1 立ち向かう強さ

 武神ヴァルビガンの死後、世界は激震に見舞われていた。Gが矛先を変えたのだ。彼は神ではなく、突如いずこやの都市に現れて、人々を破滅の輝きの中に葬り去る。まさに全世界に殺戮の恐怖を広げたのである。これにはさしものジェイローグも焦った。何しろ敵は完璧に気配を消す。それこそ、探求の神オルローヌの力を持ってしても暴けない。
 「今まで俺の目を欺けたのは夢幻の女神リュエラだけ、俺の鼻と耳を欺けたのは隠者神セロだけだ。」
 オルローヌはそう嘆いた。その二人は、すでにGの餌食となっている。
 世界が恐慌した。Gの矛先に例外はない。誰もが神を超えた存在の裁きを恐れた。そして神の権威は失墜し、敬虔なる神官たちでさえ自棄のあまり務めを捨てる者が現れた。神々は焦燥に駆られた。もはやなりふり構ってはいられない。ジェイローグへの協力を厭わないことはもちろん、自らもGに対抗し、人々を守るために最大限に努めなければならない。
 今、バルディスは創世以来の危機に陥ったのである。
 とはいえ、すべての人々が毎夜明日を迎えられるかと震え上がっていたわけではない。今そのときを楽しむ人々は、いざその身に恐怖が降りかかるまで、人ごとのように思っているものである。ただ、中には意図して人ごとであろうとしているものもいた。
 「みんな震えているよ。僕たちは今とても幸せだけど、これがいつ崩壊するかわからない。僕たちはそんなこと望んでないのに___とんでもない話だよね。」
 「うん___」
 そこは小さな田舎村。木組みの家に住むのは、若い男。木こりという仕事に熱意を燃やし、常に実直に木と向き合う男。日焼けした肌と、隆々とした腕こそ彼の誇り。気は優しくて力持ち、そんな言葉が似合う男。彼の名はジウラル・サリード。体格が大きく、人並みはずれた力をもつ、拳族の青年である。
 「みんな神様がだらしないと言うけど、僕は違うと思う。僕たちだって何かできることをするべきだし、神様の力になれるように祈るべきなんだ。」
 「もうその話はやめよう。」
 彼と同じソファに腰掛ける女は、一方的に話を断ち切った。らしくない彼女の態度にジウラルはきょとんとした顔をする。
 「どうしたのレッシイ?」
 困惑を隠せずに、彼の顔を直視できなかったのはベル・エナ・レッシイ。黄金の頭髪と、赤い染料でつけた頬の彩りが印象的な女。ジェイローグとレイノラの娘であり、セティの双子の妹。
 「その話、怖いから嫌なんだ。」
 「フフ、珍しい。君にも怖いものがあるんだ。」
 ジウラルはごく自然にレッシイの肩を抱き、レッシイは彼の胸に身を委ねる。それは恋人同士の姿。
 「ねえ、キスしたい。」
 「え?」
 ジウラルの答えを待つまでもなく。レッシイは彼に唇を押し当てた。驚いたジウラルもすぐに彼女を抱きしめて、長い口づけの時。
 「どうしたの?急に。」
 「そういう気分なの。あたしたちは今幸せだって、それを感じたくて。」
 レッシイはすでに獣人族の長リコシベリの元から独り立ちしていた。彼女は木こりの務めで獣人族の里をたびたび訪れていたジウラルと恋に落ち、そのまま駆け落ちさながらで里を出たのである。
 彼女がジェイローグへの協力を拒んだ理由。それはいまさら神の子だから手を貸せという横暴に嫌気がさしたこと。もう一つは、恋人と過ごす今を失いたくなかったこと。彼女の中での重みは、後者がより強かったかもしれない。
 世界の危機にはできるだけ耳を貸したくなかった。ジウラルの正義感に触れると、罪の意識に苛まれる気さえした。彼女は自分たちの世界だけ、バルディスから切り離せればどんなに良いかと思っていた。
 しかし現実とは残酷なものである。たとえそこが片田舎だろうと、Gの矛先は世界すべてに向いている。彼女は否定し続けているが、いずれ悲劇が襲うことを予感していなかったかといえば嘘になる。
 だからその瞬間、彼女は絶望する。憤慨する。懺悔する。
 戦える力があるのに戦わなかった戒めか。殺戮の輝きから彼女一人が生き残ったそのとき、思い知るのだ。
 「うわぁぁあああっ!」
 無惨にも荒れ野と化した村の有様をみて、全身を血で染めたレッシイは絶叫した。Gは前触れもなく現れ、村に破滅の雨を振らせた。降り注ぐ魔道の力に人々は一様にその身を昇華させる。あれほど壮健だったジウラルさえも、一瞬で死を迎えた。
