1 肉人形

 大会が再開された。残す戦いは準決勝と決勝。余程会場が大破すればどうか分からないが、今夜中に全てに決着が付くのはほぼ間違いないだろう。
 (___妙だな。)
 残された四人の選手にはある通達が成された。
 『会場が大破した場合、残りの試合は予選に用いた会場で行う。』
 それは餓門が去った今、正式に大会のプロモーターとなった牙丸からの知らせだった。だがある程度事情を知る機会を得たフュミレイは、控え室の扉に書かれた知らせを懐疑的な目で睨んでいた。
 (白廟泉に反応する力を持った妖魔を探すために、アヌビスはここに会場を造ったと聞いた___ということはそちらの目的はもう達成されたということなのか?)
 すでに敗れた者の中にその存在がいたということだろうか?だからアヌビスの騎士とも言うべき花燐や麗濡が大会から姿を消したのだろうか?
 (いや___いずれにせよあたしの関知するところではない。あたしは一人のしがない妖魔だ。)
 そう、百鬼との縁も絶った。ソアラたちの戦いに関心を抱く必要はもう無いはずだ。
 (___そのはずだ。)
 肝心なところで冷淡になりきれない自分も確かにいる。だがだからといってそんな偽善が引き金になるとも思えない。
 なるとすればもっと決定的なことだ。
 「よう。」
 「!」
 思案を巡らせていたフュミレイを、ぶっきらぼうな声が呼んだ。振り返るとそこには、これから幾ばくとしないうちに刃を交えることになる相手、かつての友、竜樹がいた。
 「一夜ぶりだけど凄く久々な気がするな。」
 「___それだけあたしたちが長い時間を共にしていたということだ。」
 懐かしむような竜樹の言葉にフュミレイも応じた。純真可憐な癇癪持ちはいつものように語気を強めることもなく、努めて冷静に見えた。
 「怪我は?ソア___いや、由羅との戦いで左腕、それに肋も折っただろう?筋もかなり切ったはずだ。」
 「さすがによく見てるな。でも大丈夫だ、治してもらった。」
 そう言って竜樹は着物の袖をまくり、左腕を見せつける。しなやかな筋骨に包まれた左腕には全くの傷跡もなかった。だがその瞬間、フュミレイの視線は厳しさを増した。
 「今日は正式に別れを言いに来たんだ。戦いの前にはっきりした方がいいからな。」
 百鬼の次は竜樹か?だがそんなジョークが脳裏に浮かんだのは一瞬でしかない。彼女は視線を厳しくしたまま竜樹の言葉を待った。ある憶測を胸に抱きながら。
 「今までありがとうよ。おまえのおかげで俺は一歩___いや十歩、百歩かな、とにかくたくさん成長できた。おまえには色々教えてもらったし、俺だけでは見えないものも見せてくれた。本当に感謝してるよ。今は喧嘩してるのに、俺に礼を言わせたくなったんだからおまえは凄いと思うぜ。」
 最後の理屈はよく分からないが、それでも竜樹の言葉は彼女のそれとは思えないほど達観して聞こえた。
 「どういうことだ?」
 「だからこれでお別れだってことさ。俺は先に進む道を見つけた。」
 「それは破滅の道だ。」
 フュミレイは冷酷に、戒めるような口調で言った。淡泊に振る舞っていた竜樹の目つきが鋭くなる。
 「アヌビスへの傾倒はおまえを破滅に導く。」
 「違うな、俺は前に進むんだ。」
 「その先は崖だ。奈落に落ちるしか道はない。」
 「危険を冒さずに宝にありつける、そんな都合のいい考えをする山賊はない。俺もそうだ。」
 「危険と知っているならやめろ。アヌビスに付かずとも方法はあるはずだ。」
 シュッ___
 抜刀はしていない。しかしフュミレイの頬を鋭気が撫で、赤い筋を刻んだ。
 「俺の道だ。口出しされる筋合いはない。」
 「ある。あたしたちはただの顔見知りじゃないはずだ。」
 「___」
 竜樹にはその言葉が意外だった。顔色には現さなかったが、冷たい女だと思っていた冬美が口にした感情的な言葉に、彼女はいささか面食らった。
 「左腕、黒い染みが見えた。」
 「___」
 「アヌビスに支配されて進む道が正しいはずがない。」
 竜樹の傷を癒したのはアヌビスだ。そして奴は、同時に彼女の身体に邪輝を巡らせた。黒い染みに塗られたら最後、全てを奴の意志に委ねられる恐るべき力。竜樹ほどの危機察知能力があれば、知らずとも感覚で危険を感知できただろう。それを甘受させたアヌビスは彼女に何を提示したのか?
