2 ソアラの辞書

 静寂に包まれた神殿。ここの祭壇の間には、かつて主だった男の彫像がある。その彫像をじっくり調べて、髪の部分から見つけたのがこの鍵。それから辿り着いたのは、おそらく主しか出入りしなかっただろう部屋。その壁の一角に、鍵穴を見つけた。鍵はそこに入ったが、全くあっていない。手を放せば抜け落ちそうになるほどブカブカだった。
 「___」
 だが、棕櫚は辛抱強くそこにいた。鍵を差し込んだまま、じっと立ちつくしていた。やがて鍵は自然に動き、壁の奥でカラクリの音がした。直後、床の一角から青い光が立ち上った。おぼろげな光の輪の中に足を踏み入れる。今度は天井に空間が開き、棕櫚の体は勝手にそこへと浮上した。
 「___!」
 棕櫚は新しい景色の中にいた。彼は魔法陣の描かれた祭壇の上に立ち、目前には三叉に別れた通路が広がっていた。それはかなり奥深い。外から見た神殿の構造上考えられない場所だった。
 「これが本当のムンゾ神殿。」
 ここに辿り着くまでにかなりの時間を要した。「待ち続ける鍵」のカラクリに通じる直接のヒントはなかったが、いくつかの記述からムンゾが急ぐもの、耐えぬものを軽蔑していたと知り、駄目で元々の挑戦だった。
 だが本番はこれからだ。今はまだ秘密の宝箱の鍵を開けたに過ぎない。中身を調べ尽くすにはまだ時間が掛かるだろう。

 「ありがとう、あんたのおかげで何とか乗り切れた。」
 「敵が泥酔していたおかげよ。」
 酒の女神キュルイラはサッパリとした表情でレイノラと手を合わせた。一際艶っぽく、派手好みで、いつもほろ酔いを思わせる上機嫌。キュルイラは持ち前の楽観主義で、素直に目の前のピンチを切り抜けたことを喜んでいた。
 「酒の力もなかなか侮れないでしょ?」
 橙の口紅が眩しい唇で、キュルイラはニッコリとした笑顔になる。彼女の神殿はそれ自体が巨大な酒蔵で、四方に向く大砲から放たれるのは砲弾ではなく、酒のシャワー。とびきり強烈な酒の雨を降らせれば、迫る敵衆もあっという間にほろ酔いである。あとはそれを神官たちや駆けつけたレイノラが駆逐していくだけ。敵に大物がいなかったこともあって、キュルイラ自身に危機が及ぶようなことはなかった。
 「ええ、でもこれで終わったわけじゃない。」
 「そう?今回の戦いはこれでおしまいじゃない。んで、あたしたちの勝ち。でしょ?」
 だがレイノラはキュルイラほど楽観はしていなかった。もともと彼女とは正反対の悲観的な性格である。この平穏はごく短いものに違いないと考えていた。そして他の世界のことが気になってしょうがなかった。
 「さあ祝杯よ!折角久しぶりに会ったんだから、たっぷり話そうじゃないのさ!」
 「いや、私は他の世界を見に行ってくる。」
 レイノラがそう答えたのはごく当然のことだ。だがキュルイラもそれを予想していたのだろう、自信に満ちた笑みで続けた。
 「大丈夫よ。その必要はないわ。」
 「___どうして?」
 「勝ってるわ、ビガロスもバルカンもロゼオンも。あたしのくれてやった酒を飲んでいる。それはあたしだから分かること。あたし自身の手で、あたし自身の情熱を込めて造った酒を、彼らも今飲んでいるのよ。」
 いつの間にかキュルイラの手には一本のボトルが握られていた。
 「これは勝利の美酒。勝利を告げながら飲むことでボトルにその証が刻まれるのよ。あたしの他にロゼオン、ビガロス、バルカンが持ってるわ。バルディス時代に渡した奴だから他のみんなは持ってないんだけどね。」
 キュルイラはそう言ってボトルをレイノラに見せつける。ボトルには確かに戦いの記録が刻まれていた。そしておそらくオル・ヴァンビディスの今を示すだろう時と、バルカン、ビガロス、ロゼオンの名があった。
 「さ、分かったらあたしたちも勝利を宣言するの!」
 「___ええ。」
 気が咎める部分はあった。これは一時的な勝利でしかないからだ。しかし小さな勝利でも、それを仲間たちに知らしめ、自らの闘志を高めるのは意味のあること。レイノラは少し躊躇ってから、キュルイラの差し出したグラスを手に取った。
 「大丈夫よ。誰が悪さをしてるのか知らないけど、あたしたちは勝てるから。そう信じなきゃ何もうまくいかないわ。」
 あっけらかんとしているように見えて、かつて大神の側近を務めていた重鎮である。心を見透かしたような言葉に、レイノラはハッとした。
 「信じなさいな。あんただって一人じゃないんでしょ?きっと巧くやってくれる。確かに小さな勝利かもしれないけど、そういう一つ一つの積み重ねって大事なんじゃない?」
 「___ありがとうございます。」
 その破天荒なまでの明るさには、バルディス時代から勇気づけられたものだ。レイノラはふと昔を思い出したのか、改まった口調で言った。それを聞いてキュルイラは陽気に笑った。
 「あはっ!実際あたしが先輩だけど、老けてみられるからそういう言い方はやめる!分かった!?」
 「ええ。」
 やがて二人はグラスを交わした。勝利の美酒は実に味わい深く、そして最高に美味だった。

