3 脱出

 「___」
 フェリルは部屋のソファに身を擡げ、目を閉じてドームの出来事を見ていた。オルローヌの力を込めた獣の目玉、それが見たものはフェリルの瞼の裏に映像として現れる。無数の目玉を肉に仕込んだことで、ソアラと侵入者をじっくり観察することができた。
 「まったく___使い物になりやしない。」
 しかし彼女は苛立っていた。オルローヌ神殿に続き、ソアラがまたも失態を演じたからだ。ただそれでも居室のソファから腰を上げるつもりはなかった。ソアラはもとより、まんまと入り込んできた三人を逃がさない自信があったからだ。
 「あの銀色どうかしら?あっちの方が使えるんじゃないの___?」
 新たな獲物を物色する余裕すらある。それどころかこの連中を捕らえて毎日ソアラに生殺しにさせれば、彼女の支配はより完璧になるだろうとまで考えていた。
 「逃げ道を探す___そうよね、そうするわ。でも逃げる場所はないの。」
 ドームの三人が動き出したのを見て、フェリルはあえてそう言った。まるで自分自身に言い聞かせるようにはっきりと喋り、伏し目がちになった。
 やがて大きな舌打ちをして天を仰ぐ。
 「四人か___」
 四という数字が彼女に昔を思い出させた。フェリルである以上にまだフェイ・アリエルだった頃の記憶。消し去りたいような鬱屈とした日々。無味乾燥な水晶の世界の中で、ムンゾを満たすためだけに飼われる自分。
 今のソアラのように。
 「ちっ___」
 水晶の世界から出口を消すなど、ムンゾの能力を使えば雑作もないことだ。だが彼女がそれをするにはプライドを捨てる必要があった。四人の神の未来を奪った檻がこんなにも陳腐だったと実感しなければならなかった。
 「腹立つわ___本当に。反吐が出る。」
 実に面白くない。しかし失った輝きを取り戻すためには、誇りの一つや二つに拘ってはいられないのだ。出れるものなら出てみろ。当時あの男がそう思っていたように、自分もそう思いながら高みの見物と洒落込もうじゃないか___

 「とりあえず逃げるしかないと思うんだが、どうするか?」
 サザビーがくわえ煙草で尋ねた。戦い終えてドームには静けさが戻るかと思いきや、再生した肉の壁と床が奇妙な音を立て、むしろ騒がしさを増していた。
 「私たちが来たのはあっちだよ。肉を退かせば道が出てくると思う。」
 「ほうほう。」
 ソアラを肩に抱えたミキャックが壁の一角を指さした。力仕事は本来男の役回りだが、今のソアラを任せられるのは竜王印を握る彼女しかない。もっともミキャックは女一人担ぐくらい苦でもない様子だった。
 「それにしてもこの煙___変な匂いね。」
 肉の壁が騒ぎはじめるとドームはすぐに黄ばんだ煙で一杯になった。少しだが匂いもある。ともかくあまり気分の良いものではなかった。
 「体に良いもんじゃないのは確かだな。」
 サザビーはミキャックの肩で眠るソアラを覗き見る。大の煙草嫌いのソアラだが、いまは煙を吹きかけられてもスヤスヤと眠っていた。
 「鼻に差し込んでみるか。」
 「やめて。こっちの方がよっぽど毒よ。」
 ミキャックはいたずらの過ぎるサザビーから煙草を掠め取ると、肉の床に投げ捨てた。すると___
 ボビシュッ!