 「どうでもいいことだ。あいつは俺が真実に辿り着く道を作ると約束してくれた。そして俺の力があれば辿り着けるとも言ってくれた。」
 「!」
 その言葉にフュミレイはハッとする。
 力があれば辿り着ける___その一言で、彼女は鋭敏に閃いた。
 「やめろ!それは奴の方便に過ぎない___おまえの行動が世界を危機に陥れることになるかも知れない___!」
 「___?」
 「おまえの命も___いや百鬼の命も縮めることになる___!」
 竜樹が僅かに目を見開いた。しかし彼女が冷静さを失うことはなかった。
 「それがどうした。」
 「___竜樹。」
 「俺には関係ないことだ。アヌビスが何をしようが、百鬼がどうなろうが、それは俺と羅刹には関係ないことだ。」
 そう言うなり竜樹は踵を返す。しかし振り返ってフュミレイを睨み付けた。
 「最後くらいいい別れがしたかったのによ___てめえのお節介はもう懲り懲りだ。」
 本心か、それとも迷いを絶つための虚勢か、それは分からない。そんな詮索よりも、フュミレイは今は竜樹をなんとしても止める方法、それだけを思案していた。
 そして___
 「あたしはおまえの友人だ。止める権利はある。例えば腕ずくで止めることもな。」
 「___」
 背を向けた竜樹は振り返らずに歩く。
 「ようはどちらが上かと言うことさ、竜樹。」
 「なに___?」
 しかし、その足はすぐに止まった。
 「友として命令させてもらう。あたしかおまえか、強い者の意志に従え。」
 「なんだと___?」
 振り返った。
 「戦って決めようというのさ。次の試合、勝った方の意志に従う。あたしが勝てばアヌビスから離れろ。その黒い染みも取り用はある。おまえが勝てば好きにしたらいい。」
 竜樹はしばらくフュミレイを睨み付け、やがて口元を歪めた。冷淡に振る舞っていた彼女が、ようやくいつもの好戦的な笑みを見せた。
 「その冗談、嫌いじゃないぜ。」
 「いいな。」
 「ああいいさ。しがらみも未練も全部断ち切ってやるよ。」
 そう言い残し、竜樹は去っていった。
 (しがらみも未練も___か。)
 そう、彼女とて未練がないわけではないのだ。百鬼の一件で冷戦状態となった二人だが、互いがこれまで築いてきた信頼が完全に崩壊したわけではない。竜樹もまた、冷たく振る舞っていても彼女への恩義を忘れたわけではなかった。
 だが甘んじてはいけない。互いにはっきりしているのは、どちらもソアラや百鬼には理解できないであろう非情さを持っているということだ。
 竜樹は全力で勝とうとするだろう。すでにアヌビスを受け入れた彼女は、けじめを付けるために殺意を持って臨むだろう。
 (あたしもそれに応えなければならない。)
 また、それくらいの非情さが無ければ竜樹には勝てない。ソアラが負けたのは、それが決定的に欠けていたからだ。

 今夜覇王が決まる。その思いは観衆にまで緊張を走らせた。一方で、大きな胸のつかえを解き放った玄道は、正攻法で炬断を圧倒した。彼は戦うほどに強くなる。何よりここまで一切能力を使った様子がないのは驚きだった。
 「覇王___か。」
 ソアラが彼に向ける眼差しはこれまでと違っていた。百鬼が時に彼女の横顔を見ても、それに気付かないほどの熱を込めて見ているようだった。
