3 赤い雨
いつかはこんな日が来るかもしれないと思っていた。ただそれにしたってもう少し大人になってからだと思っていた。地界への移動や黄泉の時間の流れでもう正確な年も数えられない。でも、あの子たちの自己申告ではもう九つになったらしい。
その子の一人、リュカが今舞台に上がっている。そして彼の前に立つのは___
「バルバロッサ___」
ソアラは深刻な顔で舞台を見つめる。先に待つバルバロッサの元に、意気揚々とリュカが駆けていく。背にした剣が大きく見える子が、これから漆黒の剣士に挑もうとしている。
「心配か?」
「うん。」
「大丈夫、しっかり鍛えてくれるさ。」
彼のことは仲間だと思っている。だからこの戦いに何らかの危機感を抱くつもりはない。でもリュカが、私の子がこの先どんな道を歩んでいくのか、それを考えさせる相手ではある。
___
バルバロッサと初めて戦ったのはバドゥルでのことだ。四つの均整を守る私たちの前で、彼は大きな脅威となった。それが、棕櫚の働きで今では私たちと近い距離にいる。彼は頼りになる人。強くて、寡黙だけど優しさも持っている。
その人に今リュカが挑もうとしている。
私たちにとって過去の壁であり、今では頼りになる存在に、たった九つのリュカが。
私たちだって、初めて彼に挑んだのは二十歳の頃だった。
あの時、私のお腹の中で芽生え始めていたかもしれない子が、今こうして挑んでいる。
これは喜ぶべきことなのだろうか?
子供たちの成長を嬉しく思うべきなのだろうか?
そう、成長なんだ。
私たちの歩んできた戦いの道を、倍の速さで進んでいる、それも成長。
でも、それを私は喜べるの?
___
「どうしたんだ?」
「え?」
百鬼の声でソアラは顔を上げた。彼女はその時、自分がどれほど俯いていたのかを知った。一方で百鬼は真っ直ぐに舞台を見つめている。
「試合見ないのか?」
「ううん、見るよ。」
「何考えてるかはだいたい分かるよ。」
「凄いのね。」
「夫婦だからな。とくに子供のことはだいたい同じさ。」
「フフ、そうかもね。」
ソアラも舞台を見つめた。バルバロッサの漆黒の剣にリュカは果敢に挑んでいた。太刀筋は悪くない。でもバルバロッサはまだ身体の動きだけで剣をやり過ごしている。リュカの資質を計るように。
___
そう、バドゥルの戦いでも彼は品定めをするように、私たちの力を計っていた。ううん、あのころはまだあたしたちがそんなレベルじゃなかったかも。でも彼は感じていると思う。あのころの私たちと今のリュカの差を。
リュカの可能性を。
___
「俺は、あいつが剣を手に取ることを嫌だとは思わない。」
「え?」
また俯いていただろうか?いや、視線は舞台に留めていても、心はそこになかったのだろう。だから百鬼に問い返すような声を出した。
「リュカもルディーも、俺たちの背中を見て育っている。俺たちが戦うから、あいつらも戦うんだ。」
「それを喜べるの?」
「子供たちが望んだ道なら喜んでやるべきだ。」
「___」
「望まない道に進んで悔やむよりも、俺はその方がいいと思う。」
「あの子たちが血生臭い戦いの世界に生きることを望んでいるっていうの?」
「___その現実、恐怖を知ったら気が変わるかもな。その時は別の道を探すんだ。でも今はその血生臭い道を怖がらずに進んでいる。」
「知らないだけよ。」
「知ってるかもしれない。」
「?」
「天界であいつらと一緒に戦って、少しそう思った。あいつらは___凄く頑張っていた。本当に頑張らないといけないタイミングを知っているように思えた。それが戦いを怖がってない証拠だ。」
「そういうときに力を出せることが?」
「そう。そして、それを背中で教えたのは俺たちだと思っている。」
