4 薄翅蜉蝣

 性骨。それはまさしく最凶の妖魔である。Gの源となったロイ・ロジェン・アイアンリッチ、それに勝るとも劣らぬ悪逆非道の化身である。彼を滅する手段があるとすれば、一切の種を断ち、一切の自由を許さず粉微塵にすり潰すしかないかもしれない。あるいは水虎の陣、ムンゾの束縛など、奴の継承の能力そのものを封じる手段がなければ、不可能かもしれない。
 「___」
 セラは森の中に立っていた。彼女は内に怒りの炎を燃やしながら、明鏡止水のごとき静けさで立ちつくしていた。
 「!」
 そして感じた。性骨の気配?いや違う、命の喪失だ!
 「おのれ___!」
 セラが消えた。風よりも早く、彼女は駆けた。僅かではあるが、セラの世界には村がある。そこではこの世界で生きながらえることとなった人々が暮らしている。
 性骨の恐ろしさはこの用心深さに他ならない。つまり彼は、自らの種をいずこかに仕込んだ上で、セラと対峙しようとしているのだ。だから彼は風呂場での戦いでなく、外へと逃げた。
 「ふむ___なるほどここはわしには向かぬ場所のようじゃ___」
 小さな村。周囲に女の躯を転がして、性骨は呟いた。そして___
 シュッ!
 再会の時はすぐに訪れた。
 「さすがじゃ___もう感づきおったか。」
 太刀は空を切り、性骨は一瞬にして遠くまで逃れていた。セラの足下には腹を開かれ血だるまとなった女の骸がある。それだけでない、遠い間合いで対峙する性骨の両手には、それぞれ別の女の一部がぶら下がっていた。
 「まだ不完全でのう、少々食事が必要なのじゃ。邪魔するでない___」
 笑みを浮かべ、性骨は手にした肉を頬張った。そして消える。一瞬にして、セラは性骨に迫り、性骨は届かぬ場所へと逃れた。
 「ここの連中は死体のようじゃな___肉体はあるにせよ、子を孕む力は持ってはおらぬ___おかげでわしは退路を断たれた。ここは非常に住みづらい___」
 セラの方が僅かに速かったのだろう。性骨の肩口が裂けていた。しかし彼には何ら動じる様子がない。自ら「後がない」と公言しておきながらである。それはあまりにも不適だった。奴は自らの目的を達成できることを疑っていない。目の前にいる唯一の生身の女を我が手にできると確信しているのだ。
 「言いたいことはそれだけか?」
 だがセラは些細な懸念も抱いていなかった。この深紅の血装束を纏った時点で、彼女の討魔の意志は揺らがない。敵の言葉に聞く耳を持つこともない。手加減も、試し打ちもしない。ただ滅するのみ。
 ゴォッ___!
 性骨がほんの僅かに眼を見開いた。セラの持つ刀が燃え上がったのである。朱の炎は陽炎を立ち上らせ、セラの血装束を揺らぎに包む。それは刀身の炎と相まって不死鳥のごとく輝いて見えた。
 「炎舞陽炎(えんぶかげろう)___」
 花陽炎は進化する刀。戦神の真の力を示すがために、刀もまた真の力を現す!
 ゴオオッ!