 「___」
 だがそれは百鬼の心を揺さぶるものではなかった。ソアラは我が子を見るような、母性的な顔をしていた。それが姉としての彼女の顔なのかもしれない。
 玄道は勝った。ソアラはほっとした様子で胸をなで下ろし、それからはいつもと変わらない様子で百鬼や子供たちとも言葉を交わしていた。ルディーは玄道の戦いの間、最初ソアラの顔色を窺っていたが、やがて玄道の戦いぶりに夢中になっていた。百鬼が振り返ると、良く似た親子が同じような顔で舞台を見つめている姿は可笑しくもあった。
 もうこのことはそれほど心配することもなさそうだ。いずれソアラに弟を紹介してもらうのも悪くないだろう。

 決勝の一枠が決まった。
 そしてもう一組。二人にとって重要な戦いが始まる。
 「___」
 先に登場したのはフュミレイ。ここまでの戦い、全く苦戦の色も見せずに勝ち上がってきた彼女はいつも通りの足取りで舞台へ。武器はない、防具もない。黒い装束に包んだ肉体と、そこから発せられる多彩な力だけで彼女は勝ち上がってきた。
 この戦いも彼女に変化はない。
 (勝つ。竜樹を救うために。)
 だがそれは外見上のこと。殺気で満ち満ちていた黒閃戦を別とすれば、今の彼女はこの黄泉に来てから最も戦いへの意欲に溢れていた。それは強い目的意識の成せる技。この戦いの勝利が生むものの大きさが、彼女の戦意を掻き立てていた。
 「竜樹さんの入場です!」
 しかし、燃えているのは彼女だけではない。竜の名を駆る侍は、まさに燃えたぎるほどの闘志に包まれていた。
 「!?」
 フュミレイは慄然とした。竜樹の身を包む破壊のオーラに。
 「___フゥゥ___」
 長い息を付き、竜樹が歩く。彼女は諸肌を脱ぎ、晒し姿だった。
 だがそんなことより目を奪われたのは___角、牙、紋様。
 「なんてことだ___」
 フュミレイは呻いた。竜樹は初めから羅刹の力を露わにしていた。それでいて、彼女の目は自意識を保ち、しっかりと自らの足下を確かめるように歩いてくる。これまでの彼女では考えられないことだが、竜樹は羅刹の力を現しつつ、正気を保っていた。
 なぜそんなことができるのか?それは彼女の体が彼女のものでありつつも、実状そうではなくなっているからだ。
 (赤い紋様に黒が入り交じっている___)
 アヌビスの邪輝の力が竜樹と羅刹を結んでいる。おそらく___これは竜樹がアヌビスに力添えを願い出たのだろう。自分に宿る鬼神の力を自らの意志で使いたい、と。そしてアヌビスは邪輝を使ってそれを可能にした。
 (おそらく邪輝が蝕んでいる分だけこれまでの羅刹より力は抑制されているだろう。しかし___)
 フュミレイには対竜樹戦のビジョンがあった。これはソアラも見抜いたことだが、竜樹の戦いは実に正攻法だ。そして虚を突かれることに極端に弱い。知略に長ける敵は最も苦手とするところのはずである。
 しかし、どうやら竜樹もそれを理解している。フュミレイが自分の苦手なタイプと察したからこそ、彼女は思いきった行動に出た。無論それは勝利への強い執念の現れである。しかし___
 (誇りを捨てたか?大いなる目的のために、一時の屈辱は甘んじて受けると言うことか?それであたしに勝って___満足なんだな?)
