1 記憶の記録

 (なんだこいつ___)
 ソアラは黄泉に来てから最大の危機感を抱いた。目の前にいるこの化け物じみた、男か女かもよく分からない輩は、ソアラを飲み込まんばかりの強い邪悪を感じる。邪悪とは、簡単に言うならば寒気を感じる気配。ソアラを一歩でも後退りさせた夜行の気配は際だっていた。
 「様子を伺うつもりでいたが___不愉快な術を使う。」
 二重三重に発せられる声が、閉鎖的な迷宮でさらに響く。
 「様子見?いや、あんたは私を殺そうとしている。さっきの糸はあんただ。」
 ソアラは夜行を睨み付けた。威圧するように、いつもは平静な気配で挑む彼女が、夜行の邪悪を押し返すかのように敵意を表した。
 「我に対する貴様のその感触___今の餓門派にはいない不愉快さ。」
 「っ___」
 ソアラは舌打ちする。邪悪に対して敏感すぎるのは、今の金城に相応しくない。餓門はともかく、彼の周囲には潮をはじめ悪意を感じさせる者たちばかり。
 「裏に何が見えようものか___」
 「!?」
 夜行本体の邪悪に気を取られ、足を這い上がってきた黒い糸に気が付かなかった。
 「この!」
 ソアラは手で糸を引きちぎろうとする。しかし糸は生き物のようにソアラの指に絡みついてきた。
 「くっ___うああ!」
 糸は瞬く間にソアラの両手の指を縛り付け、第一関節の辺りで強烈に締め始めた。このままでは指が千切れる___迷宮の光量が減少し、変わってソアラの両手に炎が灯った。
 「!?」
 息つく暇もない。炎が糸を消し去った時には、ローブの奥から放たれた黒い光線がソアラの目前にまで迫っていた。
 シュバッ!
 鋭利な刃物で切り裂かれたような感触。何とか身体を捻ったが、光線はソアラの脇腹を掠め、裂傷を作った。しかしソアラもやられるだけでは終わらない。体勢を崩しながら一気に夜行に接近し、赤い光に向かって拳を振るった。
 シュ___
 (残像!?)
 拳に掻き消されるようにして、夜行が消える。
 「がっ!」
 次の瞬間、背後から巻き付いた糸がソアラの首を締め上げた。
 「かあああっ!」
 息苦しさからの悲鳴ではない。意識が吹っ飛ばないうちに、ソアラは気合い一発、黄金に光り輝いた。竜の使いの光が闇の紐を消し飛ばす。背後に夜行の邪悪を感じ、ソアラは裏拳を放つがそれも空を切った。そして夜行はまた後ろ、しかし今度は少し離れた場所に現れた。
 「あんた___本当に妖魔?」
 己が放つ波動に黄金の頭髪を靡かせ、ソアラは夜行を睨む。
 「あたしがただ単純に餓門のために仕えるって、それが気に入らないんなら理由を聞かせて欲しいね。あたしの感じが不愉快なんて、そんなの答えになるもんか。」
 それはソアラの本心ではないが、まず奴が何者で、どういった意図で仕掛けてきたのかを確かめたかった。しかし夜行は何も語らない。
 「仕掛けてきたのはそっちだからね!」
 狭い通路で向かい合うこの状態。謎めいた相手の化けの皮を剥ぐことが第一!
 「ドラギレア!」
 竜波動で迷宮まで破壊するわけにはいかない。夜行に向かって通路いっぱいに膨れあがった炎を放つ。冷えていた迷宮の大気が一気に熱を帯びた。床も廊下も天井も隙のない一枚岩。一杯に広がって襲いかかる炎はやり過ごしようがないはずだ。
 それでも夜行はまたしても彼女の背後に現れていた。しかし常に背後を取るその動作、三度も繰り返せばソアラは予測する。
 「ストームブリザード!」
 ドラギレアは右手一本で放たれていた。左手に宿した魔力を解放すると、彼女の背後の床から凄まじい勢いで氷の粒が吹き上げた。粒は瞬く間に結集し、床から天井まで蔓延って氷の壁を作り上げた。
 「___よし。」
 炎を止め、振り返ったソアラは氷の中に閉じこめられた茶色いローブを目の当たりにする。しかし氷の中で、ローブそのものも、その奥に見える黒も溶けるように消えてしまった。
 「実体がないのか?」
 ソアラは氷の中にほとんど空間がないことに目を丸くした。どうやら夜行には「身体」そのものがないらしい。とはいえ、へんてこな声だが口もきける事実を忘れてはいけない。
 「ジャルコのような不死体か___?」
 だがとりあえず気配は消えた。ソアラは拳で氷を砕き、イゼライルの薄明かりの中、水の滴りが見えた場所へと向かった。
 (もし妖魔だというなら、あの化け物じみたのそのものが能力で、本人はどこかにいるっていうことになる。)
 ただ彼女は奴の名を夜行だと知らない。
(まあ今は気配が消えたし___警戒だけして、また襲ってくることがあればそれから考えよう。イゼライルで明るくしておけばあの糸だって見つけられるはず。それより今は喉が渇いた!)
