1 扉の向こう

 「ねえ。」
 「___」
 「ねえ!」
 「聞こえている。」
 「もう!」
 頬を膨らました鵺は、バルバロッサの隣に荒っぽく座り込んだ。人気の無い街、皆が集う建物を横目に見る家屋の屋根に、バルバロッサは座っていた。彼と話したい一心で、鵺は屋根によじ登ってきた。
 「___」
 「何もないのね。」
 「___」
 「ふん___」
 鵺の機嫌は良くなかった。サザビーと吏皇に事情を説明され、鴉烙の死を思い出させることを頼もうとしていると率直に言われ、戸惑いながらも彼女は願いを聞き入れた。その場に居合わせた風間が、いつもの無関心ではなくじっとこちらを見ていてくれたことになにか衝動めいたものを掻き立てられ、彼女は頷いた。
 だが、彼の言葉は何も聞いていない。いざ自らの力を使う瞬間が近づいてくると鵺は急に不安になり、苛立ちを隠せなくなった。
 「___何か話してよ。」
 「___」
 話してほしい。これでお別れになるかも知れないのだから、何でもいいから彼の言葉が聞きたい。でも風間は沈黙のまま。こちらを見てもくれない。ついに鵺の苛立ちは頂点に達した。
 「もう!馬鹿にしないでよ!」
 「!?」
 急に立ち上がると、鵺は構わずに屋根から飛び降りようとする。さほど高くないとはいえ、下には石畳があった。
 ガクンッ___
 「うぎっ!」
 息の詰まるような声を出し、鵺の身体は宙に留まった。飛びだしたバルバロッサの手が、いち早く鵺の服の襟首を掴んでいた。
 「やめろ。」
 「も、もうちょっとまともな助け方があるでしょうが___!」
 襟首に続いて彼が身体を引き寄せてくれたため、喉が詰まったのは一瞬でしかなかった。だが危機は終わっていない。屋根の縁は二人の体重を支えられるほど頑丈ではなかったのだ。
 バギャッ!!ドンッ!
 「っつ〜___」
 衝撃と埃に顔をしかめながら、鵺は腰に手を当てる。だが怪我はない。
 「大丈夫か?」
 バルバロッサが素早く彼女の下に身体を回り込ませ、クッションとなったからだ。
 「___それよ。」
 「___?」
 だが鵺は礼を口にするのではなく、訝しげな顔をバルバロッサに向けた。
 「いつもそうやって___あたしが危ないときは誰よりも必死になって助けてくれるくせに、何でそうしてくれるのかって一言も話してくれたこと無いじゃない。」
 瓦礫の上に横たわるバルバロッサ、その上に鵺。彼女はバルバロッサの腹の上に馬乗りになるようにして、幾らか涙ぐんだ目で彼を睨み付けた。
 「あたしだって子供じゃないんだ___好きな人だっているんだよ___でもその人は、あたしのことを守ってくれるし、勇気づけてもくれるのに、あたしのことをどう思っているのかさえ話してくれようとはしない。」
 バルバロッサの顔色は変わらない。だが鵺から視線を逸らすこともなかった。
 「もうこれでお別れかもしれないんだよ。しかもあたしの手で、お別れにしなきゃいけないんだ。でも今のままじゃあたしは後悔すると思うし、いざとなったらできないかもしれない。」
 鵺の訴えには悲壮感が漂っていた。あの泉、己の扉、それは父の死に結びつく。また扉が誰かを死なせてしまうのではないか。大切な人を失ってしまったとき、その後悔を少しでも和らげるために、彼女は今できること全てを彼に求めた。
 「どうしてあたしのために頑張ってくれるの?あたしを人質にとって、でも解放して、憎かったあたしの父親に復讐できたはずなたのに、それを全部無駄にして、しかもあいつの犬になって___あれはあたしのためにしてくれたことだって信じてる。でもどうしてそこまでしてくれるのか、ちっとも話してくれない。あたしも聞こうとはしなかったけど、それは子供だったからだよ。もうあたしは___心も体も大人なんだ。だから聞きたいんだ。」
 熱の篭もった瞳でバルバロッサを見つめても、彼は変わらない。唇一つ動かしてはくれなかった。だが見つめられるだけでも鵺の心は熱を帯びていく。
 「___わかったよ。なら一つだけでいい。一つだけ教えて。それを話してくれないならあたしはここからいなくなる。」
