第25章 さらば滅び逝く日々よ

 戦場に生まれたひとつの抱擁。いつになく冷酷な目をしていたはずの黒麒麟は、従順なる僕と勇猛な戦士との抱擁に動揺を隠せなかった。彼女の顔そのものは仮面のようにあまり変化を見せないが、眼球の動き、瞳孔の変化、指先の律動がそれを表していた。ただ、それはいつもの黒麒麟の姿ではない。まして彼女は冬美ことフュミレイが百鬼に愛を抱いていたことを知っている。動揺は正しい反応ではなかった。ただ、そうなってしまったのは理由があった。
 「フュミレイ___良かった___お前が生きていてくれて___」
 「___」
 ここが戦場であることなど忘れてしまったのだろう。百鬼はフュミレイの抱擁に全霊を傾けていた。それこそ彼女の体が痛むほど、強い抱擁。それはもう二度と彼女を放したくないという思いの表れでもある。ただ、抱きしめられたことで一時の感嘆が胸を駆け抜けたフュミレイは、冷静さを取り戻しつつあった。肉体の密接、その温もりを共有するほどに、彼女は今自分が何をするためにここまで仮面をつけて出向いたのか、思い出した。今はまだ冬美でなければならないのだ。
 「違う。違うんだニック。」
 大丈夫。自分はまだ冷たい言葉を口にできる。声の震えすらなかった己に言い聞かせた冬美だが、違うといいながら彼をニックと呼ぶのは矛盾である。
 「私は妖魔の冬美なんだ。」
 「フュミレイ___?」
 「お前の敵なんだ。」
 「なにを___!」
 密接を解き、彼女と目を合わせようとする百鬼。しかしそれは適わない。少しでも体が離れた瞬間に、二人を包んでいた青白い魔力が壁を作った。
 「すまない。」
 ドンッ!
 まるで呪文でも放つかのごとく、百鬼を包んだ魔力は高速でドラゴンズヘブンに吹っ飛ぶ。
 「フュミレェェェィ!」
 人間は感情の動物。突き放してはみたものの、きっと暫くは彼の叫びが耳に焼き付いて離れないだろう。だが、今は新たな苦境を脱しなければ。
 「なるほどな、てめえそういうことか。」
 黒麒麟の加護を受けた迅にとって、闇の波動の直撃はマイナスでない。失われたはずの左腕に黒い炎の手を宿し、彼はより一層夥しい力を滾らせて、冬美を睨み付けていた。
 「恨みはないけど、こうしないのは不自然だから。」
 それだけではない、彼女の背後には奇妙な台詞とともに黒麒麟。
 (さて、うまく立ち回れるか___)
 公然の裏切りの代償。早速払わなければならなそうだ。

 いざ戦場へ!
 改めてリュカ、ルディーの身の安全を確認してから、ソアラは城を飛び出した。早速百鬼が奮闘しているであろう空へと飛んだが___
 「うおおお!?」
 「え!?」
 その横を青白い光と共に、聞き覚えのある声が猛スピードで駆け抜けていく。慌てて翻ってそれを追い、島の上空で光が弾けると彼女は仰天した。
 「百鬼!?」
 素早く飛びすさび、彼が島に叩きつけられないうちに空中で肩を貸す。
 「ソアラ!」
 ソアラが事の次第を問いかけるよりも早く、百鬼は興奮した様子で彼女の腕を掴んだ。痛めていない右腕だったのは幸いである。
 「フュミレイだ!」
 「は?」
 支離滅裂。ソアラは眉間に力を込めて問い返した。
 「敵の中にフュミレイがいるんだよ!」
 「本当___?」
 「こんなときに嘘なんて言うわけねえだろ!」
 昔の彼女の登場にこの取り乱しよう、普通の妻なら腹を立ててもいいところだが、三人の間には特別な感情がある。取り乱したのはソアラも同じだ。彼女が黒麒麟に仕えていることを知っていたのに。
 「行ってくる!」
 飛び降りても問題のない高さまで下降して、ソアラは百鬼から離れた。
 「頼むぞ!___って俺足が!」
 動転しすぎて足が壊れていることを忘れていた。着地と同時に発せられた百鬼の絶叫にソアラは吃驚して振り返り、舌を出して額を叩く。
 「ソアラさん!」
 「トーザス!百鬼を頼むわ!」
 「え!?」
 戦場から舞い戻ってきたトーザスに百鬼を託し、改めてソアラは飛んだ。
 「敵は同士討ちをしてますよ!僕はその隙に逃げたんですから!今は様子を見たほうが___!」
 呼びかけに目もくれず。ソアラは闇の火花散る空へと急いだ。
 「やめろ、あれは一時の気の迷いだ。」
 「ほざけ!」
 苦しい言い訳だが、他に言い様もない。迅だけなら戦っても構わないが、黒麒麟に牙を剥くのはまずい。いや厳密に言うならば、とある理由のため、その光景をダ・ギュールに見られたらまずいのだ。
 「くっ!」
 黒麒麟の手から放たれる漆黒の鞭。冬美が接近戦を苦手としていることは今も昔も変わらない。まして手を出せない相手では、対処が難しいところだった。
 「そこだ!」
 鞭から逃れても、間髪入れずに迅が背後から襲い掛かる。迅の拳は一撃でも致命傷。それが分かっているから彼女は魔力を防御に使わなければならなかった。
 ドゥム___
 鈍すぎる音と感触が迅の手に響く。彼の手は白くぼやけた魔力の玉に遮られていた。それはゴムボールのように歪んで、迅の力を受け止め、しかも腕を飲み込んでいた。
 「なっ、なんだ!?」
 片腕を包み込んだまま、玉が上昇する。そして冬美の一念とともに___
 「!」
 ゴッ!
 爆発した。しかし威力はディオプラドほどでしかない。あれでは黒麒麟の闇に体を守られている迅を倒すのは無理だろう。しかもこれは一難が去っただけでしかない。
 「はっ!」
 背後に風切る撓りを感じたときには、黄泉の獣の髭で作られた鞭が背中を食らった。
 「くっ!」
 血飛沫が舞い、冬美が呻く。さらに二発、三発、対処の猶予もなく鞭が服をはぎ、背中を食い進む。
 「うああっ!」
 なんとか魔力を振り絞って放ったのは眩い光。黒麒麟は怯んだが、冬美の動きは重かった。
 (闇に馴染みすぎたか___光に関する呪文の反応が遅い___)
 光か闇か、体の中での切り替えが思うようにいかなかった。感覚のズレは、飛行のための魔力さえ鈍くする。
 「おらぁぁ!」
 「!」
 上空から迅が迫っていた。
 「ドラギレア!」
 逃げ場のない大火炎が空に広がる。本調子でなくとも、瞬時にこれだけの呪文を放てるのは凄まじいこと。ただ今の迅にはそんなもの諸共しない盾があった。
 「!___凛様の闇か!」
 迅がその身に受けた黒麒麟の波動が防護服となる。炎を接点から黒く染め、体に一切の害を与えない。炎を突き破って現れた狂気の男は、生身の左手でなく闇が宿った右手を振りかざしていた。
 ブンッ!
 振り下ろされた闇の手は、やつでの葉のように大きい。だがそれは冬美の体を殴打することなく、通り過ぎてしまう。思わぬことに面食らった迅だが、変化はすぐさま起こった。
 「ぐっ!?」
 惨たらしい音を発し、冬美の背中の傷から夥しい鮮血が噴き出した。しかも血は黒ずみ、煮えたぎっているかのような熱を持っていた。闇の炎は体の外を焼くのではない、内なる光を焼く。冬美の身体は闇の炎の手に焼かれ、生命の源たる血が煮えたぎった。
 「こりゃすげえ___!」
 驚くべき破壊力に狂喜し、迅は再び手を振りかざす。逃れられないと悟り、苦渋に満ちた表情を浮かべる冬美。その悩ましい情景に黒麒麟は恍惚となり、いつの間にやら筆を握っていた。
 そのときである。偶然か、ドラゴンズヘブンから迅と黒麒麟が直線で結べる位置にあった。
 「竜波動!」
 夜空の中で黄金の輝きはとても目立つはずなのに、この場を切り抜けることに腐心していた冬美、彼女を血祭りに上げることに夢中になっていた迅、冬美が見せる表情に恍惚を抱いていた黒麒麟、誰も気付いていなかった。
 気づいたときには、強烈に輝く光の波動が戦場を劈いていた。
 「くっ!」
 目前を駆け抜ける光の凄まじさに冬美は呻いた。闇の中の光はなんと眩く、刺激的で攻撃的なことか。だが感慨に浸っていられたのも一瞬だ。
 「!」
 迅がどうなろうと知ったことではなかったが、黒麒麟までもが光りに飲まれたことに冬美は狼狽した。
 (凛様の名を借りてその様か!)
 光が駆け抜ける。そこに黒麒麟の姿はなく___
 「あぅ___」
 横腹を抉り取られた幻夢がいた。彼の腹には、美しき闇の女神の姿が描かれていた。紙ではなく自らの身体に相手の姿を描くことで、力量、能力まで己を通じて複写する。彼の極めつけの能力だった。
 「ちっ!」
 「フュミレイ!」
 舌打ちして幻夢の元へと飛ぶ彼女の背に、上擦った女の声が投げかけられる。幻夢の体を抱き止めたところで振り向くと、紫のはずの彼女は黄金に輝いて、喜びと怪訝が半々の複雑な顔をしていた。再会を喜ぶような好意的な言葉を期待しているのだろう。だが、今はその時ではない。
 「馴れ合いはごめんだ。」
 「え!?」
 「今の私たちは共に歩めない。お前は竜神帝、私は黒麒麟の従僕だからな。」
 冬美は毅然と言い放ち、意識を失った幻夢もろとも己の体を黒い魔力に包み込んだ。
 「ちょっ___フュミレイ!?」
 手を伸ばしたところでもう遅い。彼女は逃げるように消え去ってしまった。残ったのは血の匂いと、余韻、そしてもう一人の敵。
 「___!」
 ソアラは横からの殺気を感じて身を引いた。過ぎ去るのは闇の炎の手。
 「グハハ!てめえを殺す!」
 そこでは、もはや肉体の半分以上を失った迅が笑っていた。竜波動は彼の下半身の全て、さらにもう片方の腕をもぎ取っていた。光の波動ほど、今の彼の身に響く攻撃はない。だがもはや苦痛さえ感じなくなっているのだろう、身体の大半が闇の炎に置き換えられているのに、彼は笑っていた。
 「くたばれ!」
 自身の破滅さえも知らない哀れな復讐鬼。もう彼は息絶えたところで黄泉の闇には帰れない。
 パァァァァン!
 ソアラはただ竜の使いの輝きを強めるだけだった。それだけで、迅の闇の手が弾け飛ぶ。キックを出せば足が消え去った。
 「せめて安らかに眠りなさい。」
 最期の最期で与えられた慈悲は、多々羅を失って以来空白だった彼の心に響き渡る。彼が目を見開いて止まったそのとき、ソアラは輝きながら迅の顔に手を伸ばした。そして迅は暖かな光に包まれる。死の瞬間の顔、一瞬過ぎて分からない。ただ、きっと穏やかだっただろう。

