3 死に場所にて
夜が来た。
レイノラはキュルイラの元で鏡と向かい合っていた。日が落ちるとともに、鏡の中のフュミレイからオルローヌの死が伝えられた。敵の名がフェリルであること、天族のような姿をしていること、さらにはソアラの生存、アヌビスの関与、ライとフローラのことも伝えられた。ついでというわけではないが、セラの世界に竜樹がいること、大軍の襲撃を凌いだことも報告した。
その時点でレイノラは一度鏡面を漆黒に戻した。鏡を持つオコン、リシス、リーゼ、バルカンにオルローヌの死とフェリルのことを知らせ、鏡にはまたフュミレイが戻った。フローラの鏡には応答がなかったが、二人の命がアヌビスに委ねられている以上、詮索のしようがなかった。
「ミキャックのクリスタルをソアラの服に仕込みました。それを頼りに、敵に近づきます。」
「合流してからになさい。」
「猶予がありません。クリスタルに気付かれれば不可能になりますし、なにより敵はソアラを握っています。私たちが敵を暴いた上で、可能ならばソアラを取り戻し、そちらに合流します。」
フュミレイはレイノラを相手にしても全く怯む様子すらなかった。
「おまえたちも同意見なの?」
「もちろん。言いだしたのは俺だしな。」
「___あたしも同じです。」
サザビーのケロリとした言い分に比べ、ミキャックは歯切れが悪かった。
「本当に?」
それをレイノラは見逃さない。だがミキャックも今回ばかりは違った。
「はい。このチャンスを逃すべきではないと思っています。レイノラ様は吉報を待って討伐の用意をお願いします。」
毅然とした言葉に、レイノラはしばし沈黙した。
「___分かった。ただし、まずは自分の命を最優先になさい。ソアラを助けるために自らの命を天秤に掛けるような真似はしない。敵___そのフェリルの居場所を掴むだけでも十分な成果なのだからね。」
「肝に銘じておきます。」
フュミレイとサザビーの声が揃った。この二人が言うと真実味の欠片もないので、レイノラは思わず苦笑した。
「敵は結界術の達人でもあるムンゾの能力を身に着けている。たとえ帰還のクリスタルといえど、うまく近づけるとは限らないわ。もし敵の居場所の周辺で侵入を断たれれば、たちまち危機に陥る。そのときは逃げる、いいわね。」
「はい。」
「それから、しばらくは闇の鏡の力を断ちなさい。クリスタルがうまくいったとしても、そこからあなたたちの存在を気取られるだろうから。」
「分かりました。しかし必要と思えば使います。」
フュミレイの言葉にレイノラは頷きもせず、ただ鏡越しの彼女を見据えていた。必要と思ったその時は、決して好ましい状況にないだろう。
「では力を断ちます。」
「生きて戻りなさい、必ず。」
「はっ。」
鏡の中のレイノラは三人それぞれの顔を見やった。そして鏡面が黒に戻る。
「___」
フュミレイの手から迸った闇の力が漆黒を上塗りすると、それはたちまちただの鏡へと姿を変えた。
「行こうか?」
そして彼女はいつもと変わらぬ落ち着きで言った。
「おうよ。」
サザビーが短くなった煙草の先を瓦礫に押しつける。
「大丈夫。覚悟はできてるよ。」
ミキャックは髪飾りを外して手に握る。
「最後に確認だ。俺たちの目的は?」
サザビーは手を差し伸べて二人を見やった。フュミレイが、その上にミキャックが、手を重ねた。
「ソアラを助ける!」
三人の答えは一致していた。
「夜か___」
広い畳の間に正座して、竜樹はポツリと呟いた。主を失った古禅庵を慰めるように、彼女はセラが自分を迎えてくれた剣鶴の間にて、瞑想をしていた。目を開けて無心を断ったのは、近づく足音が聞こえたからだった。
「竜樹殿。」
ジバンだ。セラを失ったというのに、彼の物腰はいつもと変わらない。
「やっと見つけましたぞ。これは親方様が剣術の粋を記したいわば奥義書です。」
それだけではない。穏やかな爺やは竜樹のためにセラの遺品を見つけだしたのだ。
「お持ちなされ。きっと役に立ちますぞ。」
ジバンは変わらぬ徳の深い笑みで、竜樹に書物を差し出した。だが簡単には受け取れない。
「俺はセラを守れなかったんだぞ___」
暖かくされること自体が筋違いだ。竜樹はそう感じていた。しかしジバンは否定する。
「それは違いますな。親方様があなたに守られるより、あなたを守ることを選んだのです。それが親方様の遺志です。爺である私目はその遺志に従うまで。」
