1 神々の時代

 遠い遠い昔、今から何千年も前の昔。今でこそ世界は天界、中庸界、地界の三元世界により成り立っているが、太古の世界は一つでしかなかった。それは空と大地と海が果てしなく広がる世界。名はバルディス。
 バルディスには多くの命が宿っていた。それは可憐な花から天に届くかというほどの巨木まで、目にも見えないような昆虫から山よりも大きい獣まで、現在の世界とは比べものにならないほど多様な命が息づいていた。
 それは人々も同じ。翼の有無、肌の色、指の数、耳の長短、目玉の数、こびとのような大人、巨人のような赤子___ひとくくりに人間と言っても、その姿は様々だった。
 長い年月を経て、無用なものは排除されていった。それぞれの世界に適応するものだけが残った。そして彼らは、人、魔族、天族、モンスターなどと呼ばれるようになったのだ。もっとも、この話は本題ではない。
 今知らなければならないのは、かつて世界は一つであり、そこには様々な生命が住んでいたこと。それぞれの生命を、英知を、神と呼ばれるものたちが司っていたこと。そして、愛し合う二人の若き神がいたことである。

 荘重な屋敷の周囲に広がる美しい庭園。草花の塀やアーチが生み出す光景は、目にも鼻にも心地よい。目映い陽光の下では目にも鮮やかに香しく、静かな夜は橙の篝火に照らされて艶やかに麗しく。感性豊かな女性を虜にしてやまない魅力がそこにはある。
 しかし彼女は庭園に目もくれず、花のアーチをくぐり抜け庭のはずれへと急いだ。そこは屋敷の影になり、日が差さないため花の一つもない。篝火も満足に届かないそこでは風も冷たい。しかし彼女は宝物でも見つけたかのように瞳を輝かせ、駆け抜けた。
 実際、そこには宝物があったのだ。
 「ジェイローグ!」
 待っていたのは若々しく、凛々しく、美しい男。柔らかな黄金の頭髪を靡かせ、上擦った呼び声に彼は振り返った。その胸に彼女が飛び込む。闇に溶けるほどの黒髪が広がり、背を抱いた彼の腕へと舞い降りた。
 「会いたかった、ジェイローグ___」
 「私もだよ、レイノラ。」
 女は潤んだ瞳で男を見つめた。その漆黒の瞳はどんな美女にもない無限の深みを宿し、彼女の美しさを際だたせる。まだどこか幼ささえ残る彼女は、薄い紅を差して精一杯艶やかに見せていた。
 互いの温もりを感じ、見つめ合うだけで、二人の心は満たされていく。若き日のジェイローグとレイノラは、他が羨むほど初々しく美しい恋人同士だった。ただ神であるがゆえ、自由な恋が許されない間柄でもあった。
 二人は神としては若輩である。
 ジェイローグは竜人であり、竜族の頂点に立つべくして生まれた子である。そしてその優れた資質により、神となることを認められた者である。年老いた光の神ルグシュは己の系譜を継ぐべき、正義、勇気、情熱を持ち合わせている青年を求めた。そして目に止まったのがジェイローグである。若き竜の長は、力不足を理由に神の願いを反故にした。それでもルグシュは己の生涯を賭して彼を説き伏せ、ジェイローグは光の神となった。しかしルグシュが彼に固執したことには多くの神が懐疑的であり、そこに温かな目はなかった。
 レイノラは闇の神ウルティバンの娘である。黒い眼球に白い瞳を持つ男神ウルティバンは、生来孤独を通してきた。しかし己の命の限界を知ったとき、彼に仕えていた女騎士メリスに血を紡ぐことを願い出た。メリスは神の力をその体に宿せるほど強い生命ではなく、子を授かるには命を捧げねばならなかった。だが彼女は願いを受け入れた。父と母の命を授かり、レイノラが生まれた。父から継いだ白い瞳を右目に、母から継いだ黒い瞳を左目に宿して。だが彼女もまた、偉大なる神がか弱き世俗の娘を求めた破廉恥の産物として揶揄された。
 往々にして、現状が崩れることを好まない老翁たちは、若き血流を嫌うものである。しかしそれにしても二人の門出は揃いもそろって暗雲が垂れ込めていた。ましてその二人が一目と出会った日から互いに見初めあい、しかも相まみえるべきでない光と闇を司るという自覚の無さである。
 老翁たちは憤った。ルグシュを裏切り、ウルティバンを侮蔑する行為だ___と。
 二人は公然と出会うことさえ許されなくなった。ただ、それでもジェイローグは人目を忍び、海一つ超えた先のレイノラの元へ足繁く通った。そしてレイノラもまた、この日のように彼の到来を待ち侘び、漲る愛を喜んだ。