 「そういうことか。」
 闇の中、ダ・ギュールが怪訝な顔で水晶を睨み付けていた。彼が見ていたのはドラゴンズヘブンでの戦いだった。そして黒麒麟だったはずの人物が実は幻夢だとを知ったとき、彼は一つの確信を得た。
 (やはり危険を孕んでいた。アヌビス様の意志とはいえ、ここまで追い込んでみすみす逃す手はない。)
 彼は水晶の中に、夜空に紛れる影を見つける。
 「所詮は女だ。すぐに心変わりする。」
 無愛想な顔に一層の不愉快さを滲ませ、ダ・ギュールは闇に溶けるように消え去った。

 一方、その頃___
 「うわぁぁぁ!がっ!」
 暗く、ジメジメした岩窟に悲鳴が響く。衝撃音と呻き声まで、何重にもなって冷徹な空間を駆けめぐった。
 「くぅ〜っ___!」
 石床に尻を強打したミキャックは、暫くその場を転がり廻って苦悶の声を上げた。その手には契れた縄ばしごを握りしめていた。
 「___まずいな。」
 建物の三階くらいの高さから落ちただろうか。飛べるはずの彼女が、無様に落下して床に腰を叩き付けたのだ。恨めしそうに手にした縄ばしごを見つめ、仰向けになると天井にぽっかり開いた縦穴に口惜しさを抱く。
 「帰れるか?いや、弱気なことは言ってられない。見つけるものを見つけて帰らないと駄目だ。」
 不安を抱くのには訳がある。気づいたのは、この暗い岩窟に足を踏み入れるため、発光呪文イゼライルを使った時だった。灯っていたはずの光が何の前触れもなくかき消され、胸に締め付けられるような窮屈さを感じた。それからはもう駄目。魔力を使おうにも身体がウンともスンとも言わなくなった。羽ばたいてみても、翼には普段の力の半分も入らなかった。
 セサストーンは小さな島に岩窟の塔がそびえ立つだけの冴えないところ。しかし神の牢獄の名にふさわしく、入り込んだ者の力を強烈に抑制する。出入り口は岩窟の天辺、牢獄たる場所は岩窟の底。ここに投獄されるのは、縛られて深い井戸に落とされるのと同じくらい絶望的だ。
 そして今、ミキャックもその絶望的な状況に陥った。力を封じられたことはもちろん、縄ばしごが腐っていたことが一番の誤算だった。
 「この抑止力___そうか、だから帝はここに力を封じ込めたんだ。」
 ここならば夥しいであろう帝の力も封じられるに違いない。ただ問題は___
 「この牢獄のどこに力が眠っているのか___だな。」
 光の差さない牢獄はまさに暗黒。薄暗い黄泉で過ごしていた経験がなければ、心細くなって取り乱したかもしれない。ともかく、捜し物をするには最悪の条件だ。
 「___」
 迷っていても仕方がない。腰の痛みを振り切って立ち上がったミキャックはとにかく壁際まで歩み、それから壁づたいに牢獄を一周してみることにした。
 (九、十___)
 一定の歩幅で進むことを意識し、歩数から牢獄の広さを割り出す。
 (部屋の形は正方形、一辺は十歩___)
 一周回った頃には少しだけ目が慣れていた。歩数を考えて部屋の中央とおぼしき場所に戻って天井を見上げれば、すっぽりと縦穴が伸びている。これで部屋の作りは掴めた。
 「後は手当たり次第に探すしかない。」
 まずは右手の壁際から左手に向かって虱潰しに探すとしよう。できるだけ手際よく、それでいて抜かりなく。
 それから___
 「く___」
 ミキャックは差し込むような傷みに顔をしかめた。些細な歪みを探して石床を掻いていた彼女だったが、部屋の半分まで来た頃には両の中指の爪が割れてしまった。
 ただ怯むことはない。なにしろ指はまだ八本ある。
 「絶対に見つけてやる___」
 決意を新たに、改めて床に這い蹲るミキャック。背後の気配には全く気が付かなかった。
 「何を探しているのかは知らないが___」
 聞き覚えのある声にミキャックは仰天し、飛びすさぶ獣のように身体ごと振り返った。
 「このセサストーンの石床には僅かの隙もない。」
 彼女の陰影は暗がりの中でも浮かび上がる。それこそまさに闇の女神の成せる業か。色白の肌はボンヤリと光っているかのように見え、ミキャックの目を釘付けにした。
 「凛___様___」
 力を押さえ込む神の牢獄というのに、暗闇は彼女の周囲で蠢いている。それだけでミキャックの背筋に寒気が走った。黄泉で仕えていた頃とは違う、気を許せない緊張感で全身が張りつめる。
 「何を恐れているの?小鳥。」
 彼女の恐怖心を知り、レイノラは嘲笑した。優しい言葉を掛ければ手元に引き戻すのは難しくないと思わせるほど、ミキャックの怯えは明らかだった。ただレイノラは、記憶を失った彼女、ミキャックではない小鳥の姿しか知らない。
 小鳥は純真無垢で、甘えん坊で、傷みと優しさに弱い女だった。
 ミキャックは違う。誠実ではあるが純真ではない。甘えを許さず、身を切るほどの苦しみにも意志を曲げず、周囲の同情を拒み、己の力で道を切り開こうとする。
 彼女の本質は小鳥なのかも知れない。しかし人格は違う。苛酷な青春を生き抜いてきたミキャックは、自分の正義を全うする頑固な女だ。
 「私はもう小鳥じゃありません。ミキャック・レネ・ウィスターナスです。」
 そう口にした時から、ミキャックの恐怖は勇気に塗りつぶされた。
 「それはつまり私に手向かうと言うことか?」
 ミキャックが怯えを振り払うと、レイノラも打ち伏す強者の顔に豹変する。闇のオーラはミキャックの足下まで広がり、刺々しい殺意が足先から脳天へと駆け抜ける。
 ただ彼女は怯まなかった。負の歴史を知った今、目指すものは竜神帝、レイノラどちらかの勝利ではない。互いが蟠りを解き、手を取り合う姿である。
 「ここに何をしに来た?小鳥。」
 だからレイノラの鋭い眼差しにも、深みある声の威圧にも、臆することはなかった。
 「帝が封印した力を解き放つために。」
 「封印?」
 レイノラは訝しげに眉をひそめた。
 「過ぎた力が一つの天族を滅ぼし、世界の多くを破壊に導いたことを悔いて、帝は己の力を封じました。」
 言葉の端々に感じ入るものがあったのか、レイノラは数度眉間に力を込め、視線を強めた。
 「凛様、あなたは誤解をして___くっ!?」
 背に強い痛みを感じてミキャックが呻く。自分の意志とは無関係に、黒く染められた翼がねじ曲げられていた。
 「何を吹き込まれたかは知らないが、そんな言葉に聞く耳は持たない。」
 「___凛様___」
 右の翼が左に、左の翼が右に、交差して紐でも結うように捻られる。ミキャックは苦痛に顔を歪めながら、それでも毅然としてレイノラから目を逸らすことはしない。
 「凛様___目を覚ましてください!」
 「黙れ!」
 鈍い音が閉鎖的な岩の牢獄に響き渡る。その瞬間、膝が折れそうになりながらミキャックは踏みとどまった。背中に走る激痛も、唇を噛んで堪えきった。翼はダラリと垂れ、ホウキのように羽を床に広げる。
 「どうか___どうか私の話を聞いてください。」
 ひれ伏すことはしない。これが決して命乞いでなく、面と向かって伝えたいことがあるという意志を示すために、脂汗の浮かぶ顔で気丈に訴えかける。だがレイノラは冷酷だった。
 「死にたいのか?」
 レイノラが指先を揺れ動かすと、ミキャックの右頬で血が弾けた。裂傷とは違う、内側から皮膚が割れて、血を噴いた。痛みはミキャックの身を一瞬強ばらせたが、彼女は流れ出る血もそのままに、強い眼差しを保ってレイノラを見据えた。
 「あなたに真実を伝えるまでは死ねません。」
 強く曲がらない意志こそ彼女の真骨頂。頑固さはレイノラに舌打ちをさせ、彼女から若干の冷静さを奪った。
 「___伝えれば死んでも良いのか?」
 女神にしては幼稚な物言いだったかもしれない。ただミキャックが決意を示すにはもってこいの問いかけだった。
 「それであなたの誤解が解けるなら。」
 折られた翼と、裂けた頬がむしろ説得力となる。喋るだけでも痛むだろうに、彼女はいつも以上にはっきりとした声で言い切ってみせた。
 「言葉では駄目だ、私を説き伏せるだけの証拠を示せ。」
 冷酷さを崩れない。しかし変化はあった。
 そもそも彼女がセサストーンに来た理由は?
 説き伏せるだけの証拠を示せとは?
 ただひたすらにジェイローグを憎み続けていた女神の心には、大きな迷いが生じているのだ。
 「証拠___」
 しかし、ミキャックにそこまで読みとれるゆとりはない。表面上は冷静でも、証拠と問われて彼女の思考は混沌とした。
 「ないの?」
 帝の記した歴史書を彼女が信用するだろうか。否、ドラゴンズヘブンに戻ることさえ許されるとは思えないし、そんな遠回りをしていては全てが冥府に飲まれてしまうだろう。迷い迷って、ミキャックは一つの答えを見つけた。
 「あります。」
 ただ、それは賭けでもある。
 「このセサストーンに眠る帝の力、それが証拠です。」
 自信がないと思われたくはないし、虚勢の張るのも苦手じゃない。ミキャックの声は震えることも裏返ることもなく、真っ当だった。レイノラはそんな彼女の態度に不快な面持ちを見せる。
 「なら探しなさい。」
 そして徐に一本の黒い蝋燭を取り出した。指をスナップすると芯に青い炎が灯り、若干だが岩窟が明るくなる。
