3 無の狂気

 激しく歪む景色の中で、全てが一瞬真っ白になったかと思うと、次の瞬間、自分は薄暗い空の下にいた。
 「ここは___」
 「黄泉に似ているな。」
 「そうね___ってなにやってんのよ!」
 新たなる世界に降り立ったとき、ソアラはアヌビスに腰を抱かれていた。
 「どうやらここが新しい世界、Gの眠る場所みたいだ。」
 「いいから放してっ!」
 「やだ。」
 ゴッ___!
 ソアラはアヌビスの腕の中で黄金に輝くと、すぐさまその手を彼の胸に押し当てた。
 「竜波動!」
 壮絶な輝きが迸るが、その時にはアヌビスはソアラを後ろから抱きしめて、光を帯びた髪に鼻先を埋めていた。
 「無駄な力を使うなよ。こんなとこでおまえとやり合うつもりはない。」
 「くっ___」
 結局アヌビスに遊ばれるまま、ソアラは地に降り立った。すぐに振り払って、彼に向き直る。アヌビスの後ろにはダ・ギュール、ヘルハウンドの四人、他に見たことのない顔が三人、そして竜樹。
 「全部あんたの思惑通り!本当、憎ったらしくてしょうがないわ!それに___竜樹!あんたの能力は世界を滅ぼすためにあるの!?」
 竜樹に反論するだけの覇気はなかった。ソアラのことを見もせずに、ただ俯いて息を整えるのに必死といった様子だった。
 「そういきり立つな。いずれにせよ俺たちはここまで到達したさ。力を追求しようとすれば、それは俺であれおまえであれ、やがてGという存在に辿り着いたはずだ。」
 「屁理屈よ!」
 「これは俺にとっても冒険であり挑戦だ。俺がGをものにできるかどうかは分からない。だがそれを手中にできる自信はある。」
 「___っ!」
 「すぐに荒っぽい動きをするつもりはない。まずはこの世界のことを良く知りたい。もしかしたらここは黄泉のどこかかもしれないしな。」
 確かにその可能性はあるだろう。しかしそれを暴くのは難しいことではない。黄泉のどこかを思い描いてヘブンズドアを唱えてみれば分かることだ。
 「どうだ?おまえも一緒にこないか?」
 「___ふざけないで!」
 そう言うなり、ソアラはアヌビスたちに背を向けた。
 「あたしはあっちに向かって飛ぶ___あんたは逆へ飛んで!」
 「つれねえなぁ。」
 「___」
 ソアラは振り向かなかった。捨て台詞を吐くこともなく、猛スピードで薄暗い空へと飛び去っていった___

 あの時、あたしはとてつもなく悔しかった。
 アヌビスのことは憎い。だってそうでしょ?あたしはあいつにどれほど大切なものを奪われたの?でも___それでいてなぜだか決定的に嫌いになれない自分がとても腹立たしかった。アヌビスを止められない自分の無力が悔しかった___
 ふふ___
 なんでだろう?
 何でこんな時にアヌビスのことを考えたりしたんだろう?
 百鬼たちがこの世界に来ていて、あたしを助けに来てくれることを願っているのに。
 この煉獄から救い出してくれるって信じているのに。