 沈黙は是認だ。彼は拒否するときは拒否する。鵺はそう信じて続けた。
 「あたしのこと好き?愛してる?___あぁ、今のじゃ二つだったね。」
 最初は勢いに任せていた。だから顔も赤くならなかった。でもこれから何を言うか、互いに知った上でこの言葉を言うのはとても気恥ずかしくて、見つめ合うほどに鵺の顔は真っ赤に染まっていった。
 「あたしのこと愛してる?」
 「好き」は逃げ道だ。どうにでも意味を取ることができる。でも「愛してる」は違う。それは、今この場面では男と女の感情以外にあり得ない。
 「___」
 「___」
 答えを待つしかない。しかし沈黙は続いた。
 「___」
 「___」
 鵺の顔がますます紅潮する。独りよがりの馬鹿らしさが激しい羞恥となって彼女の全身に広がりつつあった。そして___
 「もういいよっ!!」
 絶叫して、鵺はバルバロッサの胸を両手で叩き、勢い良く立ち上がる。しかし___
 「愛してる。」
 バルバロッサがそれを許さなかった。彼は鵺の腕を力強く掴み、はっきりとそう言った。身体を捩っていた鵺は、彼に横顔を向けた姿勢でピタリと止まった。
 「言葉で満足するのなら幾らでも言ってやる。」
 「___本当に?」
 「愛してる。」
 「___」
 「おまえを不幸にしたくないと思った。おまえを助ける理由はそれだけだ。」
 「ぅぅ___」
 鵺の顔は見る見るうちにくしゃくしゃになった。そして彼女はバルバロッサの胸に倒れ込んだ。彼の唇に縋り付いた。
 彼は拒否しなかった。背を抱いてくれた。それが、虚言でないことの現れだった。鵺の双眼から涙が溢れた。互いへの同情から親密となった甲賀とは違う。真っ向から、心から誰かに愛される心地を初めて知った鵺は、今、人生の至福を感じていた。

 ただの窪地と化した白廟泉の前に、勇者たちは集う。窪地を背に、彼らの前に立つのは一段と美しい女性に成長した鵺。その胸元には赤い菱形の宝石が付いた首飾りを下げていた。それは大事な彼が忘れ形見にと、自らの左腕からはぎ取って作ってくれた物だった。
 「さあみんな準備はいい!?あたしはやるだけのことはやる。でもそれでうまくいく保証なんて無いからね!」
 ここに来るまで鵺は渋々ながらという顔だったはずだ。その彼女がほんの数時間の間にがらりと気配を変えたことに皆驚いていた。しかしそれを咎める必要は全くない。何があったにせよそれは胸元に輝く首飾りのみぞ知る、それで構わないと思っていたから。
 「義理の弟!しっかり頼むぞ!」
 百鬼の声援に些か苦笑いを浮かべながら、玄道は白廟泉に手を翳していた。そして一つ長い息を付くと、窪地を挟んで向かいに立つ鵺を見やる。
 「行きます。用意は良いですか?」
 「いつでも!」
 鵺の答えは明快だった。
 「白廟泉をアヌビスによって満たされる少し前に戻します!泉が満ちた瞬間、彼女が扉を出しますので、皆さんは躊躇わずにそれを開けてください!」
 「了解だ!」
 百鬼が力強く答えると、皆も意気上がる。ただ、フローラだけがどうにも浮かない顔をしていた。
 「どうしたの?」
 「うん___何か忘れているような___」
 ライが問いかけると彼女はしばし首を捻り___
 「そうだ!あの人を忘れてる!」
 ポンッ!と手を叩いた。

 「人のこと監禁しておいて忘れてたってどういう事だよ!」
 「ごめんなさいね、みんな白廟泉に集中していたから。」
 フローラが元いた建物から連れてきたのはグレインだった。手首にはレイノラが施した黒い輪が掛けられている。繋がっていないように見えて、この手枷の威力は軽々とグレインの自由を奪っていた。
 「そんなロリコン捨ててけば良いのに。」
 「だ、黙れブスガキ!」
 「あぁ?人の娘になんだ___?」
 「ひぃぃ!」
 相変わらず育ちは良いのに口の悪いルディー。覇王決定戦で一戦交えたこともあって、妙な因縁のできたグレインも応戦するが、頬に宛われた百鬼の刀の前には黙るしかなかった。
 「本当に連れて行きますか?」