「___それくらいしか教えてないのかもしれない。あたしたち、親らしいことってしてあげられてないわ」
「親らしさって何だ?あいつらが俺たちの後を信じて付いてきてくれている。それでいいんじゃないか?」
「そうかしら___」
「正直少しガッカリしたぜ。」
「?___なにが?」
「あいつらにとって強いのはお母さんだ。お母さんはお父さんより強いみたいだぜ。」
「へぇ。ま、子供だからね。」
「時期に分かるか?」
「分かるんじゃない?お母さんはお父さんのおかげで強くいられるんだって。」
「あいつらも俺たちがいるから強くなれるんだ。」
「___そうね。」
「俺はあいつらが自分の道を選ぶときがくるまで、しっかり前を進んでいたい。」
「私たちが進む道を間違えないようにしないといけない___」
「そうだ。」
「進むしかないのね。」
「ああ。」
リュカの奮闘に歓声が起こっている。それを受けて、リュカはさらに生き生きとバルバロッサに挑んでいる。ライもフローラも、親以上に熱烈な眼差しで彼を応援している。棕櫚も腐れ縁の友の名教師ぶりに笑みを浮かべている。
「正しい道を進むこと。それが親の勤めさ。」
「そういう目で見ると、あの子たちの成長をもっと素直に受け入れられるかもしれないわ。」
「たまには褒めてやりな。心配するより、それが何よりのご褒美さ。」
ソアラと百鬼の会話は二人だけのものだった。歓声の中で、二人は静かな声で語り合っていた。会話を終えて意識を舞台に集中したその時、バルバロッサが黒い剣に宿した宝石から赤い輝きを発し、リュカの身体は場外まで吹っ飛ばされていた。
「リュカ___!」
ソアラは息を飲む。先ほどから語らいながらいつの間にか握っていた互いの手。ソアラはギュッと力を込めて百鬼の手を握った。
「心配するんじゃない。応援してやろうぜ。」
「リュカ___」
不安の渦の向こうに輝きが見える。身を案ずるよりも、励ましてやること、褒めてやること、それが子供たちを育てるんだ。
「頑張って!リュカ!」
今まで心の中で思っていても、それ以上の不安に押しつぶされた言葉。それを声に出すことができたとき、ソアラは深い感銘を覚えた。
母の願いが通じたかのように、リュカは場外で立ち上がった。その姿にソアラは涙を浮かべる。それは悲しみではなく、感激の涙だった。我が子の成長をひしと感じ、胸中に押し寄せた波だった。
「頑張って!」
リュカは立った。しかしそれ以上戦うことはできなかった。そのまま二十数える声がして、彼はヘナヘナと崩れ落ちた。観客が一回戦の時には無かった暖かい拍手を送る。バルバロッサが彼に近づいて何か声を掛けている。それからリュカは、少しふらつきながらも自分の足で去っていく。
入場時よりも、その背中は大きく見えた。
「あいつらは毎日成長するんだ。俺たちも少しずつ変わらないといけない。」
百鬼の言葉にソアラはただ頷くだけだった。
「さて、ルディーの番まで見てたら自分の出番に間に合わないからな。俺はそろそろ行くよ。」
「___待って。あたしも一緒に行く。」
百鬼が立ち上がると、ソアラも涙を拭い落として立った。
「リュカを迎えに?」
「ううん、少し話してみたいの、彼と。」
次の試合までは時間がある。バルバロッサのことだから、落ち着いた控え室に留まる可能性もあったが、彼はいつも通りの静けさで廊下へと出てきた。
「バルバロッサ。」
ソアラの呼ぶ声に、彼は立ち止まった。珍しい取り合わせではある。地界を旅していたころでさえ、二人だけの会話なんて経験がないかもしれない。
「ソアラか。」
「そう呼んでくれるのね、嬉しいわ。」
そんな言い回しを彼は嫌う。そもそも会話を好まない男だ。ソアラのようなタイプは決して得意じゃないはず。それなのに___
