2 ある旅の終わり
これを悪夢と言わずしてなんと言おう。それは愛しいアレックスが目の前で連れ去れたあの瞬間、あるいはそれ以上の悲劇だった。
そうさ、この旅は僕ら三人で始まった。それがこんな形で終わりを迎えるなんて思わなかった。僕はソアラを信じている。フローラのことを愛しているのと同じくらい、ソアラのことも大切に思っている。そしてフローラがどれほどソアラを大切に思っているかも知っているし、ソアラが一番の親友を尋ねられれば迷わずフローラと答えるのも知っている。
そのソアラがフローラを傷つけた。いや、それじゃあすまない。命を奪おうと___違う、命を奪ったんだ。奪ってしまった。そして僕も___
死がどういうものか、今暗闇の中でじっくりと考えている。それはとても怖い。全て夢だったらいいのにとか考えてしまうくらい、闇を走る汽車の旅は長いみたいだ。
ああ、本当に夢だったらすぐに醒めてほしい。そうだなぁ、僕はフローラと二人でカルラーンの家にいて、アレックスの笑顔を見ているんだ。そう、今はアレックスが消えてしまったあの日の少し前なんだ。
そうだ、目を開けて見ようよきっとそこには___
「よ。」
「え?」
自分の顔には影が差している。しかし影の周りに射す日差しが、闇の列車を消し飛ばした。そう、ライの前には確かに顔があったのだ。ただそれは愛らしい赤ん坊の顔ではなかった。
「おい、嫁さん。旦那が起きたぞ。」
そう言って奴は顔を上げる。あまりに接近していたから見間違いかとも思ったが、確かにそいつは今目の前で動いている。長い耳、長い口、黒い被毛、黄金の目。
紛れもない、アヌビスが目の前にいた。
「ええええええっ!!!!?」
衝撃であと三回死ぬのではないかと思うほど、ライは絶叫した。アヌビスは長い耳を後ろに畳んで渋面になる。
「な、ななな、なんで!?」
ライは慌ただしく体を起こして武器を探し回るが、そんなものはどこにもない。完全に錯乱していて、胸が大きく裂けた服のことなど気にも留まらなかった。
「ライ、違うの。落ち着いて。」
「フローラ!」
今度はフローラが無事であったことに驚き、弾けるような笑みになったかと思うと、一転、フローラの服に開いた穴を目の当たりにして急に凍り付いた顔になった。つくづく忙しい男だ。
「___あっ!」
冷静にさせるには良い薬だったかもしれない。腹に穴の開いた服を見たことで、自分の服の胸が裂けていることにも気付いた。そこでようやく、ライはどこまでが夢だったのかを知った。
オルローヌの祭壇の間で起こった出来事は全て現実であり、いまここにいるアヌビスも現実なのだ。気の高ぶりは到底収まりそうにないが、ようやく状況が飲み込めてきた。
つまりこれは、俄に信じがたいが___
「アヌビスがあたしたちを助けてくれたのよ。」
そういうことなのだろう。
時を少しだけ巻き戻す。それはオルローヌの祭壇の間にソアラが現れ、オルローヌの命が危機に瀕していたときのことである。
このとき祭壇の間にいたのはフェリル、ソアラ、オルローヌ、ライ、フローラの五人。しかし神殿にはもう三人いた。
___
「ソアラ___どうして!?」
神殿は複雑に入り組んでいた。オルローヌは口にしなかったが、サザビーに少しだけ神殿の構造を教えていた。こういう可能性を予感していたとは思わないが、彼はサザビーを信用し、頼りになると考えたから伝えたのだ。
話をしながら遺跡を歩き、サザビーとミキャックが行き着いたのは大きな鏡のある部屋だった。そこは祭壇の間の裏、数枚の壁を隔てた先にあり、しかもちょっとした隠し扉などを抜けなければたどり着けない場所。鏡には祭壇の間の様子が映し出されていた。
ソアラが現れた瞬間、サザビーとミキャックはこの場所でそれを見ていたのだ。
「行くな!今必要なのは敵の黒幕を知ることだ。そいつが何よりも優先する。」
「だからってこのままじゃライとフローラが!」
ミキャックにはサザビーの冷静さが理解できなかった。しかしサザビーは彼女の腕を掴んで放そうとしなかった。
「ソアラ一人なわけがない。闇雲に行っても死亡者リストに俺たちの名前を乗せるだけだ。」
「そんなこと___!」
その瞬間、オルローヌの背後に女が現れた。二人の目は鏡に釘付けになった。
「女___!?」
「だな。」
それから祭壇の間は加速度的に動きはじめる。たまりかねたミキャックが活路を開くべく天井に向かって手を輝かせた。だがサザビーの声が彼女の動きを止める。