 そう、あたしは今煉獄にいる。
 捕らわれてしまったのだ___
 魔性の女に。

 それはジェネリの神殿で起こった。
 風の女神の名のままに、とてもさわやかで清々しくて快活な美女ジェネリ。レイノラの名を聞くと彼女はすぐにうち解けてくれて、あたしに神殿での役目と居場所をくれた。そしてさっそく彼女の使者として海神オコンの元を訪れて、役目を果たしたあたしは神殿に戻ってきた。
 そして悪夢が始まった。
 「あれは___!?」
 神殿の様子がおかしいのは遠くからでも分かった。風が異常に吹き荒れていたからだ。気取られないように慎重に近づいて、神殿のガラス屋根の部分から中を覗き見る。ます目を奪われたのは血まみれのジェネリだった。
 彼女の身体は真っ赤に染まっていたが、それでも神殿内に壮絶な風を巻き起こして抵抗していた。このとき彼女が椅子に座って戦っていたこと、これを気に掛けるべきだった。
 「!」
 次にあたしが見たもの。それが敵だった。
 (天族___!?)
 それが第一印象。ジェネリと対峙していたのは純白の翼をもつ女だった。黄金の頭髪を激しく靡かせる姿は、背丈や顔つきが違っても雰囲気だけでミキャックに似て見えた。
 顔つき、それは似てもにつかない。
 血みどろのジェネリを前にせせら笑い、吹き荒ぶ風など意にも介さぬ様子で殺意を迸らせる。多分、まともなら嫌悪を抱かせる顔立ちではないのだ。大きな目ははっきりとした二重で、鼻も唇も、それほど主張しない。バランスの取れた美しい、ともすれば可愛らしいとでも言いたくなる顔をしている。だが___おそらくこの女は二つの顔を持つ。穏やかな淑女の顔と、狂気に満ちた悪女の顔。
 あたしが見ている今の敵の顔、それは悪女の顔なのだ。
 「これで二人目。」
 他にも何か会話があったようだが、風の音で良く聞こえなかった。ただ、それだけ聞ければ十分だった。
 そう、この女がムンゾを殺したのだ。そして今、ジェネリにとどめを刺そうとしている!
 敵の手に力を感じたのだから、冷静に状況を見守る余裕など無かった。あたしは黄金に輝き、ガラスを突き破った。虚を突かれてやり過ごせる間合いではない。そう思っていたが___
 ガクンッ!
 神殿の中に入った途端、あたしの身体が狂った。床に引っ張られるような力が働き、拳は敵に届かなかった。
 「逃げなさい!」
 それがジェネリから聞いた最期の言葉だった。
 ドバッ!!
 「!!」
 あたしは___彼女の顔が真っ二つに裂けるのを見た。目の下あたりに真っ直ぐな筋が走り、彼女自身の風が分断された頭部を吹っ飛ばした。
 全ての希望を打ち消すような、惨い死に様。まるでフュミレイがアレックス将軍の頭を撃ち抜いたあの時のように。
 「へぇ、生身じゃないか。」
 神殿の中に入った人物の体が重くなる。おそらくそんな仕掛け___束縛の仕掛けだ。立ち上がろうとしたあたしの顎を、敵は痛烈に蹴飛ばした。耐えられない力ではなかったけど、仰け反った身体が後ろに引っ張られて、あたしは仰向けに倒れた。
 ただ、それで良かった。そうすれば敵は上から来る。
 そして___
 「竜波動!」
 微笑を浮かべて飛びかかってきた女に向けて、あたしは目一杯の力で竜波動を放った。黄金の輝きは確かに女を捉え、分厚い天井を突き破って空へと抜けた。
 手応えはあったのに、束縛の力は消えなかった。
 「驚いたわ___とんでもない力の持ち主じゃない。でもあたしの攻撃も確かに効いているようね。」
 「っ!?___目が___!」
 視界が酷く歪み始めた。もしかしたら先ほどの竜波動が捉えたのも、敵ではなく朽ち果てようとしていたジェネリの亡骸だったのかもしれない。敵がそれを放り投げただけ___
 「目だけじゃないわ。靴のつま先に仕込んだ薬が効いてきたのよ。すぐに楽になる___でも殺しはしないわ___あなた___とっても魅力___だから___たっぷりと___って___あげ___」
 耳の奥で銅鑼の音のような響きが広がり、女の声がとぎれとぎれにしか聞こえなくなる。やがて___あたしは気を失った。

 ___どれくらいの時間が経ったのだろう。
 意識が戻って___ううん、多分戻ったんだろうけど___それがえっと___どれくらい前なんだろう?
 はじめはとにかく錯乱した。これが夢なのか現実なのか、あたしが生きているのか死んでいるのか、それさえまだ不確かだけど、とにかくあたしは敵の手に落ちて、いま束縛の神ムンゾの能力で、ただ意志を持つだけの肉の塊になっているのだろうという考えに辿り着いた。
 そうするとジタバタしてもしょうがないという思いとともに、幾らかでも落ち着いた。いや、実際身体の動かし方が分からない。身体があるのかどうかも分からない。とにかく不思議で不気味でとても恐ろしい___
 本当に___この状況にどれだけ耐えられるのかは分からない。
 今のあたしは、見ることができない。全てが真っ暗で、瞼が開いているのか、眼球があるのかどうかも分からない。
 匂いを嗅ぐことができない。とにかく分からない。呼吸をしている感覚もないし、鼻の穴が開いているのか塞がれているのかも分からない。
 味を感じることができない。そもそも口の感覚がない。あたしという意志は、声を出したいと思ってみても、何も聞こえないのではどうにもならない。舌の存在感もない。
 触ることができない。肉体の有無が定かでない。手がどこにあるのか、自分は手を動かしているつもりになっても、実際あたしの身体がそう動いているのかなんて見当も付かない。
 とにかく何一つ感じることができない。全ての感覚は閉ざされていて、ただ___それでもあたしという人格、知性、思考、意志は生きているのだ。
 あの女のことを思い出したり、アヌビスのことを考えたり、百鬼が助けに来てくれることを願ったり___
 ただ、それさえも消される不安がある。

