1 過ぎたる者

 「ここは素敵な所ね。」
 「___」
 ジェネリについての悲劇的な報せを持ち帰り、フュミレイと鏡越しの会話をし、明日の夜明けと共に発つライたちに労いの言葉を掛け、一日にの終わりをレイノラはオコンと共に迎えていた。
 海の中にあるような彼の部屋。青白い光は水の揺らぎを受けてキラキラと光り、夜の海を美しく彩る。そこは男と女が互いを見つめながら弱い酒を口にするのに相応しい場所だった。
 「でも今夜の海は泣いている。」
 「___」
 グラスを手に、酒に浮かぶ波紋をじっと見据えるオコン。今の彼の心地を象徴するかのように、夜の海はとてももの悲しく見えた。
 「ジェネリは___本当に死んだのか?」
 俯いたまま、オコンは言った。
 「信じたくはないけれど___」
 「そうか___」
 二人の趣味に合わせた強い酒。しかしオコンは軽々と、一息に飲み干す。
 「虚しいものだな。」
 深い溜息をついて、オコンは続けた。
 「俺たちはかつての負の遺産を清算するためにここにいる。十二人の神と呼ばれる存在に、どんな歴史があろうと、どんな思いがあろうと、それは重要ではないんだ。俺たちは封印の鍵で、Gがある限りそのままじっとしているか壊されるかしかない。」
 「自棄になるものではないわ。」
 「云千年も退屈な日々を送り続けているんだ。自棄にもなるさ___」
 新たな酒をグラスに注ぎ、オコンはまた一息に飲み干した。レイノラもグラスを傾ける。沈黙の中で神殿の水音だけが涼やかに響いていた。
 「レイノラ。」
 不意に、オコンが彼女を見据えて呼んだ。優しい顔には見えなかった。
 「おまえがこちらに来てくれた意気は買う。アヌビスという脅威に警戒が必要なことも分かる。しかしそれだけじゃ解決にはならない。」
 ソアラなら卒倒するほどの強い酒を、互いに五杯以上飲み干した。それでも一切変わらない顔色で二人は目を合わせる。少しだけ語気を強くして、オコンは続けた。
 「おまえはGをどうするつもりなんだ?」
 それはこの戦いの核心である。しかしオコンはレイノラからまだそれを聞いていなかった。いや、それはオコンだけでなくソアラにしても百鬼にしても、レイノラのGに対する策を聞いたことがない。悲観的な答えしか想定できないから聞かなかったという部分もあるが。
 「当面の脅威はアヌビスか?それとも二人の神を殺した誰かか?だがそれをどうにかしたとしてもGはあり続ける。おまえが俺たちを守るとして、それが永遠に続くとしたら___それはそれで地獄も同じじゃないのか?」
 「___」
 「おまえは何をしてくれるんだ?俺たちをこの退屈な時の流れから解放してくれるのか?あらゆるものを無に返すほど強烈なGの力を、おまえはどう始末するつもりなんだ?」
 レイノラはグラスを抱いたまま押し黙る。自然とオコンから視線を逸らしていた。その仕草が答えを物語っていたが、オコンは彼女の口から聞くことを望んだ。長い沈黙の後、レイノラは一度唇を動かしながら躊躇って、それでも思い立ったように答えた。
 「どうしたらいいかは分からない。」
 グラスの波紋を見つめながら、レイノラは続けた。
 「アヌビスがGを狙っていた。私は奴を止めることだけを考えていた。そこに新しい脅威___多分アヌビスとは関わりのない誰かが二人の神を殺した。全ての神を殺した先に何があるのか、そいつはきっと知っている。そして神の力はそいつに受け継がれている。それはつまり、十二の神の力が一人に集まったとき、かつてバルディスに起こったことと同じ事が繰り返されると想像できる。」
 長い瞬き。レイノラは静かに語る。
 「私は___私も含めて十二人の仲間とともにここに来た。彼らは私たちにも劣らない資質を持っていると思う。でもそれは___それは私たちが疲れ切った十二の神の代役になりに来たような印象を与える。もしそうなったとしても解決することは何もない。私たちが代役になったとしても、この負の連鎖を断ち切ることはできない。」
 淡々と、しかし弱々しい口調に彼女の苦悩が滲み出ていた。神々を守りながらアヌビスともう一つの正体不明の脅威を倒すこと。それが当面の目標には違いない。しかし根本的な解決にはならない。アヌビスのように外からオル・ヴァンビディスに辿り着く者もいれば、オル・ヴァンビディスの中で自生する悪もある。それを未来永劫、おそらく少しずつにせよ消費はされているだろうGの力、資源とでも言おうか、それが尽き果てるまで監視し続けろというのか?