「なあ!出てきて手を貸してくれねえか!?」
「驚いたな気付いていたのか。」
そして二人だったはずの部屋に、アヌビスが現れた。
「あいつが光ってくれたおかげで影がはっきりした。闇に紛れて隠れてたんだろ?」
「正解。ちょっと子供じみた隠れ方だったな。おまえらが迷わずこの部屋に来たもんだから、久しぶりに少し慌てたよ。」
「うそ___なんで___!?」
ミキャックはただただ唖然していた。そんな彼女を置き去りに、サザビーとアヌビスの間で話が進む。
「取り巻きも無しに遺跡見物か?」
「まあそんなところだ。」
「そのついでに仕事をしてくれねえかな?ライとフローラを助けてほしいんだ。あの女やソアラに手を出してくれとはいわねえよ、ただ助けてくれりゃあそれでいい。」
「報酬は?」
「ここで敵とソアラを見れただろ?他に情報とか欲しいものがあればライとフローラから貰ってくれ。」
「ふ〜む。」
「それともう一つ。ミキャック、髪飾りのクリスタルくれ。」
「え?えぇえ?あ〜もうっ、わけわかんない!」
戸惑いながらも、ミキャックはクリスタルを一つへし折ってサザビーに渡した。
「こいつをソアラの服に仕込んでほしい。気付かれないようにやるのはあんたじゃなきゃ無理だ。」
「ふ〜む___」
アヌビスは思案する。そうしている間に、オルローヌの首が飛び、ミキャックが息を飲む。それでもサザビーは泰然自若とした態度を保ち続けていた。邪神を目の前にしても臆することなく、しかも冷然と要求を突きつける大胆さと判断力。おそらくソアラたち一行の中でもこいつにしかできない芸当だ。
(大した奴だ。)
アヌビスには彼の高鳴る鼓動が聞こえていた。しかしそれをおくびにも出さない姿に、素直に感心していた。
「欲しいものがある。そいつをくれれば要求を飲もう。」
「おう、何でも言ってみな。」
「___というわけだ。俺は時を止め、おまえたちを助け出してここまでやってきた。」
アヌビスはサザビーとのやり取りを語った。だが最後の一節、彼がサザビーに何かを求めたことには触れていない。
「ここは___?」
「隣の世界だ。収穫の女神リーゼだったよな、確か。」
こんな瞬間がやってくるとは夢にも思わなかった。ライとフローラには、今アヌビスと向かいあって会話しているという状況が不思議でたまらなかった。岩に腰掛け、ごく近い距離で生来の敵と語るなんて想像もしなかったことだ。
「見てたんだよね___」
「今話した通りだ。」
「ソアラは何であんなことに___?」
「さぁ?だがはっきりしたのはあのフェリルとかいう女が神殺しで、ソアラはあれに気に入られたということだ。俺が言うのも何だが、つくづくもてる奴だよ。」
アヌビスは淡々と語る。誰の言うことでも鵜呑みにしがちなライでさえ、彼の言葉には慎重になっているようだった。
「なんだか信じられない。本当にソアラのことを知らなかったんだよね___?」
ただ言葉遣いに荒っぽさはない。仲間たちと語るときのいつものライだ。それだけ今のアヌビスは、信用に値しなくとも命の危機を感じるような相手ではないということか。
「気にしてなかったからな。あいつのことよりも、この世界を知る方が面白かった。」
「過去形なのね___」
「ンフフ。」
フローラの指摘に不穏な笑みを浮かべ、アヌビスはひとつ舌なめずりする。
「敵はもう三人も神を殺しているわ___その割にあなたは大人しいのね。」
「今のところはただの傍観者だよ。」
「最後の最後でものにするつもり___?」
「さあどうだろう?」
「アレックスは___!」
彼の真意を聞いても煮え切らない答えが返ってくるだけだ。今ここで聞かなければならないことを思い出したライは、声を大にして尋ねた。
「アレックスを返してくれ!」
「じゃあ代わりにフローラを貰おうか?」
「そんなの駄目だ!」
「あぁ、ミキャックとかフュミレイでもいいぞ。うん、むしろそっちの方がいいかな。」
「駄目だ!みんな駄目!___でも僕だったらいい!」
「ライ!?違うわ、本気にしないで!」
二人の反応をニヤニヤしながら見ていたアヌビスは、声を上げて笑った。
「頼まれてもいらないよ。おまえみたいなタイプとは絶対にそりがあわない。」