 「これが燃え尽きるまでに見つけなさい。できなければ、おまえを殺し___ジェイローグも殺す。」
 嘘ではないだろう。この神の牢獄でも労無くして力を示すレイノラからは、夥しい殺意が迸っている。それこそ側にいるだけで圧倒されそうな殺意。前髪が揺らめき、右目が僅かに覗くとそれは顕著だった。
 「___」
 ただミキャックは怯まない。かつて栄光の城でアヌビスと真っ向から対峙してみせた彼女は、この手のプレッシャーには屈しない。無言のまま身を翻して這い蹲り、床に落ちた血液の滑りに煩わしさを覚えながら捜索を再開した。
 ___
 時は静かに過ぎていく。岩を擦り、掻く音を針音代わりに、火は蝋の時計を食い進む。ミキャックは焦燥で我を失わないよう灯火には目を向けず、努めて冷静にセサストーンの床と壁を調べ回った。
 「っ___」
 また爪が剥がれかけ、指先が血で濡れる。それでも今は痛みを堪える時間さえ惜しい。己をそこまで突き動かすのは帝への愛敬の証明か。
 だが光明は差さない。全ての爪を紅く染めても、力の在処は分からなかった。
 (焦り始めたな___)
 ミキャックが蝋燭を一瞥した。それに気づいたレイノラは冷笑を浮かべる。しかしもはや相当に短くなった蝋燭を見ても、彼女は慌てた素振りすら見せず、レイノラに尻を向けたまま四つんばいになって何かを考えている風だった。
 身動きせず、ただその場にじっとしている。何かをしているのか?彼女の後ろ姿しか見えないレイノラは、少しだけやきもきした。そうしている間も蝋燭は短くなり、ミキャックが漸く立ち上がったときには、あと百数えるほどの猶予しかなくなっていた。
 「___」
 ただ振り向いた彼女の面持ちには、これまでにも増して強い自信と、固い決意が現れていた。レイノラの想像とは裏腹に、焦りや動揺など微塵もない。覚悟だけが漲っていた。
 「凛様。」
 「___」
 レイノラは答えない。しかし目は合わせた。
 「凛様の足下を、もう一度調べさせてください。」
 沈黙を守ったまま、レイノラは壁際へと歩いた。塵さえ入り込む隙もないのか、冷え切ってはいるが清潔な壁により掛かり、ミキャックの挙動を見守った。彼女はレイノラのいた場所にしゃがみ込み、床に手を触れている。
 捜すのとは違う、その仕草は「感じている」と言うのが相応しかった。
 (感覚で捜そうというのか___?)
 冷たい闇の中ならば暖かい光の存在は際だつ。目で見るのではなく、肌で、命で感じ取るのだ。
 (悪くはない。おまえは私が思っていた以上に優秀な戦士のようだから、優れた感覚を持ち合わせているのだろう。だが例えどこからかジェイローグの力が露見していたとしても、セサストーンでそれを感じ取るのは難しい。おまえが私の足下に何かを感じたというのなら、それはきっと私の気配だ。)
 レイノラは彼女の行動に悲観的だった。ミキャックは実にひたむきだが、それに胸打たれることは決してない。ただミキャックも、同情を誘うために爪を傷つけ、無心に床を探り回っていたわけではなかった。
 彼女を突き動かすのは信頼。ただそれだけ。
 レイノラに足りないのは信じる心。それを呼び覚ましてあげたいだけ。
 「___」
 そこに立っていたレイノラの体温か、それとも手を触れていたことで岩が暖められたのか。しかし確かに、ミキャックは僅かな温もりを感じた。一面の岩盤の床、その一転だけが微かに温い___気がする。
 耳を付け、指で床を叩いてみても、下に空洞があるような響きは返ってこない。
 自信は持てない。だが、もうここに賭けるしかなかった。
 (溝は___)
 ミキャックはこの辺りの床に隙間がないか、指を走らせ目を凝らす。爪から滴る血を床に垂らし、それが浸透する極微細な隙間を捜した。
 (無ければ自分で作るしかない___)
 どうやって?拳で叩いて壊せるほど薄い岩盤ではない。だがなりふり構っていられないのも確かだ。蝋燭は今にも消え入りそうなほど、火を弱めている。
 (何で武器を持ってこなかったんだろう。ナイフの一本でもあれば違うのに!)
 怒りをぶつけるように、彼女は拳で床を叩いた。指が熱くなっても、腕が痺れても、お構いなしに叩き続けた。竜神帝の力はこの下にあると信じて。
 (無様ね。)
 その行為はレイノラの目にはやけくそに映った。がむしゃらさが冷淡な心を一層凍てつかせる。そして一時とはいえ、ミキャックに期待をしてしまった自分を呪いたい気持ちになった。
 ドラゴンズヘブンから一人飛び立つ彼女の気配を感じ、竜神帝に関する何かしらの秘策があると睨み、ダ・ギュールに知られぬよう幻夢を代役に立ててまで、彼女を追いかけた愚鈍な自分を。
 (小鳥も私も無様。)
 蝋燭はほとんど溶け落ちながらも、いまだに燃え続けている。それもそのはず、己の闇を駆使して蝋燭のように見せてはいるが、実のところレイノラが魔力で青い炎を灯し続けているに過ぎない。もっともセサストーンではこの程度の炎を作り出すのも重労働だが。
 (もう終わりだ。天界もジェイローグも私も。)
 悲嘆に暮れることはない。滅びの先にあるのはただひたすらの虚無であり、いっさいの享楽も悲嘆も存在しない。かつて愛した者を死に追いやり、数多の記憶が宿る聖地を滅ぼし、それでいてなお生き続ける己に残るものは何もないのだ。
 生き続けることそれそのものが罰である。復讐心の果てにあるのは虚しさでしかない。その虚しさから逃れるための希望を、こともあろうかジェイローグに期待していた。
 積年の恨みを口にしつつ、彼への希望を断ち切れない。
 実に俗なことだ。それでいて神と呼ばれるのだから片腹痛い。
 「笑止___」
 そう呟くと、レイノラは一念を込めて蝋燭の火を消した。岩窟牢が再び暗闇に戻る。
 「そこまでにしよう。これ以上の足掻きはお互いに惨めになるだけだ。」
 身体から黒い息吹を沸き上げ、レイノラがミキャックに歩み寄る。息吹は暗闇を駆ける鋭利な帯となって、彼女の身体を撫でた。それだけで次々と裂傷が走る。
 「凛様!ここです!ここに光の温もりを感じるんです!」
 「見苦しいぞ、小鳥。」
 「本当です!信じてください___私も、帝のことも!」
 闇の帯がうねりを上げる。肉を食らう音とともに、飛び散った滴が岩を打った。
 「凛様___あなたが倒さなければならないのは___ぐっ!ぅあっ!」
 闇は凄惨な情景さえ黒く塗り潰す。帯が撓るごとに、ミキャックの身体は深く切り刻まれていった。肩が、胸が、腹が裂け、返り血はレイノラの頬まで真っ赤に染めるほどだった。
 そして___
 「ぅ___」
 攻撃が止んだ。破壊の力にその身を支えられていたミキャックの身体は、ゆっくりと前のめりに___
 グンッ___!
 倒れなかった。命を賭して一歩を踏み出し、決死の思いで踏みとどまる。突きだした膝に片腕を乗せ、自分の身体を杖にして堪えた。
 「___」
 あまりにも頑固な忠臣に呆れ、レイノラは小さなため息をつく。そして手を変えた。
 「倒れなさい、小鳥。」
 一転して穏やかな微笑を浮かべ、血で滑る彼女の頬に手を伸ばし優しく諭す。慈悲を以て綻びを生もうというのだ。
 「___嫌です___」
 しかし彼女の意志は断固として揺らがなかった。
 「命が続く限り___私は信じます!」
 裂傷は臓腑にまで達しているのだろう。血反吐を交えながら、ミキャックは叫んだ。それが最期の訴え。次の瞬間、レイノラの左手が彼女の顎を持ち上げると、突き出された首筋に闇のオーラが走った!
 「な___」
 いや、闇はミキャックの首筋に浅い傷を付けたところで踏みとどまっていた。レイノラの意志がそうさせたのだ。
 「これは___」
 命費えることを覚悟したのだろう。唖然とするレイノラをよそに、ミキャックは意識を失い彼女に凭れるように倒れた。レイノラは血みどろのミキャックを躊躇うことなく抱き留め、おぼつかない様子でその翼に手を伸ばす。翼の変化が彼女を驚かせ、最期の一撃を止めさせたのだ。
 黒く染められていたミキャックの翼が、根本から白に戻りはじめている。すでに半ばほどまで白く変わり、今もなお白が黒を押し退け続けていた。
 「強い光の力___それが闇を押し出している___」
 ではその光はどこから来ているのか?レイノラの視線はすぐさま床に向いた。
 「まさか___本当にあるのか?」
 自分よりも大柄なミキャックの身体を抱いたまま、レイノラは前髪を揺らめかせて右目を露わにした。夥しい闇の力が沸き上がり、眼力は瞳術と化して床の一転に力を結集させる。重い球体を沈めていくように、セサストーンの床が罅入り、丸い窪みを生じていく。
 (かつてのセサストーンの抑止力はこんなものではなかった。もしや___すでに何か大きな力を抑止しているから___?)
 疑念の答えを明らかにするために、レイノラは床の一転に全てを傾けた。そして___
 ゴガッ!
 一際大きな音と共に、一点から始まった罅は巨大な亀裂となってセサストーンの床全体に広がった。その瞬間、深い亀裂の底から目映い光が溢れ出た。
 それが、答えだ。

