1 ご褒美
竜樹の背後で何本もの木々がへし折られていた。ルディーのディオプラドはフュミレイのそれにも引けを取らない威力で、林の一部に風穴を作り出した。
だが狙われたはずの竜樹は一歩も動いていない。
「何で邪魔するの!」
「お姉ちゃんは悪い人じゃない!」
リュカがとっさにルディーの腕を押したからだった。ディオプラドは照準を逸れていた。
「だって___あいつが___!」
殺されているという言葉が恐ろしくて言えなかった。ルディーは唇を震わせて、怒り顔で目を潤ませていた。
「___俺じゃないよ。」
竜樹がようやく口を開いた。だが口調にいつもの覇気はなく、どこか慎重な言葉だった。
「ほら!」
「嘘だよ!」
「嘘じゃないよっ!」
「___ここで何があったのか聞き出したんだ。そしたら死んじまった___多分、性骨の仕業だ。」
現時点でもつかみ合いだが、しまいには大喧嘩になりそうな二人を諫めるように、竜樹は冷静な口調で言った。ただ、少し眼が泳いでいた。
「性骨!」
「___お父さんは___お父さんはどこに行ったの!?」
少しの間があった。それまで、灰に変わっていくグレインの遺体を見下ろして話していた竜樹が、顔を上げて二人を見た。先程までの動揺が消え、勇ましいいつもの彼女の顔だった。
「性骨がオルローヌの世界に逃げて、それを追っていったってこいつが言ってた。オルローヌってのはここの隣の世界だよ。」
それを聞くなり、ルディーはリュカの手を振り払い、逆に彼の腕を力任せに掴んだ。
「行くよリュカ!」
「え!?」
「お父さんを追いかけるの!当たり前でしょ!?」
「ならお姉ちゃんも!」
「駄目!!」
ルディーは頑なだった。リュカと竜樹を交互に睨み、強引に彼を引っ張って行こうとする。
「行きなよリュカ。俺はセラのためにここに残らないといけない。」
「でも___!」
「色々ありがとう、リュカ。」
竜樹が微笑むとリュカの抵抗は弱くなった。振り返りながら、ルディーに引きずられていく。
「お姉ちゃん___また会おうね!絶対に!約束!」
竜樹はしっかりと頷いた。それだけ見届けて、リュカはルディーとともに藪の向こうへと消えていった。
「___」
残された竜樹は灰の跡が残る地面へと目を移す。その顔つきは一際深刻だった。そして自分らしからぬ策略じみた返答に、自戒の念を抱いた。
グレインは何も言っていない。今はとにかく、二人をこの場から遠ざけたくて下手な嘘を付いた。オルローヌの世界と言ったのは、フュミレイが向かった場所だからだ。あいつがいれば少なくとも他よりは安心できる。
(馬鹿か___何考えてんだ俺は!)
なぜ二人をここから遠ざけたかったのか。それは悪い想像を勘ぐられたくなかったからだ。
グレインはこの場であった出来事を喋ることを拒んでいた。そして結局死んだ。それは彼がこの場で「何か」を見ていて、それを知られないために「何か」の当事者に仕掛けを施されたのだ。それは鴉烙の契約のような、なにかをするとこうなる、という仕掛け。グレインは話すことを拒んでいたが、勘ぐられたことが引き金となって死んだ。
もし、性骨と百鬼の戦いで百鬼が勝ったとして、彼がグレインに気付いたとしたらこんな結末にはならない。だったら___
(絶対あり得ない!そんなの!)
そう自分に言い聞かせる。しかし「たぶん性骨の仕業だ」と言っている時点で、竜樹はその可能性を思い描いてしまったのだ。
百鬼が敗れた可能性を___!