謹厳実直なまでに自らの正義を貫く男だ。他の誰かを捧げればという提案にも、彼は一切迷いを見せなかった。扱いづらいタイプではないが、面倒くさい。
「あいにくだがアレックスのことはダギュールに任している。連れてきたのもあいつだからな。そして___今俺とダギュールはちょっと喧嘩中だ。」
その言葉にライとフローラは目を白黒とさせた。
「___け、喧嘩?」
とびきり訝しげな顔をして、ライが問い返す。
「そういうわけであいつが今何をしているか、よくわからん。」
「___??___あ!」
折れるのではないかというほど首を傾げ、ライは突如としてハッとする。
「危ない!危うく信じるとこだった!」
「そ、そうなの?」
「いやいや、本当のことだから。」
そうは言っても信用できる話ではないだろう。そこでアヌビスはもう少し詳しく説明することにした。それは二人を身震いさせるような話だった。
「いわゆる方針の違いだよ。俺は成り行きを見続けたい、あいつは十二神の力を奪うとどうなるのか調べたい。俺の側にはヘルハウンドが、あいつの側にはアレックスをはじめとする他の魔族が___」
「魔族じゃない!」
「おっと、そうだったな。でもいい素質だ。鍛えれば八柱神も夢じゃないぜ。」
「ありえないわ。」
「フフ、意外に強気なんだな。ちょっと好きになってきたよ。」
「!」
「まあいいさ、それでな俺とヘルハウンドは方々の世界を観察中だ。つまり俺がオルローヌの世界にいたのもたまたまだったわけだな。」
「どうだか___」
「で、ダギュールの方だが___」
あえて呼吸を置いた。その間合いが二人に息を飲ませる。
「配下の誰かに一番脆弱な神を殺させるつもりみたいだ。」
「!!!!」
嘲るような笑み。「誰か」とはぐらかしてはいるが、その意味は推して知るべしだ。
「そうそう、確か婆さんだ。奇妙な術は使いそうだが、あれが一番弱いのは間違いないだろう?」
「リシス___!」
ライが呻くように言った。
「リシス?ああ、そいつが婆さんなのか。ふ〜ん、ならここからも近いな。」
「くっ___」
やはりこうなるのだ。隙を見せていながらそれはただこちらの心を弄ぶために過ぎない。最後にはこうして、胸の奥底に鉄の杭を打ち込まれるのだ。いてもたってもいられなくなるような混迷、焦燥、猜疑を植え付けられるのだ。
「ま、そういうことだ。とりあえず俺は可愛い部下たちと合流する。フェリルのことを少し真剣に考えてみたいんでね。後はおまえらの好きにしたらいい。」
そう言ってアヌビスは立ち上がる。
「待て___!」
「じゃな。」
制止の声も聞かず、彼は消えた。その瞬間、二人は全身の強張りが消えるのを感じた。やり取りはできていた、しかし体は自然とアヌビスを恐れていたようだ。
だがそんな感慨に浸っていられる状況ではない。
「行こう、リシスの世界に。」
ライにはすでに迷いがなかった。しかしフローラは彼の言葉にすぐには頷けない。
「罠かも___」
「でも僕らにはそうするしかない。どのみちオコンの所に帰るには、リシスの世界を抜けて行かなきゃいけないんだし。」
「それはそうだけど___」
フローラには一抹の不安があった。オルローヌの世界に残っているだろうサザビーやミキャックのこと、そして何より敵の手に落ちているソアラのことが気になった。この事実をまずレイノラに伝えることが先決に思えた。
「あ___!」
フローラは迷いつつ、鏡を一瞥した。
「割れてる___」
祭壇の間での戦いのせいだろう、レイノラから貰った鏡は無惨にも割れてしまっていた。それは連絡の手が断たれたことを意味する。
「これで決まりだよ。リシスは確かフュミレイに鏡を貰っているはずだもの。」
「___そうね。分かったわ、そうしましょう。」
そして二人はリシスの世界を目指して歩き出した。ライは迷い無く、フローラはやや迷いながら。なぜか?彼女はオルローヌの言葉が気になっていたのだ。
必ずや不幸を引き起こすだろう種___
それがどうしても頭の片隅から離れなかった。
「ふ〜ん、セラの所に送った連中はほぼ全滅か。さすがに戦神様はひと味違うわね。」
遺跡の中心部である祭壇の間は崩壊しきっていた。もう朝から昼へと時が移ろうかという頃だ。フェリルはすぐにその場を立ち去ろうとしなかった。一つは彼女の体がまだ完全でないこと。
(それにこいつもつくづくひと味違うわ。もしあたしがムンゾの力を持ってなかったら___どうだったかしらね?)
