3 命を捨てる覚悟

 「誤解しないでください。私たちの父は決して女たらしの助平ではありませんよ。」
 「誰もそんなこと言ってないでしょ。」
 「もしそう思われたら困ると言うことです。」
 少し歩いたところに小さな社を見つけたソアラと玄道は、その軒先に並んで座っていた。改めて、互いの立場を理解した上で、もう一度言葉を交わす。
 「あたしたちは異母兄弟ということね。」
 「そうです。私は鋼城を訪れ、父と寧々様の肖像を見ました。髪や瞳の色は違いますが、由羅さんは寧々様にそっくりです。それにその色は父の色でもありますし。」
 「姉さんでいいんじゃない?」
 「___恋人の目線で見られなくなりそうなのでやめます。」
 「な、なによそれ。」
 彼なりのジョークなのだろうが、真に受けたソアラはドギマギした様子で引きつった笑みを浮かべる。
 「いつかこうしてお話ししたいと思っていました。できれば舞台の上でなんて感動的で良いかとも思いましたが。」
 「あたしが負けちゃったしね。」
 「ですから慌てたんです。お話しする機会が無くなってしまうかと思って。」
 可愛らしいところがある。玄道と違って、ソアラは彼を素敵な男性と言うより弟として見たいと思っていた。そうすると玄道の仕草一つ一つに違った愛情がわいてくる。
 「最初は半信半疑だったんですよ。でもあなたも私を気にかけていると感じてからは、確信が持てました。」
 「あなたが舞台、あたしが客席で目があったあのときね。」
 「そして今日実際にお会いして___本当に感激しました。」
 「だからって結婚してくださいはないわ。」
 「ははは。もし受け入れてくださったら、このまま黙って夫婦でいるのも悪くないなんて思っちゃいましたよ。」
 「それはもう変態よ。」
 そんなことを言って笑いあう二人。何を言い合っても不愉快にならない感覚はとても素敵だった。
 「あなたのお母さんってどんな人?」
 「___情熱的な人です。」
 「父さんとはどういう関係?」
 「赤の他人ですね。」
 「?」
 玄道は長い瞬きをし、虚空を見上げてから続けた。
 「二人の出会いは戦いの後でした。寧々様を失い覇道へと歩み出した父は、最初のうちは少ない戦力での過酷な戦いを強いられていました。父は傷ついた配下の者たちを連れ、母の住む集落を訪れました。」
 ___
 「頼む、怪我人だけで良いんだ。受け入れてはくれないか?」
 父は族長に願い出ました。しかし小さな集落です、まして妖魔とはいえ強い一族ではありません。戦いに巻き込まれることを恐れた族長は受け入れを拒否しました。
 「敵の勢力に売られるのは御免だ。受け入れてもらえないのなら、この場でおまえたちを滅ぼさねばならない。」
 それは脅しではありません。過酷な黄泉を生き抜くためには、それくらいの厳しさが必要だったのです。ですが族長は屈しませんでした。
 「そうしたければそうなさい。我々は幸運に恵まれねば生きていけぬほどの弱小な一族。ここであなたに滅ぼされようと、それはいずれ来る滅びの時がいくらか早まったに過ぎません。我々は誰にも荷担しません。あなた方を売ることもしません。そのような浅ましい真似をしたとて、我々には自らの意志で命を紡ぐことさえできないのですから。」
 その答えに水虎は笑いました。臆することを知らない族長の気骨に、彼は感銘を受けたのです。
 「おまえたちは弱い妖魔かもしれない。しかしおまえは実に強い女だ。」
 女___そうです、この族長が私の母、御影(みかげ)です。
 水虎は村を離れました。できるだけこの村に被害の及ばないように、追っ手があるやもしれない方角から盾になるようにして野営をとりました。そしてその夜のこと、野営を族長が訪れました。
 「これは私個人の行動です。」
 彼女は傷の手当てに有用な薬草と、滋養強壮に役立つ食材を持ってきました。感激した水虎は言いました。
 「褒美を取らせたい。何でも望むものを言ってみろ。」
 そして族長は答えました。
 「あなたの命の種を。」
 「なぬ?」
 「私を孕ませてくださいませ。」
 弱き一族に強き血を。それが族長たる御影の願いでした。