「おまえの子は強くなる。」
「えっ___」
先に話したのは彼だった。
「俺は剣を折る気でいた。武器を頼りに戦えば、余分な力が剣の負担となり些細なきっかけで折れる。しかしあいつの剣は折れなかった。それは、あいつが戦いに必要な力の使い方を知っているからだ。」
「!」
ソアラは息を飲んだ。百鬼が天界で実感したのと同じようなことを、おそらくバルバロッサも感じたのだろう。
一言で言うならば、リュカとルディーが持つ天性のセンスを。
「血は争えないものだ。」
「___そうね。」
「良い楽しみを貰った、おまえの子を鍛えろと言うなら拒否はしない。それが旅路の中であってもな。」
そう言い残し、バルバロッサはソアラに背を向けて立ち去ろうとする。あまりに意外な言葉にしばらく呆然としていたソアラだったが、不意に笑顔になる。
「ありがとうバルバロッサ、頼りにしてる!」
彼は口に出しはしないが、鴉洛が死に鵺が平穏を得た今、少なからず虚無を感じていたのだろう。だから彼さえも驚かせる才能との出会いに、何かを感じたのかもしれない。
再び寡黙な姿を取り戻し、バルバロッサは去っていく。
「あ!お母さん!」
するとソアラの後ろで弾けるような声が響いた。
「リュカ。」
振り返ると、そこではリュカが少し申し訳なさそうな顔で立っていた。赤点の答案を隠し持つ子と同じように、リュカはモジモジしてすぐにソアラのそばに駆けてこようとはしなかった。
「どうしたの?」
「___負けちゃった。」
ばつの悪そうな我が子に、ソアラは優しく微笑みかける。
「よく頑張ったよ。リュカが願えばきっともっと強くなれる。」
「本当?」
「うん、いつかバルバロッサに勝つことだってできるかも。」
「へへっ!」
「本当に強くなったわ。お母さんね___ちょっと嬉しくって泣いちゃった。」
「え〜!?」
微笑みながらソアラはリュカを抱きしめる。リュカもとびきりの笑顔になって、母の温もりに心を溶かしていく。
「僕もっと強くなって、お母さんと一緒にアヌビスを倒すんだ!」
彼の口からアヌビスの名を聞くと、ソアラの顔に一瞬の翳りが走る。
「___そうね。」
だがソアラは不安を振り払い、今までにない言葉で答えた。
「そうなるといいわね。」
小さなことかもしれない、でもその一言がリュカを何よりも勇気づけるのだ。
「うん!」
リュカの返事はいつにも増して快活だった。
「あ〜悔しい!」
リュカ以上に悔しさを全開にして戻ってきたのはルディーだった。
___
「お子さまを虐める悪趣味はないの。降参するなら今のうちよ。」
「あたしをなめたら痛い目見るよ、おばさん。」
___
そんなやり取りで一丁前にクレーヌを挑発したルディー。得意の呪文で奮闘はしたが、クレーヌは巧みに接近戦に持ち込み、隙のない攻撃で結果的には圧倒した。
「相手のおばさんに感謝しないとね。結構優しくしてくれたと思うよ。」
「う〜。」
ルディーは迎えに来たソアラに肩を叩かれて唇を噛んだ。ちなみに百鬼は今頃舞台の上だ。
「でも良くやったよ。ルディーの呪文には本当に驚いた。」
「そう?」
苛立ちに強張っていたルディーだが、ソアラに褒められるとすぐに口元が緩み出す。
「うん、昔のお母さんよりずっと凄いよ。」
「ふふ〜ん。」
先程までの苦々しい顔はどこに行ったのか?ルディーは鼻の下を擦って誇らしげな笑みを浮かべる。
「調子に乗るとこもそっくり。」
「えへへ〜。」
そんな姿にソアラは自分の面影を重ねる。自分は___これほど明るい子ではなかったけど___今のルディーと良く似た生意気な子だったと思う。
「もっと頑張れる?」
「勿論!」
「なら、今度お母さんが直々に特訓してあげる。」
「本当!?」
