4 無限

 「ただいま___」
 百鬼の部屋に戻ってきたソアラは沈みきっていた。声には元気が無く、肩を落として、ドアを開けるなり部屋の中をおどおどした様子で見渡していた。
 ルディーはいない。それが分かると彼女は溜息をつく。
 「よう、おかえり。」
 百鬼は好対照だった。活力に溢れ、生き生きとした顔でソアラを出迎えた。彼は開かれた窓の前で往来を眺めていたようだ。
 「二人は?」
 「まだ帰ってきてないんじゃないか?リュカはサザビーたちと市場に行ってる。ルディーは___どこに行ったんだっけな?」
 いずれにせよ、今このアパートにいるのは二人だけ。フュミレイの残り香があったとしても、気になるものではなかった。
 「あの___百鬼___」
 「なあソアラ!」
 どう説明していいのかまだ自分でも思案しているソアラの言葉は鈍く、百鬼の豪快な声に掻き消されてしまった。
 「ちょっとヘブンズドアで出かけないか?」
 「___え?」
 「ほら、前に話してくれたことあったろ?おまえの両親のさ___」
 両親という言葉が玄道を連想させ、ソアラの思考は混沌とした。結局百鬼のなすがままに押し切られ、彼女はあのことを話せなかった。
 「それじゃあ、先に外で待ってる。」
 「ああ、すぐ行くよ。」
 ソアラはまだ沈んでいたが百鬼の提案にいくらか元気を取り戻した。ただそれは短い安らぎでしかない。
 「!」
 我が子を見る顔ではなかっただろう。でも扉の外にルディーがいたから、彼女は息が詰まるほどに驚いた。
 「おかえり。」
 ルディーに笑顔はなかった。母を露骨に嫌悪することもなかったが、氷のように冷たい表情はソアラの胸を抉るかのように鋭利だった。
 「ルディー___」
 「言わないでよ。あたしは気にしてないし、誰かに言うつもりもないから。」
 大人びた言葉を残し、ルディーはソアラの横をすり抜けるようにして部屋へと入り込んでいった。
 「ただいま!」
 「よう、どこいってたんだ?」
 「秘密!」
 「これから母さんと出かけてくるんだ。留守番頼めるか?」
 「いいよ〜!」
 「遅くなるかもしれないから、みんなが帰って来たらそう伝えといてくれ。」
 「うん、わかった!」
 扉を背にソアラはルディーの声を聞いて深い溜息をついた。後で二人だけで話せる時間がほしい。でもその前に、まず百鬼に全てを伝えなければ。

 黄泉の深い山間。霧のような白い霞が立ちこめる中で、ソアラは肌を晒していた。
 (馬鹿なことするからこんな気分になる、ルディーにも嫌な思いをさせて___)
 今更になって思う。何でキスなんてしたのだろう?弟だと分かってからまであんなことをして。それが恋だといえばそうなのかもしれないが、あまりに馬鹿だった。
 「お〜い。」
 「今行く。」
 服を脱ぎ、木々の狭間を脱すれば、すぐに水気に溢れた空間が広がる。
 「遅かったな。便所か?」
 「着替えに手間取っただけよ。」
 霞の濃い中で、足を進めると湯に触れる。ゆっくりと身体を沈めると、すぐそこに白濁した湯に胸まで浸かった百鬼の影が見えた。そう、ここは温泉。
 「ふぅ。」
 「やっぱり気持ちいいなぁ。」
 「ほんとね。」
 温かな湯が体を芯から火照らせる。ソアラは霞で影しか見えない百鬼のそばまで近寄り、どこでもいいから彼の肌に触れたくなった。
 「なにケツ触ってんだ?」
 「え?おしりだったの?ごめんね。」
 「謝ることでもねえだろ。」
 「そっか。」
 どうにも歯切れの悪いソアラ。自分の横で白い水面を見つめる彼女の横顔。百鬼は自然とそれを覗き込んでいた。
 「おい。」
 「わっ。」
 気付かなかったらしいソアラは、百鬼の顔が間近にあることに驚いて小さく声を上げた。
 「どうかしたのか?」
 「___」
 隠すつもりはなかった。だから顔に出ていたのは自分でもわかっている。でも昔は鈍いと思っていた彼が、自分のことを気にかけて、敏感に察知してくれるのは嬉しかった。
 「さっきから様子がおかしいぜ___あれだ、部屋に帰ってきたときから変だった。あっ!」
 耳元で急に大きな声を出すものだから、ソアラは湯音を立てて身じろぎした。
 「な、なによ。」
 「見てた?」
 「は?」
 今度は一転して、百鬼が変だ。動揺したかのように、体が火照っていることを差し引いても顔に汗が浮いている。
 「すまぶっ___!」
 温泉であることもお構いなしに、百鬼はソアラに向き直ると深々と土下座した。が、飛沫を巻き上げて彼の頭は湯の下に。結局ソアラの顔や頭をビショビショにしただけである。
 「ぶはっ!」
 漸く飛び出してきたときには、顔が真っ赤になっていた。
 「出来心だなんていわねえ!でもとにかくどうしても駄目だった!」
 「ちょっと落ち着いて!」
 もう一度頭を下げようとした百鬼の額に正拳突きがめり込む。
 「何のことだかさっぱりだわ?何言ってるわけ?」
 「え?フュミレイのことじゃ___」
 「フュミレイ___あっ。」
 漸く察したらしい。ソアラはニヤリと笑って百鬼の頭に両手を宛がった。
 「そりゃお疲れ様!たっぷり沈めて精力回復させたげる!」
 「うが〜っ!」
 静かなはずの秘湯に賑やかすぎる声と湯音が響き渡っていた。

