2 竜の紋章
夜の闇に光が走る。
それは人魂のようにうっすらとした光でありながら、驚くべき速さで走り、やがて鬱蒼とした森を抜け、その奥にひっそりと口を開ける谷へと吸い込まれていく。崖のズレがそのまま獣道となって幾重にも走り、至る所に無数の横穴が並ぶ。そこには獣やら鳥やらが巣を作り、さながら動物たちの高層アパートといった様子であった。
光はそのうちの一つに一直線に入り込んだ。横穴は浅く、たくさんの枝葉を集めて作られた鳥の巣のような籠が一つ。その中に、水晶玉が煌めいていた。光は速度を落とすことなく、真っ直ぐに水晶玉にぶつかる。そしてそのまま玉の中に溶けるように入り込んだ。
水晶の中に消えた光は、それでもまだ朧気に輝き続けていた。ただしそこは鬱蒼とした森でも、切り立った崖に挟まれた谷でもない。日の光など当たるはずもない迷宮。壁は赤黒く、まるで生きた肉のように蠢いている。奇妙な匂いを放つ煙が漂い、視界も幾らか霞んで見えるような場所だった。
パアアッ!
朧気な光が強い輝きに変わったとき、周囲を包む肉の壁は激しく蠢いた。
「えげつない場所だが、らしいよな。」
そこは肉の一本道。背後は一面の肉で、逸れる横道すらない。まるで巨大な獣の食堂か腸の中のような場所は、現れた三人の戦士を幾らかでも戸惑わせた。しかしサザビーの冷静な言葉が物語るように、もとよりまともな景色など想像していなかった。
「行こう。進むしか道はない。」
生々しい床に臆することなく、フュミレイが一歩を踏み出す。サザビー、ミキャックもそれに続いた。
ソアラを追って辿り着いたのが一本道。それはすでに敵の筋書きの中にいると言うことを意味する。とすれば道の先に何が待っているのか予想するのは難しくない。たかだか二択のクイズだ。
「フェリルか___ソアラか___」
「賭けるか?」
「ふざけてられる気分じゃないわ。」
三人は歩いた。肉の道は長かったが、おかげで景色や感触に慣れることもできた。そして道が開ける。食堂を抜けた先に胃袋が待っていたと言うところか、そこは数百人は入れるだろう広いドームになっていた。
「___」
そして、そこには沈黙の狩人が待っていた。
「なるほど、こういうのがお好みらしいぜ。」
サザビーはいつもの調子で言ったが、その手にはしっかりと槍を握っていた。
「むしろこのほうがやりやすい。」
フュミレイはすでに全身に魔力のオーラをみなぎらせていた。
「ええ。少なくとも出会うまでの関門は突破したもの___!」
このところ戦いに臆病だったミキャックも、いつになく闘志に溢れて見えた。
「___」
三人を出迎えたのはフェリルでなくソアラだった。それを素直に喜べるだけの余裕が彼らにはある。こうなる可能性を想定し、いくつもの筋書を立てていたからこそ、彼らは取り乱さなかったのだ。
ここに至るまで、いくつかの可能性があった。
そのどれを選択するかは、フェリルの手に掛かっていた。
まず、フェリルがソアラのドラグニエルに仕込まれたクリスタルを見つけるかどうか、それが第一の分岐。敵の周到ぶりを思えば、見つけないという選択はまずあり得ない。
第二に見つけたとして、それが何かに気付くかどうか、またそれを破壊するかどうか。破壊すればそこでソアラ追跡の道は断たれるが、それはそれ。考えるべきは破壊しなかったときの可能性。
第三の分岐は、ソアラへの接近を受け入れるか阻むのか。阻むとすれば、どの段階か。密かに近づくスパイを殺そうとするかどうか。受け入れるとするならば、それはどこか。そしてどのような策を以て受け入れるのか。
答えはこうだった。
フェリルはクリスタルを見つけ、何らかの魔力を秘めたものだと知った。だが彼女はそれがどこで仕込まれたものか分からなかった。誰が仕込んだ?ウブな夫婦か、オルローヌか、あるいは銀髪女か?その瞬間を見ていない以上、彼女に確実な答えは出せない。「分からない」というのはおそらく、彼女にとって何よりの「不安の種」だ。それを解決するために、敵の存在を暴きたいと思う。そしてクリスタルは残された。