 いま、あたしは無の中にある。
 無がこれほど恐ろしいものだとは思わなかった。
 無の中では、何をしようと全てが無意味なんだ。
 無の中では、あたしが生きているのかどうかでさえ、何の意味も持たないんだ。
 無の中では、あたしの戦い、これまでの人生、全てがどうでも良いことなんだ。
 そんな中に自分がいる感覚はとても恐ろしい。
 色々考えてみても、終わることのない無の煉獄に、あたしはいずれ自分が狂うかもしれない恐怖に晒されている。それが敵の狙いだと言い聞かせてみても、負けそうになる。
 「一、二、三、四___」
 数を数えることにした。無の中で、せめてあたしの意志の中だけでも有を保つために、あたしはひたすら数を数えることにした。

 「三万千三百十一___三万千三百十二___」
 できるだけ秒の刻みを意識して数を数える。でも桁が増えると少し遅れて、数えることに疲れも感じつつあった。でもそれはそれであたしという存在を感じさせてくれるから、嫌ではなかった。
 数え始めてから多分___十時間くらい経ったと思う。
 何とか自我を保ち続けているけれど、たぶんこれを続けるのには限界がある。あたしの心が折れたら、もう数は数えられなくなるだろう。でも___敵はあたしを殺すことはないと言っていた。それがせめてもの救いだ。この無の煉獄は無であっても無限ではない。敵という存在が手を下せば、おそらくそこで無は終わる。
 そして、その瞬間はすぐに訪れた。
 「お元気?」
 「!」
 唐突に、声が聞こえた。しっかりとした生の声、同時に自分の鼓動、そして様々な雑駁な音があたしの耳を縦横無尽に刺激した。その瞬間、無の中にあたしの存在感が復活した。音から得られる情報に過ぎない。それでもあたしにとって肉体の証明となる鼓動は、とても大きな意味を持っていた。
 「耳だけ復活させてあげたわ。」
 あの女の声だ。無の中に多分半日以上封じられていたあたしの耳は、敏感に反応した。あの女の声だけが新しい記憶として鼓膜に染みつくかのようだった。
 「___まだ正気を保っているようね。」
 反論したい。今自分の存在感が蘇ったことで、あたしは気勢を取り戻した。敵の狙いがあたしの屈服、服従であるとしたら、それは不可能だと言ってやりたい。
 「ジェネリの力がようやく馴染んできたの。今までほったらかしでごめんなさい。でもこれからはたっぷり可愛がってあげるわ。いずれ全ての覇者となるこのあたしに、あなたは必ずや救いを求めるの。」
 そんなことはない。耐えられなければ死を選ぶ。あたしたちは死の覚悟を持ってここにやってきたんだから。
 「ムンゾの力は残酷よね。死よりも苛酷な処刑にどこまで耐えられるか___楽しみだわ。」
 そこでまた、無になった。耳の感覚が遮断されたのだ。
 あたしはすぐに半日ぶりの新しい刺激について考えた。ここがどこなのか?あの女は何者なのか?この煉獄から抜け出す術はないのか?でもなぜだか、雑音が入るようなモヤモヤした感じが差し込んで、頭が回らなかった。
 そしてそれについて深く考えるよりも先に、別の感覚が戻った。
 「___ゥアアアア!」
 多分、声が出ているならそう叫んでいただろう。頭が爆発しそうなほどの激痛が、あたしの思考を完全に塗りつぶした。
 蘇ったのは痛覚だった。触覚ではなく、身体の内側に響き渡る痛みの感覚が、あまりにも激しく蘇った。四肢と胴体の感覚を取り戻した。しかし___半日間のゼロから一気に、全身を巨大な鉄の塊に押しつぶされたような痛みでは___
 「どうかしら?刺激を与えてから遮断を解くことで、蓄積された感覚が一気に襲いかかるの。今のはあなたの両足、両腕、全ての指の骨をへし折った痛みよ。」
 しかし耐えるしかない。何であれ、耐えるしかないのだ。
 「ふふっ、あなたの身体痙攣しているみたい。」
 破壊されることを覚悟しつつ、耐え続けなければならない。敵に救いを求めることだけは、絶対にやってはいけない。苦しいのなら、昔あったもっと苦しいことを思い出せばいい。あたしの過ちへの戒めだと思えばいい。そして全ての痛みや苦しみを、この女への怒りに変えればいい。
 「もう一度遮断するわよ〜。」
 いやらしい声と共に、あたしはまた無に落ちた。新たな痛みがあたしを打ちのめすのは、ほんの数十秒後のことだった。

