1 戦神セラ

 「ご覧なさい、これは親方様が愛でておいでの小僧松の木ですぞ。美しい造形でございましょう。黄泉で息絶え、こちらへと舞い降りた庭師の男が手を入れております。」
 「ふ〜ん。」
 老人の名はジバンと言った。広い庭園、その池の畔にある館にセラがいるのだろうけど、彼は竜樹に庭園を案内して回った。
 「あちらに蓮池がございます。見頃には少し早いですが、幾らか花も咲いておりますぞ。」
 「あの〜、俺はセラに会いに来たんだけど___」
 もうかれこれ三十分は庭園を回っている。このまま一日が終わってしまいそうだと感じた竜樹は、痺れを切らしてジバンに言った。
 「承知してございます。ふむ、少々早いかも知れませぬが古禅庵(こぜんあん)へ参りましょうか。」
 「本当か?やった!」
 無邪気に喜ぶ竜樹を見て、ジバンは徳の深そうな穏やかな微笑みを浮かべていた。
 「あちらの古禅庵は___」
 「なあ、さっきから黄泉みたいな名前が多いな。」
 「ええ、親方様の趣味とでも申しましょうか。」
 「ふ〜ん。」
 白童子と何か関係があるのだろうか。普段なら竜樹にとってどうでもいいことだろうが、今の彼女はとにかくセラを知りたいし、セラに自分を知ってもらいたくて仕方がなかった。
 「さあこちらです。」
 歴史を感じさせる木造の庵はとても落ち着く空間だった。木が持つ独特の柔らかさ、それを足に感じながらジバンの後ろに付いて廊下を歩く。
 「少々お持ち下され。」
 中庭があるのだろう、角の向こうが明るくなっている。ジバンはそこで竜樹を止めて、一足先に角を曲がった。
 「ああ、やはりまだ終えておられませんでしたか。」
 「もう上がる。剣鷺の間へ通しなさい。」
 大きな声ではない。しかし凛とした女性の声を聞いたその時、竜樹の身体は本能のままに動いた。早足で角を曲がると、そこには品のいい中庭。今まさに行水を終えようとしている美しい背中が見に止まった。
 彼女は振り返り、横顔を見せていた。
 「あああ、お客様。親方様は女性であられますので、なにとぞご容赦を。」
 「___」
 無礼はしないという心がけを早速破ってしまった。竜樹はジバンに押されるまま後ろ歩きで元の角まで下がっていく。ただその間も、戦神からは一瞬たりとて目を離さなかった。例えセラが振り向くのをやめたとしても。

 広い畳の間、自分の前には茶と茶請け、横には愛刀。座布団に正座して、微動だにしないで待つこと数分。
 「お待たせした。」
 セラが現れた。
 ここが異世界であるとは思えない、竜樹にとってはとても馴染みのある姿。羽織袴のセラに竜樹はまたも目を奪われた。彼女が敷居を跨いでから、向かいの座布団に腰を下ろすまで、竜樹はじっと見つめ続けていた。
 戦神セラは触れることが恐ろしくなるような女だった。線は細いが、眼光は鋭く、凛々しい眉と相まって隙を感じさせない。色白な肌、厚みに乏しい唇は、女性らしい暖かみには乏しく、ともすれば彼女の男性的な美しさを際だたせる。黒髪は竜樹と同じように首を隠すかどうかという長さで、小さな髪飾りだけが妙に愛らしさを醸していた。
 「私はセラ、ここの主だ。」
 見惚れていたとでも言おうか、竜樹にはその言葉さえ耳に入っていないようだった。
 「名前は?」
 「あ!___竜樹!竜樹です!」
 慌ただしく答えると、セラは小さく頷いた。
