3 団結の時
「仙山!仙山はおるか!」
「はっ、ここに。と、姫!?なんとあられもないお姿で!」
素肌に薄手の襦袢一枚。寝装束のまま廊下に飛び出した榊の姿を見て、仙山は思わず目を覆った。
「由羅がやってくれた!」
榊は手にした目玉を仙山に見せつけ、今までの憔悴が嘘のように溌剌と言った。
「私も疑問を抱いておりました。しかし、これを見て真実を確信いたしました。瑚陸は私も良く存じております。」
榊の行動は早かった。まず向かったのは朱幻城に近い集落の一つ、賢楽園(けんらくえん)である。ここの女主、春貴(しゅんき)は餓門派であるが水虎派と呼ぶ方がしっくりと来る人物。瑚陸の残した証拠を見ると、疑問を確信に変えた。
「餓門の周辺に見慣れぬ妖魔が現れた時に気づくべきでした。全く、迂闊極まりない。」
偉大なる覇王がこんな輩の手に落ちたことを春貴は心から悲しんでいるようだった。若くはないが、榊が知る女性の中でも最も美しい齢の重ね方をしている人物が彼女だ。落ち着き、懸命で、貞淑に美しい。
「周達も、もう少し思いとどまる強さがあれば良かった___あ、ごめんなさい。あなたの同胞たちを悼むべきでしたわ。」
「やむを得ませぬ。説得はおろか、話し合いの術すら持たなかった私にも問題がありましょうぞ。」
春貴は煉と同じく、餓門の元から派遣されてきた妖魔を追い返した。それほど強い自己を持っている。榊は彼女にこの真実を広く知らしめる術を問うためにやってきた。
「どのようにすれば、道を間違えた餓門派妖魔たちに真実を知らしめることができるでしょう。薫族の伝達如きでうまくいくとは思えませぬ。」
そして春貴は答えを出してくれた。
「煉の元へと行きなさい。」
「煉___紅蓮の煉ですか。」
春貴はしかと頷いた。
「彼は水虎様を最も良く知り、最も水虎様に近い人。餓門よりも、天破よりも、水虎様を知るものは彼にその遺志を継いで欲しいと思っている。あなたは若いから___平和主義者の煉しか知らないかもしれません。しかし彼は、水虎様の真の同志。古くから、水虎様が覇王に至る道程の下支えとなった人物です。」
そして春貴もまた、古くから水虎と共に動いてきた人物。彼女が言うのであれば間違いはないと榊は信じていた。
「彼に決断を委ねなさい。最良の選択をするはずです。」
春貴の目を真っ直ぐに見つめ、榊は深く頷いた。
「分かりました。私は煉の元へ向かいます。」
「榊、手を。」
春貴の優しい眼差しに、榊は手を差し伸べる。春貴はその手を取ると一念を込めた。
「!」
榊は全身に血の巡りが加速するような躍動を感じた。疲労感から来る嫌な重さが消え失せていき、身体に活力が漲ってくる。
「ふぅ___」
やがて春貴が手を放した。すると彼女は青ざめた顔で目を閉じ、胸に手を当てて息を整えた。
「春貴___?」
榊は彼女と面識はあったものの、その能力がなんたるかを知らない。
「若いからか___それとも我慢強いからか___これほど身体に疲労をため込んで、その行動力。恐れ入りました。」
春貴は血の気の失せた唇で、それでも微笑んで見せた。
「疲労___まさか!」
慌てて彼女に寄り添おうとした榊を春貴が制する。
「あなたの疲労は私が吸いました。その活力をこれからの修羅場に向けなさい。」
その心意気に胸を打たれ、漲る活力と共に決意新たに榊は立ち上がった。
「このご恩は必ず!」
「黄泉を良い方に向けてくれればそれで結構。」
春貴の微笑みに見送られ、榊は闇へと姿を消した。
「___」
黒い翼のミキャック。小鳥と名を変えた彼女は黒麒麟の館の客間にいた。そこに掛けられた絵をじっと見つめる。
「うん___」
子供のような、純粋な目に少し感傷が差した。そして黒い翼を身体の前へと傾けて、まじまじと眺める。