 「怒ってる?」
 「怒ってない。」
 「嘘だろ?」
 「嘘だったらくっついてるもんですか。」
 ひとしきり騒いだ後、二人は足だけを湯につけるようにして、寄り添いながら岩に腰掛けていた。
 「怒れない理由があるのよ。ううん、逆にあたしが怒られなくちゃいけなかったの。それをあんなことするから、言い出しづらくなっちゃったわ。」
 「どういうことだ?」
 ソアラは小さく息をついて、それでもリラックスして続けた。さっきのドタバタ劇が彼女の悲壮を軽くしていた。
 「あなたが会ったこともない男性とキスした。」
 玄道がどういう人かなんて問題じゃない、まずは自分の非をしっかりと伝えたかった。
 「珍しいな。」
 百鬼は少し驚いていた。しかし動揺はしていなかった。
 「怒ってよ。」
 「今の俺に怒れると思うか?」
 「怒ってほしいの。」
 「___こらっ。」
 「なによそれ。」
 怒られることも一つの愛だと思う。でも、確かに今の百鬼にそれをするのは難しそうだ。
 「なにがあったんだ?」
 「好きになっちゃったのよ。あたしも彼も、出会った瞬間にこの人なら良いって思っちゃった。」
 「そいつも?」
 「そう。お互いによ。」
 不思議なこともあるものだ。そしてソアラをそんな気持ちにさせた男にようやくいくらか嫉妬が沸いた。
 「彼に求婚されたわ。」
 「球の根っこじゃないよな。」
 「当たり前でしょ。」
 緊張感がない。それは彼の意思表示でもあった。ソアラの話を聞き流したりはぐらかしたりできるほど、自分は余裕を持って受け止められるのだということ。意識的にではなく、百鬼は知らずとそういう態度をとっていた。
 「受け入れはしなかったわ。それは当然。でも迷っちゃった。」
 「妬けるな。俺でも出会ってすぐにおまえを迷わせることなんてできなかったはずだ。」
 「あたしも自分が信じられなかった。」
 「そいつは何者だ?おまえをそうさせた理由があるんだろ?」
 ソアラはすぐには答えなかった。水面を見つめ、長い逡巡を経て口を開いた。
 「ちゃんと叱ってくれたら言う。」
 「は?」
 「あたしは悪いことをしたの。あなたを裏切るようなことをしたの。あっさり許されたらそれはそれで悔しいわ。」
 「難しいな、女って。」
 そう言うなり、百鬼はソアラの首元に唇を寄せた。
 「ちょ___ちょっと?」
 「叱ってやるってんだよ。」
 「___もう。」

 湯に浸かるのも暑くなった二人は、裸のまま岩の上に座っていた。少し体を冷ましてから、もう一度湯に入るつもりでいた。
 「そうか、弟がいたのか。」
 「うん。自分でも驚いたわ。」
 「でもそういう感覚になって確信した。」
 「そう。彼は鋼城であたしの母さんの肖像を見たことがあって、それであたしがそっくりだから近づいてきたのよ。」
 「なるほどね。で、それをルディーに見られたと。」
 「うん___」
 ソアラはため息をついた。弟だと言ったとして、あの情景の誤解を解けるのかは甚だ疑問だ。
 「俺は経験ないがな、子供は親のそういうのを見るのはショックだと思うぜ。」
 「でしょうね。まして相手は知らない男だもの。」
 ソアラのため息が一層深くなる。
 「でも言ってやるしかないだろ。それだけでもあいつの心を軽くできるはずだ。変に悩ませることはないさ。おまえがしっかりしてれば大丈夫だよ。」
 「そう___ね。」
 「なんなら___」
 「いいわ、あたしだけで言う。あなたはもし後であの子が何か相談してきたら、そのときに聞いてあげて。」
 「わかった。」
 そう言うなり、百鬼は温泉に飛び込んだ。豪快に飛沫を跳ね上げ、ソアラの目を細めさせた。
 「ちょっと〜。」
 「おまえも入れよ。もう一度しっかり浸かったら、そろそろ本当の目的地に行こうぜ。」
 そう、二人は決して慰安旅行にきたわけではない。温泉はあくまで「身を清める」ためのもの。行く先はここから遠く離れたところにある山の上、長い石段を登った先にあるのだ。