その時のルディーの笑顔。最近生意気に磨きが掛かるばかりであまり可愛げがなかった彼女に、ソアラは久しぶりの純粋な笑顔を見た気がした。
「さ、お父さんの応援に行こっ。」
「うん!」
ルディーの手を引き、ソアラは安らかな笑顔で歩く。そんな横顔をふと見上げ、ルディーは思った言葉を正直に口にした。
「お母さんなんだかいつもより優しいね。」
「え?」
「ううん、たぶん今褒められたのが嬉しかったからそんな気がしただけ。お母さんはいつも優しいよ。」
ルディーは頭の良い子だ。ソアラは今の自分の心が最近ではいつにないほど落ち着いていると感じていた。ルディーもそれに気付いたのだろう。
落ち着きの原因は百鬼とフュミレイの再会にある。フュミレイへの思いがソアラと百鬼の間に距離を作っていた。それがこの旅のきっかけの一つにもなった。
その二人が再会した。それもソアラの意志で再会させた。彼を喜ばせたいという思いもあった、フュミレイの蟠りを解きたいという思いもあった、ただこの行動は彼女自身にとっては博打同然の危うさを秘めていた。
「もう帰ってこなくなるんじゃないかと思った。」
それは決して冗談ではない。ソアラは本気でその可能性を考えていた。愛に飢えていた訳じゃない、でも二人が対等に百鬼と向かい合うことができたあの時代を思えば、彼が自分よりフュミレイのことを愛おしく思っていたのは明らかだったから、ソアラはその負い目を引きずっていた。
だから、もしフュミレイと百鬼が愛を確かめ合う時間を得たなら、彼は自分から離れていくかもしれないと思っていた。
その時間が訪れ、彼はフュミレイとキスをした。
でも帰ってきた。そしてキスをしてくれた。愛していると言ってくれた。
それが何よりも嬉しく、何よりも幸せだった。
あの瞬間、二人の愛はより強いものとなり、そして二人の絆を愛おしく思う気持ちも増した。家族への愛が強まった。
(ルディーの言葉は決して偶然じゃない。実際、今のあたしは餓門との戦いのことなんて忘れてしまうほど、穏やかな光の中にいる。)
ソアラは充実していた。
だがここは黄泉。光に乏しく、常に暗雲の垂れ込める世界。一時の光など、すぐに永遠の闇に飲み込まれて消えてしまう世界。
「___」
客席は騒然としていた。いや、殺伐としていたとも言える。倒れている男に対しては弱者を見る目が向けられる。ざわめきはそのあり方が壮絶だったからでしかなく、人々の目は殺伐としていた。
「嘘___」
ルディーの手がソアラの掌からするりと落ちる。母も子も、ただ慄然として立ちつくすしかなかった。
だってそうだろう?彼が舞台に立ってからまだそれほどの時間はたっていないはずだ。
なのに何で___
舞台は赤い雨に染められているんだ!?
「___いやあああ!」
舞台の中央に百鬼が倒れていた。その胸から腹にかけて骨が見えるほど深く引き裂かれた姿で、百鬼は微動だにせず倒れていた。ガッザスに足を砕かれても自慢の根性で勝ってみせたあの豪傑が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちている。
「ソアラ!」
悲鳴を聞きつけ、人混みをかき分けるようにしてライが駆け寄ってきた。
「百鬼が___いまフローラが下に向かってる!君もすぐに___!」
「嘘___嘘よ___こんな___どうしてなの___なんでこんな___!」
完全に錯乱しているソアラ。ライは躊躇いもせず、その頬を軽く叩いた。焦点を失っていたソアラの瞳に生気が戻る。
「しっかりしなよ!君はお母さんだろ!」
そしてその言葉がソアラを我に返らせた。
「ルディー!?」
手を繋いでここまでやってきた娘の姿がない。
「あああああ!」