 夜行だと知っていれば、この程度の考察で済むはずがなかった。
 「えっ!?」
 むしろ今から考えなければならないのは、夜行のことではなく、水だと思っていたものの正体のことである。
 「血だ___」
 滴っていたのは透き通る地下水ではなく、赤黒い血液だった。床に広がるのも水たまりならぬ血の池。
 「これは___」
 一枚岩に見える壁と天井の狭間から血が流れ出している。
 (隙間があるのかしら?)
 ソアラは指先を光らせて小さな氷を作り出すと口に含んだ。急場凌ぎだが、これでも少しは乾きの解消になる。少し浮遊し、両手を天井に当てた。腕を上げると脇腹に付けられた傷が痛んだ。
 「___」
 ノックをするように、天井を叩いてみる。血の染み出している辺りはやけに音が軽い。強く押してみると四角く石が少しズレ上がり、こすれた砂が落ちてきた。
 「ふんっ___!」
 ソアラは腕を張って浮遊の魔力を強め、石を持ち上げる。凸を逆にした石蓋を退かすと、その奥は細く低い通路になっていた。
 「もしかしてこの先が出口?」
 通路は女性のソアラであっても匍匐前進しなければならないほどの狭さ。しかも床面全体に血染みが広がっていた。
 (どういうこと?まるで塗料に使ったみたいに渇いた血が床を覆い尽くしている。)
 滴っていた血液は、固まった血床の上を流れていた。凝固しないのは流れがあるから。つまりどこかから、血が源泉のように沸き続けていると言うことになる。
 「行くしかないか。」
 ソアラは髪結いの紐を解き、首の後ろ辺りで束ねていた髪を、後頭部の辺りで纏めなおした。そして狭い通路に浮遊しながら入り込み、天井に背中がピタリと着くくらいの高さを進む。結う位置を変えたことにより、髪は彼女の頬をくすぐるだけで血の床を撫でることはなかった。
 (臭いがきつい___)
 良い薫りではない。戦場の、血なまぐさい臭いだ。
 (斜め___になってる?)
 僅かだが、通路の床には傾斜が付いていた。先に進むに連れてさらに狭さに拍車がかかっていく。
 (イゼライルが弱くなってきた。)
 時間の経過と、最初に魔力を注いだ位置から遠ざかることで、イゼライルの光が自然と薄らいでいた。しかし新たにイゼライルを唱えるにはまだ早い。ここは魔力の有効な回復手段、「睡眠」をとれるような場所ではないから。
 「んっ?」
 通路の奥は行き止まりになっていた。血の流れが太くなっていることを確認しながら、ソアラは慎重に突き当たりまで進んだ。
 「また上からか___」
 突き当たりの壁は黒く固まった血に上塗りするようにして赤い血が伝っている。ただ今度は壁づたいに滴っているだけでなく、天井にうっすらと四角い血筋が浮かんでいた。
 「よっ___」
 ソアラは顔を下に向けた状態で手を天井につけ、力を込める。しかし先ほどの蓋とは比べものにならないほど重い上に、狭すぎて腕に力が入らない。
 「ひっ!」
 首筋に生ぬるい滴が落ちた。それを拭ってみると、指先が赤い滑りで濡れていた。
 「この向こうに何があるんだか知らないけど___まともじゃなさそうね!」
 ソアラはクルリと身体を反転させた。仰向けに浮遊し、身体の真正面から石蓋を押し上げ始める。髪は床の血の流れに濡れてしまったが、構ってはいられない。狭くて腕を張れないからだけでなく、蓋は強烈な重さだった。
 「おも___い___!」
 ギシッ___石が動いた。今度は砂の粒ではなく、瘡蓋を砕いたような黒い粒が零れ、さらに___
 「!?」
 ドババッ!