 「わっ!」
 肉は奇妙な音を立てて生き物のように藻掻き、今までにない茶色い煙を吐き出した。しかも強烈な悪臭のおまけつきである。
 「くっせ〜___」
 「ご、ごめん。ほら、あっち行こうあっち!」
 ミキャックは気まずい顔でサザビーの背中を押した。肉部屋の端へと押されつつ、サザビーは後ろを振り返って鼻を摘みながら言った。
 「なあフュミレイ!この肉にはホーリーブライトが効いてたはずだ!傷が癒えたらさっさと出ようぜ!」
 三人はソアラを奪還してもすぐに動かなかった。深い理由はなく、単純に脱出の鍵となるだろう魔女の回復を待っていたからだ。先程まで腕に残っていた赤い筋がほとんど消えている。どうやらそろそろ動き出せそうだ。
 「ホーリーブライトは使わない。」
 「なぬ?」
 しかしフュミレイの答えは意外なものだった。
 「その程度の呪文じゃ生ぬるいと思う。そもそもここは小さなガラス玉の中だから、まずそこから出る方法を考えないといけない。」
 異臭際だつドームの中央を挟んで三人は語る。サザビーはフュミレイの言葉に手を叩いた。
 「ああやっぱり!景色が早くってピンとこなかったんだが、ここはあのガラス玉の中なんだな?」
 「信じたくないけど多分そうよ。あたしも見えたから。」
 ミキャックもそう言って頷く。
 「これは明らかにフェリルの罠だ。あえてソアラをぶつけてきたのは、彼女を奪われたとしてもここから逃がさない自信があるからだ。おそらくムンゾの力のおかげでね。」
 フュミレイは勿体ぶるように語るが、その言葉一つ一つに自信が漲っていた。どうやら彼女には何らかの策があるらしい。それが分かったサザビーはにやつきながら尋ねた。
 「で、人の自信を砕くのが大好きなサディストのリドン様はどうされるんで?」
 「___小鳥。」
 「あ、はい。」
 ガスッ!
 隣にいたミキャックがフュミレイの手の動きに倣い、サザビーの臑を蹴飛ばした。
 「ぬぐぉぉぉ___」
 「ごめんね〜。あの名前で指示されるとなんだか逆らえなくって。」
 日頃の悪戯の仕返しもできたからか、ミキャックの作り笑顔は妙に晴れやかだった。
 「ムンゾの束縛には浄化呪文が効く。ただホーリーブライトでは心許ないし、今のあたしは浄化呪文がそれほど得意じゃない。」
 「それじゃあ、どうするんです?」
 「むぉぉ〜___」
 一人苦しむサザビーを後目に、フュミレイは淡々と続けた。
 「浄化呪文が効くと言うことは、魔力に端を発する力が通用すると言うことだ。」
 右腕を包んでいた光が消える。傷は跡形もなくなり、本来の白い柔肌に戻っていた。そして___
 「試してみたい古代呪文があるんだ。」
 満を持して言った。
 「ぬぅ〜。」
 「苦しむふりして触らない!」
 ところがサザビーがどさくさに紛れてミキャックの太股を撫で回したものだから___
 「あ、すみません!なんでしたっけ?」
 二人は全く聞いていなかった。
 「___ああ、いや______小鳥!」
 「はいっ。」
 ガスッ。
サザビーの臑に再び蹴りが飛んだのは言うまでもない。

 「呪文かしら?でも、何をやっても無駄よ。」
 フェリルは目を閉じて呟いた。三人が部屋の一角に集まって、そのうちの一人、ソアラの記憶にも頻繁に登場したフュミレイ・リドンが何かをしようとしている。だがフェリルは悠然と高みの見物をしていた。
 エコリオットが作った水晶の中の世界。本来は出口を開く言葉あるいは思念を送ることで脱出できるし、竜樹が七ツ釜を内から破ったように力ずくも通用する。だがムンゾは水晶そのものの機能を封じた。出口を開く機能を封じ、また世界の限界に力を逃がすフィールドを作った。そうすることで、ムンゾ自身が力を解かない限り出入り口が開かず、力ずくも通用しない水晶の檻ができあがった。
 その程度だったのだ。束縛の神にとっては鼻くそをほじるくらい簡単なことで、フェリルと他二人の女神は長らく自由を奪われていた。
 「ああ___腹が立つ。」
 嘲笑を浮かべて見ていたい。なのにフェリルは心穏やかでいられなかった。それどころか___
 「!?」
 苛立ちは次の瞬間、焦燥へと変わった。
 「なに___?」
 瞼の裏の景色が消えた。何も見えなくなったのだ。直前、フュミレイが何かを叫んでいた。それが見えた直後、瞼の裏の景色が消えた。
 「これは___なにが!?」
 それだけではない。何かがおかしいのだ。そう、この居室そのものに異変がある。ここは水晶の中だ。直々に料理する可能性を考えていたから彼女は水晶の中に留まっていた。そして直に異変を感じていた。
 「___束縛の力が消された___!?」
 フェリルは最も簡単な呪文ドラゴンブレスを放とうと念を込める。しかし指先はほんの線香花火程度に光っただけで、魔力は瞬時に霧散してしまった。
 「___」
 頬を強張らせ、ソファから立ち上がる。瞼の裏の景色をもう一度思い出してみる。きっかけは間違いなくあの銀髪が握っていたはずだ。その口の動きを良く思いだしてみろ___あいつはなんと叫んでいた!?