ここで鍵となるのはクリスタルがソアラに仕込まれていたことだ。敵とソアラの関係性だ。そして彼女のもつ意味だ。オルローヌのところで戦った連中はこの女を知っていた。帰りがけに捕らえようとした銀髪女もソアラを知っていたようだった。しかもそいつには逃げられた。
好都合なことにフェリルはオルローヌの力を得た。オルローヌの能力を使えるのなら、彼女はまずソアラが何者かを調べるのではないだろうか?いや、実際調べたのだろう。だから今、三人はソアラと対峙しているのだ。
この蠢く肉の迷宮はどこなのか?よく分からないが、おそらく普段からのソアラの居場所であり、フェリルの居場所でもある可能性が高い。とすれば、ここはフェリルの束縛支配の元に成り立つ空間だ。
いわば彼女は、まず獣たちを堅牢な檻に閉じこめ、餌を入れ、檻の外から何が起きるのか観察しているのだ。それが「敵を知った上で逃がさずに始末できる方法」だったのだ。
いま、フェリルは三人とソアラの対峙を見ている。その手には、麻酔銃なり、殺鼠剤なり、いざというときに獣を一息で殺せる、あるいは無抵抗にできる武器が握られているはずだ。いや、或いはその引き金はすでに引かれているのかもしれない。
しかし、それだけだ。
数多くの関門はフェリルの手で初めから開かれていた。敵の思惑があったにしても、いまこうしてソアラと対面できたこと、それは三人にとって好都合だった。
やるべき事が明確になるから。
「ホーリーブライト!」
ソアラに呼びかけるどころか観察すらしない。ソアラと対峙した直後、フュミレイは全身に纏っていた魔力のオーラを肥大させた。初めからそうしようと決めていたかのような振る舞い、それはミキャックもサザビーも同じだった。
グオオオオ___!
浄化の光がフュミレイの体から肉のドーム全体に広がっていくと、驚くべき異変が起こった。床で蠢いていた肉が押しのけられるようにして削げていったのだ。
(いける!)
ソアラが戸惑っていた。それを見たミキャックは露わになった石床を蹴った。
「呪拳___ディヴァインライト!」
そして素早い拳をソアラの胸へと叩き込む。ホーリーブライトの浄化の光はソアラの動きを鈍らせ、ミキャックの拳は難なく彼女を捕らえていた。
フュミレイとミキャックが浄化の呪文を使ったのには訳がある。オルローヌ神殿での出来事を見ていたサザビーが、束縛の力に浄化呪文が効果的だと気付いたからだ。事実、怪しげな肉を押しのけたことで、効果は証明された。
「ぐぅぅ___!」
ソアラが体を曲げて呻き、三人の筋書きは成功したかに見えた。しかし___
シュッ!
ドラグニエルの爪が鋭い弧を描いてミキャックを襲う。素早い一撃はミキャックの頬を掠めたが、深手には至らない。頬に届く前に、無数の糸がソアラの腕に絡みついていたからだった。
「くっ!」
ミキャックはフュミレイとサザビーの元に飛び退く。ソアラは煩わしそうに腕を振るうと、光の糸はたちまち霧散した。
「やっぱそう簡単にはいかねえか。」
糸はサザビーの手から伸びていた。練闘気を通じてソアラに触れたサザビーは、彼女の体に巡る浄化の力を感じていた。それだけに不可解でもあった。
「あたしは___」
「!」
ソアラが喋った。その顔つき、声に精気はない。しかし彼女自身の口で、三人を見据えて言った。
「何も信じない___!」
「!?」
ソアラが黄金に輝き、それに呼応してドラグニエルの竜も金色の輝きを放つ。彼女の掌にはすでに竜波動が満ち満ちていた。
「全てが___敵!」
躊躇い無く、自らの意志でソアラは波動を放った。光は一気に三人を飲み込み、ドーム全体を真っ白に包む。ホーリーブライトに押されて部屋の隅に寄り集まっていた肉を消し飛ばすほどの破壊力だった。
「こんなことって___」