 煉獄___たぶん二日目。
 嫌なことを覚えてしまった。数字を数えているにせよ、何か考え事をするにせよ、あたし自身の意志に反して頭が回らなくなる時がある。それがどうやら、敵があたしの身体に何かをしている瞬間らしい。
 一日目を何とか乗り切った___というより、気を失ってしまった。いや、死の淵まで追い込まれたと言った方がいいのかもしれない。一気の痛みの連続で疲弊させられたあと、次の無から目覚めたあたしの身体は完全に治療されていた。しかし今度は敵が趣向を変え、一つ一つ事細かに解説しながらあたしの身体をじっくりと傷つけていった。あたしはある程度解剖され、ついにそれ以上意識を保てなくなった。
 その間数は数えていない。でも今はこうして明朗に考え事ができるのだから、きっとあたしの身体は治療されている。ただ、気を失っている間が一番楽だということを知ってしまったし、思考の停滞に対して敏感になってしまった。
 とはいえこの手の痛みの繰り返しなら耐えられる。限界はあるけれど、耐えきってみせる。そうは思っていたけど___
 「ふ〜ん___」
 女がそう呟いた。痛みを受けてあたしは息を荒くしながらも、元々痛みに対して多少なりとも慣れがあるから、覚悟を決めるとそれなりに耐えられる。この呟きの意味はあたしには良く分からなかったけど、これが転機だったんだ。真っ向から抗おうとしたために、あたしの痛みへの耐性を見抜かれた瞬間だったんだ。
 そしてまた趣向が変わった。

 最初は歯を食いしばるつもりで耐えた。自分で自分を傷つけて気を紛らわせられたらどんなに良かったか。でもそんな自由は失われていて___
 触覚だけを解放されたあたしは、永遠の階段を上らされていた。
 達することのない永遠の階段。もう少しで「頂点」へと辿り着くと思うと、不意に涼しい風が吹いてあたしはまた少し下に引き戻されている。辿り着けそうで辿り着けないジレンマ、その繰り返しのストレス、その源が痛みではないことがあまりに辛かった。
 女はあたしの身体を虐めた。痛めつけるのではなく、虐めた。苦痛は簡単には受け入れがたいものだが、だからこそ抵抗もできる。でも___
 でも快楽は拒みがたい。
 たとえ強制的であっても、あたしがどんなに理性を保とうとしても、それを超越して肉体を貶める恐ろしい感覚。そこに痛みがないことがあまりにも痛烈。
 狂うか、堪えるか。それはもう我慢比べでしかない。でも休まることのない刺激の連続に、あたしは苦しみ続けた。唐突に全てを遮断されて無に返されても、無の中のあたし自身が混沌としていて、数を数えることも考えを巡らせることもままならない。そしてその思考の停滞が巡り巡るほど、あたしという女は今遮断された自分の肉体が何かされていることを気付いてしまっていて___怖くて、でもどこか待ち焦がれていて___
 「聞こえる?」
 聴覚が解放された。頂点への階段を上る音があたしの羞恥を掻き立てる。それだけで数段を駆け上がる感覚だったが、また涼やかな風___
 「これがあなたの香り___」
 ううんあたしだけではない。色々と入り交じった欲の香り。久方ぶりの嗅覚の解放は強烈な刺激となってあたしを脅かし、思考する暇さえ消し去っていく。
 「フフ、どこの獣かしら?」
 声が解放された。声を取り戻したらまずこれを聞こうと色々考えていたはずなのに、あたしの口をついて出るのは野蛮な叫声ばかり。
 順々に、じっくりと時間を掛けて女はあたしを解放し、そして四日目。
 「ご覧、酷い顔。こんなだらしない顔で何を期待しているの?」
 視界が蘇った。
 すでに限界へと追い込まれていたあたしが四日ぶりに見たもの。それは鏡に映ったあたし自身の顔だった。だらしなく開いた口は涎でまみれ、鼻水と涙を垂れ流し、汗まみれの真っ赤な顔でくすんだ目をしていた。正気を留めていたつもりだったのに、あたしは狂乱を止められずにいると知った。
 それが引き金となった。
 「___もう___やだ___」
 そこまで。
 あたしが覚えているのはそこまで。
 これ以上は___それから何があったとか考えたくない___
 だってもう限界だから___

 四日目、許しを請うた直後それを拒否された。
 再び落とされた無の中で、あたしは泣きじゃくり、叫び続けた。
 「助けてください___!」
 と。

 その後、分かったことがある。
 敵の名は「フェリル」。
 ムンゾとジェネリを殺し、あたしを屈服させた悪魔。
 あたしのいた場所は、肉のような壁が蠢き、いつも奇妙な匂いが充満する部屋。
 そこはフェリルのアジトであり、あたしにとっての煉獄。
 あたしは___
 もうここから逃れることに絶望していた。




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