ルディーは客席から宙へと飛び出していた。その両手に魔力を灯し、悠然と舞台から降りようとする仇敵、黒閃に挑み掛かっていった。魔力を使って空を飛ぶ方法なんて知らないはずなのに、彼女は滑空して黒閃に迫っていた。
だがそれは驚異ではなく脅威だ。
「ルディー!」
いけない!ソアラの悲痛な叫び、ルディーの暴走、振り返った黒閃の殺意。それの符合するところは最悪の結末でしかない。敵は相手が誰だろうと厭わない、ただ殺しを楽しむ男なのだから。
血飛沫が舞う。赤い雨が再び舞台を濡らした。
「そこまでだ。」
しかし傷ついたのはルディーではなかった。彼女と黒閃の間に入った女。
「フュミレイ___」
ソアラが呟く。気が動転として、声だけが零れたようだった。黒閃の鋭利な右手を背に受け、片手でルディーの魔力を蹴散らし、フュミレイは敢然と立っていた。次が彼女の試合だったから、舞台への扉が開いていたのだ。
「___」
自らの魔力をいとも簡単に消し飛ばされたルディーは、舞台に尻餅を付いてフュミレイを見上げていた。彼女の背には深い傷が付き、赤い血で濡れていた。しかしそれは清らかな輝きと共にルディーの目前で見る見るうちに塞ぎ止められていく。
「弱い者の味方か?」
だがそんな魔力の凄まじさよりも、ルディーは彼女の放つ独特の輝かしさ、威圧感、神々しさに目を奪われた。いや、もちろん子供の彼女にそんな具体的な言葉はない。でも恐るべし黒閃を前にして、なおも凛とした姿勢を崩さない銀髪の女性に、子供ながらに魅入られた。
「貴様は吹雪だったな?次の試合、必ず勝て。そして俺の前にもう一度現れろ。その時、たっぷりと可愛がってやる。」
あからさまな殺気と淫気を漂わせ、黒閃が舞台を降りる。残忍な男の背をじっと睨み付けるフュミレイ。その背をルディーもまたじっと見つめていた。
「大丈夫?」
彼女が振り向いたとき、ルディーは息を飲む思いだった。
「う、うん。」
「あなたのお父様はとても強い人。こんなことで負けたりはしないよ。」
「え?知ってるの___」
「お母様も心配している。早く戻ってあげなさい。」
「___うん。」
「良い子。」
フュミレイに優しく諭され、ルディーは立ち上がる。先程の怒りは魔力と共に蹴散らされたが、代わりに目の前の魔女の姿が目に焼き付いて離れなくなった。
「ありがとう。」
再び背を向けて立ったフュミレイに、ルディーは言った。駆け寄った帰蝶に退場を促されるまで、ルディーは彼女のことを見つめ続けていた。
「リヴェルサ!」
フローラが最高級の治癒呪文を百鬼の体に叩き込む。しかし開いた傷口は思うように閉じていかない。ベッドを血に染めて、百鬼は物言わぬ状態のままだった。
「百鬼!」
闘技場の一角に設けられた治療室にソアラが駆け込んでくる。フローラが夥しい魔力を放っているのに、百鬼の体に生々しい赤い傷口が開いている状況が、ソアラをゾッとさせた。
「百鬼ぃっ!」
「落ち着いてソアラ!」
取り乱して百鬼に縋り付こうとするソアラをフローラが一喝する。
「お願い、落ち着いて。」
「___」
フローラの額には汗が滲んでいた。その緊迫した眼差しにソアラは踏みとどまり、息を飲む。年下の親友は医師の顔でそこにいた。
「あの子たちは?」
「外で棕櫚とライが引き留めてる___」
「そう。」
フローラは小さく頷き、一つ心を落ち着かせるように息を付いた。ただその間も魔力は絶やさない。
「よく聞いて。これから___これから彼の蘇生を試みるわ。」
「___蘇生___?」
もはや治癒ではないのだ。それはソアラに覚悟を求める言葉でもあった。
「百鬼の生命力はリヴェルサでも増幅できないレベルまで落ちている。でも、まだ命は尽きていない。」
「レイノラは!?彼女に頼めば___!」
「凜様はいないんだ。夕べ遅くに出かけられて___」
こんな時に___!
