3 二重の失敗
榊とソアラが銀城に発ってから一夜が過ぎようとしていた。黒塚の目は夜でも利くが、吉良率いる生真面目な鳥たちの仕事は明るいうちと決めていた。夜は定刻に仙山が見回りに飛び、警戒の目を配る。だがこの日の彼にはいつもほどの集中力はなかった。
(せめていつ時までに戻るか、決めておくべきだった___)
思うのは榊のことばかり。彼女が無事でいるかどうか、そればかり気にしていた。
(私にはここを守ることしか許されぬ___)
彼が榊と出会ったのはもう随分前のことになる。彼女の部下であり、同時に彼女が今のような芯の強さを手に入れるまで助け続けてきたのが仙山だった。彼は常に榊のことを考えているが、あくまで守護者としての立場を崩さない。
だから榊の側に男が寄ったとしても、安全な男であり、さらに彼女が拒否しなければ仙山も妨げることはしない。彼は榊が黄泉の中であまり目立たないでいてくれればそれでいいと思っている。だから、彼女の悪い噂を作った棕櫚は好きではないし、棕櫚と共にいた耶雲(やくも)という男も好きではなかった。
(あの盗賊___あいつに出会ったことが、今の由羅との遭遇まで続いている。)
棕櫚は黄泉の盗賊だった。物品も盗むが、それ以上に彼が恐れられていたのは「盗む」能力を持っていることだった。彼は妖魔の能力を盗む。
棕櫚の真意を知るには至らなかったが、過去の経緯を考えれば榊を利用して偉大な能力を盗もうとしていたのは明らかだ。棕櫚と耶雲と榊の関係は一枚岩ではなく、若い三人の間には恋心と友情が芽生えていた。仙山はそれを危険と感じてはいたものの、榊の楽しそうな顔を見ると妨げる気にはなれなかった。
「俺は棕櫚、ただの泥棒です。」
その時の棕櫚は疲弊はしていたが、怪我はなかった。女と見間違うような容姿と、柔らかい物腰、声色の持ち主だったが、無防備な目はしていなかった。奴は幸運にも先に榊と出会った。彼女に向かって「盗みに失敗して逃げてきた、少しかくまってくれると嬉しい」と極めて簡単に話したという。その能力故、道徳教育に束縛されていた榊はまず彼の身の上にときめいた。
「いろいろとありがとうございます。」
と、簡単に礼を言える男だった。泥棒と言うだけあり、様々な見聞を持つ棕櫚の言葉は、世間を知らなかった榊の心を掴んでいた。棕櫚はあくまで養われている身を崩すことはなく、一方で榊は彼に恋をしていた。何しろ仙山は榊の口からそう聞いているのだから間違いない。ここで耶雲が現れた。
耶雲は棕櫚の相棒である。盗みの途中にバラバラになり、やっとの思いで追いついたと言っていた。耶雲は思慮深く落ち着いた棕櫚に比べ、口も態度も軽々しい奴だった。ただ実のところ、この男の方が棕櫚より人間味はあったように思う。不愉快な話だが___
「さっちゃん。」
と、恥ずかしげも無く口にしては榊に言い寄っていた。榊は耶雲のことをいつも怒っていたが、それはそれで二人にも親しみが生まれた。三人の間の友情は確固たるものとなった。仙山もまた、活き活きした榊を見るにつれ、棕櫚と耶雲の存在を許すようになっていた。
「そろそろ仕事に出るので___」
しかし時は来たのだ。今となっては榊と棕櫚との出会いは偶然ではなく、彼の策謀だと仙山は感じている。棕櫚は盗みへ出ることをそれとなく榊に話した。もう会えないと口にすることで、彼女の心を乱した。結局、仙山に語ることなく榊は棕櫚と耶雲に手を貸した。
狙いは___鴉烙だった。
棕櫚は皇蚕の主が究極の能力を持つと聞いて興味を抱いていた。耶雲の能力は一時的に相手の能力を抑制する。耶雲が相手を抑え、棕櫚が能力を盗む、二人の組み合わせは絶妙といえた。ただどちらも接近しなければ効果を発揮しない、そこで榊の闇だ。
