1 机上の伝言

 銀城を制した餓門だが、金城から黙視できる距離の城にあえて戦力を配備するようなことはなかった。それは榊にとって好都合。亀の甲のように隙のないこの城に入り込むのにはやはり十分な用心が必要だ。
 「かような時に仙山の能力は便利じゃな___」
 一枚屋根の下に全てを収める銀城。その天井にへばり付き、榊は呟いた。ソアラも彼女の隣で天井に伏している。天井よりも高い位置に見張り台はないが、球状であるため立ち上がれば下から見つかるかもしれなかった。
 「仙山とはどこで知り合ったんです?」
 「___」
 にこにこ顔で脳天気な質問を投げかけてきたソアラ。榊は伏し目で彼女を見た。
 「さて、城内に潜入するぞ。」
 「そうですねっ。」
 ソアラの質問癖をやり過ごすことも覚えたらしい。
 「さて___」
 二人はこの城の上空の闇より飛び出し、素早く天井へと降り立った。榊の能力は闇の出入り口を開くことだから、直接銀城の中に出口を開くこともできる。だが榊には建物の中の様子まで知ることはできない。結局は用心のために、風穴から侵入するという原始的な手段を取ることとなった。
 「誰にも見つからないようにいくんですか?」
 「私の能力があれば見つかることはない。」
 球体の頂点から少し下ったところに、排気用の煙突が飛び出していた。榊はそれを指さす。
 「煙たいのは好かぬが、灰を被ることも甘んじねばなるまい。」
 「わっ。」
 ソアラが驚くのも束の間、二人の身体を闇が飲み込み、次に現れた時には上だけが明るい煙突の中だった。
 「なるほど、細切れに進むわけですね。」
 「ところどころじゃ。あまり建物を突き抜けるような移動はやりとうない。」
 「きついんですか?」
 身を案じて言ったつもりだが、負けず嫌いな榊は茶化されたと思ったらしい。
 「馬鹿にしとるな。」
 頬を膨らませて先に煙突を下へと沈み込んでいく。
 「あ〜、違いますよ。本当に心配で言ってるんです。」
 榊を含め、妖魔といると紫の自分にはあまりインパクトがないように思えて不思議だ。色のコンプレックスは誇りに変わったはずだが、それでもソアラは妖魔と共にいると心に軽さを感じた。
 「止まれ。」
 「わっ。」
 先ゆく榊が急に止まったため、ソアラは危うく彼女の頭を足の裏で蹴飛ばしそうになる。反射的に膝を上げて足を引いたまでは良かったが、バランスを崩して狭い煙突に後頭部をぶつけた。
 「く〜。」
 「なにをしとる。」
 「な、なんでもないです。」
 ライのような真似をしてしまったことに歯がゆさを感じながら、ソアラは頭を逆さにして榊の横へと顔を覗かせる。
 「ここは火葬場じゃ。」
 「火葬場___」
 下へと延びる一本道の先、白い灰の跡が所々に残った小部屋が見えた。
 「死者の魂は闇へと返す。天破は理屈屋じゃが、死者を尊ぶ心は人一倍。遺体を燃し、その煙、つまり魂が闇へと真っ直ぐ帰るよう、この長い煙突が作られておる。」
 「つまり___死者の通り道ってことですね___」
 あまりいい気はしない。ソアラの口元が引きつっていた。
 「早く先に進みましょう。」
 「そうじゃな。」
 肩の辺りが重くなる前に城内へ急ごうとした二人だったが___
 ギィッ。
 「!」
 下の小部屋に光が差し込む。二人は寸での所で踏みとどまり、息をひそめた。
 「うわっ、あんまり広くねえぞ。」
 「どうでもいいっぺ、とりあえず詰めるだけ詰め込んで燃やすべよ。」
 光の方から声が聞こえ、物音と共に___
 ドサッ!
 「!?」
 ソアラは肩を竦め、榊も顔をしかめた。放り込まれたのは惨たらしく腹を裂かれた妖魔の骸。一体ではない、次から次へと狭い窯の中へと詰め込まれてくる。全身が残っているものそうでないもの、男だろうが女だろうがごちゃ混ぜに。差し込む光に微かに照らされ、死者たちの形相はよりおぞましさを増し、噎せ返るような死臭にソアラは口を手で覆った。
 「これただ火を入れりゃいいのか?」
 「油でも流しとくべ。」
 トクトク___と水気ある音。死臭がさらに珍妙な臭気へと変わり、平静を装っていた榊の首筋にも鳥肌が浮かんでいた。
 「よーし、火だ!」
 ゴッ!