 レイノラはまだ知らないが、この時すでに一応の危機は去っている。フェリルの目的はオルローヌを倒すことであり、それを達成できたことで、彼女に束縛された大量の戦士たちも役目を終えた。さすがに雑兵の集まりでは神を脅かすには至らないということだろう。ビガロス、バルカンは自らの力で退け、ロゼオンはバルバロッサの助太刀により敵を滅した。セラはフェリルの刺客は退けたものの、伏兵性骨に屈した。その性骨はセラを守るために駆けつけた百鬼とともに姿を眩ませている。
 ともかく、フェリルの休息と共に世界は静けさを取り戻した。だがそれはレイノラの想像通り、ごく短い平穏でしかない。夜になればまた世界は動き出すのだ。

 オル・ヴァンビディスのどこか。肉の蠢くような不気味な壁に、奇妙な香りが充満する部屋。そこはソアラにとっての煉獄である。ただそこにいようといまいと、フェリルの存在がある限り彼女にはこれっぽっちの自由もない。じたばたしてもしょうがないから、今のように裸で部屋の隅に縮こまるだけ。
 百鬼が助けに来てくれる___そんな絵空事が許される場所ではない。ここは今ある現実を受け入れるだけで精一杯の場所だ。一人の人であるという尊厳を保つこともできない。それを取り戻すことは極めて至難だ。ライとフローラを失い、僅かに見出したはずの希望の糸も断ち切られ、ソアラは抵抗する活力を失いかけていた。
 (___大丈夫___まだ諦めるのは早い___)
 だが彼女は死んではいない。ここにいると思考もままならないのだが、それでも今は意志のある目をしていた。それはささやかな希望を見出したからである。
 (フュミレイが逃げ切ってくれた___それだけが___)
 今までフェリルは誰にもその正体を気取られることなく、三人の神を殺した。しかしここに戻る前、フュミレイを襲撃したとき初めて討ち損じた。それがソアラにとっての新しい希望の糸なのだ。
 (フェリルは顔を見られていないから気にしていないみたいだけど、あのフュミレイが一目散に逃げたのは___気付いたからだ。神を殺した奴があたしの命を握っていて、しかもあの場にいたって___)
 彼女ならあの瞬間にそれくらいの考えは巡らせる。ソアラはそう考えていた。実際にそれは正しい。フュミレイは気づき、サザビーと共にソアラに近づこうとしている。
 希望の糸は、ソアラの知らないところで頑丈な鎖に変わろうとしていた。
 (!)
 唐突に何も見えなくなった。どうやらご主人様のお出ましだ。しかもまたどこかに連れて行かれるらしい。フェリルはソアラをここから連れ出すとき目も耳も鼻も封じる。まずは視覚と嗅覚を消して___
 「立ちなさい。」
 そう告げると聴覚が消え、フェリルが頬に触れたところで触覚も消える。目覚めたときに何が起こるのかは常に恐怖だ。おかげで自分の意志では眠れなくなってしまった。それはそうだろう、目覚めと共にまた一つ尊厳が傷つけられるのだから。
 ポン___
 頬に触れられるのは、恐ろしい目覚めの合図。でも今は体のどこも痛くないし、少し前の自分のままだった。ただ不思議なことに、ドラグニエルを着ていた。
 「おはよう。」
 虚ろなソアラを覗き込むようにして、フェリルはニッコリと微笑む。
 「おはようございます___」
 「フフ、まだ夜よ。」
 フェリルはやけに機嫌が良さそうだった。サラサラの髪、体を包む良い香り、新しいドレス、白い翼、いつも身だしなみができている彼女だが、今はとびきり涼やかでさわやかだった。
 「今日はご苦労様。おかげでいい獲物が手に入ったわ。」
 「___」
 ソアラと向かい合うようにしてソファがあった。ソアラ自身は背もたれのある木の椅子に座っている。フェリルはゆったりとソファに腰を下ろして、しなやかに足を組んだ。
 (ここ___)
 ソアラは呆けたままの顔でいた。まだ自分にそういう演技ができるゆとりがあったことには驚いたが、ここが「私室」であると悟ったことで、彼女は幾らか覚醒した。
 ここはフェリルの私室だ。大きなベッド、化粧台、姿見、衣装棚、女性的な芸術品や絨毯、その全てが豪奢___
 この進歩は大きい。フェリルが幾らかでも隙を晒したことは大きな一歩だ。
 「でね、折角だから早速試してみるの。」
 ただそれがさらなる恐怖の前触れだということも分かっていた。フェリルが隙を見せたのは、さらに完膚無きまでにソアラを支配できるという確信があるからだ。
 「新しい能力をね。」
 情報収集の時間はごく短かった。次の瞬間、ソアラの意識は途絶えた。それはこれまでの束縛による感覚の遮断とは違う。ただ単純に気を失った。
 オルローヌと対峙したときのように。