 耐えることができたのは神の子であるレッシイだけだった。すべてを失い、自分だけが生き残った。
 現実は彼女を戦いの場へと引きずり出す。ただレッシイはまだ認めたくなかった。彼女は強い気性の持ち主にみられるが、実のところそれは虚勢かもしれない。本当に強いのは、運命に対して真っ向から立ち向かう、ジェイローグやセティのような者。彼女にはその勇気がなかった。堪え忍ぶ根気さえなかった。
 Gに対する怒りはあった。だが、彼女の身はジェイローグの元へは動かなかった。

 「お願いです、リシス。世界に今何が起きているのか、それだけでも教えてください。私はもう十分に、立ち上がるだけの生気を取り戻しています。」
 外界から一切を遮断された神殿。その神殿を包む未開の森。森の女神リシスの居場所は、Gの目を免れるには最適の場所だった。ただ、そこはレイノラにとってもはや地獄である。
 唯一分かることは、未だにここから出ることを許されない状況。それはつまり、あの狂者はまだ世に憚っており、神をもってしても排除がままならないことを意味している。だから余計に焦り、不安に駆られ、戦慄とするのである。もはやこんな日々は耐え難かった。しかし、老いた女神リシスは決して彼女の願いを聞こうとしなかった。
 「今はそのときではない。その窶れた顔で良くも言えたものよ。」
 リシスはレイノラの部屋に顔を覗かせていた。ここまで引っ張り出しただけでも大した努力だったが、森の魔女とでも呼ぶのがふさわしい老神は、若干の怒りを交えてレイノラを叱責するだけだった。確かに、レイノラは未だに憔悴の極みにある。だがこの環境がそれに一層の拍車をかけているとは、リシスは考えていないようだ。
 「む___何者かがやってくる。」
 「え?」
 「いやこれは___」
 一瞬皺を深くした老神だったが、強ばりはすぐに解けた。程なくして、部屋の一角の入り組んだ木々が動物のように蠢いて左右に捩れ、通路を開く。駆けてきたのは以前ここを訪れた少女、レッシイだった。
 「あなたは___」
 レイノラは彼女を良く覚えていた。短いやり取りだったが、彼女に感じた親近感は明白だったし、何よりリシスに関わらない者では彼女しかここを訪れていない。ただ、それにしてもなんと悲しげな顔をしているのだろう。傷だらけの彼女は涙を堪えることに必死で、唇を噛み、鼻を啜っていた。
 「どうしたの?」
 敵意や危険など感じるはずがない。そればかりか、そっと抱きしめてあげたくなった。その思いが通じたのか、レッシイは感極まって彼女の胸に飛び込んだ。思いを剥き出しにした慟哭が響いた。森の外まで響くのではないかと思うほど、レッシイは声を上げて泣いた。縋られたままベッドに尻餅をついたレイノラは、最初の瞬間だけ戸惑っていた。しかし、なぜだか胸が締め付けられる思いがして、自然に優しく彼女の頭を撫でていた。
 リシスの手で傷の治療を済ませ、レッシイが身の上を明かしたのは、涙が枯れてからのことだった。すると今度はレイノラが涙を零す。そして母と娘は改めて、きつく抱きしめあった。とどまるべきでないと感じたのだろう、リシスは抱擁を暖かな目で見やると、姿を消した。
 レイノラは娘の口から初めて、世界の現状を聞いた。しかしレッシイはできるだけGの話題に耳を貸さないようにしていたから、その情報は貧困で、認識も正確でない。それでいながら、彼女は憎しみに由来する闘志を滾らせている。その感情は実に盲目的だった。
 「あたしがあの化け物を倒す。親父じゃない、あたしがやってやる!」
 ベッドに隣り合って腰掛け、レッシイは声高に言った。拳には傷が開くのではないかというほど力が込められていた。
 「いけません。」
 「なんで!?」
 だがレイノラは実に冷ややかだった。自分の心に勇気を与えてほしい、激励の言葉を望んでいたレッシイは派手な手振りで問い返した。
 「ジェイローグが苦闘を強いられている相手に、あなた一人では何もできません。」
 「そんなことない!あたしは神にだって負けないくらい強くなった!あんな___母さん一人幸せにできない男よりもずっと!」
 パンッ!