「その絵が好きか?」
突然声をかけられ、小鳥は羽を膨らませた。振り向けば部屋の扉に凭れた黒麒麟がこちらを見て笑っている。
「ビックリしましたぁ。」
「驚かせたな。」
黒麒麟が微笑むと、小鳥も安心した顔で微笑み返した。
「この絵、なんだかとっても懐かしい気がします。」
そして改めて絵を見つめ、落ち着いた声色で話した。視線の先には、牙丸が眺めていたのと同じ、青空の絵があった。
「これって空ですか?」
「そう、よく分かったね。」
「多分空だろうなって。」
黄泉に青空はあり得ない。記憶を失っても、これが空だと言うことは青空の世界に住む生物の本能が覚えている。黒麒麟は空の絵に胸ときめかせる小鳥の後ろに立った。黒い翼が疼いているのが見てとれた。
「こんな空を飛びたいかしら?」
「はいっ!」
返事も早い。
「あっ、でも___」
小鳥は己の翼を見やり、言葉を濁した。
「この晴れやかな空では、黒い翼は似合わないわね。」
「いえ、そんなことないです!」
慌てて振り返り、否定した小鳥だが図星を隠せない。嘘偽りができない彼女の純粋さに黒麒麟は笑みを浮かべた。
「無理をすることはないわ。青い空の下では白い翼の方が美しい。私のような黒い髪よりも、おまえのような透きとおる金髪の方が美しいものよ。」
「違います違います!」
子供のような仕草の彼女が黒麒麟よりも背が高いのは不思議な光景だ。
「おまえが私を労ることはないのよ、小鳥。もし黒が嫌なら戻してあげても良いけれど?」
本来は姫凛である彼女が黒麒麟と言われるもう一つの理由がその能力にあると言われている。もっとも世間には噂程度でしかないが、彼女は物を黒く染める力を持っているという。
黒く染める。ソアラが聞いたら、真っ先にアヌビスの邪輝を思い出しただろう。しかし小鳥の黒い翼は艶やかで、見る人によっては白い時よりも美しさ、魅力を感じるかもしれない。それは邪輝とは違う。
「黒がいいです!」
「フフ、ありがとう。」
小鳥は必死になって黒麒麟をがっかりさせまいとしている。その健気な態度に黒麒麟は微笑んで礼を言った。すると小鳥はポッと頬を桃色に染め、はにかんだ。
『小鳥、手が空いていたら私の部屋へ。』
その時、客間の壁にあるラッパ型の穴から冬美の声が聞こえた。
「おまえの姉様が呼んでいる。行きなさい。」
「はい!」
快活な返事をし、伸びをするように翼を広げてから、小鳥は部屋のドアへと駆けていく。
「小鳥!」
それを黒麒麟が呼び止めた。小鳥はまた元気な返事で振り返る。
「後で少し昔話をしてあげる。夜になったら私の寝室へ来なさい。」
「わぁ!ありがとうございます!」
小鳥はすらりとした身体を目一杯折り曲げて礼をし、客間を後にした。
(本当は白がいいみたいね。ま、白で私の側にいられたら殺したくなってしまうかもしれないから、我慢して貰いましょう。)
小鳥の翼は、彼女を買い付けてすぐに黒麒麟が黒く染めた。その手で彼女の白い翼に触れると、すぐに墨水が広がるように黒へと変わり、鴉のような翼になった。
「黄金と白の組み合わせは嫌いだから。」
その時、彼女は冬美にそう話していたという。
「頼もう!」
東楼城の鉄火門。はじめから煉の元に姿を見せることもできたが、無礼を慎む意味でも榊はあえて集落の門にやってきた。
「ここは妖人の園、お引き取り願おう。」
だが門は閉じられ、櫓からは妖魔であろう風格ある男が彼女を見下ろしていた。
「それを承知で参った!派閥が異なることも承知の上じゃ!煉殿にお目通り願いたい!」
若く、小柄な女性の妖魔が精一杯の声を張り上げている。櫓から見ていた妖魔も、彼女の鬼気迫る姿に並々ならぬものを感じていた。