 ___
 「父さんは受け入れたのね。」
 「お恥ずかしい話です。私はあなたの弟ではありますが、そこに愛があったわけではありません。」
 自嘲気味に話す玄道に、ソアラは首を横に振った。
 「そんなことない。御影さんは族長という立場を超えて父さんに思いを抱き、父さんも御影さんのことが好きになったのよ。」
 「慰めてくれるのですか?」
 「そうじゃないわ。二人は今の私たちみたいなものよ。出会ったその瞬間に、この人なら何もかも許せてしまう、そう言う感覚になったのよ。あたしがあなたに結婚を申し込まれて受け入れても良いかなと思ってしまったように、父さんも御影さんからの申し出に、彼女のためなら何でもできるってそう思ったのよ。」
 「そうでしょうか___」
 「絶対そう。聞いた話だけど、父さんは生涯あたしの母さんがただ一人の妻だと公言していたそうだから、そんな彼を突き動かしたのは御影さんとの共感に他ならないはずよ。」
 ソアラは少しムキになって答えていた。熱くなったが故に玄道の手を取ってさえもいた。そんな彼女の情熱に、玄道も微笑みを返す。
 「ありがとう。そう言ってもらえると、私も心の蟠りが消えていくようです。」
 「何を蟠る必要があるの?」
 「私が水虎の子だと言うことに___です。」
 「あなたは水虎の子よ。そして私の弟よ。姉の私が言うんだから間違いないに決まってるじゃない!」
 握った玄道の手を振り回して熱弁を振るうソアラ。
 「あ、ごめん。」
 彼の微笑みにようやく落ち着きを取り戻したところで、自分が思っていた以上に強く彼の手を握っていたと知る。慌てて放したところで、すかさず玄道が彼女の手を握りなおした。
 「本当に___こうしてあなたと会えてよかった。」
 二人の視線が交錯する。玄道は穏やかな眼差しをまっすぐにソアラに向け、ソアラは少し恥ずかしさを抱きながら女性的な目で見つめ返した。
 「あたしだってそう。だって___ようやく肉親に触れることができたのよ?今まで味わったことのない、血の共感が抱ける人に。」
 そうとも。ポポトルで物心ついたときから、彼女には真の意味での共感を抱ける人がいなかった。親も兄弟も、いとこやはとこまで、血縁者は誰一人としていなかった。初めての血縁者は、自ら腹を痛めて産んだ子供たちだ。いま、異母であろうと血の繋がりを抱いた人物がそこにいる、それはソアラにとって並々ならぬ感動だった。
 やがて、二人はまた抱きしめあっていた。
 口付けを交わしていた。
 ソアラは玄道の穏やかなぬくもりに父水虎を思い、玄道はソアラの香しい肉感に母御影を思う。
 だがそこまでだ。
 それ以上の一線を越えることはあってはならない。
 確かに二人は肉親ではあるが、どんな家族であれ、やがてそれぞれがそれぞれの道を進むのだ。
 肉親は固い絆を持ちながらもやがて別れ、そして新たな伴侶と共に歩き、血を紡いでいくのだ。
 ソアラはすでにその歩みを進めているのだ。

 ザッ___

 玉砂利が踏みしめられた音に、ソアラは玄道と唇をあわせながらうっすらと目を開き、視線を傾けた。そして硬直した。
 「___!」
 なぜこんなところに!?いや、そんなことではない。自分が箍(たが)を守り続ければ、彼女がそこに立っていたとしてもこれほど愕然とはしなかったはずだ。
 「___ぁ___」
 ルディーは震えていた。見たこともない男に愛おしそうに腕を絡め、口付けする母の姿に。ませているからこそ、いろいろなことは知っている。でもその衝撃に耐えられるほど、彼女は成熟していない。二人は裸ではないが、それでも母が別の男に求愛している姿は十にも満たない少女には耐え難いものだった。
 ダッ___!
 首を振りながら後ずさり、ソアラがこちらを振り向いた瞬間、ルディーは逃げた。
 「ルディー!」
 制止する声も耳に入らない。とにかく彼女は走った。
 出かけたのは母を探しに行くためだった。闘技場から戻ってくるだろう母を見つけ出して、リュカには内緒でこっそり父に送る女の子らしいプレゼントをおねだりするつもりだった。
 それが___それが___!