 勝手な言動を繰り返すレッシイの頬を、レイノラは構わずに張った。だがそれは苛立ちによるものではない。感情的な我が子を諫めるのに、効果的な一手を打っただけだ。
 「侮辱は許しません。」
 レッシイはただ呆気にとられ、桃に色づいた頬に手を添え、レイノラの厳格な顔つきを見た。
 「あなたのお父様は自らが正しいと信じた道を進まれています。その先にあるのは世界中の幸せです。」
 「でも___なら母さんがここで寂しい思いをしていて、あいつはそれきりで___そんなの、どこが幸せなのよ!?母さんはどうなってもいいの!?」
 「私はジェイローグを信じています。」
 レッシイは言葉を失った。レイノラの言葉があまりにも自信に満ちあふれていたから、余計に驚いた。
 「___あたしは幸せじゃなかった___あたしは神の子だって特別視されて、そんなのちっとも望んでないのに!やっとしがらみから逃れて、あたしを一人の女と見てくれる人に出会って___なのに___なのに!」
 顔はくしゃくしゃになっても涙は出ない。レッシイは髪を掻きむしり、行き場のない蟠りをぶつけた。
 「辛いのでしょう。でも、あなたは耐えなければならない。自分が成すべき事に誇りを持ちなさい。例え辛くとも、立ち向かう力を持つあなたは戦わなければならない。そうでなければ、また悲しみを深めるだけです。」
 厳しい。レッシイは母から目を逸らし、あからさまに項垂れた。取り繕う気にもなれなかった。慰めて欲しいのに、彼女は優しくしてくれなかった。
 「___もういい。」
 「レッシイ、ジェイローグの力になって。あなたが一人で敵に挑んでも、それは父さんを惑わすだけ。」
 「___」
 「お願い、レッシイ。」
 彼女の横顔に呼びかけるレイノラ。やがて___
 「馬鹿だよ。」
 レッシイは愚痴るように呟いて、立ち上がった。
 「あたしは愛している人といつも一緒にいたい。なのに母さんは___」
 「それは私も同じよ。でも、離れていても私たちの愛に変わりはないと信じています。たとえ離ればなれでも、私が彼の妻でなくとも___」
 神が語るにはあまりにロマンチストな言葉で、レッシイは呆れた様子で天を仰いだ。
 「本当___母さんって大馬鹿。」
 「そう?」
 レイノラが微笑んだ。その笑みに触れただけでレッシイの心には一陣の薫風が吹き込んだかのようだった。
 「母さん、あたしの愛する人は死んじゃったんだ___あたしはこれからどうすればいい?誰を愛すればいいの?」
 「父さんを愛して。」
 「___」
 レッシイは小さな溜息をつき、レイノラに背を向けた。だが彼女をはもう下を向いていない、苛立ってはいたが前を向いていた。
 「わかった___親父には会いに行く。でも、ちょっとだけ試させてもらう。」
 振り返ることもなく去っていく娘。その背中が入り乱れた木々に遮られるまで見送ると、レイノラは一際憂いの走った顔で深く息を付いた。
 本当は心ゆくまで慰めてあげたかった。だが今はその時ではない。ジェイローグともう一人の娘セティが挑む現実を、彼女は知らねばならない。己の成すべき事を疎み、逃げるのは罪である。恋人を失ったのはその罰やもしれぬことを知らねばならない。

 ルグシュ宮殿。ジェイローグとレイノラの悲運のきっかけとなったこの宮殿に、悲劇のヒーローが舞い戻ってきた。世界中で最も光の力を結集しやすいこの場所は、ジェイローグにとって己の力が最も高まる場所でもある。Gを倒すために、彼は過去を克服したのだ。
 「貴様何やつ!」
 「あたしの顔見て分からないのか!?」
 「怪しい奴め!」
 「うるさいな!黙って道を開けろ!」
 「!?こ、これは!」
 宮殿の入り口が妙に騒々しい。たまたま通りかかったセティは怪訝な顔をしてそちらを振り返る。すると___
 「!?」
 黄金に輝く小柄な女が肩を怒らせてやってくる。面識こそ深くはないが、良く知る人、レッシイだった。
 「レッシイ!?」
 「姉貴か!」
 レッシイもセティを見つけ、厳めしい顔つきのままでやってくる。
 「戻ってきてくれたのね。」
 「___つくづく羨ましいよ、そういう良い子ちゃんなとこ。姉貴まだ処女だろ。」
 「なっ___」
 セティはレッシイの翻意を喜び、彼女を抱きしめようとする。しかしレッシイは嘲笑を浮かべて彼女の腕をすり抜けた。
 「親父は?戻るかどうかは親父と会ってから決める。」
 そのまま神殿を奥へと歩き出したレッシイ。久しぶりの再会でいきなり辱められたセティは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに気を取り直して彼女を追った。