 どうしたらいいのか分からない___それはレイノラの素直な気持ちだった。
 「レイノラ、これは小さな疑問だ。」
 「なに___?」
 慰めの言葉はない。しかし幾らか優しくなった口調でオコンは尋ね、レイノラも顔を上げた。
 「謎の敵はなんのつもりで神を殺したんだ?俺にはそれが分からない。」
 「___どういうこと?」
 「神を殺せば生身になれるからか?強力な力が手に入るからか?だが、もし敵がGの歴史を知っているのなら、自分がアイアンリッチになってしまうという恐怖はないのか?過ぎた力は自らをも滅ぼす。敵はそれを知っていながら十二人全てを殺すつもりでいるのか?」
 「___」
 「アヌビスにしてもそうだ。それが分かっていてなぜGを求める?まして奴は生身なんだろう?」
 謎の敵のことは分からない。しかしアヌビスのことなら分かる。
 「野心と好奇心___アヌビスについてはそれしかない。」
 「そんなもののために!」
 「そうね___」
 レイノラも同じ気持ちではある。本当、そんなもののために世界は脅かされようとしているのだ。ただ本当にアヌビスがそれだけのつもりでGを求めたのかどうかは、言い切れないところもあるが。
 「オコン、私はどうすることが最善の解決策なのか分からないわ。二人の神が多分殺された今となっては、余計にどうすべきなのか分からない。私はアヌビスをこの世界から消し去ればそれで片づくと思っていたけど___それだけでは足りないことははっきりしているし___あなたたちを無限地獄から解放する手だてなんて見当も付かない。」
 「いや、俺たちのことは___」
 云千年の時の流れが退屈だったのは確かだ。だがGと対峙した神としての使命を忘れたわけではない。オコンは慌てて言葉を挟んだが、レイノラは構わずに続けた。
 「分かってる。もうそれは諦めてもらうしかないと思っている。その代わり、これからは私が退屈しのぎの手伝いをしてあげるから。」
 「なんだって___?」
 「謎の敵は私が殺す。そして私は___私自身が持っている力を含めれば、三人分の神の力を宿して、この世界の監視役になる。退屈な日々は続くかもしれないけれど、それでも少しずつ、Gの力を消費していくしか道はないと思うから。」
 どうすればいいか、色々考えてはいた。しかしいずれにせよ自分はこの世界に残る。それはレイノラがこちらに来る前から心に決めていたことだった。
 「しかし___」
 「オコン。もしあなたが中庸界を___私の仲間たちの故郷のなかで最も繁栄している世界を見たら驚くでしょうね。人は一種の人でしかなく、翼の有無や耳の形、角やしっぽ、そんなものどこにもない。魔力でさえほとんど消え失せてしまっている。それは長い時間の中で、多くの人たちにとって不要になったものが消えていったのよ。それがどういう事か分かる?」
 「いや___」
 「もう神は必要とされていないのよ。」
 「___」
 「神は書物の中に、人々の思想の中に偶像としてあればいい。私たちは過ぎたる者なの。だから___Gとともにこの世界で眠るべきなのよ。」
 オコンは押し黙り、グラスに残った酒を一息に飲み込む。
 「飲むぞ、レイノラ。」
 「___そうね。」
 それからは会話は少なかった。退屈ではなかったが、とてももの悲しい夜___
 これなら、退屈のほうがましかもしれない。
 「ふっ___」
 「なに?」
 「いや、大したことじゃないよ。」
 退屈しのぎが欲しいだけなら、野心と好奇心のために世界を脅かす輩と変わらない。オコンは心の中で吐き捨てた言葉に、自嘲の笑みを浮かべていた。
 「この一杯はジェネリに捧げたい。どうだ?」
 「いいわ。時間を掛けてじっくりと味わいましょう。」