面食らいながらも、三人は竜波動が放たれる一瞬の隙でバラバラに飛び退き、直撃を免れていた。しかし翼の先を焼かれたミキャックは、あれが本物のソアラであると確信して、困惑の坩堝に落ちていた。
「ドラグニエルが呼応する___それは本物のソアラでなければあり得ない___」
フュミレイもそれに気付いていた。そしてフェリルがソアラの支配に絶対の自信を持っていると痛感した。ドラグニエルは竜の使いから「邪気を払う力」があると言われる。些細な毒くらいなら消し去ってしまうそうだ。「フローラの呪文とドラグニエルの浄化の力」、それがオルローヌの神殿で彼女を正気に戻した要因だった。それを分かっていながらあえて着させているところに、フェリルの自信が滲み出ていた。
これは強制的な支配ではなく、彼女自身の意志による従属___そう言わんばかりだった。
「それだけじゃない、こいつぁ臭い演出だぜ___」
「演出___?」
煙草をくわえたくなるほどの胸くその悪さに襲われ、サザビーは舌打ちした。
「そうだ。これは俺たちのことを知った上での演出だろ?」
「___なるほど、やはりオルローヌの力でソアラの過去を調べた。」
フュミレイの答えにサザビーは頷く。こうしている間、ソアラは三人をじっと睨み付けていた。
___
「ソアラ!すぐに助ける!」
「お母さん!」
「駄目!来ないで!」
囚われのソアラを助けようと必死の形相で駆け寄ってきた百鬼と子供たち。彼らの首が目前で落とされ、その表情だけがソアラの脳裏に焼き付く。
___
「さあ!こっちだソアラ!」
フュミレイがソアラを助けようと手を差し伸べて呼ぶ。嬉々として駆け寄ると、彼女の顔はかつての仇敵ジャルコに変わっていた。
「思い出させてやる___!」
「いやああ!」
ジャルコは血まみれの手でソアラの首を掴み、一気に服を引き裂く。必死の抵抗。ソアラが絶叫してドラグニエルの爪を振り回すと、それはジャルコでなくフュミレイの胸を貫いていた。
___
「ソアラ!すぐに治療を!」
衰弱したソアラを助けようと、フローラが跪く。だがその手には治癒の暖かな魔力ではなく、ナイフが握られていた。
「楽にしてあげる___あなたの望むように!」
フローラが笑いながらソアラの腹に、胸に、顔に、ナイフを振り下ろす。やがて景色は暗転し、気付いたときには自分が黄金に輝き、足下には腑を引きずり出されたフローラの死体が転がっている。
___
「ソアラ、あなたの歩んできた道はきっと正しい。あなたは究極なる力を得るに相応しい肉体の持ち主。それはそうでしょう、なにしろあなたの行く先には常に戦いがある。あなたの後ろには常に死体が転がる。それがあなたの進む道なのですから。私はね、最もGを得るに相応しい道を歩んできたのはあなたではないかと思うのです。」
アレックスはにこやかに、穏やかに、時折眼鏡に手を添えて語る。
「仲間?いいえ、違いますよ。全てはあなたが究極に近づくための糧です。そうしてあなたは強くなってきたのでしょう?あなたは常に殺すことで前へと進んできたのです。生きたければ殺しなさい。殺せる相手は全て殺して空腹を満たしなさい。」
いつの間にか、アレックスの額には穴が開き、血が流れ出ていた。
「忘れましたか?私もその一人ですよ。」
___
「おまえがGとなればいい。全てを破壊すれば楽になれる。そしておまえならばGになることもできよう。全て殺せ。命を奪え。手始めに、おまえの足下に転がる捨て石たちからだ。その力を得て、次はフェリルを超えればいい。」
金と白の偉大なる竜。竜神帝ことジェイローグもまた語る。ソアラに正しき道を諭す。
___
気が付くと、ソアラはゴルガ城を見つめていた。自らの殺しの歴史の出発点とも言える場所に立ち、彼女は竜神帝の言葉を噛みしめるのだった。
___
それは延々と続いた。寝ても覚めても、自分の意識がいつ覚醒しているかも定かでないほど、現実と虚像の区別ができなくなるほど、ソアラはそんな情景を見続けた。