闇の中を通り、壁を抜けることで音もなく鴉烙に接近。まず耶雲が鴉烙の能力を一時的に押さえ込み、棕櫚が盗みにかかる。ことは成功したかに思えたが、その時ちょうど鴉烙は娘の誘拐騒動の直中にあり、皇蚕の警戒が厳しかったこと、なにより棕櫚の能力が鴉烙には通じなかったことで失敗に終わる。
このとき、耶雲の指示で榊は彼と共に逃げた。棕櫚は捕らえられ、誘拐犯と共に処刑されることとなった。直接命を奪うわけではなかったが、棕櫚と誘拐犯は鴉烙に命の契約を結ばされ、闇の奥底へ放たれることとなった。
「闇の番人に是非ご協力いただきたくてな。」
榊は鴉烙に呼び出された。彼は榊を咎めはしなかったが、分かっていて彼女を詰った。棕櫚は彼女を見ても知らぬ顔をし続け、榊は涙を堪えながら奴を誘拐犯、赤甲鬼の風間と共に闇の奥底へと放った。
(私はあのときの姫の涙を痛いほど覚えている___そして棕櫚と耶雲に怒りを抱いたものだ___)
耶雲は榊に別れを告げて立ち去ったが、居場所だけは仙山に伝えていった。榊はどこか冷めた気性の持ち主になり、棕櫚への思いを抱きながら日々を送る。ただ仕事ができた。棕櫚と風間は共に異界で生きていると考えられ、鍵の封を手にした妖魔をその世界へ送る必要が生じた。これは榊に密かな思いを抱き、棕櫚を酷く憎んでいた男、洪(フォン)が役目を果たす。結果として彼は我を忘れ、主人の榊が迎え出ることになったが。
(問題はこの後だ___)
黄泉に戻った棕櫚は暫く朱幻城にいたが、別れも告げずに唐突に消えた。榊はこのときも涙し、彼に怒りを抱いた。由羅が朱幻城に馴染むまで、榊は棕櫚の名を聞いただけで逆上していた。
(由羅のおかげで姫は昔の快活さを取り戻しつつある___とはいえ、今の状況は棕櫚を慕った結果、鴉烙に睨まれたあの状況によく似ている。)
仙山はそれを心配していた。榊を守るのが由羅だけではあまりにも不安だし、もし二人のたくらみが失敗すれば朱幻城は安泰でなくなる。
「手を借りるか___由羅の誘いはあったが、姫は自らの意志で動き始めている。」
仙山は朱幻城周辺の見回りを終えても城に戻ろうとはしなかった。
夜明けまでに戻ればそれでいい、姫が先に戻ったとしても釈明すればすむこと。
「耶雲の居場所は___玄武滝の畔だったな。」
榊を助けることを厭わない男に強力を仰ぎに行く。棕櫚がいた場合は面倒なことになるかも知れないが、耶雲だけでも協力させる。
(あの二人には姫に借りを返す必要がある。)
仙山の身体に色が広がり、夜の空に溶けるように消えた。そして彼は朱幻城を背に飛び去っていった。
「驚いた、仙山が城を離れましたぜ。」
「よし、好機だな!」
その姿を森影から見る者がいるとも知らずに。
赤辰の勝利が薫族により天破派に伝えられている頃、当然だがこれだけの騒ぎを起こせば餓門派にもその旨は伝え聞かれる。餓門がこれを機に何らかの行動を起こすことは想像に易い。しかし実はそれ以前、数夜も前から天破派の一部集落は何者かの襲撃を受けていた。
その妖魔は単独であり、山賊のような風体で、畑や民衆の家屋を破壊して去っていく。今まで四つの集落が同様の被害に遭い、退治に出た集落の妖魔はことごとく返り討ちにあっていた。ただこのうち一件が餓門派の集落で起こったため、今のところは凶悪な賊と考えられている。
しかし事実はそうではない。この山賊の名は「百済丸(くだらまる)」。牙丸のリストに載り、潮や朱雀と同時期に餓門配下となった妖魔だ。
「ぐぁ___」
野太い腕が地味な装束で身を固めた男の頭を掴んで抱え上げる。頭部の激しい締め付け。あえぐ男の頬を血が伝う。
「ぎああっ!」
ボッ!