 『私の名はソアラ・バイオレット。でもそれは旧姓で、今はソアラ・ホープ。本当はシェリル・ヴァン・ラウティ。あたしは気付いたら中庸界のポポトル島にいた。そこの孤児院で、あたしは大きくなっていった___』
 これはフェリルの脳裏に流れるストーリー。ソアラの記憶の紐を解いたことで示された彼女の歴史。フェリルは新しく手に入れた力を、まずはソアラで試してみることにしたのだ。
 (これがオルローヌの力___こんな感覚になるのか___)
 フェリルはソアラのことを知るのを楽しみにしていた。彼女にそれほどの価値を見出している訳ではないが、生身なうえにジェネリを助けようとし、しかもオル・ヴァンビディスにやけに仲間がいる。彼女を知ることは、自分に抗おうとする連中の化けの皮を剥がすことになるという確信があった。
 (へぇ、ジェイローグとレイノラの血縁者___)
 それは存外簡単に明らかになった。オルローヌの能力により、今の彼女の頭の中には一冊の辞書が開かれていた。それはソアラの歴史書。すでにその全てがフェリルの頭の中にあり、その中から何が知りたいという念を込めるとページが開く。ソアラが何者かと考えると、簡単に答えが浮かんできた。
 (なら次は___)
 フェリルは検索を進めていく。そうするほどに彼女は新鮮な驚きで満たされていった。