 「私を尋ねてきた訳は言わずとも分かっている。黄泉に去った我が力の一部をそなたが持っている、それは感じることができる。」
 ようやく目から耳へと意識が移ったか、竜樹はいつになく真剣な顔で、鉄棒でも差し込んだように真っ直ぐな背筋でセラの言葉に耳を傾ける。しかし___
 スッ___
 セラは無言で、両手を畳みにつき、深々と頭を下げた。額が畳に付くのではないかと思うほど、深い土下座だった。
 「申し訳ない。」
 緊張と期待感に溢れていたはずの竜樹は、ただ唖然とした。
 「私がそなたの人生を狂わせた。」
 「___」
 「あまつさえ、このような場所に足を運ぶに至らせたこと、悔やんでも悔やみきれぬ。」
 「______」
 「___恥を承知で頼む。」
 深々と頭を下げたまま、セラは続けた。
 「黄泉に帰ってくれ。」
 その言葉に、竜樹は目を見開き、身を強ばらせた。
 「___」
 セラはもう喋らなかった。竜樹の震えをうなじに感じながら、頭を下げ続けていた。
 「ふ___」
 震える唇から声が漏れるまで、かなりの間があった。
 「ふざけんな!!」
 叫びは古禅庵そのものを揺さぶるかのように響いた。しかしセラも、障子の向こうに座していたジバンも微動だにしなかった。
 「俺は___俺はそんな言葉を聞きにここに来たんじゃない!俺は___俺は___!」
 立ち上がった竜樹は未だに頭を上げないセラを睨みつける。だがそこまで言いかけて、彼女は口ごもってしまった。
 「俺は___!」
 どうしていいのかわからなかった。
 「俺は___」
 自分が何を求めてここに来たのか、セラと会ってそれからどうするとか考えてはいたかもしれないけれど、そんなものはすべて形骸に過ぎない。
 ただ、期待をしていたんだ。
 自分が羅刹と思っていた力のこと、それをどうにかしてくれるんじゃないかと。
 漠然としている。でもなにか自分にとって道しるべになると思って、ここを目指してきた。アヌビスにも荷担した。
 オルローヌにセラのことを聞いた。セラは俺のことを知っていた。でも___彼女は俺の何だ?俺は彼女の何だ?俺はここに来て___何をしたかったんだ?俺が目指していたものは何なんだ!?
 「俺のことをわかってくれる人に会いたかったんだ。」
 その時、竜樹は無心だった。激昂は消え、自らに自問自答し、混沌の果てに見いだした光。それを掴んだとき、口を突いたのがその言葉だった。
 それこそが彼女の偽らざる本音だった。自分でも計りかねていた真意だ。
 「俺は自分がなんなのかわからなかった。そんな俺のことを少しでもわかってくれる人に会いたかった。だから旅をしていたし、なぜかわからないけどそれが戦いの中にあると思いこんでいた。」
 そうして巡り会ったのが百鬼であり、フュミレイであり、ソアラであり、アヌビスでもあった。事実、彼らとの出会いは常に竜樹の自問に新たなる道を示してくれた。
 「俺は___ここに答えがあると思ってやってきた。きっと___あんたが俺のことを一番知っているって思ったから。」
 「私は___」
 セラはゆっくりと顔を上げる。冷然とした面持ちには一切の綻びもなかった。
 「そなたの母ではない。」
 その言葉は竜樹を呻かせたかに見えた。しかし彼女は怯んではいなかった。
 「ああ、それはわかってる。でも俺が知りたいのは竜樹のことじゃない。俺は俺の両親のことを理解しているし、あの人たちがどんな死に方をしたかも知っている。問題なのは、俺の中にいる戦神のことだ。それはあんたじゃなきゃわからない。」