 暖かい日差しを受け、草のしとねに横たわる。一際暖かなのは膝枕。見上げれば幼い日に見た優しい母の面影に、心が安らぐ___
 「!」
 微睡みからの解放は突然だった。
 「良かった、気が付いてくれて。」
 目覚めてすぐにこの状況では頭が混乱する。まず飛び込んできたのはレイノラの哀愁漂う微笑みと、先程とは一変した彼女の言葉。そればかりか自分は彼女の膝に抱かれているし、何よりもセサストーンが明るい。
 「え?り、凛さま___?」
 何から問いかけて良いのかも分からず、ミキャックは困惑した。傷はあらかた塞がっているが、負傷が酷かったこともあって身体は思うように動かなかった。
 「おまえの勝ちだ、小鳥。」
 「え?」
 言葉では満足に伝わらない。だから証拠を求めた。自分の気持ちをそのままに、レイノラは手にした証拠をミキャックに見せた。
 それは光り輝く黄金の宝玉。台座には咆哮するドラゴンの姿があしらわれ、今は見ない古びた文字が幾重にも刻まれている。その上で黄金の宝玉は神々しく光り輝き、まるで台座の竜が太陽を崇めているかのようだった。
 「これって___」
 「ジェイローグの力が封じられた宝玉よ。」
 「!」
 雪が溶けた。そう感じさせるレイノラの微笑みを目の当たりにした瞬間、ミキャックの胸に怒濤が押し寄せた。たちまち目が潤み出す。
 「凛様___」
 「約束だ___私はおまえの言葉を信じる。」
 そして涙が溢れた。待ち続けていたその言葉を聞いた瞬間、全てが報われた気がして、涙を止められなかった。衝動に身を任せ、ミキャックは声を上げて泣いた。レイノラが彼女の髪を撫でてやると、高ぶりは頂点に達する。誇り高き騎士ではなく、レイノラの寵愛を受けた純朴なる小鳥の姿で、彼女はレイノラの胸に縋り付いた。