 ジェイローグが束ねる三元世界。
 黄泉へと去ったレイノラ。
 二人の血の系譜を継ぐ竜の使い。
 邪神アヌビス。

 「ふぅん。偶然?それとも運命の悪戯かしら。かつてGに挑んだ竜の神の子孫が、今新しいGに挑もうとしていたのね。」
 フェリルは俯いて静かに眠るソアラを眺めた。今の互いの境遇は面白い。でもなぜだかフェリルは笑えなかった。ごく最近のソアラの記憶、彼女の意志を紐解きはじめてから、彼女は笑えなくなっていた。
 『あたしは屈しない。大丈夫、絶対に乗り越えられる。』
 オルローヌの能力が頭の中で辞書を読むようなものだとしたら、この言葉は「最近のあたし」という項目の最初に、特大の字で書かれている。それこそ見開きのページ一杯一杯に。一枚めくれば裏面は不安や恐怖の言葉で埋め尽くされているのだが、冒頭に来るのは頑として揺らがない「希望の意志」だった。
 それはフェリルにとってあまりにも不愉快だった。徹底的に追い込み、一見すれば彼女は完全に服従している。しかし腹の内では虎視眈々と隙を狙い続けているのだ。
 「とんだ役者ね___」
 忌々しげに、フェリルはさらにページを捲った。彼女の言うことは何でも聞くはずの女が、憂鬱な仮面の下でどんな策謀を巡らせていたのか暴くために。
 「!!!!!!」
 そして慄然とした。
 ソアラがフェリルのことをどう思っているのか、それを知ろうとして彼女は驚愕した。
 『あたしはフェリルの裏に誰かがいると思っている。それは多分男で、彼女はその男のために動いていると思う。彼女は凄く慎重で、策謀に長けた人物だとは思う。でも、野心で動くタイプじゃない。自分を滅ぼすかもしれない冒険を好んでするタイプじゃない。』
 『彼女は尽くす女だと思う。盲目的な恋をする人、なんとなくだけどそんな気がする。なんというか___今の彼女の行動には信念のようなものを感じない。愉快的に楽しんでいるだけに見えて、でもとても慎重で、計画的で、確実な成果を求めている。それはアヌビスと似ているようで全く違う。アヌビスの飄々の裏には恐るべき野心と、子供のような好奇心が潜んでいるけど、フェリルは何がしたいのか良く分からない。彼女の性格と、究極の力がどうしても一致しない。だから裏に男がいるんじゃないかって思った。』
 『お山の大将になりたがる女はそういないと思うし、それは彼女もそう。三人も神を殺したけど、彼女の行動は大胆にならない。それはあたしに対するやり方を見てもそう思う。ムンゾの力で完全に手の内に入れているはずなのに、これっぽっちの油断も見せてくれない。明かせない秘密があるからかもしれないけど、だとしたら余計に、あたしがここから逃れられる可能性、あたしが秘密をバラす可能性を否定できないってこと。それだけフェリルは臆病なんだと思う。』
 『あたしを飼おうとしていることにもそれが見える。あたしの力を認めていながら、彼女は自分が強くなるためにあたしを殺すのではなくて、日々の遊び相手としてあたしを飼っている。その遊び方はすごく嫌らしくて、絶対に好きになれないけど、Gという唯一無二の頂点を目指す人が、あたしみたいなのをいたぶったり辱めたりするためだけに飼うかしら?それは弱虫のすることだと思うし、彼女のやり方は陰湿で、手が込んでいる。あたしがGに因縁深いジェイローグとレイノラの血縁者と知っているならともかく、そうでもないみたいだし。』
 『なぜ今ここでオルローヌなのか?それも大きな疑問。短い体験だから何とも言えないけど、オルローヌは人の秘密を暴く力を持っているんじゃないかな?だから彼女は自分の、あるいは自分が尽くしている彼の存在を暴かれることを恐れて、オルローヌを仕留めにいった。それも、他の世界に大仰な陽動をしかけて、まだ屈しきっていないあたしまで使って!』
 『その点では最初に殺されたムンゾも気になる。それはフェリルが何者かというところにも通じるけど、あたしはフェリルは十二神のこともGのことも良く知っているんだと思う。天族みたいな姿だし___ま、それはこじつけだけど、彼女はバルディスの時代を知っている人で、しかもその当時からムンゾとは深い仲だったんじゃないのかしら?だって、ムンゾはとても用心深い人だってジェネリが言ってたし。その用心深い相手を確実に仕留められると思ったのにはそれなりに理由があるはずよ。いや、もしかしたらその段階では衝動的な部分があったのかもしれないけど___』
 パンッッ!
 フェリルが眠るソアラの頬を思い切り平手打ちにした音だ。
 「はぁ___はぁ___!」
 彼女はうっすらと汗を滲ませていた。音が聞こえるほど荒く息を付いて、堪えることができなくなってソアラを殴った。読み出した怪奇小説があまりにも現実的で、恐怖に耐えかねてしおりも挟まず本を閉じてしまったような___それほどに、フェリルはソアラの辞書の中身に苛立った。
 「クソが___!」
 下劣な言葉を吐いて、鼻面に蹴りを放つ。しかし急に思いとどまって、つま先はソアラの鼻の手前で止まった。
 「くっ___!」
 そして忌々しげに唇を噛む。今ここで怒りにまかせて痛めつければ、意識を取り戻したときにどうなるか?こいつならば「気付く」だろう。オルローヌの能力を使われたこと、頭の中を覗かれたこと、その中身があまりに図星だっだから今までにない直情的な方法でいたぶられたこと。
 それを悟られるのは駄目だ。
 でもなぜ?いっそ怒りにまかせてソアラを殺せばいいだけではないのか?そうすれば悟られる心配そのものが無意味になる。
 「分かってるわよ___殺さない。」
 誰に言うでもなく、フェリルは呟いた。それは自分に言い聞かせるようでもあり、彼女は本来の落ち着きを取り戻しつつあった。
 「でも苦しめなきゃ気が済まないわ。」
 そして久しぶりに笑みを浮かべる。それは滲んだ汗で艶を帯び、いつにも増して残酷な笑みだった。

