2 もう一人の戦神

 束縛の神ムンゾ、風の女神ジェネリ___
 二人の死をすべての神が知った今、オル・ヴァンビディスはかつてない緊張状態にある。その中で、いつもと変わらないのどかな風景を称えているのが収穫の女神リーゼの世界だ。
 日々、額に汗して農作業に励み、その恵みを賜る。人々はそれを喜び、今日という日に感謝し、また明日を迎える。この世界を統べるリーゼもまた、危機感を感じさせない温柔な人物であり、その顔はいつも優しい笑顔を称えている。
 そのはずなのに___
 「ぅう___」
 夜、彼女は胸元を掻きむしり、ひどい汗を浮かべ、やがて布を跳ね上げるようにして目を覚ました。
 「く___ぅぅう!」
 首を竦め、額に手を当て、苦しげにうめく。
 「リーゼ様!」
 声を聞いたか、不穏な気配を察知したか、侍女らしき女が寝屋に駆け込んできた。
 「リーゼ様!どうされましたか!?」
 リーゼは苦しげに顔を上げる。あからさまに青ざめて、痛みをこらえるように何度も目をつむる。
 「鏡を___」
 「鏡?」
 「レイノラの鏡を持ってきて___急いで!」
 「は、はいっ!」
 侍女はあわてて飛び出していく。寝屋に風が吹き込むと、リーゼはいくらか平静を取り戻し、こめかみに手を触れた。
 「命が___嘆きの衆が___あの世界を滅ぼしに___!」
 絞り出すようにそう呟いて、リーゼはまた頭を抱えた。
 「お持ちしました!」
 息を切らしながら、侍女が駆け込んでくる。リーゼは汗だくの顔を上げて、奪い取るように鏡を手にすると、すぐさまその手に魔力を満たした。レイノラが答えるのに時間はかからなかった。
 「リーゼか!」
 鏡に映った旧友の表情に、レイノラの声も上ずって聞こえた。
 「襲われる___」
 「なに___?」
 「襲われるのよ___大量の命が、Gを狙って!」
 「落ち着いて!あなたの世界なの!?」
 「違う___!」
 リーゼは一度唾を飲み込み、続けた。
 「セラのところに!」
 「!」
 「感じるのよ___Gのために多くの命が失われる!大量の欲望がセラの世界を飲み込もうとしているの!」
 「!!」

 「あのよぉ。」
 「ん?」
 七ツ釜の温泉。竜樹とセラの会話はもっぱらここでが定番となっていた。温泉を出れば、二人の会話は刀のぶつかり合う音でしかなくなる。
 「初日に言ってた俺の長所って何だ?」
 「___」
 竜樹はまじめに聞いていた。しかしセラはあからさまに怪訝な顔をして、天を仰いだ。
 「本当に鈍い奴だな。」
 「う、うるせえ!」
 「___」
 「すみません嘘です。教えてください。」
 ただ竜樹もセラの扱いに慣れてきたようだ。呆れ顔をしていても、セラはちゃんと答えてくれる。
 「五時間、八時間、十二時間、十七時間、二十四時間___わかるか?」
 「なにがよ。」
 セラは露骨にため息をついた。
 「そなたの悪い癖だ。自分で考えようとしない。」
 「俺は本能で動くたちなんだよ。」
 「___戦いの時間だ。」
 「?」
 「はじめは五時間、次は八時間、さっきの戦いは二十四時間に及んだ。」
 「そうだっけ?もっと短かった気がするけどな。」
 「それが我々の長所だ。」
 竜樹はキョトンとして何度かまばたきした。
 「我々?」
 「無尽蔵、それこそが戦神の真髄だ。永遠に戦い続けられること、それが戦神たる所以だ。たかだか五時間の戦いで息を切らしていたおまえは、戦神の力を我がものとしているとはいえなかった。しかしここで戦い続けたことで、少しはましになってきたということだ。ま、その姿でも私に傷をつけられるようになったのだからな。」
