3 紫龍
「もうお父さんがモタモタしてるから、お母さんの試合始まっちゃったじゃん!」
「そんなこと言ったってしょうがねえだろ!?」
「そんなに走るとまた折れるよ!」
リュカとルディーを先頭に、まだ少し足を気にしながら百鬼が追いかける。その後ろから続くのはライとフローラ。客席の大歓声が振動となって伝わると、子供たちの足はますます速まった。
「こっちこっち!」
「おい!席は向こうだぞ!」
レイノラのいるボックス席はまだまだ遠い。しかしリュカは客席を目指して手近な通路へと駆け込んでしまった。
「うわ〜!人が一杯だ!」
「ここじゃ見えないよ、レイノラさんのところに戻ろう。」
通路の先は立ち見客で一杯で、二人の身長では背伸びをしても背中しか見えない。ルディーはリュカの袖を引っ張って連れ戻そうとするが、思わぬ声が二人を呼んだ。
「竜光くん、竜花ちゃん。」
「あ!」
「棕櫚さんだ!」
通路の真上の客席の縁から棕櫚が顔を覗かせていた。
「くっ!」
襲いかかる餓門の拳をソアラは両腕を交差して受け止める。一撃の瞬間、そのときは耐えられると感じても、餓門の拳からは二段三段と遅れて衝撃がやってくる。断続的な衝撃はソアラの腕を跳ね除け、肩まで痺れさせた。そして___
「がら空きだ!」
ソアラの腹に餓門の大きな足がめり込んだ。強烈な前蹴り、しかしソアラは瞬時に後方に体を流れさせることで、ダメージを最小限に抑えた。しかしそれだけでは防御にならないのが餓門の攻撃でもある。
「がっ!」
風に流れる柳のように相手の攻撃を受け流すはずが、足が触れてから一瞬の間を置いてソアラの腹に強い衝撃が走った。柳の葉をさらに突き押す一撃は、ソアラを軽く場外まで吹っ飛ばした。しかしソアラは顔を顰めながらも身を翻して踏みとどまろうとする。
「っ!?」
しかしそこからさらに一撃。餓門は舞台の上で悠然としているのに、ソアラの腹は空気の大砲に圧せられたような重い一撃に見舞われていた。否応なしに体が浮き上がり、場外を取り囲む壁へと背中から激突する。嗚咽が喉を押し上げ、唇を幾らか汚した。
(これが餓門の能力なの!?打撃が遅れてくる___!)
荒っぽく口元を拭い、餓門を睨み付けるソアラ。苦戦の色は明らかだった。
「お母さん頑張れ!」
母のピンチを感じ取り、リュカは客席の縁から身を乗り出して叫んだ。
そうそう、皆が今いるのは見晴らしの良い通路上の客席だ。大混雑の中でも、棕櫚が顔を利かせて場所を確保してくれたため、周囲を気にせず戦いに集中できる。
「不思議な攻撃ね___ソアラは避けているように見えるのに___」
戦況の不利を感じているからこそ、フローラは心配そうにつぶやく。その手をそっと握るライの掌も、汗でしっとりと濡れていた。親友の苦戦を目の当たりにするというのは、なんとも言えない心地である。それが母や妻ともなればなおさらだが。
「何だってソアラは吹っ飛ばされるんだ!?」
「ソアラじゃなくて由羅さんです。あれがきっと餓門の能力なのでしょう?俺も詳しいことは分かりませんけど___」
いきり立つ百鬼に比べ、相変わらず冷静な棕櫚。その隣には憮然とした耶雲がいた。そもそも棕櫚がレイノラのいるボックス席ではなく、こちらで観戦していた理由は耶雲にある。なんでもあの高潔な女神と一緒にいると萎縮してしまって気まずいのだとか。
「あいつの能力は力の蓄積さ。」
と、今までの沈黙を破り急に耶雲が呟いたものだから、皆は目を白黒させて彼を見やった。
「___って、後ろのハゲが言ってたぞ。」
「後ろの方は長髪でしょうが。」
「う、うるせえな!急にみんなで見るからだろ!」
照れ屋な耶雲に面倒臭さを感じ、棕櫚は小さなため息をついた。
「で、餓門の能力とは?」
「___あいつは自分の体が許す限りいくらでも力を蓄積できるんだ。んで、それを放出するときは一気にだったり分割したりできる。つまりだな、例えばあいつが五秒力を溜めたとして前の倍の威力の攻撃を出せるとしよう。そのときに、一撃に倍の破壊力を込めることもできれば、分割して一撃の数を倍にすることもできる。」
「ん〜、つまりどういうことさ?」
眉間に皺を寄せて首を捻るライ。ようやく注目されることにも慣れたか、耶雲はさらに続けた。
「いま由羅が三回弾き飛ばされたのは、餓門の三倍攻撃を三分割にして食らったからだ。あいつの蹴りが由羅の腹に触れた瞬間、餓門の蹴りの破壊力は由羅の体に移る。実際に蹴りを食らったのは一回だが、力は三分割されて由羅の体に移されているから、あいつがどう防御しようと腹に時間差で三連続の痛みを受けることになる。」
「何でそんなことができるのよ。」
戦いに夢中のリュカに比べてルディーには話に耳を傾ける余裕がある。餓門の不可思議な能力に納得いかない様子で唇を尖らせていた。
「それは俺にも分からねえよ。ただ一つ言えるとすれば、ああやってあいつに力を溜める時間を与えるのが一番まずい戦い方だって事さ。」
カウントは十六まで進んでいる。ソアラは体を休めるつもりなのだろうが、その時間こそが餓門の攻撃の威力を高めていく。
「やああ!」
「よぅし!こい!」
ソアラが向かってくれば、彼は溜め込んだ力で迎え撃つだけだ!
