3 疑念

 「アヌビスだ!早速やりやがった!」
 百鬼が怒気を含んだ声で叫び、自らの足に拳をぶつける。
 「いや、それはどうか分からない。」
 だがオコンは冷静だった。
 「なんで!?あいつ以外に誰が___!」
 「ソアラですね?」
 百鬼を諫めるように手で制し、フュミレイが問う。
 「そうだ。今思えばもっと詳しく聞くべきだったと思うが、彼女はアヌビスのことと、ジェネリがムンゾの世界の異変を感じたことを伝えてくれたが、それを関連づける話し方ではなかった。」
 「そうしなかったのは、手を下したのがアヌビスではないと感じていたから。そうでなければソアラさんのこと、今の百鬼さんと同じようにアヌビスがやったに違いないと思うでしょうね。」
 棕櫚の言葉にフュミレイも頷く。
 「なら誰が___!?」
 「それを___ムンゾの神殿に赴いて調べなければならないと思っている。だが世界の均衡を保つためには、俺たち自身が自らのテリトリーを脱することは好ましくない。何よりムンゾがもし死んでいるとすれば、そこに自ら向かうのは危険だ。」
 「互いに連絡を取る手だては?」
 「個々のテリトリーの出来事に集中するために、互いの世界に障壁を作っている。念派、精神波の類は通さない。肉体の透過は可能だが、それがあれば俺たちも察することができる。いわば結界の一種で、これを作ったのはムンゾだ。」
 「その結界は健在なのでしょう?それでもムンゾは死んだと?」
 棕櫚のもっともな問いかけにオコンは躊躇い無く頷いた。
 「ここはGの世界だ。殺された神の力は殺した奴に受け継がれている。そいつが結界を解かなければ消えることはない。だが俺が海の知らせを聞けるように、風の知らせを聞けるのがジェネリだ。そして風は世界の障壁に関わらない。」
 「すると___ジェネリが風でムンゾの世界の異変を感じたと___」
 「そうだ。だからこの異変はおそらく俺とジェネリしか感知していない。ジェネリは俺にどうするべきか、ソアラをよこして問うてきた。そして俺はひとまず動くなと答えた。」
 オコンの言葉と眼差しの意味。それは明確だった。
 「分かった。私が動こう。」
 動揺をかき消し、レイノラは答えた。だが彼女が「私たち」ではなく「私」と答えたのは、まだ平静にはほど遠い心地だったことの表れなのかもしれない。
 「ソアラも私が動いてもかまわないと言っていたよ。」
 「ふふ___あの子らしい。」
 「似ているよな。」
 「そう?」
 そう感じられるオコンは鋭い。レイノラにジェイローグのことを問わなかったことも含め、彼はレイノラの心境を良く察していた。レイノラもそんな彼の心遣いに感謝し、このところ自虐的な自分を奮い立たせようと立ち上がった。

 「ムンゾの世界を調べに行く。私と___サザビー、棕櫚、同行を頼む。」
 「あいよ。」
 「お役に立ちましょう。」
 「それからグレイン。おまえも来なさい。」
 「えぇ!?俺!?」
 「アヌビスご一行様の足跡は、おまえの方が良く分かるだろう?」
 レイノラが選んだメンバーは、グレインを除けば洞察力と判断力に優れた面々。何かを調べるには適した人材であり、同時に有事の際にも最善の策を見出し、しかも独力で切り抜ける知恵を持った二人だった。無論、だからといってフュミレイやミキャックへの信頼が変わったわけではない。
 「ジェネリの神殿に行きたいのでしょう?」
 「___そりゃもちろんだが、ソアラが無事だって分かったし、今すぐでなくても構わないぜ。」
 「いいえ、彼女を安心させてあげた方がいいわ。一人の戦いと思って無謀な動きをしないとも限らない。」
 「あ〜確かに。あり得るな。」
 「それに私たちがムンゾの世界を調べに行ったことも伝えてほしいから。」
 「お母さんに会えるなら会いたいよ。」
 「あたしも。」
 「決まりね。ミキャック、彼らに同行して。」