 耶雲を替え玉にするために捕らえてからというもの、この男の情けなさに呆れ気味だったミキャックがレイノラに問う。なにしろアヌビスがこの世界を去ったことを知ったときの落ち込みようと言ったら、思わずフローラが側について励ましてしまったほどだった。
 「そうしましょう。人質の役目が果たせないことは証明済みだけど、それならそれでアヌビスに返してやってもいい。」
 そうとも。レイノラの言う通り、グレインはアヌビスにとって人質に値する人物ではないということだ。彼の口からグレインを返せという言葉は一言も出なかった。自分が評価されていないことこそ、グレインにとって何よりショッキングだったのだ。
 「ふん!おまえたちがそうすると読んで、アヌビス様は俺を残したんだ!きっと痛い目見るぞ!」
 ちなみにこれはフローラが励ましのために作った仮説である。皆それを知っているから軽く聞き流していた。
 「さて、もう用意は良いな。」
 「無視するなっ!」
 しゃかりきに喚くグレインだったが、レイノラに睨まれると口を紡ぐしかない。ちなみにレイノラは普段から露わな左目で睨んだだけ。本当に恐ろしいのは白黒逆の右目だと言うのに。
 「始めますか?」
 「ったく、やる気を削がないでよね。」
 「悪かったな、玄道、鵺。今度こそしっかり頼むぜ。」
 鵺にまで溜息をつかれる始末。情けないグレインにとっては、目が合うと微笑んでくれるフローラだけが救いの神なのだが___
 「残念、ありゃ人妻だ。」
 サザビーの耳打ちでまたも奈落にたたき落とされるのであった。

 「七色の空間だ!それが見えればアヌビスの時と同じ!臆することなく飛び込め!」
 「はいっ!」
 レイノラの張りのある声に皆の返事が揃う。いよいよその時は訪れようとしていた。口火を切るのは玄道!
 グンッ!!
 ほんの一念に過ぎない。左手の人差し指と中指を揃えて己の眉間に宛い、白廟泉に伸ばした右手に力を込めるだけ。それだけで驚くべき変化が起こった。
 「戻った!」
 リュカが思わず叫んだ通り、白廟泉に命の湯が蘇った。そして十と数えない内にそれは一瞬の変化を迎える。
 グググッ!
 湯量が一気に増し、白廟泉が満ちる。それに呼応して、かけ声もなく鵺は泉に手を翳した。
 「出た!」
 泉に蓋をするように巨大な扉が現れる。あれを開こうとして鴉烙は死んだ。だがあの時の死は、崩壊に向かっていた鴉烙の身体が扉によって白廟泉から閉め出されたために訪れたものと見るべき。鵺もサザビーにそう言われたことで幾らか気が楽になっていた。
 「さあ早く!」
 彼女は一切怯まなかった。
 「行くぞ!」
 誰よりも早く飛び出したレイノラが構わずに扉を開く。七色の光が零れ、すぐに鏡のように乱れのない一面の七色が姿を現す。レイノラは素早く飛び込んだ。
 「待ってろソアラ!」
 「お母さん!」
 すぐさま左右の手に子供たちを従えて百鬼が飛び込む。フュミレイの後にミキャック、さらに手を取り合いながらライ、フローラと続く。
 「うわぁっ!」
 お次はグレイン。サザビーに尻を蹴飛ばされて、顔から七色に突っ込んでいった。
 「色々世話になったな。」
 「由羅を頼む。」
 榊と一言交わし、側にいた棕櫚の肩を叩いてサザビーも泉へ。
 「先に行く。」
 さらにバルバロッサ。去り際に鵺と目を合わせ、彼女が胸の宝石をグッと握ったのを見届けて七色の中へ。
 「行ってきます。」
 棕櫚は神妙な面もちで、榊にそう告げた。
 「待っておる。これまでのようにな。」
 榊は精一杯の微笑みで答えた。次の瞬間___
 「___!」
 棕櫚は彼女を抱きしめていた。
 「必ず戻ります。今度こそ、ずっとあなたの側にいるために。」
 「___約束じゃな?」
 「はい。」
 「早く!」
 棕櫚は愛おしむ榊の手をすり抜けるように、鳥に化けて七色に飛び込む。その直後、扉に開いた七色が急速に縮んでいく。
 「あらよっと!」
 「!?」
 榊、鵺、玄道、誰もが線香花火の最後を見るような感傷に浸っていたその時。巨大な肉弾が駆け抜けた!