「ディオプラド!」
しかしソアラも考えていた。まだ餓門との距離があるうちに爆裂の白熱球で牽制を掛ける。
「ふんっ!」
餓門は一切の躊躇いもなく、迫り来るディオプラドに拳を放つ。その瞬間、餓門の拳で強烈な爆発が巻き起こるが、その輝きはバットに痛打されたボールのように歪んでいた。
ドゴゴゴゴ!
そして巻き起こったのは鈴なりの爆発。ソアラはディオプラドを五連発で放っていた。しかしその全てが次々と針を刺された風船のように爆発したのである。
(餓門の攻撃は連続する!仕掛けはよく分からないけど、ダメージを分割することができるんだ!)
気が付いたのは良かった。しかし観察に気が行きすぎていたのも確かだ。
「どっはああ!」
「!」
爆煙を突き破って餓門が現れる。ソアラが飛び退くよりも早く、拳は彼女の頬を捉えた。
「今度はまとめていくぞ!」
その拳に込められた威力の壮絶さ。今までの餓門の攻撃だって身体が軋むほど強烈だったのに___!
ズガァァンッッ!
爆音が会場に静寂を呼んだ。ディオプラドの粉塵が風に流れて消えたとき、舞台の上に立つのは自慢の拳を握りしめる餓門の姿だった。観衆の目は餓門に集まり、やがて観客席の一角へと移る。
そこには深い亀裂が走っていた。控え室へと続く扉の狭間、隙の無いはずの石壁を砕き、深い溝が刻まれていた。その奥に何があるか、誰もが分かったからこそ静寂はどよめきへと変わっていく。そして___餓門は高々と拳を突き上げた!
「勝った!!」
地鳴りのような大歓声が轟き、勝利を告げようと翠が舞台へと上がる。会場では百鬼たちの一角だけが水を打ったように静まりかえっていた。
「負けるもんか___」
周囲に響く餓門を讃える声。百鬼までもが言葉を失う中、今にも泣き出しそうな顔で呟いたのはリュカだった。
「お母さんが負けるもんか!」
その直後だった。
ドガッ!!
餓門の顔面にソアラの膝がめり込んでいた。餓門が勝利を確信した一撃を食らってもなお、ソアラは力を失ってはいなかったのだ。
「お母さん!」
泣き顔を笑顔に変えてリュカが叫び、隣のルディーと手を叩き合う。今度言葉を失ったのは会場の大観衆の方だった。
「だああああ!」
ソアラはまたもラッシュを駆ける。拳を竜の鱗に包み、餓門の顔面目がけて目にも止まらぬ連打を繰り出していく。結い紐が切れて流れる紫の髪。その姿にある者は深い感銘を覚えていた。
「なんと___あの娘が水虎様の___!」
「これも巡り合わせって奴だろうな。あいつが妖魔なんて言葉を知ってからまだ五年もたってないってのに、それがこうして仇敵と戦ってるんだから。」
サザビーの言葉を横に聞きながら、吏皇の目はソアラに釘付けになっていた。乱れた紫の髪から覗く凛々しい横顔。それは確かに水虎___いや、奥方の寧々に良く似ている。
「ならば___ならばあの方は正当なる覇王の後継者だ。こんな餓門の道楽につきあわずとも、彼女が覇王であることを宣言すれば済むことではないか!」
「そりゃあないね。俺たちが目指しているのは覇王じゃない。」
「牙丸___いやアヌビスとやらを倒すことか。」
「そう。確かにあいつは覇王の子だ。でもそれはあいつの半分でしかない。」
吏皇にはソアラが歩んできた人生を歪める権利などない。しかし水虎と寧々の一粒種であれば、混沌とした黄泉に平穏をもたらすことができるはず。そう思うと今の状況はあまりに口惜しくもあった。
水虎が果て、煉が命を散らし、多くの同胞が餓門の横暴の前に消えた今だからこそ、彼女に覇王として立ってほしい!