 「はい。」
 「オコン、人を乗せて空を飛べる獣はいないかしら?翼竜の類がいればより良いのだけれど___」
 「用意しよう。」
 「百鬼___ソアラがどう動くかは相談して決めるといいわ。彼女がジェネリの側にいることを望むならそれはそれで構わないし、おまえたちがそちらに残るのも良いと思う。」
 「これは?」
 「闇の鏡。ムンゾの障壁に通用するかどうかは分からないけれど、念波や精神波とは違う通信手段よ。ただし、夜しか使えない。」
 「なるほど、これをジェネリに渡せばいいってわけだな。」
 こちらにやってきたことを伝えるために、ソアラの元へ向かうのは百鬼一家とミキャック。何かを守ることに天賦の才を発揮するミキャックは、危険があるやもしれない旅路で絶好の守護者となるだろう。
 「レイノラ、その鏡だがリシスにも渡してやってはくれないか?」
 「たしか二の世界がリシスだったわね。」
 「そうだ。あれは賢人だが、肉体的には誰よりも脆い。森に守られた彼女の元に辿り着くのは、彼女に拒否されると簡単ではないが___危機を知らせてやるべきだと思う。」
 「そうね___頼めるかしら?」
 「もちろんです。」
 「彼女一人で?」
 「ええ、彼女は私の分身みたいなものだから。リシスも受け入れてくれるでしょう。」
 「ほう___」
 オコンの世界はジェネリの世界、リシスの世界と隣り合う。老婆の姿をした神を気遣うオコンの願いは、フュミレイに託された。百鬼は少し心配そうな顔をしていたが、フュミレイがレイノラの指令に揺るぎない自信を持っているのが分かったから、余計な口出しはしなかった。だが、旅立ちの前に彼女に労いの言葉を掛けるのは忘れないだろう。
 「おまえたちはここに残って、オコンにこれまでのことをゆっくりと話してやってほしい。それから___夜になったらこの鏡を試してみましょう。」
 「わっかりました〜。」
 「気を付けてくださいね。それと___」
 「大丈夫、彼のことは常に頭の片隅に置いているわ。」
 「ありがとうございます。」
 ライとフローラ、バルバロッサはオコンの元に残ることになった。ライ夫婦はこれまでの旅路をありのまま一から語れる二人だし、バルバロッサは万が一の時にオコンの最強の戦士となりうる男。そうそう、グレインはアレックスのことを何も知らないと言っていた。彼が嘘を付いている風でもなかったから、それ以来改めての追求はしていない。
 こうして彼らはそれぞれの土地へ。その先に待つものやいかに___

 ホールケーキを均等に十二に割ってみよう。一つ一つのケーキが細長い扇形になるはずだ。つまりそれぞれの神の世界は、平面としてみれば細長い形をしている。オコンのように比較的外周に近い場所に神殿を構えている場合、隣の世界の神殿が内周に近い位置にあれば、かなりの距離を要することになる。ジェネリの神殿がそれだ。単純な距離であれば、オコンと同じくどちらかといえば外周に近い位置にあるムンゾの神殿のほうが、近いかもしれない。
 さて、誰よりも早く目的の地に辿り着いたのは___
 「森の神の世界か___」
 フュミレイだった。
 リシスの世界は一面の木々に覆われていた。生い茂った青々とした木々は、緑の絨毯となって遙か彼方まで広がっている。果てに切れ目を見つけると、そこには大河が流れ、肥沃な大地の源となっていた。
 「で、どこを目指せばいいんだ?」
 リシスの神殿は巨大な森だ___と、オコンは言っていたが、世界そのものが巨大な森である。
 「___」
 何というわけではないが、森に入ってみようかという思いが不意に沸いてきた。気まぐれとは違う。そうすると道が開けそうな気がしたと言うべきか。
 (行ってみよう___)
 日差しは出ているが、おそらく森の中は夜のような暗さだろう。そこに入る意味など無いはずだが、フュミレイは緑の雲海へと降下していった。
 バサッ!