これはフェリルがオルローヌの力でソアラの歴史を紐解き、彼女に大きな影響を与えた人物の姿、振る舞い、口調を模したまやかしである。しかしソアラはそれを見続け過ぎた。最初のうちは嘘だと思っていても、一ヶ月も続いてはもはや彼女は何も信じられなくなっていた。
エコリオットの作り上げた水晶は、一日が一週間に変わる七ツ釜、一日が二日分のムンゾの秘密宮殿のように、時の流れがまちまちだ。ソアラはフェリルが持つ水晶の中でもとくに時の流れが速い、一日が一ヶ月相当の水晶の中で入念に仕込まれた。
そして、時は今に至る。
(いつものように殺せばいいのよ。)
フェリルは離れた場所でドームの対峙を見ていた。フュミレイたちの接近は水晶に入られる以前から感知していた。本来ならここに招き入れずに殺してしまうところだが、ソアラの調教の成果を見るにはまたとない餌である。
つまりこれは評価試験なのだ。
Gを得る上で邪魔となるだろう存在の駆逐役として、彼女がちゃんと使い物になるかどうか。それを知るためのテストなのだ。
「うあああ!」
ソアラが叫んだ。そして弾丸のように飛び出した。
「ぐっ!?」
まず狙われたのはサザビー。瞬発力では誰よりも勝るソアラの前に何もできず、その腹に膝を叩き込まれた。しかし追い打ちはかけない。膝蹴りで彼をその場に釘付けにすると、ソアラはすぐさま地を蹴ってフュミレイへと飛ぶ。
(!?___小癪な!)
フュミレイの手にはホーリーブライトを維持してなお、強力な魔力が渦巻いていた。しかしソアラの背後にはサザビーがいる。それはフュミレイに反撃をさせないための強かな戦術だった。
「古代呪文___ディガイア!」
フュミレイはドームに広がる光を消滅させると、手を突きだして猛然と叫んだ。すぐさま彼女を包むように白銀の柱が立ち上る。
「だああっ!」
その性質を感じ取ってか、ソアラはフュミレイでなく柱に向かって拳を放った。
ガギッ!
拳と魔力の柱が激突し、火花を散らす。古代呪文ディガイアが作り出したのは鉄壁の防御壁だった。
ズガガガガガ!
だがソアラは構うことなく柱を打ちのめしていく。突き出した両腕に筋を浮き立たせ、フュミレイは歯を食いしばって猛攻に耐える。
(ドラグニエルか!?壁の魔力を直に抉ってくる___!)
本来であれば、この呪文はあらゆる物理攻撃を受け付けない。しかしソアラはドラグニエルを変形させた鱗の爪、鱗のナックルで殴りつけてくる。竜装束に秘められた魔力に似た力は、少しずつでもディガイアを綻ばそうとしていた。
「ちっ___」
ソアラが舌打ちした。次の瞬間、彼女の手には黄金の輝きが迸っていた。
(竜波動___!)
それを見たフュミレイの右手に黒色が走る。
(これを待っていた___!)
光には闇だ。レッシイとの出会いで証明したように、レイノラの薫陶を受けた闇の力であれば竜波動には耐えられる。むしろ反撃の隙を生むだろうこの攻撃をフュミレイは待っていた!
「竜___!」
手を振りかざし、叫んだ次の瞬間。
ダッ!
ソアラが地を蹴った。
「!!?」
フュミレイは目を疑った。彼女は突如としてサザビーと彼の治療に駆け寄っていたミキャックに矛先を変えたのだ。
「しまった___!」
フュミレイが壁を解き、魔力を攻撃呪文へと切り替える。そして彼女は改めて自分の失敗を思い知ったのだ。
「波動!」
ソアラの右手でエネルギーが爆発する。それはドームの床に打ち付け、彼女の体に強烈な推進力をもたらした。フュミレイが目を見開いたその時には、強烈な肘打ちが彼女の胸元にめり込んでいた。
「かはっ___」
フュミレイの口から血が弾ける。堅いものを砕いただろう鈍い音もしていた。ソアラはディガイアを解かせるために竜波動でサザビーたちを襲う素振りを見せた。だが彼女のターゲットにブレはない。はじめから、彼女はまずフュミレイだけを狙っていた。
「厄介な相手から先に倒す。敵の弱点を突く。戦いの基本___!」
「!」
壁際まで吹っ飛ばされていたフュミレイはまだかろうじて立っていた。
ズンッ!
