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 僅かな休息を経て、決勝戦が始まる。

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 玄道 対 竜樹

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 誰もが予想もしないカードだった。だが戦いの前から結果は火を見るより明らかだったろう。
 「___」
 竜樹には全く生気がなかった。過度に羅刹の力を現し続け、肉体に深いダメージを負いながらも邪輝に突き動かされたツケだった。
 「う___」
 ふらついていた。目の下には隈が浮かび、血の気はなく、腹が痛いのか時折腰を歪める。老婆のようなぎこちなさで、竜樹はそれでも舞台に立った。アヌビスが止めたかどうかは定かでない。しかし意識があれば彼女はどんなときであれ戦いを拒みはしないだろう。
 決着までは長く掛からなかった。体力の消耗の差は歴然としていた。
 覇王玄道の誕生はすぐのことだった。そして大いなる変革もすぐそこに迫っていた。

 「勝敗決しました!見事、覇王決定戦の頂点に立ったのは玄道さんです!」
 帰蝶の声が響き渡る。短い戦いの間、控え室の石床に座り目を閉じていたフュミレイが、ゆっくりと目を開ける。いくらかでも回復した魔力で全身を白い波動に包み込み、まだ不完全だった傷の治療を完遂させる。
 (もう、手だてはないのか?)
 自問する。アヌビスから竜樹を取り戻す手はないのかと。その一方で、それほど彼女にこだわる自分が可笑しくもあった。
 (熱心だな。恋人でもあるまいし。)
 しかし思うに、これが友情というものなのだろう。

 「疲労困憊だな。」
 「うるせえ___」
 控え室に戻ってきた竜樹を出迎えたのは、牙丸の姿を捨て去ったアヌビスだった。
 「休ませるつもりはない。いいか?」
 「あたりまえだ___」
 「せめて体力くらいは回復してやろう。」
 アヌビスが竜樹に手を差し伸べる。しかし彼女はその手を払った。
 「どうってことない。」
 竜樹は疲れ切った顔で、それでも視線を鋭くして言い放った。
 「まあいいだろう。来い。」
 アヌビスは口元を歪め、踵を返した。
 助けを拒んだのは彼女の意地か、あるいは友へのせめてもの報いか。胸に激しく蟠るものを掻き捨てて、竜樹は彼の後に続いた。

 「おめでとう。」
 ソアラは拍手を送りながらそう呟いていた。舞台上の玄道がこちらを見たようだったから、彼女も穏やかな微笑みを返した。
 彼がどんな黄泉を築いていくのか、それは分からない。でもおそらく、水虎の子であることを隠し続けるのではないかと思う。かつての力が去り、新しい黄泉をつくるために、彼は前覇王の子ではなく、新覇王の玄道として手腕を振るってくれるものと思う。
 そして、彼ならばできる。そう思う。

 祝福の花火が上がる。これがアヌビスの演出だとすれば、彼もそれなりのプロモーターというところか。
 誰しもが新しい覇王を、少し頼りなくも見える覇王を歓迎しているわけではない。むしろ一部の妖魔はこれを機に自らの勢力を一層強めようと画策しているものもいるかもしれない。しかし限りない緊張の連続から解放された弛緩が、闘技場全体を穏やかな空気に包んでいるのは確かだ。
 ソアラも忘れたわけではないだろう。しかし今この瞬間、白廟泉のことは頭になかった。特に彼女は玄道を祝福する思いと深い感慨で一杯だったから、危機感とは全く無縁な状態だった。
 「揃ったな。」
 闘技場の下に眠る白廟泉。満たされているとは言わないまでも、そこには白く朧に光る湯がいくらか張っていた。
 そこに集いし暗黒の伝道師たち。
 アヌビスを前に、彼の横にはダ・ギュールが立ち、それを取り巻くようにカレンたちヘルハウンドの五人集、そして数人の魔族とおぼしき面々、それから竜樹。
 「やっぱり大会だけじゃ駄目だったか。これじゃ足りないなぁ。」
 アヌビスは泉を見つめ、さもらしい溜息などついてみせる。
 「では、点火いたします。」
 カレンの落ち着いた言葉が、変革への引き金だった。