 陽炎の揺らぎを残像に、セラが動いた。性骨は宙に飛び退き、セラの炎は空を切ったかに見えたが、彼女はすでに性骨の後ろの空に回り込んでいた。だが性骨はそれを読み、鋭い爪を放つ。
 シュッ___
 「!」
 爪を振るった性骨の左腕が消し飛んだ。背後に迫ったセラは陽炎の作り出した偶像。しかも腕ごとき骨の髄まで瞬時に消し去る高熱の陽炎だ。
 次の瞬間、性骨は幾人ものセラに囲まれていた。その全て、いや一つを除いた全てが高熱の陽炎だ。
 ジュハッ___
 苦し紛れに投げつけた肉の塊はセラに触れるまでもなく消し飛ぶ。
 「これほどとは___!」
 陽炎の檻の中で、セラは炎舞陽炎を性骨の脳天に振り下ろす。その劫火は一瞬で全てを蒸発させる。性骨の苦悶の言葉すらあっという間に消し飛ばしてしまうほどに。
 「___」
 揺らぎが薄れ、刀身の炎が収束していく。静けさを取り戻した空にセラはいた。しかし晴れがましさはない、むしろ愕然としたように目の前の悪鬼を凝視していた。刀は軌道をそれ、性骨の顔を半分溶かしただけに留まった。
 「ぐ___ぐぅぅ___!」
 セラは片手で自らの肩を抱き、呻いた。
 「わしは実に幸運じゃ。」
 性骨は今まで以上に醜く歪んだ顔で笑っていた。それはセラの背にある。この土壇場で、別の仕込みが効果を発揮したことを彼は素直に喜んでいた。
 「あの小娘の資質だけでなく、奇妙な寄生生物の血を得ることもできた。だが奴めわしまで乗っ取ろうとしおったから、追い返してやったのじゃ。奴が怯んだところを見事に小娘から切り離したのはおまえじゃったな?」
 性骨は饒舌に語る。対するセラは苦悶に震え、額に大量の脂汗を滲ませていた。そして___
 「うぅぅっ!」
 血装束の背を裂いて、青い塊が盛り上がった。セラは宙に止まっていることができず、木の実のように地に落ちる。しかし叩きつけられることはなく、片膝を付いてかろうじて着地した。その衝撃だけで彼女は顔を歪ませていた。
 「おまえのは完全に消えてはおらなんだ。ほんの少し喝を入れてやったつもりが、よほどきいたらしいのぉ___」
 セラの背中を支配したのは二体のモバティキスだ。それはセラの背中そのものよりも大きく膨れあがり、我が物顔に居座っていた。おそらくは歯だ。足に食らいつかれたとき、モバティキスに活力を与えるなにかを注入された。それはきっと血に関わる何かだろうがそんなことはどうでもいい。
 「さあ、宴はこれからじゃ。」
 「!」
 次の瞬間、性骨はセラの背後に回り込んでいた。逃げなければならない、しかし重すぎる背の枷に、彼女は身動ぎするのがやっとだった。
 ズ___
 「ぬぅっ!?」
 だから別の手段に打って出た。もう逃れることはできないと察したから、彼女は次善の策を取った。それは性骨をあっと言わせるものだった。
 「薄翅蜉蝣(うすばかげろう)を知っているか?」
 振り返らずに喋る。自ら彼女の正面へと舞い戻った性骨は、セラの口元から血が溢れ出ているのを見た。
 「真なる姿となれば、短き命が果てるのを指折り数えるだけ。愚鈍な殺し屋が、去り際の一時に華やかな火を散らすだけ。」
 セラは花陽炎を自らの腹に突き刺していた。
 「花陽炎終焉の霞___薄翅陽炎。」
 花陽炎の刃が霞のように溶けて消える。背中ではモバティキスがなにやら慌ただしく蠢いている。
 「まさか___!」
 腕をだらりと垂らし、少し押せば倒れてしまいそうなセラ。性骨は残された右手の爪をセラの装束に引っかけた。血装束は簡単に破ける。しかし露わになったのは白い肌ではなかった。
 「!!」
 性骨はゆっくりと仰向けに倒れていくセラを見据えるしかなかった。彼女の腹は青紫と黒の斑に代わっていた。皮膚は膿み、罅入り、もはや原形を留めていなかった。毒または菌類による急速な腐敗、それは刀が食い込んだ下腹から進む。
 そこに薄羽蜻蛉の儚さはあっても、柔な白雪のような美しさはない。
 あるとすれば潔い精神の放つ美しさだけだ。
 「なんたる真似を___」
 セラが倒れる。背に巣くっていたはずのモバティキスはすでに朽ち果てていたのだろう、黒ずんだ塊は、炭のようにセラの背と地面の狭間で簡単に砕けた。敗北を覚悟した瞬間、彼女は敵の望むものを破壊することに目先を変えたのだ。
 薄翅蜉蝣の幼生である蟻地獄は肛門を持たず、糞をしない。成虫となったとき、かつては貴重な栄養源だったそれを一気に排泄するのである。セラの体を腐らせた毒は、花陽炎が真の姿を現すまでに溜め込んだ糞であり、澱である。刀がどれだけ生命を奪ってきたか、それ次第で澱の質は変わる。
 「口惜しや。だがここの決まり事はあの娘の腹の中で聞いたつもりじゃ。」
 虫の息ではある。だがセラにはまだ命がある。ならばとどめを刺し、せめてその力を我が身に還元すべきだ。
 ゴガッ!