「っ!かはっ___!」
胸への一撃が息を詰まらせ、悲鳴を奪っていた。しかし細い二の腕に差し込まれたドラグニエルの爪、苦痛に歪んだ彼女の顔を見れば、危機は明らかだった。
「あああ!」
だが気合い一閃の拳がソアラを飛び退かせる。ミキャックの一撃は空を切ったが、ソアラをフュミレイから引きはがすのには成功した。しかし___
ボト___
「___!?」
ソアラの爪はすでに深々とフュミレイの腕を食らっていた。去り際にそれを引き動かせばどうなるか。フュミレイの右腕は転げ落ち、彼女は赤い血にまみれた青ざめた顔で荒い息を付いていた。
「そんな___」
その情景に、ミキャックは言い得ぬ憤りを覚えた。フュミレイを無惨な姿へと追い込みながら、些細な悲哀も見せない竜の使い。信じてきたものを全て踏みにじられたような感覚、ソアラをこうも変えてしまったフェリルという存在、今の今までどうすべきか分からずに何もできなかった自分___全ての憤りが、彼女のなかで忘れていた何かを呼び覚ました。
「ソアラあんたは___竜の使いの使命まで忘れて!仲間を傷つけて___!」
怒りに震えるミキャックの目にはうっすらと涙が光っていた。何よりの怒りはフェリルの意のままに墜ちているソアラの不甲斐なさにあった。
「あたしが___!」
ミキャックは腰にぶら下げていた筒を握ると、一念を込めて振りかざす。すぐに筒は長く伸び、先端には三つ又の刃が現れた。
「あたしが帝様のことを思い出させてやる!」
ミキャックは一気に槍を振り下ろした。三つ又の軌道そのままに、床に波動が走る。
ゴッ!
しかしソアラが黄金の輝きを膨らませると、彼女に迫る波動は一気に砕けた。だがそのすぐ後ろに、ミキャック自身が迫っていた。
「たああっ!」
高速の槍がソアラの顔面を狙ったが、ソアラは簡単に見切り、刃は背後の壁に突き刺さる。だが槍は囮、本命は魔力の籠もった左の拳だ!
シュッ!
ソアラは冷静だった。左足の蹴りでミキャックの左拳を外側へ蹴り上げ、体勢を崩させ、しかも胴をがら空きにさせる。ソアラの両腕はまだ自由だから、次の一手は決まっていた。蹴り上げた勢いのまま身体を捻り、左手のクローで脇腹に抉り込む!
「!」
しかしソアラの爪はミキャックの腹に届かない。練闘気の糸が密やかに彼女のクローに絡みついていた。ミキャックの翼に隠れるようにして、サザビーがピタリと後ろに付けていたのだ。至近距離からの練闘気は先程のように脆くはない。
「やれ!」
「呪拳エルクローゼ!」
サザビーに言われるまでもなく、ミキャックは仰け反らされた勢いを借り、長い足を伸ばしてソアラの顎を蹴り上げていた。接点で火花のような光が迸ると、ソアラの足から急に力が抜け、彼女はその場に崩れ落ちた。
体の内に呪文を流し込むミキャックの秘技。足や羽根でも駆使できるようになっただけでなく、使える呪文の幅を広げることでさらに威力を増した。どんな攻撃呪文でも大した意味を成さないだろう竜の使いを相手に、睡眠呪文に活路を見出したのは彼女のひらめきだった。
「やった!」
ソアラの動きを止めたことをミキャックは素直に喜んだ。だがそれは一瞬の歓喜でしかない。
「まだだ!」
そう叫び、サザビーはミキャックの腕を引いて彼女と体を入れ替える。その両腕に鎧代わりの練闘気を満たし、突如跳ね起きたソアラの爪を受け止めた。
「ぐっ!」
衝撃で、サザビーはミキャックごと後方に弾き飛ばされる。身を預けられるような姿勢になったミキャックは、彼の腕に深い裂傷が刻まれたのを目の当たりにし、凍り付いた。
「前!」
「!?」
しかしサザビーの声で我に返る。跳ね起きたソアラの追撃が目前にまで迫っていたのだ。
ギュンッ!
