1 祝福の雨

 トントントントン___
 畳の目を指で叩きながら、竜樹は降りしきる雨の音に耳を傾けていた。ちょっとでも雨音が弱まれば、すぐに闘技場に駆け出したい。これでも必死に身体の疼きを抑えているのだ。
 「苛々していても空は晴れないぞ。」
 落ち着きのない背中を見やり、フュミレイは諫めるように言った。
 「分かってる。」
 「お茶を入れた。飲まないか?」
 「いらねえ。」
 竜樹の素っ気ない態度にフュミレイは笑みを覗かせた。今の竜樹の境遇には素直に同情する。自分の出番を今か今かと待ちわびていたところで突然の順延では、高めた闘志も行き場のない苛立ちに変わってしまうだろう。
 「___」
 しばしの沈黙。フュミレイは囲炉裏の前で茶を口にする。その落ち着いた物腰は、座敷でこちらに背を向けている竜樹と好対照でもあった。
 界門では多くの人々が訪れることを想定して、集落の繁華街には平屋の建物がほとんどない。ただソアラたちには慣れた高層アパートも妖魔の多くには馴染みがなく、人気なのは町外れに並ぶ平屋の民家だった。フュミレイと竜樹も、畳好きな女侍の意向で、闘技場からはかなり遠いものの小さな平屋の家を借りていた。
 「よしっ!」
 突然竜樹が立ち上がった。
 「修行に行ってくる!」
 「今から?次の夜には雨が上がるという話だ。じっとしていたらどうだ?」
 「いーや、このままじっとしてたら刀が錆びるぜ。近くの森にでも行って暴れてきてやらぁ!」
 そういって竜樹は愛刀「百鬼」を手に取る。刀には名号鬼丸と刻まれているが、竜樹がこの刀を鬼丸と呼んだことは一度もない。
 「ならせめて裏の井戸端でやったらどうだ?外に出たら迷って帰ってこれなくなる。」
 「おまえはいつも一言多いんだよ!」
 そう言うなり竜樹は外へと飛び出していく。
 「傘忘れた!」
 しかし五秒としないうちに舞い戻り、番傘を持ってまた疾風のように去っていった。
 (もう一度くらい戻ってくるか?)
 目を閉じて茶の温かさを掌に感じながら、フュミレイはそんなことを考えていた。すると___
 ガラッ___
 戸が少しだけ開いた。
 「?」
 しかし竜樹ではない。隙間から紙切れが投げ込まれただけだった。フュミレイは立ち上がり、戸を開けて大粒の雨が降り続く通りを見渡した。
 「___猫?」
 通りに人気はない。ただ一匹の猫が前足を引きずりながら歩いているだけだった。雨の黄泉はとにかく冷える。肌寒さを感じたフュミレイは戸を閉め、投げ込まれた紙を拾い上げた。
 「___!」
 そして頬を強ばらせた。

 「あいつ黙ってればいい女なのによ〜。」
 自分も女なのに何を言うか、などと茶々を入れたら命がないところだが、竜樹は傘を打つ雨音に独り言を紛らせながら通りを闊歩していた。
 「だいたい俺だって空飛べるんだから、迷うわけがないっての。」
 でもそれは最後の手段にしたい。何となく冬美に負けた気がしてしまうから。
 「えっと、大手口はどっちだっけ?」
