2 試練の間

 闇に飲み込まれたソアラの身体を、黒の中から伸びた榊の腕が掴んでいた。そうすることで、いずこかへ吐き出されようとしていたソアラの身体が落ち着く。やがて蒼い雲を破って榊の可愛らしい顔が現れる。
 「私も暫く銀城に残って手がかりを探る。三夜くらいはいるつもりじゃが、お主を迎えに行くことはない。共に戻れぬとなれば、朱幻城は虎の方角。覚えておけ。それから___たとえ成り行きがどうあれ、天破派と戦をすることは許さぬ。良いな!」
 それだけ言い残し、榊の顔と腕が消える。ソアラは体の自由を失い、胴と両手足が別の温度の中にいるような不快感に陥る。すると背後から光が差し込み、捻れ始めていた身体が一方から吸い込まれるように動き出した。
 ボッ___
 闇から吐き出された時、それは空の高見から雲を突き破って落下した時に似ていた。現れたソアラは銀城によく似た城の裏手にいた。
 (ありがとう、姫。でも虎の方角ってどっちかしら?)
 榊の心遣いに感謝しながら、ソアラは金城に飛んだ。目の前の城の向こう、薄暗い景色の先に白い宮殿が見えた。あれは銀城だろう。

 戦の中枢である場所、だからこそソアラは十分な警戒で金城の正面へとやってきた。しかし先に見える金城の門は大きく口を開けており、番人さえいない。それは自信以外の何ものでもないだろう。
 (餓門の話は榊から聞いたことがあるけど___えっと、潮と朱雀だっけ、それに肝心なのが夜行と牙丸。って、どんな字だったっけ?)
 音は覚えているが文字を覚えるのには多少の手間がいる。先行きに一抹の不安を抱きながら、ソアラは門へと続く石畳を進んだ。宮殿の周りは丈は低いが非常にゴツゴツとした横に伸びる木が並んでいる。トゲトゲした針のような葉っぱに目を奪われつつ、あまり警戒している素振りは見せない。
 あくまでも今の由羅は「餓門に心酔して部下として雇って欲しい妖魔」だ。こういう時、偽名を使っていると心から別人になれる気がして良い。
 「それにしても無警戒ね___」
 風もない。立ち止まって息を潜めれば、それこそまるで静寂に包まれる。
 「?」
 ただ、微かな音がソアラを撫でていった。何かが動いている。小さな___虫の羽音?
 「何か___まずいかも知れない___」
 竜の使いの直感がソアラに危機を知らせる。事実彼女の背後には一匹の蝿が様子を伺うように螺旋を描いていた。ソアラが感じていたのは暗殺者が放つ、研ぎ澄まされた殺気に他ならない。
 ザッ!
 背筋に震えが走った瞬間、ソアラは前へと飛んだ。
 「なにっ!」
 人へと姿を変えた潮の小刀が空を切る。ソアラは石畳に片足を踏ん張って素早く反転し、目前の男に掌を突き出した。変身を悟られたことにあっけにとられた潮だったが、ソアラが放った炎からは蝿に化けて素早く逃げ去った。
 距離を置き、潮が再び人へと変わる。ソアラは腰を落とし、いつでも動けるように、そして周囲にも神経を向けて身構えた。
 「大した身のこなしだ、驚いたよ。」
 向こうから言葉をかけてくれればそれは好機だ。ソアラは由羅としての芝居を始められる。
 「そりゃ餓門様のところで働こうと思ってきたんだから、これくらい当然よ。」
 「ほう、そうかい。」
 潮は細い目を余計に細くしてソアラの身体を上から下へと眺めた。
 「今日は俺が門の番をしてるんだ。後ろ黒い奴を城に入れたなんて言われるのはごめんでね。」
 「信じてないの?」
 「夜行に発掘されてきたのか?」
 狐目で黄色っぽい肌をした潮の問いには罠が仕掛けられていた。素質ある無派閥妖魔の発掘をしているのは夜行ではなく牙丸。簡単だが効果的な罠だ。
 「違うわ。戦争になってるみたいだからさ、食い扶持があると思ってきたの。」
 しかしソアラは引っかからない。作り話をするにも自分の中でストーリーを作る必要がある。余裕があるなら相手の問いには乗らない方がよかった。