 いつものように庭園のはずれにある二人だけの愛の園で逢瀬を重ねる。
 「どうかしたのか?」
 しかしその夜のレイノラはいつものように駆けてくることもなければ、恥ずかしそうに微笑むばかりで口数も多くなかった。
 「なんでも___ありません。」
 「?___そうは見えないが。」
 「なんでもありませんわ___」
 正面から彼女を覗き込むジェイローグの眼差しに俯いて、レイノラはそっぽを向いた。薄暗い中でははっきりとしないが、その頬はほんのりと色づき、手は腹部に宛われていた。
 「体の調子でも悪いのか?」
 「___」
 ジェイローグはそっと彼女の額に己の額を押し当てる。
 「熱はないようだが___」
 「私は神よ。そんなに弱くはありません。」
 レイノラは怒ったように口を尖らせて頬を膨らませる。
 「ん?そうか。」
 と彼女から離れたジェイローグは、腹部に宛われた手に気づいた。
 「ああ腹痛か、昨日は雨で急に冷えたようだから___」
 「違いますっ!」
 レイノラは顔を真っ赤にして声を荒らげ、そっぽを向いた。冗談ではなく、本気で怒っているようだったのでジェイローグは首を傾げる。いつの時代も男は鈍感なものだ。
 「わざとですか?」
 「いや___」
 レイノラは諦めた様子で小さなため息をついた。ただこれも後からやってくる喜びの露払いに過ぎないはずだ。
 「子供ができました。」
 「それはそれは___おめでとう。」
 ジェイローグは最初だけ驚いたような顔をし、すぐに穏やかな笑顔になって祝福の言葉を投げかける。レイノラは若干苛立ちを覗かせ、怪訝な目をした。
 「それだけ?」
 「そんなに言葉が必要かな?」
 ジェイローグはレイノラをそっと抱きしめた。喜びの衝動に任せない柔らかな抱擁に、彼の優しさを感じる。レイノラの不機嫌はすぐに吹き飛んだ。
 「いいえ___」
 「ありがとう、レイノラ。」
 二人の愛は日に日に高ぶりを見せていた。それはレイノラが子を授かったことで頂点へと達する。しかし前途は多難だ。認められぬ愛、光と闇の交わりの果てに生まれた子は、糾弾の対象となりかねない。それでも若い二人は今の幸せに満たされ、未来の困難を乗り越えられると確信している。
 異端のレッテルは貼られるだろう、しかしその程度のことだ。
 愛の結実だけならば、時と、二人の逢瀬を物語のように楽しむ人々が許してくれるだろう。それだけならば___

 ああ、レイノラよ。
 君はなんと美しいのだろう。
 深淵へと続く瞳___その眼差しは天涯孤独の黒騎士をも振り向かせるだろう。
 甘露を思わせる唇___その微笑みは冷酷なる悪鬼の眼さえ涙で濡らすだろう。
 羽のように柔らかく繊細な肌___その温もりは血に飢えた獣の胸に穏やかな風を招くだろう。
 艶やかなる黒髪の香り___その靡きの前ではあらゆる美景も霞に煙るだろう。
 ああ麗しきレイノラよ。
 その気立ては全ての男に恋慕の情を抱かせるだろう。
 その肉体は全ての男を魅了してやまないだろう。
 そして私もまた、あなたの全ての虜となったのだ。
 ああ、レイノラよ。
 君は美しい。
 なのに___
 なぜあんな男を君は愛したのだ。
 私はこんなにも君を愛しているのに。
 それなのに君は___
 「私は全ての人々を愛しています。しかし一人の女性として愛おしく思うのはジェイローグだけです。」
 君を振り向かせたい、それにはあの男が邪魔なんだ。だから私は___

 その日もジェイローグはレイノラの元を訪れていた。愛を語らうことに飽いはなし。ただそうすることに慣れたとき、思わぬ落とし穴があるものだ。とかく愛する二人の目はお互いしか見ていないのだから。
 「___それでバルトったら、こんな事を言うのよ___」
 何気ない話の最中、ジェイローグが口元に指を立てた。面持ちは決して穏やかとは言えなかった。
 「声がする。」
 「え?」
 レイノラは耳に手を添えて、辺りを見渡した。すると確かに掠れた声が自分の名を酷くせわしなく呼んでいる。
 「バルトだわ___」
 「何かあったのかもしれない。」
 よく手入れされた庭園は美しい反面、迷路のように入り組んでいて勝手を知らないものには不自由もある。レイノラに仕えて長い老神官のバルトでさえ、この中では彼女を探すのに往生していた。
 「レイノラ様ぁ!」
 「バルト!」
 花のアーチをくぐり抜け、レイノラが駆けてくるとバルトは小さく飛び上がり、息を切らせて駆け寄ってきた。
 「どうしたの?」
 「ジェイローグ様はお出でですか!?」
 アーチの陰に隠れていたジェイローグは、レイノラの呼び声を待つまでもなく姿を見せた。
 「ああ!ジェイローグ様!すぐにルグシュ宮殿にお戻り下さい!宮殿が___何者かの襲撃を受けています!」
 なりふりも構わず縋り付いてきたバルトの姿、彼の言葉に、ジェイローグは息の詰まる思いだった