 「???___ちょっとまってくれよ。え?戦神は体力自慢ってことなのか?」
 「___身も蓋もない言い方だが、わかりやすく言えばそうなる。無論、類い希なる戦闘能力も持つが、最も優れているのはそこだ。」
 だがそうすると不可思議な点がある。
 「んじゃ俺のあれはどうなんのさ。」
 「___変身か?」
 竜樹はコクリと頷く。その仕草にはセラも少しだけ驚いたような顔をした。
 「なあ!あれが戦神の力じゃねえのかよ。」
 ザバッ___セラは立ち上がると、ゆっくりと竜樹の元に歩み寄ってくる。あえて少し離れて浸かっていた竜樹は、神々しい戦神の裸体にたじろいだ。
 ごく軽い感触で、セラの手は竜樹の肩に触れた。こちらを覗き込むようにする彼女に、竜樹は露骨にドギマギしていた。
 「よくここまで生きてきた。」
 「はい?」
 「その未熟でここまで生きてこれたこと、それこそがそなたの戦士たる証だ。」
 反論しようとした竜樹の唇を、セラのしなやかな指が押さえる。
 「自らの力を知らぬというのは恐ろしいものだ。それは知った瞬間に世界が変わることを意味する。私もかつてはそうだった。戦神と呼ばれるようになるまで、私はただ生きるために戦っていた。そこに意味などない。負けたときは死ぬときだ。」
 それは自分の境遇にとてもよく似ている。竜樹は両親を失い、龍風を手に入れたその後の日々を思う。アヌビス、百鬼、フュミレイと出会うまで、竜樹はただ生きるために戦い続けていた。
 「今からそなたの世界を変える。心して聞け。」
 竜樹がいささかの動揺を宿しながら、それでもじっとこちらを見据えていたので、セラは続けた。
 「あの変身は、我が力によるものではない。そなたの妖魔としての能力だ。」
 「!!??」
 「あの姿はそなたの限界を高める。それ故に秘められた戦神の力をより表へと露わにする。その力が膨大だからこそ理性を失うのだ。」
 指が離れた。
 「それじゃあ俺は___!」
 どうすればいいのか?自分の意志と関わらず、感情の起伏で表に出てくるあいつ。あれも紛れもなく竜樹だというなら___
 「だからこそ、その姿で鍛えてやったのではないか。」
 「!」
 「上がれ竜樹。そして新しい装束を着ろ。」
 「セラ!」
 踵を返し、湯から上がろうとしたセラに竜樹は呼びかけた。
 「俺を鍛えてくれたのか___?」
 「そんな生温いものだと思うな。」
 振り返ったセラの横顔は鋭気に満ちていた。温泉で暖まったはずの竜樹の背をゾクリと震わせるほどに。
 「最初にそなたと刃を交えたとき、私はそなたの未熟を感じた。これでは戦い抜くことなどできないとな。だからこそ七ツ釜を使った。そなたはいち早く強くなければならない。望まずともGの封印の一端となったそなたは、生き続けねばならないのだ。しかしそれにはそなたは弱すぎた。」
 「!」
 「その刀もそうだ。その程度の武具ではそなたの力を受けるには足らぬ。」
 「百鬼のことは言うな!」
 立ち上がった竜樹は、裸のまま叫んだ。
 「情のために軟弱な刀を使うか?フフ、どうやらそなたには戦いよりも、か弱き乙女として守られる術を教えた方がよかったかもしれぬな。」
 竜樹は誰がどう見ても激情型だ。セラは彼女がすぐにでも刀を手に飛びかかってくると分かっていた。
 ドヴォッ!