 「それはまさに私自身だ。」
 「!」
 驚いた。しかし言葉にではない。さっきまでそこになかったはずの刀が、セラの左横に現れた。
 「すなわち、私を知ることがそなたの中に宿された力を知ることになる。」
 ゴクリ___竜樹は音が聞こえるかというほどはっきりと、生唾を飲んだ。真っ向から目を合わせる、それだけで気圧される。畳の目が一つ一つ超振動しているかのような錯覚、それほどセラの周囲に迸る夥しい戦意。
 「しかし、それは知るか死ぬかのどちらかでしかない___戦神を知るのは戦いの中でだけだ。」
 立ち上がっていた竜樹、その体のバランスは後ろに崩れかけたかに見えた。しかし___
 「上等だ。俺もその方が性に合う。」
 彼女は愛刀を手に、片足を一歩踏み込んだ。それが答えだった。
 「!?」
 キュィィィィン___
 甲高い音。それは竜樹の耳元で起こった。セラの刃を、竜樹が半身も抜き切れていない百鬼で辛うじて受け止めた音だった。
 「受けられただけ上出来だ。」
 「!」
 セラは右手一本で刀を手にしていた。左手は竜樹の肝腑を捉える位置にあてがわれていた。
 「死にたくなければ一縷の隙も許すな。」
 セラは刀を置いていたはずだ。対して手にしていた自分がそれを抜くよりも早く、抜きしなの一刀を食らった。それは今までにない領域。戦いの神と称される人物の聖域。
 「___ゾクゾクしてきたぜ!」
 それは偽らざる本音だった。そして久方ぶりの高揚感でもあった。しかし___
 「ここでは駄目だ、外に出るぞ。」
 「うぉっ!?」
 セラは左手で乱暴に竜樹の袴を掴むと、彼女を引きずるようにして部屋の外へ。
 「わっ!よせっ!自分で飛ぶって!うぉっ!?刀納めろ!当たるじゃねえか!」
 「うるさい。」
 「だーっ!仮にも俺は客だぞ!」
 袴の帯を掴まれながら庭園の外へと引っ張り出されていく竜樹。その姿を縁側から見送っていたジバンは小さなため息をついた。
 「やれやれ___予想通りとはいえ、丁重に追い払うといっておきながら結局こうなる。まぁ二人の戦神が相対してはやむを得ませんな。フォフォフォ。」
 ジバンはセラからこう聞いていた。
 「私の分身が来る。いいや、そやつは私の命など求めてはいない。それは私も同じことだ。だがここにいるべきではない。神が二人殺された今、最悪の事態を思えばその分身はここにいるべきではないのだ。Gを完璧なものとしないためには、悟られぬ地で生き続けてもらわねばならない。」
 だから黄泉に帰れと言った。しかし相手が自分の分身と知っているなら、はいそうですかと帰るはずがないとも分かっていただろうに。だからジバンはため息をつきながらも、呆れたように笑っていた。
 「あ!ちょっと待て!帯が解けそうだ!」
 「気にするな。」
 「それをおまえが言うか!?」
 竜樹はまだ気づかない、きっと幾度となく刃を交えて初めて気づくのだ。戦神セラの名を聞いてから「俺はそいつと戦いたくってしょうがなくなっていた」のだろうと。
 それは正しい。理屈で考えるのは冬美に任せればいい。俺は俺らしく、思うままに正直に生きるんだ。
 「抜け、小童。」
 「言われなくても抜いてやらぁ。」
 あれこれ悩むな。今まで自分が正しいと思ってやってきたこと、それを貫徹すればいいだけだ。
 答えは、戦いの中で見つける!