 一頻り泣き尽くした頃には、ミキャックは体を起こす力を取り戻していた。まだ全身に痛みは残ったが、彼女は改めてレイノラに向き直り、負の歴史を語りはじめた。
 レイノラは終始冷静に、時折相づちや、当時を顧みるようなことを言って、ミキャックを安心させる。ただ核心に触れたときだけは違った。裏でダ・ギュールが糸を引いていたこと、愛しきユーリスが魔の手に落ちたことを知ったとき、彼女は明らかに絶句し、ただ虚空の一転を睨み付けて小さく拳を握っていた。
 込み上げてくるものは、憤怒、悲哀、悔恨、叱責___とにかくあらゆる感情が胸中に渦巻いていたに違いない。何しろその時のレイノラは、ミキャックがこれまで見たことがないほど弱い表情をしていた。針で刺せば弾けてしまうほど、彼女の中で混沌とした感情が膨れあがっていた。
 それからは長い沈黙。ミキャックに話すことが無くなっても、レイノラは暫く黙ったままだった。
 「___今ので私の話は終わりです。」
 歴史を語る間はミキャックも気が高ぶっていた。しかし長い沈黙とともに冷静さを取り戻した彼女は、時間にそれほど余裕がないことを思い出した。
 「信じてもらえますか?凛様。」
 言葉が出ない気持ちは分かる。それは自分も過去に多くの裏切り、誤解、それによる悲劇を味わってきたから、例え話のスケールが違っていても衝撃の重みは分かる。ただ今は言葉を引き出し、彼女に行動してもらわなければならないのだ。
 「信じていただけるなら、ドラゴンズヘブンに帰りましょう。」
 「信じるも何もない___私は___私はなんと愚かな___」
 ミキャックは我が目を疑った。あの黒麒麟が、妖魔さえ触れることを恐れ、黄泉の動向さえも左右する淑女が、闇の女神レイノラが___涙を流した。天を仰ぎ、頬を伝う滴。それは白黒逆の右目からも同じように溢れ出ていた。
 だがそれも一時のこと、レイノラはすぐに涙を拭い、毅然とした面もちでミキャックを見つめた。
 「ジェイローグの元に戻ることはできない。」
 「えっ!?」
 「いや、私は天界にいる資格すらない。」
 そして黄金の宝玉をその場に置き、立ち上がる。
 「おまえはそれを手にジェイローグの元へ、私は冥府に戻り、ダ・ギュールに積年の恨みをぶつけてくる。」
 レイノラを突き動かすのは決死の覚悟か、その悲壮感は先程彼女の前に立ちはだかっていたミキャックの姿によく似ている。
 「駄目です!」
 ただそれでは駄目なのだ。ミキャックは背を向けようとしたレイノラの腕を掴んだ。
 「冥府を押し戻すには帝の力だけでは駄目なんです!凛様の闇がなければ天界は滅びます___!」
 「私がダ・ギュールを始末し、冥府を後退させる。」
 「それで綺麗さっぱり片づいたら自害するんですか!?そんなの卑怯ですよ!」
 遠慮無く心髄を剔る言葉にも、レイノラの表情は変わらなかった。ただミキャックは冷淡な彼女から情熱的な目を離さず、なおも声を荒らげた。
 「逃がさない___絶対逃がさないから!そんな狡い逃げ方、絶対に許さない!」
 隠し立てのない怒りは時に清々しさを伴う。険しくも冷淡だったレイノラは、呆れたように小さく笑った。
 「そんなことを言われたのは初めてだ。」
 「っ___すいません___」
 失言に気づき、ミキャックは我を取り戻して肩を竦めた。ただレイノラの腕を放さなかった辺りは立派だ。
 「黄泉でおまえと出会ったこと、思えばそれが全ての始まりだった。憎んでいたはずのヴィニアに愛着を覚え、ジェイローグから送られた竜の涙で青空を描きもした___」
 「その絵に込められた力を頼りに、私とソアラは天界に戻ってきたんです。」
 それを聞いてレイノラは目を丸くし、すぐに小さく笑った。
 「そうだったのか___」
 「本当は寂しかったんですよね、凛様は___」
 「___そんなに単純じゃないよ。」
 そこまで言われるとぐうの音も出ない。レイノラは呆れた様子で失笑し、踵を返した。
 「行くぞ。ジェイローグを救う。」
 「___はい!」
 嬉しさのあまり、ミキャックは痛みを忘れて飛び跳ねた。思いあまってレイノラの背中に飛びつかなかっただけましだが。
 一方で背後の快活さに短い苦笑を見せたレイノラは、すぐに冷淡な顔を取り戻す。
 (他の誰が許しても、私は自分を許せない___)
 喜びの中にある深い痛み。ジェイローグと再会したとき、彼が寛大でいればいるほど、自分は痛みの中でもがき苦しむのだろう。
 それがもっとも厳しい罰かもしれない。死よりも、遙かに。
 「側へ来なさい、この中では飛行の魔力を分けるのが難しい。」
 まずはここを出て、とにかくドラゴンズヘブンへ。竜神帝を蘇らせ、冥府の驚異を取り払う。自身のことはそれからだ。
 漸く気持ちに整理がついたレイノラは、ミキャックの身体を引き寄せると、黒い魔力で全身を覆う。床を破壊されても抑止の力は生きており、飛行一つにも慎重さがあった。
 そして天井の長い縦穴をゆっくりと上へ。
 穴は決して広くない。中間辺りに差し掛かれば、上がるにも下がるにも時間を要し、横穴などあるはずもない。それはつまりどういう事か?
 ガラ___
 「ん?」
 上から妙な物音がした。
 ガララガギ!グワララ___!
 物音はすぐに大音響へと変わった。それは大量の金属がぶつかり合う音である。
 「!?」
 レイノラは慄然としてミキャックの身体を己の背後に、上からの驚異に対して彼女の盾となるように、身を移した。黄金の宝玉が穴を明るくしている。だからけたたましい音と共に迫る驚異の正体はすぐに分かった。
 それは刃の雨。大量のナイフが、剣が、斧が、小槍が、穴の上から降り注いできたのだ。セサストーンは特殊な力を抑止する、しかし武具の切れ味を鈍化させることはない。この岩窟牢において、これほど効果的な処刑法もなかろう。
 (逃れられない!)
 そう悟ったからレイノラはミキャックの盾となった。そして刃の雨の向こうに見えた忌まわしき顔にも、気づくことができた。
 穴の縁から無表情な顔を覗かせる魔性の神官。迫り来る刃よりも、彼女の目はそちらに釘付けとなり、そして悲痛な叫びを上げた。
 「ダ・ギュール!貴様ぁぁ!」
 それは負け犬の遠吠えに等しい。上のフロアで、ダ・ギュールはすでに穴に背を向けていた。レイノラの声など、耳に残りさえしなかっただろう。

 夜明けが近づいてきたようだ。夜空の黒が徐々に藍へと薄らいできた。夜明けと共に、藍は橙の日差しに取って代わられる。その好対照は実に幻想的。しかし空には、そんな幻想とは縁遠い問答がこだましていた。
 「まったく___あれほどダ・ギュールから目を離すなと言われていながら___」
 「しょうがねえだろ!便所までは我慢できねえよ!」
 冬美と竜樹だ。冬美が竜樹の手を引くような形で、猛スピードで空を駆け抜けていく。
 「ダ・ギュールは凛様に不信を抱いていた。だから凛様は、別行動をするにも奴の目を逃れるために、幻夢を代役に立てねばならなかった。そしておまえにはダ・ギュールの見張りを頼んだ。なのにおまえは___」
 「わぁかぁったっ!俺が悪かったからもう言うなっ、てぅぉ!?」
 苛立ちながらも謝った竜樹だが、冬美が突然方向を変えたために危うく舌を噛みそうになった。二人を包んだ魔力は素早く近くの小島の茂みへと飛び込んでいく。
 「どうした?」
 ただならぬ状況を察知し、竜樹が声を潜めて問いかけた。
 「ダ・ギュールだ。」
 「なにっ!」
 「気を静めて見送れ。」
 そこで言葉を断ち、二人は藍の空を見上げる。暫くすると、黒い息吹に身を包んだダ・ギュールが飛び去っていった。その面構えはいつもの憮然と変わらない。だがあまりにいつも通りで、一切の口惜しさ、徒労への苛立ちが感じられなかったことが冬美の気に掛かる。
 「あっちは冥府の方向だよな?」
 「___悪い予感がする。」
 「あん?」
 冬美の神妙な呟きに竜樹は眉をひそめて振り返った。
 「奴が飛んできたのは凛様たちがいる方角からだ。二人の間に接触があれば、ただで済むとは思えない。」
 「嘘だろ?あの姉ちゃんがやられるなんてこと、あるわけねえよ。」
 竜樹は楽観的に言う。しかし冬美の考えは違った。ダ・ギュールの顔を見ると思うのだ、ケルベロスの参謀であり、稀代の策略家と謡われた父の面影を。
 シャツキフ・リドンは策略の成功を喜ぶことはしなかった。なぜ?策略の網を張り巡らせた以上、成功は必然だからだ。一方で、その必然を覆されると、父は口惜しさを露骨にした。そんな父の姿は、滅多に見られるものでもなかったが。
 「今のダ・ギュールは勝者の顔をしていた。」
 「なに?」
 この手の直感には自信がある。冬美は若干の焦りを抱きながら、竜樹の手を取った。
 「もう嗅ぎつけられることもない。急ぐぞ。」
 「ぅおっ!?」
 冬美の魔力が高まると、二人の身体は茂みから弾けるように飛び出す。竜樹がまた舌を噛みそうになってもお構いなし。先程以上のスピードで、稲妻のように夜空を劈いていった。