(それが適わぬ夢ならば___嫡子よ、せめてその手で餓門の愚行に幕を!)
それは水虎を知る者のせめてもの願いであった。
一方、若きドラゴンの戦いぶりに目を細める者がもう一人。
(さすがね。この戦いの中でもソアラは成長している。)
髪の隙から一瞬だけ覗く右の頬。今でこそ消えたが、餓門に膝を食らわせたあの瞬間、ソアラの頬には金色の竜の鱗が見えた。
(この闘技場の石材は全てアヌビスの邪輝でコーティングされている。それをあれだけ砕いたのだから餓門の拳の威力はエクスブラディールにも劣らない。たとえソアラでも、紫の状態で食らえば顔の骨が砕け、意識を喪失していたはず___)
それを耐えさせたのが頬に現れた金色の鱗。今までは腕からしか現せなかったドラグニエルの能力だ。
(追いつめられて無意識に発現させた___それができるのがあの子の資質。)
ソアラの劣勢には変わりない。今の連打も大して効いてはいないし、おそらく紫のままでは勝てないだろう。ただ、それはきっとソアラも分かっている。
(この戦いは修行よ。自らと、そしてドラグニエルを成長させるための。)
頬の鱗は小さな一歩。それでも、紫のまま戦い続けていたからこそ出た一歩。だがその代償に彼女は痛みを甘受せねばならない。
「むんっ!」
「うあっ!」
餓門はソアラのスピードについていけない。しかし顔面への拳に対して自慢の石頭を突き出すだけなら、相手の動きがどうであろうとできることだ。強烈な頭突きを受けたソアラの拳で鱗が弾ける。蓄積された力は指を走り、掌から手首、肘、肩にまで及んだ。
「かああっ!」
さらに怯んだソアラの目前で、餓門の身体から白い光が迸る。それは強烈な波動となってソアラの身体を場外の壁際まで吹っ飛ばした。
「拳だけじゃないぜぇ。今のは加減してやったんだ。」
顔面に作った傷など蚊に刺されたほどでしかないのだろう。結局、餓門は先ほどの膝の一撃を含め、ソアラの連打を受けても一歩も後退しなかった。舞台が一層深く罅入るほどの力だというのに。
(ほんと___化け物ね。)
さしものソアラも肩で息をしていた。餓門の攻撃は身体の深淵に響き、長い尾を引く。頭突きのカウンターを食らった右腕は、肩から指先まで痺れが走り当分は言うことを効いてくれないだろう。さっきの頬への拳だって、竜の鱗が威力を押さえてくれたとは言っても、まだ右の視界がぼやけている。
このままでは勝てない。でも___黄金になるつもりはない。
なぜだろう、すごく意地になっている自分がいる。
この男には、なんとしても紫で勝ちたい!___と。
「ソアラはなぜ竜の力を使わないの?あのまま戦っていたら身体が壊れるわ___」
フローラは先ほどからほんのわずかな笑顔しか見せていない。後はずっと不安げで、落ち着かない眼差しをソアラに送り続けている。だがそれは彼女だけではない。リュカとルディーはもちろん、ライや棕櫚も今のソアラの戦い方には息苦しいものを感じていた。
黄金に輝けば、竜の使いの本領を発揮すれば、せめて互角の戦いができるのに。そのまどろっこしさが胸中を渦巻いていた。
「いや___」
ただ一人、百鬼だけは違う。
「ソアラは紫のまま勝ちたいんだ。父親の誇りをかけて。」
「父親?」
「みんなは詳しく聞いてないかも知れないが、ソアラの親父の水虎って人の前髪は___紫色なんだ。」
「!」
その言葉にライとフローラは身を強ばらせた。
「確か___水虎さんってアヌビスに___」
「糸を引いていたのはアヌビスだ。でもな、あいつに良いように使われて、水虎を殺して、その後釜にふんぞり返っていたのがあの餓門なんだぜ。」
「それじゃあソアラが紫のままで戦うのは___」
「竜の使いとしてのソアラじゃない、水虎の娘の紫龍として勝ちたいんだ。」
「シリュウ___?」
「故郷に古い資料があった。あいつが初めて貰った名前さ。」
___
「シリュウ___シェリル___そうか、おまえの名前、シェリル・ヴァン・ラウティだったっけ?あれってそこから来てたんだな。」
修行修行でお互いにゆっくりする時間もなかった黄泉でのある日、久しぶりに二人っきりになるとソアラは百鬼に真顔で言った。「私の昔話を聞いてほしいの」と。そしてソアラが語ったのは、父と母の話、黄泉に生まれた自分の話。修行に疲れたとき、彼女はレイノラの許しを得て故郷の鋼城を訪れていたという。そこで、自分の過去を知る時間を与えられていたのだ。
