1 天族と魔族
人生を変える出会いとは一生のうちにどれほどあるものだろうか?
全ての出会いが人生を変える力を秘めているのかもしれない。しかし自分が培ってきた歴史を一変させるほど、あるいは思い浮かべていた未来の形を捨てさせるほど、大きな変革をもたらす出会いはそれほど多くないのではないか。そういった出会いは忘れられないものとなる。見知らぬ人が他の誰かに語っている言葉に衝撃を受けて、自らの進むべき道を正す結果になったとしても、人は名も知らぬ誰かのことを忘れはしないものである。
「___」
ミキャック・レネ・ウィスターナスは、これまで多くの印象的な出会いと別れを繰り返し、その都度思いがけない道へと進んできた。天界で竜神帝に仕えるまでの間だけでも、彼女の人生は二転三転している。今こうしてソアラと出会い共に旅するようになるまで、苦しみと悦びの連続であり、浮き沈みの激しい道だった。その中でも特に深く心に刻みつけられている存在は誰だろう?
(ディック・ゼルセーナ___)
彼との出会いは裏切りの連続だった。彼自身が裏切り者であり、相反する存在を受け入れたことで同胞の裏切りを生み、自らは重大なる失態で主君の期待を裏切り、そして最後には愛を裏切って刃を交え、彼の命を絶った。
あのとき私はなぜああも燃えたのだろうか?今思えば不思議でもある。しかし、全てが終わってしまった今であっても、彼への想いは変わらない。時流れて誰かに好意を抱いたとしても、それはディックの面影を重ねているだけ___そんな感さえあった。
(___何やってるんだ?これから戦いだってのに。)
なぜ急にこんな事を考えたのか、それは彼女自身にも分からなかった。ただ前の試合、花燐と播真王の戦いを見ていたらふとそんな気分になった。
「続いて、美希さんの入場です!」
物思いに耽っているうちに、正面の扉が開く。用意していたはずの槍を室内に置いたまま、ミキャックはふらりと外へ出てしまった。その視線の先には勝利して舞台を降りる花燐の姿が___
「あっ。」
気付いたがそれも今更。部屋の扉はすでに閉じられており、ミキャックは手ぶらで進まざるをえなかった。
「___」
すれ違いざま、全くこちらに目もくれない花燐とは対照的に、ミキャックは知らず知らず彼女を見てしまった。
気を引かれる理由は花燐ことカレンがディック・ゼルセーナの娘だから。ただそれだけなのだが、カレンがさほど父に似ていないためミキャックも気付くには至らない。
(集中!)
戒めるように自らの頬を軽く打ち、ミキャックは振り切るように前へと進む。そうとも、花燐はアヌビスの手の者だという話だし、目にとまるのは当然のことだ。ディックの顔が浮かんだのは不思議だが、今は目の前の敵だけを見なければいけない。
「これは___」
冥土ことディメードは、軽やかに舞台へと躍り立ったミキャックの姿に目を細める。
「どうやら俺が黄泉へとやってきたのは、この出会いのためだったのかもしれない。」
「___?」
髪をかき上げ、ディメードはミキャックに色めいた笑みを送る。
「君はとても美しい。たとえ刃を交えるとはいえ、君のような人と出会えたのは最高の幸運だ。」
「悪いけど___そういうの嫌いなんだ。」
髪をかき上げながら語るディメードの仕草に嫌気がさしたか、ミキャックは露骨に煙たい顔をして身構えた。しかし___
「天族と魔族の間に愛はありえないのかい?」
「___」
その言葉はついさっきまでディックのことを考えていたミキャックを呻かせる。次の瞬間、開始の銅鑼が響き渡った。
「!」
ややフライング気味にディメードが地を蹴る。立ち後れたミキャックは一気に間合いを詰められ、首元へ痛烈な一撃を食らう。
「ぐっ___!?」
喉輪のようにして首に押し当てられた掌。殴打するわけではない、しかしそれは一撃必殺の威力を秘める攻撃だった。
ドンッ!
ミキャックの体の内側で鈍い音がした。目を見開いてはじき飛ばされた彼女にディメードは追い打ちをかける。殴りつけることなく、ただ掌を押し当てるだけ。今度は左の肩に手が触れた瞬間、体の内側に強い衝撃が走る。だがミキャックも衝撃の反動で体を捻り、右の拳をディメードに放った。
「浅いね。」
拳は頬に触れただけ。しかし追撃を食い止めるなら、当たるだけで十分だ。
ボゴォッ!
