5 残されたもの

 「戦力は分散する。でも手分けをするべきよ。ビガロスとバルカンからはオコンの元に独力で乗り切れるという報せがあったのだから、それは二人を信じましょう。バルバロッサ、あなたはロゼオンの世界を、私たちはキュルイラの世界に向かう。」
 そうしてレイノラたちは目的地をセラの世界から切り替えた。だが百鬼は気がかりでならなかった。それはセラの世界に向かったのがフュミレイだからこそなのだが、彼はそうは言わなかった。
 「なんだか胸騒ぎがするんだよ。俺が言うには女々しい言葉だと思うけどさ、とにかく嫌な予感がするんだ。」
 ただ実際そうだったのかもしれない。フュミレイの事など抜きにして、百鬼はセラの世界を無視することになにかの不安を抱いたのかもしれない。もしかしたら研ぎ澄まされた戦士の勘が、オルローヌの世界に飛ぶフェリル、あるいはソアラの存在を感じ取っていたのかもしれない。
 「分かったわ。」
 レイノラも彼の根拠無い要求を飲んでくれた。子供たちは父に同行する道を選び、レイノラが切り離した闇の雲に乗って、三人はセラの世界に急行した。
 いま実際ここに立って、特別当時の自分を振り返ることはない。ただ救う相手は違ったにせよ、この世界を選択したことは間違いではなかった。

 「うおおおお!」
 練闘気の白い波動に刀身を包み、百鬼は性骨に真っ向から斬りかかる。性骨はしなやかな跳躍で百鬼の攻撃をやり過ごすが、地を走った練闘気がすでに背後へと回り込んでいた。
 グンッ!
 性骨は腕をねじ曲げて高速で解き放ち、宙で体をあらぬ方向に弾けさせる。迸った波動は性骨を外れたが、百鬼は動きを見定めて追撃し敵を射程距離に捕らえていた。
 ギンッ!
 鋭い太刀筋を性骨は爪で受け止める。だが百鬼の刀はその程度では止まらない。驚くべき速さ、驚くべき精度。目にも止まらぬ速さで振るわれる刀の連続に、性骨は防戦一方となった。そればかりか、セラの花陽炎よりはるかに柔なはずの刀で、自らの爪が欠けていくことに目を見張っていた。
 (純然たる刀さばきはあの娘より上か___)
 竜樹の豪快な刀術に比して百鬼の刀術は精密だ。例えば石をノミで割るとき、優れた技師は石の臍を見抜き、一撃で四散させる。百鬼もまた、敵の最も脆弱な部分を瞬間的に見抜き、そこを寸分狂わずに狙って刃を放つ。だからこそ、性骨も防御に徹しなければならなかったのだ。
 (忌々しきはこの光___!)
 性骨は雌の匂いを敏感に察知する。百鬼に手を貸しているのが女だと察した彼は、しきりに鼻をひくつかせた。しかし幼いルディーはまだそんなもの放ちやしない。
 (あれか___)
 だが幼いからこそ思慮深さにも欠ける。ルディーの隠し立てしない魔力は、強い生命の証となって他と違う波動を漂わせていた。
 バシュッ!
 性骨の体から突如として血が飛び散った。
 「!?」
 それは霧のように宙に散って、迫っていた百鬼の視界を奪う。だが性骨は百鬼を攻めるでもなくあらぬ方向へと地を蹴った。その先にはルディーの隠れている林がある。
 しかし___!
 ズオオオオオオオッ!