 ルグシュ宮殿。その屋根には山吹のように鮮やかな鉱石を用い、陽光を受けると神々しく輝く美しさ。代々神は自らが住まう宮殿に己の名を配するものであるが、ジェイローグは先代への敬意を込めてルグシュの名を継承した。
 しかし今、敬意は血で汚されていた。
 「怯むな!なんとしても宮殿を守るのだ!う!?」
 「グァァオオッ!」
 悲鳴を上げるまもなく、獰猛な獣が神官の首に食らいつく。獣はこのあたりでは決して珍しくない大型の狼、ワイルドウルフ。しかし額に見慣れぬ角を生やし、目の周りには隈取のように黒い鱗状のものがはびこっている。爪は異様に大きく鋭く、背にはささやかながらヒレが見えた。異様な姿だった。
 「何が狙いだ!?」
 襲撃を仕掛けてきたのはモンスターだけではない。汚い身なりで、それでも筋骨隆々とした男たちもいた。神官たちは彼らに襲撃の真意を問いただす。しかし彼らは人形のように朦朧と、ただ殺戮を望むばかりだった。
 「おのれ!」
 暴力は好まない。しかし多くの同士が血なまぐさい地獄絵図の一部と化した今では、どうでもいいことだ。神官は構わずに迫り来る男の胸を槍で突いた。手ごたえは十分。しかし、男は槍に胸を貫かれたまま右手の斧を振り上げた。
 「う、うわぁぁ!」
 また血の花が咲いた。
 「これはいったい___どうなっているのです___?」
 忠実なる大神官、メティサリムは体の芯からの震えに肘を抱いた。宮殿の上階から眼下の殺戮劇を目の当たりにし、彼女は心底恐怖した。まずもって襲撃者が何者なのか、いや何者のしもべなのかががわからない。そして彼らが何を目指しているのかがわからない。不在の神の命を狙うのか?それにしては彼らは宮殿の奥を目指さない。とにかく手当たりしだいそこにいる人々を殺しているようにしか思えなかった。
 「大神官殿!」
 「!?」
 下にばかり気をとられていたメティサリムは、鬼気迫る同胞の呼び声に顔を上げた。そこには巨大な白熱球が迫っていた。どうなるタイミングではない。彼女はただ慄然として、迫り来る脅威に相対することしかできなかった。
 すさまじい爆発が巻き起こる。ひとつではない、白熱球は空からいくつも放たれていた。放ったのは不可思議な鳥。このあたりに住む巨大な猛禽類、アウラドホークのように見えるが、目の背後に伸びた角、翼の先の鉤爪、トカゲのような長細い尾は翼竜を思わせるものがあった。
 「野生のアウラドホークが火炎弾を放つなんて話は聞いたことがない___」
 宮殿の上階、腰を抜かして倒れたメティサリムの前には震える男が立っていた。
 「ジェイローグ様___!」
 しかしその震えは恐怖からではない。
 「すまない、私が愚かだったばかりに。」
 光の神ジェイローグは怒りに震えていた。理不尽な殺戮に、神官たちを守れなかった自分に。
 「うおおおお!」
 ひとつ奥歯を噛み締めてから、神は絶叫した。光の神であると同時に、竜族の長であるジェイローグ。怒りとともに、彼は黄金に輝き、その口元に牙を、その両手に鋭い爪を浮き上がらせていた。
 それからはあっという間だった。神の前に襲撃者たちはなすすべない。慈悲深き神は彼らが逃亡するならば許す。しかし彼らはボスの元へ逃げることを禁じられているのか、一切踵を返さなかった。結果、多くの命が消え果てた。