 言葉にはしなかった。だがフュミレイは竜樹に幻滅した。幼稚なところはあっても、彼女は自らに厳しく、妥協を許さない人物だと思っていた。しかし彼女は信念を貫くをことよりも、安直な近道を選んだ。
 羅刹、アヌビス、両者の前にひれ伏し、靴を舐めてまでこの一戦の勝利を求めている。言葉に出さずとも、自分の冷たい顔は自然と蔑んだ目で彼女を見ているだろう。

 翠の声が響く。
 同時に竜樹が動く。
 フュミレイは微動だにせず、ただ竜樹を見据えていた。
 刃が走るまで、一瞬の出来事だった。

 「フゥゥ___フゥゥ___!」
 自我はある。だが羅刹を押さえ込もうという意図はない。激しく息を付くばかりで言葉にさえならない竜樹だったが、横凪にした愛刀百鬼はフュミレイの首に僅かに食い込んだところで止まっていた。それは竜樹の自我が止めたものだった。
 「___」
 脈に達しているのだろう、刃と肉の間を押し広げるように大量の血が噴き出していた。それでもフュミレイは整然としていた。沈黙を守り、ただ竜樹を見つめていた。
 「グゥゥ___!」
 竜樹が苦悶の声を上げて刀を引いた。しかしその苦しみは羅刹を押さえ込もうという葛藤ではなく、フュミレイの軽蔑の眼差しに怯んだからだった。
 やはり自我はあるのだ。そして羅刹とアヌビスの力を借りて戦っているという負い目も。
 「ありがとう、おかげで少しは竜樹を相手にしている気になれた。」
 フュミレイがようやく呟いた。すでに傷口からの出血は止まっている、いやそもそも傷なんてあったのだろうか?彼女の首に刃の跡はなく、肌を濡らしていた血の跡さえ消え去っていた。残っているものがあるとすれば、それは竜樹の浴びた返り血だけである。
 周到だ。フュミレイはすでに罠を張っていた。
 「ホーリーブライト!」
 竜樹の肌に染みた返り血が、突如猛然と輝きだした。フュミレイが現した巨大な魔力に呼応して、返り血は純白に変わると竜樹の身体を浸食するように広がっていく。
 「グガガ!?」
 体の内から何かをねじ曲げられるような感触。フュミレイが選んだのは邪悪なる闇を打ち消す聖なる呪文。それは竜樹そのものへのダメージよりも、彼女の内に食らいつくアヌビスの闇、邪輝を滅するためだった。
 「っ___!?」
 しかし誤算があった。白い波動は竜樹の肌に染み出てきた黒に押しつぶされ始めたのだ。それはおそらく竜樹の意志ではない。どこかでこの戦いを見ているアヌビスの一念がそうさせているのだ。そしてもう一つ、レイノラの元で闇に傾倒していた自分が放つホーリーブライトは、やはり想像以上に弱い!
 「くっ!」
 邪輝が魔力の糸を遡ってフュミレイの指先を狙う。彼女はやむなく魔力を断つしかなかった。
 ザンッ!
 魔力の糸が切れた瞬間だった。瞬時に苦悶から立ち直った竜樹が刃を放っていた。斬撃がフュミレイを襲い、魔力を断ったフュミレイが頼りにできるのは肉体的な運動能力だけだった。
 「___」
 身を捩れただけでもましだ。右の腹から左の肩口まで一筋の裂傷が走ったが、それはすぐに魔力により塞ぎ止められていく。そして追撃の刃が彼女を襲ったときには、もはや残像だけ残して場外の空中にいた。
 フュミレイの周りには、五つの輝かしい球が漂っていた。これまでの戦いで彼女が唯一見せてきた新しい武器。限界を知らない魔道のポテンシャルが可能とした隙のない攻撃法。
 「ウオォォッ!」
 獣のような声を上げ、竜樹が襲いかかる。フュミレイはこれまで通り、動く気配すら見せなかった。しかし五つの輝きは違う。
 ギガカッ!