「___」
「あなたが遺志を継ぐのです。親方様もそれを望まれています。」
「俺にそんな資格___」
「ありますとも。でなければ花陽炎を託すはずがありません。」
ジバンの言葉は力強かった。セラを誰よりも良く知る彼だからこそ、言い切れることもあるのだ。
「気骨を見せなされ。戦いの神に弱音など似合いませぬぞ!」
「気骨か___」
確かに、今の自分の心は静かすぎる。瞑想は彼女の悲しみを鎮めたが、同時にかつての獰猛さを奪い去っていた。奮い立て!セラにそう戒められた気がして、竜樹は奥義書を手に取った。
「ふむ、良いことですじゃ。」
ジバンは満足げに頷く。その時___
「たのもう。」
玄関から声がした。
「はいただいま。」
ジバンは慌てることもなく、いつもの足取りで部屋を出ていく。一人になって、竜樹は少し緊張した面もちで奥義書を開いた。
「___」
そして硬直する。
「読めねえよ。」
そう。セラは確かに黄泉に薫陶を受けているが、本来はバルディスの神である。奥義書の中身は竜樹の知らない文字ばかりだったのだ。
「竜樹殿。」
溜息をついて項垂れたのも束の間、ジバンが戻ってきた。
「客人ですじゃ、あなた様に。」
「俺に?」
「戦神に会いたいとおいでで。」
「そうだ。」
「ややっ!?」
開いたままの障子の陰から見たことのある顔が現れた。待たせていたはずの客人が勝手に上がり込んできたことでジバンは狼狽したが、竜樹は気にしなかった。ただ彼女の名前までははっきりとしない。
「アヌビスの兵士が何のようだ?」
「カレン・ゼルセーナだ。初対面でもあるまい。」
「ああそうか、カレンだ。思い出したよ。」
言葉とは裏腹に、ヘルハウンドのカレンに親しみや馴れ馴れしさはなかった。
「下がってくれジバン。」
「ははっ___」
老翁はゆっくりと歩み、障子を閉じる。その時には促されるまでもなく竜樹の前にカレンが座り込んでいた。
「おまえが戦神か?」
「今はな。」
「殺した?」
「まさか。」
「そうだな、さして変化を感じない。」
強さを感じないとでも言いたげな言葉に、竜樹のこめかみがヒクリと動いた。
「用件をすませてさっさと帰れ。俺はもうアヌビスの犬じゃない。」
言葉遣いは荒くとも、竜樹は冷静に振る舞った。セラがそうだったように、肌際に殺気を纏い、カレンを圧する。
「そう簡単には帰れない。」
だがカレンは一茶怯まなかった。むしろ真っ向から竜樹に抗うように、冷酷な視線を強めた。
「私の部下がここで死んだ。」
「!」
「そうか、死んだのだな。」
竜樹の瞳孔の動きから、彼女はグレインの死を悟った。それに竜樹が絡んでいることも見抜いた。そして有無言わさず右手の手甲の指を折った。
ゴオオッ!!
古禅庵に走った震動に、茶を運ぼうとしていたジバンが腰を抜かす。炎爆の手甲が火を噴き、剣鶴の間を破壊していた。しかし爆弾は花陽炎に裂かれ、部屋を破壊しただけに過ぎない。次の瞬間には刀を収めて一気に接近した竜樹が、素手で炎爆の手甲を握っていた。
「あいつを殺したのは俺じゃない!」
「そんな戯れ言を___!」
手甲が熱を帯び、竜樹の掌を焼く。しかし彼女は力を緩めなかった。
「死に際を見たのは俺だ!だが手出しはしてねえ!」
「く___」
カレンが口惜しげな顔をすると、やがて手甲の熱が失せていった。
「なら誰が___」
「わからねえ___でも多分、性骨だ。」
「性骨?馬鹿な___」
カレンは鼻で笑っていたが、竜樹は真剣そのもの。
「その馬鹿なことが起きちまったんだ。セラを殺したのも奴だからな。」
「!」
カレンの頬が強張る。
「だが良くわからねえ。あいつは、死んじまったあいつは何か大変なものを見たんだ。怯えるあいつを問いつめてるうちに、独りでに死んだ。」
「___ちっ___」
手交から殺意が消え、竜樹も力を緩めた。カレンは竜樹の手を振り払い、大きな音で舌打ちした。
「俺に分かるのはそれだけだ。とにかく何があったかは___」
そこまで言いかけて、竜樹は言葉に詰まってしまった。
何があったのかは性骨を探せ___そう言いかけて、声にできなかった。そんな馬鹿なことがあるはず無いからだ。信じているのに、なぜか自分は百鬼が負けた可能性ばかり考えている。
グッ___
竜樹は右手で左腕を押さえた。そこには拾った百鬼のバンダナを巻き付けてある。でもそれを彼の形見と思ったことはないはずだ!