 「っ___!」
 竜樹の腹、脇腹に近い肋の下あたりに、セラの手刀がめり込んだ。
 「間結の孔を突いた。当分意識は戻るまい。」
 「な___」
 竜樹の体はセラの腕にぶら下がるようにして、グッタリと動かなくなった。
 「すまぬ___そなたを失うわけにはいかぬのだ。」
 世羅は温泉の縁に竜樹を横たえ、その体に新しい装束を掛けてやる。そして自らは鋭い眼差しで空を睨み付けた。
 空に黒い円が開く。セラは竜樹に一瞥をくれることもなく、円へと舞い上がった。
 「___」
 黒は夜空の黒。山間の闇に、セラは凛々しく舞う。その肌際には壮絶なる戦意の波がうねりをあげる。
 「有象無象の魑魅魍魎が___」
 広大な世界を埋め尽くさんばかりの大量の殺意。おそらく、十万を超える侵略者が戦神セラの命を求めてやってくる。亡者たちの行進の息づかいを、セラはその肌に感じていた。
 そして___
 ギャゥンッ!!
 流星のごとき速さで夜空を走り___
 ザンッ!
 山向こうの草原へと降り注ぐ。
 そこには自我のかけらもない、ただ殺戮の凶器と化した者どもがいた。人であれ野獣であれ、生身ではない生物兵器たちだ。セラはその大群の中心に、十五体の凶器たちを切り裂いて舞い降りた。
 「この程度で戦神を脅かせると思ったか___?」
 殺意が一点に結集する。そして___
 「グオアアアアア!」
 人のそれとはほど遠い、野獣の怒号が轟いた。

 「はっ!」
 目が覚めた瞬間、竜樹は飛び起きた。
 「!___いででっ!」
 そして腹を抱えて跪く。
 「ぐ〜___!」
 強く歯を食いしばり、紛らわすように拳で自らの腹を叩いた。そうすると内に渦巻く痛みは少し和らいで、竜樹は立ち上がった。
 七ツ釜の空はすでに漆黒の闇に変わっていた。
 「何時間だ!?俺___セラに突かれて___!」
 竜樹は慌てて装束を纏い、百鬼を手に取る。外での一日は七ツ釜の一週間に相当する。だからこちらでの一時間は___
 「そんなのどうでもいい!」
 そう、今は少しでも早く外に出ること。意識朦朧の中で「そなたを失うわけにはいかない」という言葉だけが耳に焼き付いていた。それが何を意味するか、深く考えないでもここにセラがいないという事実だけで十分だ!
 「外で何かあった!セラは___俺を闘わせないためにここに残した!」
 ならば大人しくここで待つべき?いや、竜樹にそんな思考はあり得ない。助太刀するために彼女は全力で空へと跳ね上がる!
 ゴンッ!
 「かはっ。」
 無限に見える空の高みに、見えない壁があった。セラとの戦いはもっぱら地上戦か低空だったため気付かなかったのだ。
 「野郎___」
 落下しながら、竜樹は刀を抜く。その口元には牙が覗いていた。
 「俺をなめるなぁぁっ!」
 ごく自然な変化だった。牙、角、紋様、全てが一瞬にして現れ、彼女の力を爆発させる。竜樹自信も我を失うことなく、そのあり余る力を一太刀に結集していた。
 そして、空が避けた。
 「!」
 景色が変わった。草むらには割れたビー玉が転がり、竜樹はそのすぐ横に立っていた。だが彼女自身は割れたビー玉より、自らの肉体の変化に目を奪われていた。
 「俺___」
 今まで自分が羅刹と呼んで忌み嫌っていた姿だ。しかし何だろうこの落ち着きは。
 「世界が変わった___」
 竜樹はセラの言葉を実感した。自らの変化に対する嫌悪は微塵もなく、むしろ溢れ出る力を楽しむ余裕すらある。それが七ツ釜での修行の成果だ。
 「!___セラ!」
 感慨に浸っている暇など無い。竜樹は渦巻く殺気を感じ、地を蹴った。

 「ずおあああっ!」
 降り懸かる野獣の爪は空を切る。だが雄々しい獣はすぐさまその尻尾を振るい、背後から迫っていたセラを打ち払った。はじき飛ばされたセラは宙で身を翻し、地を蹴って獣へ斬りかかる。刀と爪が交錯した。
 「!」
 刀は片手だ。左手は獣の脇腹に宛われていた。
 ドゥゥゥゥゥッ!
