2 狂った歯車

 ジェイローグが投獄されてから十数年が過ぎた。彼は変わらずセサストーンの中に。一方のレイノラは、ゼッドとの生活に多少の安らぎを見出しながらも、ジェイローグのことを、わが子のことを思わなかった日は一日たりとて無かった。
 彼女が微笑みを取り戻すと、ゼッドもただ彼女に規律を与えるだけでは満足できなくなっていた。レイノラの持つ魅力は筆舌にしがたいものがある。もとより、闇は女の艶を彩り、男の野生を呼び覚ます。それはゼッドにとっても例外ではなかった。
 「なぜだ、なぜそう頑なに拒む。我々は夫婦ではないか。」
 「それは分かっています___ですが___」
 ゼッドはレイノラに愛を語り、彼女を求めた。夫婦であるにもかかわらず愛の無かった関係。レイノラはそれが長く続いていたからこそ微笑みを取り戻したが、ゼッドは一刻も早く互いの関係がより密接になることを望んでいた。
 「私はもう殿方に肌を晒したくありません___」
 十年を過ぎ、限界を迎えたゼッド。いや、同じ宮殿に住まってよく十年も我慢ができたものだと感心されるべきか。ともかく、ゼッドは執拗にレイノラを求め、彼女は頑なに拒否し続けた。
 「ジェイローグか___」
 その名を出すことだけは躊躇っていたゼッドだが、ついに思いあまって言った。
 「おまえは未だにジェイローグを忘れられないのか。」
 貞淑なレイノラ。しかしその身体には、孤高の神と謡われたウルティバンの血が流れている。勇ましく、気丈な目をしたとき、彼女の魅力は一層際だつ。
 「忘れられることがありましょうか。私はあの方と生涯を共にしたいと願っておりました。あの方の子も産みました。それをなぜ忘れられると思うのですか。」
 その言葉はゼッドを苛立たせた。彼女を今まで支えてきたのは彼ではなく、ジェイローグへの一途な思いだ。そう言い放たれた気がした。
 熱意が迸った。背を向けようとしたレイノラの腕を掴んで振り向かせ、ゼッドは強引に唇を奪った。
 「あの男はもう生きてセサストーンから出ることはない___私がジェイローグを忘れさせてやる!」
 長い口づけの後、ゼッドは血気盛んに言った。レイノラは憤り、抵抗を試みた。しかし___
 「それでも忘れられないと言うのなら、大神に事を伝えるまでだ!」
 その言葉に、彼女は何もできなくなった。
 彼が処刑されることはあってはならない。噂ではあるが、大神は新たな光の神となるべき資質の持ち主を捜していると聞いた。その決断を後押ししてはならない。
 レイノラは抵抗を諦めた。

 ゼッドが激しくレイノラを求めた。ゴシップの広まる早さといったらそれはもう恐ろしいものがある。あれから十数年が経ち、人々も忘れかけていた悲恋劇に再び火がついた。ゼッドを批判する神もいたが、一方でレイノラが未だに過去に縛られているのでは無いかと疑う声も多かった。
 そんなとき、この悲恋劇と同じくらい世の中を騒がせている話題があった。
 「わからんのです、とにかく息子が帰ってこなくて___」
 各地で人々の失踪が相次いでいた。何らいつもと変わりない生活を送っていた人が突然姿を消す。やれ山賊に捕まった、谷に落ちた、獣に食われた___この時代はどこに死の危険があるかも分からず、真相は闇の中に消えるのがほとんどだったが、とにかく死体や手がかりが見つからない例が多すぎた。
 人々は騒いだが、神が関わるほど重大な事柄ではない。秩序だけが全てではなく、混沌も世界が長く維持されるためには必要なものだから。
 しかし___

 「___」
 宮殿にて、レイノラは浮かぬ顔で窓から夜空を見上げた。清めた身体を薄手のローブでくるみ、ゼッドの帰りを待っていた。
 「おかしい___」
 しかし彼は戻らない。行き先は二つ向こうの工房都市マルコンのゼッド神殿だ。そこでは様々な武具が作られ、ゼッドは半年に一度、武具に神の加護を与えるために赴く。
 明日は宮殿の神事がある。そして今宵はゼッドに抱かれると決まっていた。彼は規律を尊重する男だというのに、戻らないのは不可思議だ。