「詳しい話を聞かせてもらおう。」
竜樹の動揺につけ込むように、カレンは彼女の胸ぐらを掴んだ。しかし竜樹はそれでむしろ落ち着きを取り戻す。
「いや___悪いが俺はもうアヌビスに手を貸す気はない。」
「有無は言わさない。」
だが駆け引きはカレンに分がある。
ゴッ___
開け放たれた障子の向こうには垣根があり、その先には庭園が広がる。その庭園の空に高々と水しぶきが舞い上がった。それはカレンの手甲が生み出した爆弾の一つ。
「私が用意も無しに来たと思うか?」
「てめえ___」
「一瞬だ。例え首を飛ばされたとして、残存する意識の一瞬で爆破できる。」
すでに勝者は決まっていたのだ。竜樹の親指は花陽炎の鍔を押すことさえ許されなかった。
「あいつの死んだ場所に行ったって何もないぜ。」
「黙ってついてこい。」
カレンの後ろに付いて、竜樹は歩いた。
オオオオオ___
静かな森だったはずが、いまは獣の呻き声がする。
「熊でもいるのかな?」
「___」
カレンが呻き声に向かって歩いていると気付くのに、時間は掛からなかった。そして熊の正体を知るのも___
「うおおお___!」
そこはグレインの死に場所だ。白い灰の名残が残る大地に拳を打ち付けて、熊のような大男が泣き叫んでいた。
「___」
竜樹は思わず首を竦めた。あまりにも予想外な光景だったからだ。たしかカレン率いる連中は五人組だった。そんなに仲が良さそうにも見えなかったのに、一番剛毅だろう大男がグレインの死を悲しみ、嘆いているのだ。それだけではない、一際艶っぽい女も目元を赤くし、気障な色男も長い前髪で目を隠すようにして虚空を見ている。
こいつらはアヌビスの部下だ。かつての自分と同じ、他人の命に無頓着な血も涙もない連中のはずだ。しかしみんな泣いている。
そうだ___この冷酷無比な義手のカレンでさえ、激昂して俺を殺そうとしたじゃないか。
「これがヘルハウンドだ。」
唖然としている竜樹を振り返り、カレンは言った。
「私たちは五人でなければならない。例えそれが実力に欠ける男だとしても、同胞の死は簡単には受け入れがたい。」
「カレン___」
三人がカレンの帰還に気付いた。しかし彼らの目はすぐに竜樹へと移った。
「ぬうう!そいつか!」
ガッザスが涙でグショグショの顔を上げ、竜樹に食ってかかろうとする。
「いや、こいつは目撃者だ。」
しかしカレンは冷静に諫め、鞭を振るおうとしていたクレーヌ、掌の赤い宝石に魔力を込めようとしていたディメードも動きを止めた。
「誰だ!?誰がグレインを殺した!」
ガッザスは叫ぶ。その気迫は竜樹は尻込みさせるほどだった。しかしカレンが制すると、彼は唸りながらも怒りを内に留めた。
「私たちは皆落ちこぼれだ。それをアヌビス様に拾っていただき、ここまで辿り着いた。グレインは私たちとはやや違った感覚の持ち主だったが、それでも信頼にたる仲間だった。」
カレンの口調に変化はない。しかし瞳の奥には炎爆の手甲が霞むほど、情熱の炎が燃えさかって見えた。
「おかしいか?我々には絆がある。その証も持っている。」
カレンは胸元に手を差し込み、細いチェーンをつまみ上げた。それは星形のペンダント。星の五つの頂点にそれぞれ小さな宝石がある。しかし輝いて見えたのは四つだけだった。それがグレインの死の報せでもあった。
「おまえの立場などどうでもいい。わたしたちはグレインが誰に殺されたのか知りたいだけだ。皆がその意思に任せ、図るでもなくここへ参じた。」
竜樹は息を飲んだ。四人の燃えさかる視線に射抜かれて、彼女の脳裏にはあの時の情景が蘇った。グレインが死んだあの瞬間。そうだ___最期の時にあいつはなんて言っていた?いや、俺がなんて問いつめたとき、あいつは死んだ?