 凄まじい爆破。しかし___
 「どうした?戦神様よ。」
 「!?」
 虎に似た顔がニヤリと笑う。次の瞬間には大熊よりも太い腕が、セラの顔面を撃ち抜いていた。激しい戦いで岩肌がむき出しになった山へ、セラの体は吹っ飛んだ。しかし彼女は宙で身を翻し、激突は免れた。しかし反撃もできなかった。
 「はぁ___はぁ___」
 何より、七ツ釜では一つとして乱れなかったセラの息づかいが荒かった。
 「らしくないなぁ、セラ。おまえが肩で息をするなんて。」
 「___」
 「でも不思議だなぁ。何で数万の雑魚を殺し、神に近い奴を二人も殺したのに、いっこうに力が入らないんだ?んん〜?分かるかね?」
 虎顔の獣は二本足で立っていた。それはかつてソアラと対峙したメリウステスの姿にも似ている。
 「それはそうだとも。俺たちは倒されたとて、主の元に力が舞い戻るように“束縛”されている。おまえが我らを殺さばそれはそれで主に力が満ちていくというわけよ。」
 「___たな。」
 自慢げな虎男の言葉尻に続けるように、セラは小さく呟いた。血に濡れた顔で嘲笑を浮かべていた。
 「んん?」
 「無様だと言ったんだ。かつてバルディスで私と凌ぎを削った獣皇王ゼンガーが、今や尾を立てて足に擦り寄る飼い猫のようではないか!」
 グンッ!ゼンガーの大きな左手が乱暴にセラの胸に抉り込むと、彼女の体を後方の岩山へと押しつける。岩山はすぐに罅入り、セラの体が岩を穿つ。
 「っ!ああっ!」
 竜樹との戦いではもっと激しい激突もあったはずだ。しかしその時に、セラがこれほど喘いだことはなかった。何か肉の拉げる音がして、彼女の首元に青黒い飛沫が弾ける。それはセラの肌で白い煙を上げた。
 「その猫に手も足も出ねえ貴様はどれほど無様だ!?まったく手応えのねえ奴だ!てめえは明らかに弱くなった!」
 ゼンガーは右腕を振り上げた。獣の爪が煌めく。
 シュッ!!
 刃が空を裂く。それは爪でなく、刀だった。真空の刃が飛び退いたゼンガーの胸の毛を僅かに散らす。明らかに浅い。セラを助けるべく駆けつけた竜樹は、瞬時の判断で逃れたゼンガーに追撃をかけた!
 「やめろ竜樹!」
 セラは叫んだ。耳に入っていないと分かってはいても、満足に動かない体では叫ぶしかなかった。竜樹はただ一直線にゼンガーに斬りかかっていた。
 「おおお!」
 捕らえられる。自らの能力を手の内に入れた今なら、恐れることなく全力で刀を振るうだけだ。
 ギンッ___!
 「!?」
 竜樹は渾身の一刀を振るった。ゼンガーはそれを爪で受け止める。その瞬間、火花が散ったようだった。ゼンガーの爪に亀裂が走り、竜樹の愛刀百鬼は粉々に砕けた。
 「っ!!」
 そしてゼンガーの野太い拳が竜樹を吹っ飛ばした。
 ドゴゴゴゴ___!