戦神セラが死を迎えるよりも少し前のこと。オルローヌの世界へと飛ぶフュミレイは焦っていた。ヘブンズドアの呪文により、彼女は超高速移動で飛んでいる。だがオルローヌの世界へと入った時点で、「時すでに遅し」を感じ取ってしまった。
それでも彼女はオルローヌの元へと急いだ。それは氷の篭手を持つ女らしからぬ行動ではあったが、この目で見るまでオルローヌの死を信じるつもりはなかった。
「!」
しかし、彼女は途中で魔力を解いた。超高速移動をやめ、細やかな飛空へと切り替えた。僅かに直線軌道から体を逸らしたことで、宙に舞ったのは流れた髪の先だけで済んでいた。
「ちっ___!」
フュミレイの両手が猛然と輝く。晴れ晴れしい昼間の空に、一層目映い火炎が迸った。
ジュ___!
彼女を中心に大きく広がった火炎の一部が切れる。火炎は宙に居座る円形のギロチンをはっきりと浮かび上がらせていた。
「これは___」
自分の行く手に無数のギロチンが仕掛けられていた。それはおそらく大気の超振動によるもので、黙視で捉える術はない。僅かでもオルローヌの気配がないかと感覚を鋭敏にしていたから、ほんの微かな殺意を感じたのだ。そうでなければ今頃全身がバラバラになっていただろう。
「!」
別の気配。殺気はないが、力の接近は感じた。
ゴッ!
振り向いたフュミレイの顔を強烈な拳が打った。鋭い一撃に吹っ飛ばされた彼女にさらに追い打ちの蹴りが迫る!
シュッ___
しかし空を切った。拳の主は体の軸が抜けているかのようにだらしなく腕を垂らし、体ごと振り返る。
「馬鹿な___」
その顔を改めて見るまでもなく、フュミレイは凍り付いていた。口元から滴った血を気にするゆとりもなかった。
「ソアラ___!?」
現れたのはソアラだ。しかしフュミレイの知るソアラとはあまりにかけ離れていた。目はうつろで、全身が脱力し、まるで糸に吊されただけの人形のようだ。現れた顔がソアラでなければ先程の拳ももらわなかった。まして逃げるのに目測を誤ってギロチンで足に裂傷も刻むこともなかった。
それほどフュミレイは動揺していた。それは彼女がいまここにいる敵の存在に気付いたからに他ならない。
ソアラはジェネリを殺した奴に敗れた。
今のソアラに自分の意志は感じられない。
おそらくオルローヌは殺されてしまった。
そして私はここでソアラに襲われた。
それはつまり、ここに神殺しがいる可能性を意味する!
「!!!」
眼下の森を一目見て、フュミレイは突如として弾けるように飛んだ。しかしソアラに向かってではない。彼女は一目散に逃げたのだ。
「___」
ソアラはそれを追わない。直後、森から赤い光が六つ立ち上った。
「惜しい。」
森の中にいたフェリルはあからさまに舌打ちした。彼女はギロチンを仕掛け、ソアラを送り込み、自らは森に潜んでいた。
(いい勘してるわ。束縛の術に気付かれるなんて。)
赤い六つの光は均等に並んでいた。これはムンゾの束縛術の一つで、光の内にいるもののあらゆる自由を奪う。フェリルはソアラを使ってフュミレイをこの場に釘付けにし、束縛の檻に封じ込めるつもりでいたのだ。だがそれを察知された。
(もしかしたら___結構大きな魚だったかもしれないわね。)
束縛術は隠密の術。ジェネリがそうだったように、神でも察知するのは難しい。それをあの女は予知したかのように逃れて見せた。もう影も見えないほど遠くに逃げられて、フェリルは今更ながら少しだけ悔しそうな顔をしていた。
「はぁっはぁっ___!」
柄にもなく息を荒らげていた。それほど猛烈な勢いで、しかも前後左右に警戒の炎を張り巡らせたままフュミレイは飛び続けた。全身にまとわりつくような不快感が消えるまで飛び、彼女はオルローヌの遺跡に辿り着いていた。そこに来てようやく炎を消し、肩で息をしながら汗の滴りを感じた。
「ふ___」
しかし落ち着きを取り戻すにつれ、自分への失望も沸いた。それはそうだ、普段は死をも恐れぬ風体を装って、いざとなると命からがら逃げている。あまりに矛盾しすぎていて自分で馬鹿らしくなった。
だがそうせざるを得なかったのも確かだ。死に等しい危機に対し、逃れられる可能性を見いだし、挑んだところで得るものがない。そうと分かったから逃げた。ただスマートさを欠いただけに過ぎない。今は自分自身にそう弁解しよう。
「?」
と、汗を拭っていたフュミレイの視界に、見慣れない球体が飛び込んできた。
ドーンッ!