「___それとも別の誰かか?」
「なに?」
竜樹の呟きでカレンの眉間に力が籠もる。
「おまえ何があったか見てたんだな___」
「どういうことだ?」
カレンの口調が幾らか早まった。
「そう聞いたらあいつが死んだんだ___」
「!!」
「もう一度言ってみなさいよ!」
クレーヌが竜樹に詰め寄ってまくし立てる。肩を掴まれたまま、竜樹はもう一度思い出しながら、慎重に答えた。
「性骨に何かされたのかって聞いて___それから___それとも別の誰かか___そうだ、おまえ何があったか見てたんだな___って___」
それがどういう意味か、いささか混沌としている竜樹には整理が付かなかった。なんとなく、性骨以外の誰かがそこに絡んでいるような気がするが、なぜそう言えるのかまで考えられるほど平静ではいられなかった。
その時。
「グレインを殺ったのは性骨じゃないな。」
あの男が現れた。
「っ___てめえ!?」
さっきから近くにいたのだろうに、姿を現すまで竜樹はアヌビスの気配にまったく気付かなかった。
「アヌビス様___」
「見てきたよ。なかなか激しい闘いの痕だった。」
アヌビスはいつもに比べれば神妙に見えた。
「竜樹、性骨と戦ったのは誰だ?バルバロッサか?」
「___百鬼だ。」
言いたくはなかった。しかしカレンが炎爆の手甲をちらつかせたことで、彼女はやむなく答えた。
「へえ、ソアラの旦那か。あいつがあんな力をね、大したもんだ。」
アヌビスは素直に感心した様子で頷いた。神妙に見えたのは気のせいか、アヌビスはもう笑みを浮かべている。
「アヌビス様!グレインを殺したのは誰です!?」
その態度に苛立ったのか、クレーヌが声を上擦らせて問いかけた。
「さあな。だが性骨じゃない。戦神セラの力が欲しかった奴だ。」
「!?」
竜樹が息を飲む。
「なあ竜樹。セラの力はどこに行ったんだ?」
「___性骨に___」
「その性骨はもう死んでると思うんだがな。」
「!?」
「誰かがセラの力が欲しくて殺したんじゃないか?で、残念だがソアラの旦那も___」
「百鬼は生きてる!絶対に!」
根拠はない。だが竜樹にとっては絶対に受け入れられないことだ。
「ああ、可能性はあるだろう。だがもし、性骨を殺した誰かにとって都合が悪ければ___」
「無い!絶対に無い!」
「都合が悪いものを見たからグレインは死ななきゃならなくなったんだ。おまえの台詞からしてそいつは鴉烙の契約みたいな仕掛け___束縛の仕掛けって言った方がいいのかもなぁ___そいつをグレインに施して、あいつがその誰かの事を勘ぐられた瞬間死に至るように仕組まれた。おまえは先に性骨を疑ってあいつを問いつめたんだから、死のスイッチは性骨じゃない。それに性骨ならその場でグレインを殺してる。」
「くっ___!」
「アヌビス様!」
竜樹は花陽炎に手を伸ばしかけた。しかし先に痺れを切らしたのはクレーヌだった。
「勿体ぶらないで教えて!グレインを殺したのは誰なの!?」
「クレーヌ!」
冷静さを保てなかった情熱の女をディメードが一喝する。普段は気障なだけの男が、いつになく厳格な顔をしてクレーヌの腕を掴み、強引に体を引き寄せていた。その目に冷やされたか、クレーヌも落ち着きを取り戻した。
「___すみません。」
「誰かは俺も分からない。もしかしたら竜樹の言うように性骨かもしれない。ソアラの旦那が噛んでいる可能性もないわけじゃない。まぁなんにせよ、調べる手段はあるんじゃないかと思ってる。」
「どのように?」
カレンが静かに問うた。
「それだ。」
アヌビスは竜樹を指さした。
「お、俺!?」
「左腕。」
「!」
この黒犬は着物の内まで透けて見えるのか?竜樹はあからさまに狼狽して腕を押さえた。しかしカレンが強引に袖をたくし上げる。
「バンダナ___?」
「あの男のだろ?汗くさい匂いがプンプンしてるよ。」
竜樹の左腕に巻かれた薄汚れたバンダナ。だがそれが何の役に立つというのか?
