1 彼の名はジェト
「お願いです!ここから出してください!」
ライは嘆願していた。リシスの前に平伏して、額を擦りつけるほど深く土下座して、叫んでいた。入り組んだ枝葉に包まれた部屋は、かつてレイノラが蟄居させられたのと同じような場所。そして彼女がそうしたのと同じように、今はライが外へ出してくれるよう老婆に頼み込んでいた。
「嫌じゃ。」
だが老婆は昔と変わらず素っ気なかった。彼女が道を開かない限り、ここに出口はない。ムンゾの束縛、エコリオットの水晶、リシスはそれを両立させたような空間を、森の中であれば作れる。森の外では無力、しかし森の中では触れることもままならない。Gを狙う者にとって、リシスはおそらく誰よりも難儀な標的である。
「ここにいれば何も起こらん。わざわざ危険を冒しにいくのは愚か者のする事じゃ。」
「僕たちだけ出してくれればそれでいいんだ!アレックスに会わせてくれれば!」
リシスは首を横に振る。老人の頑固さが彼女の森をより堅固なものにしているのだろう。
「わしはレイノラにおまえたちの命を託されておる。死にに行かせるような真似は断じてできぬわ。それともなにかえ?おまえがわしを殺すかえ?」
リシスの言葉にライは唇を噛む。しかし彼に迷いはなかった。
「そんなことできるわけない!僕たちはアレックスに会いたいだけなんだ!」
その時、木々に囲まれた部屋が少し揺れた。天井には、一気に広がらない炎に苛立った様子で、爆発呪文を放つアレックスの姿が映し出されていた。額に筋を立たせ、口が裂けんばかりに笑って、破壊に快楽を見出す男。
そう「男」なのだ。子供だったはずの彼は一人の男になっていた。その姿はライがソアラと出会った頃を思わせる。だからこそ余計に、初めて会ったときのライと似ているから余計に、フローラは切なくて悔しくて堪らなくなっていた。
「う___」
ライの横で彼と同じように平伏していたフローラが顔を上げ、変わり果てた我が子の姿に嗚咽を漏らす。気丈でいるつもりだったが、衝撃はあまりにも大きかった。堪えることができず、彼女はまた口元を抑えて肩を震わせた。
「あれがじゃ、万が一つにもおまえたちを親だと覚えていると思うかい?」
リシスは冷淡に言った。フローラにはもはや抵抗力がない。そう感じた老婆の言葉はライだけに向けられていた。
「ご覧、あの顔を。あれは正気の目じゃ。誰かの差し金じゃない、自分が正しいと思って森を破壊しておる。あげく、それを楽しんでおる。確かに顔は似ているがね、あれを見て誰があんたたちの子だと思うかい?あれはもうそれだけあんたたちから乖離しとるんじゃ。悲しい話じゃが、あれはもう当の昔に親離れしたんじゃよ。」
「それでも___僕たちの子には変わりない。」
リシスの言葉一つ一つが胸に突き刺さる。フローラが声を抑えきれず呻いている横で、ライは頑として抵抗を続けた。ただその片手をフローラの肩に添えることも忘れていなかった。彼は決して自分を見失っている訳ではないのだ。
「おまえたちはまだ若い。これから新しい命を育むこともできるはずじゃ。難しいじゃろうが、あれのことは諦めねばならん。」
「___」
「ならば、わしが手を貸してやろう___」
リシスが杖をゆらりと振り上げる。
「やめろ!」
何か悪い予感がしたライは、居ても立ってもいられずに老婆の腕を取った。
「何を止める?」
「___アレックスを殺さないで。」
「わしがそうすると思うたか?」