「うぬは朱幻城の榊だな。用件は?」
「煉殿に直々に話がしたい。餓門のことじゃ!」
奥に誰か居るのだろう。櫓の妖魔は振り返って何か言葉を告げ、再び顔を見せた。
「しばし待て。」
やがて許可が出た。しかし集落を通らず、能力を使って城まで来るようにとのことだった。妖人たちを刺激しないためだろう。
「ん___」
そこは不思議な空間だった。東楼城は決して優美な部類に入る城ではない。しかしひとたび場内に入って歩みを進めれば、そこはかとなく花の甘い香りが広がっていた。城に仕える者たちに武闘派は見あたらず、小間使いのような女たちは榊を見て貞淑にお辞儀していた。
これは覇王水虎の大きな支えとなり、一騎当千の強さを持つと言われる男の城ではない。慈悲深き心を持つ平和主義者の、腑抜けな博愛主義者の城に感じられた。
「よくぞ参った、こちらだ。」
だからこそ余計に、襖の向こうに現れた髭の男の風格、気品を見たとき、榊の足先から頭へと震えが駆け抜けたのだ。
「煉___様で?」
「左様、入られよ。」
寛大ではあろう。しかしこの平和ぼけした城にあって、彼の体に漲る武士の誇り、緊張感はただならぬものがあった。榊がなにを胸にここへやってきたのかおおよそ察しているから余計なのかもしれないが、煉には張りつめたものがある。榊もこんな身震いを感じたのは、それこそ覇王水虎と対面したとき以来かもしれなかった。
「お会いできて光栄です。此度は斯様な申し出を聞き入れていただき、まことに痛み入ります。」
「おぬしのことは存じている。朱幻城の主とあらば畳敷きの部屋が良かろうと思い、ここに招いた。あまり硬くなることはない。」
「お心遣いありがとうございます。」
紅の頭髪と紅の髭は熱き血潮を連想させる。煉の声は低く重いが、榊には暖かに聞こえた。彼女は畳敷きの部屋へと入り込み、襖を閉じた。部屋には煉と榊の二人きり。これは無警戒なのではなく煉の礼儀だ。己の身も省みず、異派閥の妖魔と直々に話がしたいなどと叫んだ彼女に対する誠意。
「我らは今は派閥の違う身、あまり長居をさせるわけにもいかぬ。手っ取り早く、用件を聞こう。」
「用件は私の口から申すよりも、瑚陸殿よりお聞きいただきたいのです。」
「瑚陸だと?」
口髭を歪ませ、煉は問うた。
「瑚陸は水虎様に仕えていた妖魔だ。奴がいるのか?」
「おりませぬ、金城にて朽ち果てました。しかし、私めの家臣が金城への潜入を果たし、彼の遺言を手に入れたのでございます。」
榊はその手を合わせ、ゆっくりと離した。両手の狭間で僅かに黒い円が広がり、そこから彼女の手元へと目玉が転げ出てきた。
「お手に取っていただければ分かります。これが、瑚陸殿の遺言です。」
そして煉は心象を見る。
その表情を伺っていた榊。彼は思いの外冷静だったが、時折、髭や眉がぴくりと震えた。目を閉じ、悲しげな顔をすることもあった。
「なるほど___」
煉は呟き、目玉を榊へと返した。
「瑚陸の能力には間違いない。その遺言は信じられるものだ。だが、おぬしはなにを求めて私の元へやってきた?」
このときの煉の表情、目つきは今までになく、刺すような鋭さと、厳しさで満ちていた。榊は身じろぎしたくなる迫力に当てられていたが、屈せず述べるべき事を口にする。
「ご指示を仰ぎに参りました。私のような若輩が何を申して今を覆せましょうか。しかし餓門の暴走と、裏で糸を引く悪は罰さねばなりませぬ。今の黄泉の不穏をうち消さねばなりませぬ。」
「餓門やその背後に立つ者が倒れようとも、一度刃を交えた者たちの胸の傷は消えぬ。諍いをうち消すことはそう易しくはないぞ。」
煉は簡単に頷いてはくれなかった。榊の心を確かめるように、問いただした。