 しかし爪を振りかざすまでもなく、性骨はその場から弾き飛ばされた。セラの所業に呆気を取られていたのか、それとも___
 「セラ!」
 ともかく駆けつけた竜樹の強烈な蹴りに性骨は吹っ飛んだ。しかし宙で翻って、両足と片手で虫のように着地する。こちらを睨むでもなく、瀕死のセラの元に跪いて呼びかける竜樹を見やり、彼はニヤリと笑った。
 「ほほう、蘇ったか。それほどわしに貫かれたいか?」
 声を掛ければ怒りの形相をこちらに向けると思っていたのだろう。しかし竜樹は違った。性骨には目もくれず、変わり果てつつあるセラの体を慎重に抱き上げる。
 「!」
 そして消えた。そう、彼女は激情を捨てた。それはセラという人物に触れたことで生まれた、戦神の冷静さか。この場で性骨に挑むことを避け、逃げる道を選んだのだ。
 シュッ!
 だが竜樹は踏みとどまらざるを得なかった。性骨が彼女の前にあっさりと回り込んだからだ。
 「逃がすと思うたか?」
 生々しい水音を立て、消えたはずの右腕が再生する。性骨はその一挙手一投足に示威を込め、竜樹を飲み込もうとする。
 「心意気は良い。だが丸腰で何ができる?」
 竜樹はギリリと歯を食いしばり、性骨を睨み付ける。なんとしても逃げ道を探さなければならない___せめて一撃、丸腰であっても突破口さえ開ければ!
 「おおおおお!」
 竜樹は叫び、すぐに牙と角と斑紋が浮き上がる。自らの能力だと知ったことで、彼女は変身を完全に手の内に入れていた。治癒の不十分な腹の傷が開いたが、セラが風呂上がりにと用意してくれていた藍染めの装束なら、血染みが紛れる。薬はそれだけで十分だ。
 「ずあああ!」
 野獣のごとき獰猛さで、竜樹は性骨に襲いかかった。窮鼠猫を噛むとはまさにこのことか。カウンター気味に放たれた性骨の右手。まだ粘液を纏った手に竜樹は噛みついた。鋭い爪を頬に突き刺しながら、彼女は構わずに性骨の指を食いちぎる。すぐさま口をすぼめると、食らった指を吹き矢のようにして性骨目がけて吹き付けた。思いがけない攻撃は老翁の動きを止める。指がダーツとなって性骨の目元に抉り込み、それと共に竜樹は渾身の力で性骨の脇を蹴り上げた。
 アンバランスな体が揺らいだ隙に、竜樹は駆けた。開けた集落跡はあまりに分が悪い。少なくとも森まで逃げ込めれば。そう思っていた。
 ガッ___
 「!」
 しかし期待を持てたのはほんの一瞬でしかない。ほんの僅かに引き離すこともできず、竜樹は性骨の左手に頭を捕まれた。
 性骨とは何度か対峙したから分かる。この化け物は不気味だが、純然たる戦闘能力は並以下だ。一対一の勝負となれば目の前の性骨に勝つというのはそこまで難しいことではないはずだ。まして逃げるくらいなんてこと無いはずだ。
 「なぜ鈍足なわしがお主を捕らえられるのかと思うておるな?」
 見透かされている。竜樹はうなじに吹きつける澱みに満ちた吐息に恐怖した。飲まれてはいけないと保ってきた冷然な顔が揺らぐ。
 「わしが何度おまえと交わったと思うておるのだ?おまえの腹の中で存在を紡ぐのは、わしの中でも優れた形質を持つものだけじゃ。限りない近親交配の果てに、優れた資質だけが凝縮された存在、それが今のわしよ。もはや真っ向から挑んだとて、古びた母のお主に勝ち目はない。」
 それは竜樹を絶望させる言葉だ。しかし今の彼女には何があっても屈しない勇気がある。胸に抱くセラの存在感が彼女を奮い立たせるのだ。
 「うおおお!」
 何であれ、たとえ性骨の言う通りだとしても、やるしかないんだ。竜樹はこめかみに食い込んだ爪がより深く抉り込もうと構わずに、振り返る。片手でセラを抱き、右手には大好きな人の技、破壊の練闘気を満たす。
 ゴッ___
 鈍い音がした。性骨は竜樹の拳に再び再生させた右手を合わせた。
 二つの拳がぶつかり、砕けたのは竜樹だった。決死の練闘気を込めた拳は、まだ色白で不完全な性骨の拳に負けた。オーラは散り、拳は五本の指の股それぞれで皮膚が裂け、血が迸った。
 この瞬間、竜樹は敗北を覚悟し、性骨は勝利を確信した。
 「!!?」
 しかし、戦場の異変が竜樹の命を引き延ばした。突如として大地から目映くも美しい光が立ち上ったのだ。
 「ぐ___ぬうう!?」
 竜樹にはなんの不快感もなかったその光だが、性骨は明らかに怯んだ。
 そして___
 ザンッ!