 ただこの分では、界門を出る前に雨が上がってしまいそうだ。
 「ん〜、こっちだな。」
 十字路にさしかかり、竜樹は直感を頼りに右へと進んだ。しかし残念、そちらは商店街で集落の出口とは逆方向だ。
 「あっ!」
 しかし今日に限っては方向音痴が幸いした。通りの先には竜樹を笑顔にさせる拾い物があったのだ。彼女は遠くに見える人影目掛けて、一目散に駆け出した。
 「百鬼!!」
 彼の名前を知っている人物なんて、黄泉中を探しても数えるほどしかいない。唐突に呼び止められた百鬼は驚いた様子で振り返り、駆け寄ってくる竜樹の姿に口元を引きつらせた。
 「やっぱり百鬼だ!」
 「りゅ、竜樹か___!?」
 「うっは〜!大会に出てただろ!?こんなところで会えるなんてすげえ偶然!」
 竜樹が歓喜するのも無理はない。そもそも彼がこちらに来ていること自体驚きだったのに、この広い界門で方向音痴の自分と偶然出会えたのだから。
 「一回戦見てたぜ〜!やっぱり俺の刀の師匠だよ、百鬼が勝つって信じてたんだ!」
 「そ、そうか?」
 いつになく口八丁手八丁、喜びのあまり満面の笑みで話す竜樹に百鬼はなぜだか酷く慌てた様子で、近くの店屋を気にしていた。
 「なあこれ見てくれよ!あの刀だぜ!」
 「え?ああ!鞘を作ってもらったんだな?」
 一つの傘に入った方が良いくらい近づいて、竜樹は百鬼に愛刀を見せつける。百鬼も関心は示すもののやはり心ここにあらず。そりゃそうだ、彼は二人で買い物に来ている。もし米屋との談笑に花が咲いているソアラが出てきたら、一触即発どころか色々なものが大爆発だ。
 「すげえだろ!ちゃんと毎日手入れもしてるぜ!やっぱり切れ味が違うよな!龍風も最高の刀だったけど、俺はこの百鬼も大好きだぜ!」
 「おまえ俺の名前を___」
 「ああ!刀の名前にした!最高だろ?」
 ソアラから言われてドキッとした瞬間を思い出す。とはいえ名号に作者の名が入るのは決して珍しいことではないのだから、やむを得ないか。
 「あ、それ新しい刀か?」
 竜樹の興味は尽きない。百鬼の腕に掴まって、彼の腰にある刀を覗き込んだ。
 「まあそんなとこだな___」
 「すげえなぁ!俺も自分で刀を打てるようになりてえや!なあなあ、また一緒に刀鍛冶やろうぜ!」
 「あ?ああ、そ、そうだな、また今度な。」
 暖簾の向こうに動きが見える。百鬼は一層落ち着かなくなり、幾らかの冷や汗を滲ませて引きつった笑みを浮かべていた。
 「お、おまえ何か用事があったんじゃないのか?」
 「い〜んや。百鬼と話す方が大事だから、気にすんなって。」
 いや、気にしてほしいのはこっちだ!自分が彼女から逃げるのもそうだが、ソアラとの接触をさけるために彼女もここから遠ざける必要がある!
 「悪い竜樹!これからいかなきゃいけないところがあるんだ!遅れちまうから、またな!」
 「あ!おい!」
 百鬼は唐突に竜樹を振り切って走り出す。
 「待て〜!」
 一瞬後れを取ったが案の定、竜樹は百鬼を追いかけてきた。
 (あれだ!)
