1 死の廃墟

 首筋にしなやかな手が触れる。
 「分かってるわよ、そんなこと。」
 その言葉はオルローヌを驚かせた。
 ___
 突如祭壇の間に現れた紫髪の女。それはフュミレイらの記憶に幾度と無く現れたソアラ・バイオレットだった。彼女はすぐさま黄金に代わり、懇意であるはずのライとフローラを竜波動に飲み込んだ。翻ってオルローヌへと向けられた破壊の鉄槌。しかしオルローヌは初対面の相手を無力化する力を持つ。ソアラは彼の前で立ったまま気を失った。ただその間隙を突いて、背後からもう一つの影が忍び寄っていた。そいつにはオルローヌの力が通じなかった。
 つまり、オルローヌの首筋に触れた手の主は、彼と会うのが初めてではない。
 ___
 「バイバイ。」
 別れの言葉と共に、しなやかな右手は全てを切り裂く鋭敏な風を纏う。オルローヌの首筋に裂傷が走り、すぐさま鮮血が溢れ出た。だが切り飛ばすには至らない。
 「!?」
 女の手刀にオルローヌの手が宛われると、風の衣は抵抗無く消し飛んでしまった。
 「そうだな、確かに私の能力は知るだけだ。だがジェネリのことは良く知っている。知を極めれば、物事への対処もそれなりにできるのだよ、フェリル。」
 振り返ってはいない。しかしオルローヌは女の名を言い当てた。だが女もまた、オルローヌにその手を掴まれたというのに余裕の笑みを湛えたままだった。
 「やっぱり当てたわね。」
 「まさか君だとは思わなかった。」
 「だから邪魔なのよ、あんたって。」
 突如としてフェリルの手が弾けた。血をまき散らし、肉片を飛ばす。そして彼女は軽やかに横へ飛んだ。猛然と迫っていたライの剣はあえなく空を切った。
 「だああっ!」
 しかし勢いのまま、ライは一気に女に斬りかかる。
 「!」
 飛び退くつもりでいたフェリルの足下におぼろげな光がまとわりついている。それはライの足から糸を引くように続いていた。覇王決定戦でサザビーが見せた技巧的な練闘気。得意とする盾の練闘気で竜波動を完璧に防ぎきっただけでなく、苦手なはずの技まで手の内に入れていた。それが彼の成長の証!
 「だあああっ!」
 相手は美しい女だ。一見すると優しげで、しかも背中の翼と金髪で、天族を連想させる。だがライの太刀筋に一切の迷いはなかった。いや、あったとすればそれは敵の姿形による躊躇いよりも、敵が内に秘める邪念に対する予感だ。
 この人物の危険性、今倒さなければいけない存在が誰か、ライは本能的に感じ取っていた。だからこそ彼は、黄泉で調達した最高の剣で、力みの無い最高の太刀筋で、フェリルに斬りかかった。
 圧倒的な集中力。だがそれは彼の視野を狭める。
 ザンッ!