紫龍という名も、鋼城で得た知識の一つだった。
「___そんなものなの?」
「は?」
「なんだかもっと驚いたり、変な顔したりするのかと思って。」
「なんでよ。」
「だってさ___」
ソアラは急に言葉に詰まり、思い詰めた目をしたかと思うとおもむろに百鬼の手を取った。
「ねえ、鋼城に行こう。」
「え?」
「行こう!一緒に来てほしいの!」
そして無人の巨城へ。
「___」
鋼城。黄泉の景色にはややそぐわなくも見える、流麗で曲線的で、暖かな光の似合う城。質実剛健たる黄泉の気質を残しつつ、天界の優美さ、輝かしさを交えた融合の城。その姿に、いやその城に立つソアラの姿に、百鬼は胸を打たれた。
言葉にはできないが、城がソアラを迎え入れているような言い得ぬ一体感があった。彼女がここで過ごした時間は僅かでしかない。記憶にすら残っていない。それでも大地は彼女を忘れてはいないのだろう。そしてソアラもここに来ると両親の温もりを思い起こすことができるのだろう。
「おーい。」
呆然としていた百鬼の目の前に手を翳し、ソアラは微笑んだ。
「どうしたの?ボーっとしちゃって。」
「___いや、ちょっと感動してた。」
「?」
「ここでおまえが生まれたってこと___なんだか分からないけど凄く納得できる。」
その言葉にソアラは驚いたような顔をして、すぐに微笑みを取り戻す。
「そう言ってくれると嬉しい。」
「この城は黄泉と天界の融合した姿だ。本当___おまえに良く似合う景色だって思った。」
「___」
長い瞬きをして、ソアラは百鬼の手を取った。
「向こうに虹の架かる水車があるの。見に行きましょ。」
城へと続く道を抜け、いくつかの門をくぐり抜けた先に大扉が現れる。その手前に渡された石橋からは、清らかな水で満たされた堀を一望できる。橋の縁で立ち止まると、やがて城の水路から送り出された水が水車を動かし、薄暗い空に虹を駆けた。
「綺麗なもんだなぁ。少ない光を集めて水車を照らして虹が架かるってわけか。」
橋の縁に手をかけて虹を見つめる二人。だがソアラの表情は百鬼ほど晴れやかではなかった。
「ねえ。」
「ん?」
「ここって本当にあたしに似合ってる?」
「ああ、そう思うな。なんだか分からないけどさ、しっくり来てる。」
虹を横に見ながら、二人は橋の縁に寄りかかって目を合わせる。ソアラの顔が思いの外深刻だったから、百鬼の視線も虹には戻らなかった。
「あたしはソードルセイドの雪景色が似合うって言われたい。」
「ソアラ___」
「あたしは確かに妖魔と竜の使いの子よ___でもソアラ・バイオレットよ、ソアラ・ホープよ!あなたと同じ世界で育ち、あなたを愛し、あなたの子も授かった。だからね、あなたにだけはそう言ってほしいの。」
その時のソアラは酷く弱々しく見えた。だから百鬼は自然と彼女を抱きしめ、ソアラも求めるように彼に身を預けていた。
「ば〜か、当たり前のこと言ってんじゃねえよ。」
「___酷いなあ___慰めてほしいのに。」
「似合うもんは似合う。おまえが妖魔だとか何だとかなんて関係ないんだよ。ソアラはソアラだ、俺がそんなことをあれこれ気にするような複雑な男か?」
「ふふっ、違うね。」
「だろ?」
ソアラが顔を上げ、二人は鼻先の触れ合う距離で見つめ合った。
「気にしてるなら言ってやるよ。俺がおまえを一番綺麗だって思ったのは、晴れの日のソードルセイドで子供たちと雪合戦していたときだ。雪の煌めきの中のおまえは最高だった。」
「カルラーンのドレス姿よりも?」
「え?あ〜、あれも綺麗だったなあ。」
「何でも良いんじゃない!」
「そう!おまえだったら何でも良いの!」
「きゃ〜!」
冗談を言い合って笑う二人。思えば昔からこうしている時間が一番幸せだった。
「ありがとう。ちょっとナーバスになってた。」
一頻り笑いあい、ソアラは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「あたしね、妖魔だ竜の使いだとか自分のことがいろいろ分かっていくうちに、あなたとの距離が離れちゃった気がしてたんだ。なんだか別の生き物になっちゃったみたいな気がして___」