 世界にはあまたの神がいる。そして、多くの神々を束ねる存在が大神バランである。神の中の神。数々の事象を束ねる中立なる神。万物の調和と均衡を願う神。彼は最高の英知を持ち、全てに厳格であり、全てに寛容である。
 その偉大なる大神を前に、ジェイローグはひれ伏していた。ひれ伏すことしか許されない。彼は己の罪に対する裁きを受けるため、大神の宮殿を訪れていた。
 「ジェイローグよ、おまえの罪は何だ?」
 純白のローブに身を包み、白銀のような頭髪と髭を蓄えた大神は無表情に言った。世界の偏りを防ぐことを生業としている大神は、滅多なことで感情を表さない。それがまるで機械のように見えるから、ジェイローグは大神に対する憧れはなかった。
 「答えよ、ジェイローグ。」
 だが大神の前では神とて子供のようなものでしかない。親から叱られるとき、子供はただ緊張して膝小僧を見つめることしかできないものだ。今のジェイローグも似たようなものだったが、彼は誠実と勇気の固まりのような男だから、言葉を濁すことはしなかった。
 「私はレイノラとの逢瀬に己の勤めを見失い、宮殿を危機にさらし、何物にも代え難い多くの命を失いました。」
 大神を正面に、彼をぐるりと囲むように他の高位なる神々。厳格な視線がジェイローグ一転に注がれる。そこは神の裁判所とでも言うべき場所だった。ここへ通されることは神にとって最大の不名誉である。
 「愛に惑いしことがおまえの罪か?」
 「私はレイノラとの愛に過ちはなかったと信じています。ただ、神としての私の不出来こそが過ちです。」
 調和のために抹消される。この場所に通された神の末路をそう断言するものもいる。それだけに、ここでジェイローグのような毅然とした答弁が出来るものは多くない。今もレイノラに非が及ぶことのないよう、その罪を一身に背負おうとしていた。
 「罪を償うことを誓うか。」
 「誓います。」
 「では、セサストーンへの投獄を命じる。」
 若さゆえの過ち、大神がジェイローグの命を取らなかったのはそう考えたからだろう。しかしセサストーンへの投獄も絶望的ということでは変わりない。絶海の孤島にそびえる神の牢獄は、外界の一切を絶ち切る。レイノラとの愛を絶つこと、それが彼にとっても、レイノラにとっても何よりの罰となる。まして、ジェイローグが再び日の光を浴びることが許されるのはいつになるか、全く分からないのだから。

 レイノラは涙した。納得しなければならないのに諦めきれない、しかしどうすることもできない葛藤が彼女の胸中で渦巻いた。そんな彼女の姿に、情熱的な神々は哀れみを抱いた。しかしジェイローグの過ちがあまりにも愚かで重大だというのは、誰もが異口同音であった。
 レイノラもそれは分かっていたから、一人で泣いた。そんな彼女を勇気づけるのは、彼女を信じ、愛する人々から送られる励ましの手紙だった。ただその中に、彼女の心を逆なでする手紙が紛れ込んでいた。
 「邪魔なジェイローグは去った。これからは私だけが君を愛する。」
 レイノラは愕然とした。手紙にはジェイローグを罵倒し、レイノラへの愛の言葉が延々と記されていた。差出人の名はロイ・ロジェン・アイアンリッチ。エドガー・ラヴィン・アイアンリッチは類い希なる知識を持ち、賢者の王と呼ばれた名君であった。確か彼の息子がロイ・ロジェン・アイアンリッチ。父以上に優れた知能を持ちながら、歪んだ思想を抱き、狂信者と疎まれる男。エドガーは胸の病で早世したが、口の悪い輩たちは息子の仕業だと言って憚らなかったものだ。
 「___」
 レイノラはたまらず手紙を握りしめていた。噂でしかないが、アイアンリッチは複数の生命を融合させることで、より強靱な新たな生命を生み出す研究に没頭していると聞いたことがあった。
 ルグシュ宮殿を襲ったのは、見たこともない生命だったという。陸竜を飲み込んだようなワイルドウルフ、翼竜が憑依したかのようなアウラドホーク___レイノラは身震いした。
 しかしアイアンリッチを糾弾し、吊し上げることはできない。ジェイローグが己の非を認め、反論一つせずにセサストーンに去ったのは、レイノラを守るために他ならない。今衝動に任せて動いては、彼の思いを無駄にすることになる。
 穏やかでない。レイノラの周囲全てから平穏が失われていた。そして彼女もまた、大神バランの元に召還された。