 花火が上がる。
 闘技場が燃え上がる。
 破壊と殺戮の炎が界門の象徴を包み込んでいく。
 カレン・ゼルセーナの右手の義手、それは魔導器である。彼女の魔力、あるいは自然界にあまねく息吹を結集し、破壊の力を生む魔法の武具である。爆炎の甲手と言われる彼女の右手は、魔力から爆弾を作ることができる。時間と魔力、あるいはその代替えとなる大気中の成分や鉱物があれば、街一つ崩壊させるほどの爆弾を作ることもできる。
 この大会のためにわざわざ集落を拵えたのは命を集めるためだ。それを大会としたのは、より多くの命を局所に結集するためだ。闘技場の下、白廟泉を取り囲むようにして無数の穴が作られている。カレンはそこへ赴き、全ての穴を爆弾で満たしていた。その着火は彼女の思うままに。
 これで白廟泉は満ちる。多くの並の妖魔や妖人の命を寄せ集められればそれで十分だ。
 「妙だな。」
 そのはずなのだが。
 「馬鹿な___」
 カレンの念に反して、周囲は静けさを保っていた。
 「失敗か?」
 「まさか私は確かに___」
 自らの手を疑るように見たカレンだが、すぐに翻ってアヌビスの前にひれ伏す。彼女の顔は苦渋に満ち満ちたものとなった。
 「申し訳ございません。私の失態です。」
 「レイノラだな。おまえの爆弾を俺に感づかれもせずに押さえ込むなんざ、あいつくらいにしかできないはずだ。」
 「手はずを読んでいたと?」
 にやつきながら話すアヌビスに、ダギュールが問いかける。アヌビスは長い顎の先に手を添えながら頷いた。
 「白廟泉を満たすのには命が必要だ。だとしたらやることは明白だろ?問題は俺たちに気付かれずに乗り切れるかどうかだ。まぁそれにしたって些細な時間稼ぎに過ぎないがね。」
 「そう思うか?」
 独特の艶を携えた声が閉鎖的な空間に響きわたる。
 「例えば私が丁の良い兵器を得たとは思わないのか?」
 ダギュールの作り上げた暗黒の結界に苦もなく割り込む。それは闇の女神でなければできない芸当だ。闘技場の舞台ほどの広さに、しかもその大半をまだ半分にも満たない泉が占拠する中で、レイノラは単身やってきた。
 「こいつがレイノラ___!」
 「闇の女神直々のご登場ね___」
 遠目には見たこともある。しかし間近で、彼女の気配を直に感じられる状況に、ガッザスとクレーヌが呻きを漏らす。
 「この女が___」
 「うぅ___うわわっ!」
 ディメードも色目で見る余裕はなく、グレインにいたっては恐怖のあまり後ずさって白廟泉の縁から足を滑らし、泉の中へと転げ落ちてしまった。
 「出るな、グレイン。」
 慌てて飛び出そうとしたグレインをカレンが制する。
 「そこでなんとしても泉を守れってよ。」
 「そんな!」
 カレンの思惑はディメードの意地悪とは違う。一際脆弱なグレインを気遣ってのことだ。偉大なる君主のために泉の湯は少しでも無駄にしたくないところだが、レイノラ相手に彼の命を危機から守るにはそれが最良の手段だった。
 ただ、力はなくても計算高いグレインが本当に足を滑らせたのかは定かではない。しかしカレンはそれを理解していても意に介さない剛毅な女である。とはいえアヌビスが側にいながら、なぜ彼女はこれほど用心深いのか。
 それはレイノラの左手にある石灰を固めたような純白の球のせいだった。
 「あれだけ大量の爆弾を手のひらサイズにまとめたわけか。芸が細かいねぇ。」
 「拾いものとはこのことだ。魔道に起因する攻撃は邪輝の前には無力。しかしこれは物理攻撃だ。自然界の成分を魔力で集めた本物の爆弾、しかもバラバラでもこの集落一つ軽々と吹き飛ばす威力を持つ。それを結集させた。」
 「そりゃ凄そうだ。海一つ吹っ飛ばせるかもな。」
 「こいつを額に押しつけて起爆すれば、おまえとて無事では済むまい。」
 「おまえも死ぬぜ。」
 「もとより死んだ神だ。」
 「衝撃で白廟泉の口がもっと開くかも。」
 「おまえを消せばあとはどうにでもなる。」
 「できるつもりでいるな。」
 「時を止められれば全てを乗り切れると思うのは傲慢だ。」
 その瞬間はすぐにやってきた。
 引き金を引いたのはレイノラか?アヌビスか?
 いや違う。
 「なに___?」
 時を止めたつもりだった。しかし止まらなかった。そうさせた能力者が側にいたのだ。ただいつもと違うのは、彼がグレインの顔と身体をしていたこと。
 この瞬間の出来事の引き金を握っていたのは、あえて白廟泉に入り込んだグレイン。その気配までうり二つに化けた耶雲だった。
 手品の種は彼の服の内側、腹に描かれたグレインの肖像にある。身体に描いた存在と全く同じ姿形、果ては能力や気配までそっくりその人物になれる複写の絵画。そんな能力を持つ男をレイノラは知っていた。天界の戦いで重傷を負い、それでも一命は取り留め、戦いに恐怖して黄泉へと去った男、それが幻夢。
 彼はレイノラに心酔していた。再び戦いに巻き込まれるかも知れないと恐怖しながら、彼は以前と雰囲気の変わったレイノラの絵を心ゆくまでしたためさせてくれることを条件に、仕事を引き受けた。
 それに一夜が必要だった。白廟泉を守るのに最適な協力者であり、アヌビスを最も悩ませるであろう能力者、耶雲を帯同し、彼女は丸一夜の間、幻夢だけの女神であり続けたのだ。
 「___!」
 時は止まらなかったが、それでも少しだけ流れが緩やかになっていた。それを想定してか、レイノラはアヌビスに飛びかかるような真似はせず、漆黒の長髪を泳がせていた。
 髪は白球を飲み込み、鞭のような速さでアヌビスを襲う。撓らせさえすれば耶雲の能力の範囲に入ろうともアヌビスを捉えられる距離だ。なにより黒髪とは正反対の白髪が、アヌビスの足に絡みついているのも心強かった。白廟泉の中では生命力の高まりと共に妖魔の能力も威力を増す。耶雲があえて入り込んだ理由はそれだった。
 ドゴオオオオオオオッ!!
 壮絶な爆発は一直線に空へと火柱を立ち上らせる。闘技場の舞台をそっくりそのまま黄泉の闇の奥底まで吹っ飛ばしていた。そればかりかその衝撃は界門はもとより周辺地域にまで、大きな地震となって響き渡るほどだった。
 立ちこめた煙幕が巻き上がった突風に吹き飛ばされる。白廟泉を中心に、闘技場は深いすり鉢のようになっていた。
 「逃げやがった。」
 アヌビスはレイノラの姿がないことに失笑した。グレインに化けていた耶雲、そればかりか竜樹の姿までない。
 「アヌビス様___!」
 確かに笑ってはいたが、やはり無事では済まなかったのも確かだ。他のヘルハウンドの面々、数人の魔族など、アヌビスより余程脆弱なものたちが尻餅を付いているくらいで無傷なのに対し、アヌビスは右腕を肩の付け根の辺りから失っていたのだ。それが結集された破壊力の凄まじさを物語る。
 「白廟泉にお入りください。」
 背後からのダギュールの進言にアヌビスは首を横に振った。
 「いんや、俺が入ったらあっという間に干上がるぜ。それこそあいつの思うつぼだろ。おまえに治して貰えば十分だ。」
 「では早速___」
 「それよりも、こいつを白廟泉に入れてやってくれ。死なせたくはない。」
 アヌビスが振り返ると、その胸は血にまみれていた。だがそれは彼の血ではなく、彼の前に割り込んだカレンの血。アヌビスの胸の中で、カレンは身体の左半分をほぼ失っているかのような凄惨さだった。