 「___」
 心配するわけではないが、形だけでも共に過ごして来た身。レイノラは夜明けまで彼を待った。
 しかし彼は戻らなかった。そればかりか___
 「ゼッドソードが錆び付いている___」
 宮殿の祭壇に捧げられているのは、ゼッドの分身とでも言うべき神の剣。切れ味はバルディス一を誇るというゼッドソード、それが急速に錆び付きはじめたのだ。
 ゼッドの身に何かがあった___レイノラは戦き、滅びゆく剣を前に生唾を飲み込んだ。ただ、この期に及んでも心に激しい動揺、不安が走らなかったことには、自責の念を抱く。
 この十数年、ジェイローグがただ孤独に自戒し続けているというのに、私は何も変わっていない。それは彼の労苦に対してあまりにも申し訳がない___と。

 ともかくゼッドに何があったのか、調べなければならない。レイノラは神官二人を連れてマルコンへ飛んだ。そして異様な光景を目の当たりにする。
 「どういうこと___?」
 生活の息吹は残っている。都市を目映く照らす篝火や、露天に並んだ果物、寂しげに吠える野良犬、作業を投げ出したままの工房、そこには全てがありのままに残っていた。なのに人だけがいない。
 何気ない日々の暮らしのなかで、唐突に、都市にいる全ての人が忽然と消えてしまったかのようだった。不気味さはあるが強い瘴気めいたものは感じない。何者かの仕業だとしても、そいつはすでにここにはいないようだ。
 「誰か!誰かいませんか!?」
 レイノラの澄んだ声は静かな町に良く響いた。しかし答える者はなく、彼女はそのまま神殿に向かって歩き出した。その時、横手の民家で激しい物音が鳴った。すぐさまドアが開いたかと思うと、青ざめた顔の中年男が、脚をもつれさせながら飛び出してきた。
 「た、たた、助けてくれ!」
 酷く怯え、酷く焦り、酷く汚れた顔で、男は這いずるようにレイノラの元へ。神官たちが行く手を阻むと、彼はそのまま神官の脚に縋り付いた。
 「俺は___俺は地下室で仕事をしていただけなんだ___そしたら___!」
 レイノラは自ら男の元に歩み寄り、優しくその手を取る。男は興奮のまま強く握り返してきたが、彼女が一言二言声を掛けると次第に落ち着きを取り戻した。
 男の話では、自宅の地下の工場で徹宵の仕事をしていたが、それを終えて出てみれば家族も、隣近所も、大通りにも誰もいなくなっていた。怖くなったのでまた地下に戻り、身を潜めていたら、レイノラの声が聞こえて飛び出してきたということだ。
 ともかくまだ他にも残っている人がいるかもしれない。レイノラは神官たちに町の探索を任せ、神殿へと向かった。そして息を飲む。
 神殿には大量の武具が散らばっていた。そして、それを彩るように無数の血痕が散る。だがレイノラの目を奪ったのは神殿の奥、祭壇に刻みつけられた巨大な傷跡だった。
 「戦いの跡___?」
 マルコンのゼッド神殿は山を削って作られている。山を背にした頑強な壁が、まるで巨大な鋼鉄の固まりでも打ち付けたかのように大きく窪み、年輪さながらの罅を刻みつけていた。
 「ゼッド___」
 その衝撃の大きさを見る限り、戦士の一人はゼッドであろう。そして彼が帰らないことを鑑みれば、敗れたのもゼッドであろう。レイノラは郷愁にでも浸るかのように、暫く傷跡を見つめていた。祈りを捧げることは___するべきではないだろう。妻ならば、彼の生存を最後まで信じるものである。

 レイノラはその足で大神バランの元を訪れた。事を報告すると居合わせた神々は驚嘆し、大神も仮面のような不変の顔に、若干の怪訝さを滲ませた。
 「よもや神が何者かに殺されたというのか!?」
 大神の補佐役とも言える大地神ビガロスは、強い口調でレイノラに問いかけた。確信のないレイノラは短い逡巡を経て、口を開く。
 「私は妻として夫の生存を信じております。しかし夫の神具とも言うべきゼッドソードの崩壊を目の当たりにしては、深刻な現実を受け入れねばならないとも思っています。」