体勢が崩れていた状態ではやり過ごしようもない。しかし黒い光線がソアラの額にぶち当たり、彼女を背後の肉壁まで一気に吹っ飛ばした。落とされた腕を途中まで繋いだ状態で、フュミレイが放ったのは無色の魔力に闇の力を纏わせた破壊光線だった。
「助かったぜフュミレイ!」
「いや___大して___効いちゃいない___」
胸の傷も癒えていないのだろう、フュミレイの声はとぎれとぎれだった。そしてその言葉通り、肉壁に深く体をめり込ませたソアラがゆっくりとその身を引きはがす。額には黒いアザと薄い血染みが覗いていたが、失せることのない黄金の輝きであっという間に消し飛んでしまった。
「さてどうする?ソアラもそうだがまずあのドラグニエルだ。おまえのエルクローゼは確かに効いてたが、あの服が邪魔しやがった。」
さしものサザビーも苦い笑みを浮かべていた。竜の使いを浄化するはずのドラグニエルが、敵の術中にあるソアラを正気に戻すどころか、彼女の狂気に荷担している。そこが問題だった。
「そうだ___ソアラは___んっ___操られているわけじゃない。」
間合いが生じた隙に、フュミレイも二人の側へと寄った。血の塊を吐き捨てると、彼女の口調も幾らか滑らかになった。
「大丈夫か?」
「七割戻った。」
右腕の裂け目にはまだ赤い筋が走っていたが、フュミレイは意に介していない様子だった。
「それよりもソアラをどうする?あれを捕らえてここから連れ出すのは難しい___」
「確かにな___ましてフェリルがどっかで見ているはずだ。」
知恵者二人をもってしても良策はなかった。ソアラが正気でありながら三人を殺そうとしていることが活路を消していた。オルローヌ神殿の戦いでは効果のあった浄化呪文が通用しない時点で、ほぼ手詰まりだった。
力ずくでソアラを倒すしかないのか?果たしてそれができるのか?
「浄化呪文でこの肉は消せるよな?逃げて外まで導くってのはどうだ?」
「そんな凡ミス___フェリルがさせると思うか?」
「そだな___」
「ましてソアラは黄泉の時のより強くなっている。」
「___本当かよ?」
「おそらくフェリルがそうさせた___」
「ああ___なるほど。」
命を殺めればそれがそのまま自らの強化となる世界だ。ソアラは望まずともそれを強いられていたのだろう。
「あたし___」
万策尽きたかに見えたその時、ミキャックが呟いた。視線の先では、ソアラが一つあくびをしてから何度か首を回し、余裕の顔で残った眠気を消し飛ばそうとしていた。
「試してみたいことがある___」
「なんだって?」
「駄目元だけど___もしかしたらできるかもしれない。」
そう言いながら、ミキャックは胸元に手を差し込んだ。
「おっ、色仕掛け?」
「んなわけないでしょ___」
取り出したのは竜の紋章の首飾りだった。五角形の盾を象り、その中心に黄金の竜の雄々しき姿がある。
「竜神帝か?」
「うん、実は___」
短い密談。だがソアラは待ってくれない。
「エクスブラディール!」
瞬時に両手に満たされた魔力で、最大級の爆発呪文を放つ。
「散れ!」
フュミレイの声でサザビーとミキャックは素早く飛び退いた。当のフュミレイは身の丈の倍はある白熱球に対して真正面に向き直ると、ゆらりと両手を翳した。
「古代呪文___アルアバレア!」
その体が白と黒の斑のオーラに包まれると、彼女は叫んだ。突き出された両手が白熱球に触れる。本来爆発するはずのそれは、まるで巨大なマシュマロのように、歪みながらフュミレイの掌に凭れていた。
「___!?」
「相手と同量の魔力をぶつけることで相殺の歪みを作り、自在にコントロールする。扱いの難しい呪文だが、魔導で遅れを取る訳にはいかないよ。」
驚きでソアラの足が止まった。フュミレイが巨大な白熱球を軽く叩くと、それは瞬時に無数の小球へと姿を変えたのだ。
「バラバラにしてお返ししよう。」
その数、五十はあるだろうか?エクスブラディールが大量のディオプラドとなってソアラに降り注いだ。さしものソアラも怯んだが、壮絶な光の乱舞の中で、ドラグニエルの黄金竜が一層目映い輝きを放つ。そして胸の竜から黄金の鱗が沸き上がると、ソアラの体の前に連なって瞬時に盾を作り上げた。
ドガガガガガ!