「おまえたちはこいつを連れてエコリオットの所に行け。」
「エコリオット___そうか、精霊ですね?」
「そういうことだ。」
「勝手に納得してんじゃねえぞ!俺はもうおまえには関わらねえ!」
袖を掴むカレンを振り払い、竜樹は声を荒らげた。
「貴様___」
カレンが炎爆の手甲をちらつかせる。しかし竜樹は構わなかった。
「!?」
手甲になにやら蜘蛛糸のような物がまとわりついていた。袖を掴んでいたときに仕込まれただろうそれは、抜き放った花陽炎の刀身から溶けるように伸びていた。
「花陽炎!霞の天糸(あまいと)!」
ギギッ!
細く柔に見えた糸が恐るべき強度で炎爆の手甲に食い込む。それは刃の切れ味で、手甲の指を一つ切り落としていた。
「ぐぎぃっ!?」
しかしそこまで。竜樹が頬を強張らせて呻いたことで、糸の侵攻は止まった。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
そればかりか花陽炎から片手を放し、苦しげに胸を掻きむしる。解れた晒しの奥で、胸元に黒い蠢きが広がっていた。
「忘れたのか?おまえは俺の部下だろ?」
それは邪輝だ。覇王決定戦で勝利のために受け入れた邪輝。あのときはアヌビスの支配を軽く見ていた。
「ふざけ___んなぁぁぁぁっ!」
竜樹が変化する。牙、角、紋様とともに彼女の力が倍増する。それはヘルハウンドの面々を身構えさせるほどだったが、アヌビスだけは微動だにしなかった。
「あが___」
竜樹は動けなくなっていた。手足の自由を奪われているわけではない。だが生の掌で心臓を鷲づかみにされている___そんな気分だった。
「やめとけ。俺はバンダナがあればそれでいいんだ。」
これが邪輝なのだ。普段は体のどこかに潜んでいて、アヌビスがその気になれば心臓を捻り潰すことさえ雑作もない。
「ぅ___ぇ___」
竜樹の口元から泡が浮き上がる。彼女は獰猛な姿のまま、硬直し、白目を剥いて、ほんの顎先を微かに縦に動かした。
そして拘束が解ける。
「がはぁっ!はぁっ!はぁっ!」
竜樹はその場に崩れ落ち、四つん這いになって肩を揺すりながら荒い息を付く。だがすぐに顔を上げてアヌビスを睨み付けた。
「いい顔だ。」
「てめえは___」
そこまで言いかけて竜樹は口を噤んだ。息苦しさが残ってうまく言葉が出なかっただけだが、口答えすることを恐れたのも確かだった。
「エコリオットの所に行くのはおまえにとっても悪い事じゃない。ここで何かあったのか知りたいだろ?それを調べてもらうんだよ。」
「くそったれ___」
竜樹は涎まみれの口を拭い、その手で地面を叩いた。悔しさの籠もった拳は、大地に深い罅を走らせていた。
___
「___」
セラの世界の森。カレンたちと竜樹はすでに去った。だがアヌビスはまだここに残り、グレインの灰の名残を見下ろしていた。やがて滓まで消え去ると、彼は顔を上げた。
「フェリルじゃない誰かさんよ!」
そして言う。大きな声で、どこを見るでもなく。
「俺を見ることができて満足か?そうとも、俺がおまえに殺された男の主だ。そのためにあえて気付かれる殺し方をしたんだろう?怪しげな連中の親玉が誰か知るために。」
アヌビスはニヤリと笑う。
「満足したか?___だがはっきりと言おう。」
そしてどこともなく指を差す。
「俺はおまえのことが嫌いだ。」
次の瞬間、黒犬の姿は忽然と消えていた。
残されたのは、ただひたすら静かな夜の森だけだった。
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