 「驚いた___なんなんだこりゃ。」
 数分後。庭園から一山抜ければ周りは木々溢れる森だというのに、竜樹は殺伐とした光景の中にいた。
 それはほんの二度、セラと刃を交わした直後に起こった。
 ___
 「気が変わった、場所を変えよう。」
 「はぁっ!?」
 セラの提案は唐突だった。だが彼女は冗談を言っている訳ではない。冷然とした面もちに携えた凄みは全く変わっていない。
 「戦いは、この中でやる。」
 「___」
 だがやっていることは冗談じみている。彼女は手のひらに緑色のビー玉を乗せていた。
 「はぁぁぁぁっ!?」
 竜樹の眉間には、若いなりに目一杯の皺が寄っていた。
 しかしその後、彼女は殺伐とした景色の中で唖然とするのだ。
 ___
 「見事なものだろう。これは私の修練場だ。」
 「修練場___?」
 そこは紛れもなくビー玉の中なのだ。セラが念を込めるとビー玉は輝きを放ち、やがておどろおどろしい響きを奏でたかと思うと、突如竜樹の目の前は真っ白になり、次に見た景色がこれだった。
 「これは妖精神エコリオットの特注品だ。あやつは戦闘能力には乏しいが、奇妙な術を操り、奇怪な品を作り上げる。」
 「エコリオット___あいつか!」
 「ほう、会っていたか。ならば話は早い。」
 「!」
 シュッ!セラの刀が空を切る。それだけで竜樹の体は背後の大岩まで吹っ飛んだ。激突は避けられないかにみえたが___
 グンッ!
 「ほう。」
 竜樹は大股を開いて岩を片足で踏みつける。地面と岩。足を九十度に開いた格好で、彼女は踏みとどまった。
 「剣風だけでこの威力。痺れるぜ___!」
 その目はギラギラと輝いていた。
 「さあ来い!この中であれば戦いがどれほど熾烈を極めようと、案ずることはない!」
 セラの瞳もまた、落ち着きの中に奥深い光を宿していた。
 「やってやるぜ!」
 竜樹が岩を蹴る。背に大岩の崩壊を感じるよりも早く、二人の刃が交わった。
 グァァッ!
 よほど刀同士の衝突とは思えない音が轟いた。二つの刃の接点から風が吹き荒れる。二人の戦神が持つ力の波動が擦れあい、熱風となって周囲を焦がす。
 「うおおおお!」
 竜樹は一気に攻め立てた。
 彼女はまさに万能戦士である。力、スピード、スタミナ、打たれ強さ、武具の扱い、全てにおいて高水準の資質を有している。高速の刃の連撃は、例えばスピードに突出したソアラであってもそうそうやり過ごせるものでもない。
 「うおおおお!」
 だが、セラは違う。竜樹の刃に対して大きな動きを取らず、一定の間合いを保ちつつ、彼女の視界から外れることもなく、ことごとく紙一重でかわす。彼女は常人の目では捉えられない刃の軌道を全て見切っていた。
 「ずああ!」
 「!」
 竜樹のギアが上がった。それまで加減をしていた訳ではない。ただ、虚仮にされた悔しさが勝手に彼女の力を跳ね上げた。瞬速の突きはセラの喉笛を射抜く間合いにあった。
 スッ___
 「!?」
 しかし、セラはすでに刃の脇にいた。ほんの片手で切っ先をずらし、刀で竜樹の頬に触れていた。
 「のろい。」
 「くっ!」
 竜樹はたまらずに飛び退いた。瞬く間に二人の距離が離れる。互いにまだ息に乱れはない。しかし竜種の頬からは血が流れ出ていた。触れただけ、それでも鮮やかな切り口だった。
 「雑だ。」
 セラはそう呟いた。いつの間にか、彼女は刀を鞘に収めていた。
 「なに___」
 「戦いが雑だ。それでは勝てるものも勝てない。」
 「どういうことだ!ていうか刀抜け!」
 「そなたの長所はなんだと思う?」
 「急に話を変えるなよ!」
 「答えよ。」
 「___」
 セラの鋭い眼光に怯んだつもりはない。しかし答えはすぐに出てこなかった。
 「分からないのか?」
 「う、うるせえ!全部長所だから選び切れねえだけだ!」
 「そうか___なら分からせてやろう。」
 セラの周囲で大気が揺らぐ。髪が、装束が、彼女のオーラを浴びて浮き上がる。
 「これから少し殺す気で攻める。逃げるか守るかしてみるが良い。」
 ドッ!