篭もった爆音を上げ、ディメードの体が殴り飛ばされたように宙に浮いた。よろめいて跪いたディメードは口を押さえていた。その指の狭間から血が滴り落ちる。当たりが浅くとも呪拳プラドは体の内側を破壊する。しかしミキャックも同じような痛みに苦しんでいた。
「っく___」
口元から溢れ出た血を拭い、ミキャックは右手を首に宛った。回復呪文で喉の傷を癒さねば、息が詰まって朽ち果てていたかもしれない。
「俺の攻撃に似てるな___」
ディメードは口から何かを摘み出し、血を吐き捨てる。
「歯が抜けた。顔の形が変わったらどうしてくれるんだい?」
奥歯を見せつけ、軽く放り投げてからまた掴み取り、その手で頬を染める血を拭う。格好つけるところはまだ余裕がある証拠か。
(体の内側を破壊する___確かに似ているかも知れない。でもあたしのは呪文の体内伝導。こいつのは体の内側を直接殴られるみたいな感触があった。でも魔力ではないし___妖魔のような能力かもしれない。)
首にしろ左肩にしろ外傷はない。それなのに喉は咽頭に深い傷を負い、左肩も骨を砕かれたような鈍い痛みが響き続けている。
「治してもらえないか?今の攻撃で回復呪文も打ち込めるんだろ?」
「___」
「喋ったらどうだい?君は声も綺麗だ。攻撃しておいて何だけど、治療できる人で良かったと思ってる。」
「___余裕なのね。」
「ある程度分かったから。」
ディメードはハンカチで手についた血を拭い、またも髪をかき上げる。あの動きは彼の自信の現れ、自らを誇示するときの仕草だ。
「君の攻撃は当たれば凄いが連発はできない。両腕を封じれば無力だし、魔力を蓄積している間は呪文を使った対処もできなくなる。隙が多すぎるんだ。」
僅か一度の接触でしかない。しかし確かな分析だとミキャックは感じた。気障で嫌な男ではある。しかし戦いに関しては堅実だ。
「そんな危ない拳で闘っていたら、君は敵に一撃見舞うごとに深い傷を刻みつけなくちゃならない。君みたいに優雅で美しい人には到底似合わない戦い方だと思わないか?」
「そこまで分かっていれば、私が何をしようとしているかも分かるね?」
「差し違える覚悟でその右腕に力を蓄えている。」
ディメードはミキャックの右腕を指さして言い放つ。彼は微笑を携えたまま、顎を上げて続けた。
「ただ、はっきり言おう。それでは君は勝てない。俺たちの攻撃は似ているが、俺が君のことを知っているのに、君は俺の攻撃が何か気付いていない。それじゃあ勝てるわけがない。」
「やってみる?丈夫さには自信があるから。」
「泥臭いな。俺の女になればどんな宝石よりも輝ける女にしてみせるよ。」
「あたしは泥水飲むほうが性に合ってるんでね!」
ミキャックが動く。ディメードは慌てることなく、彼女の右の拳の動きだけに集中していた。ミキャックは左へ小さく跳躍し、ディメードの横に回り込もうとする。しかし彼がその動きに釣られた瞬間、強く羽ばたいて右へと体を擦らした。
「はあっ!」
相手の虚をついたかに見えた拳だが、それだけを凝視していたディメードにとって対処は容易かった。
ガガッ!
打撃の交錯する音。しかしそれは二つ重なって響いた。一つはミキャックの右の拳、それをディメードが左手で受け止めた音。もう一つ、ミキャックの鋭い蹴りがディメードの胸板に飛び、それを右手で受け止めた音だった。食い止められた、しかしミキャックの拳ば何であれ相手に当たればよい。しかも今度は拳だけではないのだ。
「呪拳ウインドランス!」
風のうねりを体の内側から巻き起こし打ち砕く。しかも拳だけではない、彼女はこの七十夜の月日の間に魔力伝導の技術を向上させていた。つまり、ディメードの胸を襲った足も凶器の一つだ!
ズシャッ!