 目映い輝きが性骨に降り注いだ。
 「くっ___!」
 紙一重。性骨はかろうじて踏みとどまった。しかしその顔はいつになく強張って見えた。止まらなければ、目の前の大地に走った深い亀裂に肉片を擡げていただろう。
 「惜しい___外れたか。」
 まだ眼をしばたかせ、百鬼はしかめっ面で呟いた。彼の手には驚くほど巨大な刀が握られている。それは練闘気を纏って膨れあがった刃だった。鋼鉄の芯を巨大なオーラが包み込んでいるのだ。
 刀の重みは変わらない。しかし百鬼の練闘気をその身に受けて、刀身は五メートルにも達しようかというほどだった。
 「逃げ切れるなんて思うなよ。」
 「図に乗るな、こわっぱ___!」

 ___
 「あん?」
 サザビーが怪訝な顔をして煙草の煙を吐き出す。
 「だからよ、練闘気の限界ってどこにあるんだ?」
 百鬼は同じ質問を繰り返した。
 「何でそんなこと聞くんだよ。」
 「___逆に何で答えを渋るのかがわからねえ。」
 「俺はおまえの師匠じゃねえだろ。練闘気を教えてくれたのはレイノラだ。」
 「サザビーに聞けって言われたんだよ。あの人に同じ事聞いたんだろ?それに俺たちの中じゃおまえが一番上達してる。」
 黄泉での修行の合間。百鬼とサザビーにそんな会話があった。
 「よぅし、ならレイノラの尻を触ってこい。そしたら教えてやる。」
 「なんでだよっ!」
 それから少しして、サザビーの前には頬を真っ赤に腫らした百鬼がいた。その少し前には、「失礼します!」という声とバチンッという乾いた音が響いていた。
 「尻を触れと言って、正面から両手回してわしづかみにする奴は初めて見た。」
 「折角だからしっかりやったまでだ!」
 胸を張って言うことでもあるまい。
 「で、答えは?」
 「え?」
 「え?じゃねえよ。」
 「まあいいか。話していいもんかどうか、悩みどころなんだけどな。」
 「?」
 「レイノラが俺に任せたのは、俺の方がおまえのことを知ってるからだ。教えてやるべきかどうか判断しろってことさ。」
 「どういうことだ??」
 「練闘気の限界は死ぬときだ。生命力を闘いの意志で増幅するんだぜ?早い話が、死んだら負けってことだよ。注ぎ込む生命力が大きけりゃ大きいほど練闘気は強くなる。俺はやる気無いけどな、自分の許す限り生命力を垂れ流せば、ソアラの竜波動より破壊力のある波動が作れるかもしれないぜ。」
 「___限界は自分次第って事か。でもなんでそれを俺に言うかどうか迷うんだよ。」
 「おまえが加減を知らないからだろ。」
 「はぁ?馬鹿にすんなよ、俺だって自分くらいコントロールできるぜ。」
 「わしづかみがよく言う。」
 ___
 焦りはある。だがそれを見せてはいけない。全力でこの化け物を倒さなければならないのだ。そうでなければ、竜樹や子供たちも危機に直面する。
 「うおおお!」
 「ぬぐぅぅ!?」
 限界が来る前にできる限り早く、しかし冷静に、百鬼は性骨を追いつめていた。

 だが局面は常に動くのだ。
 (どうする___どうする___)
 ルディーのいる林。息を潜めて気配を消して、一人の男が自らの取るべき行動を思案していた。
 (どうしたらいいんだ___アヌビス様は戦いに手は出すなって言ってたけど、目の前にあの憎たらしいガキがいるし___)
 ヘルハウンドのグレインだ。アヌビスがオルローヌの世界を見に来ていたのと同じように、グレインはセラの世界を訪れていた。あの大軍が押し寄せていたときも、巻き込まれないように極力離れて様子を窺っていたのだ。やっと一息付けると思ったところで今度は別の戦い。しかも隠れていた林に見たことある小娘が入り込んできた。
 (性骨っていってたよな___たしか性骨ってアヌビス様が黄泉から連れてきた八柱神じゃなかったっけ?輪廻ってのが本当は性骨で___なら助けた方が___いや、でも手を出したらアヌビス様に怒られるかも___)
 グレインの思考は混沌としていた。だがそうしている間にも百鬼は性骨を追い込んでいく。
 「ぐぐぐ!」
 性骨の苦渋に満ちた顔はそうそう見ることはできない。それほど彼は危機だった。生身の女、妊娠できる女が限りなく少ないこの世界は、彼にとって最悪の場所だ。彼は竜樹の資質を得たことで究極的な戦士となり、新たな輪廻転生の鎖を作らないまま戦いに臨んでしまった。そこには油断、慢心があった。まさかここまで追い込まれるとは思っていなかったのだ。
 すでに両腕は切り飛ばされ、しかもその傷口に忌々しい光が蔓延って再生を妨げている。この輝くフィールドの中では彼はあまりにも不利だった。
 「終わりだ、性骨!」
 百鬼の輝きを帯びた一刀が性骨を襲う。だがその時___