 竜樹の刃は瞬時に現れた分厚い氷の壁を食った。無論その程度一刀両断にできない彼女ではないが、それも壁がただそこあるだけならの話である。壁の中にはあの輝ける球が一つあり、青色に光っている。それは氷の魔力の象徴。竜樹の刃が作った氷の裂け目も、夥しい魔力がすぐさま塞ぎ止める。
 一瞬で良いのだ。動きが止まればそれでいい。
 「!?」
 四つの球体は竜樹を取り囲んでいた。そして壮絶な輝きを発する。両脇から、背中から、光が膨れあがると圧殺するように彼女を飲み込む。そして猛然と弾けた!
 ドゴォォォォッ!
 光が火柱のように吹き上がる。広範囲の攻撃ではない。しかしだからこそ恐ろしいのだ。あの四つの球体が秘めた魔力を感じたものほど、この攻撃の威力に身震いする思いだった。
 「とんでもないわ___」
 闘技場中を飲み込むほどの巨大な魔力が広がっている。それを鋭敏に感じたからこそ、ソアラは汗を滲ませていた。それは百鬼やライには分からない感覚。しかし隣に座る彼女の娘は、自らに宿る魔道の才を発揮し、母と同じように汗を滲ませていた。その向こうでは、息子までもが幾らか緊張した面もちだった。
 「あんな攻撃、きっとミロルグにだってできない___できたにしても息一つ乱さないなんて絶対に無理よ___」
 「どうなってるんだ___?」
 ソアラは一つ息を飲んでから続けた。
 「無色の魔力の話は覚えてる___?」
 「ああ、魔力の原液みたいなもんだろ?強烈だが消耗が激しい。」
 「さっきの五つの球、あれはフュミレイの無色の魔力。しかも彼女はそれを自分の分身のように切り離して、魔力の結晶体のようにしたのよ。」
 「凄いのか?」
 「とんでもないわ。一つ一つの球体に込められている魔力が尋常じゃないもの。エクスプラディール、最強の攻撃呪文だってできるわ。それが五つ!___さすがのあの子も無事では済まないはずよ。」
 魔道の才のないものには実感はわかないだろう。しかしエクスプラディールといえばミロルグがカーツウェルを倒すために使い、ゴルガの半分を吹っ飛ばした究極の爆発呪文だ。あれを五つ、切り離して自在に操るというのは確かにとてつもないことかも知れない。そしてそれが一挙に四つ竜樹に押し寄せたとなれば___ゾッとするのも無理はない。
 「はっきり言って異常だわ___どうしてあんなことができるのか、あたしには理解できない。」
 ソアラは汗ばんでいる自分の頬や額に手を当てて呟く。隣のルディーも同じように汗を滲ませていたが、彼女はフュミレイを見つめることに夢中になっていた。その瞳は純粋な輝き、羨望で満ちあふれていた。
 「面白い。」
 そして彼女に負けじと純粋な目でフュミレイを見つめていたのがアヌビス。彼の場合、紛れもなく邪だという点で純粋なだけだが。
 「魔力だけなら神の領域だ。どうやってあんな力を身に着けたんだ?」
 これまで彼の興味を掻き立てる女はソアラを置いてほかになかった。だがこうしてみれば、竜樹にしろ闇の女神にしろ銀髪の魔女にしろ、面白い女はまだまだいるものだ。