「馬鹿いえ、俺はソアラが好きなんだ。おまえだって昔俺に言ったじゃねえか、俺がニックだろうが何だろうが、百鬼を好きになったんだって。」
「あ〜、言ったかもね、そんな感じのこと。」
「忘れもしねえ、何せあれは俺たちの初めての夜、あのときのおまえの初々しさったら___」
バキッ。
ソアラの拳が百鬼の鼻っ面にめり込み、二人の抱擁は解けた。
「いってーな!」
「調子にのるからでしょ!だいたい初々しかったのはどっちよ。」
「あー!それ以上言うな!」
なんだか懐かしい。中庸界を旅していた頃はいつもこんな感じだった。あの頃だって、ポポトルや超龍神やまだ見ぬアヌビスの脅威があったのに、毎日がとても楽しかった。しばらく忘れていたこの心地。いろいろ知りすぎてしまった今でも同じようにできると実感できたこと、それはソアラにとって何よりの幸せだった。
「ふふっ、なんだか二人でこんなに笑ったの久しぶりねぇ。」
「そうか?なあ、折角来たんだから城を案内してくれないか?おまえの両親のことを俺にも教えてくれよ。」
百鬼の言葉に少しだけ首を傾げたソアラ。しかしすぐに晴れやかな笑みを覗かせる。
「___そうね!」
その日、ソアラの中で何かが変わった。百鬼たちの前では竜の使いである自分、妖魔である自分の過去、使命感などを押さえ込んでいるようでもあった。でもそれからは、少なくとも百鬼には遠慮を消すようになった。
だからこそ、彼は水虎のことにも詳しくなった。
___
「俺も四条を討つときはニックでいたかった。だからあいつの気持ちは分かる。今戦っているのは俺たちの知っているソアラであり、同時に黄泉に生まれた紫龍なんだ。」
百鬼の言葉はライとフローラのソアラを見る目を変えた。竜の力を使わない理由を知り、彼女の覚悟を知り、凛とした面もちでその成り行きを見届けようと言う心地になった。
「はああ!」
だが当のソアラはそこまで水虎の存在を意識していなかった。この状態でも苦戦はしているが戦えているから、そして自分でも意外なほどに餓門との激突に夢中になっているから、黄金に輝くのを忘れていたと言った方がいいのかも知れない。
実際、劣勢とは言っても彼女は餓門の牙城を崩す策を巡らせていた。
(あたしだけの力でどうにもならないなら、いろいろ利用すればいい。幾ら頑丈だからって、ダメージがない訳じゃないんだから!)
短い連撃で餓門に牽制を掛けたかと思うと、ソアラは急に舞い上がって客席近くまで飛び退いた。その両手は青白い輝きを放っていた。
(魔力___ヘイルストリームか?)
客席の一角から戦いを見つめるフュミレイは、瞬時にソアラの攻撃を見抜く。
(しかしおそらく餓門には通じない___)
それはきっとソアラも分かっている。だからこそ彼女がこの呪文を選んだ意図を探りかねていた。
「餓門!あんたが覇王ならあたしの奥義を真っ向から食らってごらん!」
ソアラは両手に魔力を満たし、高らかに言い放つ。
「おお!どんとこい!」
案の定、餓門は挑発に乗った。ささやかな笑みを見せ、ソアラは青白く輝く両手を突き出した。
「ヘイルストリーム!」
呪文はフュミレイの読み通り。しかし確かにヘイルストリームは究極レベルの氷結呪文だが、奥義と言うほどのものでもないはずだ。
「ずおおお!」
餓門の身体が猛烈な吹雪に包まれる。雪が舞台の中央で折り重なり、餓門を氷の柱の中に包み込んでいく。
「ぐはは!この程度がどうした!」
しかし餓門は全く応えていない。顔まで氷に包まれているのに、堂々たる怒声を響かせている。それだけで顔面付近の氷が罅入った。
「まだまだ!」
しかしソアラは呪文を緩めない。ただ照準は少しずつだが餓門から逸れていた。
(まさか___!)
餓門の身体から真上に向けて氷の柱が延びていく。その軌道、フュミレイが感づいた通りならばヘイルストリームを選択した理由も納得できる。
「これがあたしの奥の手よ!」
仕上げと言わんばかりに吹雪を放ちきったその時、氷の柱は空の高みへと一気にのし上がった。その先端は闘技場の屋根の高さをも超えた。それはつまり、あの罠の作動を意味する!
ズガガガガガガ!!
「ぐおおおお!?」
青白い輝きが会場全体を駆けめぐる。目映い雷のうねりが氷の柱を駆けめぐり、餓門の血液を煮え滾らせる。ソアラの狙いは稲妻陣。氷の柱に稲妻を走らせ、餓門の身体を破壊すること!