 フッ。
 「!?」
 ディヴァインライトの光が消えた。
 「これは天恵!」
 そして百鬼の刀もまた、瞬時に再生した性骨の手に阻まれていた。練闘気を白刃取りにした性骨の両手からは燻るような蒸気が上がっていたが、彼は意に介する様子もなかった。
 「へへ___」
 近くの林ではルディーが横たわっていた。気絶した彼女を見下ろして、グレインは冷や汗を滲ませた顔で薄笑いを浮かべていた。
 「へ______」
 彼はギリギリまで迷ったあげく、ちょっとした仕返しのつもりでルディーに手を出した。顔を見られることもなく一撃見舞って気絶させ、それなりに満足だったが胸の透くような感覚はこれっぽっちもなかった。

 「待って、待ってくれ!」
 森の狭間の開けた道を、リュカと竜樹は古禅庵へ走っていた。しかし竜樹が慌ただしく叫び、リュカも急ブレーキを掛けた。
 「無理だ___走るのは!」
 竜樹は悲痛な面もちだった。今にも泣き出しそうな、すでに涙をためた眼でリュカに訴えかけた。彼女の手は青黒い血肉にまみれていた。
 「どうしたの!?」
 リュカが慌てて駆け寄る。
 「セラが___セラの体が___!」
 それはあまりにも凄惨な光景だった。セラの体は毒を打ち込んだ腹から腐食が進み、すでに人としての形を保てなくなっていた。立ち止まった竜樹の足下に、セラの肉がこぼれ落ち、惨たらしく弾けた。
 もはや臓腑は朽ち果てている。かろうじて背骨が彼女の上半身と下半身を繋いでいるだけでしかない。それもすでに露出している。
 「セラ___!」
 抱きかかえている腕の間からセラは崩れていくのだ。堪らなくなった竜樹は彼女をその場に横たえた。
 「こんな時に冬美がいれば___!」
 あの女ならセラの命を紡ぐ方法を知っていたかもしれない。無策な自分を呪い、竜樹は拳を握りしめる。そんな彼女の姿にリュカが奮い立った。
 「僕に任せて!」
 「え!?」
 呪文は得意ではない、でも全くできない訳でもない。ライバル心からルディーが苦手なことをやろうと思って、回復呪文を色々と勉強してきた。その成果を試すとき!
 「リヴリア!」
 リュカの両手が光る。しかしその輝きはフュミレイやフローラの回復呪文にはほど遠い。セラの腐食を遅らせることさえままならなかった。
 「リヴリアッ!」
 そもそも回復呪文は対象の生命力を増幅させて治癒する呪文。その点で、すでにセラに効果がある見込みはない。
 「ん〜!リヴァイバ!」
 より魔力を高めて上級の呪文に切り替えてみる。しかし力不足か、リュカの両手の輝きは先程と変わらなかった。
 「もういいよ___」
 セラの横にへたり込み、竜樹は俯いて首を横に振った。
 「そんなことない!」
 「もう無理だ___分かるんだよ___」
 「諦めちゃ駄目だよ!」
 しかしリュカは頑として引かなかった。
 「お父さんが言ってた!どんなに大変でも諦めちゃ駄目だって!途中で諦めたら後で絶対に後悔するって!」
 竜樹は顔を上げた。その時に見たリュカの顔に、彼女は何か心動くものを感じた。百鬼と似ているからだけではない。幼いリュカに計り知れない奥深さを感じ、消えかけた希望の火が再び燃えさかるのを感じたのだ。
 「練闘気___そうだ、あれは生命力の波動!」
 それは竜樹に一つのひらめきを与える。彼女はすぐさまセラに手を翳し、自らの体から白い波動を溢れさせた。
 「凄い!お父さんのにそっくり!」
 「俺の師匠だからな___!」
 「よーし今度こそ!リヴァイバッ!」
 希望は人に力を与えるのだろうか、リュカの両手は今までにない強い光を発した。
 「頑張れ!」
 「セラ___!」
 二人は渾身の力を注ぐ。それでもセラの腐食は止まらない。しかし___
 「竜樹。」
 セラは目を開けた。
 「セラ!」
 「ああ___まだ何とか見える。最期におまえの顔を見ることができて良かった。」
 肺も半ば朽ちているだろうに、セラは思いの外はっきりとした口調で言った。竜樹は慌てて彼女の手を握る。もはや体温はなく、手も強く握れば崩れてしまいそうだった。
 「最期なんて言わないでくれよ___俺___俺はあんたのことが___」
 「案ずるな竜樹。」
 セラは微笑んだ。戦神の名を冠するものとは思えないほど穏やかな、母性溢れる微笑みだった。
 「滅びるのは肉体だけだ。我が魂はおまえと共にある。」
 「セラ___」
 「花陽炎を使え。そしておまえが戦神となれ。」
 「うう___」
 視界が濁ってしまうのも、セラから手を放すのも嫌だった。竜樹は首を竦めて胴着の袖で涙を拭う。
 「嫌だ___いっちゃ嫌だ___!」
 それでも涙は止まらない。だだをこねるように、竜樹は嗚咽混じりの声を上げる。