 ある程度蓋を持ち上げたところで、開いた隙間から大量の赤い液体が噴き出してきた。 「うくっ!やっ!」
 液体を顔に被ったソアラは溜まらず蓋から手を放した。口にも入り込んだそれは錆びた鉄の臭いがした。間違いなく血だ。
 「はあっはあっ___」
 ソアラは血まみれになった顔を、必死に手で拭った。仰向けの身体を反転させて浮遊をやめ、口の中に入った血液を何度も吐き出した。
 「最低___」
 目に入り込んだ血が痛い。少し固まりかけていたものもあり、頬や髪にべっとりとまとわりついていた。そして新しい血で真っ赤に上塗りされた床には、絶句するものが転がっていた。
 「っ!」
 血に乗って上から流れ落ちてきたのだろう。ソアラの目の前に、腐った人の指や目玉がいくつも転がっていた。明らかに死体のものだ。触れたくなかったので試しはしなかったが、指で摘めばズルリと皮が剥がれ落ちただろう。
 (上は死体置き場かもしれない___)
 まず間違いないだろう。血が流れ込んだだけで、酷い死臭が漂っていた。血まみれの顔を神妙にし、ソアラは再び仰向けになって石蓋を見つめた。
 (進むしかない。ここが金城の中なのは間違いないはずだし、死体置き場なら城への出入り口があるはず___)
 ソアラは指先から小さな魔力の球体を作りだし、ゆっくりと慎重に蓋へと誘っていく。そして自分は血みどろの床を這いずるようにして突き当たりから少し離れ、耳に指で栓をした。
 「プラド!」
 声に反応して魔力の球体が白く輝きながら爆発する。石蓋に大きな亀裂が入り、そこから血液が流れ落ちてきた。すると間もなくして___
 ドボボボボ!
 石蓋が砕け散り、大量の血液と肉片が通路に落ちてきた。
 「うぷっ___」
 凄まじい死臭が通路一杯に広がる。そして血液は俯せになっていたソアラの体半分が浸るほどの高さで流れていった。大量の肉塊のせいで通路の突き当たりは詰まっていたが、ちぎれた指や、手、目玉、あるいは骨、細かいものは血の流れに乗って一緒に流れていく。
 骸の断片が自分の体にぶつかっていく様には、さすがのソアラも青ざめた。死体の風呂におぼれるほど気色の悪いものがあるか。しかも血流は少し生ぬるい。
 「ううっ___」
 ソアラは浮遊して体を回転させると、仰向けになって天井にピタリと張り付いた。背中と髪を血が撫でていく。しかし顔を濡らして血を飲むよりはよほどましだった。
 「___」
 流れる音が静かになり、背を撫でる感触も消えた。赤く染まった衣服は体にべったりと張り付き、最悪の着心地と化していたが、とりあえず血の流れがささやかになっただけでも良かった。脱力したソアラはそのまま血の床に仰向けに倒れる。
 「なんなのよ___ここは!」
 そして苛立ちを込めて叫んだ。涙で潤んだ目が嫌悪を象徴していた。
 (とにかくここを出たい___)
 俯せに反転し、ソアラは突き当たりまで匍匐前進した。全身血まみれに濡れてしまって、少し自棄になっているかのようだった。
 (どかさなくちゃしょうがないか___)
 死体といっても呪文やなにやらで吹っ飛ばす気にはなれなかった。人型のものを砕くのは気が引ける。
 「___」
 ソアラは無言で、絡み合って詰まっている肉塊を取り除き始めた。少し取り除くとまた上から新たな肉塊が崩れてきたが、ソアラはかまわずに繰り返した。
 (食いちぎられている?)