神の力を頼るのは愚かしいことかもしれない、しかしミキャックの言葉にソアラは苛立った。
「私たちで何とかするわ。これからミキャックが呪拳でリヴァイバを百鬼に打ち込む。内側から回復力を高めれば、彼はきっと蘇生するわ。」
「できなければ___」
可能性でしかない。ソアラは震えた声で問い返した。フローラは長い瞬きをして首を横に振る。
「言わせないで。私だってそんなこと考えたくない。」
そうとも、百鬼はフローラにとっても長い戦いを共にしてきた大切な仲間だ。医師として最悪の状況は想定していても、それを言葉にしたいとは思わなかった。
「一刻を争うわ。ミキャック、始めましょう。」
「ええ。」
「あたしに何かできることは?」
声の震えは一時的なものだった。ソアラは内心で恐怖に怯えながらも、持ち前の気丈さで凛々しい顔つきを取り戻していた。
「手を握っていてあげて。あなたが私に命を託してくれたときの彼みたいに。」
その言葉はソアラを奮い立たせた。ホルキンスで自らの生死を分けた瞬間、彼がずっと手を握っていてくれたのは知っている。その彼の熱い魂が私を死地から救った、ソアラはそう思っていた。
(百鬼___生きて!)
ベッドの横に跪き、ソアラは祈るようにして百鬼の手を握った。
すぐにミキャックが拳を輝かせた。
「大丈夫なのかな___」
「さあな。」
「まだかな___」
「まだだろ。」
リュカとルディーは棕櫚が人の少ない場所で落ち着かせている。一方、ライとサザビーはいやに静かな治療室の前で時を数えていた。
「それにしてもあの黒閃って奴は許せないよ!だって___何の関係もない審判の子を狙って!百鬼はその盾になったんだよ!?」
「それが狙いだったんだろ。百鬼は一回戦でも後ろを気にしながら戦っていた節がある。うまく利用されたんだ。」
「そういう言い方って酷いよ!」
落ち着かないライと冷静さを失わないサザビー。確かソアラの手術の時も、二人はこうして時が過ぎるのを待っていた。そのとき遅れてやってきたのは百鬼。そして今もあのときと同じように遅れてきた人物がいた。
「すまない、彼はここか?」
「あぅぇ!?」
唐突すぎて、ライが素っ頓狂な声を上げる。二人の前に現れたのは、いつになく熱を帯びた様子のフュミレイだった。
「こういうときだけ戻ってくるんだな。」
「___憎んでもらってかまわないよ。」
フュミレイは構わずに治療室へと消えた。すぐにドアの隙間から、すさまじい輝きが溢れ出してきた。
「だいぶ落ち着いてきた___」
フローラは百鬼の脈をとり、呼吸の状態などを確かめてホッと一息つく。百鬼の傍らにはフュミレイが座っていた。先ほどまでの騒然とはうってかわって、治療室は穏やかな空気に包まれていた。
「ありがとうフュミレイ。こんな形で再会したのは驚きだけど、あなたがいなければきっと___」
フローラは額に滲んだ汗を拭い、フュミレイに言葉をかける。しかし彼女は首を横に振って答えた。
「フローラ、彼を治療したのは君だ。私はここにはいなかった。」
その言葉にフローラは彼女の意図するところを感じる。だがそれは狡いとも思った。
「なぜ?どうしてそんなに私たちのことを避けるの?」
ソアラと百鬼からある程度のことは聞いている。彼らほど深いしがらみがあるわけではないフローラは、思い切って尋ねた。
「なぜだろうな___最近は自分でもよくわからなくなってきた。」
フュミレイは遠い目をして虚空を見る。彼女らしからぬ曖昧な答えに、フローラは沈黙した。
「関わりたくないと思っているのに、足は自然にここに向いていた。サザビーにも言われたよ、こういうときだけ戻ってくるって。」
小さな溜息をつき、フュミレイは宙を彷徨う自らの心を嫌悪する。
「怖いの?」
「かもしれないな。こいつや___ソアラと一緒にいるのが。」
フュミレイの笑みはフローラにはとても寂しげに映った。彼女の母性を刺激するほどの虚しさが蔓延っていた。
「う___」
フローラが何かを言いかけたとき、百鬼が呻く。二人は押し黙り、目を閉じたままいくらか眉間に力の籠もった彼に注目した。
「ソ___アラ___」
百鬼の手が布を掻く。手は震えながら、弱々しく持ち上がり宙を掴む。
「ソア___」
そして力尽きるように下がっていく。その儚さが命果てる瞬間を思わせるようで、フュミレイの心を掻き乱した。
スッ___
フュミレイは百鬼の手にそっと自らの手を近づける。すると誘われるようにして、百鬼はその手を握りしめた。痛いほど___強く、強く!