 「我が愛しき人!ジェネリに!」
 「ジェネリに。」
 二人の酒は明け方まで続いた。

 「それじゃ!行ってきます!」
 レイノラたちの見送りに、ライはさもらしい敬礼で答える。水気に溢れた神殿のテラスには装具を整えた翼竜が留まり、ミキャックとサザビーはすでにその背で待っていた。晴れ晴れしい空は旅立ちに相応しい陽気である。
 「生きて帰って来いよ!一兵卒!」
 「当たり前でしょ!」
 「故郷の誇りを胸に突撃してまいります!」
 「ライッ!」
 縁起でもない百鬼の激励とライのおふざけ。フローラは怒っていたが、ここ数日の重苦しい雰囲気を少しでも和ませてくれるひとこまだった。
 「オルローヌに疑われることもないとは思うが、念のためこれを持っていくと良い。」
 と、オコンがサザエのような貝殻をライに手渡す。
 「これは?」
 「耳に当ててみるんだ。」
 ライは言われるまま、手のひらサイズの巻き貝を耳に当てた。すると___
 「あっ!なんか言ってる!え〜、私はオコン___彼らは私の使者だ___?」
 「ものまねはいいから。」
 海辺の貝殻を耳に宛うと波の音がする。それと同じように、オコンの貝殻には彼の声が刻み込まれていた。
 「ほら。」
 「あ、ほんと。」
 ライが面白がってフローラの耳にもそれを当てる。そんなやり取りを見てしまうと、いてもたってもいられないのは___
 「僕にも聞かせて!」
 子供と相場が決まっているものだ。
 「うわっすっご〜い!ほらほら!」
 ライの手から貝殻を掠め取ったリュカは、すぐにルディーの耳に押し当てる。
 「ふ〜ん、結構綺麗に聞こえるんだ。」
 「どうなってるんだろ〜!」
 「ここを穿ってみればいいんじゃない?」
 「おいおまえら!オモチャじゃねえんだぞ!」
 ただお楽しみも一瞬のこと。百鬼によって貝殻はライの元へと舞い戻った。
 「それじゃあな。アレックスを連れ戻して帰れよ。」
 「もちろんそのつもりだよ!」
 ライと百鬼はガッチリと握手を交わす。誰よりもつきあいの長い二人は、そうするだけで互いの勇気を共有できると知っているのだ。
 ___
 「あ〜、行っちゃった。」
 良く躾られた翼竜は、ミキャックの手綱で神殿の周りを旋回してからオルローヌの世界へと飛んだ。あっという間に小さくなっていく後ろ姿を見送って、リュカは少しつまらなそうに言った。
 「おまえも一緒に行きたかったのか?」
 「そりゃそうだよ!」
 「リュカはドラゴンに乗りたいだけでしょ。」
 「違うよ、僕だって戦えるんだから!」
 ソアラがいない状況、それでも明るい彼らの背中をレイノラは複雑な思いで見ていた。
 「心配いらねえよ、俺たちはあいつがいない状況にそれなりに慣れちまってるから。またひょっこり現れるさ。」
 それはソアラが行方知れずだと聞いたときの百鬼の言葉だ。
 ジェネリが殺されたらしいことを聞いたとき、確かに彼の顔は強張った。それはジェネリどうこうよりも、そこに一緒にいただろうソアラの事が気になったからだ。無限の印が彼を勇気づけるが、それに根拠がないことも心のどこかで認めているのだろう。ただ信じたい気持ちが彼に暗い顔をさせなかった。二人の子供たちもそんな父の真似をするかのように、いつも元気だった。
 だがレイノラはどちらかといえば悲観論者である。ソアラのことについても、アレックスのことについても、良い結末が待っているとは思っていなかった。
 「手がかりが得られると思いますか?」
 「___棕櫚か。」
 神殿の近海で、海皇帝が顔を出して潮を噴き出している。それを見て陽気にはしゃぐ百鬼一家を見やりながら、棕櫚はレイノラの横に立った。
 「本音を___聞かせてほしいと思いまして。」
 「___必要かしら?」