 ドラゴンズヘブンの城。見せしめとばかりに見晴らし塔をへし折っていかれては、見張り番も職場を移さざるを得ない。それ以来、帝の玉座がある謁見の間、その屋上が見張り番の定位置だ。
 「ぐが〜、すぴ〜。」
 島に逃れてきた人々はもちろん、元々島にいた者たちも、疲労が著しい。立て続けの脅威に晒され、多くの仲間を失い、心労のあまり昏倒する者も少なくなかった。今のドラゴンズヘブンは、寝息を立てて無防備に寝転がれる環境ではない。見張り番の立場でそれができるだけでも、トーザスは大物だ。
 「起きなさいっ。」
 「ふがっ。」
 額を叩かれて目覚めたトーザスは、微睡みながら左目を半開きにする。
 「あ〜、ローザ、おはよう___」
 それだけ言うとまた瞼が下がり、仰向けからゴロリと身体を横にする。
 「ほら起きて。交代の時間だから、疲れてるなら中で寝てきなさい。」
 手を叩いてトーザスの起床を促そうとするロザリオ。その時一陣の風が、大きくスリットが入った彼女の装束を巻き上げる。
 「きゃっ。」
 ロザリオは女の子らしく慌てて裾を押さえた。まあトーザスは背中を向けて寝ているし___
 「えへ〜。」
 「何ちゃっかりと見てるのよ!」
 もう一発、先程よりも強く額を叩かれ、さすがにトーザスも目覚めた。
 「それにしても風が強いわね。」
 「風?」
 ショートカットとはいえ髪がうるさく騒ぐほど風が吹き付けている。
 「ほら、もう夜明けだから。こんなところでゴロゴロするより、城の中でゆっくり休んで。」
 「う〜。」
 トーザスの腕を取って引っ張り上げようとするロザリオだが、彼はまだ頭がボーっとしているのか体を起こそうとしない。子供のような姿にロザリオは「やっぱり結婚なんて考えられない」と思うのであった。
 「ほら、もう明るくなってきた。」
 「お〜。」
 「もう、光を見てシャキッとしなさ___」
 明るさを増す果ての空。それを指差したまま、ロザリオは止まってしまった。そうしている間も、風は彼女の髪を、服を騒がせる。 
 「どうしたの?」
 「あ___あれ___」
 怯えを感じ取り、トーザスの微睡みは一気に失せた。そして彼女が指さす方角に目を向けたとき、彼もまた恐怖で胸が締め付けられる思いだった。
 「そ、そんな___」
 風は彼の身体も激しく撫でていく。その向かう先、それがロザリオの指差す先。夜明けの目映さをも食いつぶすように、あまりにも巨大な黒い大津波が迫る。冥府はもはや、手を伸ばせば届きそうなところまで近づいていた。
 「ついにきやがったか___」
 ベッドの上で上半身を起こし、窓からも見える冥府の姿に百鬼は舌打ちした。部屋の扉は閉じられているのに、窓を開けただけで室内に風が生まれる。全てを吸い込む力がそうさせていた。
 「怖い___」
 窓辺から冥府を睨み付けるソアラ。その両側に、リュカとルディーが縋り付いていた。二人は迫り来る脅威を見て、震えを殺すことができずにいた。
 「___」
 ソアラも言葉を失っていた。「大丈夫」とでも言ってあげたかったが、口に出来るような心境ではなかった。それほど初めて見る冥府の存在感に気圧されていた。
 自分ではどうにもならないものを前にして、彼女は己の非力を感ぜずにはいられなかった。そして、これほどのことができるアヌビスに対して、改めて畏怖を抱いた。やはり地界での戦いなんて、奴にとっては遊びに過ぎなかったんだと痛感した。
 「もうあまり時間がないな。ここも潮時だ。」
 覚悟を決めたわけではないだろう。百鬼は最後まで決してあきらめない男だ。だがその彼でさえ、言葉から悲壮感を消せなかった。
 「ギリギリまでミキャックが戻るのを待つ___しかないよね。」
 「ああ。ただ、みんなには別の島に逃げてもらおう。いざとなったら竜神帝もだ。その時のためにもおまえはここにいろよ。」
 なかなか戻らないミキャックの身を案じ、今にもセサストーンへ飛びたそうなソアラを百鬼が諫める。彼女まで城を離れては、ドラゴンズヘブンの危機に対処できるか分からないから。
 「私が指揮を執りましょう。急ぎ城を離れなければ手遅れになる。」
 「頼みます。」
 ラゼレイの目覚めが実に頼もしかった。まだ身動き一つにも苦慮する状態だが、彼は若き指導者として寝ているつもりはなかった。
 本丸陥落の時は近い。せめてもの救いは、彼らが冥府の危機に対処できる落ち着きを得つつあったことだ。的確な行動をとれるか否か、危機ではそれが生死を分ける。
 そしてこの時、岩窟牢の二人も危機の極限にあった。
 「はぁ___はぁ___!」
 血に染まった身体、歪む視界の中でミキャックは槍を手に肩で息をしていた。彼女の背後には、血みどろの床に足を投げ出し、背は壁に擡げ、弱々しい息を付くレイノラの姿があった。
 ダ・ギュールが穴へ投じた武具の雨により、レイノラは全身に深い傷を負った。それだけではない、武具には全て毒が塗布されており、些細な切り傷でも致命傷となるように細工されていたのだ。
 「く___」
 この毒がレイノラを追いつめていた。己の血液から熱が失われ、胸が絞り上げられるように苦しく、呼吸さえままならない。あれほどの力を秘めていた右目も霞が掛かったように澱み、あまつさえ全身の失血はとどまるところを知らない。
 たとえ神と呼ばれる存在でも、これほどの状況で命を紡ぐのは難しい。ただ、いまの彼女には強い味方がいた。彼女がその手に抱く黄金の宝玉は、レイノラの命を保とうと賢明に輝いていた。
 それはジェイローグの胸に抱かれる暖かさを、彼女に思い起こさせる。
 そしてもう一人___
 「この!」
 傷ついた身体に鞭打って、賢明にレイノラを守ろうとするミキャック。命を賭して誰かに守られる悦びも、とうに忘れていたものだった。
 「たああ!」
 ミキャックが蠢く何かを槍で突く。しかしそれは柔軟に形を変えると刃を包み込み、恐るべき力で彼女の手から槍をもぎ取ってしまった。そいつは目も口も鼻もない、床にこびり付いた血を吸うと簡単に桃色に変わるような単細胞。巨大な肉食のスライムである。
 「くそ___呪文さえ使えればこんな奴!」
 ダ・ギュールが残したのは刃の雨だけではなかった。周到かつ徹底している彼は、打撃にとことん強い捕食者をとどめの一撃に用意していた。ミキャックが口惜しそうに言ったとおり、スライムは炎で焼くか、凍らせて砕けば片づく相手。ただ、呪文なしでは切るのも突くのも叩くのも難しい。セサストーンの中でこそ、最も力を発揮するモンスターだった。
 「つああ!」
 今度は剣を拾い上げて横薙ぎに切り裂く。刃への手応えそのものはあるのだが、スライムは裂け目からすぐさま再生してしまう。そればかりかミキャックの腕に粘液まで飛ばす始末。
 「くっ!?」
 肌に焼けるような痛みが走った。持続する激痛にミキャックは呻く。逆の手で払い落とそうとするが、粘り気のある液は指にまとわりついて離れない。
 「!」
 そうしている間にも、全身に染みついた血の臭いを頼りに、スライムがにじり寄ってくる。ミキャックは慌てて刃を振りかぶるが、腕の痛みが躊躇いを生んだ。
 (切ったらこっちに隙ができる___でもどうすれば!?)
 剣を構えたまま数歩後ずさると、踵がレイノラの足先に当たった。もう後がない。
 「く___!」
 単細胞の分際で勝利を確信したのだろう。二人を壁際に追いつめると、スライムはゆっくりと縦に伸び上がりはじめた。
 「この!」
 苦し紛れに剣を投げつけるミキャック。刃は粘液に風穴を開けるが、それもすぐに流れの中に消えた。そればかりかスライムは二人の両側に粘液を伸ばし、退路を塞いでいた。
 (ここまできたのに___やっと凛様の誤解を解いたのに!)
 こんな程度の低いモンスターに望みを絶たれるなんて無様すぎる。
 (せめて凛様だけは___)
 ミキャックは力無きレイノラの身体を抱くと、スライムに背を向けた。それでどうなるわけでもない。だがとにかくレイノラを守りたいという思いがそうさせた。
 そしてスライムは獲物を捕らえるべく、粘液の身体を網のように大きく広げた。
 ___
 「ん?」
 覚悟を決めて堅く目を瞑っていたミキャックだが、粘液の蠢く音が聞こえなくなったことに気づき、ゆっくりと目を開けた。どことなく背中が寒い。
 「!」
 振り返ったミキャックは我が目を疑った。そこには粘液を蛸足のように広げたまま、凍り付いたスライムがいた。
 「危機一髪だったな。」
 その蛸足の隙間から、見覚えのある顔が覗いて笑みを見せる。久方ぶりの銀髪に、ミキャックも自然と晴れやかな笑顔になった。
 「姉様!」
 「___まだそう呼んでくれるのか?」
 「え?だってそれは___いや、そんなことより凛様の治療を!」
 再会の喜びに浸っている暇はない。笑顔から急転し、ミキャックは冬美に哀願する。冬美もまた、生気のないレイノラの姿を見て頬を強ばらせた。
 「凛様がこんなにも傷つくとは___」
 スライムの隙間から女神の身体を引きずり出し、その惨状に冬美は息を飲んだ。彼女が意識を失っていたことも驚きだが、肩、胸、首、腹についた深い傷跡には冷や汗さえ覚えた。生きているだけでも不思議な状態である。
 (___そうか、これが命を繋いでいる。)
 何が命を留めているのか、冬美はレイノラの手に引っかかる宝玉を一瞥した。結果として竜神帝が彼女を守っている。笑い話にもならない皮肉だった。
 「ここでは思うように魔力が使えない___」
 スライムを仕留めた呪文にしても、最上級の氷結呪文であるヘイルストリームと同等の魔力を賭したつもりだ。それでも効果は初歩呪文、フリーズブリザード程度でしかなかった。レイノラほどの巨大な命の器を満たすには、最大級の回復呪文が必要だ。つまりセサストーン内では不可能。
 「そうです、まずここを脱出しないと!」
 だからこそ脱出が急務だ。しかし縦穴にはロープも梯子もない。
 「魔力では私一人で舞い上がるのがやっとだ。凛様を抱えてでは___」
 「ならどうすれば!?」
 「案ずるな、策はある」
 取り乱すミキャックの前に手を翳し、冬美は至極落ち着き払って答えた。策略家の娘がこの程度で手詰まりになるはずないだろう___といわんばかりに。
 冬美は徐に指をくわえると、甲高い指笛を吹いた。それは岩窟牢から縦穴へと響き渡り、天辺の出入り口まで届いた。
 「出番か。」
 音を聞きつけ、天辺で胡座をかいていた竜樹が立ち上がる。まだ柄のない刀を握って。