 コォォォ___
 竜樹を包んでいた輝きが蒸発するかのように天へと昇っていく。フュミレイは舞台の中央にたち、じっと光の柱の中心を睨み付けていた。
 「効かないか。」
 そして舌打ちした。光の奥に現れたのは、全身に傷を刻みながらそれでも立っている竜樹だった。
 「耐えた___!?」
 百鬼が呻いた。ソアラも同じ気分だった。彼女は竜樹の紋様に宿る黒に違和感を抱かなかったから気付かなかった。もしあれが邪輝だと分かっていれば、答えは実感としてすぐに閃いたはずなのだ。
 「残念だな。」
 アヌビスが呟く。雌雄が決したと感じたからだった。
 「俺のせいで面白みが無くなったか。」
 そうとも、いくら強力だろうと魔力は魔力だ。
 邪輝は魔力に対して強力すぎる盾となる。
 浄化の力を宿した聖なる光の呪文以外は、ほぼ通じない。
 「フゥゥ___」
 しかし竜樹の肉体全てが邪輝に塗り潰されているわけではない。だから彼女の身体は傷ついているし、ダメージもある。だがもとよりいまフュミレイの前で猛々しい息を付くのは竜樹の身体をした羅刹だ。竜樹はかろうじて意識を留めているが、腕力も、打たれ強さも、竜樹のそれ以上に高まっている。
 邪輝が無くても耐えられた可能性は十二分にあった。
 「グアアア!」
 戦いは一方的な展開となる。フュミレイの攻撃は魔力への依存が極めて高く、邪輝と羅刹がある限り、彼女に抗う術はない。
 「___」
 それは彼女自身分かっている。しかしそれでも戦いをやめることはしなかった。そして勝利を諦めてもいなかった。
 そしてはじまったのが高速の鬩ぎ合いだった。
 「あぁ!?な、何というか私には何が起こっているのやら!」
 猫目の翠でさえ二人の動きを追うことはままならなかった。フュミレイは魔力を駆使して不規則に戦場を逃げ回り、竜樹は肉体的な強さでそれを追い回した。
 回避が早すぎれば、恐るべし反応を誇る竜樹はすぐさま刃の軌道を変える。
 回避が遅すぎれば、刃が肌を舐めるだけでも斬撃で骨の髄までうち砕かれる。
 やり過ごすタイミングは狭い範囲に限られている。フュミレイはその範囲を少しでも広げるために魔力を駆使した。炎を立ち上らせ、氷の巨岩を生み出し、風を集めて弾丸とした。だが追う者が諦めない限り、追われる者は永遠に追われ続ける。そして竜樹は、目で見ずとも、耳や鼻を頼らずとも、些細な生命力だけで相手の動きをかぎ分けられる動物的感覚に長けた人物でもある。
 「___!」
 竜樹がフュミレイに斬りつける。無数の氷の棒が檻のようになって竜樹の行く手を塞ぐ。それでも構わずにフュミレイに斬りかかると、彼女の姿はもうそこにはない。しかし竜樹は片手を自由にし、それで空を裂いた。
 「ぐっ!?」
 竜樹の爪から迸った波動が宙を食った。それは離れた位置に逃げていたフュミレイの胸を抉る。どちらへ逃げたか、どれだけの速さで飛んだか、全てを直感で捉え、竜樹は先読みの攻撃をしフュミレイに出会い頭の痛打を見舞った。
 ズシャッ___!