 密生した枝葉の隙を見つけ、フュミレイは森に飛び込む。服が葉を撫でて賑やかな音を立てた次の瞬間、景色が変わった。
 「!?」
 フュミレイはまどろみの中にいた。突然全てが暗転したかと思うと、彼女は何か穏やかな温もりに包まれるような浮遊感間の中にいた。
 「___これは___?」
 何が起こったのか?森に飛び込んで___そして意識を失ったのだろうか?身体が自分のものでないような、夢を見ているかのような心地。
 「あたしは___」
 気が付くと自分で自分の姿を見ていた。大きな葉の上に遺体のように整然と横たわる自分を、彼女は真上から見下ろしていた。
 「死んだのか___?」
 幽体離脱という言葉を聞いたことがある。その一例として、死の危機に瀕した時に己の姿を俯瞰的に見るというものがあるらしい。だとしたら今がまさにそれではないのだろうか?
 「生きてるよ。」
 奇妙な声がした。
 「誰だ?」
 「森は心を洗う。おまえの深層に蠢く悩みを、森が映し出したのさ。」
 「あなたは___」
 「良く来たね、レイノラの使い。」
 また景色が暗転した。
 「___!」
 そして訪れたのは目覚めの瞬間だった。跳ね上げるように体を起こしたフュミレイは、自分が大量の青葉の上に横たわっていたのだと初めて気が付いた。周囲は複雑に入り組んだ木々で囲まれている。青葉はフュミレイが眠っていた場所だけでなく床一面に広がっていたが、ただ一箇所だけ曲がりくねった木の幹が露出していた。そこに老婆が座っていた。
 「森の神___リシス。」
 フュミレイは白髪の老婆を見据え、呟く。
 「そう。」
 深い皺を年輪のように幾重にも刻んだ老婆は、ゆっくりと頷いた。
 「森は生命。人はこれを行く手に広がる障害物と思うかもしれんが、森は生きており、それそのものが生命の源じゃ。お主は優れた魔道師じゃ、それは分かる。しかしそれとて呼吸する手だてを失っては生きることなどできまい。」
 老婆は深い皺を一層くっきりとさせて笑った。高い鼻、祈祷具のような装飾品、手には杖、その風貌はまさしく森の魔女を思わせる。
 「私が気を失ったのは___」
 「それが森の力じゃ。木は大地に根を下ろし、大気を作る。森の中にあって人は小さな生命の一つでしかない。森の力で大気の中身を変えれば、人であるおまえは気を失うしかないのじゃよ。」
 「___なるほど。」
 木から抽出する麻酔薬の成分があると聞いたことがある。おそらくあの森はそれで満たされていたのだろう。フュミレイはまだ頭に鈍い痛みを感じながら、それでも顔つきを変えずに立ち上がった。
 「分かったならお帰り。あたしゃ誰の助けもいらないよ。」
 「何があったのかご存じで?」
 「さあ?何があろうとあたしゃやり方を変えない。」
 「束縛の神ムンゾが殺されたかもしれません。」
 「___」
 フュミレイはリシスから目を逸らさない。リシスもまたその眼差しに引きつけられるように、彼女の隻眼をじっと見つめ返した。
 「ふぅん___面白いねぇあんた。」
 やがて彼女の意気に根負けしたかのように、リシスは目を細めた。
 「ムンゾが殺されたかも知れないから、レイノラがこっちに来たのかい?」
 「それはご存じなのですか?」
 「あんたからレイノラの匂いがするからそう思っただけじゃよ。」
 「では___」
 「こっちに来たということはだよ、あんたたちは生身だね。ならあんたは何であんなことを疑問に思うんだい?」
 「あんなこと___?」
 「森の中で心の奥を見たじゃろう?あれがあんたの悩みであり、いわば弱点じゃ。あんたは自分が生きているかどうかに自信を持てないでいる。普通じゃないよこんな悩みは。だから面白いと言うんだよ。」
 短い時間ではあったが、フュミレイは押し黙った。かつてのソアラと同じように、今の自分は自分という存在そのものに確信を抱けないでいるらしい。それをリシスの手で白日に晒されたことに、驚きもしたし恥ずかしくもあった。