 多少なりとも余裕が出ると、ソアラは肉塊についた傷に目を向けるようになった。足なり腕なり、千切れているものが多いが、どうもその断面はあまり鮮やかではない。骨が砕かれているものもあった。そればかりか肉塊の多くが筋組織で、臓物が見あたらないことも不審だ。
 (猛獣の牙にやられたみたいな傷に見える___)
 この先には穏やかでない者が待っている予感がしてきた。
 (でもとにかくこの上に行ってみるしかない。)
 ここが地下どの程度の深さなのかも察しが付かないが、この先が死体置き場だとするなら出口はそう遠くないはずだ。ソアラは無心に肉塊を取り除く。後ろに肉の山ができた頃に、ようやく通れるくらいの隙間が生じた。意外だったのは、穴の向こうがうっすらとだが明るいことだった。イゼライルの光がすっかり消えていたから余計にはっきりと分かった。
 「___」
 慎重に、ソアラは通路から体を曲げて穴の向こうに頭を出した。蔓延る死臭が一層強く、顔がむずがゆくなる。肉塊を押しのけるようにして穴の縁に腕を乗せ、ソアラは上へと飛び出した。
 「酷い___」
 その簡単な一言が全てだ。あれほど肉塊が落ち込んできた穴はフロアの隅っこで、蓋の上に重なっていたであろう死体はごく僅かに過ぎなかったのだ。ランプが六つ吊された天井が遙か高いところに見える。そのドームは積み上げられた人で一杯だった。円状のフロアに砂時計の砂のように山形に___天井の中心から落とされたのだろうと想像するのは簡単だった。
 (妖人___いや、妖魔?)
 山の一番上に転がっていた人物は初老のような風体だが体格が良く、筋肉質。首に深い裂傷があり、どうやら殺されてからここに放り込まれた。装飾品はなかったが血まみれの衣服はしっかりとしていて、上物の生地のようだった。
 (餓門に反発して抹殺された妖魔かしら。)
 人の山を踏みつけることなどないよう、浮遊して山の頂点を見ていたソアラは、骸の苦悶の顔がいくつもこちらを向いていることにゾッと肩をすくめた。誰一人、本望の死を遂げてはいない。全てが恨み、憎悪を胸に朽ち果てているようだった。この山、いったい何人の骸が転がっているのか。この酷い臭気は、おそらく山の底辺の骸が酷く腐って発しているものだろう。
 (五百人はくだらない___餓門は誰かの差し金で水虎を殺し、覇王への道を歩もうとしているのかもしれないし、この城は水虎が造ったものだからこのやり方も水虎の踏襲かもしれない。でも___これは悪魔の所業だ。)
 餓門がさらなる殺戮を繰り広げるなら、止めなければならないだろう。そのためにも、黒幕を暴く必要がある。
 (あの化け物___あいつが怪しい。)
 思い浮かべたのは名も知らぬ夜行の姿。あの不可思議な存在を暴くことが、直接黒幕の解明に繋がる予感があった。
 カラ___
 「!?」
 背後で音が鳴った。ソアラは驚いて振り返ったが誰かがいるわけではなかった。どうやら山の麓の死体が崩れた音らしい。そちらから視線を逸らそうとしたそのとき___
 「!」
 ソアラは改めて向き直った。異変を見つけ、眉をきつくしながら。
 「まさか___」
 気を引かれたのは、壁際に座り込む男の妖魔だ。周りにあまり死体のないそこに、男は胡座をかいて首を折れていた。その姿勢にソアラは生きているのかと疑った。
 「駄目か___」
 触れてみると冷たい。首も据わっていなかった。投げ込まれたときにはまだ息があって、あの山からこちらへと歩んできたのだろう。しかし妙なことはそれでは終わらなかった。
 「えっ?」
 顔を持ち上げてみると若い男だ。皮膚はボロボロに朽ち始めていたが、気品を感じる。おそらく妖魔だろう。しかし男には両の目玉がなかった。目を潰されたのか?最初はそうも思った。しかしそれでは矛盾がある。
 (彼は明らかにこの場所を選んでいる。周りに死体の少ないこの場所に、壁により掛かって胡座をかいた。)
 それはつまり、ここに落とされたとき彼の目は健在だったことになる。
 (自分で目を刳り抜いたの___?)