 「ええ。神が殺されるのをこのまま黙って見ているわけにもいかないでしょう?あなたの本音で、俺たちがどう動くべきかも変わります。」
 レイノラは短い逡巡の後、踵を返して神殿の中へ進もうとする。
 「待ちなよ。」
 しかしその足を百鬼が止めた。彼はレイノラに背を向けたままだったが、少しだけ振り返って横顔を見せていた。
 「その答えはここで言ってくれ。」
 「聞こえてましたか。」
 「わざとらしいぜ棕櫚。聞こえるように言ったんだろ?」
 百鬼は振り返り、小さく笑ってテラスの手すりに寄りかかった。リュカとルディーは海皇帝を見ているが、もうはしゃいではいない。
 「アレックスのことは___私はいい結果が得られるとは思っていない。カレンの口振りからして、アレックスはまだアヌビスの手にある。それを引き戻すのは容易でないと思う。」
 「ソアラは?」
 レイノラは小さく溜息をつき、一度だけ髪をかき上げた。それはソアラが苛ついているときの仕草と良く似ていた。
 「___信じてはいる。だが生死は五分五分かあるいはより悲観的な目で見ている。」
 「良かった、それを聞いて少しホッとしたぜ。」
 吐き捨てるように言ったレイノラだったが、百鬼の反応は思った以上にあっけらかんとしたものだった。
 「?」
 「いや、下手に隠されると余計な詮索をしちまうだろ?」
 「ああ___」
 ソアラの死を知っていて隠しているのではないかということ。
 「可能性があるのは確かみたいだからな、それで少しホッとしたんだよ。なぁ?」
 「僕はお母さんは絶対大丈夫だと思うよ。」
 「っていうか、そういうことをあたしたちに聞く神経が分かんない。」
 「ルディー、そういう言葉遣いはやめろって言ったろうが。」
 「し〜らない。」
 ルディーは襟首を捕まえようとした百鬼の手をすり抜けて、神殿の中へと駆けていく。リュカもそれを追いかけて走り去っていった。
 「しょうがねえなぁあいつら。」
 「聞きたくないというのが本音かも知れませんよ。」
 百鬼は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐにまた気丈な笑みを取り戻す。
 「かもな。」
 だがそれは作り笑顔でしかないのだ。先ほどの言葉にしても、ホッとしているわけがない。内心は一目でも早くソアラと再会したいと思っている。
 本音を抑えているのはレイノラだけでない。彼もだ。
 「んじゃな、ちょっと様子見てくる。」
 隠し続けたまま立ち去ろうとしたその時。
 「ソアラは無事ではないわ。」
 レイノラが言った。
 「生存の可能性はある。でも生存していたとしても無事ではない。あの子は敵と戦って負けた、それがどういう事かは分かるわね?」
 「戦ったって___どういう事だ!?」
 レイノラの前を過ぎ去ろうとした瞬間だった。その言葉に百鬼は足を止め、振り向いた。吐息の感触が分かる距離で、慄然とする百鬼とレイノラの視線が交わる。
 「ジェネリ神殿の大穴はソアラが開けたものよ。」
 「!」
 「竜波動の気配が残っていた。それはあの子がすでに敵と遭遇している証。そしてこの世界に来てまだジェネリとオコンの世界しか知らないあの子が、もし運良く敵から逃れられたとしてどこを目指すかしら?」
 「っ___!」
 「オコンの世界でしょうね。」
 声にならない百鬼の代わりに棕櫚が言った。
 「でもソアラさんはここにはいません。海に入っていればオコンの偵察隊が気付くはずです。」
 「それが何を意味するかということよ。私は可能性は捨てない、でも過ぎた望みを持つつもりもないわ。ソアラは死んでいるか、敵に捕らわれたか、生きていても身動きが取れないくらいの深手を負っているか、どれかよ。」