 「!!!」
 竜樹は刀を盾にするので精一杯だった。反論の暇すら与えず、セラの一刀は竜樹に降り懸かっていた。
 (やば___!)
 それは先程と同じ状況だ。セラは片手で刀を握り、逆の手は竜樹の肝腑へと忍び寄る!
 ドオオオッ!
 爆音が轟いた。

 ズズ___
 音を立てて、ジバンは抹茶を啜る。
 「七ツ釜(ななつがま)を使われましたか___」
 一山向こうの森、そこに転がるであろうビー玉の中での激闘。ジバンはその気配を感じたのではない。山は何事もないように静かで、小鳥たちも何事もないようにさえずっている。だからこそ、ジバンはセラがエコリオットに貰ったたった一つの秘具を使ったと感じたのだ。
 「よほど本気なのですな。親方様___」
 そんなことを呟き、ジバンは茶菓子のくずを近寄ってきた小鳥へと投げた。

 ダッ!
 竜樹はそれぞれが十メートルは離れているだろう岩から岩へと飛ぶ。彼女が蹴った岩一つ一つが鋭敏な切り口で両断され、ついには蹴ろうとした岩に裂け目が走る。しかし竜樹はそれに惑わされることなく、気配を感じて刀を頭上に向けた。
 ギンッ!
 甲高い音を上げ、二つの刃が交わる。そこからさらに鳩尾への蹴りが飛ぶ!しかしそれを読んでいた竜樹は膝を上げて蹴りを受け止め、セラに斬りかかる。しかしセラはすでに飛び退き、しかも___
 「ぐっ!」
 竜樹の肩を裂いていた。
 「ちぃぃ!」
 しかし竜樹には痛がっている余裕など無い。もともと痛みには強いが、そうでなくとも止まることは許されないのだ。
 「つぁあ!」
 竜樹は切り裂かれた岩を力任せに蹴飛ばした。大きな岩がサッカーボールのように飛んだことは驚きだが、そんなことなど意にも介さず、セラは岩の上を抜けて竜樹に迫る。
 「違う!」
 ただ竜樹はそれに目もくれなかった。
 ギィィィンッ!
 下。本物のセラは岩の下を抜けてきたのだ。上に一瞬見えたセラの姿も彼女自身ではあったが、その影だけを瞳に焼き付かせるほどセラは速い。しかし竜樹は、胸に向かって伸びてきた突きをかろうじて刀の鍔で受け止めていた。
 「良く止めた。」
 それは竜樹が五時間ぶりに聞いたセラの声だった。
 「はぁっはぁっ___」
 互いの動きが止まったその時、竜樹は荒い息を付いていた。セラの刀が今にも愛刀百鬼の鍔を貫きそうだったが、竜樹の身体も限界に近かった。
 丸々五時間攻められっぱなしだ。竜樹の装束は血にまみれ、全身至る所に切り傷が刻まれている。それでも竜樹は五時間守り続けた。攻めに転じる猶予はなかった。そしてセラが刀を引く。
 「今日はここまでにしよう。」
 「まだやれる!」
 「やれない。」
 「くっ___!」
 悠然と刀を収めるセラに、竜樹は半ばやけくそになって斬りかかった。
 「!?」
 しかし、刃はセラの指に止められていた。ほんの宙を舞う木の葉でも摘むように、セラは親指と人差し指で百鬼を食い止めていた。
 「大幅に手加減を強いられる身にもなってみよ。」
 愕然としていた竜樹をその言葉がさらに打ち拉ぐ。呼吸を整えるのもままならない状態で、それでも悔しさを爆発力に変えて放った攻撃。それがこうも簡単に食い止められ、しかも屈辱的な言葉を浴びせられる。
 悔しさ、反骨心。肉体的に追い込まれた竜樹が苦境からの「克服」を求めたとき、彼女の内なるものは目を覚ます。かつては怒りがその源だったが、ようは目前の敵への勝利を渇望したとき、彼女は変わるのだ。
 「うおおおお!」
 「!」
 絶叫と共に竜樹が変わる。その変化は急速で、セラはすぐさま後方へと飛んだ。指を外したことで振り下ろされた刃。それ自体はセラの体に触れなかったが、彼女の装束、そして肌に一筋の傷を付けていた。
 「こやつ___」
 セラは刮目していた。角と牙を生やした竜樹の外見的な変化はもちろん、先程までの疲弊が嘘のように力に満ちあふれている彼女に。
 「ぐあああ!」
 戦神セラの前ならば、この姿で戦うことを躊躇う必要はない。手加減なしの勝負に持ち込ませてやる!その思いが竜樹の中の戦神を覚醒させた。
 自ら強く望んでこの姿になったのは___もしかしたら初めてかもしれない。もちろん今の竜樹にそんなことを考える理性は残っていないが。
 ギャウン!