 目の周りをよく観察してみると、傷跡が無数にあった。だがどうして刳り抜く必要があったのか?同士たちの死に様を見ていられなかった、それもあり得るだろう。だがそれなら刳り抜かずに潰すほうが簡単だ。これはどうにも違う意味を感じる。
 「あ!」
 彼の右手が何かを握っていることに気づいたソアラは、ゆっくりとその固くなった指を開いた。するとひび割れた掌の中に、いやにそれだけ瑞々しさを保った二つの目玉があった。
 「___」
 不気味ではあった。しかしこの目玉には何か秘密がある。そう感じたソアラは意を決して手に取った。
 「!」
 その瞬間である、まるで頭の中に絵画を描かれたように、ソアラの脳裏に奇妙な心象が流れ始めた。それは声を伴う。空想がやけにはっきりと見えている。目で見るのとは違うが、想像力が覚醒されてイメージが沸くという状況に陥った。ソアラは最初呆然としていた、しかしまるで誰かとの会話を思い出すときのように、頭の中に聞いたことのない言葉が流れ始めると、急に顔つきが変わった。
 『良く見つけてくれた、心から感謝する。これは私、瑚陸(こりく)の能力。私は物体の記憶を呼び覚まし、記録を刻み込む。決して曲げることのない現実と真実だけを、明白に伝えることができる能力を持つ。私の目玉をその手に握り、私が伝えたい記録をみてほしい。』
 ソアラは瑚陸の前でしゃがみ込んだまま、じっとどこでもない一点を見ていた。そうすると、目を閉じる以上に意識が頭へ向いた。
 『私は見てはならないものを見た。私は、私の記憶が鮮明なうちであれば、見たものを記録に残すことができる。それ故に、抹殺されることとなった。つまり私はうかつにも、水虎様が殺められた現場にいたのだ。』
 ソアラは生唾を飲む。血の味が残っていたが今は気にならなかった。
 『記録を目に刻んだのは、その方がより鮮明にあなたに私の見たものを伝えられると思ったからだ。目で見たものを目玉は忘れない。人は頭の彼方に忘却しても、目で見たという事実はねじ曲げようがないから。』
 ソアラの脳裏にイメージが広がった。どこかの謁見の間、正面に勇壮な男、その前には妖魔たちが居並んでいた。見たことのない景色だったがこれが鋼城であり、正面の男が水虎であることは分かった。
 (あれが___水虎___)
 思わぬ形で黄泉の覇王を知ることになったソアラ。顔に多少の皺はあったが若々しく、力強く、権威と品格に溢れている。ただ現状に満ち足りている者だけが放つ豊満さは感じられなかった。活力はあっても、憂いと一体に思えるほど。
 他の妖魔に目を向ける。餓門がいて、それと対を成すような位置に立つ小柄で、老人面をした妖魔が天破だろう。天破の後方に並ぶ者たちについてはこの際どうでも良い、問題は餓門派の妖魔だ。
 (潮がいる。側にいる女が朱雀か、それに___)
 『私は鋼城で水虎様に仕えていた。だからこの現場を見ることができた。』
 空想は瑚陸が見てきた情景を忠実に再現する。目玉に刻まれた記録は、彼が見てきた記憶を編集し、語りをつけている雰囲気だった。
 『あなたに記憶していただきたいのはこの夜行と牙丸という妖魔だ。』
 あの化け物が問題の夜行と知ってソアラはますます疑いを深めた。そしてもう一人の牙丸がどんな役目を担ったのか、興味が沸いて出る。
 『この者たちは誰も知らない妖魔。そして問題の核心だ。私にもどうやったのかは分からない、だがまずはあの衝撃の瞬間を見ていただきたい。』
 そしてイメージが流れた。この謁見は定期的に行われていると榊が言っていた。その通り、声はないがやりとりも形式張っている様子だった。
 『私は少し退屈になり、この謁見の間に掛けられている刀を眺めていた。』
 壁に掛けられた見るも美しい刀。瑚陸の目は水虎を逸れ、刀の凝った装飾を見つめる。そして事が起こった。
 (!!)
 ソアラも驚いた。刀が突然消え、瑚陸も仰天したのだろうイメージが急転する。そして三本の刀に背後から刺し貫かれた水虎を映し出した。
 『衝撃だった。私が見ていたはずの刀は唐突に目の前から消え、水虎様を殺めていた。こんな事があり得るのだろうか。誰しもが、あの天破でさえ混乱した。』
 (そりゃそうだ、知らないから混乱する!)
 イメージに反論するように、ソアラは心中で叫んだ。
 「アヌビスだ___!」
 今度は口に出した。ついに尻尾を掴んだ、その思いが彼女の手に目玉を握りつぶしてしまいそうになるほど力を込めさせた。
 (時を止めて水虎を殺した!)