 あっという間に窯の中が真っ白に変わる。油と血肉で炎は一気に燃え上がり、煙突に強烈な熱を吹き上げてきた。
 「くっ!」
 しかし間一髪、ソアラが突き出した掌から強烈な冷気が噴き出し、窯から煙突への入り口に厚い氷の壁を張り巡らせた。
 「死者に気を取られてしまったのう___」
 闇を開くのは瞬間では難しい。榊は中空に文字を描こうと立てた指を少し火傷していた。
 「あまり持ちませんよ、あの炎の勢いじゃこんな氷はすぐに溶けます。」
 ソアラは氷に魔力を送り込みながら言った。透明な壁の向こうで炎がけたたましく渦巻いている。
 「我らが同志に祈りを捧げる。それからでも遅くはあるまい。」
 「___ええ。」
 炎で焼かれているのは天破に仕えていた妖魔たち。榊は派閥の同志に手を合わせ、目を閉じ、冥福を祈った。
 「行こう。」
 そして空間に赤い文字を描き出すと、煙突の壁に闇を開いた。二人が闇に消えると、氷はあっという間に溶け落ち、溜まっていた煙が昇竜の勢いで煙突を空へと駆け上っていった。
 「なんだか___この闇って少し違いますね。」
 「当然じゃ。」
 煙突から入り込んだ榊の闇は、今までとは少し違っていた。今までは黒の中に蒼い雲やらなにやらが見え、上下左右も定かでなく身体の行き場が分からない、榊がいなければとても姿勢を保てないような空間だった。しかし今度の闇は真っ黒で、身体全体にロープか何かで引っ張り上げられるような力がある。相当に両足を踏ん張らなければ飛ばされてしまいそうなほどだ。
 「これは空から闇をここまで引っ張ってきたものじゃ。闇は全てに通じる、つまり闇を我が手元に落とせば我らは全てを通ずることができる。」
 「それじゃ___これも空の闇?」
 「そう、ただ我らの居場所は煙突から火葬場への壁の中じゃ。引っ張り上げられる感覚があるのは、闇が空へと戻りたがっているから。」
 「なるほど。」
 ソアラは何となく納得した。深く考えると夜も眠れなくなりそうだったので。
 「しっかり踏ん張れ。闇に引き上げられて空まで行けばいいが、もし途中で置き去りにされれば壁の中に封じられ、窒息死してしまう。」
 「は、はぁ___」
 ソアラは冷や汗を浮かべて、下半身の力を強めた。
 「行くぞ。」
 ただより汗ばんでいたのは榊の方だった。闇を引っ張ることは彼女にとって大きな負担なのだろう。
 (あまりこの能力は使わせたくない___)
 仮にも榊は自分の主人である。ソアラが彼女の身を案じるのは、部下として当然のことだった。
 「それでよぉ___」
 火葬場の金属扉を前にして、死体を運んできたらしい荷車に寄りかかりながら二人の妖魔がだべっていた。足下に黒い円が開いたとも知らずに。
 「おろ?」
 気づいた時には、二人とも荷車ごと黄泉の闇へと送られていた。元いたはずの火葬場には天井から女二人が降り立った。
 「正直この城の構造にはあまり詳しくない。まずは天破がどこで連れ去られたのかを探らなければならんな。」
 「あぁ、それくらいは簡単ですよ。」
 「なに?」
 ソアラの笑顔を榊は訝しげに見ていた。

 「しっかし汚えなぁ〜、どこもかしこも血だらけだぜ。」
 銀城の廊下を気怠そうに見回る大男が一人。彼の周りでは箒と雑巾を手にした妖人たちだろうか、せっせと飛び散った血痕などを洗い落としていた。
 「やっほ〜。」
 軽薄な呼び声に反応して男がそちらを見ると、廊下の向こうから紫の髪の女がやってきた。ソアラだ。
 「どう?掃除はかどってる?」
 彼女は束ねた髪を解いて少しだけくしくしゃにし、あわせの胸元を軽くはだけていた。いつもより尻軽な女を演じてみせる。あまり彼女を知らない人物なら、見間違うほど印象が変わっていた。
 「おう。おめえらちゃっちゃと働け。」