断末魔の悲鳴の後、必死に手足をばたつかせた最後の抵抗もむなしく、男の頭は握りつぶされた。
「このあたりは妖魔が良く通る。」
決して均整が取れているとは言えないが、寸胴で大きな体は筋骨に溢れ、体毛の濃い、いかにも男臭い男が手についた血肉を払い落として呟いた。あちこちへと伸びたぼさぼさ頭は埃っぽく、無精髭がうるさい。装束も獣の皮、そして裸足。山賊にしても豪快すぎるこの男が百済丸だった。彼は黄泉を放浪して妖魔とおぼしき者を見つけては殺害し、時に天破派を中心に集落を襲う。そのときもはじめから頭首の妖魔を狙うことはせずに。
「しばらくはここで狩りをするのが良いみたいだ。」
百済丸に課せられた任務はまさに「狩り」。状況からして慌ただしく動くのは天破派の妖魔か無関係の妖魔、それを狩っていくのだ。
「しっかし___何でまた急に追い出されたんだ。」
サザビーは憮然とし、夜の冷気に肩を竦めた。彼が立つのは皇蚕が食いつぶした剥き出しの大地。振り向けば去りゆく皇蚕の後ろ姿が見え、それを隠すように夜より黒い外套の男が歩いてくる。
「説明してくれるか?」
「厄介払いだ。」
その男バルバロッサに問うたところで、その程度の答えしかない。二人は鴉烙から任務を与えられ、すぐさま皇蚕から追い出された。
「黒麒麟とかいう奴の監視だとか言ってたな。どういう奴だ?」
「女だ。」
「ほ〜。」
そう聞いただけで簡単にやる気を見せるサザビーにバルバロッサは舌打ちした。
「あ、飛ぶなよおまえ。」
「足手まといめ。」
二人は皇蚕が削り取った道を真っ直ぐに歩み出した。黒麒麟の屋敷はまだ遠い。ここからなら朱幻城の方が近いくらいだった。
(姫はもし銀城で何らかの手がかりを得たとして、それからどうするつもりだろう。) 仙山は思案を巡らせながら、夜の色に身体を染めて飛んでいた。まだ耶雲が居るらしい玄武滝まではかなりの距離がある。色に隠れ、しかも夜であれば誰かに見つかることなどない。仙山はその経験ゆえ、隙を見せていた。
反応が遅れたのはそのためだ。
「っぐ___!?」
闇の化粧をした仙山の顔が歪む。夜の中に歯の白さが浮き上がった。腹にめり込んだ拳大の石は、真下から投げつけられたもの。投げつけた主は、空で急に止まった石を見あげていた。
「景色に溶け込む能力か。俺には全く意味のない力だな。」
下にいたのは百済丸。彼が今の任務を貰い、仙山を見破った理由はその能力にある。
(こっちを見ている___馬鹿な、あの距離で見破ったというのか?)
腹に食い込んだ石が落ちる。仙山はこちらを見上げる大男に慄然とした。一目見ただけで身体を硬直させる何かがある、蛙を睨む蛇のような目をしていた。
「おろさなければな、飛ぶのは得意じゃない。」
鳥を落とすには石を当てること。百済丸は基本に忠実に動いた。石を掴み、投げる前にじっと目を閉じた。彼の能力はこれで発揮される。肉眼で仙山を見るのではない、瞼の裏に仙山の生気がしっかりと映って見えていた。
ブンッ!
「またか!」
石が一直線に迫る。仙山は宙で仰け反って石から身を逸らすと、素早く飛び出した。動けば捕まえられるはずがない、そう考えての行動だったが百済丸の石はそれを予測していたかのように仙山の動きにあわせて迫る。
「ぐっ!」
一つの石が臑に打ち付け、電気のような衝撃が走る。失速したところを石が次から次へと襲いかかってきた。肩に、腹に、顔に、五つも石を受けると仙山は落下するしかなかった。
空を背後にしないところで今の色は意味がない。クルリと身を翻し、色を解いた仙山は百済丸の真正面に降り立った。しかし突然襲撃してきた理由を問いただす間もなく、百済丸が肩から真っ直ぐに突進してくる。
「おのれ___!」
百済丸の速さは目を見張るもの。巨体に圧されて避けたくなるがこの場合は___向かっていくのが得策!