 「レイノラよ、おまえに剣神ゼッドの妻となることを命ずる。」
 大神の元に暗い顔を晒したレイノラは、その言葉に絶句した。
 「___そんな___」
 「今のおまえの姿は目に余る。おまえを満たすのに男が必要だというのなら、それはジェイローグではない。」
 残酷な言葉だった。まるで愛欲に飢える淫婦と蔑まれているような気分だった。
 「不服というならば、おまえに代わる闇の神を探さねばなるまい。光の神が獄中にある中で、相対する闇を司るおまえは、その調和に最大限の注意を払わねばならない。だのにおまえはあまりにも勤めを疎かにしすぎる。」
 だが大神の言葉は逐一もっともで、レイノラはただ俯いて唇を噛むことしかできない。しかしそれでも、伝えなければならないことがあった。
 「弁解の余地はございません。」
 「ではゼッドをこれに。」
 剣神ゼッドは厳格な神として知られていた。老人ではないが、決して若くもない。額に伸びる鋭い角こそ、彼の厳格さの現れである。ゼッドはレイノラの前へと歩み寄り手を差し伸べる。しかしレイノラはすぐに顔を上げなかった。
 「ですが___」
 「___」
 顔を上げたときも、目の前のゼッドではなく、肩越しに大神を見つめていた。その瞳に宿る強い意志。
 「私はジェイローグの子を身籠もっております。」
 その言葉は、彼女がここにやってきてからもっとも力強く言い放たれた。居合わせた神々は一様に驚き、正面のゼッドもまた息を飲んでいた。
 「私は剣神様の妻となりましょう。しかし私に宿る新たなる命に罪はございません。どうか、ジェイローグの子を産み落とすことをお許しください。」
 光と闇の融合、それそのものが無秩序だ。神々は口々にレイノラを非難したが、大神バランは違った。彼は常に公正であり、生まれてくる子に罪はないというレイノラの主張を理解した。ただ、レイノラがその子を糧にジェイローグへの愛を助長することは許さなかった。
 「産むことは許す。しかし育てることは許さぬ。」
 辛かった。しかしレイノラには頷くしかなかった。ジェイローグがレイノラを守りたかったのと同じように、彼女も生まれてくる我が子を守りたい一心だった。

 ひとまず事は落ち着きを取り戻した。ルグシュ宮殿は負の遺産として荒れ果てた姿を残し、慰霊塔が建てられた。ジェイローグは光の神としての立場を維持しながらも、表舞台から姿を消し、セサストーンで祈り続ける日々を送った。レイノラは剣神ゼッドの元へと嫁いだ。ゼッドはレイノラの感情に理解を示しながらも、できるだけ早く妻としての心構えを身につけられるよう望んだ。レイノラも、ジェイローグに負けないほど誠実な彼の要求に応えられるべく、決意を新たにしていた。しかしその表情は常に憂いが差し、気が付けば愛おしそうに腹に手を宛っていた。
 一連の悲哀劇を人々は興味津々に語りあった。多くの文芸家が、光の竜と闇の乙女という物語を書きつづった。ただ、二人が結婚して間もない頃、ゼッドの元を訪れた奇怪な人物についてはどこにも触れられていない。
 それもそのはず、やりとりは極短いものでしかなかったのだ。
 「おのれ___妻を侮辱する気か!」
 宮殿に怒声が響く。そして何者かが走り去る音が続く。
 「どうかされましたか?___まあ、これは___」
 ジェイローグとの愛に夢中だった頃とは雰囲気の変わったレイノラが、ゼッドの元を訪れる。石床に飛び散った鮮血に彼女は眉をひそめた。
 「私からおまえを奪うと奇怪な男が乗り込んできたのだ。強引に立ち入ろうとするので肩を切り裂いてやったら、泣き顔になって逃げていった。しかしあれは___何とも狂気の沙汰だ。」
 ゼッドはつい先程の出来事を、まるで忌々しい過去でも振り返るかのように重苦しく話した。
 「いや、忘れるとしよう。神に抗う力など持たぬ狂者だ。次訪れるようなことがあれば首をはねる、それだけだ。」
 「___」
 それだけだ。それだけだったから、誰もこの出来事を知らない。
 ___レイノラは私のものだ!
 狂者はそう叫んでいた。ゼッドの怒声を聞きつけた彼女にもそれは聞こえていただろうに、レイノラがそれ以上語らなかったのは、アイアンリッチの手紙を思い出すことを拒んだからだ。

 やがてレイノラが出産した。生まれたのは二人の女児。双子だった。しかしレイノラはほんの乳を与えた程度で二人と別れなければならなかった。まだ泣きじゃくることしかできない乳飲み子は離れ離れに、それぞれ別の大陸の名家へと委ねられた。
 「そうか、良かった。」
 ジェイローグは看守からレイノラの出産の知らせを聞いた。セサストーンに投獄されてから約半年。彼から聞いた初めての言葉に、ジェイローグは痩せこけた髭面で頷いたという。
 そして時が流れた。




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