 声を上げて泣きながら、ルディーは走った。
 自分でも何をどうしたらいいのかわからない。とにかく泣いて泣いて、走りまくるしかなかった。
 ___
 「あたしは___なんてことを___!」
 社の前に崩れ落ち、ソアラは玉砂利を拳で叩いた。
 「今のは___」
 触れることはできない。玄道は神妙な声だけをソアラの背にかけた。
 「あたしの娘___」
 「___」
 玄道が状況を察するにはその一言で十分だった
 「申し訳ありません。私が不用意なばかりに。」
 「何言ってるの___これはあたしのせいよ。だってあなたは私が結婚していることさえ知らなかったじゃない。私が自重すればすんだことなのよ___」
 重たげに、ソアラが立ち上がる。
 「ごめんね、もう行くわ。」
 「本当にすみません。」
 「謝らないで。そうだ、ちゃんと誤解を解いたらあなたのことを紹介したいから、お互いの居場所を交換しましょう。」
 誤解___で済むかどうか。ソアラは自分の言葉に義憤を抱きながら、玄道と別れた。暖かだった出会いから一転し、今の彼女の背は凍り付くような寒気に包まれていた。

 扉に手を伸ばしかけ、フュミレイは一度思いとどまった。この向こうに彼がいる、そう思うとさらに一歩踏み出すのには勇気がいることだった。
 「___ふぅ。」
 こんなに緊張するのは久しぶりだ。ましてフローラにここに案内されるとき「二人きりにするから」と念を押されたものだから、余計に高ぶる。彼は何を思ってこんなシチュエーションを用意してくれたのだろう。柄にもなくいろいろ想像してしまう自分が初々しくもあり情けなくもある。
 「何やってんだおまえ?」
 「ぃっ!?」
 その思い人の声が不意に投げかけられ、フュミレイは肩をすくめて振り返った。
 「ニ、ニック!?いつからそこに!」
 「いつって?いま便所に行って戻ってきたところだよ。ようやく自分だけで行けるまで回復したんだぜ。いやぁなにしろ尿瓶ってのはありゃ最悪だ!寝小便しているみたいだし、やってもらうのがソアラだったらまだ良いが、フローラじゃあまりにもいたたまれなくてな。我慢しすぎて漏れそうになったこともある。」
 「そ、そんな話をするためにあたしを呼んだのか!?」
 カラカラと笑う百鬼に、フュミレイは苛立ちを露わにして問いかける。
 「んなわきゃない。まあさっさとあけて入ってくれよ。」
 「___わかってるよ!」
 「何怒ってるんだ?」
 あまりにいつも通りな百鬼といつもと様子の違うフュミレイ。いや、彼の態度に怒りを通り越して呆れつつあるから、やがて彼女もいつもの冷静さを取り戻すだろう。
 「まだ万全じゃないからな、俺はベッドで失礼するぜ。」
 「ああ、手を貸すよ。」
 「これくらいはどってことねえよ。」
 それなりに広い部屋、椅子はベッドの隣に一つ、それから部屋の外れのテーブルの周りにいくつか並ぶ。
 「遠くなんか座るなよ。ベッドの隣で頼むぜ。」
 「___」
 最近彼に何かと見透かされている。どうも百鬼を前にするといつもの調子が出ない自分にフュミレイはやきもきする思いだった。
 「ありがとな。」
 腰掛けたフュミレイに笑みを送り、百鬼は言った。
 「あ、そこに座ってくれたことじゃないぜ、俺を治療してくれたこと。」
 「___ああ。」
 やはり隠してはくれなかったらしい。自分もあんなことを言っていながら、少なくともソアラが黙っているはずもないとは思っていたのだが。
 「どうしても礼が言いたかった。」
 「そんなこと___私は傷を癒す力があるんだ、知人が傷ついていればそうするのは当然だろう?」
 「それだけじゃないだろ?ルディーを助けて、黒閃も倒したって聞いたぜ。」
 「あの場であの子を止められるのはあたしだけだった、あたしの次の相手がたまたま黒閃だった。」
 つっけんどんな言い方にらしさを感じた百鬼は、なんだかおかしくなって笑いを堪えた。