 剣は音を立てて、刃は静かに、肉を裂いた。
 一つはライ。彼の剣は目の前の女の胸を裂いた。ただ彼は瞬間的に力み、剣先は鈍い軌道を描いた。その反応は賞賛されるべきだ。止まろうという努力がなければ、フェリルの前に立ちはだかったソアラの体を両断していたかもしれない。傷は浅くはないが、かろうじて剣を引いたことで、剣先がソアラの肉を裂くに留まっていた。
 しかしライは恐怖した。自らの剣が意識のないソアラを切り裂いたこと、シャワーのように血を弾かせる彼女の顔に全く生気を感じなかったことに。
 剣は音を立てて、刃は静かに、肉を裂いた。
 二つはフェリル。彼女はソアラの陰から自らの奥義である見えない刃を放った。空気を裂き、大気そのものを刃とする秘技。ジェネリの頭を分断したように、今もオルローヌの首を飛ばした。それはごく静かに、ほんの手先の律動だけで、刃はオルローヌを仕留めた。
 「ぁ___!」
 そのときフローラは放心した。先程フェリルが飛び散らせた肉片、その全てが小さく凶悪な虫となってオルローヌの顔面に食らいついていた。治療しようと駆け寄っていたフローラは、オルローヌに突き飛ばされた。よろめく景色の中で、彼女は首のないオルローヌの胴体から、噴水のように血が噴き上がる瞬間を見た。
 だがフローラはすぐに我を取り戻した。飛ばされたオルローヌの首が自分の顔のすぐ横を抜けていったその時___
 「生き延びろ。」
 その一言が、フローラを混沌の坩堝から救い出した。
 「ライィィィ!!」
 フローラは絶叫した。ソアラの血で体を染め、脱力していたはずのライが弾けるように飛び退いた。彼のいた場所では、宙に舞った血がシャボン玉のように破裂し、消え失せていった。
 「フローラ!」
 「ライ!」
 どちらからともなく互いに呼び合い、二人はほんの一瞬だけ視線を交わして敵に向き直った。祭壇の上に二人の女。祭壇の下に一組の夫婦。
 そこでようやく短い間が訪れた。
 「知り合いね?」
 最初に口を開いたのはフェリルだ。彼女はつい先程までオルローヌが座っていた玉座に歩み、ゆったりと腰を下ろした。破裂したはずの右手は健在。擬態を使う食肉昆虫を束縛することで、周到にも虫の手袋を作り出していたのだ。
 「それも浅からぬ仲。あなたたちも生身だものね。」
 意識の無いはずのソアラが、引き寄せられるようにフェリルの膝の上に座った。
 「っ!」
 ライが顔を歪める。未だ血を蕩々と垂れ流すソアラの胸の傷に、フェリルが指を差し込んだのだ。
 「オルローヌのところで何をしていたの?あなたたちはいったい何者かしら?」
 フェリルが激しく指を動かす。傷口をさらに掘り進むようにこねくり回し、新しい血が溢れ出た。ライの剣を握る手に力が籠もる。しかしこの状況では攻撃のしようがない。いや、それよりもなによりも、あいつは何者で、そしてなぜソアラがそこにいるのか?それを知らなければならない。でも、どうやって?
 思考は混沌としていた。
 「___」
 おまえは何者だ!
 ソアラを放せ!
 大きな声でそう聞かなければならないのに、彼の喉からは声が出ていかなかった。
 蛇に睨まれた蛙とはこういうことを言うのかもしれない。生き物としての感覚が、敵の放つあまりにも強大な力を感じてしまっているのかもしれない。
 「答えてはくれないの?それとも答えられないのかしら。よほど怖いのね?」
 フェリルの言葉が胸を抉る。答えたい、しかし声にならない。本当に自分は心底から、この敵を恐れてしまっているのかも___?
 だがそんなライの疑心暗鬼はごく短いものでしかなかった。
 「!」
 フローラが動いた。彼女を中心にライをも飲み込んで光の柱が立ち上る。それは浄化の呪文ディヴァインライトの光だった。
 「___いじょうぶ。いまあたしたちの声は奪われていたの。恐れずに闘いましょう、生き延びるために___!」
 光はいつの間にか二人に施されていた束縛の枷を緩めた。掠れたフローラの声はライを勇気づけ、彼にフェリルの舌打ちと光の柱に走った微妙なズレを気付かせる。
 ダンッ!