 「ふぅ___」
 分厚いセサストーンの岩壁を睨み、竜樹はゆっくりと長い息を吐き出した。呼気が吸気に変わるとき、一度その目を閉じてまたゆっくりと息を吸う。そのリズムに合わせて刀を振りかざし、ピタリと身体の動きを止めたところで目を開く。眼差しは壁の一点に集中し、やがて吸気は頂点へ。
 龍風を失って以来、崩れていた己の自信。分厚い壁はそれを取り戻すのにもってこいの相手だ。力でなく、点と呼吸ですべてを断つ、それが刀の真骨頂!
 ギンッ!
 余韻が空に響き渡るほど、甲高い音がした。刀は岩に食い止められることなく、しっかりと振り切られていた。
 「手ごたえあり。」
 笑みで覗いた竜樹の犬歯は、幾分鋭さを増していた。本人は気づいていないようだが、刀の扱いと同時に羅刹の感覚も取り戻しつつあるようだ。
 「でも、一撃じゃ足りねえな。」
 巨大な岩窟牢は猛々しい己を取り戻すのに調度いい相手だ。なにしろ斬るのが岩なら百鬼との約束も関係ない。
 そして___
 「姉様___本当に脱出できるんですか?」
 ミキャックはやきもきしながら冬美に問いかけた。力を殺されながらもレイノラの傷を癒す冬美は、若干憮然として彼女の問いかけに答えなかった。
 (竜樹め___何をしている___)
 セサストーンに入るなり力の抑制に気づいた彼女は、いざという時のために竜樹を外に残した。
 指笛が脱出の合図だ。穴の縁まで来て声をかけろ___そう伝えたはずなのだ。
 「このままじゃ凛様が___」
 焦りを隠せないミキャック。冬美も徐々にではあるが焦燥を感じはじめたその時、異変が起こった。
 ヒュンッ!
 牢内を一陣の風が駆け抜けたのである。
 「え?」
 その風は鋭敏さを伴い、ミキャックの羽や髪、冬美の服の裾を少しだけ切り裂いた。その小さな異変は、すぐさま大きな変化に変わる。
 ゴ___ゴゴ___ゴゴゴゴ!
 部屋が音を立ててずれ動き始めたのだ。裂け目はごく細い直線でしかない。しかしそこを境に床が滑り、食い違っていく。
 「え!?ええっ!?」
 それからは壮絶だった。ミキャックが動揺している間に、岩窟牢の一部がそのままの形で落ちていく。大地の内側から地滑りを見たらこんな感覚なのだろうか。目前を巨大な岩の塊が滑る様は圧巻だった。轟音、迫力、速さ、すべてに圧倒される。
 そして全てがフッと消えた。現れたのは夜明けの空。そう、竜樹の刃がセサストーンを叩き切ったのだ。
 「嘘___」
 抑止力が消え、皆の身体に力が戻る。ただミキャックは驚きのあまり腰を抜かし、その場に座り込んでしまった。
 (馬鹿のやることはわからない___)
 冬美は頭を抱えたい気分だった。ロープ代わりになりそうなものを探して、自慢の力でレイノラを引っ張り上げるとか、そういった常識的な発想はあのじゃじゃ馬にはないようだ。
 「どうだ見たか!都合十二回目で真っ二つ!」
 朝日に刀を翳し、竜樹が冬美の前に躍り出る。声を上げて笑うその顔は、充実感で一杯だった。結果としてこの方法は正解だったのだろう。しかしミキャックはもちろん、冬美も彼女の破天荒に呆れるばかりだった。

 ___
 目映い光の中に闇のマーブルを走らせ、冬美が手を輝かせる。暖かな魔力を背に浴びて、レイノラは目を閉じていた。
 「ありがとう、もう大丈夫だ。」
 やがて目を開けると、後ろの冬美に横顔を向けて言う。その表情は若干疲れていたが、とても穏やかだった。
 「この程度で凛様の力が満ちるとは思えません。」
 「後は自己回復できる。それよりも小鳥の傷を癒してやってくれ。」
 セサストーンの近くに見つけた無人の小島。瑞々しい草の上に四人はいた。治癒を受けるレイノラの横では、疲れきったミキャックが仰向けで転がっていた。竜樹はというと、少し距離を置いたところで熱心に刀の手入れをしている。
 「黄泉で彼女と出会ったことが凛様の道を変えましたね。」 
 「___そうね。」
 小さな寝息を立てる彼女を見つめ、レイノラは郷愁的な笑みを浮かべた。
 「だが、お前とであったことも私にとっては大きかった。お前がいたから私はソアラに興味を抱き、もう一度ジェイローグのことを考えた。」
 「ですが誤解を解いたのは小鳥です。いや、もうミキャックと呼びましょうか。あなたも姫凛様ではなくレイノラに戻るのですし。」
 最後の魔力に、強い闇の力を込めてレイノラに送り込む。すると彼女の体の内から生命の息吹が溢れ出た。レイノラは改めて冬美の魔道の才に感銘を受けた。
 「ありがとう。相変わらず、お前の魔力には感心させられる。」
 「光栄です。」
 褒め言葉に微笑を返し、冬美はミキャックの元へと跪いた。そして再びその手を輝かせる。今度は闇のマーブルをまとわない、神々しい純白の魔力で。
 「おまえはフュミレイに戻らないの?」
 動揺を誘うような言葉だが、彼女の顔色は変わらなかった。
 「拒むものはないはずよ。ソアラも、かつての恋人も、おまえとの再会を望んでいる。」
 「私は黄泉に帰ります。」
 そればかりか、すでに腹に決めていたと言わんばかりにはっきりと答えた。
 「黄泉は暗く、殺伐とし、恐ろしい世界です。しかし私にとっては居心地がいい。」
 強がりだ。レイノラはそう感じたが、冬美も自覚している口振りだったので、咎めはしなかった。
 「それに、今はあれがパートナーだと思っていますから。」
 そういって彼女が指差したのは竜樹だ。
 「彼女に必要とされているのね。」
 「今のうちは。それに少なくとも私たちはダ・ギュールに疎まれる理由がありません。今はアヌビスの空気を感じていたいという気持ちもあります。」
 冬美は自分を高めることに熱心な女だ。黄泉にいる間も、彼女はレイノラから多くのことを吸収した。次はアヌビスから何かを得るつもりなのだろう。
 「私が必要とすれば、あなたは私の元へと戻るの?」
 「___その時が来れば戻ります。ただそれは今ではないとも思います。今のあなたに必要なのは、ジェイローグ以外の誰でもありません。少なくとも、天界におられる間に私たちを結ぶものはないでしょう。」
 留めたい気持ちはあるのだろう。ただ彼女のこれまでの働きに報いるためにも、レイノラは無理強いをしなかった。
 「___わかった。では、また会うときがあれば黄泉で。」
 「はい。」
 レイノラはその場で座禅を組み、両手で印を結ぶ。それだけで彼女の内から闇の息吹が溢れかえり、高まっていく。その夥しい力は、刀の手入れに夢中だった竜樹を振り向かせるほどだった。
 「ジェイローグの力は凄まじい。今、冥府に戻ってはおまえたちの命も危機に晒される。戻るのは時を待ってからにしなさい。」
 「お心遣い感謝いたします。」
 最後まで主従のやり取りを通す冬美に、レイノラは失笑する。
 「律儀だね。おまえは生まれながらの腹心だ。」
 「教育されてきましたから。」
 そう答え、冬美も自嘲気味に笑った。やがてミキャックが目を覚ます。彼女はレイノラの無事に歓喜し、憚りなく闇の女神に抱きついた。賑やかな声に冬美も笑みを隠さず、竜樹も無邪気な顔で寄ってくる。
 輪の中心には微笑みのレイノラがいた。
 冷淡に振舞い、周囲に緊張と畏怖を生み出した黒麒麟とは違う。
 彼女の周りは暖かさで一杯だった。