 土煙が舞う。竜樹が激突した衝撃で、巨大な岩山が崩れ落ちていた。その様を悠然と見やり、ゼンガーは高らかに笑う。
 「ぐはははは___力はある!しかしなんだその安い武器は!貴様の力に耐えかねて砕け散りおった!」
 一頻り笑うと、ゼンガーは拳を引いて力を込める。
 「ツァァアッ!」
 気合いと共に突き出された拳から、大気が砲弾となって放たれる。それは正面の瓦礫の山にぶつかると、壮絶な風を巻き起こして吹っ飛ばしていく。瓦礫の蓋が除かれたそこには、呆然と柄だけの刀を見つめる竜樹と、その後ろで倒れているセラの姿があった。
 「!___セラ!」
 竜樹は刀を失い、我をも失っていた。しかし肌の暖かさが彼女の理性を呼び戻す。岩に激突したとき、とっさに盾となって庇ってくれたセラ。彼女を助けることが第一だ!
 しかし___
 「敵に背を向けるな!」
 竜樹が振り返るとセラは激昂した。次の瞬間、背後におぞましい殺気を感じた竜樹は一際冷静に、柄だけの百鬼を握る右手ではなく、変身で鋭さを増した左手の爪を振るった。
 ジュヴゥゥワッ!
 酷く鈍い感触だった。
 「え!」
 竜樹の爪が抉ったのはゼンガーではなかった。爪に引っかかって醜く歪んでいたのは、青黒い肌をした赤ん坊だった。人とは少し違う、頭が体の八割で、そこにおまけ程度の胴体がついた奇妙な赤ん坊。目はあっても瞼は開かず、まるで胎児のようでもあった。
 「コロシタ___」
 「!?」
 ボフッ!
 奇怪な言葉を残し、赤ん坊は針に刺された風船のように破裂した。弾け飛んだ青黒い血液が竜樹の身体に降り懸かる。
 「ぐっ!?ぐぅぅぁあっ!」
 血は強烈な酸液だった。肌の焼ける感触。しかし竜樹を叫ばせたのはそれではない。
 「こ、こいつは!!」
 背中にまとわりつく壮絶な重さと、薄気味の悪い質感だ。
 「う___!」
 突然の脱力感に竜樹は跪いた。その時にはすでに角も牙も、体の内から発せられる力も、全て消え果てていた。
 「な、なんだこれ___!?」
 わけが分からない。竜樹は半ば錯乱して着物をはだけた。必死に首を捻ると、背中に何かいるのが見えた。形は良く分からない、しかし肩胛骨の辺りから、自分の肌と同化して青黒い肌が続いていた。
 「寄生獣だ。」
 「!?」
 「モバティキス。己を殺めた相手の体内に入り込み、寄生する。瞬時に血管を同化させ、背に吸い付く。宿主の生命力を猛然と食い、例え潰されようともすぐさま___ぐっ!」
 瓦礫に身を擡げたままのセラが、苦しげに呻いた。
 「セラ!」
 よく見れば、セラの寄りかかる瓦礫は青黒い液体でビッショリと濡れている。今彼女に何が起きているのか、荒い吐息の中で上げたセラの顔、それが先程よりも老けて見えたことに竜樹はゾッとした。
 「はっ!」
 しかしそれも一瞬のこと、振り返った竜樹は柄に僅かに残った刃で、襲いかかってきたゼンガーの爪を受け止めていた。
 「見事な反応だ。」
 「てめえ___!」
 「悔しいか?我が主から与えられた古代の獣、モバティキスはまさに束縛の魔獣だ。こんなものを使う私は卑怯かね?んん?」
 ジリジリと、ゼンガーは拳に力を込めていく。全然本気でないのだ。竜樹が必死の思いで食い止めている拳に、ゼンガーは弄ぶようにゆっくりと力を与えていく。
 「至って結構!私は戦神を殺すためだけに使わされたのだ。手段などどうでも良いことなのだよ!」
 限界に達するより一瞬早く、竜樹は瞬間的に力を高めた。
 バンッ!!