 「___」
 肩すかしを食らった潮はムッと口を結んだ。
 「何かご不満でも?」
 「ちっ___まあいいや、判断は覇王にしてもらおうじゃないか。」
 まずは第一関門突破___ソアラはにっこりと微笑んだ。しかし潮もただでは通さない。
 「ただ、用心はするぜ。」
 彼の物腰や視線の作り、正統派には思えない。嘘や芝居を見破る能力に長け、用心深い男___今まで会ったことのないタイプの妖魔だった。
 「蝿___?」
 化けた潮がソアラの目前に舞い踊る。小さな蝿はソアラが怯むのも構わずに彼女の耳元に止まった。
 「首筋に止まらせてもらう。拒否はさせない。」
 珍妙な能力に戸惑う暇もなく、蝿はソアラのうなじの辺りまで這いずっていき、ソアラはゾッとして肩を竦めた。
 「あんた___名前は?」
 「潮。」
 首の後ろからあまり大きくない声がした。その名を聞き、ソアラは長い瞬きをした。
 (蝿に化けるのが能力か___天破の部屋の血痕は天井にべったりと付いていた。直立した状態で首を切り飛ばされなければあり得ないこと___)
 こいつがやったのかもな___と、ソアラは心で呟いた。
 「おまえは?」
 「由羅。」
 首筋に蝿を止めること、それは刀を宛われているも同じ。潮に緊張を悟られないよう、ソアラはできる限りの平常心で前へと進んだ。

 金城はきめ細かく艶やかな、大理石のような石の床をしていた。ピカピカで、絨毯もなく、裸足で歩くには少し冷たそうにも思える。そこを妖人であろう、一律に同じ着物を纏った女中たちが足袋一つでしずしずと歩いていた。
 (こういうところに着物は似合わないわね___)
 ソアラならずともそう思うところ。壁にはランプが掛かり、石の柱は天井まで飾り気無く真っ直ぐに伸びる。ここは銀城同様、中庸界の服装が相応しく思える場所だった。
 「右だ。」
 首で聞こえる潮の声に従い、ソアラは廊下を進む。金城の中は角を曲がるたびに新しい出会いがあるほど人が多いが、これまで妖魔らしき輩と擦れ違うことはなかった。
 「妖人が多いのね。」
 「妖魔は忙しいからな。」
 「戦争で?ならあたしも使ってもらえるかも。」
 金城から直接戦力が出ているのか?そもそも現在の黄泉全体の勢力図、どことどこで戦闘が起こりうるのかが把握できていない。ここでそれを知ることができれば幸いだ。
 やがて辿り着いたのは、一際開けた空間。高貴にさえ思えるマーブルの床の先、そこに居座るのは上品さには縁遠い風体の「巨人」だった。
 「___」
 躊躇があった。奥行きのある広間の入り口から、真正面の位置に座っている巨人。あれが餓門だということは一目で分かったが、それにしても、彼の元まで前進するには見えない壁がある。その巨体、筋骨隆々とした肉体から発せられる隠し立てしない力強さ、榊が彼を「馬鹿正直」と言ったのが、肌を通して分かるほどだった。
 餓門から放たれる力に対し、胸を張って行進するように進むソアラ。餓門は大きな口を真一文字に結んで、迫り来る紫髪の女を見ていた。そして___言葉が出る距離へ。
 「なんだ貴様!」
 怒号に聞こえるがそうでもない。餓門の額に血管は浮かんでいたが、目は血走っていなかった。
 「由羅です。あたしを使ってください。」
 「なにぃ!?」
 餓門の直球にソアラも直球を投げ返す。物怖じせずに凛と立つ女を見下ろすようにして、餓門は突き出た額に皺を集めた。彼の両隣に立つ熟練の妖魔が訝しげにソアラを睨んでいた。
 「覇王に判断して貰おうと思って、ここまで連れてきたんですよ。」
 ソアラの背後に人型となった潮が現れる。
 「おお、おまえか。」
 潮の姿を見て、餓門の皺が少し減った。
 「どういうことか説明しろ。」