 「さあ急いで!気力を振り絞って冥府から逃れるのです!」
 ラゼレイは掠れた声を絞り出し、人々に呼びかける。しかし天族の足取りは重かった。
 ある老天族が言う。
 「ドラゴンズヘブンが滅びては天界はおしまいじゃ___これ以上逃げて何になる。」
 ある女性天族が言う。
 「もう疲れました___私たちはドラゴンズヘブンと運命を共にします。」
 壮年の天族までもが言う。
 「竜神帝が倒れた今、俺たちにはもうどうすることもできない。」
 命に対する執着は薄れ、いっそ死んで楽になりたい。そんな言葉が口を突く。だがラゼレイはその全てを否定した。
 「生きている限り希望はあります。希望の続く限り、私たちは生きなければならないのです。死んでしまっては何も残らない___希望さえも失われます。あなたたちが生き続けるという事実が、竜神帝を奮い立たせるのです!」
 その言葉に理屈はない。争いを好まない穏和な指導者は、情熱的に諭し続けた。一人でも多くの人に希望を取り戻させるために。
 だが、そうしている間にも風は強さを増していく。風が及ばないのは、竜神帝が眠る光の部屋くらいだろう。
 「___」
 外の喧騒が嘘のように穏やかな部屋。目映い白と光に包まれたその場所に、ソアラと子供たちがいた。
 (光が乱れている___)
 冥府が近づいている影響だろう、均一な白に時折翳りが走った。竜神帝の前に座るソアラはそれを見て眉をひそめる。彼女の両側には怯える子供たちが寄り添っていた。彼らに言葉はなく、ただじっとソアラの手を握っている。ソアラも少し強く、二人の手を握り返していた。
 一方、一家の大黒柱は謁見の間の屋上にいた。他には誰もいない。トーザスもロザリオも、ラゼレイと共に人々の避難に尽力している。そんな中、百鬼はたった一人で冥府を睨み付けていた。
 (早く帰ってこい___!)
 そしてミキャックの帰還を待っていた。だがそれも限界に近づいている。立っているのが辛くなるほど風が威力を増したらそれまでだ。諦めてソアラの元へと走り、帝もろとも少しでも遠くへ逃げなければならないだろう。
 「ちっ___」
 時と共に冥府は大きさを増していく。世界を飲み込む暗黒の口の凄まじさに、柄にもなく鳥肌が立っていた。
 (どうにかできるのか?これを。)
 敵はあまりにも巨大だ。冥府と自分の大きさを比べたら、それこそ竜と蟻、いやいや、この島と蟻くらいの差がある。いくら竜神帝の力がとんでもないといっても、一匹の蟻が島を動かせるのだろうか?
 「いや、信じるしかない!ミキャックは戻ってくるし、竜神帝は冥府を押し返せる!」
 自分に言い聞かせるためだろう、百鬼は一人で声を張り上げた。
 「そうだな、それくらいの意気でなければ。」
 思わぬ相づちに彼は驚嘆し、振り返った。そしてまた目を丸くする。
 「お、おまえは!?」
 そこにいたのは竜神帝を死の淵に追いやり、再三再四ドラゴンズヘブンを脅かした黒髪の美女、レイノラだった。彼は反射的に身を屈め、剣に手を掛ける。が___
 「違うんだ!」
 「ミキャック!?」
 彼女の後ろからミキャックが現れたことで全てが結実した。
 ___
 「ソアラ!」
 勢いよく扉を突き破り、百鬼が光の部屋に飛び込む。
 「百鬼!?」
 乱暴な登場に肩を竦めたソアラだったが、その後ろから現れたレイノラを見たときには、開いた口が塞がらなかった。
 「やったぜ!ミキャックがやってくれた!」
 「え!?で、でも!」
 百鬼の豪快な笑顔が彼女を一層困惑させる。
 「おまえには後で謝らせてほしい。今は時間がないんだ。」
 レイノラはソアラの前で立ち止まり、そう言葉を掛けた。緊迫した状況ゆえに穏やかな面持ちではなかったが、ソアラの戸惑いを和らげるには十分だった。何より、彼女が手にした黄金の宝玉がソアラの心を解きほぐしていた。
 「誤解が解けたのよ。千三百年ぶりに。」
 丸くなって眠る竜神帝に近づくレイノラの姿を感慨深げに見つめ、ミキャックはソアラの隣に立った。ソアラも立ち上がり、子供たちもまた、レイノラの姿を怖々と見ていた。
 「ジェイローグ___」
 傷ついた身体を横たえ、深い眠りにつく幼竜。その姿をじっと見据え、やがて目を閉じるとレイノラはゆっくりと跪き、黄金の宝玉を帝の身体の上へ___
 カッ!
 その瞬間、目映い部屋が一層輝かしい光に包まれた。

 冥府の核の神殿。
 闇の部屋に立ち尽くし、ダ・ギュールは一瞬とはいえ驚愕で目を見開いた。
 「光が___蘇った。」
 目映い光の力はドラゴンズヘブンから天界全域を駆けめぐり、冥府にまでその息吹を迸らせた。それを感じ取り、ダ・ギュールは打ち震えた。
 「抜かったか。」
 力が抑制されることを恐れ、自ら岩窟牢の底に踏み込まなかった詰めの甘さを呪い、ダ・ギュールは唇を噛んだ。その顔は、冬美曰く敗者の顔だった。

 再会の時。
 先に詫びたのは帝だった。自らの過ちを伝え、頭を垂れた。その所業にレイノラは心を痛め、取り乱して叫んだ。
 「悪いのは私だ!私が___私が馬鹿だったんだ!だから___だから謝らないで___私を罰して!」
 だが竜神帝の優しさが変わることはなかった。
 「君だけではない、これは互いの過ちだ。報いを受けるのであれば、我々二人が受けるべきだ。」
 返す言葉が見つからなかったのだろう。レイノラは押し黙り、涙を零した。
 そして___

 漲る光の力に後押しされるように、朝を迎えた天界。その空は青い。
 迫り来る冥府の暗黒は、雲や島を飲み込むことはできても、空の青さまでは飲むことができない。
 その陽光を力に変え、ドラゴンズヘブンの空に一組の男女がいた。
 一人は、光の竜神ジェイローグ。またの名を竜神帝。
 一人は、闇の女神レイノラ。またの名を黒麒麟。
 世界を破滅させる脅威を前に、二人は千三百年ぶりに互いの手を取り合った。
 ジェイローグは何事にも屈しない、そして己の正義を貫く勇者の面持ち。その神々しき姿は、一目見ただけで人々の嘆息を誘うほど、凛々しく、力強く、美しい。
 まさしく神の姿であった。
 レイノラは強者の仮面を外した乙女の面持ちでいた。もとより筆舌にし難いほど妖艶に美しい彼女が、ジェイローグの前では貞淑な乙女となった。それこそ、これまでの彼女の姿が虚勢でしかなかったかのように。
 それは神と言うよりも、力強き夫を愛する妻の姿であった。

 己の力の高まりと共に、ジェイローグは竜と化した。
 幼竜ではない、雄々しくも美しい、巨竜に。
 天差す角、白銀の牙、蒼碧の眼、真白の髭、黄金の鱗___
 全てが凛々しく、全てが力強い。
 その姿は、ソアラを一目で見惚れさせてしまうほどだった。
 彼女は思った___
 これこそ完全無欠なドラゴンだと。

 時が満ちた。
 ジェイローグの全身が神々しく輝き、それを中和するようにレイノラの闇が取り巻く。
 全てが頂点に達したとき、神は己の全霊を放出した。
 竜の口から放たれた光の柱。それは闇の帯を纏い、一直線に冥府へと突き刺さる。
 そして、世界が震えた。

 「ああアヌビス様___私は務めを全うすることができませんでした。」
 冥府の核の神殿、その中心部。最後まで触手に身を委ねたまま、テイシャールは達観の面持ちで光を迎えた。
 目映い輝きが神殿を飲み込み、核を撃ち抜くまでは一瞬だった。
 暗黒の世界に広がる光。それは全ての崩壊を意味する。
 天界より奪い取った大地を砕き、闇に巣くう者たちを滅し、光は冥府を駆けめぐる。
 そして逆走が始まった。
 その速度はこれまでとは比較にもならない。あれほど絶大だった黒は、たちまち空の果てへと追いやられていく。その事実が帝の力の凄まじさを物語っていた。
 ともかく、冥府はほんのささやかな時間で天界より消えたのだ。

 ___
 「ありがとう、レイノラ。」
 大役を果たし、巨竜は己の胸元で荒い息をつく女神を労った。
 「君のおかげで天界は守られた。」
 レイノラは声を出すことができなかった。息苦しいからではない。振り返って、愛する巨竜の穏やかな微笑みを目の当たりにすると、言葉が出なかった。そして悲しい顔をし、涙を溢れさせた。
 なぜか?
 巨竜の身体が抜け殻だと分かったからだ。
 「だが、まだ終わりではない。」
 「ジェイローグ___あなたは___!」
 彼は天界を守るために、まさしく全てを賭したのである。それは取り戻した光の力であり、己の生命力でもある。
 「私は少々傷つきすぎた。」
 「待って___まだ私は___!」
 ジェイローグの身体が朧気な光に包まれた。そして巨竜の全てが萎縮していく。レイノラの目の前で、ジェイローグは微笑みながら幼竜の姿に、さらにそれを通り越して目も明かぬ胎児の姿に。
 もはや身体の大きさは鼠ほどでしかない。そればかりか石のように固くなり、レイノラの両手の上にその身を横たえて動かなくなってしまった。
 「あ___ああ___!」
 満足に謝ってもいない。いや___抱き合うことすらできていない。地の果てから舞い戻り、やっと取り戻した愛なのに。その喪失にレイノラは嗚咽を止めることができなかった。
 これほど重く、苦しい罰はなかった。

 さらば冥府よ。
 さらば滅び逝く日々よ。
 人々の歓喜の声が嵐となってこだまする。
 女神の嘆きを掻き消すように。



 後編「魂の偉大さ」に続く




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