 百鬼が強く歯を食いしばる。間近に立つレイノラには彼の頬の強張りがよく分かった。
 「無事でいると思うべきではないわ。」
 グッ___沈黙のままそこまで聞いて、百鬼はたまりかねたように動いた。その武骨な手は一度レイノラの襟首に向かって動き、結局彼女の両肩に留まった。
 「___それは俺が決める。俺がどう思おうが勝手だろ?」
 幾らか声が震えていた。引きつった笑みで憤りを押さえ込み、指先は酷く強張っていた。地界でブレンからソアラの死を聞かされた後、ソアラを亡き者としてこれからのことを語ろうとしたサザビーを、百鬼は殴った。状況はあの時と良く似ていた。
 「大丈夫、前にもこういうことがあったんだ。その時もソアラは帰ってきた。だから俺は可能性がある限り高望みし続けるぜ。」
 それは自分に言い聞かせる言葉でもあったのだろう。肩に食い込んでいた百鬼の指からは徐々に強張りが消え、頬は引きつったままだったが声の震えもなくなっていた。
 「咎めはしないわ。」
 「___ありがとよ、女神様。」
 ポンッとレイノラの肩を叩き、百鬼は踵を返す。明るく振る舞ってはいても、神殿の中へと消える背中はどこか寂しげに見えた。
 「動きませんか?」
 百鬼の姿が見えなくなるなり、棕櫚が言った。
 「さっきの続き?」
 「もう一度じっくり調べてみましょうよ。殺人事件というのは現場に立ち返ることが第一です。」
 「___確かにそうね、あそこはよく調べることができなかったし、それに___」
 レイノラが手を差し伸べると、棕櫚は愛らしい小鳥に化けて指へと飛んでみせる。今度はすぐさまリスに姿を変えて、レイノラの肩まで駆け上った。
 「おまえがそう言った口振りで話すときは、大概何かの確信があるときでしょ?」
 「よくご存じで!」
 リスは大きな歯を向いて、ちょっと不気味な笑い顔を見せていた。

 リスの棕櫚を肩に乗せたまま、レイノラは祭壇の間へと向かった。オコンにこれから外出すると伝えるつもりだったが、彼はなにやら深刻な顔で神官と言葉を交わしていた。
 「ああ、レイノラか。」
 「どうかしたの?」
 「うむ、なにやらこの世界へ入り込んだ者がいる。」
 「!」
 ソアラかも?百鬼ならずともそう思いたくもなるが、オコンは彼女のことを知っている。表情を見る限りでは、招かれざる客というところか。
 「敵?」
 「いや、敵でもない。傷ついている。」
 オル・ヴァンビディスの各世界はムンゾの能力による障壁で遮られている。しかしそれ自体は人の侵入を阻むものではないし、世界間の行き来も決して珍しいものではない。オコンが深刻な顔をしていたのはその人物が傷ついていたから、そして___
 「しかも___彼は命を賭してでも俺に会いたがっている。」
 海を伝って響く意志が、痛烈だったからだ。

 オコンの使いのイルカが傷ついた男性を神殿に運んできたのは、その日の夜のことだった。男は屈強だったが体中に傷を刻み、すでに虫の息だった。海に宿る命の力と、彼の強い使命感がここまで身を持たせていた。
 「ビガロス様のご意志を___」
 それが男の最期の言葉だった。彼は大地神ビガロスの神官であり、偉大なる君主の意志を伝えるためだけにここまで来たのだ。
 オコンに手渡された岩、それは神官が事切れるのと同時にオコンの手の中で震えだし、みるみるうちに膨らんでいくと大男の人型となる。
 「ビガロス___」
 その武骨な岩人形を見て、レイノラはそう呟いていた。
 「本当にレイノラか___!」
 岩の顔が砂を零しながら言った。野太い声は、背丈も肩幅も身体の厚みも規格外な大男にピッタリ。ゴツゴツしていた岩肌は徐々に滑らかになり、精巧な彫像へと変わっていったが、大地神ビガロスは岩でできていて調度良いと思わせるほど屈強な体躯の持ち主なのである。