 「こいつ、俺たちみたいなもんで。ただ、牙丸に誘われた訳じゃないそうですぜ。」
 確認を取らないのは怠慢だからではあるまい。どうやら肝心の妖魔の一人、牙丸はここには居ないようだ。
 「おまえは戦いが得意なのか?なんだか弱そうだがなぁ?」
 餓門は首を傾げてソアラを見る。動物のような仕草はソアラの心を落ち着かせた。
 「働けますよ。少なくともこの蝿男よりは活躍できます。」
 ソアラは潮を指さし、挑発的な笑みを見せる。潮はニヤリと笑っていたが、ソアラが背に殺気を感じたのも確かだ。
 「ハッハッハッ!大した自信だ!」
 「後悔するなよ、おまえ。」
 餓門は溌剌と高笑いする。一方で潮が背後から耳打ちするように呟いた。先ほど彼をダシにしたことへの恨み節かと思いきや、ソアラはすぐにその意味を知ることになる。
 「それだけ言うなら一番きつい試練も越えられるな?」
 「はい?」
 ソアラは直立したままキョトンとして餓門を見やる。
 「弱い奴はいらねえんだ、一人で百人の妖魔を相手にできるくらい強い奴がいればいい!おまえがどれだけ強いのか、それを試すわけだな。」
 「さっき一番きついって___」
 ソアラは振り返って潮を一瞥し、彼が嘲笑を浮かべているのを見てちょっと後悔した。
 「なぁに、試練の間に入る夜の数よ。それだけでかい口を叩くなら、短くても十夜は入っていられるだろう。」
 「ははっ。」
 後ろで潮が笑う。
 「潮、おまえはどれくらい入ってた?」
 「四夜ですね。根気がないもので。」
 ソアラの胸中に不安が渦巻く。十夜という長い時間が口にされていることがなによりの問題だっだ。榊のためには、少しでも早く餓門が水虎殺害の首謀者である証拠を見つけ出したかったのだが___
 「試練ってどんなものなんです?」
 餓門に認められなければ、金城にいられないのも確かだ。前に餓門、後ろに潮がいるこの状況では選択の余地はないだろう。
 「この城にある試練の間にできるだけ長く入ってればいい、それだけだ。早速入って貰うぞ。」
 「わかったわ。」
 早々に覚悟を決め、ソアラはしっかりと頷いた。ヘル・ジャッカルで戦劇に挑んだ時、あの日のような緊張感が身体に迸ってきた。

 試練の間、それは金城の中央にある。餓門のいた謁見の間が城の中央ではないのだから、試練の間こそが金城の核といえる場所だ。金城と銀城は水虎が黄泉統治の象徴として作り上げた城であり、餓門と天破の印象そのまま力と知性を現すともいわれている。実際銀城には数多くの蔵書があり、金城にはこの試練の間がある。
 「ここ?」
 城の中央、天井まで巨大な石の柱が聳える。柱には窓や穴はないが、子供の背丈ほどの観音開きの扉があった。潮と共にやってきたソアラは、腰丈ほどの高さでしかない扉を指さして尋ねた。
 「そうだ。」
 ソアラは柱の周りをゆっくりと一周する。確かに太い柱だが、大人が十人で手を結べば囲めるほど。
 「狭そうね。」
 手で柱を叩いてみるが感触は床と変わらない。
 「認められたきゃできるだけ長くこの中にいることだ。ただ無理しすぎると死ぬから気をつけろよ。」
 「へえ___え?死ぬ?」
 聞き返した時には潮はいなくなっていた。役目は済んだということか、蝿に化けて早々に飛び去ったようである。
 「まあ、やるしかないか。」
 再び扉の前へと立ち、ソアラはパチンと両の頬を叩いた。中で何が起こるのかは分からないが、こちらにやってきてから戦いらしいことをしたのは仙山と出会った時だけ。この先のためにも、鈍った体をたたき起こす刺激が欲しい。
 「よしっ!」
 気合いを込め、ソアラは扉を開いた。
 「ん?」
 扉の向こうには何もない。ただ柱の表面が顔を出しただけだった。柱に張りぼての扉を貼り付けただけのようだ。
 「なによこれ。」