 刀を三本刺したところも彼らしい。一本でも命を奪えただろうに、三本刺すことでさらなる混乱を誘った。
 (だとすると夜行がアヌビス?でも雰囲気が違う気がしたけど___)
 『餓門が天破の仕業だと叫んだことで、両者の諍いに発展した。確かに天破なら物体を操れるから三本の刀を同時に刺すこともできる。でもそれでは私の見たものはいったいなんだ?天破は刀を目にもとまらぬ速さで動かすことなどできない。』
 イメージが切り替わった。今度は金城だった。
 『その後、私は諍いの仲介をすべく、餓門の金城へと向かった。天破の疑惑を晴らせば、二人の関係が修復されると思っていたからだ。私は記憶が鮮明なうちにガラス玉に情景を刻み込み、持参した。こうすることで、ガラス玉に今あなたの頭に沸いてくるような像を見ることができる。』
 この瑚陸は正直な男だ。そして餓門もまた、彼にそう信じさせるくらい正直な男だったのだろう。
 『私は水虎様の下でそれなりの仕事をしていたから、金城でも顔が利く方だった。水虎様の殺害に関して重大な報せがあると告げると、今後の対策を話し合っているという餓門の元へ簡単に通された。そこで私は見てしまった。』
 謁見の間ではない、畳張りの、朱幻城の庵のような薄暗い部屋だ。そこで餓門と牙丸が何かを話している。
 『餓門はこう言っていた。本当に水虎を仕留められるなんて思ってもみなかった。おまえは凄い能力を持っているな。』
 意外だった、夜行ではなく牙丸がアヌビスだ。ソアラは息を飲み、空想に集中した。フロアの反対側で何かが蠢いているとも知らず。
 『俺と夜行に任せていれば、あなたは覇王になれる。そう牙丸も言った。私は震えが止まらなかった。そして、背後から黒い糸のようなものに絡み取られた。夜行だった。』
 牙丸がアヌビス。しかし夜行もまた、彼に信頼を置かれた存在。となれば___
 (ダ・ギュール___)
 浮上したのはあの男。なるほど、どおりで夜行と出くわした瞬間に初めてじゃない感覚がしたわけだ。
 『それから私はこの死肉虫の穴に放り込まれた。私は空を飛べないから、この高さでは命がないと覚悟した。しかし穴にはすでにたくさんの餓門派妖魔が朽ち果てており、彼らが私を固い床から守ってくれた。死肉虫は脂肪と臓物、特に子宮を好むというから、痩せた男にはあまり気を引かれなかったようで、私はここで飢えて死ぬのを待つことになった。ただ、餓門の暴走を止めるためのささやかな反抗だけはしたい。もしあなたが井の中の真実を外に出せる人なら、私の反抗を利用してくれてかまわない。ただ、それで諍いが拡大すると思うのなら、目玉を潰してくれ。私は真実と共に眠りにつくから。』
 イメージが消えた。最後の景色が今いる場所と同じだったので、違和感なく現実に戻ることができた。
 「これは___決定的な証拠だわ。」
 ソアラはまじまじと瑚陸の目玉を見つめた。不気味なものか、この瑞々しい眼球に彼の誇りが詰め込まれている。
 「榊に渡さなくちゃいけない!」
 ソアラは意気上がった。そのときである!
 「ギュルルル!」
 「!?」
 背後から水気を帯びた怪音が響き、ソアラは振り返る。するとおどろおどろしい化け物が目前まで迫っていた。咄嗟の横っ飛びで化け物の体当たりを逃れたソアラ。暗紅色をしたそいつは、瑚陸の骸にぶつかって醜く歪んだ。 
 「うっ___」
 ソアラの体に鳥肌が立った。まじまじと見たそいつは巨大なヤスデのよう。しかも胴体の真ん中当たりにコブがあり、その先から体が3つに別れていた。何よりもおぞましかったのが、その三本それぞれにもしっかりとあの細やかな足が生えているところだ。ソアラは卒倒しかけたものの、目玉を守る使命感からふらつきながら踏みとどまった。
 「グリュグリュ___」
 うなり声とも違う、あの蛇腹の節の中で潤滑油が動いているかのような気色の悪い音を立て、死肉虫はその頭をソアラの方へと傾けた。
 「そういえば___」
 死肉虫は脂肪と内臓、特に子宮を好む___ソアラはますますゾッとして冷や汗が額に滲んだ。
 「グリュルル!」
 「近寄るなぁっ!」
 迫ってきた虫に、骸たちをめちゃくちゃにしたくないと思っていたソアラも我を忘れた。それぞれの手から一つずつディオプラドの球体を放つ。輝きは死肉虫の頭のうち二つを的確に捉え、激しく爆発した。
 「ひいいっ!」
 爆発は虫の頭を粉々に吹っ飛ばし、体液を伴った破片がソアラの元にも大量に飛んできた。頬などにはじけ飛ぶとおぞましさで吐き気を催すほどだった。
 「うぎっ!?」
 そしてこの匂い!ヤスデは攻撃を受けると臭気を発するという。鼻がねじ曲がるような、嗅ぐに耐えない毒ガスを思わせる匂い。死肉虫はヤスデではないが、同類であることは間違いないようである。ソアラはたまらず片手で鼻をつまむ。しかしここに蔓延る空気を口で吸いたくもない。
 「グギュグギュ!」
 「びっ!?」
 鼻の詰まった声でソアラは震えた。目の前では短くなった死肉虫の頭が元の形へと再生を始めている。そればかりか___
 「きっ___きゃああああっ!」
 我慢していたつもりだったが、ついに限界を超えてしまったようだ。彼女の周囲では、飛び散った破片のうち形がしっかりしているものが小さな死肉虫へと変貌していったのである。それはソアラの体に飛び散った破片でも起こった。
 「離れろぉっ!」
 半べその状態で光り輝くことがあろうとは。まして体にまとわりついた虫を離れさせるために竜の使いになろうとは。さらにさらに、こんな昆虫の化け物を退けるために竜波動を使うとは!