 「!」
 温かな湯の中で、カレンは目覚めた。
 「っ!?」
 命の泉に沈んでいても不思議と息苦しさは無かったように思った。しかしそれは自分がその瞬間まで死んだも同然だったからのようだ。ただそう理解するのは暫く時間が経ってからのことだった。
 「がはっ!」
 湯を押しのけるようにして、カレンは飛び起きた。
 「カレン!」
 と、すぐさまその身体をクレーヌが抱きしめる。
 「クレーヌ___?」
 カレンにはまだ状況が飲み込めていなかった。
 「良かった!本当に生き返った!」
 「生き返___アヌビス様は!?」
 「ここだ。」
 振り返るとそこでは、白廟泉の縁にアヌビスが安座していた。
 「ご無事でしたか!」
 「おうおう、おまえのおかげでな。」
 「申し訳ありません!私が愚かなばかりに!」
 「あ?違うぞ、おまえのおかげで助かったって意味だよ。」
 「いえ!奴の罠に嵌り、白廟泉を満たすどころか私のようなもののためにそれを費やしてしまいました___かくなる上はこの命を___!」
 こういうのをくそ真面目とでも言うのだろう。いやいやカレンの感情を思えば、恋は盲目とでもいうところか。ともかくアヌビスのためなら何でもできてしまう、その姿勢は竜樹の猪突猛進ぶりと大差ない。
 「クレーヌ、もう一回しっかり沈めてやれ。」
 「はーい!」
 「ばっ!こらっクレーヌ!な、何をっ!」
 白廟泉が急に賑やかになる。アヌビスは楽しげにその様子を見ていた。右腕はすでに形を取り戻していたがまだ完全ではない。泉も満ちていない。竜樹も手元から無くなった。闘技場の観衆さえも消え去っている。
 それでも彼は余裕だった。
 「レイノラはいくつも予防線を張っていた。そもそもカレンの爆弾は、奴の言った通り拾いものだったのさ。実際は俺の能力を押さ込んでいる間に、竜樹を奪う、もしくは白廟泉を消耗させるような状況を作ることが目的だったんだろう。あれだけブレのない連携ができたのは、そういう状況に導ける自信があったからだ。それはグレインに化けさせた妖魔が、丸一夜の間、俺たちの一員として動いていても全く気付かれなかったことによる。」
 アヌビスは背にダギュールの黒い波動を浴びながら、カレンたちに教授するように話していた。カレンはアヌビスの指示で白廟泉に入ったまま聞いている。
 「で、あいつはまんまとやった。最善の結果だろう、俺を殺せはしないまでもかなりのダメージを与えた手応えはあったはずだ。」
 「それで、どうされますか。」
 「そうだ、それでだ。」
 タイミングの良いディメードの合いの手にアヌビスは指を鳴らし、続けた。
 「奴の策がこれで終わりということはおそらくないだろう。だが俺も予防線を張っていることをあいつに見せてやろうと思う。」
 アヌビスには一縷の焦りもなかった。