「稲妻は身体を内側から壊す!幾ら頑丈でもこれが効かないはずは___!」
そこまで言いかけて、ソアラは氷に走った巨大な亀裂に愕然とする。そして___
「ずおりゃあああっ!!!」
絶叫とともに、氷柱は弾け飛んだ。氷の欠片は稲妻を纏った散弾となり、会場全体に降り注ぐ。目映い閃光が消えたその時には、多くの観客が血にまみれていた。
「きゃああ!」
「おい!しっかりしろ!」
「誰か、誰かこの子を___!」
稲妻陣の轟音の後、会場を包んだのは阿鼻叫喚だった。見渡せばそこかしこで悲鳴、叫声、嗚咽___冷静沈着なはずの妖魔たちが我を忘れて慌てふためくほど、会場は狂気に包まれていた。
「___なんて迂闊な!」
餓門への攻撃が結果として多くの人々を傷つけてしまった。悲劇の種を播いた己を呪い、ソアラは狼狽した。しかし餓門は違う。
「こんなことでうろたえるな!貴様らは覇王の戦いの見届け人だぞ!命を賭けてこの俺様の力を目に焼き付けろ!」
会場はおろか界門全体に響き渡るかと言うほどの怒声は、会場を凍り付かせる迫力を秘めていた。弱い者への配慮など無い。全てを力で圧殺する、それが餓門のやり方であり、それが通用するのが黄泉でもある。
だがソアラは納得していない。餓門のやり方にも、反旗の声さえ上げない会場にも。
「ふざけんじゃないわよ___覇王ってのはただの成り上がり者のことなの!?」
怒声の余韻残る闘技場に、絞り出すようなソアラの声が響く。
「なにをぉ___?」
勇ましい紫髪の女の姿を餓門は血走った目で睨み付ける。
「あんたみたいな暴君に覇王を名乗る資格なんてない!そんな横暴は___覇王水虎の誇りを踏みにじる行為よ!!」
それは自然と彼女の口をついて出た言葉だった。いつになく気を高ぶらせ、肩を震わせながら叫んでおいて、ふと自分でも「何言ってるの?」って思ってしまうような言葉だった。
そして実感するのだ___自分が今、父水虎の魂を胸に戦っているのだと。
(そうか___あたしは知らない間に___)
妖魔の紫龍として、父の無念を晴らすことに燃えていた___
父の誇りを守ることに燃えていたのだ!
「危ない!」
静寂の会場を百鬼の叫びが貫いた。しかしその時すでに、ソアラの腹は餓門の拳に打ちひしがれていた。
「うおおお!」
宙にあったソアラの身体は、そのまますぐ後ろの客席へと吹っ飛ぶ。だが餓門の攻撃はそれでも終わらなかった。
「貴様ごときに何が分かる!俺様は最強だ!水虎よりも強いのだ!だから覇王として君臨しているのだ!全ては俺の前にひれ伏すのだ!そうだ!水虎も天破も煉までも!俺様の前に屈したんだぁぁっ!」
そこにいた数人の妖魔を巻き添えに、餓門はソアラをめった打ちにした。一撃ごとに階段状の客席を掘り進み、飛礫を散らし、餓門はソアラを殴り続けた。
狂乱の獅子。誰もがただ慄然として餓門の所行を見ることしかできない。この戦いをコントロールしなければならない翠も、先ほどから場外でへたり込んでいるだけだった。
「お母さんが!お母さんが!」
「放してよ!お母さんを助けるんだから!」
「駄目よ!そんなことをしたらあなたたちまで!」
リュカとルディーを必死に押さえるライとフローラ。
「おい審判!試合を止めろ!」
餓門の怒声に掻き消され、届くはずもない叫びを上げる百鬼。そもそもこの戦いに相手を殺してはいけないというルールはないのだから、たとえ届いたとしても翠にはどうすることもできなかっただろう。
そして___
ゴッ!!
「なっ___」
餓門の拳が止まった。
彼の髪が炎に包まれ、餓門は拳を止めた。
火はすぐに消える。餓門の髪は燃えて縮れたが、それだけのことだった。
「ふふ___頭冷やしてやるつもりだったのに___間違えて燃やしちゃったわ___」
砕けた石の中に身体を半分以上食い込ませて、それでもソアラは笑った。血と砂礫にまみれた汚らしい顔で、彼女は餓門を嘲った。
「___貴様!」
餓門はもはや満足に動けないソアラの頭を掴み、力任せに引きはがす。彼女の身体は石の型枠から抜き取られた人形のように、力無く餓門の腕に掲げられていた。
「貴様のような有象無象がこの俺様を冒涜するか!!」
その声は闘技場全体を震撼させる。そしてソアラは一直線に武舞台へ。放たれた身体は一瞬にして石畳にぶつかり、鈍い音を幾重にも響かせて高く跳ね上がり、さらにもう二三度跳ねて転がると、ようやく舞台の縁で止まった。
全てが水を打ったように静まりかえる。
その静寂こそが、餓門の高らかな宣言を引き立たせる何よりのオーケストラ。
「見よ!俺様にかなう奴などいないのだ!」
ゆっくりと、餓門は宙を浮遊して舞台に降り立つ。沈黙の聴衆、その視線は彼だけに注がれる。
「俺様こそが!この餓門様こそが黄泉を統べるにふさわしい、真の覇王なのだ!!」
沈黙が流れる。リュカやルディーも、百鬼でさえ、雄々しき餓門の姿に、全てを威圧する力の凄まじさに言葉を失っていた。
そして誰かが拍手をした。それは瞬く間に広がり、賞賛の拍手となって餓門を讃える。そして餓門は最高の優越を得る。
今この瞬間、俺様は水虎を越えたのだと!