 ライはフローラに飛びかかり、彼女ごと床に倒れ込んだ。流れた服の裾が宙で弾けるように千切れ飛んでいた。
 「惜しい。」
 フェリルはそう言って指を鳴らした。ディヴァインライトの残光に綺麗な横筋が走っているのを見た二人は、今その場に見えないギロチンがあったことを知った。どういう手法なのかは分からない。しかしフェリルは自分の思った場所に、見えない刃を作り出せるということは理解した。
 と、その時。
 『___なってるんだろ〜!___ここを穿ってみればいいんじゃない?___おいおまえら!オモチャじゃねえんだぞ!___』
 やかましい声が響きわたった。戦場とはあまりに場違いなその声、それはライの懐から響いていた。倒れ込んだ衝撃でオコンの貝が割れたのだ。
 「なんなのよそれ、うるさいわね。」
 フェリルは露骨に不愉快そうな顔でライを睨み付けた。見えない刃でぶった切ってやろうとでも思ったのだろうか、彼女はソアラの傷口に差し込んでいた右手を二人に向けた。
 「!」
 しかしその時、白色の球体が突如として目前に現れた。屋根か床か、どうやらあの黒髪の女が器用にも魔力を糸状にして走らせていたようだ。だがフェリルは冷静に、彼らを欺くようにしてソアラを盾にした。
 「え?」
 しかし光はソアラに傷を負わせなかった。そればかりか胸に開いた傷を見る見るうちに塞ぎ止めていく。強力な回復呪文だ。
 「なにをしてるわけ?」
 優しげな顔、しかし暖かみはない。実におぞましい虚構の笑みを浮かべ、フェリルは問うた。
 「早く治療しないとソアラの命が持たない、だからそうしたまでよ。」
 フローラは毅然と答えた。彼女の前にはすでにライが立ちはだかっていた。攻める意志を携えつつ、彼の意識の大半は敵の攻撃をどう防ぐか、どう生き延び、どうソアラを助けるかに集中していた。
 「馬鹿らしい。あんたたちみたいな良い子ちゃんって、本当に虫酸が走るわ。」
 そしてフェリルはどれだけ惨たらしく彼らを葬り去るかと考えていた。或いは捕らえて地獄の坩堝に落としてやろうかとも思っていた。こういう童貞や処女みたいな連中ほど遊び甲斐があるものだから。
 「やりな、ソアラ。偽善の面を剥いでおやり。」
 ドンッ。
 フェリルはソアラの背中を押した。ご丁寧に故障を直してもらったオモチャを使って、二人をいたぶってみようと考えたのだ。なあに逃がしはしない。放っておいてもソアラは私好みの演出をしてくれるのだから、あの二人が隙を見て逃げようとしたときに備えて、ギロチンを用意しておけば良いだけだ。
 束縛に綻びなどありえ無い。だが、フェリルは他人から奪った能力に些か自信を持ちすぎていた。そしてソアラの強かさを見くびりすぎていた。
 ズッ!
 背中を押された瞬間だ。フェリルの膝から腰を浮かせたソアラの体が反転し、刃をフェリルの胸に突き立てていた。それまで彼女は武器を持っていなかった。ただフェリルはここに彼女を連れて来るにあたり、ドラグニエルを着させていた。いま、その右手に先程まで無かった刃の手甲が現れていた。
 「___!」
 フェリルの反応は遅れた。眼前にソアラの左手が突き出されたとき、ようやく真の危機を悟った。
 ドゥォォォッ!!
 渾身の力を結集させた竜波動が祭壇の間で輝く。猛烈な圧力で玉座を砕き、背後の壁をぶち破り、遺跡の奥まったところで爆炎を噴き上げて炸裂した。
 「馬鹿な___どうして___」
 形の変わったフェリルが、穴の開いた壁の縁に凭れるようにして立ちつくしていた。壁は大量の血で赤黒く染められていた。フェリルの体は左肩から先が全て無くなっていた。左胸も深く裂けていた。竜波動から逃れるために、彼女は左胸に突き立てられたドラグニエルから体を引き裂いてでも抜け出る必要があった。左側は翼も消し飛び、髪も焼け、顔も醜く砕けていた。
 「あたしだけじゃどうにもならなかった___」
 ソアラは自らの体を確かめるように何度か拳を握りなおし、言った。声は少しだけ掠れていた。
 「フローラのおかげ、ライのおかげ、百鬼のおかげ、リュカとルディーのおかげ、ドラグニエルのおかげ___!」
 ___
 フェリルの束縛は圧倒的だった。逆らいたくとも逆らえないところまで追い込まれていた。身も心も彼女のものとなっていたのだ。その手段一つ一つを進んで思い出すことは決して無いだろう。それほどの非道の限りを尽くされた。
 ただ、それに僅かな光明が差したのはドラグニエルを纏ってからだ。竜の使いのための装束は、私が忘れていた暖かさを思い出させてくれた。久しぶりに自分に血が巡っている感触を知ったのだ。でも私が本来の自分を取り戻すまでには至らなかった。
 ここに来て、オルローヌが殺された。多分意識の無かった私はその瞬間をはっきりと見た訳ではないが、何があったのかは理解はしている。それを阻まなくてはいけないという感覚は心のどこかにあったかもしれないけど、体は動きようがなかった。
 でもそんな私の自我を引き戻してくれたものがある。それがどこからと無く聞こえた百鬼と子供たちの声であり、フローラを守るために躍動するライの姿であり、フローラの回復呪文だった。
 そう、きっとフローラは感じてくれていた。束縛に対して浄化の呪文が効果があると知ったから、彼女はあたしにも同じ事をしてくれた。それが決定的だった。
 ___
 「ここまでよ!フェリル!」
 先立つものは憎しみだったろう。ただ、今はそれでも良いと思った。理屈抜きに、この魔性の女はここで仕留めなければならない!
