第1章 いにしえの物語

 レイノラの寝返りは竜神帝の復活を呼び、そして冥府の後退へ。ここまで何ら滞りなく進んでいた天界滅亡計画は、一つのきっかけから脆くも崩れ去った。アヌビスを黄泉に残し、実質この計画の主導を取っていたダ・ギュールにしてみれば実に臍を噛む思いだったろう。普段動かぬ身を押して、自らレイノラの始末を狙ったのだから余計に。
 「口惜しい結果だ___」
 崩壊した冥府の核の神殿。周辺には未だに忌々しい光の筋が泳いでいる。ダ・ギュールが憎らしそうに睨むとそれは弾けて消えた。光の余韻が冥府の闇に歪みを生む。それが大気を蠢かせ、ささやかな真空がかまいたちとなって肌に痛みを走らせる。
 今はまだ綻びでしかない。だが、それはやがて崩壊となる。
 「冥府は滅びる。」
 ジェイローグを侮っていたわけではない。唯一の過ちはレイノラを天界に帰還させたこと。失敗を作ったのはアヌビスの気まぐれだった。
 だが、だからといってダ・ギュールの忠義が揺らぐことはあり得ない。そしてアヌビスも、彼を咎めることは決してしない。この状況を悲観することさえしない。
 「派手にやられたな。」
 彼にとってこれは通過点でしかないのだ。それを彼自身も、ダ・ギュールも分かっている。だから黄泉にいるはずの黒犬が、例によって飄々と現れても驚きさえしない。
 「お帰りでしたか。」
 久方ぶりに冥府に舞い戻ったアヌビスは、ニヤリと口元を歪める。しかし悠々とした面持ちとは裏腹に、彼の身体にはいくつもの生々しい傷が開いていた。そしてその肩には、気を失う乙女が。
 「俺のことを愛でてくれる奴を、失いたくないんでね。」
 彼が抱いているのはテイシャールだった。冥府の核に魔力を注ぎ続けた女は、ジェイローグの光を前に絶命を覚悟した。
 「直撃でもないのにこの様だ。まだまだ俺はジェイローグほど強くない。」
 彼女は命が紡がれたことを知らない。覚悟の末に意識を遮断した後、時を止めたアヌビスの手で救われたのだ。しかし時を止めていられる時間には限りがある。直撃ではなかったとはいえ、冥府を崩壊に導くほどの光の力をアヌビスはその身に浴びた。刃を寄せ付けない漆黒の身体が、たかだか余波でこれである。
 「レイノラを導いたことが仇となりましたな。」
 ダ・ギュールの手から黒い霧が広がり、アヌビスの傷を塞いでいく。輝かしさはないが、これも回復呪文のようなものだ。それを身に受けて、しばし長い瞬きをすると、アヌビスは核心めいた笑みを浮かべた。
 「さてどうかな。」
 長い付き合いになれば顔色一つで察しがつくもの。
 「まさか___」
 「そのまさかだ。究極へと続く道を見つけた。」
 邪さよりも、子供のような屈託の無さを見せる笑顔は、アヌビスの好奇心が一層の高見に届いたときに現れる。ソアラとの出会いの時のように。




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