 遠回りな言い回しだが、それがこの出来事の不可解さを象徴している。
 「しかし、神ほどの大いなる生命が潰えれば、我々はその昇華を肌に感ずるはず。それはどう説明する?」
 ビガロスの言う通り、何より疑問なのはゼッドの死を誰も感じなかったことである。世界の鳴動を知る大神でさえ。
 「ゼッドのみならず、マルコンの住民の大半が消息を絶ちました。我々は神の付け入るべき問題ではないと軽視してきましたが、各地で多くの人々が行方を眩ませています。何か関係があるのでは?」
 レイノラは力強く語ったが、多くの神は彼女の熱弁を嘘寒い目で見ていた。なぜか?それは昨今の噂と彼女の立場に起因する。口火を切ったのは、皮肉屋で知られる酒の女神キュルイラだった。
 「一介の人を殺すのと神を殺すのは次元が違う。神を殺せるのは神だけさ。ゼッドがいなくなればいいと思ってる神って言ったら誰だろうね。」
 血で塗ったかのように真っ赤な唇でニタリと笑い、キュルイラは言った。レイノラは憤りを飲み込むのに必至になって、その白肌を紅潮させていた。キュルイラはそれをおもしろがるように続ける。
 「あたしはジェイローグだと思うけど?」
 「そんなことはありません。」
 心より愛する人を侮辱する言葉。レイノラはヒステリックに叫びたいくらい憤慨していた。しかし抑えなければならない。たとえどんな屈辱を受けようと、ジェイローグが孤独に耐え続けた時を無にしないために。
 「健気だこと、まだまだジェイローグのことを愛してるって顔に書いてあるよ。」
 そういってせせら笑うキュルイラを前にしても、レイノラはただグッと拳を握ることしかできない。憎悪が気配として現れないようにするだけで一苦労だった。
 「慎め、キュルイラ。」
 ビガロスの重厚な一声で、彼女はレイノラを詰るのをやめた。ただこのやりとりが大神の判断に与えた影響は小さくなかった。
 「ジェイローグをここへ。」
 「!?」
 大神の言葉にレイノラは耳を疑った。

 久方ぶりに闇の女神の宮殿に戻ったレイノラは辟易としていた。宮殿も、庭園もあの日のままで留めてくれたバルトをはじめとする神官たちには、懐かしさ以上の感謝の念を抱いたが、今この時にここで蟄居しなればならないことには落胆していた。
 今、ジェイローグは十数年ぶりにセサストーンから脱し、大神の元へと突き出されている。しかしレイノラは、遠巻きに彼を見ることさえ禁じられた。
 その頃、大神バランの御前には、力を強く抑制する手枷と足枷を当てられたジェイローグが立っていた。セサストーンからその足でやってきたというのに、彼の髪は肩に掛かるほどで切りそろえられ、髭も剃り落とされていた。見るに鋭く伸びた爪を駆使したようである。驚くほどに痩せていたが、竜族らしい筋骨に翳りはなく、むしろ洗練されて見えるほど。その瞳には一切の妬み、憎しみはなく、長き辛苦の時を以てしても彼の正義に何ら曇りがないことを示していた。
 「ジェイローグよ。おまえに問いたいことがある。」
 大神バランには若き神の帰還を懐かしむ言葉はない。一直線に精悍な男を見据え、問いかける。
 「剣神ゼッドが死んだ。」
 ジェイローグに動揺はなかった。彼はゼッドがレイノラを貰い受けたことは知っているが、だからといってゼッドに思うべきところはなかった。
 「神を殺めるのは神でなければ容易ないこと。お前の思うところを聞きたい。」
 隠し立てをしない大神にしては含みのある問いかけだった。しかし疑いの目が向けられていることは明らかである。ビガロスら大神を取り巻く面々の視線は特に厳しいものがあった。
 だがジェイローグは剛毅な男。その性根は十余年に渡り地の底の棺桶のような場所に押し込められても、なんら揺らぐことはない。それを示そうと感じたか、久方ぶりに浴びた光で気が高ぶったか、彼の答えは過言を極めた。
 「剣神様が何者かに殺められたというならばそれは実に恐ろしいこと。一刻も早く、罪深き悪鬼の顔を白日の下にさらさねばならないでしょう。ただ___」