 動きが止まった。追う者と追われる者の闘争は、どちらかが動きを止めた瞬間に終わる。逃げ切れなかった獲物は、野獣の牙に食われるのみだ。
 「フゥゥ___」
 「ぐ___かはっ___」
 フュミレイが喘いだ。舞台の上に仰向けに、竜樹はその上にのし掛かるように。
 右手一本で突き立てられた刀は舞台を食っていたが、左手が脇腹に抉り込んでいた。鋭い爪は肉を食らい、臓腑に達する。顎を上げたフュミレイの口からは血が弾け飛んでいた。
 「___フゥゥ___」
 だがそこで竜樹も止まった。すでに敵の心臓を握っているかのような状況、このまま乱雑に腕を動かせば、彼女の身体を腹で切り離すことだってできる。だがここにきて、鬼神の影に埋もれつつあった理性が顔を覗かせる。
 「___言え___」
 これが本当に竜樹の声なのか?そう思えるほど、鈍く、無理矢理声帯をねじ曲げたような太く重い声だった。
 「___まいったって言え___!」
 声が揺れる。竜樹と鬼神の声が波打つように折り混ざって聞こえた。
 「言わねえと___言わねえと殺しちまう___!」
 殺す___ではなかった。彼女は苦悶を織り交ぜながら「殺してしまう」と言った。それは自分の本心と羅刹の殺意が一致していないことを現していた。鬼神の角、牙、彩りを宿しながら、竜樹はこれ以上の戦いを望んでいなかった。
 「ふっ___」
 血の紅をさした顔で、フュミレイは笑った。そしてその手をそっと竜樹の頬に当てる。
 「なぜだろう___あたしは大局でものを見れると自負していたが___ことこの戦いはおまえを引き留めたい一心で動いていた___」
 「___分かってるさ___俺だって___でも道がそこに見えてるんだ___ぐぅぅ___!」
 頬の紋様に織り交ぜられた黒が蠢いている。それと同時に、一瞬覗いた竜樹の理性が瞳から奪われていく。そしてフュミレイは確信する。アヌビスが邪輝で捉えているのは竜樹ではなく、彼女の内に潜む殺戮の鬼神、羅刹の力なのだと。
 ということは、彼が求めているのはその力。竜樹ではない。
 その力が役目を果たせば___竜樹の命運は決したようなものだ。
 そしてその力が果たす役目はおそらく「あれ」だろう。だがだとすれば、羅刹の力の由来は確かに、竜樹の目指す道の先にあるのかもしれない。
 「こ、降参しろ___!」
 残された最後の理性がフュミレイに勧告する。しかし彼女は答えなかった。いや、頬に触れた手が彼女の答えである。
 「しない。おまえを助ける。」
 時に、自分でも不思議に思う。
 いくら魔族の身体を得たとはいえ、腹を貫かれても死なない私は何なのだろうか。
 魔族は確かに人よりは丈夫だ。だがどうやらその由来は翼のない天族に近いらしい。小鳥、いやミキャックも確かに人よりは強い体を持つ。だがそれにしても、臓腑を抉られて平然としていられるだろうか。
 時に、自分でも不思議に思う。
 幾ら魔族の身体を得たとはいえ、最大級の呪文をさしたる労無く操れる私は何なのだろうか。
 魔族は確かに魔道の才に長けた種族ではある。だがそれにしても限りはあるだろう。自分は確かに、外道の秘術により生まれながらにして魔力に長けていた。だがそれにしても、闇の女神をも認めさせる魔力はどこから生まれるというのだろうか。
 時に、自分でも不思議に思う。
 私は本当に生きているのかと。
 私の形をした肉人形のなかに、私の意識、記憶___そう、言うなれば魂がいるだけではないのかと。
 知りたいことはある。知的好奇心が失せたら人は生きる道しるべを失う。ソアラのように、竜樹のように、己に大きな謎があるのならば、それを追いたくなるのは当然のことだ。
 でも私はそれをしてこなかった。死を覚悟するまで、自らがなぜ銀色を髪をしているのかさえ、知ろうとしなかった。
 だが最近ふと思うのだ。フェイロウが私に施した改造とは何か。私を魔族にした源とは何か。あるいは___私は私であって私でないのではないかと。

 キィィィィィィンッ!!!