 「ヨ?___ソ___ソーマ!?___まさか!?ただの人間が!?神でもない人間がソーマを使うのか!?」
 見くびっていたわけではない。だがフェリルは驚愕し、青ざめ、怒りに震えた。神である自分が長い年月喘ぎながら探した水晶の檻の逃げ道。その突破口がこうも簡単に導き出されたこと。それが信じられなかったし、あまりにも腹立たしかった。

 古代呪文。それは今や遠い歴史の彼方に忘れ去れた遺産である。人知を逸した壮絶な力を持つが故に、使い手を選ぶ。魔導を極めたと自負する者でも、手に触れることを躊躇うだろう究極の呪文。
 魔力はいわば自然エネルギーであり、最も簡便な特殊能力である。精神の波動を具現化したものが無色の魔力であり、呪文は自然の加護である。それによって無色を、炎や氷、風や毒といったものに変えることができる。
 古代呪文は自然の領域を超えた呪文である。自然に力添えを請うのではなく、それすらも支配する。その典型が「古代呪文ソーマ」だ。
 ___
 「ソーマは人が本来持つ肉体以外の、副次的な力を一切許さない呪文だ。」
 フュミレイはサザビーとミキャックにそう告げたが、二人はキョトンとしていた。
 「???___つまりどういうことだ?」
 「簡単に言えば、魔力もなにもかも、あらゆる効果を消し去るフィールドを作る呪文だよ。ムンゾの力には魔力が効く。ソーマを使えば束縛にしろ何にしろ、全て無力化できるはずだ。」
 「すごいな___」
 「ならサザビーの顔も___!」
 嬉々としたミキャックだがフュミレイは首を横に振った。
 「邪輝には魔力がほとんど効かない。ソーマでも無理だろう。」
 「そう___」
 「俺のことはいいよ。それよりもフュミレイ、そんな呪文があるのに今まで使わなかったってのは___やっぱり訳があるんだろ?」
 フュミレイは小さな笑みを浮かべて頷いた。
 「さすがに鋭いね。確かにこの呪文は一筋縄じゃいかない難点が二つある。一つは私が全く無力になることだ。」
 「というと?」
 「ソーマのフィールドの中では、使い手もソーマ以外の力を使うことができない。私は攻撃も防御も、魔力でカバーすることができない状態になる。」
 「か弱い乙女になるってことか。まあその辺は屈強な女戦士がいるから大丈夫だろ。」
 「えぇ?あたしだって魔力がないと___」
 「重くて飛べない?」
 ドガッ!バキッ!
 「はへ〜___」
 「続けてください。」
 「ソーマの前に治療した方がいいんじゃないか?」
 「大丈夫です。」
 肉の床に転がるサザビーをそのままに、フュミレイは続けた。
 「___まあそう言う訳で、ソーマの下では生身の体で戦うしかない。だが敵は神の力を三人分も飲み込んでいる。生身の戦いになればますます勝ち目はない。だから非常に危険な賭だと言える。」
 「なるほど___」
 「もう一つ、これが重要なんだが___」
 ___

 「すげえ___」
 サザビーは景色の変化に唖然としていた。竜波動で消し飛ばされてもたちまち再生していた肉の壁と床が、全て一瞬にして消え失せた。広がった景色は、飾り気の無い石造りのドームだった。
 「見とれてる場合じゃないわ!」
 「ああ、これからは時間の勝負だ___」
 フュミレイの両手を赤茶色の霧が包んでいた。ミキャックもサザビーも、ここから莫大な魔力が滝のように漏出しているのを感じていた。あのフュミレイがすでに汗を滲ませている。それがソーマの壮絶さを物語っていた。
 これが第二の難点。
 「どれくらい持ちそうだ?」
 「五分持てば良い方だ___」
 ソーマはとにかく甚大な魔力を消費する。無力化のフィールドを維持している間、使用者は驚くべき速さで魔力を費やしていく。
 この二つの難点があるから、ソーマはまったく使い手のない呪文になった。それはそうだろう、確かに敵を無力化できるかもしれないが、魔道師にとってはソーマを使うこと自体が自殺行為だ。
 「なら三分で何とかするぞ。出た後のヘブンズドアの分だけは魔力を残しておくんだ。」
 「___そういうことはソーマの前に言ってくれ。」
 「急ごう!」