 大男は彼女を疑うでもなく、右手の指先で電撃をスパークさせた。
 「なかなか広くってなぁ、大変よ。」
 「あらそう。」
 「おまえあんまりみねえ顔だな。新参か?」
 「そうよ。由羅っていうの、よろしく。」
 ソアラは堂々と男に手を差し伸べる。だが男は手を引いて苦笑いした。
 「おっと、俺との握手はやめておいた方がいい。ぶっ飛んじまうぜ。」
 彼の手ではまだ火花が燻っている。先ほどの電撃の名残だ。
 「あぁ___ま、あたしの握手も危ないっていえば危ないけど。」
 一方でソアラもまた指差に氷を纏って男に見せてみる。彼は感心した様子で目を大きく見開いていた。
 「俺も新参だ、まあ以後よろしく。」
 「そうね。ところで、天破ってのはどこにいたのを連れ去られたのかしら?」
 「あん?」
 少し質問が唐突だったろうか?男はポカンとして首を捻る。
 「いやん、ついさっき金城からこっちに来たばかりなの。どうせだったらさ、天破の爺さんがしくじった現場を見ておきたいのよ。」
 ソアラは取り繕うような猫なで声で、男の肩をポンッと叩いた。
 「変な奴だなぁ。どこって、あれだろ、あの朱雀って女が壁を壊したとこ。あの部屋血まみれだったしよお、狭くてつまんねえ部屋だぜ。」
 (だった___?)
 嫌な予感___
 「もしかして___もう掃除した?」
 「いんや。」
 ソアラはホッと胸をなで下ろす。つい安堵の息をついてしまい、ますます男を不思議がらせた。
 「なら行ったついでにあたしが掃除しといてあげるよ。」
 「ほんとか!?そりゃあ助かる。」
 猜疑心の少ない男で助かった。自分の仕事が楽になると聞くと、男はあっという間に表情を綻ばせた。
 「お待たせしました〜。」
 服を正し、髪を纏めながらソアラが榊の元へとやってきた。ソアラが聞き込みをしている間、榊は人気のない倉庫の陰に隠れていたのだ。 
 「慣れたものじゃな。どこの娼婦かと思ったぞ。」
 「あ〜、酷いなあ。」
 そんな人物像を意識していたのは確か。
 「冗談じゃ。しかし、顔が割れていないとはいえ大胆なものじゃのう。」
 「溶け込むと案外ばれないんですよ、こういうの。例の場所を調べるにも、掃除しながらだったら疑われないでしょうし。」
 「ふむ、考えたな。」
 榊はソアラに関心以上の頼もしさを感じた。彼女を帯同したのは正解だと思いながら、その後を進んだ。
 「あ、ちょっといいですか?姫。」
 「ん?」
 振り返ったソアラは前屈みになって榊の髪に手を差し伸べた。真ん中で分かれる彼女の髪を少しだけいじる。
 「これでよし。」
 前髪が目元を隠すようになる。すると榊の大きな瞳が一層際だつように見え、ソアラは思わず手を叩いた。
 「姫可愛い!」
「そ、そうかの?」
 緊張感のない二人の側を妖魔か妖人か、数人が過ぎ去っていく。なるほど、溶け込むとばれないものだ。

 「そのまま___って感じですね。」
 「好都合じゃな。」
 天破が連れ去られたのは彼の書斎。正面に大きなテーブル、滅茶苦茶になったカーペット。床は部屋の入り口辺りから真ん中まで幅広く夥しい量の血痕が広がり、入り口から見て左手奥の壁が溶け落ちている。
 「___壊したんじゃない___溶かしたんだ___」
 ソアラはまず溶け落ちた壁の穴に近づく。瓦礫が無く、足下には形を変えた石材が固まっている。何か強力な酸のようなもので壁が溶かされたのは一目瞭然だった。
 「能力じゃな。」
 「酸を放つ能力ってことですか___」
 所々、酸の滴で焼け溶けた跡がある。
 「天破を浚うにはちょうどいい能力じゃ。」
 「そうなんですか?」
 「天破は物体を自在に操作することができる。ただし、それには眼力が必要じゃ。目を封じれば天破は無力となる。」
 榊は部屋に持ってきたバケツの水で、雑巾を濡らした。