結果的に演出の一端だったとはいえ、胸に受けた手甲、掠めた竜波動など、ソアラの攻撃は生きていた。それらの傷は全て塞がっているものの、まだ回復途上だ。脱皮中の蛇のように、傷を受けたところとそうでないところでは皮膚の色が違っていた。
(ただ、二度はないけど。)
もう一つは、ソアラが糸の切れた人形のように、その場にへたり込んで動かなくなってしまったことだ。今、体の束縛は解いている。ただそれでも隙をついて反撃する気概はないようだ。
(まだ自我はあるわね。あれだけのことされて正気に戻れたんだし___たしかあの服もどうとか言っていたっけ___)
そんなソアラを玉座の名残の上に座って見つめるフェリル。
(そうだ、いいこと思いついた。帰ったら早速試してみよう。)
そして不意にいやらしい笑みを浮かべた。
「お?」
生皮だった顔の皮膚に張りが戻っていく。それは彼女の体に新たな生命力が注入されていく証だ。
(んん___ロゼオンの所かな?いやビガロスかしら___バッタバッタとやられてるわ。)
虚空を見つめて思案するフェリル。しかしソアラが小さく動いたのに気づき、目を移す。這い蹲るようにしてソアラは体を丸めていた。その体は小刻みに震えているようだった。
「無理よ。」
フェリルは笑みを消し、冷酷に言い放った。
「どうして___どうして___」
「そんな簡単に終わらせないわ。」
ソアラは涙に濡れてくしゃくしゃになった顔を上げる。彼女はドラグニエルの手甲を自らの喉笛に向けていた。しかしそれ以上は、どう頑張っても体が動いてくれなかった。
「あたしのことが憎い?そりゃそうよね。でもちゃんと言うこと聞けば悪いようにしないわ。それも分かるでしょ?」
ソアラは答えない。頷きもしないし否定もしない。ただ涙目で俯くだけだった。
「あたしといれば楽になれるわよ。さっきの二人が何?あんたがやったなんて誰も見てやしないわ。誰にも恨まれやしないんだから、それはそれでいいじゃない。」
そういってフェリルは立ち上がり、ソアラに歩み寄った。
「ほら、立ちなさいな。これからはあたしがあなたの友達。ううん、あたしだけかな?あたしはいずれ全てを手に入れた真の神になるのよ。そのあたしに良くしてもらえるんだから、こんな良いことなんて無いと思いなさいよ。」
否定しなければいけないのに、ソアラは慰めの言葉にいくらかでも癒されていた。束縛の力か、安寧を求める彼女の幻聴か、フェリルの声が不思議とフローラの声に似て聞こえた。
「それと、いい加減に分かりなさい。あたしには適わないって。」
そう言ってフェリルはソアラの腕を引っ張り上げた。
「ほら、立つ。」
「___」
しかしソアラの体は動かない。
「しょうのない子ね。」
するとフェリルは躊躇い無く、人差し指の爪をソアラの首筋に突き立てた。深くはない。浅く食い込んだだけの爪だったが、ソアラの反応は露骨だった。
「あ___ああ___あああっ!」
跳ね上がるように背を逸らし、喘ぐように舌を突き出し、ソアラは痙攣した。そして再びグッタリとして崩れ落ちる。
「ほら、良い子だから立って。」
だが力が抜けたのは一瞬のこと。ソアラはフェリルの指示に従い、ゆらりと立ち上がった。意識はあるようだが、その目は焦点が合わず朦朧としていた。
「ん?」
ようやく根城に帰ることができそうだ。フェリルは従順なソアラの頭を撫でつつ、ふと遠くの空を見上げた。
「面白そうなのみっけ。」
その笑みは欲望に満ち満ちていた。
「ご無事でしたか!」
竜樹に肩を借りて古禅庵に戻ってきたセラを、ジバンは破顔一笑で出迎えた。含蓄深く物静かな老翁のらしくない姿に、竜樹は彼が心底、親方様の危機を感じていたのだと知った。
「こやつのおかげだ。」
「おお竜樹殿、なんとお礼を申して良いやら。やはりあなた様は大したお方で!」
「いや、俺はセラと戦えて楽しかったよ。でもなんだかすっきりしねえんだけどさぁ___」
確かに少し変だ。ジバンはどこかで修行や戦いの様子を見ていたわけでも無かろうに。やに話が通じすぎている気がする。
「ああ、それはそうだろう。」
「あなたがここを訪れたころには、私どもの元へ大軍が押し寄せているのを感じておりましたから、私どもの言動に違和感を覚えるのでございましょう。」
「___は?」
竜樹の顔色が変わる。そして___
「てめえジジイ!そりゃどういう事___!」
ゴキッ。
セラを振りほどいてジバンの胸ぐらを掴んだ竜樹の脳天に、鞘に収められた花陽炎がヒットした。
「やめぬか、たわけ者。」