 そして三人はドームを飛び出した。サザビーを先頭に、フュミレイを間に置いてソアラを担いだミキャックが後ろを固める。目指す場所は定かでないが、今はとにかく前に進むしかなかった。
 だが___
 「げげっ!」
 一分としないうちに三人の思惑は脆くも崩れ去った。ドームから続く一本道が分かれないうちに、大量の敵が立ちはだかったのだ。
 「そんな___!」
 ミキャックが悲痛な叫びを上げる。三人の前に現れたのは武器を持ち、血の気に満ちた屈強な戦士たち。万が一に備えていたのだろう、フェリルは持ち前の慎重さでドームの外に私兵を配していたのだ。
 「やるしかないだろ!こういうのは百鬼やライの発想だが、玉砕覚悟でなぎ倒すぞ!」
 だがサザビーは足を止めなかった。
 「そうね___そうするしかない!」
 そう、この期に及んで小細工は通用しない。見るからに強靱な男たちを前にしても、怯まずに突撃するしか道はないのだ。
 「うおおお!」
 血気盛んに、サザビーは猛然と叫んだ。次の瞬間である。
 ザザザッ!
 「なっ!?」
 「えっ!?」
 サザビーとミキャックは息を飲み、急ブレーキを掛けて踏みとどまった。槍の切っ先はは先頭の男に触れるかという位置でピタリと止まっていた。目の前の光景に、サザビーもミキャックもフュミレイでさえ目を見開いていた。
 「ど、どうなってんだ___?」
 戸惑うのも無理はない。サザビーの前で、厳つい男たちが一斉に平伏したのである。通路の奥の方まで、並んだ頭の数は軽く百を超えている。そして___
 「ありがとうございます!」
 先頭の男が声高らかに言った。すると後ろの男たちからも次々と、ドスの利いた感謝の声が上がった。
 「どなたか存じやせんが、我々をあのくそアマから救って下さったのはまぎれもなくあなた方とお見受けいたしやす!」
 男が顔を上げる。髭もじゃで、目つきが悪くて、額に深い傷跡がある。いかにも悪の道を歩んできたような柄の悪い男だ。しかしその瞳は、清々しい輝きに満ちあふれていた。どれくらいぶりなのだろう?フェリルに支配された現実とも夢想とも取れない日々から解放された悦びは、全身に滲み出ていた。
 「ここはくそアマの巣。脱出なさるおつもりなら、是非とも我々が助太刀を!」
 「お願いいたしやす!」
 「あんたたちを逃がせばあいつに痛い目を見せられるに違いねえ!」
 男たちは口々に言った。その迫力に圧倒されかけていたサザビーとミキャックだったが、フュミレイだけは平然として男たちの前へと歩み出た。
 「いかにもおまえたちを支配から解き放ったのはこの私だ。そして私たちはここからの脱出を望んでいる。もはや時間は限られている。おまえたちの力で私たちを外へと導いてはくれまいか?辛酸を舐めた全ての人々の自由のために!」
 「おおおおお!」
 迷宮を揺さぶるほどの大歓声が轟いた。
 「ここの出口は分かるか!?」
 「ああ!しっかり覚えている!あそこでまちがいないはずだ!」
 「くそアマが出てきても怯むな!俺たちの恨みを晴らすときが来たんだ!」
 すぐに三人は集団の中に飲み込まれた。百人を超える男たちの徒党は、あらゆるものをなぎ倒す迫力に満ちあふれ、鬱屈とした迷宮を蹂躙していく。
 「凄い!まさかこんな事になるなんて!」
 「さすが元ケルベロスの参謀殿だな!」
 「昔取った杵柄だよ。」
 思わぬ助っ人の登場に、三人は自然と笑みを浮かべていた。周りは血の気の多そうな男連中ばかりだったが、ミキャックもこのときばかりはなんの恐怖も感じなかった。
 「まったくで!さすが姐さんは器が違う。」
 「!?」
 だが突然視界に現れた顔だけは別だった。
 「お、おまえは!」
 「お久しぶりでやんす!」
 いつのまにか、三人と併走するように二人の男が現れていた。一人は小柄で細身の男、一人は大柄で太った男。黄泉で見た顔、空雪と丹下山だ。
 「やはりおまえたちもオル・ヴァンビディスに来ていたか。一筋縄では行かない奴だとは思っていたが、こんなところで会うとはな。」
 「へへ、姐さんにはなにもかもお見通しで。」
 「何しに来たのよ___!」