 「自分でもよく分かりません。それに私の役目とは別のことです。」
 「ほほっ!」
 リシスは頭から抜けるような高い声で笑った。
 「これを。夜間のみ、他の鏡と連絡が取れる闇の神具です。レイノラとオコン、ジェネリが持っています。」
 「受け取っておくよ。でもあたしの所はそんなに気にしないでおくれ。」
 「オコンが心配していました。だから私が来たのです。」
 「あやつは昔からあたしを過保護にしすぎじゃ。」
 「___そうなのですか?」
 「そうじゃとも。まったく___孫でもあるまいし。」
 オコンとリシスのやり取りを思い浮かべると、フュミレイには自然と笑みが滲んだ。ようやく彼女が素直な顔を見せたことで、リシスも頬を緩める。
 「それでは、これで失礼します。くれぐれもご用心を。とくにアヌビスという男には十分にお気を付けください。」
 「気にとめておくよ。」
 ひとまず役目を果たし、フュミレイは踵を返す。閉ざされた枝葉が動き、日の光が差し込む。フュミレイが抜け出せるだけの緑の道が開いていた。
 「オルローヌの所に行ってごらん。」
 今まさに飛び立とうというとき、リシスが言った。
 「___?」
 「探求神オルローヌの前に謎は無し。あんたの悩みに答えを出してくれるだろうよ。」
 フュミレイは振り返らなかった。しかしその言葉はしっかりと脳裏に刻みつけられた。
 「失礼します。」
 そして空へ。陽光の中、風が吹き付け、木々が騒いだ。眼下にはただ一面の森が広がるばかり。今どこから飛び出してきたのかさえ正確には答えられそうにない。この世界の森の全てがリシスの神殿であり、リシスへの道なのだ。
 リシスの神殿は巨大な森___
 フュミレイはようやくオコンの言葉の意味を理解した。
 「さあ行こう___」
 役目は果たした。目指す場所はオコンの神殿、それしかないはずだ。しかし___
 「___」
 彼女はヘヴンズドアを使わなかった。得意の呪文ならば軽々とオコンの城へ舞い戻れるのに、そうしなかった。
 「ソアラ、今ならおまえの気持ちが分かるよ。」
 その呟きの意味するところは一つしかない。そしてフュミレイは、リシスの世界をさらに奥へと飛んだ。

 「世界の活力がオコンのところとは全く違って見えますね。」
 「それが何を意味するか___だな。」
 「見えた、あれだ。」
 青々とした空から一転して、ムンゾの世界の空は灰色の雲がたなびいていた。その中を弾丸のように走るひときわ黒い雲は、荒涼とした大地に立つ神殿に向かって一直線に進んでいた。
 元々こういうところなのだろう、土色をむき出しにした大地は、風とともに砂埃を巻き上げる。目につく彩りといえば、わずかに立ち並ぶ植物の褪せた緑色くらい。もちろん、夜が近づいているということもある。ただそれを抜きにしても、薄暗く、彩りに乏しく、どちらかといえば黄泉に似た場所なのだ。
 一介の人が住むには決して恵まれていない環境。それは束縛の名を冠する神にふさわしい世界とも言えた。
 「いでっ!」
 黒い雲は神殿の入り口へと急降下し、シャボン玉のように弾けた。グレイン一人が尻餅をついたが、冷静さが持ち味の三人は彼のことなど見向きもせずに、神殿を眺めていた。
 「門は開いていて出迎えもなし。」
 「ムンゾは束縛の神の名の通り、様々な封印術や罠を得意としている。」
 「この状況が誘い水かもしれないと___」
 「そう。彼が生きていればだけどね。」
 そういって歩き出そうとしたレイノラだったが、スッとその前にサザビーの手が伸びた。
 「棕櫚、先行してくれるか?」
 あっけにとられた様子でサザビーを見やったレイノラだったが、彼は棕櫚に視線を向けていた。
 「ええ、いいですよ。調べ物には___」
 棕櫚はニコリと笑って目を閉じると、その体が見る見るうちに小さくなっていく。
 「こいつが一番です。」