 「我が誇りをおまえに託す。強い女になれ、竜樹。」
 竜樹はただただ頷いていた。セラの手に額を寄せて、祈るように頭を動かしていた。
 「少年。」
 「はいっ!」
 慣れない魔力の浪費で額に玉の汗を浮かべながら、リュカは答えた。
 「ありがとう。君のおかげで竜樹に遺言を伝えられた。」
 「僕が治します!」
 「君の心地よい魂を見込んで頼みがある。」
 「はいっ!」
 「竜樹を守ってやってほしい。」
 「はいっ!!」
 即答で、今までのどんな返事よりも元気良く、リュカは答えた。セラは彼の清々しい態度に笑みをこぼす。
 「ありがとう。安心したよ。」
 そして事切れた。
 「セラ___?」
 火を吹き消すように、セラは静寂に落ちた。目を閉じ、口を閉じ、石のように動かなくなった。死の直前まで矍鑠(かくしゃく)とした己を保ち続ける、彼女らしい潔い死だった。
 「セラァ___」
 腐食は崩壊へと変わる。セラの体は灰の塊のようになって崩れ落ちていく。握っていた手が軽い感触で粉に砕ける。竜樹はセラの灰で白くまみれた手を見つめ、嗚咽した。
 どこからともなく吹きつけた風が、彼女の亡骸を掻き消していく。その場に残されていたのは___
 「これ___」
 花陽炎だ。
 「これお姉ちゃんのだよ。」
 リュカもまた涙ぐんでいた。しかし彼はセラの願いを果たすべく、子供らしからぬ気丈さで花陽炎を取り、竜樹に差し出していた。
 「頑張ろう!お父さんも頑張ってるんだから!」
 「百鬼___」
 俯いて動かなかった竜樹がゆっくりと顔上げる。
 「そうだ___百鬼!」
 こうしている間にも百鬼は性骨と戦っている。それを思い出した竜樹は奪うように花陽炎を握りしめた。
 「あ!」
 その時、リュカが空を見て声を上げた。晴れた空の中でも一際明るくなければならない場所にそれがない。
 「ルディーの呪文が無くなってる!」
 それはどういう意味か?良かれ悪かれ、戦いに動きがあったのは違いない。リュカはあからさまにうろたえ、そわそわした様子で意味もなく辺りを見回した。
 「落ち着きな。確かめればいいだけだ。」
 だが立ち上がった竜樹が肩に手を掛けると、リュカの動揺はいくらか和らいだ。振り返り、互いに見合うと驚くほどに勇気が沸いてきた。
 「さあ行くぜ!えっと___」
 「リュカだよ!」
 「よし!行くぜリュカ!」
 「うん!」
 そして二人は一目散に来た道を駆け戻っていく。まだ熾烈な闘いが続いているのか、それとも百鬼が勝利したのか。いずれにせよその目で見れば分かることだ。

 二人はすぐに戦場へと辿り着いた。
 「なんだ___」
 だが意気込みとは裏腹に、二人は困惑の面もちでいた。それもそのはず、戦場となった場所は閑散としていたのだ。人の気配はまるで無い。
 「ルディー!」
 「え?」
 「ルディーがあそこにいるはずなんだ!」
 そう言うなりリュカは近くに見える林へと駆けていった。戦神の勘とでも言おうか、危険を感じなかった竜樹は後ろ姿を見送る。彼女はむしろこの場所が気になっていた。激しい闘いの跡はあるのに、それ以外には何もないように見える。
 「これは___きっと練闘気だ___」
 大地には幾重にも亀裂が走っていたが、その一つはあまりにも巨大で、地割れと言っても良いほどだった。
 「すっげえ___これ、百鬼がやったんだ___これなら性骨だってひとたまりもないはず___」
 手足を伸ばして倒れ込んでも、端から端までは届かない幅。長さは遙か先まで続いているし、深さは水が湧くのではないかと思うほどだった。おそらく練闘気を刀に纏い、放った一撃だ。他にも同じような亀裂はあるが、これだけ並はずれている。
 「あれは___?」
 その谷の縁に何かが引っかかっていた。竜樹はそれに近づいていく。何かの布きれ、拾い上げて竜樹はそれが何か気が付いた。
 「はちまきだ___百鬼がいつも巻いてるやつ___」
 柄は少し違うかもしれない。でもこれはきっと百鬼のものだ。
 「お姉ちゃん!」
 林から顔を出してリュカが呼んでいる。「お姉ちゃん」と呼ばれることには何ともガックリだが、リュカがなにやら焦っている様子だったので竜樹はバンダナを握ったままそちらに急いだ。
 「ルディーが!」
 林の中でルディーが倒れていた。竜樹は彼女に駆け寄る。息はあるし、首筋に小さなアザがあっただけで大きな怪我はない。誰かに当て身を食らわされただけのようだ。
 だがだとすれば性骨ではない。奴ならこんな回りくどい真似はしないだろう。ましてこの子はまだ幼いとはいえ、奴にとっては貴重な資源だ。
 (別の誰かがここにいた___?)