 一際冷静なフュミレイと違って、彼らと因縁あるミキャックは落ち着いていられなかった。
 「安心しな、今はおまえに興味はねえよ。」
 「あっしらは姐さんにご恩を返すためにやってきたんで!」
 「嘘くせ〜。」
 サザビーが嫌悪感たっぷりの顔で言った。
 「おいおい、なめるなよ。俺たちは誰にも肩入れしないが、受けた恩はしっかりと覚えてるぜ。姐さんには命を救っていただいた。ここで会ったのは、姐さんに恩返ししろって天命よ!」
 「___信じられるものか!」
 空雪の言葉にミキャックは上擦った声で反論した。たしかに義理堅い性格なのかも知れないが、冷静な暗殺者の顔が記憶に焼き付いているからこそ、ミキャックは彼を信用する気になれなかった。だがこの場の主導権はフュミレイにある。
 「おまえたちを信用するかどうかはあたしが決める。なぜここにいるのかを説明しろ。おまえたちはフェリルに囚われるようなたまじゃないはずだ。」
 「姐さんにそう言っていただけると光栄で。なぁに、俺たちも姐さんらと一緒に黄泉からこちらに滑り込ませてもらいやしてね、少しブラブラして行き着いたのがムンゾって野郎の神殿でした。」
 「!」
 悪運というのは確かにあるのだろう。彼らは図らずとも混沌に辿り着く星の持ち主なのだ、フュミレイはそう感じた。
 「神殿の一角でね、天井が人を食ってるのを見たんでさぁ。」
 「そう!人が天井に一杯埋まってて、それが段々飲み込まれていくんで!」
 誰の仕業かは今更口を揃えるまでもない。
 「んでね、こいつはどこに行くんだろうなと思いやしてね、骨蛇の肉を投げつけてやったんですよ。」
 「骨蛇の肉?」
 「黄泉でよく使う追跡道具でさぁ。メシに混ぜて腹の中に発信器を仕掛けるようなもんで。」
 「それでここに辿り着いたのか?ここはどこだ?」
 「例の神殿から一日も歩いたところで、それほど遠い所じゃねえですよ。」
 灯台もと暗しとはよく言ったものだ。水晶の世界というカラクリはあったにせよ、フェリルは思いの外、レイノラたちの近くにいたことになる。
 「次はここにどう入り込んだかでやんしょ?」
 「てめえは黙ってろ!いや失礼しやした、小狭い洞窟に大量の男どもが出入りしているのが見えたもんで、しばらく観察してたんで。そうしたら見たことのある顔が出てきたじゃねえですか。」
 空雪はミキャックの抱えるソアラを指さした。
 「あの女が姐さんの仲間だってことは知ってたんでね、それがとてもじゃねえがまともな面をしていなかった。この女の側にはもう一人女がいて、まあ俺たちゃこういうことには勘が働くもんで、そのもう一人の女が危険な奴だと一目で分かりやしたよ。」
 「フェリルがいない隙を突いて中に入った。」
 「へい。だがなんかしらの壁はあると睨んだんでね、予防線を張っておきやした。後で分かったことでやすが、このガラス玉は人の出入りを数える仕掛けが付いていて、あの女はそれを使って自分がいないときでも賊を洗い出せるようにしてたんで。」
 「そこであっしの出番!」
 にこやかに名乗り出た丹下山だが、空雪の肘が太鼓腹にめり込んだだけだった。
 「しゃしゃり出るんじゃねえ!」
 「時間がない。早くしてくれ。」
 「失礼しやした。この丹公の臍の中には人の一人や二人軽く入れやす。あっしともう一人、名もしらない男を腹に潜ませて、中に入ったらその男を出してやる。案の定、女の操り人形どもは侵入者を一人と思ってるんで、その名もしらねえ男を殺して任務完了でさ。」
 手法は褒められたものではない。だが彼らの手練は認めなければならない。
 「なるほど分かった。おまえたちの言うことを信じよう。」
 「姉様!?」
 「妖魔の彼らにこんな作り話はできないよ。」
 「確かにな。」
 「でも___」
 「それで、おまえたちはどうやってあたしに恩返しをしてくれるんだ?」
 煮え切らないミキャックをよそにフュミレイが尋ねる。いつものクールな顔とは違い、彼女は汗だくで、目の下に隈を浮かべて走っていた。それもそのはず、すでにソーマ起動から三分が経過しようとしている。