 彼が化けたのは犬だった。よく効く鼻を駆使して、この神殿に残った臭いを識別しようというのだろう。
 「頼むぜ。俺たちも後から行く。」
 サザビーは景気づけにと棕櫚の頭をなで回す。棕櫚は「わんっ!」と一声啼いてから神殿の中へと駆けていった。
 「___で、どういうつもりだ?」
 レイノラは憮然としていた。サザビーの勝手な振る舞いに些かの苛立ちを抱きつつ、彼の前で腕組みをする。
 「差し出がましいから怒るなよ。それを約束してくれるなら話す。」
 「怒らない。」
 「そう言っといて聞くと怒るんだよな、大概。」
 「___いいから、話せ。」
 「へいへい。」
 相手が誰だろうと動じないのがサザビー。彼はレイノラにも一人の女としてみるような口振りだった。
 「俺たちのことを信用してもらいたいから棕櫚に行かせたんだ。」
 「なに___?」
 その言葉にレイノラは閉口する思いだった。酷い侮蔑を受けた気分だ。それはそうだろう、彼らを信用していなければ誰がこの危険な世界への同行を許すものか。
 「___それさ。今あんたは俺を増長しているように見ただろう?それが気にいらねえ。」
 レイノラの視線が厳しさを増す。しかしサザビーはいつもの飄々とした笑みで続けた。
 「俺たちは確かにあんたほど強くはないが、それでも戦いの経験値は高い。あんたは有能だし、我慢強いから何でも一人でこなそうとするが、俺たちをもっと使ってくれてもいいと思うぜ。」
 「___それは今ここで言うことなのか?」
 「早いほうがいいと思ってな。ムンゾってやつが殺されたとしてだ、これから先あんたも標的にならないとは限らない。あんたが殺されてから後悔するのは御免なんでね。」
 「___」
 「出しゃばりついでに言えば、俺たちは力はないがあんたの心の支えにはなれる。それにこの戦いの鍵はあんたであり、俺たちは命がけであんたを守る駒になる覚悟を持っている、それを分かってほしい。強敵が現れたとき、盾になるのはあんたじゃない。俺たちだ。」
 二人はしばらく見つめ合った。レイノラは厳しい視線のままだがそこに憤怒の色はなく、やがて彼女は長い瞬きをしてため息をついた。
 「そんなに心配されるほど、あたしは焦っていたかしら?」
 「俺は目ざといんだよ。」
 「そうやってうまくミキャックを手の内に入れているのね?ところで、手の早いサザビーは彼女にどこまでしているのかしら?」
 「___それは今ここで言うことか?」
 「フフ___」
 レイノラが緊迫を解いたことで二人の間にささやかな笑いが生まれる。
 「おまえという男が少し分かった気がするよ。この機を生かして私と親密になろうとする目ざとい男だって。」
 「あんたを尊敬しすぎている連中のいるところじゃ、言いづらいんでね。」
 「そういうところが目ざといというのよ。」
 「確かにな。ま、一目置いてもらえりゃ光栄だ。さあ行こうぜ、そろそろ忠犬も臭いを覚えただろう。」
 「___そうか、彼を先行させたのは臭いを掻き乱さないため。」
 「そういうこと。」
 あえてレイノラをリードするように振る舞うのはサザビーならではの気遣いでもあった。彼はレイノラの責任感、できる限り自らの手を尽くそうとする必死さを感じ取っていたからこそ、彼女と話せる機会を利して、心の負担を軽くしたいと思っていた。
 確かに神に対して差し手がましい態度ではある。しかし「神と呼ばれる存在にすぎない」とはジェイローグから聞いた言葉であり、だとしたらレイノラもその本質は一人の頑張り屋さんな女に過ぎないと言うことになる。その姿はミキャックであったり、かつて同じような言葉をかけたレミウィスに似ているのだ。そう見えたから、サザビーは思い切った行動に出た。
 「で___俺は?」
 一人、眼中にない男だけが神殿の入り口に取り残されていた。
 「うひっ___!」
 寒風が背中を撫でる。人の気配が全くしない殺伐とした雰囲気。怖くなったグレインは慌てて二人を追いかけた。