 「絶対に嫌だ!」
 岩肌の露出した山岳地帯。寒風吹きすさぶそこは人の息吹の感じられる場所ではない。勇猛な女侍の声は、場違いに響き渡っていた。
 「俺は俺の選んだ道を行く!おまえがどう言おうと知ったことじゃねえ!」
 「それじゃ困るんだ。おまえだって不幸になる。」
 そこには竜樹と百鬼がいた。少し離れて、榊も同じ場所にいた。ここは界門から遠く離れた未開の地。闇の番人の力無くして短い時間でたどり着くのは不可能な場所だった。
 「俺は自分のことを知りたいんだ!それの何がいけない!?」
 「いけなくねえよ。でもそのためにおまえがアヌビスに利用されるのを黙ってみていられないだけだ。」
 竜樹は怒っていた。榊の能力でアヌビスから強奪したものの、繋ぎ止めなければ彼女がアヌビスの元に戻ろうとするのは当然のこと。彼女を説き伏せる役は百鬼以外に考えられなかった。余計な人物の介入は竜樹を余計に苛立たせる。だからここには百鬼と榊しかいない。
 「利用するのはお互い様だ!俺もあいつも目的に近づく!百鬼にどうこう言われる事じゃない!」
 成果はあった。彼女が疲労困憊にあることを差し引いても、口より先に手の出る女が行動ではなく口論で応じていた。
 「俺たちはただの顔見知りじゃないはずだ。俺は___おまえに幸せになってほしいから言ってるんだ。」
 それは口説き文句のようだった。友情___竜樹を動かせるとすればそれしかないと思っていたから百鬼は彼女の心に訴えた。しかしそれは逆効果だ。ここ数夜の間に起こった彼女の激動を知っていれば、到底言える言葉ではなかったはずなのだ。
 「___」
 竜樹は急に押し黙り、奥歯をギリリと噛みしめて百鬼を睨んだ。
 俺たちはただの顔見知りじゃない。その言葉が似ていたから、竜樹はフュミレイの顔を思い浮かべた。それに連れて浮上したフュミレイと百鬼の口付け。その情景がすぐに彼女の頭を一杯にした。
 戯言、詭弁、まるで口裏を合わせたように友情を主張する二人。
 あの口付けに裏切られた竜樹には、二人の言葉など信用に値しなかった。
 「うああああ!」
 彼女はついに、刀を抜いた。