 最初の一言二言は声が掠れた。しかしそれからはいつもの凛とした口調で続ける。
 「剣神様の死について思うところはありません。今の私にあの方の死を悼むことはできない。」
 その言葉は居合わせた神々を閉口させた。馬鹿正直な男であることは誰もが知っている、しかしこれはあまりにも度が過ぎた。彼の言葉は、レイノラへの執着、ゼッドへの面当て、同胞の死への軽蔑、変わらぬ己の意志表示、すべてが秘められていた。彼にそこまでの考えがなかったとしても、大神の怒りを買うには十分だった。
 「私はお前を信じていた。しかし、どうやらそれは間違っていたようだ。」
 大神バランの仮面のごとき顔にいっそうの冷血さが走る。だがジェイローグは恐れを抱いていなかった。それは自棄にも近い。彼は平常でいるが、セサストーンでの日々は死を身近に感じさせるほど過酷だった。ましてレイノラがゼッドに望まぬ夜伽を強いられているという噂、それはなにものか意地悪な神が知らせたものであろうが、それを耳にしてからは悔いても悔やみきれない懺悔の日々だった。
 レイノラは彼と会えぬことを嘆いたが、彼は安堵していた。レイノラのことは今でも愛している、しかし、それを公言する資格はないと考えていた。彼女が不遇の日々を脱することができるなら、消えることも受け入れるつもりでいた。
 「___」
 取り巻きの神々が息を呑むほど鋭さを増す大神の気配。ジェイローグは取り繕うともせず、ただ直立してそっと目を閉じた。それは、先ほどの言葉が命を賭しても示したかった本心であることを意味する。
 刹那の沈黙。やがて、大神の気が静まった。
 「ジェイローグ。」
 ジェイローグは目を開けた。
 「お前の意思は分かった。しかし死者への侮蔑を許すわけにはいかない。よって罰を与える。」
 そして達観の面持ちで、大神の裁きを受け入れた。

 イェブラシオンの槍。鬱蒼と、濃い紫色の葉が茂る森の中に、オベリスクのように背高な岩が突き出している。イェブラシオンは瘴気の森と呼ばれ、おおよそ人の近づくような場所ではない。厄災を招き、忌み嫌われるような者たちが住む土地である。その森にはところどころ背高な岩が飛び出して、遠目には針山のようにも見えるのだが、その中でも特に際立って高い岩がイェブラシオンの槍である。
 いまここに、ジェイローグが縛り付けられていた。
 人々を消し去り、ついには神をも消し去ったなんらかの存在。それを釣るための餌として、彼は縛り付けられていた。ただ、広義には死者への冒涜の罪とされている。悔い改めるまでここに一人縛り付けられていることは広く伝播された。それはなんらかの存在に餌のことを知らしめるためである。
 「ジェイローグ、水だ。」
 青い長髪が印象的な男が、水差しを手にジェイローグの側へと寄った。彼は海神オコン。ジェイローグほどではないが彼も神としては若く、二人は懇意であった。
 「すまない。」
 「俺も今回の大神のやり方には賛同しかねる。だが今は辛抱してくれ。」
 「いや、剣神殿を侮辱したのは事実。罰を受けるのは当然のことだ。」
 「侮辱?我慢したほうだよ、おまえは。」
 水差しを傾けてジェイローグに潤いを与えると、オコンは颯爽と飛び去った。そして紫の霧の中にまみれると、イェブラシオンの槍からいくらか離れた背高岩の陰に身を隠した。
 いざ、何らかの存在がやってきたとき、ジェイローグを助けるのがオコンの役目である。彼の力を押さえ込む手枷と足枷を破壊するのだ。

 時が経った。そう、縛り付けられてから一月は過ぎただろうか。ジェイローグは痩せた体を瘴気の空に晒し続け、オコンはできるだけ目につかないよう、時に彼に水を与えた。しかし異変はない。
 予想されたことだが、ゼッドが再び姿を現すこともなかった。
 停滞する日々。その間、ジェイローグに与えられた新たな罰はレイノラの耳に入らぬよう、彼女の周囲には箝口令が敷かれていた。そして彼女は屋敷から出ることさえ禁じられていた。しかし、ついにバルトが我慢の限界に達して口を割ったことで、彼女は強行し、大神バランの元を訪れた。