 精神波とでも言おうか、人の聴覚の限界を超えた音の波動が駆け抜けた。耳の緩衝を許さず、脳に直接流れ込むような衝撃波に、観衆も一斉に頭を抱え、あるものは卒倒した。
 「エルブラーナ___」
 アヌビスは呟いた。彼はこの音域を感知する。そしてこの呪文も知っていた。
 「驚いたな、古代呪文まで使いやがった。」
 そして久方ぶりに舌を巻くほど驚かされていた。古代には今以上に強力かつ破壊的な呪文があった。だがそれを操れるのはごく一部の才溢れる大魔道師だけであり、やがて誰にも見向きをされなくなっていった。今では魔力そのものが人と縁のない存在になってしまっているのと同じように。
 それを、あいつは使った。レイノラが教えた?いや、違うだろう。あれはきっと、レイノラの蔵書を見て独学で拾得したのだ。きっと、そういうタイプだ。
 「化け物だ、ありゃ。」
 アヌビスの中にある種の強い興味が目覚めた。あいつの力の源は何か?と。あれは一見するとただの魔法使いのようであって、その実、魔力だけでソアラにさえ勝てる可能性を秘めている。
 「いずれ___じっくり話したいもんだな。黄泉じゃないところで。」

 「___」
 フュミレイにのし掛かっていた竜樹の身体が跳ね上がるようにして仰向けに倒れる。意識はなく、見開かれた目は真っ白になっていた。眼球は回転し、口からは舌が飛び出していた。
 「はぁっ___はぁっ___」
 一方のフュミレイも青ざめて、肩で激しく息をしていた。膨大な魔力を賭したことで、回復に仕向ける魔力が後れを取っていた。傷はまだ毒々しい口を開いている。
 「っ___」
 しかし一つ唾を飲んで幾らかでも呼吸を整えると、傷は淡い光に包まれて徐々にその口を塞ぎ止めていく。立てる程度には治療しなければ、勝ち名乗りも受けられない。
 「あ___こ、これはいったい___」
 観衆の苦悶の様子、卒倒した竜樹に翠は呆然としていた。彼女自身は猫の耳を持つため、エルブラーナに耐性があった。
 「あれって呪文なの?こんなの___初めて見た___」
 ソアラは顔をしかめ、耳を押さえながら呟いた。百鬼にしろ子供たちにしろ、まだ頭の中で響き渡る苦痛に耐えかねていた。
 「竜樹に宛った掌から放ったようですね。至近距離で食らっては、ひとたまりもないでしょう。」
 その中で棕櫚は平然としている。隣ではライが心底驚いた顔で彼を見ていた。
 「良く平気でいられるね!」
 「動物ですから。」
 棕櫚は耳だけ獣化していた。あの瞬間ではなく、直前に舞台上で交わされた二人の会話を聞くためにそうしていた。
 「立った___フュミレイの勝ちね。」
 ソアラの声で棕櫚とライも舞台に視線を移す。満身創痍の様子ながら、彼女はいつもの顔で直立しピクリとも動かない竜樹を見ていた。
 勝負は決まった。翠も竜樹の様子を確認しようと近寄っていく。しかし___
 ガバッ___!
 竜樹の身体がまたも跳ね上がった。全身を棒のようにして、時計の針を動かすように九十度起きあがった。
 「た、立った!?」
 翠が驚いて声を上げ、逃げるように舞台を飛び降りる。
 「嘘___!?」
 「あいつは頭の中まで鍛えられるのか?」
 ソアラも百鬼も目を丸くした。竜樹からあらゆる気配が遮断されているように思えたから、ソアラは余計に驚いていた。自分の感覚を疑いもした。
 「___ふざけた真似を。」
 からくりの答えはフュミレイだけが知っていた。対峙する竜樹の口元から涎が落ち、目は未だ焦点を取り戻さずにいる。ただ、先程より黒い彩りが大きく蠢いているだけだ。
 それは彼女にもう道が残されていないことを示していた。この戦い、彼女が勝つためには竜樹の肉体を消滅させるほかにない。アヌビスは竜樹の中に宿る羅刹の力さえあればそれで良いのだ。場合によっては箱である肉体が滅びても何とかなると考えている。
 死体でも構わないと思っているのだ。
 「あたしを___弄んでいたわけか。」
 どうすることもできない。戦う前から勝敗は決していたのだ。
 操り人形の刃が煌めく。
 「アヌビス、あたしはどう足掻いてもおまえを好きになれそうにない。」
 そして、銀色の魔女は散った。




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