「しかし今の我々の間違いを正すことは必要です。なぜ水虎様の元で同じ釜の飯を食うた同士が、こうして刃を交えねばならぬのか。誰しもが疑問を抱きながら戦いに身を投じているのです。忌むべきは誰なのか、それが分かり切れば事は転じると私は確信しております。しかし、それは私が叫んだところで儘ならぬ事なのです。」
煉は沈黙し、口髭を撫でた。もう一度、榊の手から目玉を取り、目を閉じて瑚陸の心象を確かめた。
「お主はこの老いぼれた妖人の園の主に何を望んでいる?」
目を閉じたまま、問いかける。
「反乱の旗手を。」
榊ははっきりと言いきった。
「打倒すべきは餓門か?」
「裏で糸を引く者。牙丸、夜行と考えます。」
「違うな、餓門も罰さねばなるまい。悪しき虫に易々と翻弄される愚かな獅子を。」
「では___」
榊はまっすぐに煉を見つめた。若々しい少女が、なんと勇ましい目をするものか。煉は彼女に黄泉の正しい未来を感じる。
「瑚陸は我が友だ。そして水虎は我が偉大なる友だ。」
煉は榊に目玉を返し、さらに手を差し出した。
「握手をしたい。」
「それは___私の願いを聞き入れていただけると言うことでございましょうか?」
煉は答えない。榊は緊張に胸を高鳴らせながら、はじめは恐る恐る、しかしすぐに強い意志を持って大きくて無骨な手を握った。
グッ___
煉の大きな掌から力が伝わる。そして___
「!」
突然、榊の手に炎が燃えさかった。驚きはあったが、熱さを感じなかったので平静は保った。炎は榊の全身へと燃え広がる。燃える衣に身を包んだ榊だったが、炎はやがて彼女の体に吸い込まれるように消えていった。
「我が炎の意志を受け止められる強き心と熱き血潮。おぬしは本物の勇士だ。」
煉が手を離すと、榊の手の甲に入れ墨のような炎の刻印が浮かび上がっていた。
「消えろと念じて撫でれば消える。何もお主の美しい肌に墨を彫ったわけではない。」
「これは___?」
刻印は猛々しい炎が燃えさかる柄だった。
「お主は若いから知らぬか。それは我が同士と認めた者に与える印。それを見せつければ、誰もお主の言葉を若輩の戯言などと蔑むまい。」
煉は立ち上がった。
「餓門派の妖魔には私が伝える。天破派の妖魔はお主が束ねよ。」
「私がですか___」
「うぬならばできる。なに、旨を伝えるだけで構わない。今の黄泉に喜びを見出したものはやむおえまい。」
座敷の奥、違い棚の壁に巻かれた掛け軸を引きおろす。それは黄泉の地図。広い黄泉の果てまでが記されているわけではないが、水虎が統一した土地の地図だった。
「金城から馬の方角、この守宮ヶ原(やもりがはら)。餓門打倒の意志を持つ者は、三夜後の夜明けまでにここに集うのだ。闘う意志のある者だけが集えばそれで良い。集う者がいなければ、それが時代の求める黄泉の姿だと知り、我らだけで挑めばいい。」
「死の覚悟を以て、でございますね。」
煉は深く頷いた。
「そうだ、反乱にはそれだけの覚悟が必要だ。」
榊は息を飲んだ。
「怖いか?」
「まさか、覚悟はできております。」
しかし彼女は怯えない。手の甲に浮かんだ炎の刻印を見せつけて、力強く言い切った。
「余すことなく同士に伝えよ。餓門に伝わることを恐れる必要はない。奇襲を要する曲がった志ではないのだ。我々は旗を掲げ、真っ向から餓門に立ち向かう。勝利を求めるのではなく、正義を求めるのだと。」
「心得ました。」
再び、今度は榊から手を差し出し、二人は握手を交わした。
「三夜後、守宮ヶ原で。」
「必ず。」
平和主義に身を投じた山が動いた。これは、黄泉にとって大きな一歩だった。
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