頭を抱えて呻く竜樹をよそに、セラは続けた。
「敵の大軍が迫っていることは確かに察知していた。今の私では討ち勝てるかどうか定かではなかった。だが私にはここを捨てることはできぬ。そこにおまえがやってきた。」
「それで俺を鍛えたのか?俺も闘わせるために?」
うずくまったまま振り返り、竜樹は問い返す。
「そのつもりだったが、おまえは私の期待した水準には達しなかった。」
「それで気絶させたわけか___なんか癪だな。」
「だが結果としておまえはさらなる革新を見せ、そしてあの銀髪の娘の助けで勝利を手にしたのだ。良しとしよう。」
そりゃ確かにそうなのだが___
「初めから教えてくれてりゃ___」
「何かが変わるか?むしろ逆だ。おまえは気負い、より進歩を遅らせる。それともおまえには私との修行の間、敵の接近を気にしていられるほど余裕があったのか?」
しかしそう言われるとぐうの音も出ない。多少の計算違いはあったかもしれないが、セラは自分のことを良く知ってくれた上で、最善の策を取ったのだ。それは認めなければならない。
「___いや、あんたが正しいよ。」
「分かればよい。」
セラは納得の様子で頷く。背中には小ぶりになったもののまだモバティキスがいる。それを感じさせない振る舞いだった。
「ジバン、風呂にする。支度を。」
「畏まりました。」
「竜樹、おまえも___」
竜樹はまだ蹲ったままだった。セラの視線が険しくなる。
「どうした?」
「___ぅぅぅ。」
「おい___」
「うんがぁぁっ!」
ゴギッ。
案じて駆け寄ろうとしたセラの顎に、気合いと共に立ち上がった竜樹の頭が綺麗に炸裂した。
「な、何をするか!危うくモバティキスを潰すところだったぞ!」
珍しく取り乱した様子で、尻餅を付いたセラが怒鳴る。
「あ?ああ!すまねえ!」
だが竜樹にも悪気はなかったようだ。セラは少し拍子抜けした様子で竜樹の身体を眺めた。
「どうかしたのか?」
「ああ、ちょっと腹が___」
「腹?」
「たまに痛くなるんだよ。でもすぐに治まるから気にしちゃいねえよ。えっと、風呂だったよな?いこうぜ!」
竜樹はボロボロのわらじを脱ぎ捨てると、飛び跳ねるようにして古禅庵に上がり込んだ。
「お〜い、爺や!風呂はどこじゃ!?」
「私は親方様の爺でありまして___」
「いいじゃねえか!俺も戦神だぞ?」
もう竜樹は先程までの快活な姿に戻っていた。しかし___
「___」
セラは違った。
「は〜!気持ちいい!まさかここにこんな広い風呂があるなんてなぁ!」
黄泉の香木で作られた風呂は、清々しい木の香りで満たされていた。広い湯船に肩まで浸かった竜樹は、夢心地で長い息を付く。
「良い趣味だろう?戦いと風呂にはこだわっているのだ。」
「さすがセラ様!俺もそのこだわり大賛成!」
幸せそうな竜樹の顔に、セラもまた微笑みを浮かべる。だが彼女は竜樹の目のないところでは不意に真顔へと戻っていた。
「モバスは?」
「略しすぎだ。」
「でも通じてるじゃん。」
先程まで湯船の縁に腰掛けるようにしていたセラが肩まで浸かるのを見て、竜樹は尋ねた。
「完全ではないが、ほとんど消えた。私自身が回復すれば自然に消える。」
「へ〜。あ、もしかしてこの温泉も?」
「七ツ釜ほどではないが、治癒効果はある。」
「すげぇ。」
もう長いこと浸かっている。赤くほてった頬や淡泊な返事を見ても、竜樹は少しのぼせてきたようだ。
「んじゃ俺はそろそろ___」
「待て。いま良いものを用意させている。」
「良いもの?」
それから程なくして___
「お待たせしました。」
とっくりを乗せた盆を手にして、ジバンが現れた。
「っか〜!」
竜樹は男臭い態度で一息に杯の酒を流し込んだ。ジバンが持ってきたのはよく冷えた清酒だった。
「酒は好きなのか?」
豪快な竜樹に対し、セラは静かに杯を傾ける。
「いや、初めて飲んだ。」
「ほう___」
「こう飲むのが正しいんだろ?」
「おまえがそう思うならそれもよかろう。」
「か〜っ!」
それから二杯。竜樹の顔がますます赤くなる。
「あぅ〜、もう無理だ、上がる___」
どうやらあまり強くはないらしい。竜樹は景色がぐらぐらと歪むのを感じ、湯中から立ち上がる。
「___」
セラもまた、風呂場から出ていくジバンを一瞥して立ち上がる。
「んぁ?どいて〜、もう上がるってば___」
セラは竜樹の行く手を阻むように立った。朦朧とする竜樹には、彼女が手にする花陽炎が目に入らなかったようだ。
そして___
スッ___!