「おぉっ!?」
仙山は瞬時に腰を落とすと、身体を横倒しにして百済丸の足に臑を引っかける。足を引っかけられた百済丸は勢いのまま前のめりに倒れた。
「くそっ___!」
だが突進力を殺しただけで仙山の臑の痛みも激増した。素早く飛び退きたいところで痺れた足が言うことを聞かず、苛ついた。
「そおら!」
前転して起きあがった百済丸が振り返って仙山を踏みつけにかかる。仙山は横に転がって回避すると、砂を掴んで百済丸の目に投げつけた。
「ぐぬっ!」
百済丸が怯んだ隙に立ち上がり、背景に身体を染める。ここは皇蚕が作った比較的新しい道だった。
「無駄だ!」
しかし百済丸は目を閉じたまま真っ直ぐに仙山に突進する。
(やはり見えているのか!?)
色を纏うと気が緩む癖が付いている。いつもなら痛んだ体を休める隙のはずが、百済丸は仙山にゆとりを許さない。しかも今度は距離が近すぎた。
「っ!」
百済丸の巨体がまともに仙山に激突する。衝撃は彼に舌を突き出させ、目を剥いた仙山は小木をへし折って森の中に弾き飛ばされた。
「まだ死んではいないな。」
目を閉じた百済丸は仙山の生気を感じ取り、呟いた。
「いや___これは!?」
瞼の裏に新たな光が映り込む。それはすでに百済丸の背後に迫っていた。
ギュンッ!
振り返った百済丸は仰向けに倒れるようにして、漆黒の剣から逃れた。一瞬時の流れが緩やかになり、百済丸とバルバロッサの視線が交錯した。
「くぬっ!」
態勢を悪くした百済丸にバルバロッサが剣を振り下ろす。しかし百済丸は半身で剣の横腹に拳を叩きつけ、刃は彼の厚い胸板を掠めるようにして大地を食った。そのまま寝転がるような姿勢でバルバロッサに蹴りつけるが、足は外套をはぎ取っただけでバルバロッサはすでに剣と共に飛び退いた後だった。
「できるな___!」
尋常でない殺気、瞼を閉じればはっきりと分かる強烈な生気。相手の出方をうかがうような小細工はおろか、名乗ることさえ好まない戦い方は己と同じだった。
(成果はないよりあった方がいい。)
名前はともかくバルバロッサは百済丸の顔を知っていた。彼は裏社会の暗殺者であり、処罰の許される人物。鴉烙のためではないが、皇蚕の一員としてバルバロッサは容赦しない!
「おい、しっかりしろ!」
一方、森の中では昏倒する仙山のもとにサザビーが駆けつけていた。
「く___おまえは___!」
意識を取り戻した仙山は、目の当たりにした男の顔に言葉を失った。
「久しぶりだな、仙山。榊の嬢ちゃんは元気か?」
サザビーは小さな布の袋から植物の種を取りだした。
「ほら、こいつを食えば治癒力が高まる。」
「どういうことだ!?貴様いまどこで何をしているんだ?」
声を荒らげ、仙山は息苦しそうに噎せた。
「まあそれはいいからこいつを食え。とりあえず俺は無事で、今はたまたまおまえが襲われてるのを見つけた。それでいいだろ?」
サザビーは半ば無理矢理、口にねじ込むようにして仙山に木の実を食べさせる。
「あの大男は!?」
「いま俺の相棒が相手してる。」
「相棒だと?」
「風間っていえば知ってるか?」
「!___皇蚕の赤甲鬼!まさか___!」
仙山は驚き、サザビーの肩を掴んだ。
「俺は鴉烙の部下になったのさ。」
「なんと___」
仙山は彼をとんでもない強運の持ち主だと感じた。榊は簡単に人殺しをする人格ではないので、彼が闇からいずこか集落に飛ばされたであろうことは想像していたが___