 「!?」
 百鬼が弾けた。残された刃、鍔、柄、全てが爆発した。
 「うぬっ!?これは___!」
 柄には薬袋が仕込んである。そこにはたまたま気付け用の香辛料を入れてあった。顔の前で弾けた刺激がゼンガーの目を閉じさせる。
 「ぬ___」
 視界が失せたのはほんの一秒もなかっただろう。しかしゼンガーの前にはすでに竜樹もセラもいなかった。

 「うぐぐ___!」
 背中に触れないように、米俵を肩に担ぐようにしてセラを抱え、竜樹は走った。しかし身震いのする感触に、少しだけ足が鈍る。晒しが青黒い液で焼けていく。
 「力を吸われたな。刀を破壊するために力を高めたことで、モバティキスが弾けたのだ。再生に命を吸われた。」
 「うるせえ___!」
 落ち着いたセラの物言いに、竜樹は苛立って答えた。
 「戦神のくせになんてざまだよ___こんなくだらねえ罠に掛かって!」
 「全くもってその通りだな。」
 本当にその通りだ、セラは情けない自分を悔いた。そもそも古禅庵、七ツ釜を背にしてしまったことが誤りだった。そしてゼンガーに秘技を放つ隙を与えてしまったことが間違いだったのだ。
 「七ツ釜はどうした?」
 「なるほど、あれに戻れば背中のこいつを何とかできるかもしんねぇな。でも割っちまった!」
 グンッ!竜樹は急に駆け足を止める。それは木々の狭間を抜け、小さな山を登り切ったところだった。
 「なあセラ、あんたどれだけの敵を倒した?」
 「五万八千六百二。」
 「それって___半分くらいか?」
 山の向こうは広大な草原が広がっていた。目映い朝日に照らされた景色は、普通ならばとても美しいものだったろう。しかし今、草原は見渡す限りの黒い影に覆われている。竜樹は山の頂点に慄然と立ちつくし、群がる数多の敵を見下ろしていた。
 「竜樹、私を置いていけ。」
 「嫌だ。」
 ギギンッ!
 「ゼンガーも来たようだ。」
 竜樹の背へ投げつけられた無数の石を、肩のセラが刀で弾いた。森の奥を掻き分ける足音も轟いているようだった。
 「私を___」
 「忘れたのか!?」
 竜樹はまるで鼓でも打つかのように、セラの尻を叩いた。
 「俺も戦神だ!」
 その怒声に眼下の群衆が首を上げる。怒号と共に黒い波が動き出した。それは地響きとなって山を揺るがす。
 「考えてることは同じだ___戦って勝つ!少なくとも今のあんたなら、俺の方が戦える!それに___今この場であんたを守れるのは俺しかいねえ!」
 竜樹に悲壮感はなかった。殺戮のための戦いではない、誰かを守るため、大切な人を守るための戦いはこうも勇気に満ちあふれているものか。大群を前にしても足が竦むことさえない。それは彼女が味わったことのない境地だった。
 「こういう気分で戦える事ってねえんだよ___あんたがそうさせてくれたんだ。俺は絶対にあんたを守り抜いてみせる!」
 使命は人を強くする。そして戦神の無尽蔵は多勢に無勢でこそ真価を発揮する。しかし背中の獣があってはそれもままならないだろう。ならば___
 「そうか___ならばそなたに賭けてみよう!」
 「!?」
 竜樹の背中に激痛が走った。その時、セラは竜樹の背、彼女の肌と青黒い肌の狭間に刀を突き通していた。
 「そなたの体には毒でも巡っているのかもしれない。或いは妖魔としての能力の一つかもしれない。いずれにせよモバティキスにとっては居心地の悪い体だったのだろう。同化が不十分だ。」
 そしてセラの腕もまた、開かれた背中の狭間に突き通されていた。腕は血に濡れていた。彼女は自らの腕を切り裂いた上で、竜樹の背へと通したのだ。
 スッ___
 背が急激に軽くなった。勢いでセラは竜樹の肩から転げ落ちる。
 「セラ!」
 セラは血に四つん這いになっていた。腕に開いた傷口に青黒い蠢きが飲み込まれ、すぐさま穴だらけの装束の奥が盛り上がる。
 ガンッ!