 「まさか自分がこれを作ることになるなんて___思いもよらなかったわ。」
 界門から離れた草むらで、ソアラは立っていた。彼女の前には自分の背丈ほどの石碑があった。
 「レイノラさんは何をやろうとしているの?」
 「お母さんはここで何をするの?」
 ルディーとリュカが口々に問うた。母の緊張感を感じているのか、二人とも子供ながらに真剣な顔だった。そう、ここにいるのはソアラと子供たちだけ。あとは風が草を撫でるだけだ。
 「昔ね、お母さんたちが必死に守ろうとして壊されちゃったものを、今度はお母さんたちが作ろうとしてるのよ。」
 子供たちの緊迫を感じ取り、ソアラは優しい顔を取り戻して答えた。そうするとリュカの顔も少し和らいで見えた。
 「何を作るの?」
 ルディーが問う。ソアラはニッと笑って答えた。
 「四つの均整。」
 と。

 四つの均整!
 それは封印術の一種!
 中庸界にて、黒鳥城の動きと超龍神の肉体を封じていた崇高なる封印術!
 それが四つの均整!

 無論、レイノラはそう表現しようとはしなかった。しかし今実行しようとしている彼女の秘策は、まさにソアラたちの良く知る四つの均整だった。四つの頂点を結ぶ交点に対象を置く封印術「四士交縛印(ししこうばくいん)」。頂点の均衡が保たれる限り、その封印は永劫に渡って威力を発揮する。程度は違うが、十二の頂点によりGを封じた「十二神縛印」と仕組みは類似する。
 この封印術でレイノラは白廟泉を封じようとしていた。
 必要なのは優れた魔力を持つ者四人。レイノラ、ソアラ、フローラ、ミキャック、銘々が頂点となる石碑の元にいた。そしてソアラの側には子供たちが、レイノラの側には耶雲が、フローラの側にはライが、ミキャックの側にはサザビーが、それぞれに付き添っていた。
 「用意は良いか?」
 レイノラの声は全く同時にソアラたちの耳にも届く。それは彼女たちが揃って着けていた濃紺の耳飾りの効果だった。レイノラが作り出した闇の神具である。
 「いつでも。」
 ソアラ。
 「私も大丈夫です。」
 フローラ。
 「そこは触らない!」
 ゴガッ!
 「お待たせしましたっ!」
 付き添いに足を引っ張られたミキャック。
 「始めるぞ。」
 偉大なる神と熟練された戦士たち。互いの吐息の音だけで、四人の呼吸はすぐに一つのリズムを刻み、石碑に魔力を流し込む。それが泉を封じるにたる強大さを持ち、なおかつ均一さを保ったとき、封印術は完成する。導くのはレイノラ。彼女が基準となる魔力のレベルを示し、三人はそれに併せるように魔力を高めていくことになる。
 時間の掛かる作業だ。その間にアヌビスは何らかの動きを見せるはず。
 「レイノラさん___!」
 案の定、耳飾りから聞き慣れない蓄音機のような声がした。
 「動いた?」
 レイノラは至極冷静に問い返す。だが声の主も取り乱してはいるわけではない。鳥に姿を変えたから、些か落ち着きのない声になってしまっただけだった。
 そう、棕櫚は偵察のために界門に残っている。よく目の利く鳥になって、界門一高い鐘楼の屋根から闘技場の奥底を見つめていたのだ。その彼が、アヌビスたちの動きを察知した。
 「白廟泉の嵩が増しています!」
 棕櫚の声はソアラたちにも届く。三人は神ほど冷静ではいられない。何があっても均整を完成させることに集中しろと念を押されても、動揺せずにはいられなかった。
 「どういうこと!?だって界門にはもう誰もいないはずよ!」
 「しかし増えているんです、それも急速に!」
 それはすなわち、近隣で多くの命が奪われていることを意味する。狼狽するソアラたちを後目に、闇の女神はそれさえも予想していたように淡々と答えを導き出した。
 「闘技場あるいは界門に、すでにアヌビスの息の掛かった妖魔がいたということね。あそこから逃すのに篩に掛けたわけではないから。」