 「この玉の外までしかとお守りいたしやす。もっとも、俺らもこの騒ぎに便乗してそろそろここを出たいって下心もあるんですがね。」
 「よし、頼む。もちろんこの二人のこともしっかり守れ。」
 「姐さんが言うんじゃしょうがねえ。」
 彼らの人間性はまだ掴みきれないところがある。だが今は信用するしかない。彼らがフェリルの張った予防線である可能性もゼロとは言えないが___
 「そうだ、もう一ついい話をお耳に入れやしょう。」
 「なんだ?」
 「あっしの睨んだところじゃ、フェリルっていいましたかね、あの女は頭じゃねえ。」
 「頭___組織の長ということか___?」
 「裏に男がいますぜ、あれは。」
 「!!」
 「勘ですがね、どうも好き勝手に動いているふうじゃねえ。そうなると、あの手の女を使うのは男に違いねえってわけで。」
 その言葉は衝撃的だった。敵はフェリル。実際神を殺し回っているのは彼女であり、それをコントロールしている人物がいるとは想像しづらかった。もちろん空雪の言葉にも根拠があるわけではない。だがこの男の目は侮れないし、これで彼がフェリルの予防線という線も消えた。
 そしてこの一言をきっかけに、状況を見守っていた「あいつ」が動いた。
 「なあ空雪。」
 サザビーが問いかけた。彼は黒く塗られた左の顔面に指を押し当てていた。
 「いまこの玉が数えてる侵入者は三人だよな。」
 「あぁ?そうだな___」
 空雪は眉をひそめて答えた。
 「___まさか!」
 彼の意図を察したフュミレイが息を飲む。ミキャックも悪い予感に言葉を失っていた。そんな二人の動揺をよそに、サザビーだけは大胆不敵に笑っていた。
 「ソアラの分を除いて、二人は残れるって事だよな?」
 数字の上ではそうだろう、だがそれはあまりにも危険だ。ミキャックだけでない、フュミレイまでもが反論しようとしたがサザビーにはそうせざるを得ない理由があった。
 「俺の上様がそれをお望みでね。」
 顔の半分に広がる黒い紋様がじわじわと、それでも確かに浸食を広げていた。
 その時___!
 「出口だ!」
 先頭を行く男が叫んだ。苔むした石の通路の突き当たりに、魔法陣の描かれた壁が現れていた。
 「出てからが勝負だ!おまえら気合い入れて行けよ!」
 「あたぼうよ!」
 フュミレイたちは百を超える男衆に守られて走っている。その一団の先頭が魔法陣に突貫し、壁に飲み込まれるようにして消える。そこから先は水晶の外だ。外の景色は見えない、音も聞こえない、魔法陣に突っ込むまで何が待っているかは分からない。
 ここまでフェリルは現れなかった。だからこそ全ての恐怖をかなぐり捨てて、突き進む勇気が必要だった。
 フュミレイが、それに並ぶように空雪が、直後にソアラを抱いたミキャックが、魔法陣に飛び込む。サザビーと丹下山はその波から外れていた。
 景色の変化は一瞬のことだった。

 目、耳、鼻を強烈な刺激が駆けめぐる。狭い洞窟に転がった真っ赤な肉の山。ひたすらの血の臭い。見えない刃が肉を食い、血飛沫が壁や天井を打つ。狭い洞窟の出口を背にして、真っ赤に染まったフェリルが立ちつくす。その周囲に張り巡らせた刃は、彼女を突破しようとした男たちの体をことごとく切り裂いた。
 天井から雨粒のように落ちる血の雫のせいで、本来見えないはずの刃が赤い縁取りを描いていた。それが恐怖を助長する。彼女の周囲に張り巡らされたカッターは、鼠一匹逃さないほど細かい編み目になっていた。あそこに飛び込んだ瞬間、人は爆発する。あまりに細かく切り刻まれてそう見えてしまうのだ。
 「!」
 それは一瞬の交錯。フェリルはいつフュミレイたちが出てくるか分からず、フュミレイたちも外にフェリルがいるだろうと分かってはいても、その時までは対処のしようがない。
 銀髪の魔女が体半分現れた瞬間、刃の赤い縁取りが弾けて消えた。水晶の中に留められていたソーマの力が、外へと移った瞬間、フェリルの刃は掻き消された。
 フェリルは無言で動いた。彼女のターゲットは一つ。ソーマに全精力を奪われている女が水晶から脱した瞬間、鋭い爪で首を掻き切ればいいだけ!