 「___!」
 竜樹が性骨の右手ごと解放された。頭を掴む悪魔の腕を、鋭い太刀が断ち切ったのだ。性骨は苦悶の顔で後方に飛び、よろめいた竜樹の側には小さな影が走り寄る。そして二人の狭間には雄々しい影が立ちはだかっていた。
 「間に合ったって言えるかどうかはわからねえ___だがここに来たのは正しかった!」
 本当にオルローヌの予言は良く当たる。今この場に百鬼がいること、それは竜樹にとって夢のような話だった。体の芯から発せられる正義感、勇気、全てを受け止めてくれる包容力、暖かみ、彼の熱き魂をいまこの瞬間感じられること、危機に駆けつけてくれたのが彼だったこと、それは竜樹にとってあまりにも幸せな出来事だった。
 「竜樹!逃げろ!」
 だが感動に浸っていられる状況ではない。百鬼の怒声に竜樹はハッとした。
 「でも___」
 「さっさと逃げろって言ってんだろうが!」
 「っ!」
 彼の怒鳴り声に、柄にもなく肩を竦めた。そんな彼女の姿を横目に見て、百鬼は白い歯を見せてくれた。
 「心配すんな。俺に任せて、おまえはそいつを助けるんだ!」
 「___」
 「返事!」
 「は、はいっ!」
 天界での師弟関係を思い出したかのように竜樹は背を正して答えた。
 「ほらこっち!」
 袴の裾を引っ張る小さな手に、竜樹はようやく気が付いた。百鬼の面影がある鳶色の髪の少年。リュカは勇気に満ちあふれた顔で竜樹を見あげていた。
 「___」
 逃げなければならない。だが竜樹は今この瞬間にどうしても言いたいことがあった。それは胸の奥から突き上がった衝動でしかなかったが、彼女は百鬼の背に叫んだ。
 「百鬼!俺___おまえのことが大好きだ!」
 百鬼は振り返らなかった。動揺もなかった。ただ片手を刀から放し、親指を立てた。竜樹にとってもそれだけで十分だった。真意を理解してくれたかどうかは別にして、彼が受け入れてくれただけで満足だった。
 「行こう!」
 「___うん!」
 リュカに引かれ、竜樹が走る。逃がすまいと、性骨は切り離された右腕の断面から骨を放つ。それはロケット砲のような速さで竜樹の背中を狙ったが___
 グワシャッ!
 百鬼の脇を通り過ぎることはなかった。構えた刀は微動だにせずとも、全身から迸る白いオーラに阻まれ、骨の砲弾は宙で砕けた。
 「なめるなよ爺さん。今度こそ俺が引導を渡してやる。」
 「男に用はない。」
 すぐさま右腕が再生する。しかし先程までに比べるとスムーズさを欠いた。それは戦場を包む光のせいだ。この光に込められた強い浄化の力、或いは陽の力が、陰の象徴たる性骨の力を抑えている。
 (かっこつけてないで早くしてよね___)
 それに魔力を注ぐのはルディー。集落に隣接した林の中から、彼女はディヴァインライトを唱えていた。小さな体に秘める計り知れない魔力で父を助けるために。
 「こっちこっち!」
 竜樹を導くようにして走るリュカ。竜樹には彼の体から放たれる暖かさが何となく見えていた。なぜだろう、傷だらけの体の痛みを和らげてくれるような、挫けそうな心を奮い立たせてくれるような___それは救いの光だろうか?実体として見えるのではない、彼の体が纏う気配がそれなのだ。
 「大丈夫!あいつはお父さんがやっつけてくれるよ!」
 あのソアラの息子であることは関係ない。彼が百鬼の子であることに竜樹はとても感銘を受けた。
 「ああ!」
 彼を見ているだけでとても勇気づけられる気がした。




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