 ソアラは頬を膨らませ、現れた石をつま先で蹴った。カツーン___と、いやに音が響き渡った。一瞬だけなぜか気の遠くなるような感覚があり、ソアラは自然と音の余韻に感じ入っていた。
 「はっ!?」
 我に返ったその時、ソアラは真っ白い世界にいた。果てなく真っ白。眩しさこそないが、はてなき白の中に立つ感覚は異様だった。
 「これが___試練の間?」
 気が付いた時には柱さえ消えている。いま自分がここにいるという存在こそ確か、しかしそれだけでしかない。歩くことも不安になるような妙な切迫感がある。
 (アヌビスの部屋はこれが全部真っ黒だった。でもあのときはみんなもいたし、物もあったし___)
 意外に白の方が怖い。と感じたソアラは、胸が高鳴るのを感じながら一歩を踏み出す。足下がしっかりしているのがせめてもの救いだった。
 「前に進んでるかどうか___それさえ曖昧ね、これは。」
 ソアラは片方の靴を前方に蹴り出してみる。転がった靴との間隔を計り、ソアラは白の中に距離感を得た。
 「ここには床があって、平らで、真っ白だけど外とはあまり変わらないところだってのは分かった___」
 靴のところまで進み、白に座り込んで履き直すソアラ。ただそうするにもいやにキョロキョロと辺りを見渡してしまう。
 「落ち着かないとこ___」
 独り言が増え、動揺している自分には気づいていた。ただそれも仕方のないこと。際限なく広い場所にただ一人というのは精神的に堪える。
 「ここにどれくらい居られるかってわけね___あれ?でもどうやって出るのよ。」
 紐を結び終えたソアラは顔を上げた。
 「え!?」
 すると目の前には、観音開きの扉が付いた柱が現れていた。ただし柱は扉の高さまでしかない。ソアラは四つん這いで柱に近づき、恐る恐る叩いてみる。するとその衝撃で砂が崩れるように柱は消え去ってしまった。
 なぜ突然現れたのか、ソアラはその場で安坐して考えを巡らせる。そして___
 「出る。」
 真っ直ぐ前を見てその一言を発した。
 「違うか。」
 苦笑いしてそのまま見えない床に寝転がる。すると頭の上に何かの塊が見えた。
 「うわっ!」
 ソアラは飛び跳ねるように仰向けから俯せに。視線の先には扉つきの柱が現れていた。すぐさま近寄って柱を叩くと、先ほどと同じように消え失せる。
 「出る。」
 もう一度繰り返してみる。今度は右後方に柱が現れていた。
「なるほど、いつでも出られるってのが余計に辛いわけだ。」
 ソアラは再び柱を叩いて消し去った。そしてでんとその場に座り込む。
 「暫く頑張ってみるか。」
 どれほどの時間、この場所にいるのがいいか。いやどれほどの時間、精神的に耐えられるのか。今までそれほど気にならなかったが、ここは外よりも随分気温が高い。
 確かに、これは苛酷だった。
 そのころ___
 「うおおおおっ!」
 橙に輝く赤辰の手が目前の妖魔の背を捕らえる。
 「や、やめろ___!」
 手はまるで泥に潜り込むように妖魔の体内に入り込んだ。それはちょうど左胸の位置。 「がっ___!」
 振り返って哀願する妖魔の口から血が溢れだした。白目を剥いた妖魔の顔からは一気に血の気が失せ、その身体は赤辰の手から抜け落ちるように倒れた。この妖魔は金剛宮の頭首であり、餓門派。名を武蔵と言った。
 「武蔵は仕留めた!」
 そこかしこに火の手が上がる集落。それを見る小山の林で、赤辰は己の居場所を放棄した武蔵を討った。
 「我らの勝利だ!」
 体内から抜き出した武蔵の心臓を掲げながら、赤辰は太い眉をつり上げて高らかに叫んだ。
 妖魔同志の戦いは激しく、短い。彼の勝利は薫族を通じ、すぐさま同志たちへと伝えられていった。ソアラが試練に挑戦するこのとき、動乱は拡大を見せ始めていたのだ。




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