 その時、ジェイローグは傷の治療をしていた。祭壇に降り注ぐ穏やかな光を浴びて、Gとの戦いでその身に受けた傷を癒していた。目を閉じて祈るようにしている父の元へ、レッシイは無言で歩み寄った。
 「親父。」
 「レッシイか。」
 ジェイローグは目を開けた。祈りの姿勢はそのままに、祭壇から我が娘を見下ろした。
 「親父、何であのときあたしを止めなかった。腕ずくでも止めれば、あたしだって少しは考えた。」
 静かなやりとりだった。レッシイは傍らで見守るセティの心配をよそに、落ち着いていた。
 「止めるつもりはなかった。」
 そしてジェイローグの答えも落ち着いたものだった。考える時間もなく、彼は手短に答えた。
 「誰が望んで、娘を命の危険に曝したいと思うものか。」
 「___」
 その答えはレッシイの想像していたものと違った。父は、この年まで顔も知らずにいた我が子に対して負い目を持っていて、それで強く言うことができなかったのだと思っていた。
 「父上は私にも何度も身を引くように言われたわ。でも私は断固引き下がらなかった。だから今私はここにいる。」
 セティの言葉が背中に響く。俯いたレッシイは、小さく首を横に振った。顔を上げたその時、彼女はうっすらと涙を浮かべてすらいた。それでも真っ直ぐに、レッシイはジェイローグを見据えて続けた。
 「親父。今すぐ母さんに会いに行ってほしい。」
 「___」
 「母さんはずっと心配してるんだ。だから元気な顔を見せてやってほしい。Gが心配なら、それは___帰ってくるまではあたしと姉貴で何とかしてみせるから。」
 「___わかった。」
 治療もそこそこに、ジェイローグはすぐにリシスの森へと飛んだ。これまでGに対して警戒に警戒を重ねてきた彼にしては、やに軽率な行動。おそらく彼自身、レッシイの言葉に突き動かされるものがあったのだろう。
 そして___
 (一番馬鹿なのはあたしだ。あたし一人だけガキだった___)
 父が去った祭壇を寂しげに見つめるレッシイ。その肩にしなやかな手が触れる。
 「レッシイ。」
 「姉貴___どうやったら素直になれるのか、教えてよ___」
 「?___こうかな。」
 セティはレッシイの身体を優しく抱いてやる。そうすると心の澱みが洗われていくようで、レッシイの目からは自然と涙が零れていた。

 深い森の奥の奥。訪れた二人目の客人をリシスは「遅かったじゃないか」と皮肉りながら、満面の笑みで出迎えた。入り組んだ木々の垣根が開き、ジェイローグの前に道が開ける。そして、女神の横たわる寝室へ。
 再会の瞬間、二人の胸に飛来したものは激しい衝動だった。目があった瞬間、レイノラは飛び跳ねるようにベッドから身を起こし、ジェイローグも駆け出していた。こうして抱きしめ会うのはいつ以来だろう。少しでも多く、身体を付けあいたい。もう二度と離れないように、二人は頬を寄せて抱きしめあった。
 一頻りの衝動が駆け抜けて、漸く二人は頬を離し、鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。そして、ジェイローグはレイノラがいかに窶れたかを知り、レイノラはジェイローグの悲愴と逞しさを知る。
 「すまない___もっと早く来るべきだった。」
 「___ぁあ___」
 レイノラの声は言葉にならず、噎ぶように彼女は泣いた。
 「___会いたかった___会いたかった___」
 「もう離れることはない___どんな困難があろうと、君を離したくない___」
 互いの心に欠けていた重大な何か、その空白が急速に埋められていく気がした。そしてレイノラは失われていた活力を取り戻し、ジェイローグはGと対峙するあまり見失っていた心のゆとりを得た。それは二人を強くする。
 愛の高ぶりに任せて深い口づけを交わすと、ジェイローグの体からは光が溢れ、それを中和するようにレイノラの体は闇を纏う。相容れないと言われていた二人の神の力は、溶け合うように一つとなり、互いの内なる部分を駆けめぐる___
 そして二人は強くなった。
 「私も戦います。」
 「しかし君は___」
 「いつまでも恐れているわけではないわ。それに___Gの正体について、多少の心当たりがあるの。」
 これまでは、思い出すことを無意識に拒んでいた。様々な恐怖が一挙に蘇りそうで、一人ではとても思い出せなかった。でも今は違う。ジェイローグと共に強さを取り戻したレイノラは、あの手紙について思い出すことにした。
 それはロイ・ロジェン・アイアンリッチからの手紙。ルグシュ宮殿を守れなかったジェイローグがセサストーンへ堕ちた後、彼女の元へ届けられた犯行を示唆する手紙である。




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