顔、それは絶望と恐怖に歪んでいるものだ。ジェトはそれを見るのが好きだった。なのに、あの男といい、そしてこの女といい___
なぜ笑っていられるのだ!?
「うがああああ!」
雄叫びと共に、ナイフは深く臓腑を抉り、風の傘が消えた。
血に濡れた体に、酸の雨が降り注ぐ。
「うぎぉぉぁあああっ!?」
そのとき、彼は今この場所に何が起こっていたのが理解した。二人が隙だらけになりながらも何をしていたのか知った。成長のない頭脳でも、この二人が自分も含めてこの痛い雨から守っていたのだというのを理解した。
「ぐううううぅぅぅぅぅ!」
そして自分の肌を焼く痛み、倒れる二人の男女が焼かれ、溶かされていく様に、彼は言い得ぬ切迫感を感じた。
「あああああああああ!ちくしょぉおおおおぉぉっ!」
雨に屈せず、ジェトの両手が空を向いた。そして巨大な魔力の塊が空の高みへと打ち上げられた。それは空に蔓延る雲の中へと飛び込み___
ドゥオオオオオオオッ!!!
猛烈に弾けた。全ての雲を吹き飛ばすほどの、渾身のエクスプラディールだった。
「___」
夢は何も見なかった。長い眠りという感じでもない。ただそれでも自分が目覚められたことには少し驚きもした。
「あ___?」
生きていることに実感がない。しかし目に飛び込んできた青い空は、死後の世界という雰囲気でも無かった。体を起こすには重すぎる。手を挙げてみて、フローラは自分が生きているのだと知った。治療されてはいるが、まだ火傷の跡がたくさん残っていた。
「良かった、気が付いたか。」
聞いたことはあるが、記憶に深いとも言えない声がした。フローラは手足の感覚が分からないまま、何とか体を起こそうとする。そして横たわるライに治療を施す青い髪の男を見ることができた。
「オコンさん___?」
「リシスの世界に異変を感じて駆けつけたが、遅かったようだ___だが君たちが生きていただけでも良かった。」
「ライは___」
「大丈夫。まだ意識は戻らないが、命は取り留めた。」
「よかっ___うくっ___」
安心感がフローラの緊張を和らげると、今度は痛みの感覚が強まった。覚醒と共に、全身に体が濃きちぎられそうなほど、激しい痛みの波が響き渡っていると知った。
「君の治療も不十分だ。もう少し空を見ているといい。」
言われるまでもなく、体を支えていられずにフローラは崩れた。両手足を投げ出して、青空を見上げる。酸の雨を降らせていた雲はすっかりどこかに消えていた。
「オコンさん___ここにいたのは私たちだけですか?」
空を見ながら、フローラは尋ねた。
「そうだ。俺が辿り着く直前に、空で大きな爆発があり、雲が全て吹き飛ばされた。あれは君たちがやったのではないのか___?」
その問いに、フローラは答えられなかった。
「___」
都合のいい想像かもしれない。でもあの場でそれができたのはジェトだけだと思えたから、フローラは目を閉じた。
「どうかしたのか?」
「いえ___」
オコンが気遣って振り向く。しかしフローラは空を向いたままでいた。火傷の跡に染みるから泣きたくはない。だから目を閉じたけど、こぼれる雫を止める方法なんてあるはずもなかった。
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