「!!??」
そして白昼の空に炸裂。
「ああっ!?」
「あれぇ?らしくねえなぁ、気付かなかったのか?」
遺跡の一角にはサザビーとミキャックがいた。側では花火の発射筒が白い煙を立ち上らせていた。
「のんきなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
花火をまともに食らったフュミレイを見て、ミキャックは慌てて空へと飛び上がっていった。
「わたしは髪型を変える気など無かったのだがな___」
古い祭壇跡に腰掛けて、フュミレイは憮然としていた。普段は癖なく下ろしている銀髪が、色んな方向に入り乱れていた。しかもとびきり火薬臭い。
「おまえなら気付くと思ったんだけどなぁ。」
ボゴッ。
「だからって花火で知らせようなんてのが間違ってるのよ!」
「いってぇ。でもおまえも止めなかっただろ?いや、むしろやる気だったかも。」
「そ、そんなことないでしょ___!」
「俺が煙草で点火して、で、その煙草はおまえが火を付けてくれた訳だから、結果的におまえが点火したって事だな。」
「何でそうなるのよ!あ!そうだ、あたし洗髪用に水くんできます___!」
「いや、その必要はない。」
そう言うなり手を伸ばしたフュミレイは、背を向けて飛び立とうとしていたミキャックの翼から、有無言わさず羽を数本抜き取った。
「羽根ぼうきがあれば十分だ。」
「___はは、そ、そうですね。」
明らかにご立腹の姉様にミキャックもたじたじだった。
「で、その怪我はどうした?」
一方でサザビーには悪びれる様子もない。それどころかフュミレイのローブの裾が綺麗に裂けて、隙から見える大腿に裂傷があることに目を付けていた。
「その前に___」
だがフュミレイにはどうしても気になることがあった。それを聞くまでは彼の問いに答える気にはなれない。それほど奇妙なものが目の前にあった。
「その顔は何だ?」
それはサザビーの顔だ。彼の顔は左半分、目の周りからこめかみ、さらには頬骨をなぞるようにして、真っ黒に塗り潰されていた。
「ああこれ?なかなかだろ?いい感じになって良かったよ。」
軽口を叩いて笑うサザビーだが、そんな彼の振る舞いに唇を噛むミキャックを見れば、好ましいものでないことは明らかだ。それにあの黒にははっきりと見覚えがある。
「冗談はいい。ここで何があったか教えろ。」
隻眼で睨み付け、彼女はサザビーに問うた。
オルローヌの神殿での戦い。
ライとフローラの危機に立ち、サザビーはその場に居合わせたアヌビスに二人の救出と、ソアラの服にミキャックのクリスタルを仕込むよう依頼した。フェリルに気付かれずに実行するのは、時を止められるアヌビスでなければできない芸当だった。ただアヌビスは報酬を求めた。
「欲しいものがある。そいつをくれれば要求を飲もう。」
「おう、何でも言ってみな。」
軽々しいサザビーの返答。アヌビスもとくに凄むことなく、軽々しく続けた。
「おまえの目が欲しい。」
「目?片目でいいか?」