 彼女の方向音痴は百鬼も知るところ。素早く細い路地に駆け込み、近くにあった大桶をかぶって身を隠す。
 「あれ?」
 すぐに追いついてきた竜樹だったが、細い路地に百鬼の姿はない。しかしその向こうには別の道が開けている。
 「あっちだな!」
 竜樹は意気揚々とそちらへ駆けていった。
 ガタッ___
 暫くして逆さにした大桶が持ち上がり、百鬼がそっと顔を覗かせる。その姿は桶の甲羅を着た亀のようだった。
 「ふぅ___」
 「ふぅ、じゃないわよ。」
 「!?」
 しかし一難去ってまた一難。そこには憮然とした顔で、ソアラが仁王立ちしていた。
 「隠れるなっ!」
 百鬼が再び桶の中に首を引っ込めたくなるのも無理はなかった。

 「ふ〜ん、それじゃあ天界であの子のために刀を打ってあげたわけ。通りで同じ名前だったわけだわ。」
 逆さにした大桶に腰掛け、ソアラは百鬼を見下ろしていた。
 「悪かった!確かに敵に塩を送った俺は悪い!でもあいつは根っからのアヌビスの手下じゃないし、そんなに悪い奴でもねえんだよ。」
 「あたしはあの子に何回か殺されかけてるんだけどね。」
 「そりゃあいつが自分より強いやつと戦いたがってるからで___」
 どっちの味方よ___土下座はしているものの、苦しい言い訳に終始する百鬼を前にして、ソアラは呆れ顔で頬杖をついた。
 「あいつがいたから俺も天界の戦いで生きていられたんだ。そりゃおまえとはうまくいってないかもしれねえけど、本当に敵になるような奴じゃないんだって。」
 彼にそこまで言わしめるのだから、竜樹の嬢ちゃんは喧嘩っ早いだけで悪道に染まるような人物ではないのかもしれない。でもあの子は___それは昔の自分にも少し通ずるところがあるが___目的のためなら手段を選ばない危うさがある。なにより彼女の手で多くの命が奪われたのは、紛れもない事実だ。それを平身低頭で擁護するのは褒められたことじゃない。
 「あの子の気性は私も知ってるわ。だからね、危険な香りも感じるのよ。」
 「それは___」
 危険な香り。それは百鬼が焚きつけた香りともいえる。本当に危険なのは彼女がアヌビスの手下だったことよりも、百鬼に明らかな好意を抱いていることだ。そしていつものように鈍感な百鬼はそれに気付いていない。いや、相手はまだ幼さが残る娘なんだから、彼が意識しないのも当然か。でも、だからこそ余計に危険なのだ。
 「あの子は確かに悪い子じゃないかもしれない。でも、味方じゃないわ。」
 「わかってるよ。俺も自分から近づこうとは思わない。」
 「本当ね?」
 「ああ、約束する。」
 今の関係はあらぬ禍根を生むかもしれない。でも、百鬼が関わりを避けるというのなら、それが最良の手段だろう。接点さえ持たなければ、諍いだって起こらないはずだから。
 「ごめんな、気を持たせて。」
 「ううん。」
 憮然とし続けていたソアラがようやく笑みを見せる。百鬼もホッとした様子で口元を緩めた。その露骨な変化がかえって彼の純朴さを強調し、ソアラの心を和ませる。と、思い出したようにソアラが手を叩いた。
 「そうだ!ちょっと買い物を頼まれてくれる?」
 そう言って彼女が取り出したのは一枚の紙切れだった。

 雨が降ると黄泉は暗さと冷たさを増す。ただそういった気候そのものは嫌いじゃない。息が白くなる、差し込むような寒さは故郷では毎日のことだから。
 (あれか。)
 界門にはそれぞれの区画の中心的なポイントに時計台が立っている。大きいものから小さいものまで様々だが、それは集落の中でも良い目印となる。
 彼女が訪れた時計台の周りは商店も多く、まばらとはいえ人通りがある。その中で、時計台を背に人待ち顔で立つのは少し気恥ずかしくもあった。
 (早かったかな?)