 速さからして桁違いだ。あっという間に距離を詰め、無駄のない軌道で放たれた刃をセラは刀で受けた。手で止めるのは危険すぎたから。
 「!」
 しかし攻撃は単発ではなかった。今度は竜樹が右手一本で刀を握り、左手をセラの肝腑へと伸ばしていたのだ。
 ドゥオオオッ!
 左手に満たされていたのは生命力の波動。それは闘気を纏い、壮絶な爆発を巻き起こす。破壊の練闘気、百鬼が覇王決定戦で見せた秘技を彼女は見よう見まねであっさり再現して見せた。
 ギィン!
 竜樹はまだ止まらない。吹っ飛ばされたセラを追い越すほどの速さで飛び出し、一刀を放つ。刃は交錯したが、セラの纏うオーラを乗り越えるようにして、竜樹の剣が真空の刃を飛ばす。セラの左の眉から鼻を跨いで右頬へ、皮膚が裂け血飛沫が弾いた。
 だが、戦神の佇まいは微動だにしない。
 「なるほど___それがもう一人の竜樹か。」
 血に飢えた野獣を前にして、セラの眼光は鋭さを増した。

 「!」
 目覚めたとき、竜樹は汗ばむほどの暖かさに包まれていた。
 「んぐっ!?うばぼッ!」
 次の瞬間、彼女は大量の湯を吸い込んでいた。
 「ぶはぁっ!げほっげほっ!」
 少しじたばたしてから水中を脱した竜樹は、苦しそうに噎せ返った。口からだけでなく、鼻からも湯が噴き出していた。
 「ようやく気がついたか。」
 振り返るとそこでは悠然と湯に肩までつかったセラの姿が。
 「てめえ殺す気かっうぐっ!げほっ!?」
 「殺す気でかかるといったろう。」
 「野郎___」
 「ほれ、見ての通り野郎ではないぞ。」
 「うぅう、うるせえ!」
 そこは温泉。ひとまず落ち着きを取り戻した竜樹だが、意地っ張りなのか何なのか、セラに服を脱げと勧められても装束のまま温泉に浸かっていた。そんな竜樹を見て笑みを浮かべるセラ。それは竜樹の思い描いていた戦神像とは少し違う。自分の変化した姿を思うと余計に違和感があった。
 「そういえば、俺はどうなったんだ?」
 「?___覚えていないのか?」
 セラはキョトンとした顔で問いかけた。
 「あんたの肩に傷をつけて___そうだ、顔を切ったところまでは覚えている___あれ!?顔の傷は!あ!?俺の体の傷も消えてるぞ!」
 「___鈍い奴め。」
 「この温泉のせいか!」
 「そうだ。内臓の傷も癒してやったのだから、沈めてもらったことをありがたく思え。」
 (うぜぇ〜___!)