 その日は少し肌寒かった。
 乾燥した草原地帯のゴルガは日差しも強く、総じて暑い国である。しかし今年は少し気候がおかしくて、ゴルガの人たちも体調を整えるのに苦慮しているという話だった。でもそれはより南国のポポトル島の住人にとっても同じ事。ただ今はこの肌寒さこそが身を引き締める良薬になる。
 「___」
 久方ぶりの実戦を前にして、ソアラは殺伐とした心持ちだった。服を脱げば、胸に生々しい縫合の跡が残っている。この縫い目を付けて以来初めての戦いが迫っている。
 (先鋒を任せる。十二分な成果を上げよ。)
 彼女の師であり、ポポトル四天王の一人、ガルシェル・ハサの言葉を思い出す。紫色の髪と瞳を持ち、類い希な戦闘能力をも持つ戦士ソアラ・バイオレットにとって、この戦いは岐路なのだ。
 彼女の力は誰もが認めるところであり、戦果も上げてきた。しかしながら、ポポトルのあり方について異論を唱える不満分子でもある。そんなソアラが病に伏し、倒れた。飛ぶ鳥を落とす勢いで、ちまたに支持を広げつつあった若き英雄の挫折である。それをポポトル上層部は密かに喜んでいた。
 だが世界最高の医師アーロン・リー・テンペスト、ソアラの親友であり彼の弟子でもあるフローラ・ハイラルドの尽力で、ソアラは病を克服した。ようやく体を動かせるようになったソアラを、ポポトル上層部は残酷な審判にかけた。
 全世界の征服を目指すポポトルにとって、最も困難な最初の一手、大国ゴルガ侵略の先鋒を彼女に任せたのである。それは死刑宣告にも等しい。だがソアラはこの苦行を克服するために努めた。いま、その成果を試すときに立たされている。
 (やるしかない___あたしは生き延びて、ポポトルを変える!)
 ソアラは前向きだった。自らの価値を証明するために、この戦いでは十分な成果が必要だ。ポポトルの上層部にも影響力を持つためには、英雄にならなければならない。この戦いはチャンスなのだ。
 ソアラは自らの正義を信じた。
 「行くぞ!」
 数は多くないが信頼できる部下を率い、武骨な要塞じみた都市に挑んだ。
 ソアラは獅子奮迅の活躍を見せた。自らの命の価値を背にしながら、彼女は鬼神の如く戦った。だが微塵の余裕もなかった。相手の命を尊ぶ余裕はこれっぽっちもなかった。ただひたすらに、自らの価値を示すために、自らの命を繋ぐために、自らの建前の正義のために、殺し続けた。
 そのソアラの背中を、今のソアラが見ていた。それは不思議な感覚だったが、確かにこの光景をソアラは知っていた。でも薄れつつあった。記憶はどんどんセピア色になっていて、飛び散る鮮血もうやむやだった。
 でも今目の当たりにしている光景はとても鮮やかだ。
 「うあああ!」
 その時のソアラは殺気の塊だった。自らの命を繋ぐために、ただ夢中になって戦った。戦略もあったはずだ、でも彼女は自らが前線に立って、立ちはだかる全ての敵をなぎ倒すことだけに集中していた。何を言っても聞こえはしないだろう。感覚だけが研ぎ澄まされていて、どこかから密かに敵が狙えばたちまち察知する鋭さだった。
 この戦いで彼女が生き残ったのも、今思えば竜の使いだったからだろう。戦いの素養が他とは違ったのだ。だがこれは正しい力の使い方ではない。
 「やめて___」
 過去の自分に、ソアラは怯えた。いま背中から見る自分が、向こうの路地に入り込んだあと何をするか、なんとなく思い出したから彼女は怯えた。
 「やめて___行かないで!お願い!」
 叫んでも、聞こえる訳がない。手を伸ばしても、届く訳がない。これは夢のようなものなのだ、でも鮮明な過去なのだ。
 昔のソアラが気配を察して路地を折れる。爆竹が鳴った。行き止まりだったそこに逃げ込んでいたのは子供たち。しかし紫の牙は止まらなかった。
 「っ!」
 目を閉じることも逸らすこともできない。ソアラは十年以上前に見ただろう景色を、また鮮明に思い出した。忘れようとしていたのか、汚れた過去に意味を感じなくなったのか、ソアラの中ですでにセピア色になっていた情景。まして、当時あまりにも夢中だった彼女は、本国の自室に戻るその時まで、自らの行いを悔いることはなかった。
 むしろ、彼らのためにもポポトルを変えなければならないと綺麗事に置き換えていたかもしれない。
 昔のソアラは走る。あの少年たちはほんのさわりに過ぎない。これから彼女は次々へと殺し続ける。その中にはライの友人、ワット・トラザルディの家族もいたかもしれない。
 「う___」
 カーウェンの白竜軍。そこでドラルに集められたゴルガ出身者たち。彼らのソアラを見つめる視線が蘇る。恨み辛み、怒りに満ちた眼差し。
 「うう___」
 過去はソアラを苦しめ続けた。