 気遣って跪こうとした竜樹の顎を、刀の柄が突き上げた。竜樹の首が反り返るほどの見事な一撃。
 「いってえなぁ!」
 腹立たしさを込めて体を戻した竜樹だが、セラの顔を見ると怒鳴りつける気は失せた。
 モバティキスを根から切り放し、新たな宿を晒すことでそちらに乗り移らせる。竜樹と青黒い塊の狭間に僅かな隙を見いだしたセラのひらめきだった。しかしそれは彼女の命が削られることを意味する。窪んだ目、頬や目元の深い皺、筋の浮かんだ首、あまりにも無惨な姿___それでも彼女は決して諦めてはいない。
 「使え。」
 セラは自らの刀を竜樹に差し出していた。
 「そなたが戦え。そして道を切り開け!」
 竜樹は引きつけられる刀に手を伸ばす。
 「名は___?」
 「花陽炎(はなかげろう)。」
 触れた瞬間、手に吸い付くような感覚があった。掲げてみれば朝日を浴びて、刀身が滑りを帯びた輝きを放つ。美しい波紋は向こうが透けているかのように、二重三重に揺らめいて見える。
 「グフフ___ついに観念したか。」
 這い蹲るセラ。刀を見つめる竜樹。ゼンガーの目には二人の姿が絶望に伏し、死を見つめているように映った。
 「無理もなかろう、数万の軍勢を見てはなぁ___しかし安心しろ!この獣皇王ゼンガーの秘技、エルドラで葬り去ってやる!」
 ゼンガーの全身に白い蒸気が漂っていた。それは蓄えられた膨大なエネルギーが、抑えきれずに毛穴から溢れ出ているかのようだった。
 ゼンガーが口を開く。その奥底が目映く輝くのと、竜樹の姿が変わるのは全く同時のことだった。
 ドオオオオオッ!
 朝日よりも目映い閃光が迸り、轟音が山を揺さぶる。
 「___!」
 強烈な波動の砲撃はゼンガーの奥義だ。それだけに、彼は目を見開くほど驚かされた。
 「よう。」
 竜樹は刀を手に立っている。セラを背負い、笑みまで浮かべていた。エルドラは竜樹の肌を少し焼いてはいたが、それがどうしたというのだ。彼女の背後に立ち上るおぞましい土煙の方がよほど衝撃的だ。
 「助かったぜ、今ので三千はやっただろ。」
 「貴様___」
 舌打ちするゼンガー。しかし彼はすでに群衆が竜樹のすぐ後ろまで迫っていることに気付いていた。
 「シャアアア!」
 土煙を突き破り、虚ろな顔をした人、血に飢えた獣、様々な敵が飛び出した。
 「花陽炎。」
 竜樹は動かない。その場で刀を踊らせてただけだ。
 ズババババ!!
 「!?」
 竜樹に迫った敵は、ことごとく切り裂かれていた。竜樹は振り返っていない。しかしある者は空中で、ある者は地に這うようにして、ともかく全ての敵が体を切り裂かれていた。
 タイミングを合わせて正面から迫っていたゼンガーは瞬間的に察知して踏みとどまった。しかし突き出していた腕に裂け目が走っていた。
 「霞の舞___たった今習ったばかりにしちゃあ上出来だろ?」
 モバティキスに力を奪われた後だ、正直に言えばどこまでもつかは分からない。しかしそんなものは雑念だ。背中のセラを守るため、失った力を補って余りある花陽炎を手に、ひたすら戦うだけだ。
 「さあ!まとめて掛かってこい雑魚ども!」
 戦い、勝ち、生きる!ただそれだけ!
 「最後に勝つのはこの俺だぁぁぁっ!!」
 怒号は山彦となってセラの世界を震わせた。




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