老婆はニヤリと笑い、ライの手が放れた。
「その通りじゃ、殺そうとした。」
しかし彼女がそう言ったことで、ライはまたリシスの腕を取ろうとした。しかし老婆は簡単に振り払ってみせた。
「案ずるな、もうやらん。」
「本当に___?」
リシスが頷くと、彼はまだ半信半疑ながらひとまず納得した。
「木々は大気の質を変える力を持つからのう、安らかに逝くことができる。それがせめてもの情けと思うたが___」
「そんなの情けなんかじゃない。僕たちはまだやるべきことをやっていないんだ。アレックスが生まれてからずっと___ずっとだよ!」
彼と一緒にいられた時間は半年もない。たしかにリシスの言う通り、物心ついた、いや人為的に物心つかされたアレックスは、二人を見ても自分の両親だと理解できないだろう。記憶の断片すらないに違いない。
「無駄かもしれない。何もできなかった親の我が儘なのかもしれない。でも___このままじゃ僕は死んでも死にきれないよ!」
「リシスさん___」
ただ俯くだけだったフローラが顔を上げた。目は真っ赤で、髪は乱れ、いつもの快活さは無かった。絶望の淵をふらつきながら歩いているような危うさがあった。
「私たちを外に出してください___そして___私たちがあの子に命を奪われたとしても構わないでください___」
「フローラ___」
フローラは悲壮感の塊だった。肩に触れるライの指に力が籠もる。
「捨て石になるのかい?おまえたちを助けるためにアヌビスと取り引きした男がいるのに?」
「___なら私だけ出してください___そしてあの子と一緒に殺してください___」
「ほう?一人残れば少しはレイノラへの顔も立つね。」
「何言ってるんだ!」
リシスとの視線の交錯を断つように、ライがフローラの前に回り込んだ。
「そんなこと言っちゃだめだ!おかしいだろ!?」
ライはフローラの頬を両手で挟むようにして顔を上げさせ、訴えかけた。フローラはライが今まで見たことのない顔をしていた。諦めずに最善を尽くす医師の顔は見る影もなく、ただただ今の現実を受け入れられずに呆けているかのようだった。
「僕たちは絶対にアレックスを取り戻すんだ!そのためにここまで来たんじゃないか!」
「私が___」
ライに頬を抱かれたまま、フローラは小さな声で言った。
「あの子を不幸にしてしまったのよ___私が魔力を持っていたばっかりに___」
また溢れてきた涙がライの手を濡らす。
「償いと報いを受けるべきなの___あの子がこれ以上不幸にならないために___あたしの命はあの子の失われた人生の代価___」
「馬鹿なことを言うなっ!!」
ライが一喝した。フローラに向かって怒る事なんて無かったライが、語気を強め、荒々しく言い放った。
「僕たちは家族だ!アレックスは大事だ!でも僕はフローラもいなくちゃだめだ!絶対に!僕たちは___僕たちはお墓に入るまでずっと一緒のはずだ!」
虚ろだったフローラの瞳が、ライの瞳に引き寄せられる。彼の情熱が少なからずフローラの心に風を吹き込んでいた。
「僕は何度も言ったよね?全員無事でアレックスを取り戻す!僕にとってはそれ意外の結末なんて全部失敗だよ。」
「___うん___」
フローラの手がライの手に触れた。愛おしむように、彼女はライの手に頬をすり寄せた。さっき口走った言葉が自分でも信じられなかった。絶望の淵から、安らぎの園へと救い出されたかのようだった。