 その読みは正解だった。アヌビスは確かに布石を打っていたのだ。
 「三本まとめていくぜ。」
 「よっ、さすが兄者!」
 一つの弓に三本の鉄矢を握って引き絞る。森の中でも一際背の高い大樹の中から放たれた矢は、吸い込まれるように眼下の森へと飛ぶ。
 「がっ!」
 「ぎゃぁっ!」
 「っっ!」
 いくつもの悲鳴が連続して響く。木々の隙を抜けて三本の矢が再び空へと跳ね上がったとき、研ぎ澄まされた鉄の矢にはそれぞれ三つの首が連なっていた。
 「団子三本できあがり!」
 尊敬する兄者を煽てる太っちょ。そんな弟分に苦い顔を崩さない眼帯の兄者。大会の間は姿を見せなかった空雪と丹下山は、アヌビスの布石の一つだった。
 「はらわた食い散らかしてやるぜえええ!」
 彼らだけではない。ソアラに敗れた大蹄もまた腹いせにといわんばかりに暴れ回っていた。他にも大会に参加していた戦士のうちの何人かはアヌビスの布石となっていた。
 レイノラの助力を得て、榊は今までにないほど巨大な闇の出入り口を開き、ソアラから事情を聞いた玄道が先導役となって人々を導く。人々はたちまち界門から姿を消し、近隣の草原へと放たれた。
 「界門には我らの命を狙う罠がある。各々できるだけ散らばって故郷に帰るように。界門に留まりたいものも、数夜の間は離れるように。」
 玄道の言葉は説得力に欠けていたが、タイミング良くレイノラが恐るべき火柱を立ち昇らせたため、人々は彼の指示に従った。
 ここまでは良かったが、そのバラバラになった小集団の中にもれなく一人か二人、それほどの頻度でアヌビスに買われた妖魔がいたのは誤算だったろう。
 「ま、待て!貴様が誰かに雇われたというのなら私はその倍を出そう!」
 「ふ〜ん?」
 仕立ての良い服を泥にまみれさせ、髭の男が地に這い蹲って丹下山に懇願した。
 「どーしよーかなー?」
 丹下山は片手を自分の臍に差し込んだまま、首を傾げていた。
 「悪い話ではないはずだ。私のもとにいれば全て思うままだぞ。」
 考える姿勢を見せたことで髭の男が勢いづく。だがもとより丹下山にその気はない。臍から引き抜いた右手に鉄球を握りしめ、男の顔に叩き込んだ。
 「ふふん、ウサギがでかい口きくな」
 そう、これはウサギ狩りだ。野に放たれたウサギを狩るだけ。ウサギには身分も性別も、年齢の差だって関係無い。ただひたすら何匹仕留めたかを競い合うだけだ。
 「気配あり___」
 生い茂った枝葉の中に身を潜め、空雪は人の気配を感じて弓を引く。ターゲットの気配から位置を知れば、あとは矢が蛇のようにうねりながら勝手に敵を射抜いてくれる。
 ギュン!
 放たれた魔性の矢。しかし___
 「なっ!?」
 その瞬間、気配が完全に消えた。こちらの能力を看破したかのような動きに、空雪の歴戦の勘が働く。彼はすぐさま、生い茂った枝葉の中から地面に向かって飛び降りた。
 シュダダダダ!
 けたたましい音を立て、直前まで彼が背にしていた木の幹に氷の杭が無数に突き刺さっていた。
 「丹公!」
 空雪は翻って丹下山を呼ぶ。しかし振り向いたそこには、太っちょとは正反対の細身の女がいた。
 「なんすか〜兄者〜!おっ!?」
 のんきな男がやってくる。そして彼もまた、兄貴分と対峙する女に面食らい、足を止めた。
 「このウサギちゃんはただ者じゃなさそうだぜ___」
 二対一、しかも今彼女は挟み撃ちされたような位置関係にある。それでも頬を強張らせていたのは空雪の方だった。
 (___ウサギ?)
 フュミレイはいつも以上に冷然とした面もちだった。