 「変わらねえなぁ、昔から素直じゃないんだよ。」
 「___礼が言いたかっただけならその気持ちだけで十分だ。」
 「待ちなって。」
 立ち上がろうとしたフュミレイを百鬼は少し強い口調で止めた。
 「話したかったのはそれだけじゃねえよ。」
 百鬼の表情が一変した。先程までの明るさが虚勢に思えるほど、彼は真剣な目でフュミレイを見つめていた。フュミレイは少しだけ息を飲み、半ば浮き上がった腰を元に戻した。
 「俺の中で思い出深い日ってのがある。男にとっちゃあ、いやこれは女だってそうだろうが、好きな人と二人の思い出を刻んだ日ってのは実に大きいもんだ。」
 「___」
 「俺の中で印象的な日、一つはゴルガでソアラが殺された日。」
 「___」
 「もう一つは、死んだと思ったソアラが生きていた日。」
 「___」
 「それから、カルラーンであいつと初めて抱き合った日。」
 フュミレイは表情を変えない。いや、むしろ彼の言葉を聞くほどに普段の冷淡を取り戻していく。もっとも冷めていくのもやむないような言葉ではあった。
 「でもな、これと同じぐらい思い出深い日がある。」
 百鬼は続けた。フュミレイの目は窓の向こうを見つめ、彼の言葉だけに耳を貸していた。
 「おまえと一緒にいられた全ての日だ。」
 フュミレイは微動だにしなかった。戯言と聞き流しているかのように、彼女には一切の動揺も見られなかった。
 「俺たちは幼なじみだ。でも六つの時に離ればなれになってから、次に会った時はお互いもう大人になっていた。そして昔みたいに頻繁に会うこともできなくなっていた。俺の側にはソアラもいた。」
 グッ___
 百鬼は手の届く場所に座るフュミレイの腿に手を乗せる。フュミレイは拒むどころか身じろぎ一つしなかった。
 「でもな、俺にとっておまえだけは特別だった。どんなに他に好きな奴ができても、おまえが俺を受け入れてくれれば、そしておまえが俺を求めてくれれば、俺は全てを擲っておまえのところに走ったと思う。」
 方便だ。そう言いたい気持ちを抑え、フュミレイは無表情に耳だけを傾ける。
 「ただ、ソアラのことも大好きだ。それこそどっちなんて比べることもできないくらい、俺の中でおまえとソアラは大きな存在なんだ。でもそれじゃ駄目なんだよ。曖昧な気持ちが歪みを生むってことにようやく気付いた。」
 「___よく。」
 「ん?」
 「よく喋るようになったな。昔のおまえからは想像も付かないくらい、言葉が次々と出てくる。」
 話を逸らすような言葉だった。少し居づらくなって、思ったことをそのまま言ってしまっただけ。平静を装ってはいても、動揺しているのかもしれない。彼はそれを感じるために、腿に触れているのかもしれない。
 「そうだな、自分でもそう思ってた。よ〜しならはっきりと言うよ。ただその前に手を握ってもいいか?」
 「聞く必要なんて無い___」
 そう言うなり、フュミレイは自ら百鬼の手を取った。武骨でそれでも優しい手は、少し強くフュミレイの手を握った。ほんの少しだけ指が痛んだが、それも彼らしさか。
 「決めたんだ。礼儀として、おまえに先に伝えたかった。」
 暖かい掌から彼の情熱が伝わってくるかのよう。フュミレイの心は自然と波一つ無い平静に変わっていた。覚悟を決めた瞬間から気を静められる、そこに彼女の強さが滲み出ていた。
 肌に触れることで百鬼もそれを感じたかどうか。ともかく彼は、憚り無くはっきりと言いきった。
 「俺は一生をソアラに捧げる。」
 それが伝えたかった全てだ。百鬼はそれ以上語らず、フュミレイもまた口を噤んだ。互いの手の温もりだけで心を通わせていた。百鬼が続けたのは、一分も沈黙が続いてからのことだった。
 「ソアラはこれから一層過酷な戦いの舞台に立つかもしれない。そうなったとき、あいつの全てを支えられるのは俺だけだ。そして俺はあいつを誰よりも愛している。だから俺はこの人生をソアラのために捧げたい。」
 「良いことだ。」