 「これはジェイローグの疑いを晴らすためでもある。」
 だが大神は冷徹だった。感情的になるレイノラの言葉など、意にも介さなかった。そして、祭壇から光の筋を走らせると、空間に白いキャンバスを描き出し、そこにジェイローグの姿を映し出した。
 「あぁ___」
 レイノラは嗚咽した。彼の姿があまりにも痛々しく、彼女は喪神しかけて片膝をついたほどだった。だが遠巻きにも彼の意志、力強い眼差しになんら翳りがないことを知り、愛敬の思いを新たにした。安堵のため息が漏れ、心に潤いが迸った。
 そして彼女は願い出る。
 「ここで彼の姿を見続けさせてください。」
 変わらぬ愛、それを裏付ける言葉だった。取り巻きの神々の中には閉口するものもいたが、大神は訴えを認めた。それから、レイノラは昼も夜もジェイローグを見つめ続けた。その姿は磔のジェイローグ以上に痛々しく、健気を通り越して、猟奇的にさえ映った。
 神々の視野は狭まっていた。彼らは好奇の目でジェイローグとレイノラを見ることに気をとられ、世界の隅々に目を向けることを忘れていた。
 人知れず、孤独を好む神々が葬り去られていたことに気づかなかったのは、大いなる罪である。ただゼッドの時と同様、姿が消えるだけで存在感そのものが失せないことが、悲劇の源となったのは確かである。

 「___」
 レイノラはなおもジェイローグを見続けていた。彼女の背後、祭壇のさらに高見の豪奢な椅子に、大神バランはゆったりと腰を下ろしていた。取り巻きの神々たちはいない。その日はそういう日だった。暦の中でもっとも邪が高まるとされる日、時間。多くの神々は、人々に災い無きよう、己の神殿にて祈り、自身が司る事象の力を高める。
 レイノラもまた、祈った。しかしその思いはジェイローグ一人だけに向けられているようだ。ともかく、そのとき大神の宮殿、祭壇の間にいるのはレイノラと、大神バランだけだった。
 ゾクッ___
 最初に感じたのは大神でなく、レイノラだった。闇の女神である彼女は、闇に紛れる意志に対して鋭敏な感覚を持つ。その代表格は殺意。ジェイローグだけに向けられていた意識に割り込み、背筋に寒気を走らせた殺意に、レイノラは振り返った。
 「!」
 彼女を襲ったのは血飛沫だった。振り返ったその白い肌を、黒髪を、藍のドレスを、真っ赤な血が濡らしていった。血を放つのは、脊柱線に沿って一刀両断された大神バランであった。
 「殺したのは誰か。」
 血の雨の向こう。誰かが立っている。そして、声を発した。複数の音がいくつにも折り重なるような、奇妙な声だった。
 「剣神ゼッド、隠者神セロ、魔神ジグラード、夢幻の女神リュエラ。これで十分だ。」
 いったい何が起こったというのか、レイノラはあまりの出来事に放心し、我を失っていた。指先一つ動かない、瞬き一つできない、全くの金縛りに陥っていた。
 「ジグラードの力で己を強化し、セロの力で気配を消し、リュエラの力で姿を消し、またもセロの力で壁をくぐり抜け、ゼッドの力で全てを断ち切る剣を生む。それだけだ。」
 血飛沫が失せた。大神の体は椅子ごと左右に倒れ、その切り口はもう血を吹くこともなくなっていた。そしてレイノラは男の顔を見ることができた。瞳孔の開ききった狂気の眼、とにかくそれだけが強く印象に残った。そして男は口元をゆがめ、白い歯を見せて笑う。
 「見ろ。」
 大神の骸から白い霧が立ち上る。それは吸い寄せられるように男の体を取り巻いていく。
 「俺は大神バランを殺した。」
 空の彼方へ飛んでいってしまっていた己の意識、それが男の言葉で一気に舞い戻った。石のように堅くなった喉が震え、絞り出されたのは心底からの悲鳴だった。
 「いやああああああ!」
 呼応するように男は床を蹴った。声は出た、しかし体の硬直は半ばも解けていなかった。疾風のように迫る男を、レイノラはただ見据えることしかできなかった。
 殺される!そう思った。しかし___
 ドンッ!