 その可能性は考えられる。
 「さっきの呪文をかけてやるんだ、弱いやつな。無理したらおまえが倒れそうだし。」
 「大丈夫だよ。」
 「俺はその辺を調べてくる。」
 「気を付けてね、お姉ちゃん。」
 「___そのお姉ちゃんってのはやめよーぜ。」
 「なんで?」
 「なんでも!」
 抜き身の花陽炎を手に、竜樹は林を奥へと進む。ルディーから少し離れたところに、落ち着きのない足跡があった。軟らかい土の上で迂闊にも右往左往した足跡。ルディーを見る位置で何か迷っていた様が目に浮かぶ。
 (性骨なんかとは格が違うな___)
 優柔不断な奴だ。逃げるかどうか迷ってまだこの辺にいるかもしれない。
 「え?」
 その時、竜樹は不意に妙な声を聞いた気がした。閃いたと言うべきだろうか?ともかく彼女は思うままに花陽炎を軽く振るった。
 ヴゥン___
 大気を裂く音と共に周囲に揺らぎが飛び散った。竜樹の周りに陽炎が立ち、すぐに消えていく。しかしある方向の陽炎だけは暫く揺らぎを保っていた。
 「あっち___そういうことか。」
 自分でも良く分からない。だが花陽炎の使い方が勝手に頭の中に浮かび上がったのだ。
 (セラ___なのか?)
 彼女のことを思い出すとまた悲しくなるから、この場で考えるのはやめよう。竜樹はともかく花陽炎が示してくれた方向へと急いだ。
 ガサッ___
 「!」
 ある程度林を進んだところで確かな物音がした。それからの竜樹は速かった。寸分違わず音の出所へと詰め寄り、花陽炎を一閃した。
 「ひぃぃ!」
 藪を切り裂くと、そいつは怯えた声を上げて逃げ出そうとするが、足がもつれて転んでしまう。
 「よう___見た顔だな。」
 「ひぃぃぃっ!」
 翻ったグレインの鼻面には花陽炎の切っ先があった。
 「ここで何があった?」
 「聞くな___!」
 グレインは首を竦めて小刻みに横に振る。彼は酷く青ざめ、目には涙を溜めていた。
 「俺はアヌビスにも一応世話になったんでね。言えば何もしねえよ。ただ黙って自由にしてやるほどの義理もないぜ___」
 「聞くな___俺に何も聞かないでくれ___!」
 竜樹は怪訝な顔でグレインを見る。彼の怯えぶりがあまりにも酷いのが気に掛かった。
 「なんだよ、俺だぜ?竜樹。そんなに怖がる相手か?あ、おまえ捕まってたから俺のこと___」
 「うわあああ!」
 切っ先が鼻先から少し逸れた瞬間、グレインは叫びながら逃げだそうとする。しかしなぜだろう、彼の体は酷く萎縮しているようで、足がまともに動いてくれずまたすぐに転んでしまった。
 「おい___」
 あまりにも様子がおかしい。竜樹はあえて刀を下ろし、グレインに近づこうとする。
 「来るな!俺に関わるな!」
 グレインはただひたすら拒み続けた。しかしその態度は竜樹の疑念を一層深めるだけだった。
 「もしかして___おまえ性骨に何かされたのか?」
 「言うな___頼むから___言わないで___!」
 「それとも別の誰か___そうだ!おまえ何があったか見てたんだな!?百鬼も性骨もいないのは何でだ!?何があったんだよ!」
 転倒したまま、四つん這いになって逃げようとしていたグレイン。しかし今はもうその場で蹲っている。
 「?」
 先程までの騒ぎはどうしたというのか?彼はもうまるでジタバタしていなかった。
 「おい___?」
 竜樹はゆっくりとグレインに近づく。花陽炎を握る手に力を込めて、彼の肩を軽く蹴り上げた。
 「!!」
 グレインは簡単に仰向けになった。その顔はもはや凍り付いているのではないかと言うほど、血の気を失っていた。首には力が無く、ダラリと軟らかな土に横顔を埋めていた。
 「なんだ___」
 慄然とし、唾を飲み込んでから、竜樹はグレインの首筋に手を触れた。
 「なんなんだこいつは___!!」
 あまりにも唐突。しかし確かに彼は息絶えていた。




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