 フュミレイが答えた。強がりではない、いつになく暖かな笑みを浮かべ、百鬼の顔をしっかりと見つめ、そう言った。すると百鬼の顔にも真剣さの中に明るさが戻ってくる。
 「___言ってみるもんだ。」
 「ん?」
 「デリカシーがないって言われそうだけど、おまえに言ったらすごくすっきりした。ちょっと予想外だ。」
 フュミレイは口元を歪め、微笑みが苦笑いに変わる。
 「___デリカシーがないな。」
 「やっぱり?」
 「ま、おまえらしくっていい。実際あたしもすっきりしたしな。」
 「寂しくないか?」
 「そういうことを聞くから野暮だというんだ。」
 寂しくないわけがない。彼だって少しはその気持ちがあるからそう聞いたのだろうに、いわば手切れを宣告された女が寂しくないわけがないだろう。ただ自分としても望んでいた道だから、悔しさは微塵もない。嫉妬なんてあるはずもない。
 「でも本当にすっきりしたよ。おまえの視線も痛かったが、この前ソアラと会ってみて、あいつがあたしたち三人の関係に無用な負い目を感じているようだったから、はっきり言ってやるのは大事なことだ。」
 その言葉に百鬼は驚いた顔をする。ソアラのその感情は自分くらいしか察していないものと思っていた。
 「気付いてたのか?あいつも意外に素直なんだな。」
 「分かるよ、あたしの前でしんみりしすぎなんだ。」
 ちなみにサザビーには中庸界で再会して早々に看破された。ソアラはこの話題になるとどうも正直なるらしい。もちろん百鬼には知るよしもないが。
 「ところで、元恋人の肩書きくらいは名乗らせてもらえるのか?」
 冗談のつもりで言ったが、百鬼は意外にも真剣に首を傾げていた。
 「そうだなぁ、おまえがそうしたいならいいぜ。」
 「冗談だ。」
 「あ?そ、そうかっ。」
 柄にもなく照れている。だが真剣に考えてくれただけでもフュミレイは嬉しかった。ソアラには道を譲った、それでも彼の中で自分は特別な存在でいられるらしいことが素直に幸せだった。
 「とにかくそういうことだ。あとはおまえが俺の言葉を受け入れてくれるかどうか、それを聞かせてくれ。」
 「___」
 答えを求めるか?普通___
 フュミレイは辟易とする思いだったが、彼は真剣そのものだ。そして射るような一直線の眼差しに当てられると、自分は少なからず正常な思考を失う。不意に、もう彼と肌を合わせることはないという感慨が押し寄せ、フィツマナックでの夜が頭を過ぎってしまった。
 自分はこんなにふしだらな女だったろうか?知らずと頬を上気させていたフュミレイに、百鬼もまたドキリとさせられる。
 「なんて顔してんだ___いきなり俺を揺さぶる気か?」
 息苦しさを感じ、百鬼は言った。そうすることで彼女が冷めてくれればと思った。
 「そんなつもりじゃない___でもちょっと___切なくなっただけだ。」
 しかし当ては外れた。フュミレイは急に思い詰めた顔になり、彼の手を両手で握りしめた。
 「アレックスを殺し、あたしが愛を抱ける男はおまえだけになっていた。でも心のどこかで、おまえさえもアレックスのように殺してしまうのではないかという恐怖があった。現にあたしはソアラを手にかけ、おまえの幸せを易々と奪ってしまった。なのにあたしはおまえのことが好きなんだ。こんな矛盾あるか?自分でもあまりに無茶苦茶だと思う。しかもおまえがあたしを嫌ってくれなかったことが本当に辛かった。フィツマナックでおまえがあたしを求めてくれたあの時、あたしは嬉しくもあり辛くもあった。でもあの感触は私にとって何よりの救いだった___それは確かだ。」
 いつもの淡々とした口調ではなかった。フュミレイの言葉には一つ一つ、まるで百鬼の血潮が乗り移ったかのように感情が込められていた。それは彼女が積年の思いをいつになく真正直に吐露しているからに他ならなかった。
 「でも、あたしはもう十分だ。おまえにはこれ以上ないほどに救われた。これからは全身全霊をソアラのために傾けてやってくれ。」