 ソアラは駆けた。俊足でフェリルに詰め寄り、会心の拳を放った。深手を負ったフェリルはピクリとも動けなかった。
 ズンッ!
 鈍い音を立て、ドラグニエルの手甲がフェリルの臓腑を食った。腹に深々と突き刺さり、針のような手甲の先は背へと飛び出していた。
 まだ足りない!とどめを!そう、左手に満たした竜波動で頭を吹き飛ばす!
 「___なんで___!」
 しかし思いがけない声にソアラの手が止まった。
 「なんで___なんで___なんでだよ!」
 それはライの悲痛な叫びだった。
 「なにしてるんだよぉぉ!ソアラァアッ!!」
 唐突だった。それまで正しいと思っていたものが全て偽りだと思い知らされた。だがそれにしたって、これは___なんと絶望的な光景だろうか!
 「___」
 言葉さえ出ない。時間が止まったようだった。ソアラの右手が貫いていたのはフェリルではない。生涯の親友、最高の理解者、絶対に失いたくない人___
 フローラ・ハイラルドだった。
 「だい___じょぅぶ______あ___たしは___」
 ソアラの腕に串刺しにされて、青ざめた顔で口ばかり真っ赤に染めて、それでもフローラはソアラの身を案じていた。絞り出された声で、ソアラはこれが現実のものと確信した。
 「一瞬の正気がなんだというのかしら?あなたの感覚全てをあたしが支配しているのを忘れたの?」
 吐息を感じる距離で、後ろから悪魔の声がした。振り向けはしなかった。自分が消し飛ばしたはずの左手、やに水気を帯びた左手が頬を撫でた。
 Gへの理解が足りなかったのだ。この女は神を殺した。得られる生命力を思えば、あの程度の深手があって調度良いくらいだった___
 つまり、全てフェリルの演出に過ぎなかったのだ。
 「馬鹿ね、あなた。」
 次の瞬間、別の鮮血が舞った。怒りの形相でフェリルに斬りかかったライの血だった。彼は宙で胸を引き裂かれ、血の帯を描いて仰向けに倒れた。見えないギロチンがそこにあったのだろう。
 「___」
 ソアラの体は己の意志と関係なく動いた。右手を乱雑に振るい、穴の開いたフローラの体をライの上に重ねるように投げ捨てる。そして微かな命の灯火に向けて左手を翳す。
 そこでは満たされた破壊の力が萎えることなく高ぶり続けていた。
 そして、光が走った。
 「はい、ご苦労様。」
 掃除はすぐに済んだ。砕けた祭壇の床には大量の血が黒くこびりついていた。竜波動の熱で焼かれた血と肉の臭いが充満していた。
 二人の愛しい人はもうそこにいなかった。跡形もなく、消え果てていた。
 「___」
 束縛が消えた。フェリルの意志で動かされていたソアラの体が、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。大粒の涙がこぼれ、それはすぐに滝のようになって彼女の頬を濡らした。
 「ああああああああああああ!!!!」
 死の廃墟と化した遺跡に、竜の慟哭は虚しく響き渡っていた。




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