「リシスさん。僕は絶対に諦めない。外に出してもらえないなら___」
「なぬ?」
「ふひ〜。」
枝葉に囲まれた部屋。切り株に腰掛けて、額にうっすらと汗を浮かべたリシスが溜息をついた。
「まったく、年寄りを息切れさせおって___」
汗は冷や汗だ。シワシワで緩んだ頬もいつになく引きつって見えた。
「しかしあやつ___神を擽って悶絶させるとはあな怖ろしき男よ。」
リシスは脇に残る感触に肩を竦め、少しだけ頬を染めて天井を見上げる。そこには精気を取り戻したフローラと、全身から情熱を迸らせるライが映っていた。
「じゃがのう___これは感心せぬぞ。親離れした子は、無理矢理戻そうたって言うことを聞かないもんじゃ」
結局傷を深くするだけ。
「オルローヌの予言は当たる。なんであれ、不幸な結末にしかならんじゃろうて。」
見上げるリシスは悲しげな目をしていた。
「ババアの保護者か?たった二人で出てくるとは良い度胸じゃないか!」
宙で男は吠えた。見下ろす視線の先には黒い炎で燃やされた灰が広がり、いまだ白い煙を燻らせている。だが沸き上がる熱気も男を見上げる二人には気にならなかった。
「アレックス!」
ライが男の名を呼ぶ。しかし男の心には何も響かない。
「はぁ?」
後ろに誰かいるのかと振り返っていたほどだった。
「君の名はアレックスだ!僕とフローラの子だ!」
ライは小細工の似合わない男だ。まして気が高ぶっている今ならば、相手の心を推し量ることなどできない。いつもならそれはフローラの役目だが、今日ばかりは彼女も情熱を抑えられずにいる。男が理解不能な問答に苛ついていようと、二人は言葉を止めなかった。
「あの日、生まれて間もない君を守れなかったこと、僕たちは本当に後悔している!だから僕たちは全力で君をアヌビスから守りたい!」
男の目つきが見る見る鋭さを増した。正義ぶった綺麗事の中にアヌビスの名が混じったことが、彼を余計に苛立たせた。
「アヌビス様を知ってる奴。」
ライの呼びかけに答えるように、男は呟いた。
「そうだ!僕たちはアヌビスを知ってるし、君のことも知っている!」
「アレックス!あなたの名はアレックスなのよ___!」
ライだけでなく、フローラまでもが訴えかける。男は何度か頷いていた。
「なるほどな。誰のことか知らないが、あいにく俺の名はジェトだ。」
「それは違う___!」
「それに!」
ライの言葉を打ち消すように、男が手を振り上げて言う。そしてニタリと笑った。
「なんかしらないけど、おまえらむかつくわ。」
振り上げた指先に、破壊の意志に満ちた魔力が結集する。彼は何ら躊躇い無く、あからさまな殺意を込めて腕を振り下ろした。放たれた黒い球体が一直線に二人を襲う。森を揺さぶるほどの猛烈な爆発は、大地で燻る炭をあらかた消し飛ばす威力だった。
「ちっ!」
しかし、一組の男女を傷つけることはできなかった。立ちはだかるライの前に広がる練闘気は、彼の守護の気質にフローラの浄化の魔力を纏い、ジェトの攻撃を全く寄せ付けなかった。
「野郎___!」
ジェトが苛立ちを露わにして再びその手に魔力を漲らせる。先程は片手、今度は両手、しかも二人の周辺の大気まで揺さぶるほどの波動が溢れ出ている。
「エクスプラディール!」
輝きの中に漆黒を交えた斑の球体が放たれる。空から地へ、やってくる爆撃を前にしても、ライとフローラは顔色一つ変えない。狂喜の笑みを浮かべるアレックスをじっと見つめていただけだった。
ゴオオオ___!