 フュミレイは笑っていた。しかしランプの光に反射して、目元がきらりと光って見えた。それは彼女の意志に反して沸き上がり、それでも意地で瞼の向こうに押し留められていた。
 「一方的に言われるだけでは悔しいからな。あたしも言ってやったぞ。」
 そう言ってクスクスと笑う。気丈だ。でも彼女が女としても打たれ強いかどうか、それは定かではない。一人になってから泣くのではないか?そんな姿が目に浮かんだ百鬼は、自然とシーツをはね除けていた。そうなってはいけないと思っていたはずの彼が、唐突に突き動かされた。
 それは突然訪れるもので、かくも衝動的なものなのだ。
 「___!」
 フュミレイは驚いていた。まさかここで唇を奪われるとは思わなかった。
 合意など無く、百鬼はフュミレイの唇を奪っていた。
 身体の痛みも忘れたように、彼は彼女の身体をベッドの上に引きずり込むようにして、強引に唇を重ねた。
 ようやく離れたとき、シーツに半身を横たえていたのはフュミレイの方だった。
 そして彼女は悲しみに暮れるような、切なく苦々しい顔をしていた。
 「無茶苦茶だ___」
 絞り出すように言った。
 「言ってることとやってることが支離滅裂だ___」
 涙がこぼれた。
 「そうだな___」
 「どいてくれ___」
 しかし百鬼はどかない。ベッドの上でフュミレイの逃げ道を塞ぐように、彼女の上にいた。
 彼女はこうなることを望んでいない。しかし可能性は考えていた。だから扉を開けるの一つにも勇気が必要だったんだ。では百鬼の目に映った彼女はなぜ求めているように見えたのか?それは半分以上は百鬼の思いこみであり、正気の奥底に隠れた欲望の一端でもあった。
 「俺はこの戦いで死ぬと思う。」
 「___?」
 「俺が何であんなことを言う気になったかって、それは俺が近い将来死ぬかもしれないと思ったからだ。今までは死の覚悟を口にはできても、楽天的に見ていた。でもこれからはそうはいかない。」
 黒閃との戦いで死の淵を彷徨ったことが、彼にある種の悟りを与えた。Gのことを知ったからこそ彼は、いやそれは彼に限らないことかもしれないが、「命を捨てる覚悟」を迫られていた。「死ぬかもしれない」というのと、「生きられる可能性が僅かしかない」のは違う。
 ソアラのために人生を捧げるとは、命を捨てる覚悟を意味していた。彼女の進む道が過酷であるからこそ、それで自らの命を失っても構わないと言う意思表示だった。
 「これは予感だ。でも多分当たる。今の俺たちではアヌビスがGに近づくのを止めることはできない。俺たちはきっと、もっと過酷なステージへと進むことになる。」
 その予感に根拠を求められても答えることはできない。でも論理立てて否定することもできない。それは自分たちの切り札であるはずのレイノラが、アヌビスの動きを今もなお黙認せざるを得ない状況が象徴している。
 「そうなれば、きっともう二度とおまえと会うことはない。それこそ、元恋人なんて肩書きも無駄になる。俺たちは思い出の中だけで生き続ける間柄になる。」
 フュミレイは黙っていた。真上から、息の届く距離で真っ直ぐ見つめてくる彼を直視できず、横を向いて彼の手首のあたりを見ていた。
 「俺だってこんなつもりはなかった。ソアラに一生を捧げるなんて言っておいてこれじゃあ、確かにあまりに無茶苦茶だと思う。でもな___なんか駄目だった。これが最後かもと思ったら我慢できなかった。おまえが可愛いから。」
 「___ふざけたことを___」
 「こっち向きな。」
 フュミレイがゆっくりと顔を上げる。
 「嫌ならやめる。」
 「___卑怯。」
 「そうだな。」
 再び、唇が重なった。
 鍵穴の奥に映る鳶色の瞳など、気付くはずもなかった。




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