 「白廟泉の勢いが止まりました!」
 棕櫚の嬉々とした声が耳を突く。鳥に化けているため妙にやかましい声だったが、ソアラたちはその知らせに笑みを隠せなかった。
 「さすが闇の女神様!」
 「黙って封印に集中しろ。」
 ソアラの煽てを一蹴し、レイノラは石碑を睨み付ける。
 アヌビスが布石を打っていたのと同じように、レイノラにも布石があった。それはフュミレイであり、同じように別の場所で殺戮劇を食い止めているバルバロッサ、玄道、吏皇らである。フュミレイとバルバロッサには彼女から話を付けた。吏皇には彼と親しくなったサザビーを通じて事情を説明した。正義感の強い彼は無論協力を惜しまず、このときのために数名の同志を募った。玄道はレイノラの範疇ではなかったが、ソアラから事のあらましを聞いた彼がどういう行動を取るか、その正義感を知れば想像は付いた。いずれも大会屈指の実力者である。雇われ妖魔でしかないアヌビスの狩人たちには荷の重い獲物だ。
 だがそれでもレイノラは険しい顔をしていた。いや、むしろ今までにも増して危機感を抱かせる顔だった。
 (急がねば___犠牲が増える___)
 それはアヌビスの次の動きが限られてくるからだ。
 白廟泉を満たすのにまだ命が必要な状態で、フュミレイやバルバロッサをも一蹴し、界門から離れていく多くの生命を一網打尽にできる力を持つのはアヌビスだけだ。奴が動けば封印は成功しやすくなるだろう。しかし代償に膨大な命を散らすことにもなる。
 (真っ向から挑めない己の無力を呪うよ___)
 レイノラは一つ唇を噛んで、石碑に闇の波動を迸らせた。
 「ソアラ!フローラ!ミキャック!冷静かつ迅速に、我が魔力に呼応せよ!奴らに気取られるのは時間の問題だ!」
 「はい!」
 三人の声が同時に耳を打つ。互いに良く知る女たちが闇の女神の期待に応えるのに時間は掛からなかった。