 「貴様ら!」
 榊が叫んだその時には、臍に兄者を差し込んだ丹下山が七色に滑り込んでいた。そして___!
 パァァッ!
 七色の消失と共に扉が消えた。
 「あやつら___!」
 せっかくの別れを思わぬ輩にかき回された。元の窪地に戻った白廟泉を睨み付け、榊は棕櫚との思い出を台無しにされた口惜しさ、邪魔者を阻めなかった己の迂闊さに、舌打ちをした。

 バシャァァァァンッ!!
 派手な水音が轟いた。
 「!?」
 突然のことに面食らった。しかも装備が重くて浮かばない!?だが比較的身軽な彼女が手を繋いでくれていたから事なきを得た。
 「ぷはぁっ!」
 ライは勢い良く水面から顔を出す。そこは驚くほど広く、目映い。
 「う、海!?」
 口の中に入り込んだ水が強烈に塩っ辛かった。ただそうでないにしても、一面の水面と真っ青な空、照りつける日差しは海以外の何者でもなかった。
 「どうやらそうらしい。」
 周りの景色に圧倒されて、宙にレイノラ、フュミレイ、ミキャックがいることに今気付いた。それほど驚くべき場面転換だった。
 「ビックリしたぜ!いきなり海にドボンだもんな!」
 「気持ちいぃーっ!」
 水を弾かせてはしゃぐリュカに対し、百鬼も彼の頭を掴んで沈めるなどして応戦する。ルディーが達観した目でそれを傍観していたのは言うまでもない。
 「本当にこの一面の海がGの封じられた世界ですか?」
 中庸界なのでは?フュミレイはそうとでも言いたそうな口振りだった。
 「そう思うわ。十二の神にはそれぞれに司る事象、叡智がある。」
 「___海神オコン___でしたか?ではここは広い世界のうちの彼のテリトリーに近い場所だと?」
 「であってほしいと願っているよ。」
 レイノラも確証はないのだろう。苦笑にも見える笑みをフュミレイに送っていた。
 「やれやれ、波乱の船出再びか。」
 旅立ちに船というと、サザビーが思い起こすのはクーザーの女王。彼女の面影を思うとつい懐に手が伸びるが、長旅に備えて持ち込んだ煙草はあえなく全滅していた。
 「どーでもいいけどずっと泳ぐの?僕自信ないよ!」
 「手を打とう。」
 装備が重いことを抜きにしてもライの意見はもっともだ。外気の暑さもあって水温は比較的暖かいが、このままでは全身がふやけてしまうだろう。
 「向こうの果てに陸の影らしきものが見えます!」
 棕櫚が鳥の姿のままで上空高くから叫ぶ。どうやら、ひとまず落ち着けそうな場所もあるようだ。もっともまだここが本当にGが眠り、十二神のいる世界かどうかも分からない。確実なのは、薄暗い黄泉から別のどこかへ飛ばされたことだけだ。
 「あれ!?あの魔族は!?」
 「あ!手枷をしたままだから!」
 まずは海中で藻掻いているだろう足手まといな人質を助けること。それがこちらの世界での初仕事だった。




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