「ソアラ___」
「___大丈夫。ここにいるよ___」
意識は混濁としている。しかし百鬼は一際はっきりと愛する人の名を呼んだ。そのときのフュミレイは切なくも暖かな笑みを浮かべていた。
(フュミレイ___)
フローラはそんな透き通るように美しく、あまりにも優しい彼女の笑顔をみて、胸の詰まる思いだった。
(愛しているのね___百鬼のことを___)
ポポトル教会の壁に、傷ついた戦士を祝福する聖母の絵があった。フローラは懐かしい絵を見るような心地で、ただ穏やかに二人を見守っていた。
「お待たせ。」
ソアラが戻ってきたとき、部屋には百鬼とフローラ、ミキャックがいた。
「勝ち?」
「うん、まあ。百鬼の様子は?」
「さっき譫言であなたを呼んでたから、じきに意識も戻ると思うわ。」
百鬼の様態が落ち着いた頃、ソアラの出番がやってきた。彼女はずっと百鬼の側にいることを望んでいたが、皆の勧めもあってやむなく戦いの舞台へと向かった。心ここにあらずの中で彼女は勝利を収め、すぐにここへ舞い戻った。
「お父さん!」
ソアラを追い越すようにして、リュカとルディーが百鬼の側に駆け寄る。眠れる父を見るなり、二人は涙を堪えて顔をくしゃくしゃにする。
「泣かないの。お父さんは眠っているだけなんだから。」
ミキャックに頭を撫でられながら優しく諭されて、リュカは鼻を啜り、ルディーは唇を噛む。
「お父さんの手を握ってあげて。元気を分けてあげるんだ。」
「うん。」
百鬼の大きな手を小さな手が二人で握る。父の身体は暖かく、子供たちにもひとまずの安堵をもたらした。
「ごめんねミキャック。あなたの出番を不意にしてしまって___」
ソアラは百鬼が安静なのを確認すると、すぐにミキャックを気遣った。ミキャックは治療でカレンとの戦いに間に合わなかったのだ。
「何言ってんの、百鬼の命が掛かってたんだから。それにあたしはこの戦いに目的があるわけじゃないし。」
「でもあなたの相手は___」
ソアラはミキャックの過去を知っている。だから彼女の相手の姓がゼルセーナと聞いて、ピンと来ていた。それだけにせっかくの機会を逃させたことを申し訳なく思っていた。
「それは言わない。もういいんだ、あたしが意識してただけだから。」
ミキャックは気丈に笑う。カレンに罵倒され、サザビーに口付けされたことで、ミキャックはゼルセーナの血に対して冷静さを取り戻した。カレンが彼の娘だとして自分に何ができるというのか?あの罵倒を覆そうとしたところで、それが何の意味を成すのか?
悔やむ必要などない___はずだ。
「さ、あたしのことはいいから、今は彼を見てあげて。」
「うん、ありがとう。」
ソアラは百鬼の額に手を触れる。傷の影響だろう、血色を失って青ざめた顔とは裏腹に、熱が出ているようだった。だがその温かさは彼の命を実感させ、ソアラを僅かでも安心させる。その時の穏やかな笑みは、フローラに先程のフュミレイの姿を重ねさせた。
「そうだ、フュミレイは?」
フローラは首を横に振る。
「そう___まだちゃんとお礼も言ってないのに。」
ソアラは寂しそうに呟いた。
雨の鬱憤を晴らすかのように、覇王決定戦は熱を増す。
より高いステージでの力の激突は、戦いの決着をも加速させる。
「勝者竜樹!さあ、これで十六傑が決定しました!」
長き一夜の果てに、頂点に立つのは誰か。
そしてその時、彼らは何を得るのか。
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黄泉覇王決定戦 三回戦対戦表
壱の山
玄道 対 斗露
夜叉炎 対 剛倶
弐の山
風間 対 日輪
炬断 対 麗濡
参の山
黒閃 対 吹雪
太鼓 対 花燐
四の山
由羅 対 大蹄
秦冨波 対 竜樹
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