その爆発は先程の比ではない。触れた瞬間、目映い輝き、猛烈な爆炎、散らばる闇。炭を吹き飛ばされたむき出しの大地を抉り、炎に耐えていた周囲の木々をなぎ倒し、吹き飛ばし、アレックスの舞う空よりも高くキノコ雲を立ち上らせる。大気の震え、風の響きは、煙が空の高みで霧散してもなお余韻として残っていた。
壮絶だ。同じ呪文でも使い手次第で威力は変わる。ジェトのエクスプラディールは紛れもなく、世界の形を変えてしまうほどの破壊力を秘めている。
「!?」
だが、ライとフローラは屈しない。彼らを中心に、大地が半球状に深く抉られていても、二人だけは不変だった。大量の土埃をかぶり、服の裾が解れていても、姿勢すら変えずにただじっとジェトを見つめていた。
「なんだと___」
ジェトは怯んだ。彼らの意図が理解できなかった。攻撃するわけでもなく、ただこちらを見つめて防御するだけ。しかもだ、全力とは言わないまでも手抜きなしのエクスプラディールをくらってビクともしない。
「く___」
エクスプラディールが巻き起こした大気の響き。腹に深く染みるような振動音。ジェトにはそれが二人から放たれているように見えた。岩よりも堅く、槍よりも真っ直ぐな意志。その鋭い視線に秘められたプレッシャーこそが、音の源に思えた。
「ふ___ふざけるなぁっ!!」
気圧されていた。自覚はなくとも股間の縮むような思いに晒されたジェトは、両手から呪文を乱発した。爆破、炎、冷気、風、矢継ぎ早に放ち続けた。
「はぁっはあっ___!」
肩で息をし、背を丸め、汗を顎先へ滴らせ、ジェトは二人を包んだ煙が消えるのを見ていた。今度こそ壁を破った。手応えはあったはずだと言い聞かせ、流れる煙の奥を睨む。
「!!?」
だが、ライとフローラは揺るがなかった。
「アレックス!」
雄々しき声に、ジェトは肩を竦めてしまった。知らず知らず、追いつめられていた。
「これが僕たちの意志だ!僕たちは絶対に君を傷つけない!そして___二度と君を苦しめないように、守り続ける!」
緑の森からむき出しの大地へと変わった戦場に、ライの声は一際良く響いた。
___
「大したものだ。」
黄泉での修行のとき。大半の時間をソアラと過ごしていたレイノラが、ライたちの修行に顔を見せたことがあった。練闘気の修得具合を計るためだった。そこで彼女は、ライに向かってそう呟いていた。
「圧倒的な守備力。反面、攻撃は物足りないな。」
練闘気は応用力の高い力だが、自らの生命力を闘気で増幅させるという性格上、その人の持つ気質が性能に影響する。例えば、百鬼が攻撃、サザビーが技巧、といったように。ただその中でも際だって守備力に特化していたのがライの練闘気だった。
「これでいいんだ、僕はソアラほど強くないから。」
「得意な守りを極めようと言うわけ?良い心がけね。」
「この戦いは厳しい、命の保証はないって言ってたでしょ。でも僕、やっぱり誰にも欠けてほしくないんだ。」
もう何も失わないように、もう誰も傷つかないように。アレックスが再びその手に戻ったとき、決して脅かされぬ鋼の盾となって守ってみせる。
ライを突き動かしていたのはその思いだけだった___
「くぅぅぅう___」
プレッシャーだ。不動の盾から放たれるプレッシャー。ジェトはそれに戦いていた。こんな感覚は初めて___多分初めてだと思う。しかし、妙な違和感があった。
(なんだ___俺は何を怖じ気づいている___!?)
彼は我が儘で負けず嫌いな男だ。こんな状況に立てば、なんとしても力でねじ伏せようと考える男だ。それなのに、たかだか二人の人間を前にして「逆らえない」という思いを微かながら抱いてしまった。
なぜ?それは全く分からない。しかし、二人が特別な存在に思えてしまったのは確かだ。
そして、それが無性に腹立たしくてしょうがなかった。
「うおおおお!」
モヤモヤを振り切るように、ジェトは再びその手に魔力を結集させる。
「絶対にぶち殺す!俺の力を思い知らせてやる!」
ジェトは絶叫した。その時。
ゴッ___!