 やがて場面が変わる。そこはポポトル。反乱を起こした彼女は、そこでも人を殺した。
 「俺を殺すのか!?」
 参謀ギャロップのやり口が汚いのは分かっていた。ソアラの前に送り込まれた兵は、連度の高いガルシェル将軍の直参でもなければ、重装でならしたドルゲルド将軍の部隊でもなかった。彼女の顔見知りだった。
 「おまえにそんな権利があるのか!?」
 孤児院では虐められ続けてきた。その時の面々はほとんどがソアラと同じようにポポトル軍に入った。実力でのし上がったソアラとの接点はなくなっていたが、彼らはギャロップの策略でこの戦いにかり出された。
 「うあああ!」
 ここでも紫の牙は煌めいた。見逃すことだってできたはずだ。でもあの時の自分は、目の前で息巻く青年、幼少期の自分を最も苦しめたガエル・マルードを「殺したい」と思っていた。

 悪逆はやがて報いを受ける。
 愛していたラドウィン・キールベクの裏切りもまた、彼女を深く傷つけた出来事だった。そして彼を死に導いてしまったことは後悔してもしきれない。
 信用していたフュミレイ・リドンの手でアレックス・フレイザーが葬られたシーンは、何よりも忘れたい瞬間だった。
 ここまで多くの命が散った。その全てがソアラを嘆かせる。
 イェン、エスペランザ、フェルナンド、アイルツ、ナババ、ライディア、レミウィス、スレイ___
 ソアラが見てきた死の情景がめくるめく。やがてそれはゴルガの殺戮劇に重ねられ、まるで自らが愛すべき人々を殺める姿へと変わっていく。
 そしてオルローヌの神殿でフローラを切り捨てた瞬間へと変わるのだ。見たくないと思っても、見せつけられるのだ。ただ時が過ぎるのを待つしかないのだ。

 やがて景色が暗転する。長い悪夢がようやく終わりを迎えたのだろう。
 「___!」
 しかしそれは刹那の安息でしか無かった。次の瞬間には、ソアラはまた肌寒かったゴルガの空の下にいた。
 「___いやだ___」
 紫の牙が今まさに、ゴルガへと攻め入ろうとしている。
 「___いやだああ!」
 どんなに拒否しても、悪夢が終わることはなかった。




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