 「酸で目を溶かした___」
 「じゃろうな。」
 絞った雑巾をテーブルに乗せたものの、榊は拭こうとはしなかった。所々血痕がこびりついている。些細なものでも手がかりになり得る状況だけに易々と掃除はできなかった。
 「これ___なんでしょうね。」
 テーブルにはいくつかの文具があるが、目を引くのはど真ん中に広げられた図面である。
 「どこかの場所じゃなこれは___」
 血が弾いて汚れてはいる。
 「___わかります?」
 じっと図を睨み付ける榊を覗き込むようにしてソアラが問いかける。
 「穴が空いている。」
 図面には小さな穴がいくつも空いていた。
 「あっ、これじゃないですか?」
 テーブルの上に散らばっていたまち針を拾い上げ、ソアラは図面の小さな穴に針先を当ててみる。
 「大きさもあってそうですよ。」
 「ん?」
 針を手に取り、榊はその頭の赤玉に何かが記されているのを知った。
 「天破___」
 「あれ?そっちの針には名前が書いてあるんですか?」
 針の玉には天破の名が記されていた。榊は別の針を取ってみると、そこにはまた別の名が。
 「朱雀___餓門___」
 「これなんて読むんです?」
 「潮か?」
 榊はテーブルに散らばっていた全ての針を集め、それぞれの玉に目を通していく。それには全て誰かしらの名前が記されていた。唯一無かったのはソアラが最初に拾った針だけだ。
 「何となく分かりましたね。」
 「そうじゃな、この図面の穴に針を立てていくのじゃろう___」
 図面の上に転がした針を睨み、向かい合って肘を立てる二人。夢中になってしまったか、とても掃除しているようには見えなかった。
 「名前の書いてない針は予備かな?」
 「いや___」
 榊はその華奢な手を差しだし、ソアラは彼女に名のない針を渡した。
 「天破はそういう性格ではない___」
 そして小さな玉に爪を立て、少しだけ引っ掻く。すると赤玉の表面から何かが削ぎ取られた。それは偶然にも弾け飛び、玉を上薬のようにして覆い隠した血痕だった。
 「見ろ。」
 玉に記された名を見たソアラは、思わず息を飲んだ。現れた名は「水虎」である。
 「これで分かった。この図面は___水虎様暗殺の現場だ。」
 「ということは___天破はここに座って___」
 ソアラは天破の椅子に腰を下ろす。
 「この図面と針で暗殺の真相を推理していた。でもこれってどこなのかしら___?」
 「鋼鉄の謁見の間じゃ。」
 「鋼鉄?」
 「水虎様の城じゃ。鋼城(はがねじょう)というが、鋼鉄と呼ばれるのが常じゃ。」
 榊は水虎の名が記された針を、図面のおそらくは玉座であろう場所の穴に刺した。
 「天破は考えておった。餓門がどうやって水虎を殺めたのか。」
 榊は針を次々と刺していく、水虎に対して天破が右、餓門が左にひれ伏すのは決まり事だった。聞いたことのない名の妖魔は餓門派。天破は派閥の同志が知らないような妖魔を水虎の前に連れ出したりしない。
 「それはつまり___水虎暗殺の主犯はやっぱり天破じゃないってことになりますね___」
 並べられていく針に視線を注ぎ、ソアラは核心に触れる高ぶりを感じていた。
 「証拠にはならん。言葉だけでは誰も信じぬ。」
 ただ二人は少々夢中になりすぎていた。
 「なにやってんだ、おまえら。」
 「!」
 突然駆けられた野太い声に、驚いたソアラは椅子を倒しながら立ち上がった。いつの間にやら、開け放たれた扉の向こうから先ほどの電撃の妖魔が顔を覗かせていた。
 「掃除してねえじゃねえか。っておまえさっきの奴だよなぁ?」
 身だしなみを整えたソアラの変わり様に、男が明らかに怪しんでいる。ソアラも暴れるのを覚悟しかけたが___
 「ここに頑固な汚れがあって二人で夢中になって落としていたんだ。そっちこそ何か用かな?」