 神殿は静かだった。入り口から大きな石段を登ると景色が開け、正面、左右にいくつもの通路、あるいは部屋の入り口が開いていた。足音だけが良く響く広間を、サザビーとレイノラ、少し遅れてグレインが辺りを見渡しながら進む。
 「棕櫚!聞こえたら吠えろ!」
 サザビーの声に呼応して、正面から犬の吠え声が聞こえた。それなりに遠そうだが、どうやら隔てるものはないようだ。サザビーはレイノラと視線を合わせ、正面の通路へ。長い廊下と短い石段、左右にはやはりいくつかの部屋の入り口が並ぶ。神殿という性格上これは参道であり、その先にあるのはおそらく祭壇だろう。
 「棕櫚!」
 声は正面から帰ってきた。どうやら棕櫚は祭壇の間にいるようだ。それにしても静かすぎる。やはりここには誰一人としていない。いや、ネズミ一匹いないと言うべきか。
 「ここか___」
 長い廊下の向こう、再び景色が開けたところで参道は終点を迎えた。正面の壁は巨大な男性の彫刻が浮き彫りにされていた。
 「ムンゾ___」
 その彫刻の男こそムンゾそのものだ。レイノラは懐かしい顔を目の当たりにして、自然と彼の名を呟いていた。
 「こっちですよ!」
 祭壇の横に人の姿に戻った棕櫚がいた。グレインも含めた三人は、彼の元へと歩み寄る。歩きながら辺りの様子を見渡してみるが、まるで遙か昔から無人だったかのように乱れのない景色だった。
 「何か分かったか?」
 「おそらくこれがムンゾの匂いだろうというのは分かりました。祭壇を中心として、あまり無駄な動きのない匂い、それだと思います。」
 「ムンゾは死んだと思うか?」
 「思いますね。」
 「どうして?」
 レイノラが問う。
 「この辺り一帯に血の臭いが染みついているからです。」
 「!」
 「俺にはあまりピンとこないがな___」
 「時間が経っているからでしょう。血の臭いは___おそらく一週間は経過しています。それにどういう訳か、その痕跡そのものは消えているんです。ただ、一度そこで飛び散ったであろう血の残り香は、祭壇一帯に染みついています。犬の鼻だから分かることですよ。」
 その言葉一つ一つで、レイノラの眉間に力がこもってくる。
 「他の匂いは?」
 「血の臭いがかなり邪魔をしていますね。それに、新しい匂い___ここに入り込んだ人間がかなりあって、特にこれというのは難しいですね。」
 「一番新しいのは?」
 「鳥の匂いですね。多分ついさっきでしょう、あそこの天窓から入ったみたいです。」
 「あっそ。」
 「ただムンゾの匂いも含めて、覚えておく価値はあると思いますよ。いずれ何らかの形でムンゾを殺した人物と遭遇したとき、本性を看破できますから。」
 「本性___ってのは気になる言い方だな。」
 その指摘に棕櫚は口元を歪めた。彼は確信はないが疑わしい事柄を、こうして言葉の端に含めるのが好きな男だ。
 「知り合いじゃないのかな、と思うんですよ。」
 「殺し方か?」
 「そうですね、おそらくは虚を突かれるような形で、しかもほぼ一撃で葬られたのではないかと思います。」
 「この場所があまりに綺麗すぎるから___ってわけか。」
 「そうです。それに血の臭いが広範囲ではないことも理由の一つです。まあ推理の域を出ませんけど。」
 「いや、断言できる___」
 押し黙っていたレイノラが口を開いた。
 「ムンゾは殺された。」
 勇気のいる言葉だったろう。しかし彼女は毅然としていた。
 「どうしてそう言えるんだ?」
 「血の痕跡がないからよ。かつてもそうだった、あたしの前で殺された神の躯は、死と共に血痕もろとも消え失せた。名実共にGの血肉となって吸収されたのよ。」
 「でもオコンさんの話では、それはこの世界では共通のルールのはずです。例えば俺であっても、誰かを殺せばその人物の死と共に躯は消え力を奪える、俺は彼の説明をそう受け取りました。だとしたら必ずしも殺されたのがムンゾとは限らないはずです。」