 傘を肩に乗せて、フュミレイは戸口から投げ込まれた紙切れを取り出す。そこには時間と場所とソアラの名を記し「もし会えるならここに来て」と書かれていた。竜樹がいなかったことも幸いし、フュミレイは指示に従ってやってきた。ただどうにも煮え切らない部分もある。
 (さて、なにがあるか___)
 もしこの紙を投げたのがソアラ本人なら、こんな回りくどいことをする必要はないはず。そもそもソアラに滞在先を教えた覚えはない。まあそれはなんかしらの方法で調べられるとしても、ここに呼び出した理由が釈然としない。
 あるいは罠か___その可能性も考えていたから、彼女は張りつめた気配を保っていた。
 「そうなんだよ、でも見ての通りもう足も元気さ。ああ、それじゃあな、二回戦も楽しみにしててくれよ。」
 豪快な声は雨音を打ち消したかというほど明朗だった。それは左手に見える金物細工の店から聞こえ、フュミレイはそちらを振り向いた。声を聞いたときから悪い予感はしていた。しかし実際に目の当たりにして彼女は痛感するのだ。
 やっぱり罠だった___と。
 「___」
 店から出てきたバンダナの男を見た瞬間、全身の毛が逆立つような寒気に襲われて、フュミレイはピクリとも動けなかった。
 「___」
 店から出てきた百鬼も、唇が少し動いただけで立ちつくしてしまう。手から力が抜けて持っていた金細工を落とすまで、二人は糸が切れたように放心していた。
 「あっ!しまった!」
 金属の賑やかな音に、百鬼は慌てて身を屈めた。布袋から散らばった金物の食器。夢中になったわけではないが、百鬼はなぜか顔を上げることができず手元ばかり見て食器を拾い集めていた。
 「___!」
 彼女もそうだったのだろうか?互いの手が一つの皿に触れるか触れないかというところで止まった。百鬼が顔を上げたその時には、フュミレイが皿を取って背を正していた。
 「はい。」
 「___ああ、ありがとな。」
 目が合ったのは一瞬だった。皿を差し出しながら、フュミレイはすぐに目を逸らしてしまった。一方で百鬼はもう電撃のような束縛を抜け、いつもの大らかさを取り戻しつつある。できるだけ感情を殺したような横顔を見ると、次第に懐かしさと嬉しさが抑えきれなくなっていった。
 「偶然だな、こんなところで会うなんて。」
 偶然で片づけられる状況じゃない。足の負傷で医務室送りになった百鬼は、フュミレイが覇王決定戦に参加していたことさえ知らなかったのだ。でも驚愕の頂点を超えて出てきたのは、自分でもよく分からない言葉だった。
 「偶然?___フフッ、偶然か。」
 それが幸いした。フュミレイは百鬼の言葉に失笑したかと思うと、小さな笑みを称えたまま前を向いた。
 「おまえが自分の考えでそんな買い物をするとは思えないな。」
 「?ああこれか。これはソアラが___」
 そして百鬼もハッとする。
 「まさか___」
 「そのまさか。」
 フュミレイがソアラの筆跡で書かれたメッセージを見せると、百鬼は急に気の抜けた顔になり、笑い出した。彼の哄笑に釣られるように、フュミレイも笑みを浮かべていた。

 「雪の下に岩があったんだよな。それで思いっきり顔を打ったんだ!」
 「覚えてる。あたしは危ないって言ったのに、平気だ!って。」
 「そうだっけ?おまえ危ないと思っても黙ってるタイプだろ?」
 小さな茶屋の軒下で百鬼とフュミレイは語り合っていた。最初はぎこちなく思えた再会も、ソアラの罠のおかげで気楽になれた。今もこうして一杯の茶と一本ずつの団子で、もう三十分は昔話に花が咲いている。
 「あのころは楽しかったよな〜。」
 「ああ。」
 しかし暖かな思い出を懐かしめば懐かしむほど、今という現実がフュミレイの心を吹雪の下へと引き戻す。
 「楽しかった。あのころは___」
 無表情でいられた自信はない。彼の前では幾らか素直になれる自分は、思い出が過去のものと知らされるたびに悲しい目をしていただろう。
 「そういえばさ___」
 だが百鬼は構わずに昔話を続けた。フュミレイが戸惑いを感じるほど、彼は「今」の話をしようとはしなかった。そしてアヌビスとの戦いの話にも触れようとしなかった。
 ただ、その方が二人の距離が近く感じられた。