「ソアラ___いや、由羅は元気か?」
「ああ、すっかり馴染んでいる___」
「翼の生えた女の話は聞かないか?」
短い空白の後、仙山は「ああ」と呟いた。そういえばサザビーがそんなことを言っていたのを思いだしたのである。
「すまない、全く聞かない。後ろ!」
暗がりの中、肩越しに何かが迫るのが見え仙山が叫ぶ。振り向いたところにはバルバロッサの背中があった。大地には彼が踏ん張ったことで溝が生じていた。殴られたて吹っ飛んできたのか、口元に赤みが残っている。
「勝てるか?」
バルバロッサの背中を押さえるように手を当て、サザビーが問いかけた。
「野暮だな。」
グンと姿勢を前に向け、バルバロッサの左手に赤い甲殻が姿を現す。まさに目の色を変えた彼は高速で皇蚕の道へと飛び出していった。
「敵の能力はなんだ?」
「あいつは目で見なくとも人の位置が分かる___だから私の能力が通じなかった。」
「なるほどな___」
「!?」
サザビーはいきなり仙山を引っ張り起こし、彼の足がもつれるのも知らずその場から離れた。すぐに彼が横たわっていた大木を貫いて、拳が飛び出す。
「どの獲物も逃がしたくなけりゃ、逃げ出しそうな奴らから狩るだろ。」
サザビーはそう呟いて巨木の向こうで蠢く影を睨む。暗い森ではその顔立ちを知ることはできなかったが、それでも殺意はひしひしと伝わってきていた。
「バルバロッサ!こっちだ!」
「きたぞ!」
サザビーが叫ぶと同時に大木をへし折った百済丸が突っ込んでくる。大木をぶち破る拳に打たれてはひとたまりもない。
グンッ!
「!?」
しかしサザビーはいかにも勝ち気な笑みで掌を突き出し、その指先に小さな炎を灯した。暗い森に光が広がり、警戒した百済丸は両腕を横に伸ばして木にぶつけ、勢いを殺しながら踏みとどまった。
ポンッ。
しかしサザビーの指先では慣れないドラゴンブレスの小さな炎が破裂しただけ。
「はったり。」
炎の残り滓があっけにとられた百済丸の瞳で光った。
「うおおおっ!」
赤い光が百済丸を背後から照らす。大きな背中に向かってバルバロッサの黒い剣が唸りをあげた。
「飛んだ!」
しかし刃はまたも空を切った。百済丸は枝葉をなぎ倒して跳躍し、そのままサザビーと仙山を踏みつぶしにかかる!
「なに?」
しかし彼の足の裏に響いた感触は、肉を踏んだそれとは違っていた。
「木か!」
それは二人の姿が精巧に描かれた木。バルバロッサが放つ赤い光のために、うかつにも黙視を頼ってしまった。
「ふん!」
背後から再び刃が迫る。しかし百済丸はへし折った木をつかみ上げながら振り返った。
「なっ!」
鋸歯のように尖った断面が、バルバロッサの胸を打つ。突き出された丸木はバルバロッサをそのまま押し返し、背後の木に叩きつけた。
「逃がさぬぞ。」
百済丸は目を閉じ、森の中を動く生気の居場所を掴んだ。腰巻きから小さなガラス玉を取り出すと、すぐさま猛烈な速さで二人を追う。生気が近くに感じられると、彼はガラス玉を近くの木に叩きつけた。
パァァッ!
砕けたガラス玉から光が広がる。白い輝きが、叩きつけられた木の幹に絵の具のように飛び散り、森一帯を明るくした。
「やはりな。」
目の前に描かれたサザビーの姿が。その向こうには仙山。しかし百済丸は目を閉じ、全くあさっての方向に留まる生気を感じた。
バシィッ!