「ふえ?」
竜樹は何が起こったのか分かっていなかっただろう。それこそ痛みもなかったのだ。花陽炎の刃が自らの下腹に突き立てられたこと、それを見てはいても幻程度にしか認識できなかっただろう。
無理もない、あの酒は酒ではない。一種の麻酔薬なのだから。
そして___
「!」
ズル___
刀は竜樹の臍の下に浅く刺さっていた。そこから血とは違う何かが溢れ出ようとしていた。そして、セラでさえ驚きを隠せずにはいられない事態が起こった。
ズルルルル!
水気ある音にセラは反射的に刀を引いた。湯船に向かって仰向けに倒れる竜樹、腹の傷と花陽炎の切っ先を結ぶように、粘性のある液体___いや液体に包まれた塊が引きずり出された。
「___!」
粘液に包まれた塊、それは花陽炎の切っ先を取り込んでいる。いや、小さな手で確かに花陽炎を掴んでいる。そこから粘液の帯を伝ってみよ。腕があり肩があり、そして一際大きな塊は確かにこちらを見据えて笑っているではないか!
「人___!」
セラは花陽炎を振り上げた。一本釣りのようにして、粘液の塊は竜樹の傷口から完全に脱し、セラの背後へと振り飛ばされる。セラはすぐさま湯船へと入って振り返った。足下に見た竜樹の傷は、風呂の中で早くも塞がり始めていた。
「っ___!?」
しかし自らの肩に傷が開いていた。浅いものではある。しかしあの瞬間に攻撃を受けた感覚はなかった。それだけに脅威だった。
(こいつは___この化け物は何だ___!?)
粘液に包まれた塊。それは風呂の壁にぶつかってグシャグシャに乱れた。しかし床にずり落ちながら、確かに人型をかたどっていく。戦神セラは不快感の滲む険しい顔でその様を睨み付けていた。
なぜか分からない。だがこれは___久方ぶりに味わう恐怖の感覚ではないのか?
「良く気付いたのう___」
塊が喋った。粘液の一部が盛り上がり、頭が作り上げられていく。
「こやつの腹に潜んでから、気付いたのはお主が初めてじゃ___」
気を確かに持て。セラは自らにそう言い聞かせる。彼女の心はすぐさま平静を取り戻し、花陽炎の切っ先は微動だにせず、いつもの口調で答えた。
「ごく僅かではあった。しかし竜樹の胎に別の命を感じた。いや、殺意、欲望といおうか___」
「ほほう___それはぬかったかのう。そやつよりも強い女を目の当たりにして、欲が抑え切れなんだか___」
「何者だ___貴様。」
粘液が薄れていく。いや、粘膜の中に人がいるのだ。そいつはようやく形のしっかりしてきた体を持ち上げて、粘膜を破る。羊水だろうか、大量の液を溢れさせ、男は顔を出した。痩せた男。頬はこけ、目は窪み、髪はなく、老人のようにも見える。一切の無駄を削ぎ落としたような男。だが活力には満ち満ちている。
「わしの名は___性骨(しょうこつ)。」
口が裂けるかと言うほど口角をつり上げ、老翁は笑った。
前へ / 次へ