「ちょっ___!」
慌てるミキャックを後目に、二人はなおも続けた。
「目玉をくれということじゃない。いわばおまえの見聞を俺にも共有させてほしいってことだ。おまえがこの先見聞きすることを俺も知る。つまりはクリスタルの行く先もな。」
「ああ、そういうこと___いいぜ、でも私生活に不自由がないように頼む。」
「その点は心配いらない。顔の半分が黒くなるだけだ。」
「あらま、せっかくの男前が台無しじゃねえの。」
「クク、ならしゃれた模様にしてやるよ。」
そして闇が走った。
「なるほど、すると今ここでの会話もアヌビスに筒抜けということか。」
「そうなるだろうな。」
サザビーの返答にフュミレイは静かに頷いた。サザビーの横ではミキャックが何ともいえない表情をしている。話を聞く限り、確かにライとフローラを助けるためにはアヌビスの力を借りるしかなかったのだろう。だがサザビーがその代償を負った上に、ライもフローラもアヌビスさえもここにいない。その結果を素直に良しとできない気持ちは分かる。
「ライとフローラはアヌビスが連れていると思うか?」
「それはないな。いたって邪魔だろ?ここから離れたどこかに放してると思うぜ。」
「おまえたちから遠ざけたのは、おまえにソアラを追わせるため?」
「かもな。あいつらがいたら俺のやろうとしていることに賛成するとは思えない。」
「あたしだってそうよ!」
鬱積したものを吐き出すようにミキャックが言い放った。
「あたしたちだけでソアラの後を追うなんて無謀すぎる!」
そう、サザビーはアヌビスを使ってソアラの服にミキャックの髪飾りのクリスタルを仕込ませた。この神具は髪飾りの持ち主をクリスタルの元へと誘う力がある。つまりソアラの行き先がどこであれ、確実に追うことができる。だがサザビーは髪飾りの持ち主であるミキャックと二人だけ、あわよくば単身で行動しようとしていた。
「でもクリスタルがばれたらおしまいだ。それじゃアヌビスが納得しないと思うぜ?」
「レイノラ様と合流すべきよ!」
「それを許してくれないんだろう?アヌビスが。」
フュミレイの言葉にミキャックは息を飲んだ。その言葉の意味するところ、真剣そのもののフュミレイの顔つきに、彼女は怯えた。
「教えるべきだ。ミキャックはおまえのことを愛しているのだから、なおさら。」
「あ、愛っ___!?」
あからさまにそう言われて、否定はしないまでもミキャックは肩を竦めて身を強ばらせた。
「邪輝はそんなに甘くない。」
「ああ。」
サザビーは淡々としていた。いつもと変わらぬ達観した面もち。それはこいつが幼少の頃から自分の命を希薄に考えてきたからできる顔なのだろう。彼の経歴を良く知るからこそ、フュミレイはそう感じていた。
「確かに、この黒いのがある限り俺に自由はないだろうな。ただ黄泉でもずっと鴉烙の契約に縛られてたから慣れたもんだよ。」
笑みを浮かべて軽口を叩く。それは彼と特別な感情がないフュミレイが見ていても、胡散臭く思える態度だった。だから___
パンッ!