剣を手に、真上から襲いかかってきたサザビーをまるで蝿でも落とすように百済丸がはたいた。
「ぐはっ!」
吹っ飛んだサザビーは、一本の木にぶつかる。呻き声は木から聞こえた。百済丸の瞼の裏で二つの生気が重なり、木から色が溶けると苦痛に顔を歪めた仙山が現れた。
「仕留める。」
百済丸は二人を一つの照準に捕らえ、一気に走った。体当たりでまとめて押しつぶす、それはサザビーが思い描いていたとどめの一撃と同じだった。
百済丸は気づいていない。サザビーを弾き飛ばした時、彼が手放した剣が木の枝に変わっているのを。
「来るぞ仙山!」
囁きだがはっきりとした声。それを聞いた仙山は歪めた顔を静閑に戻し、大木を背にしてしっかりと足下を確かめる。そしてサザビーの手は、彼の腹の前で不可思議な形を作っていた。
「おおおお!」
生気がそこにあり、黙視でもそこにいる。疑う余地はなかった。
「おがはっ!?」
しかし百済丸の口から鮮血が迸った。重みのある身体、その腹と背に奇妙な穴が生まれ、血が弾ける。サザビーは両手を自分の腹に食い込ませ、二人は背後の大木が軋むほど圧されていた。
「謀ったな___」
腹の穴から、血が筋となって滴る。それは真っ直ぐに、サザビーの手まで届いた。暖かい液体が色を解かし、刃の姿が明らかとなってきた。
それは仙山の力で隠された剣。二人が重なったところでとどめを差しにくる。それなら剣を色で隠して構え、あいつに突っ込ませればいい。
サザビーの策略だった。
「だが___」
百済丸もしぶとい。彼は剣が食い込もうと構わずに前へと押し進み、二人の顔を掴もうと手を伸ばす。
「この野郎!」
サザビーは力任せに剣を捻る。血飛沫こそ舞えど、百済丸は全く怯まない。
「握りつぶしてやろう。」
両の手がサザビーと仙山、それぞれの顔面を掴んだ。こめかみに壮絶な力がかかり、頭蓋骨が悲鳴を上げる。しかし___
「!」
白い光の中で、赤い輝きが薄らいでいた。目を閉じて、生気を確認することもなかった。それが致命的。
ザンッ!
光を裂き、黒い刃が煌めく。バルバロッサの剣は横凪に百済丸の首を捕らえていた。噴き出した鮮血が、首を空まで跳ね上げた。
「ふへぇ___」
締め付けが急に弱まり、サザビーと仙山が大きな手から脱する。降りかかる血の雨から逃れ、サザビーは土の上へとへたり込んだ。
「そうすると___榊を助ける奴が欲しいってことか。」
サザビーは赤く擦り剥けた掌に息を吹きかけながら言った。
「玄武滝まで行くつもりだったが___この傷では獣にも手こずりそうだ。」
仙山はサザビーから貰った木の実をもう一つ口に含むと、すぐにまた立ち上がった。
「朱幻城は近いのか?」
「そう遠くはない。」
「悪いが俺は行けないぜ、鴉烙に命を握られてるからな。」
仙山はそれを聞くと首を横に振った。
「助けて貰ったうえにこれ以上頼めるか。」
足の痛みが消えないのだろう、膝を曲げたり伸ばしたりして感触を確かめている。それでも彼は休もうとはしなかった。
「私は朱幻城に戻る。この貸しは___いつか必ず返す。」
「気にすんな。ソアラに俺が無事だってことを伝えてくれりゃそれでいい。」
「必ず。」
それだけ言い残すと、仙山は背景に紛れて消えた。
「やれやれ、飛んだ道草だったな。」
サザビーは白い煙を吐き上げ、笑みを浮かべる。
「記録はとれた。」
一方ではバルバロッサが血を墨がわりに、百済丸の顔で拓を取った。
「行くぞ。」
「もう!?休んでかねぇの?」
「血みどろの身体で留まっていいのならな。」
狼に似た遠吠えが聞こえる。仕方なくサザビーも立ち上がった。唐突な戦いの勝利に浸る間もない。黄泉とはそういうところだった。
夜が最も深みに達する頃。痛む身体に鞭打ち、仙山は飛んだ。
飛ばざるをえなかった。
朱幻城がいつになく明るい。
光に照らされ、城の上空で黒塚たちが慌ただしく飛び交う影が映る。
「迂闊だった___私はなんと愚かな!」
悔やんでも悔やみきれない。城を離れるところを目撃されていたのだろう、朱幻城は襲撃され、火の海に包まれていた。
朱幻城は榊の特殊さに守られていた城である。戦える妖魔が自分しか居ないことを忘れたわけではないが、簡単に城を離れたのは明らかな過ちだ。耶雲を連れてくることができなかった失態に輪をかけた己に、仙山は憤りさえ感じていた。
「何とかしてみせる___私の命がどうなろうと城は守る!」
決死の覚悟で、手負いの仙山は飛んだ。
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