 「神殿をあける理由がない。神官が誰一人として消えてしまっていることも含めてね。他の部屋も念入りに調べる必要があると思うわ。」
 「確かにそうだな。」
 と、サザビーは棕櫚に煙草を見せ、彼が頷くのを確認してから火を付けた。
 「おい。アヌビスなら時を止めてムンゾになにもさせないうちに殺すこともできると思うが、どうだ?」
 「そりゃ___」
 憮然としてそう答えかけたグレインは、何か思いついたのか急に活気帯びた顔色に変わった。
 「そりゃそうさ!やっぱりさすがはアヌビス様だよ!おまえらがどんなに足掻いたってアヌビス様の思うつぼって奴さ!これ以上俺を捕まえていたって無意味___!」
 「アヌビスではないと思いますよ。彼の身体に付いている匂いは、ここでは全く感じませんから。」
 「あっそ。残念だったな。」
 がーん。一刀両断にされた感のあるグレインは、がっくりとうなだれた。
 「そもそもムンゾの匂いが途絶えて一週間なんだろ?アヌビスには無理じゃねえか。」
 「ただソアラさんのこちらでの動きの量を思うと、黄泉から来るのに時間のズレがあるような気はしますね。向こうでの一夜の間に、こちらで一週間以上のズレがあったかも知れない。」
 「中庸界から地界に行った時みたいにか。」
 「でもオコンはソアラがアヌビスとムンゾ殺害を関連づけようとしなかったと言っていた。だとすれば、ジェネリが異変を感じたのが一週間前だとして、ソアラがこちらに来たのはそれよりも後のことだったのではないかしら?」
 「そうだな___んで、どうするよレイノラさん。他の部屋を調べるか?それとも___」
 天窓を見上げたときに外が夜になっているのが見えた。先に闇の鏡を試してみるかと言おうとしたサザビーだったが、次の瞬間、思いも寄らぬ出来事が起こった。
 「レイノラだと___!?」
 「!?」
 聞き覚えのない声が神殿に響いた。三人が見上げたのは、浮き彫りにされたムンゾの顔だった。重厚感のある男性の声がそこから聞こえたように思えたのだ。
 「誰___ムンゾ!?」
 名を呼ばれたのだから顔見知りには違いない。まさかムンゾは浮き彫りに自らを封じたのではないか?そんな一縷の望みを託し、レイノラは問いかけた。
 「___闇の女神、レイノラか?」
 「そうだ!」
 「まさか___驚いた!」
 浮き彫りの裏から大きな影が飛び出した。それは翼を広げ、雄々しく舞い降りてくる。そう、確かにこの場所には天窓から「鳥」が入り込んでいたのだ。しかもその鳥は、石のムンゾの顔の影から四人の様子を窺っていた。
 「その姿は___」
 レイノラが息を飲んで目を見開く。
 「鳥神バルカン!」
 そう。そこにいたのは鳥は鳥でも鳥の神だったのだ。

 鳥神バルカンはまさしく鳥人間だった。簡単に言えば、猛禽類の頭部と翼を持ち、身体は人型だが羽毛を持つ、といったところだろうか。モンスターの域に近い姿だが、より人間的な表情と理性を持っており、誠実かつ力強い美男と、雄々しき鳥の混血といった雰囲気。羽毛は光の加減で赤や橙の彩りを放ち、頭部には勇ましい黄金の飾りバネ。人としても気高き人物であり、鳥としてはまさに同族の王に君臨するに相応しい姿であった。
 「まさかこんなところで君に出会えるは思ってもいなかった!いったいどうして!?」
 バルカンは感動しきりの様子だったが、レイノラが手を差し出すと全く自然な動きでそれを取り、手の甲に嘴を寄せる落ち着きも見せた。その振る舞いには無理が無く、彼が紳士であることを印象づける。
 「私も驚いたわ、誰もいないと思っていたから。」
 「賊と疑っていたのだ。君と分かっていればもっと早くに声を掛けていたよ。いや___なんたることだ、云千年ぶりの再会とはこうも胸を高ぶらせるものなのだな!」
 「オコンも同じ事を言っていたわ。」
 「オコン?彼に会ったのか?するとここに来たのは___」