だが果たしてそうなのだろうか。その拍手の渦は餓門に提げられたものなのだろうか。少なくともその一部は、舞台の縁でゆっくりと立ち上がった紫の竜に送られていたのではないだろうか!
「ふざけるな___」
「!?」
さしもの餓門も我が目を疑った。全身の骨が砕け、ただの肉塊になったと思っていた女が、自分の身体の半分もないような弱い存在が、自らの意志を持って立っているではないか。
「牙丸に踊らされて___棚ぼたで覇王になっただけの男が___偉そうな口きいてるんじゃないよ!」
「!?」
その言葉は餓門を動揺させる。それもそのはず、その事実は実力で覇王の座を掴んだという彼の自信を根底から覆すものなのだから。そしてそれを知るものたちは、金城の戦いで全て葬り去ったと思っていたのだから。
「自分の力量も見極められないような奴に、覇王を語る資格なんて無い___!」
偶然だろうか。ソアラの言葉は餓門の胸の奥底、消えかけていた一つの畏怖を呼び覚ますものだった。
『おまえは自らの力を知らなさすぎる。そんなことじゃいつまでたっても、俺の片腕のままだ。』
それは水虎の戒めの言葉。図に乗りやすい餓門を戒める真の覇王の言葉。
「!」
なぜだろう___ぼろ雑巾のような女なのに、紫色の髪から覗くあの眼差しに餓門は息を飲んだ。その頬を滴が伝う。彼自身とんと味わっていなかった冷や汗が。
しかしそれも一瞬のこと。
汗はすぐに幾重もの滴に塗りつぶされていく。
唐突に降り出した雨が、戦場を水のカーテンに包み込んでいく。
黄泉の雨は驚くほどに激しく強い。あらゆる汚れを洗い落とし、あらゆる雑音を断ち切るほど、雨は止めどなく降り注いだ。
そして戦場は二人だけのものとなる。
餓門とソアラだけの対峙となる。
「はっ___!」
その時初めて餓門は冷静にソアラを見ることができた。軟弱な女の後ろに大いなる影を見た。そして恐れた。彼女の持つ底知れぬ波動を!
「き、貴様は___何者だ!」
全身がバラバラになりそうなほど痛い。それでもこうして立ち続けているのは、この言葉を待っていたからかも知れない。覇王気取りの男に思い知らせてやりたくて、この瞬間のためにソアラは紫のまま戦い続けたのかも知れない。
「あたしは紫龍___覇王水虎の娘よ!」
その時、餓門の中で何かが弾けた。恐れていたことが現実となったのだ。ついに自分が越えることのないまま他人の手で永遠とされた水虎の、その血を継ぐ者が目の前に現れたのだ!
「うおおおお!」
雨に打たれながら、餓門はソアラに襲いかかった。しかしその攻撃からはこれまでの迫力が失せていた。圧倒的な自信を封じられた餓門の拳は、ソアラに脅威を与えることさえなく、ただ降り注ぐ雨粒を打つのみだった。
ババッ!バッ!
激しい雨は稲妻陣をも封じ込める。雷の力は滴の中に霧散し、闘技場から空の封印を解く。階段状の客席は激しい水の流れに支配され、舞台に目を凝らしてみてもただ雨の滴に時折小さな揺らぎが見えるだけ。
「こ、これは凄い雨で___で、でも餓門さんと由羅さんはまだ戦っています!」
翠の実況さえも判然としない。雨に耐えかねて通路へと逃げ込む観客も目立った。
「分かるかリュカ、ルディー。」
しかし百鬼たちは微動だにしなかった。激しい雨に打たれながら、掻き消される視界の中でも舞台を見つめ続けた。
「お母さんはまだ戦ってる。」
「うん!僕も何となくそんな気がする!」
「そうだ。ソアラは戦ってる___餓門に勝つために!」
ヘルジャッカルでジャルコと戦ったとき、目に見えぬ霧のような敵の正体を気配で感じて討った。その時のことを思い出すまでもなく、ソアラの醸す波動を百鬼たちは明確に感じ取っていた。
(強い___本当に強くなった。肉体的にも、精神的にも___)
ソアラと餓門の存在感、それを感じ取っている者たちの脳裏には、雨の中でも二人の戦いが手に取るように分かる。豪雨にも身体を濡らすことなく立つフュミレイも___
(忘れるな、おまえは妖魔の子だが、母は竜の使いだということを。母もまた黄泉に散った女であるということを。輝くことは決して恥じることではない!)