ミキャックが彼の頬を張ったのも無理のないことだった。
「あんたがそれでよくても___あたしはどうやったって慣れられない!」
だがサザビーは頬に赤みが浮いただけで、顔色一つ変えずにミキャックを見つめた。
「___う___」
よくあることなのに、ミキャックはこの軽薄と真剣のギャップにいつも飲まれてしまう。結局は冗談交じりに押し切られてしまう。彼の選択はいつもほとんどが正しいけれど、そのたびになぜだか自分は胸が痛んでしょうがない。
「俺のためを思うなら力を貸してくれ。やることをやれば俺が自由になれる可能性も出てくる。それに敵の秘密を暴くのは俺たちにとっても大事なことだ。俺はそのためにアヌビスを利用したんだからな。」
分かった___その言葉が喉元まで出かかったが、ミキャックは意を決して飲み込んだ。
「___違う___そんなのただの言い訳だ___!」
「サザビー。」
ミキャックの裏返った声に堪りかねたか、フュミレイが口を挟んだ。
「あたしは来る途中にソアラとそのフェリルだろう輩に襲われた。ここからさほど遠くないところだ。奴のアジトがどこにあるかは分からないが、そう近くではないだろう。いずれにせよ一日くらいは追いかけるのを待った方がいいと思う。そうだな___明日の明け方に発つのはどうだ?夜を挟めばレイノラ様とも連絡が取れる。」
フュミレイの進言にサザビーは腕組みしたかと思うと、すぐに小さく頷いた。
「そうだな、それでいいとは思うけど、おまえも来るの?」
「邪魔か?」
「まさか。」
「ちょっと___!」
トントン拍子で話が進む。また置いてきぼりを食らったミキャックは慌てて言った。しかし振り返ったフュミレイにあっさりと制されてしまう。
「ミキャック、その間にじっくりと考えるんだ。ただ___」
そればかりかフュミレイの指先から魔力の糸が走ると、あっさりと彼女の髪飾りを奪い取ってしまった。
「姉様___!?」
「これは預からせてもらう。」
そう言うなりフュミレイは踵を返した。
「どこ行くんだ?」
「水浴びだ。向こうに川がある。」
だが彼女が歩き出すよりも速く、ミキャックが翼を広げて空へと舞い上がった。
「お?おまえも行っちゃうのかよ?」
「一人にして!」
「夜までには帰って来いよ〜!」
「___うるさい!馬鹿!」
そう言い残してミキャックは飛び去っていった。フュミレイとサザビーは黙ってそれを見送る。
「もう少し大切にしてやったらどうだ?」
ミキャックが森の向こうに消えるのを見届けて、フュミレイは溜息混じりに言った。
「そのつもりだよ。」
サザビーは煙草をくわえていた。頼むまでもなく、先端に火が灯る。
「冗談でも、優しくされると嬉しいものさ。」
「その時だけはな。」
「___そうだな、優しさは時に悲しみを深くする。」
風が通り抜け、瓦礫の屑を転がしていく。
「で、どうする?」
「とりあえず夜までは待とう。あいつが戻ってこなけりゃそれはそれだ。」
その答えにフュミレイは黙って頷いた。そして先程とは違う方向へと歩き出す。
「川に行くのか?」
「違うよ。好きになった人がいたんだ。彼のために少し泣いてくる。」
「___よろしく言ってくれ。俺もけっこう世話になった。」
フュミレイは気丈な笑みを見せてゆらりと舞い上がる。廃墟と化した祭壇の間へ向けて、彼女は静かに空を歩いた。
「あたしは馬鹿だ___」
一人になると、ミキャックはそう呟いていた。いつも同じ事を繰り返している自分、成長のない自分が忌々しくなった。でもそういう考え方をすること自体が自分の悪い癖だというのも分かるから、余計に収集がつかない。
(あたしが変わらないからサザビーも___)
サザビーの前では素直になれているつもりだ。でもそうではないのだろう。戦いは得意でもまだ自分は気持ちが弱い、だからサザビーと一緒にいると彼に無理をさせてしまう。彼は女が苦しむのを嫌うから。
(でも、何が足りないんだろう___それに何であたしは___)
みんなの前だから?男の人に苦手意識があるから?恋に臆病だから?わからない。でもサザビーのことが好きなはずなのに、どうしてか彼との距離は前からあまり近づいていないように思う。彼は私を大切にしてくれているし、元気づけてくれるし、私が落ち込んでいれば幾らでも甘えさせてくれるのに。
「ゼルナス___」
もし今の私をフィラ・ミゲルが見ていたら、ビンタの一つも貰ってしまいそうだ。自分がもっとしっかりしないといけないのに、サザビーに無理をさせない強さを持たなきゃいけないのに。