 簡単に、レイノラは事のいきさつを説明した。バルディスの系譜を継ぐ世界に暗躍する存在、アヌビスがGを求めてこの世界へとやってきたこと。アヌビスとの戦いでジェイローグが傷ついたこと。自分たちはアヌビスの野望を阻むために彼を追ってきたこと。オコンの元に辿り着き、彼がジェネリからムンゾの世界の異変を聞いていたこと。そして、その異変の真偽を調べに来たこと。
 「そうか、そんなことが___そのような存在がいずれ現れるやも知れないとは思っていたが___」
 バルカンは彼女の話にいちいち嘴で頷きながら、真剣に耳を傾けていた。ただ何より彼が驚きを見せたのは、ジェイローグが傷ついたことだった。十二神は光の神ジェイローグの力強さを熟知している。だからこそ、彼の敗北という事実はアヌビスへの油断を封じる最良の言葉にもなるのだ。
 「あなたはなぜここに?」
 「渡り鳥の知らせに聞いたのだ。そして私はオコンほど慎重居士ではなかったということだよ。」
 「そう___でも自分で調べに来るなんて危険極まりないわ。」
 「だが、我が目で見なければ分からないこともある。」
 「何か分かったの?」
 「ムンゾは殺されたのだろうという事実を確認できた。」
 そう、それが重要なのだ。それを知るのと知らないのとでは状況への気構えが変わる。かもしれないのではなく、そう確信すべき現場を見ることで、神々の警戒レベルは最大限にまで引き上げられるだろう。
 「我々は不確かな情報に踊らされぬよう努めている。だが当のムンゾの力により、他の神の世界のことは分からない。ただ私は世界を跨ぐ鳥たちから情報を得ていたし、ジェネリは風に聞いていた。」
 「そしてその二人が動き、いまムンゾの死はおそらく確からしいということが分かった___」
 「そうだ。それは大きな収穫だよ。」
 「悪い知らせだけどね。」
 「レイノラさんよ。」
 熱の篭もる二人の会話に、サザビーが割り込んだ。それまでまるで獲物を狙うフクロウのように、レイノラばかりを凝視していたバルカンが振り向く。人間らしくとも鳥は鳥だから、その素早い首の動きにサザビーは少しギョッとした。
 「彼らは?」
 「アヌビスと戦ってきた勇者たちよ。ああ、そっちのは違うけれど___」
 そっちのとはもちろんグレインのこと。
 「彼らの他に、私も含めてこの世界にやってきた勇者は十二人。」
 「因縁を感じる数字だな。」
 「そうね___」
 「で、いいか?レイノラさんよ。」
 そう、サザビーは用件があったから彼女を呼んだのだ。
 「なに?」
 「さっきからその色っぽいお尻の辺りで黒いのがぼんやり光ってるようなんだが___」
 「___!」
 サザビーが指さしたのは、レイノラが腰ひもから下げていた闇の鏡だった。レイノラはすぐさまそれを手に取る。鏡面に黒い揺らぎが渦巻いていた。
 「誰かが呼びかけている___!」
 闇の鏡がムンゾの結界の間でも通用すると分かったのは良いことだ。しかし、こちらから連絡を取る前に呼びかけがあるというのは___
 「___」
 レイノラは唾を呑み、一念を込めた。
 「___様!レイノラ様!」
 すぐに鏡から声が聞こえてきた。絞っていたボリュームを上げていくように、鏡の向こうでレイノラを呼ぶのはミキャックの声だった。
 「ミキャックか___!」
 「ああ良かった!レイノラ様!」
 レイノラの呼びかけと共に鏡にミキャックの顔が映し出される。一瞬の緊迫から、彼女の顔には大きな安堵が広がっていた。到底、良い知らせではなさそうだ。
 「何があったの?」
 「いないんです!」
 「!?」
 レイノラは耳を疑った。その言葉の意味するところを察してしまったから、彼女は頬を強張らせた。
 「ジェネリ様もソアラも___誰一人!」
 背筋の凍る思いだった。




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