肉を捻り潰すような惨い音がした。体の内側を走る真空の衝撃波は鮮血とともに肉体を砕く。しかし___
「そ、そんな___」
倒れたのはディメードではなく、ミキャックだった。右の拳、左の足、ともに血に染めて、彼女は揺らめきながら俯せに倒れた。微笑を称えるディメードの両の掌には血に濡れたような真っ赤な宝石が輝いていた。それは彼の手に埋め込まれているものだった。
「奥の手があるとは思っていたよ。あれだけ残酷な脅しをされていながら、強気な姿勢に微塵の陰りも見せない。ただ気丈なだけじゃない、何か俺を倒す秘策があるからそうしていられるんだ。まぁそれが足だったとはね。ただやることが同じだから混乱はしなかった。」
傷ついてなお美しい彼女を見下ろし、ディメードはやや恍惚として語る。ミキャックは俯せのまま、乱れた髪を頬に被せた横顔で彼を睨みつけた。
「その宝石___」
「気付いたみたいだな?これが俺の力の秘密、伝説の怪鳥カルコーダの血から作られたと言われる魔導の宝石エレメンタルジェム。直接触れればその部分に宿る微弱な魔力を沸騰させ内から破壊し、放たれた魔力を受ければ吸収凝縮して強烈な光線を放つ。つまり、この掌で受け止めれば君の拳は通じない。俺は歯を一本犠牲にして、君の攻撃の秘密を知り、勝利の方程式を作ったというわけさ。」
ミキャックの前で宝石を煌めかせ、髪をかき上げるディメード。その様に今度はミキャックが笑みを見せた。
「これであたしも秘密が分かった。おあいこになったわね。」
「ふふ、そういうことかな。」
「なら、あたしは片手片足を犠牲にして勝利の方程式を作ったというとこかしら。」
「ふふ___」
まるで花の臭いでも嗅ぐように、自らの髪を指に絡めて鼻先に近づけているディメード。が、今更になって彼女の最後の言葉が引っかかった。
「なんだって?」
視線を下ろしたその時、彼はキラキラと光る雪を見たような気がした。しかしそれは錯覚。光っているのは目一杯広げられたミキャックの翼、その羽の一つ一つだった。
「っ!まさか!」
気付いたときにはすでに、無数の羽がダーツのように彼を襲っていた。手で防ぐことなどできない。大量の羽はディメードの全身に浅く突き刺さり、そしてキラキラの源を炸裂させる!
ドドドドンッ!!
ディメードの全身で無数の爆発が巻き起こる。一つの羽に込められた魔力は未熟なプラドほどでしかない。しかしこれだけの数が集まれば、ディメードの体を場外まで軽く吹っ飛ばす威力になる!
「弱みを見せれば勝手に隙を作ってくれる。そう思っていたわ。それに、奥の手はここぞと言うときまで隠しておくものよ。」
肩の痛みをこらえながら、ミキャックは肘を張って体を起こす。一方場外のディメードは全身を毒蜂に刺されたかのように、体に無数の腫れを作った姿で倒れていた。
「おっと!動きました、冥土選手!」
しかし彼もまた見かけによらずしぶとい。帰蝶が上擦った声で叫び、ミキャックも緩みかけた気を引き締めて、幾らか密度が薄くなった翼を広げるとディメードに向かって滑空した。
「はああ!」
勝負を決める。立ち上がれもしない手負いの相手ならば、魔力抜きの打撃で十分!
「まいった。」
「!」
ミキャックが目前まで迫ったその時、ディメードはおもむろに言い放った。驚いて身を翻したミキャックは、彼に肌が触れるほど近くに降り立つ。
「勝ったところで次の相手がカレンじゃ仕方ないからな。俺は君の凛々しい立ち姿を手土産に、ここを去ることにするよ。」
そう言ってウインクするディメード。ミキャックは思わず身じろぎし、少し距離ができたところで彼はスクッと立ち上がった。その軽やかさは虚勢ではないのかもしれない。何しろ彼は自慢の顔には傷を付けさせていなかった。
「君は感もいいね。」
まだ十分に戦える余裕があるという意思表示___それを感じて息を飲んだミキャックに、ディメードは満足げな笑みを浮かべた。
「花燐___いえ、カレンもあなたたちの仲間ね。」
「仲間?いや、俺の憧れであり道しるべさ、カレン・ゼルセーナは。」
「___!!」
その名にミキャックの体は敏感に反応した。身を強ばらせ、息を飲み、目を見開いていた。
「じゃあな、すてきなお嬢さん。また会える日を楽しみにしているよ。」
口元に指を添えて、気障な投げキッスを置き土産にディメードは去っていく。その姿を見るわけでもなく、背後から聞こえる勝ち名乗りの声も耳に届かず、ミキャックはただ呆然と立ちつくしていた。
(カレン・ゼルセーナ___ゼルセーナ___!)
頭の中でその名だけが響き渡っていた。
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