 「消えてぇぇっ!」
 ソアラの手が光り輝いた。
 ゴォォォォォォン___
 「ん?」
 振動は金城の謁見の間にも伝わった。妖魔に指示を告げていた餓門も首を傾げる。側にいた夜行は、無言だった。
 「はぁっはぁっ___」
 激しく動き回ったわけでもないのに、ソアラは汗だくだった。死肉虫の巨体が目の前から消え去ったことでホッとしたのか、力が抜けるように紫に戻り、へたり込んだ。
 「いたた___」
 極度の緊張からか腹が痛む。吐き出すものはないが、胃液が喉を押すのは分かった。
 「やっばいなぁ___今ので三歳は年取った気がする。」
 それほど疲弊した顔になっていた。つくづく苦手とは恐ろしいものである。もちろん苦手になるのには訳がある。小さい頃にムカデに刺されたのが一番の原因だが、それを別にしてもあの脚と集団行動がいけ好かない。
 そうそう、いま目の前で蠢いている大量の小さなヤスデのように___って、おい!
 「やあああん!」
 巨大な死肉虫を粉々に吹っ飛ばしたせいで、大きさは小さく、数は云万単位へと増えていた。気を抜いていたせいで心の準備がなかったソアラは、少しだけちびった。
 「そうだ!」
 クッと下腹部に力を込め、ソアラは少しだけ冷静さを取り戻す。いい大人が失禁してどうするという恥ずかしさが功を奏した。
 「こういう相手にはこの呪文が一番良い!みんなを成仏させるためにも!」
 そしてソアラは床に手を当て、持てるだけの魔力を開放した。
 「ディヴァインライト!」
 フロア全体にソアラから光が広がっていく。それだけでヤスデたちは跳ね上がり、体を丸めて臭気を発する。それでもソアラは怯まなかった。光が床全体に滞りなく広がり、一気に吹き出した。天井まで、一切の清潔な光に包まれていく。
 清らかな光は骸たちを灰に変え、天へと誘っていく。そしてヤスデたちも丸くなったままピクリとも動かなくなった。ディヴァインライトは死体を消滅させる。極度の光でショック死した死肉虫の多くが消えていった。
 「あ〜、あれくらいなら可愛く見えてくるって、んなわけないか。」
 骸たちと大半の死肉虫が消え去り、縦に長いドームは殺風景になった。克服なんてしていないが、生き残った虫たちが丸まっている様を見てもソアラはそれなりに落ち着いていられた。
 「さて、上に行くぞ!」
 遙か高みの天井へ!ソアラは浮遊した。が___
 ドスン。
 ほんの少し舞い上がっただけで尻から落っこちてしまう。今になって気づいたが頭がガンガンと唸りを上げていた。これはつまり___
 「魔力切れ___」
 である。
 「うそうそ!まだ虫がいるってのにこんなところで魔力の回復を待つの!?もうやだよぉ!」
 心からの嘆きを上げて、ソアラは久しぶりに子供のような泣き方をした。どうにもこの手の虫嫌いは一生直りそうにない。
 ちなみに彼女がここから脱したのは半夜後のことだった。




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