「!?」
視線の先から標的の一人が弾き飛ばされた。割り込んできた黒い弾丸が、生身の拳でライを殴り飛ばし、フローラまでも鋭い蹴脚で弾き飛ばす。悠然と身を翻したのは黒い装束に身を包んだ青髪の男だった。
「迂闊だぞジェト。挑発に乗って魔力を浪費させるな。」
もう一人、坊主頭の大男がジェトの腕を掴んでいた。三人に共通点があるとすれば黒い服。それはアヌビスの配下である証の一つだ。
「我ら三人で挑めばどうという相手ではない。リシスを前に矢を撃ち尽くすつもりか?」
「___分かってる。」
ジェトは忌々しげに坊主頭の腕を振り払う。露骨に不満げな口調、横柄な態度、ジェトにはこれっぽっちの反省も見えなかった。
バンッ!
その頬を坊主頭が張った。ジェトの首がねじ曲がるほど加減無く、平手が飛んでいた。
「貴様はまだケツの青い餓鬼だ。先達の言葉を真剣に聞けないようでは成長もないぞ。」
ジェトは頬を抑えて大男を睨み付ける。
「___分かった。」
やがて渋々と呟いたが、その目に敵意はあっても反省の色はなかった。大男が今一度平手を振り上げる。
「人の子を軽々しく殴らないでほしいな!」
しかし下からの声に動きを止めた。ライがこちらを見上げて叫んでいた。その顔立ちに、坊主頭の太い眉がピクリと動く。
「ほう、こいつは___」
坊主頭は微かな嘲笑を浮かべて、ゆっくりと青髪の魔族の隣へと降りていく。ジェトもそれに続いた。そして、三人と二人が同じ高さで対峙する。
「人の子ってのはどういうことだ?」
口火を切ったのは坊主頭だった。
「そこにいるのは僕らの子のアレックスだ。」
ライは一切臆することなく言った。フローラも彼の後ろでアレックスを見つめる。
「そうなのか?ジェト。」
「まさか___俺はジェトゥカス・サヴェルだ。」
「だそうだ。」
坊主頭そして青髪の嘲笑が全てを物語る。知らないのはジェトだけだ。彼は紛れもなくアレックスであり、この坊主頭と青髪はそれを知っている。だから笑うのだ。
それは彼らの自信の現れでもある。この残酷なシチュエーションは、例えライとフローラであっても絶対に覆せない。どちらにせよ、良い酒のつまみになりそうな悲劇的結末しかあり得ない。そう確信しているのだ。
「くそ___!」
不幸な結末にしかならない___こんなときにオルローヌの声が頭を過ぎってしまった。口を突いて出た汚い言葉は、そんな自分への罵声でもあった。
その時___
「ザキエル!」
唐突に、フローラが叫んだ。
「頭知坊!」
「フ、フローラ___?」
「この名前はどう!?あなたが幼少のときに良く聞いていたはずの名前よ!あなたはこの二人のことを慕っていた!」
「___」
ジェトは黙って視線をきつくするだけ。
「覚えていないと言うのなら教えて!ジェトの両親、ジェトの歩んできた道を!あなたが本当にジェトだというなら、幼い頃にどんなことをしていたの!?」
沈黙が流れる。フローラはさらに何か言おうとして止まっていた。ジェトの唇が動いたのが見えたのだ。そして彼女は思いがけない言葉を聞く。
「もう一度、おまえたちの言う俺の名前を呼んでみてくれるか?」
「おい!本気か___!?」
坊主頭が苦笑混じりに問いかける。しかしジェトは至って真面目な顔でフローラを見据えていた。フローラもそれに答えるように彼を見つめ、先程とは違う、緊張の面もちで一度唇を潤わす。ライは固唾を呑んで見守っていた。そして___
「アレックス___」
ブバッ___!