(そうか___あたしは彼を失うのが怖いんだ___)
大胆になれないのは、サザビーが私のために傷つくことを厭わないからだ。守ってもらうことは嬉しいはずなのに、あたしは彼を失うのが怖いから、彼に危険を冒してほしくない。それがジレンマなんだ。危険な旅だというのは分かっているから、余計に___
「___」
遺跡の近くの密林の中の背の高い木。縦横無尽に伸びる枝の一つに腰を下ろしていたミキャックは、上がってきた煙草の臭いを感じて長い瞬きをする。
「何しに来たの?」
「散歩。思ったより近くにいたんだな。」
ミキャックは彼を見下ろすことなく、幹に寄りかかるサザビーも彼女を見上げようとはしなかった。
「さっきはごめん。」
「なにが?」
「叩いたこと。」
「いつものことだろ。」
「___そね。」
ミキャックは少しだけ穏やかな顔になる。煙草の煙が上がってくるのに、もう昔みたいに噎せ返るような嫌さは感じなかった。これが彼の匂いだと思えるようになっていた。そう、初めて彼にキスされてからは余計に。
「ねえ。」
「ん?」
「あたしのこと好き?」
「ああ、好きだ。」
サザビーの答えに何ら迷いはなかった。
「どこが好き?」
「可愛いところ。」
「___嘘くさい。」
「本当はお尻。」
「___」
「そうやって怒るところも可愛い。」
沈黙が流れた。ただその間、サザビーはごく自然に、ミキャックは胸を高鳴らせて次の言葉を探していた。やがてサザビーが幹に預けていた体を起こしたことで、ミキャックは考えていた言葉を口にした。
「ならどうしてあたしを求めないの?」
歩き出そうとしていたサザビーが止まった。だが見上げはしない。
「あたしは___あなただったら大丈夫。あなたがあたしを変えてくれるかもしれないとも思っている。でもあなたは二人きりになっても、キスさえしようとしない。」
「今はその気はねえよ。」
その答えはミキャックにとって思いがけないものだった。
「どうして?」
「ご褒美だから。」
「???」
「全てがうまくいって、全てが終わったそのときのご褒美だ。何の心配もなくなって、おまえも本当に自由になったときに、俺はおまえに言うつもりだ。」
「なんて___?」
「愛してる。おまえが欲しい。」
胸を擽られるものがあった。それが今の彼の気持ちではないにせよ、その意志を感ぜられただけでも悦びがあった。
「断られたらしょうがないけどな。」
「断らないよ。それは今でもそう。」
ミキャックは笑みを浮かべていた。それはとても優しい笑みだった。
「ご褒美か___あたしもそれをこの戦いが終わったときのご褒美にしようかな。」
「___」
「でもね、もし何もないままあなたがいなくなっちゃったら、もうあたし立ち直れないかもしれない。」
「___」
ミキャックはサザビーの意図を察していた。彼は彼女の過去を知っているからこそ、本当に心から安心できるときが来るまでは、愛を深めるつもりがなかったのだろう。愛が深まるほど、彼女はサザビーに自らの人生を捧げようとする。過去の傷を癒し、穏やかな未来を与えてくれることを望む。
でも、もし彼が失われたら、彼女は失意のどん底に落ちるだろう。その可能性を否定できないから、サザビーは立ち止まっているのだろう。
「お願い、死なないで。もっと自分を大事にして。」
分かっていながら認めたくはなかった。この戦いには死の覚悟が必要であり、飄々としていながら彼もそれを持っている。だからこそ躊躇いなくアヌビスを利用することもできる。でもその大胆さが、ミキャックには辛いのだ。
「できるだけそうするよ。でも、俺もおまえだけは失いたくない。そういうときに痛みを負うのは男の役目だ。それは分かってほしい。」
ようやく、サザビーがミキャックを見上げた、二人の目が合う。黒く塗られた彼の左目に胸が締め付けられる思いだったが、ミキャックはしっかりと頷いた。
「んじゃな、明け方って言ったけど夜までには戻ってこいよ。」
「___?___あ!まさか二人で行こうとしてた___!?」
「ああ。でも今ので考えが変わった。」
一度は怒りかけたミキャックだが、その言葉に頬が緩む。しかし___
「ああそうそう、今の会話、多分アヌビスにも伝わってるぜ。」
直後、密林には苦悶の叫びが響きわたった。
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