 「変わらぬなぁ、やはりおまえの美しさは不変よ!」
 「ビガロス殿もお変わりないようで。」
 「大地は常に生気で満ち満ちておろう?ハッハッハッ!」
 今皆の目の前にあるのはビガロスの彫像である。しかしそれはビガロス本人がそこにいるかのように、口も開けば瞬きもするし、手足指先まで、砂は零すが流暢に動いた。居合わせた百鬼一家は目を丸くしていたし、棕櫚も興味深げにそれを眺めていた。
 「ビガロス殿、使者の命を費やしてまでどのような御用で?」
 やや場違いなビガロスの高笑いに、オコンは挨拶もなく語気を強めて問うた。彫像はオコンを振り返り、そして今にも消え失せようとしている使者の躯を見やると、跪いて手を触れた。
 「うむ、ボームは死んだか。その忠誠痛みいる。まずはこやつのために祈ってやってほしい。」
 三人の神が祈りを捧げる。百鬼は彼の故郷の習わしに従って両手を合わせ、子供たちもそれを真似する。やがてボームと呼ばれた男の躯は消え失せた。それは微かな白い霧となって、どこからともなく吹いた風に紛れて散った。
 「わ___」
 「___」
 それが生身でない者の死だ。欠片も残さない死に様は、薄目でこっそり見ていたリュカとルディーをゾッとさせていた。

 「話はバルカンから聞いた。それでなんとしてもおまえたちと直接話をしたいと思っていたのだ。だが我が世界とオコンの世界は対極に近い位置にある。簡単ではない所業をボームは良くやってくれた。」
 彫像のビガロスは深みのある低音で言った。彼はすでにムンゾとジェネリの事を知っていたし、バルカンに伝えられた状況からして彼らは死んだものと理解していた。
 「問題は、この世界に我々を苦もなく殺められる存在がいるのかと言うことだ?それについておまえたちの考察を聞きたいと思っていた。」
 「まず確かなのが一人、邪神アヌビスのことをお聞きで?」
 「うむ、バルカンから聞いた。だがその可能性は無いようだとも聞いている。おまえも同じ意見か?」
 「はい。ただGを求めてこの世界に入り込んだのも確かです。」
 レイノラのビガロスに対する言葉遣いはオコンやバルカンに対するものとは違う。それは神の中の格とでも言おうか。バルディスの時代にビガロスは大神の側近として活躍していた権威ある神であり、彼からすればオコンやレイノラは若輩者の部類に入る。
 「それでだ、他に何が神を脅かす?まして殺されたのは我らの中でも最も用心深かったであろうムンゾだ。果たしてこの世界に遍く屍たちに、それほどの力量があるのだろうか?」
 この世界を学んでいる最中のレイノラには答えようがない。それを察したビガロスはオコンに目を移す。
 「どうだオコンよ。」
 「___」
 だがオコンも沈黙していた。
 「うむ。神を凌ぐには、それ相応の力が一人の元に集わなければならない。生ける屍たちの___」
 「その呼び名は相応しくない。」
 唐突にオコンが口を挟んだ。
 「彼らによりこの世界は彩られ、俺たちも多くの恩恵を受けている。ボームのためにも敬意を払うべきだ。」
 沈黙が流れる。その時、百鬼は小さく頷き、レイノラは微動だにせず、ビガロスはニヤリと笑った。
 「おまえはジェイローグのようだな。」
 「!」
 その言葉にオコンは肩をすくめた。反射的に一瞥したレイノラと目があってしまい、彼はすぐに視線を逸らしてビガロスを睨んだ。
 「いや、他意はない。率直に思ったことを言ったまでよ。気を悪くしたなら非礼を詫びよう。」
 「いえ。」
 レイノラは努めて冷淡だった。だが見る者にとっては不思議な情景でもあった。当事者たちの関係が何にせよ、それは何らかの思うところのある男女に見られるような仕草だったから。