 いちいち癇に障る戦神に苛立ちながらも、竜樹はこの白湯の温泉のことを聞かなければならないと感じ、口を開いた。
 「こいつ___白廟泉そっくりだな。」
 「それはそうだろう、Gの力を源にしているという点で同類だからな。」
 「!?」
 自分の乏しい知識では理解できないかもしれない、しかしオルローヌのおかげでGや十二神にも興味を抱けるようになった竜樹は、セラに問いかけた。
 「それってどういうことなんだ___?」
 セラは短い思案を経て、口を開いた。伝えるべきかどうか、少し迷っていたのだろう。しかし彼女は竜樹を疑ってはいないから、答えに時間はかからなかった。
 「オル・ヴァンビディスのすべてはGの力を源としている。この世界にあまねく自然のすべてが、封じられたGの力により作られている。その力をすべて使い果たすまで、私たちはこの世界で封印を守り続けなければならない。それまではただひたすら、時が過ぎるのを待つということだ。しかし___妖精神エコリオットは少し違う。あれはGの力を積極的に消費しようと考えた。その一つがこれだ。」
 「つまりどういうことなんだ___?」
 「世界の創造だ。」
 「!」
 「創造には膨大なエネルギーが必要だ。我々神にすら適うものではないが、奴は長らく妖精たちにとって住みよい世界を作るべく、バルディス時代から隔離された別の空間を作る研究を重ねていた。その手法をもとにGを利用してできあがったのがこれだ。エコリオットはなにやら長ったらしい名前をつけていたが、私はこいつを七ツ釜と呼んでいる。」
 「あぁぁ〜、じゃあ何か?ここはオル・ビビンバであってオル・ビビンバじゃねえってことか?」
 「___間違えた名前を堂々と連呼するな。まあ、その考え方で正しい。ここはオル・ヴァンビディスの中に作られた別の世界だ。その証拠に___」
 五時間も戦い続けて空は夕刻になっている。しかしセラがなにやら詠唱すると空に小さな円が開き、まばゆい日が指してきた。
 「ここは時の流れが違う。」
 「!?」
 「そしてこの温泉だが___」
 竜樹に今の状況を納得させる猶予も与えず、セラは続けた。
 「生命は水から生まれる。そして温泉は大地の力の放出により、熱を持つ。ま、単純に言うなれば、もっとも力が漏出しやすい場所なのだ。Gの遍く世界にいれば誰しもが少なからず生命力に恩恵を受ける。温泉はそれが顕著な効果として現れるに過ぎない。」
 「な、なら黄泉の白廟泉は?」
 「ああ___」
 セラはしばし思案して。
 「エコリオットがいっそGの力をほかの世界に分けてしまおうといってな、他の神々は猛烈に反対したのだが___」
 「が?」
 「私は我が子を黄泉に帰すまたとないチャンスだったのでこっそり荷担した。」
 「こっそりとか言うな。そのせいで俺は今ここにいるんだぜ。」
 竜樹は辟易とした顔で言った。
 「すまぬな。」
 「いんや、そのおかげで俺はここまで来れたって言ってるのさ。」
 しかしすぐに笑みへと変わる。それは作り笑顔ではなく、温泉の水気も相まって本当に清々しく見えた。
 「___すまぬ。」
 「違うだろ。」
 「___ありがとう。」
 「ああ。」
 ザバァッ!満足げな微笑を浮かべ、竜樹は立ち上がった。
 「ようし!傷も癒えたところでさっきの続きをやろうぜ!」
 「___よかろう。ただ、あの力は使うな。」
 「あん?」
 「理性を失っては意味がない。化けたそなたを完膚無きまでに叩きのめしたところで、そなたがそれを覚えていないのでは意味がないからな。」
 「へえへぇ、そうですか!」
 再び戦いが始まる。鈍い竜樹はいまだにこれが「修行」だとは気づいていないようだ。互いを知るためといって刃を交えたはずなのに、なぜセラが一方的に竜樹を鍛える状況になっているのかなんて、当分疑問に思うことはないのだろう。
 とにかく今は、セラとの戦いが楽しくてしょうがないのだから。




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