 「それがなかなか難しくてさ。刀鍛冶で肝心なのは___」
 「なあニック。」
 だが限界もある。百鬼の胃袋に三杯のお茶と五本の団子が消えた頃、フュミレイはついに話を止めた。
 「本当に話したいのは違うことじゃないのか?」
 六本目の団子をくわえかけ、百鬼は動きを止める。
 「あたしがおまえたちの前から消えて、また現れるまでの空白、そして今何をしているかじゃないのか?」
 フュミレイの緊迫とは裏腹に、百鬼は顔色を曇らせることさえなかった。一つ目の団子に歯を立てて、櫛から抜き取る余裕さえあった。
 「喋ってくれるのか?」
 「それは___」
 「だろ?俺だって少しは利口になったんだぜ。せっかくこうしてまた会えた、それに今日は誰かさんのおかげでゆっくり話せる時間だって作れたんだ。だったら俺は楽しいことを話したい。」
 ああ、楽しいとも。楽しいからこそ余計に辛くもあるんだ。
 「天界であたしがしたことを忘れたのか?」
 フュミレイは少しだけ語気を強め、問いただすように言った。しかし___
 「なんだっけ?」
 百鬼は明らかにとぼけた調子で団子を頬張る。その脳天気な姿にフュミレイは絶句する思いだった。
 「っ___」
 立ち上がろうとしたフュミレイの右手に、押さえつけるようにして百鬼の左手が重なった。そして二人の視線が交錯する。
 「なあフュミレイ、おまえはいろいろ思い詰めているみたいだけど、これだけは言っておく。」
 フュミレイの細くて冷たい手、百鬼の暖かくて武骨な手、二つの温もりの交錯が百鬼の瞳にさらなる情熱を灯す。
 「俺たちは何も変わっていない。おまえがどこで何をしようと、俺たちにおまえを拒む奴なんて誰もいない。おまえが戻ってきてくれるなら、俺は大切な___大切な仲間としておまえを迎え入れる。」
 大切な___その後に言いかけた言葉は彼の心中に。しかし思いは掌を通じて彼女の元に。
 「___」
 フュミレイはただ沈黙し、俯くように視線を下へと移す。たかだか掌が重なっているだけなのに、全身を強く抱きしめられるような心地だった。それは暖かくもあり、苦しくもあった。
 「あ、悪いな。」
 「いや___いいんだ。」
 掌が離れた。右手の温もりに感じた愛おしさを否定するように、フュミレイは首を横に振る。そして立ち上がった。
 「そろそろ行かないと。」
 「そうなのか?残念だな。」
 名残惜しむ視線にフュミレイは微笑みで答えた。しかし___
 「そうだ、おまえどっち帰るの?」
 「っ。」
 嫌な質問の仕方だ。フュミレイはあからさまに顔を顰めてから、大きな通りを指さした。
 「お、奇遇じゃん。俺もそっちだから途中まで送るよ。」
 「___狡いな。」
 「そうか?」

 「へぇ、おまえもこの大会に出てるんだ。」
 「知らなかったのか?」
 百鬼が荷物を持っていたこともあって、手を繋いだり一つの傘で歩いたりはしなかった。でもその方が会話は弾んだ。
 「全部の試合を見たわけじゃないからな。あれ?でも冬美だったっけ?そんな名前なかったと思うぞ。」
 「あたしは吹雪と名乗っている。」
 「吹雪___あ!?確か俺と同じ山に___!」
 そのまさかだ。お互いにあと一人ずつ勝ち上がれば、二人は舞台の上で再会することになっていた。無論そんなことになれば彼女は棄権しただろうが。
 「へ〜、こりゃまた奇遇だな。ってことは俺が黒閃ってのを倒せば次の相手はおまえってわけか。」
 「もしそうなればあたしは二回戦で負ける。」
 「ならそうさせないようにレイノラに灸を据えといてもらうかな。知り合いなんだろ?」
 「っ___汚い真似を。」
 あまり見られないフュミレイの苦い顔に、百鬼はしてやったりの様子で笑った。そんな彼の姿を見ると、フュミレイも少しだけ笑顔になる。この大らかさに触れるほど、自分も鷹揚にさせられるのだ。
 ただ、それでいいのか?
 彼にはソアラがいる。子供たちもいる。なのに、それでいいのか?
 クーザーマウンテンのあの時から、文字通り住む世界が変わったのだ。
 もはや相容れない、そう思っていたから頑なに拒否していたのではないのか?
 確かに主人たる人物の意向はあった。しかし自らもまた、彼らから離れるためにアヌビスの元に立ったのではないのか?