感情の波立ちを表に出さないレイノラも___
(ま、餓門もこれまでよく働いてくれた。)
ソアラの成長に誰よりも目を細めるアヌビスも___
「はああ!」
ソアラの勝利が近いことを確信していた。
「ぐぬぅぅ!」
ただの蹴りを顔面に食らっただけだ。それなのに餓門は半歩後ずさった。何かが自分の中で崩れようとしている。自信だけではない、このままではもっと現実的な何かが、水虎の血の前に崩れ去ってしまう。
「俺は負けない___俺は絶対に___絶対に水虎よりも強い!覇王は俺だ!!」
豪雨をもうち破るような怒声を吐き、餓門はおもむろに宙へと舞い上がる。舞台中央のソアラを下に見て、餓門は無力な稲妻陣を越えてさらに高みへと昇った。ソアラはただじっと、その姿を見上げていた。
やがて餓門の身体に白い煙が蔓延り始める。それは彼の肌に触れた瞬間気化した水蒸気。餓門の身体には夥しいエネルギーが蓄積されていた。
「俺が最強だ!!この界門ごと吹っ飛ばせば___誰も俺に逆らう奴はいなくなる!!」
その声は雨粒とともに闘技場を駆けめぐる。
「全員消してやる!!俺が最強の覇王だと思い知らせてやる!!」
餓門の言葉は狂乱を招く。通路に隠れて成り行きを見守っていた観客たちは、悲鳴を上げながら我先にと逃亡を始めた。それが真の覇王の生み出す光景なのだろうか?
「あわわ!私はどうすれば!」
二人に最も近い位置に立つ翠が恐怖で上擦った悲鳴を上げる。しかし___
「大丈夫。あたしが守るから。」
不意に聞こえた言葉が彼女を安心させる。この大雨の中では聞こえるはずもない、決して大きくない声が頭の中に直接流れ込んできた。
「由羅___さん?」
そして翠は見る。雨の中、舞台の上で何かが黄金に輝いているのを。
「ぬがっ!?」
餓門も気がつく。自分の身体が傘のようになって、彼からはソアラの姿がよく見えた。黄金色に輝いて、今まで以上に精悍さを増し、一層水虎に顔つきの似た女の姿が。
二人の目が合った。二人の間には確かに雨粒の途切れた一瞬があった。
そしてソアラは言う。
「来なよ。」
その言葉で餓門は突き動かされた。
「ぬうううう!俺は水虎を超えたんだ!!貴様になんか負けるかぁぁぁっ!!」
餓門の身体が真っ白に輝く。金城一帯を全て更地に変えたあの時のように、餓門は破滅の輝きを迸らせる。
ただその瞬間、彼は自分の真下で黄金竜の姿を見ていた。両の手首を合わせ、掌をこちらに突き出した形、それは金色の竜の咆吼に似ていた。そして竜の口の奥底は、餓門の輝きを飲み込まんばかりの光で満たされていた。
「竜波動!」
舞台から餓門まで、白い波動が飛翔する。その一瞬だけ、全ての雨を消し飛ばした竜の輝きは、客席に残り続けた百鬼たちにもはっきりと見えていた。
「!?」
光は餓門を飲み込む。
餓門の放った破滅の光ごと、空の高みへと押し上げていく。
「ぬごおおお!俺が負けるものか!こんなものが___こんな攻撃___!」
餓門は抵抗した。しかし空へと昇る竜の勢いは止まらない。闘技場の上空だけ真っ白に貫いたその先にあるものは___
「ぐ!?」
黄泉の闇。
「のおおおおおおおおお!?」
全てを飲み込み、全てを引き裂く闇。
闇は餓門を、そして波動をも飲み込んでいく。
「ぁ___あ___」
舞台の上だけ雨がすっかりとやんでいた。だから翠にはソアラの波動が黄金をちりばめながら闇に溶けていくのが分かった。それが何を意味するのかも。
だからまた雨の滴が落ちてこないうちに舞台へと駆け上り、紫の髪を流れさせて天を見上げるソアラの手を取った。
「勝者___由羅さん!」
覇王の敗北を世に知らしめ、新たな勝者を讃えるために!
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