 「アヌビス様!」
 泉に異変が生じた。白廟泉を取り囲むように輝点が生じると、それはたちまち光の筋を走らせて白廟泉の上に幾何学的な編み目を張り巡らせた。高度な封印術。そう悟ったカレンは声を上擦らせて叫んだ。
 「正攻法だったか。もうちょっと予想外のことをしてくるかとも思ったが。」
 だがアヌビスは至って冷静沈着。不適な笑みを絶やすことなく、ダギュールに目配せする。闇の神官が頷くと、白廟泉の上に掛けられた網の一角が綻んだ。
 ゴゴゴ___
 思い扉をこじ開けるような音を立て、空間に闇が開く。その闇の口からは黒い紐のようなものが伸び、それはダギュールの指先へと続いていた。
 紐が手繰られる。
 「く___」
 苦悶の呻きと共に、闇の口から引きずり上げられたのは榊だった。その身体は、ダギュールの紐で雁字搦めに縛り上げられていた。
 「竜樹を奪ったのは見事だ。だが、あれは阻もうと思えば阻めた。あえて連れて行かせたのはおまえが人質として使えるからだ。」
 「貴様が___由羅の___!」
 榊は猫のように鮮明な目でアヌビスを睨み付ける。
 「そう、おまえがソアラと仲良しだっていうところが肝だな。」
 アヌビスは白い牙を覗かせてにやけた。あらかたの策を見透かされていると知った榊の顔に、敗北感が滲む。ソアラの気性を良く知るからこそ、望まずともこの後に起こるであろう出来事に彼女は苦虫を噛む思いだった。
 案の定、光の網が消えた。輝点の一つが輝きを絶やしたためだった。
 「ダギュール、引っ張り上げておけ。」
 アヌビスの言葉に頷くまでもなく、ダギュールは指先に一念を込める。榊の身体を締め付ける紐が僅かに緩み、動いた。紐は彼女の身体に絡みつつ、なおも開かれた闇の穴へと続いていた。
 「うおぁっ!?」
 素っ頓狂な声を上げ、穴から飛び出してきたのは竜樹だった。直後、白廟泉の上を一陣の風が吹き抜けると、ダギュールの闇の紐が解れ、ボロボロと朽ち果てて落ちていく。それは光の力が闇を滅したためだった。
 「来たな。」
 白廟泉とアヌビスたち。その一団に楔が打ち込まれた。
 「由羅___」
 「ごめんなさい、巻き込んでしまって___」
 白廟泉を挟んで、榊を抱いたソアラがアヌビスを見据えていた。黄泉での恩人であり友を捨て置けなかったソアラは、レイノラが制止しようと聞く耳を持たず、衝動的に榊の救出へと飛んだ。
 しかし今この状況に立って思うのだ。自分はまんまと引っ張り出されたに過ぎないと。
 「役者が揃ったな。」
 「まだよ!白廟泉は満ちていない!」
 「そうか?」
 全てが計算ずくではなかっただろう。だがアヌビスはこちらの動きに瞬時に対処する方法を考えていた。彼を驚かせたのはレイノラの一撃くらいで、裏への鍵となる人物を浚うことも、人々を界門から逃そうとすることも、それを守る人材を配することも、白廟泉を封じようとすることも、全て想像の範囲内だった。そりゃそうだ、彼には七十夜という十分すぎる考慮時間があったのだから。
 「そんな___」
 あっという間の出来事だった。ソアラが次の言葉を口にするよりも早く、白廟泉の命の湯は縁まで満ち満ちていた。彼女が唖然としている間に竜樹の身体が変化する。人らしからぬ咆吼を上げ、白廟泉に刀を走らせる。その勝手知ったる動きは彼女の意志ではなく、アヌビスによって引きずり出された羅刹が動かされているに過ぎないのだろう。
 泉の裂け目から七色の光が立ち上り、空間に円を描く。円は鏡のような平面で、光を浴びた油のごとく、七色がゆがみながら入り乱れていた。
 実にあっけない。しかしこれこそが異界への道なのだ。
 「俺たちだけじゃ退屈だろ?」
 「えっ!?」
 時が止まった。そしてソアラは白廟泉の上でアヌビスと手を取りあっていた。泉の外に残された榊が思わず息を飲む。しかし___
 「由羅___!」
 もはや声は届かなかった。二人の姿は、すでに消えていたアヌビスの一団を追って、七色の円に溶けて失せた。榊が這いずるように手を伸ばしたときには、見る見るうちに縮んだ円がシャボン玉のように弾けて消えていた。




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