 男はレイノラの体に掴みかかると一気に押し倒し、何らためらうことなく彼女のドレスを引き裂いていく。
 「レイノラ___やっとたどり着いたぞレイノラ!大神を殺しにきてまさか君に出会うとは!」
 男の吐息が顔をなで回す距離。そして強引な接吻。唇を奪う、いや口を食らうようなおぞましい接吻。レイノラの脳裏には鼻面でみた男の顔が刻み込まれ、恐怖のあまり抵抗の術を失っていた。
 大量の唾液を滴らせ、男は唇を離す。再び唇に貪りついたかと思うと、頬から首筋、乳房へと舌を這いずらせていく。
 「うぅ、うぉ___」
 唐突に男がうめいた。何をしたわけでもないのに、レイノラの肌が下劣に濡れた。
 もう何が何だかわからない。意識の切れかけたレイノラの目に入ったのは、男の肩越しに見えたスクリーンのジェイローク。
 「___ローグ。」
 小さく呟く。だがその名はすぐに彼女の正気を呼び戻した。
 「ジェイローグ___ジェイローグ!ジェイローグ!!」
 レイノラは激しく抵抗し、その両手から闇の炎を吹き上がらせる。しかし___
 バギッ!
 男はレイノラの両の手首を握りしめた。鈍い音とともに、骨が砕け、炎は潰えた。
 「その名を呼ぶな!」
 男は絶叫した。しかし激痛に喘ぎながら、レイノラは彼の名を呼んだ。
 「助けて___ジェイローグ!」
 拳が飛んだ。
 「___」
 男はレイノラに馬乗りになったまま、肩で息をする。組み敷かれ、ぐったりと力の失せたレイノラの口元を血が滴った。顔は綺麗なまま、腹だけをしこたまに殴られた。神の肉体が苦悶するほど、痛烈な拳だった。
 「殴られたくなければ呼ぶな。分かったか!」
 だがそれしきのことで揺らぐ思いなら、とうに二人は別れている。
 「ジェイ___」
 消え入りそうな声でなおも彼を呼ぶレイノラ。男は両目を飛び出るほどに開くと、拳を振り上げた。そして___
 ザンッ!
 男の腕が宙を舞った。そしてまたも大量の血飛沫がレイノラに降りかかった。
 「うおおお!」
 悲鳴を聞きつけ、大地神ビガロスが駆けつけていた。彼は大地震をも引き起こすという斧の一振りで、男の腕、さらには首筋まで切り裂いていた。追撃の一撃を男は凄まじいスピードで飛び退いてやり過ごす。そのまま一気に大神を殺めた椅子の側へ。だかそこに大神バランの骸はなかった。
 「ケケケッ!」
 男は笑う。彼の首は右半分が裂けて血を噴いていた。頸椎も半分剔れていた。首が左にグラリと傾いていた。それでも狂気の沙汰で笑っていた。
 「おのれ!」
 その様は豪傑ビガロスにさえ一歩を尻込みさせる不気味さがあった。それでも彼は斧を振り上げ、切りかかったが、そのときにはもう男は煙のように消え去っていた。
 「ちっ___」
 舌打ちして男の余韻を睨むビガロス。しかしすぐにハッとして振り返った。
 「レイノラ!?」
 「気を失っているわ。」
 そこでは酒の女神キュルイラがレイノラの体を抱き、いつになく神妙な面持ちでいた。
 「そうか___」
 二人が大神バランの不在に気づくのは、ようやく静けさを取り戻した祭壇に別の神がやってきてからのことだった。




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