 しかし。
 「ぐおおおお!」
 「!?」
 フュミレイを追い越して、猛烈な勢いで巨体の男が三人も飛び出してきた。そればかりか、体を寄せ合うようにしてフェリルに突っ込んでくる。三人はいずれも「矢」に掴まっていた。
 いつもの刃を使えないフェリルは、男の砲弾を自らの爪でなぎ倒すしかなかった。その時、三人の大男を囮にして、同じく矢にしがみついた別の男たちが彼女の横を駆け抜けた。彼らは自分の力で飛んでいるのではない、矢の推進力に乗っていた。
 「なっ!?」
 フェリルは振り返った。そして駆け抜けたのが男だけではなかったと知った。男たちはすでに矢を放し、洞窟の出口を塞ぐように、フェリルに背を向けて仁王立ちしていた。その肩越しに、矢にしがみついて飛び去っていく男女の姿がチラリと見えた。しかもそのうちの一人、小柄な男はこちらを見てニヤリと笑っていた。
 「っ___!?」
 余裕の笑みを浮かべる男に憤慨し、フェリルは彼を睨み付けた。だがそれは空雪の罠だ。
 「が___!?」
 フェリルの体がピクリとも動かなくなった。いわゆる金縛りだった。それは背を向けて立ち、洞窟に蓋をした男たちも同じ。彼らははじめから盾になるつもりで空雪の策に乗ったのだ。
 「姐さん、これで義理は果たしやしたぜ。」
 空雪は確かに約束を守った。彼無しでの脱出はあり得なかったし、妖魔の能力にはソーマが通用しなかったことも幸いした。
 彼は本来の能力として、威力を落とすことなく自由に軌道を変え、狙った獲物を逃さない弓術を持つ。そして金縛りは彼が後天的に奪い取ったもう一つの能力。空洞だった片目に仕込んだ他人の眼球の力だ。
 フェリルは冷静だったはずだ。しかしソーマのフィールドの中で、思いがけない特異的な力への対処ができなかった。
 フッ___
 何かの気が抜ける。金縛りは残っていたが、それを消し飛ばすことなど雑作もなくなっていた。溢れ出た真空の刃は男たちの人壁を粉砕する。
 それはソーマの力が消えた証だった。
 「こんな______こんなことが______!」
 肉の海に立ちつくし、頭の天辺から足先、翼の先まで真っ赤に染まったフェリルが呟く。顎に伝った血が玉となって滴った。
 こんな結末は全く考えていなかった。ソアラを奪われたあげく、まんまと逃げられるなんて___
 その顔には口惜しさだけではない、恐怖の色さえも滲んで見えた。

 「はぁっ___はぁっ___!」
 フュミレイは全力で飛んでいた。ソーマの力を断ち、今は闇に包まれて夜空を滑空していた。朧気な光を放つヘブンズドアは目立つ怖さで使えなかった。だがすでにソーマを五分以上維持した体に力は残っていない。魔力以上に身を削る闇の力を使い続けるのは不可能だった。
 (もっと___逃げなければ___!)
 景色が歪む。だが背で眠るソアラを守るためにも、少しでも遠くに逃げなければならない。竜王印を託してくれたミキャックのためにも、危険を承知であの場所に残ったサザビーのためにも!
 「___」
 何度か落下しかけながら、必死で持ちこたえる。しかしもはや推進力はほとんど残されていなかった。遠くに丸形の建物がチラリと見えた気がした。それが彼女に残っていた最後の記憶だった。




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