「!?」
ライは目を疑った。フローラが愛息の名を呼んだ瞬間、彼女の首元で血が溢れ出ていた。フローラは愕然の表情のまま前のめりに倒れる。
「フローラ!?」
何が起こったのか分からないまま、とにかくライは彼女を抱き留めた。首元の皮膚が裂け、肩口の辺りまで真っ赤に染まっている。動脈を破られたのだろうか、夥しい血はたちまちライの服まで赤色に染めていく。
「!」
しかしライはまだ自分を見失った訳では無かった。フローラを抱いたまま飛び退き、坊主頭の拳は剥き出しの大地に打ち付けた。
「練闘気!」
さらに坊主の向こうから飛んできたディオプラドの弾丸を光の壁で受け止める。
「ちっ!」
そこで間が空いた。仕留めきれなかったことにジェトが舌打ちする。それは先程のやり取りが芝居だったことを意味していた。
「どういう事だ!ア___!」
「___っちゃだめ___!」
耳元で、息苦しげに、それでもできる限りの声でフローラが言った。彼女はライの胸に抱かれたまま、震える手で彼の襟を掴み、必死の思いで訴えた。
「その名前を___」
「名前___?」
「名前を言っては駄目___それが引き金___さっきの攻撃で___仕掛けられ___て___」
フローラが襟をグイと引く。覗いたライの胸元にはヒルのようなものが食いついていた。これが先程の青髪の攻撃で仕掛けられ、フローラの首元を食い破った「武器」なのだろう。その正体はきっと見た目の通り、ヒルだ。痛みはないが、吸血管を深い位置まで伸ばしているに違いない。そしておそらくは、何らかの言葉に反応して弾ける。あの青髪がそうプログラムしているのだ。
「お___願い___」
「わ、分かった!分かったからもう喋っちゃ駄目だ!」
フローラの声、襟を握る握力が急速に弱まるのを感じ、ライは彼女の頭を抱いて宥める。右手で彼女を抱いたまま、左手に剣を取り、ライは三人を睨んだ。
「大したもんだなあ、グイード。あの女、もうおまえの技を見破ったらしいぞ。」
わざとらしい拍手を交え、坊主頭が言った。
「いや、あの状況で拳を避けられたあの男が立派だ。そうは思わないか?ボルクス。」
青髪の二枚目もそれに倣う。数秒のうちに、二人は拍手をやめた。全身から殺意が溢れ出たのはその直後のことだった。
「殺す前に褒めてやったんだ。ありがたく思え。」
「行くぞ、ジェト。」
「ちっ___」
三人は囲むように広がってライに近づいていく。すでに誰からも射程距離だ。ボルクスとグイードからは、すぐにでも喉笛に食らいついてやると言わんばかりの自信が漲っていた。
「うおおお!」
背を向けるのは得策ではない。ライは最接近される前に気合いと共に剣を大地に突き刺した。
「ちっ!」
刃は練闘気を纏っていた。それが地走となって飛んでくると思ったジェトは、舌打ちをして飛び上がる。しかしボルクスとグイードは地を蹴って一気に前へと動いた。
ゴッ!
地走りは三人に向けてではなく、ライの周囲を包むように巻き起こり、剥き出しの大地
を深く抉って残土の壁を築き上げる。一瞬にしてライの姿は壁に隠れた。
「逃がすかよ!」
しかしボルクスとグイードは迷うことなく土壁に突進する。簡単に砕けた壁の向こうには剣だけが残り、その先に背を向けて走るライの姿があった。地走りの壁は逃げるための時間稼ぎ。もしジェトだけならばライはすでにかなり遠くまで逃げていたかもしれない。
「行くぞボルクス!」
「おうよ!遅れるな!ジェト!」
「___」
坊主頭は残酷な嘲笑を浮かべていた。それは逃げ惑うライを嘲ってのものだが、ジェトには自分に向けられたように見えた。
苦し紛れの地走りごとき恐れてどうする?もしあれが時間稼ぎでなく本当の攻撃だったとしたら、次の瞬間あいつは俺たちの拳の餌食になるだけ。だからおまえは青いのだ!
そう罵られているような気分だった。
「くそが___」
それは自分の未熟さゆえの劣等感だ。しかし密かに悪態を付くジェトには、まだそんな自覚もそれを認める器量もないだろう。
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