 「あまり長居をするものでもないな。こうしている間、私自身の肉体は眠っているも同じになる。無警戒な時間を長引かせるものでもないから、本題を語ろう。」
 ビガロスは砂を零しながら一度手を叩き、話を引き戻す。オコンももう妙な動揺を消していた。
 「私は神が神を殺した可能性に言及するつもりだ。」
 「!」
 だが、新たな一言がその場にいた者たちの息を詰まらせた。
 「現存の十神、その中に神殺しの張本人がいる可能性だ。おまえたちはそれを端から捨てている、そういった正義感の持ち主だと分かっている。だから私があえてその可能性を示唆しよう。」
 「___あり得ますか?誰もがGの脅威をその身に刻んでいるというのに___」
 レイノラは疑念たっぷりの様子で問いかけた。
 「慎重居士のムンゾを悟られもせずに殺せるか?それほどの力を蓄える段階で、どこの世界で多くの存在を殺めたにせよ、我らの目を欺けるとは思えぬ。この世界はバルディスとは違うのだからな。」
 「しかし___」
 「可能性を捨てるわけにはいかぬ。そして、だとすれば我らもそれに抗う策、事によっては力の結集を検討せねばならない。」
 「!」
 力の結集、その言葉にレイノラは耳を疑った。それはつまり、相互同意の上で神が神に命を捧げると言うことだ。
 「それは自らGに歩みを進めるようなものです___!」
 「もはや十二の均衡は崩れたのだ。無論それが優先ではない、しかし手段の一つではある。抗う力は常に持っていなければならない。」
 「ですが___」
 「はい!」
 困惑するレイノラの呟きを掻き消すように、リュカが元気良く手を挙げた。ビガロスが振り向くと、百鬼が続けた。
 「細かいことまで口を挟むつもりはねえが、敵の正体を知るってのには賛成だ。それが分からなきゃ俺たちだって動きようがない。そのためには全ての可能性を否定しちゃいけないってのは確かだと思うぜ。」
 「慎みなさい、百鬼。」
 「良いではないか、彼の言うことは正しい。それに神を前にして怯まぬ気骨も気に入ったぞ。」
 ビガロスの彫像は百鬼に向き直り、彼の元へ歩み寄るとリュカ、ルディーともどもじっくりと眺め見た。大柄な百鬼が見上げなければならないほどの体躯は、たとえそれが岩の塊であっても圧倒的な威圧感があった。ただ三人ともそれくらいでは動じない。
 「百鬼と言ったな?」
 「そうだ。」
 「子の名は?」
 「リュカ!」
 「ルディー。」
 百鬼に背中を叩かれて、二人は各々にはっきりと答えた。彫像であっても、ビガロスの眼球には独特の力があった。真っ向から視線を交わすと怯みそうになるが、リュカとルディーはむしろ自ずからビガロスの眼を見つめていた。
 「良い子だ。父を助け、レイノラの力になってやれ。」
 「はい!」
 その対峙はビガロスに何を気付かせたのか?彼は穏やかに微笑み、ごつごつした手でリュカとルディーの頭を撫でる。髪が砂粒だらけになって顔をしかめたルディーを後目に、ビガロスは再びレイノラたちに向き直った。
 「私はこれで去るが、左手をここに残そう。手を結べば意思を交わせる。」
 ビガロスはレイノラに左手を差し出す。レイノラがそれを握ると、彼の身体は砂となって崩れ始めた。
 「さらばだ。」
 「!」
 その時、レイノラはほんの一瞬だけ無表情を崩した。それは砂に変わろうとしていたビガロスの笑みに込められた思いがそうさせた。
 (___幼い頃に似ている___本当に?)
 レイノラはじゃれ合いながら髪の砂を払い落としている子供たちを見やる。その手にはビガロスの左手だけが残っていた。




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