壮絶な爆破の連続が迷宮そのものを揺さぶる。再生しつつあった肉の壁を再び細切れに吹っ飛ばし、石の壁が露わになったドームに静寂が戻るまで、五秒ほど掛かった。
「ちっ___」
フュミレイは舌打ちした。爆煙の中から現れた黄金の壁はビクともしていなかった。ゆっくりと鱗が解れ、ソアラは再び殺意の籠もった瞳で三人を睨み付ける。
フュミレイの側にはサザビーとミキャックが舞い戻っていた。それどころか二人はフュミレイの前に立ち、ソアラに向き直っていた。
グンッ___
ソアラが腰を落とす。勝負を付けるべく、肉弾戦に切り替えるのだ。対する三人は身構えることをしない。
「来るぞ!」
ソアラが弾けた。手応えの良くなった床を蹴り、クローを煌めかせて一気に三人に迫る。対する三人はその場を動かなかった。
「ディガイア!」
フュミレイが防御の柱を作り出す。だが力押しで崩せることを証明したソアラは、再び構わずに光の柱に猛烈なラッシュを仕掛ける。
「ぐ___!」
傷の影響だろう、柱は先程以上に脆くソアラの拳に食い進まれていく。だが柱の効果は時間稼ぎで十分だったのだ。
「行くぞミキャック!」
「ええ!」
サザビーは練闘気を走らせ、ミキャックの体を柔らかな光に包み込む。そしてミキャックは、右手に握りしめた首飾りの紋章を真っ直ぐ前へと突き出した。ディガイアの柱から飛び出した腕に、ソアラはすぐさま斬りつける。傷は走ったが練闘気が深手を許さない。ただミキャックの拳もソアラには届いていなかった。
「ホーリーブライト!」
フュミレイが呪文を切り替える。柱が霧散すると共に神々しい輝きが三人を、ソアラをも包み込む。それはミキャックの握る竜の紋章を一層輝かせ、ソアラの豊かな胸に隆起して見える刺繍の竜を目映く煌めかせた。
「鎮まれ!」
戸惑いがソアラの動きを一瞬だけ止めた。その時に、ミキャックは叫んだ。
「我は竜の大帝より許されしものなり!荒れ狂う竜よ!大帝の意志に従え!!」
ホーリーブライトの光を集めているのだろうか、言葉に呼応するように紋章の竜が目映く輝き、目前のソアラを照らしていた。
___
「決意したか?」
「はい。」
もう何十年も前のこと。今でも若いがそれ以上に、まだ幼くも見えるミキャック・レネ・ウィスターナスは、慣れない上席官の礼服を身に纏い、竜神帝の前に跪いていた。
場所はドラゴンズヘヴン。若くして波瀾万丈の道を歩んできたミキャックは、今まさに全ての苦労の報いを受ける瞬間に立っていた。その力を神に認められ、竜神帝の副官の任を命ぜられたのである。
「私は帝にお救いいただきました。力不足ではありますが、ご恩義に報いるためにも___」
「それは違う。報いるべきは私ではなく世界だ。」
「それは重々承知しております。ですが、やはり私は帝様への感謝をないがしろにすることはできません。日々感謝させてください。そしてできる限り帝様のご意志を知り、皆に明確に伝えること、それが私の重大な使命だと考えています。」
「___うむ、良い志しだ。」
偉大だけれど、玉座に座ると床に足が届かない幼竜は満足げに頷いた。
「これを。」
そしてどこからともなく取りだした首飾りを、ミキャックに差し出す。それは偉大なる竜神帝の本来の姿だろう、雄々しきドラゴンの描かれた紋章だった。
「竜王印だ。」
「りゅうおういん?」
「我が側近の証だ。人に見せつければ誰しもがハハァ〜と言って平伏す___といったものではない。」
「___」
真剣な相手に冗談は禁物。竜神帝は軽く咳払いしてから続けた。
「おまえは優秀なドラゴンテイマーでもあるが、あらゆる竜をその手に預かることはできまい。竜王印は竜の神の意志を体現するものだ。すなわち、おまえの言葉を私の意志に変え、竜に伝えることができる。」
「___そんな畏れ多いものを!」
「私の信頼の証だ。私の心を知るもの、私の認めたものでなければ、それを握って何を叫ぼうと意味は成すまい。今日という日の記念だ、受け取るが良い。」