 弁天堂。
 ごつごつした起伏が激しい岩山の狭間にポツリと建つ小さなお堂。古く粗末な木造のお堂を前に、ソアラと百鬼は手を繋いで立っていた。
 「ここか。」
 「そうだと思う。あたしも来たのは初めてだから。」
 ソアラは髪を解いていた。百鬼もバンダナを外していた。霊元あらかたな仏閣を前に、二人は余計な飾りを解いて臨んでいた。
 「行こう。」
 「ええ。」
 堂の戸を開け、中に入るとヒンヤリした空気の中に香の薫りが漂っていた。それは心を鎮め、すべてを穏やかにしてくれる優しい薫りだった。
 そして___
 ソアラは板の間に正座していた。奥では百鬼が香の煙を前に背を正していた。やがて彼は戻り、ソアラの前に正座する。その手には香の染みた木筒を持っていた。それを一つ、ソアラの右手に。
 「やり方は?」
 「大丈夫だ、書いてあった。」
 「凄いね。」
 「ソードルセイドの昔の文字に似てるからな、こっちに来てからほぼ問題なく覚えられたよ。」
 そう言って百鬼は白い歯を見せて笑う。彼らしい快活な笑顔。これに元気づけられて、今の自分がここにいる。
 「でも不思議___何で急に?」
 ここは弁天堂。ソアラの両親、水虎と寧々が契りを結んだ場所。互いの左腕に香の染みた木筒を押し当て、契りの証を刻む儀式の場所。誰もいない小さなお堂に、ただ香だけが焚き続けられている不思議な場所。
 ここに行こうと言い出したのは、二人の思い出を知るソアラではなく、それを話に聞いた百鬼のほうだった。
 「決めたからだ。」
 「なにを?」
 「一生をおまえに捧げることを。」
 「___!」
 ソアラは言葉を失った。
 「フュミレイにもそれを伝えるために来てもらった。黒閃に殺されかけて、俺が死の淵で悟ったのがそれだった。」
 ただ百鬼を見つめることしかできなかった。
 「俺の命をおまえにやる。俺はこの先どんな過酷な戦いが待っていようと、おまえとともに挑み続ける。その証として、これがしたかった。」
 そう言って、百鬼はソアラの左の二の腕の内側を自らの左手で取る。
 「さ、おまえも。」
 「___」
 ソアラは無言だった。声を出そうとすれば涙が零れてしまいそうだった。そして彼女も百鬼と同じように、彼の左の二の腕の内を左手で取る。互いの左手を絆に、右手の木筒を二の腕の外側へ。
 「口上がある。続けていえるか?」
 「___ん。大丈夫___」
 少し涙声のソアラに笑みを送り、百鬼はゆっくりと口を開いた。

 『我ら今ここに契りを交わす。百鬼はソアラを生涯の伴侶に。ソアラは百鬼を生涯の伴侶に。互いの過去を尊び、今を喜び、未来を育む。永劫尽きることのない絆の元に添い遂げよう。我らは今ここに契りを交わす。』 

 木筒を互いの左の二の腕の付け根、肩の下あたりに押し当てる。熱いはずの香だが痛みはなく、ゆっくりとそれを離せば二人の腕に全く同じ文様が刻まれていた。
 「八の字か___横を向いてるな。」
 「捻れた輪___?」
 円の中に、八の字が横を向いた紋様が描かれていた。幾何学的な模様だ。
 「無限___」
 紋様の意味は香の近くに置かれていた木板に刻まれていた。横向きの八の字は無数にある紋様の一番最後に書かれていた。

 『契り結びし二人の元には無限の意志が宿る。無限はあらゆる有限を超越しうる。無限なる楽園も、無限なる地獄も、二人の意志の赴くままに。』

 無限。それは二人にとってはこれ以上ない絆の象徴だった。
 「俺たちが手を取り続ければアヌビスにだって勝てる。」
 「___」
 「返事は?」
 「___うん、ありがとう。」
 ソアラは百鬼の左肩に寄り掛かるようにして身を預けた。溢れ出た涙は、無限の紋様に溶けるように消えていった。




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