 ソアラと再会し、ニックと再会し、氷はいくらか溶けつつある。
 しかし___溶け落ちたその瞬間、猛毒の霧が溢れ出すのではないのか?
___
 怖い。
 暖かな光の中にいるのが怖い。
 己の闇が光を壊しそうで。
___
 「ここで分かれよう。」
 一緒に歩ける時間はまだあっただろう。しかしフュミレイは小さな交差点で唐突に言い放った。
 「どうした?」
 「___さよなら。」
 それだけ言い残して、フュミレイは逃げるように踵を返す。しかし後ろを向いた彼女の腕が、力強く引かれた。食器の散らばる音の中で一つの傘が路上に転がり、そして大きな傘の下でフュミレイは愛に包まれていた。
 体勢を崩したときに拒むこともできたろうに。
 得意の魔力はどうした?
 氷の篭手は?鉄の意志は?
 全てを無にする雄々しき愛の中で、フュミレイは震えた。
 抱きしめられた体の温もりに___
 その力強さに___
 重ね合った唇の激情に___
 彼女は「女」を揺さぶられた。

 いけない。
 いけないんだ。
 私なんか愛してはいけないんだ。
 抱きしめられることに喜びを感じてはいけないんだ。
 でも___!

 激しい葛藤の渦を超え、フュミレイの左目から涙が溢れ出た。それは喜びであり、罪の意識であり、素直な自分とそうでない自分の戦いの証でもある。
 ただ、これは彼女だけの戦いではなかった。
 長い口付け。やがて傘が転げ落ち、雨に打たれながらなおも続いた口付けが終わった時、二人は同じような顔をしていた。
 「___ごめんな。」
 先に声を絞り出したのは百鬼だった。
 「抑えていたつもりだったけど___おまえにさよならって言われたら我慢できなくなった。また何年も会えなくなるんじゃないかって、そう思ったら自分の気持ちを抑えきれなくなった。」
 「___いけないことだ。」
 フュミレイは小さく唇を噛んでから、睨むような目つきで言った。いま互いに一線を越えたことは、これから先の大きな歪みの源となる、そんな気がしてならなかった。
 「そうだな。でもよフュミレイ___」
 だが百鬼はそんな彼女の心地を察していた。そして彼女がなぜ自分たちを避けるように動いていたのか、それも何となく悟っていた。ただそれは彼自身にも説明できない無意識の感覚。遠い昔から互いを知るからこそ、分かる何かが二人にはある。
 「いつだったかおまえが言った言葉___おまえに関わると不幸になる___って、ありゃおまえの思い過ごしだ。なにせ___」
 百鬼は傘を拾い上げ、フュミレイに持たせてやる。そして白い歯が印象的な、いかにも彼らしい溌剌とした笑顔を見せた。
 「俺は今、最高に幸せだから。」
 言葉を失うフュミレイの頬に軽く手を触れると、百鬼は手早く食器を拾い集めてから傘を手にする。その間もフュミレイは、ただ直立しているだけだった。
 「ありがとうフュミレイ。今日こうしておまえとまた会えたこと、俺は本当に嬉しく思っている。あ、ソアラにも感謝しないとな。でもキスしたことは内緒だぜ。」
 そう言って百鬼は手を振りながらフュミレイに背を向けた。
 「ニック。」
 半ば放心していたフュミレイがようやく声を出した。振り向いた百鬼が見た彼女の顔、それはすでに自分を取り戻した気丈な笑顔だった。
 「ありがとう。」
 その言葉が聞きたかった。じんわりと滲んだ笑顔に、百鬼の心地が表れる。
 「ああ。またな。」
 そして力強く頷き、彼は去っていった。
 通りに立ちつくしたままフュミレイは彼の背中を見つめていた。
 そして計らずとも満たされている自らの胸に、そっと手を当てて思いを込めた。
 (今この瞬間の幸せだけでいい。それだけで私の心は救われた。)
 そして彼女もまた踵を返す。
 「ありがとう、ニック。」
 そう呟いて。




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