竜王印。以来、ミキャックはそれを心の戒めとしてきた。「王の審判を知っているか?凶悪な竜の前に、印だけ握らせて立たせるのさ。帝に従わない悪い子はそのまま食われておしまいさ」___意地悪な先輩がそんなことを言っても、彼女は意に介さなかった。
普段、天界の執務室の引き出しにしまっていたそれを、心が疲れたときに取りだして眺める。すると不思議と勇気が沸いてきたものだった。
「帝様___」
その後、天界の戦いで帝は倒れた。新たな旅立ちを迎えるとき、ミキャックは大きな心の支えを一つ失っていた。
「そうだ___」
折れそうな心を奮い立たせるために、彼女は引き出しを開けた。そして初めて、竜王印に首を通した。不思議な感触は何もなかった。冷たい机の中で眠っていた紋章は、胸の谷間をひんやりとさせただけだった。
それでも、彼女はとても勇気づけられた。失ったはずの帝が、いま自分の背を叩いてくれたような気がした。
「よし___!」
そして彼女は旅立つ勇気を得た。
___
ミキャックは今初めて、荒ぶる竜を鎮めるために竜王印の力を使った。竜神帝が彼女の気を引き締めるために渡したものと思っていたから、本当に効果があるかどうかは定かでなかった。でも、今はこれに賭けるしかなかったのだ。
「ふざけるな___!」
光はソアラを激しく照らす。しかし彼女は目映さに顔をしかめただけだった。煩わしそうに手を振り上げ、渾身のクローをミキャックの手に振り下ろす!
シュッ___!
「!?」
しかしクローは空を切った。いや、正確に言えばクローが消えたのだ。ソアラには何が起こったのか理解できなかった。しかしミキャックは確信している。竜王印は確かに効力を発揮していた。
「衣の竜よ!我が意志に従え!道を誤りし竜の子を正しき道へと導くために!」
ソアラは半分妖魔だ。まして竜の使いの中にはソアラの母のように帝に反目したものもいる。ミキャックの狙いははじめから「ドラグニエル」を従えることにあった。
ドラグニエルの中には竜が棲んでいる___そう言ったのはレイノラだったかソアラだったか、それすら定かでないような雑談の一言が、唯一の拠り所だった。
「ぐ!?うぐぅぅぁぁ!?」
ソアラが呻き、顎を突き上げて悶絶した。
「ドラグニエルが___!」
サザビーもフュミレイも目を見開いていた。ソアラの体にフィットしていたはずのドラグニエルが急激に収縮し、彼女の体を締め上げはじめたのだ。まるで刺繍の竜が彼女の体に巻き付くように、装束はどんどん肉に食い込んでいった。
「こんなことが___おまえまであたしを裏切って___!」
苦しげにソアラが吐き捨てた言葉は、彼女がいかに凄惨な仕打ちを受けてきたかを物語っていた。こうなる前に助けられなかったこと、救いの手を差し伸べられなかったことを、その場にいた誰もが後悔した。
「ううう!」
ドラグニエルの締め付けに、ソアラは手足を曲げて反発する。黄金に輝く二つの竜は、激しく鬩ぎ合っていた。
その時だ___
『意識を断つ。よろしいか?神の僕よ。』
ミキャックの脳裏にどこからともなく重厚な声が響いた。ハッとしたミキャックはフュミレイとサザビーを振り返るが、二人には何も聞こえていないようだった。
(今のがドラグニエルの竜の声!)
そう確信し、ミキャックは前を向いた。一層力強い眼差しで、声高に言い放った。
「衣の竜よ!大帝に代わって承る!荒ぶる竜の子を鎮めよ!」
次の瞬間だった。ドラグニエルがソアラの体をねじ切らんばかりに一気に締め上げる。拮抗していた鬩ぎ合いはあっけなく終わり、天を仰いだソアラの髪が紫色に変わる。
「___!」
普段は胸元にいる竜の頭が、捻れてソアラの肩の後ろにまで達していた。たまたまかも知れないが、ミキャックには刺繍の竜が服から飛び出して、ソアラの首に食らいついているように見えた。
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