 榊が目元まで隠した顔で振り返り、口ごもることさえなく、しかも言葉遣いを変えて冷静に答えて見せた。
 「いや、話の一つもしてみようと思ったわけだ。」
 男は急に改まり、少し照れくさそうに言った。それを聞いたソアラの肩から力が抜ける。
 「なぁんだ___」
 脱力するように椅子に座ろうとしたソアラは、倒れた椅子の脚にお尻をぶつけながら騒々しく転倒した。その姿を一瞥した榊は小さなため息をつく。
 「後で行くそうよ。茶室?」
 「おう、そうだな。んじゃ、よろしく。」
 榊が気のいい返事をすると、彼は恥ずかしげに笑っていた。
 「は〜い___」
 テーブルの下からソアラの手が伸びるのを見届け、電撃の妖魔は立ち去っていった。
 「茶室は向こうだ。後で気が向いたらいってやれ。」
 「ははは___お見事です。」
 ぶつけたお尻に手を当てて、ソアラは立ち上がった。
 「溶け込めばばれないと言ったのはうぬじゃろう。この図面は私が見る、ぬしは床の掃除でもしておけ。」
 「畏まりました〜。」
 わざとらしい平服だったが、榊も小さな笑みを見せていた。

 「本当に酷い血の量___重なりと飛沫から言って二人、いや三人かな___?」
 あっという間に真っ赤になる雑巾に顔をしかめながら、ソアラは床を拭き掃除していた。ふと見れば、榊がテーブルの下を覗き込んで何かを探している。
 「どうかしました?」
 「いや___もしそっちで針を見つけたら教えてくれ。」
 簡単に頼み事をしない辺りが彼女の頑固さか。
 「足りないんですか?」
 「穴の数に合わないのじゃ。悟られないようにあえて散らかしたようだから___どこかに転がっておるのじゃろう。」
 「何本です?」
 床を見渡してみるが、転がっている様子はない。
 「二つ。」
 「差し直したって考えられません?」
 普通ならばそう考えるところだが、榊は真っ向から否定した。
 「天破に限ってそれはない___まあ気にするな、ぬしは掃除をしていろ。」
 ソアラは桃色になった雑巾を絞って、再びふき掃除を始めた。少しは手伝ってよ、と思いながら。
 そして___
 「終わった〜!」
 服にも血の汚れを付けたソアラはすっかり綺麗になった床に大の字で寝転がった。榊は書棚と、引き出しに探りを入れていた。
 「いい根性じゃな、私は同志の血に濡れた床に寝転がることなどできん。」
 「あっ、天井にもあんなに血が付いてる!」
 ソアラはすぐさま舞い上がって、天井に飛び散った血痕の掃除を始めた。
 「そういえば姫、ここって朱幻城とはちょっと雰囲気が違いますね。」
 そう確かに、銀城の作りはむしろソアラたちの文化に近い。天破の部屋だって、畳敷きでもなし、座布団や掛け軸があるわけでもない。床にはカーペット、木製の背高なテーブルと椅子。
 「これは水虎様が好まれたものじゃ。お主は朱幻城しかしらんのじゃろうが、新しい建物にはこのように裸足には向かぬ作りが多い。」
 水虎はどこでこういった建築様式を知ったのだろう。朱幻城や羅生之宮を黄泉の文化と見てきたソアラにとって、この城の作りは突飛に映る。
 「水虎様は元々こういう建物が好きだったんですか?」
 「そんなこと私が知るか。私は水虎様にはほとんどお会いしたことがないのじゃ。」
 「そうか、姫はお若いですものね。」
 もしかしたら、水虎は異世界から紛れ込んだ誰かと接点があったのかも知れない。いや、それよりも棕櫚やバルバロッサのように、異世界を知ってきた妖魔との接点があったと考える方が妥当か。
 「ところで針は見つかりました?」
 「いや、ないな。暗殺の推理を書き残しているわけでもなさそうじゃ。」
 そのとき、何気なく天井の隅がソアラの視界に入る。そこにはなにやらニキビのような些細な出っ張りがあった。近づいた彼女は歓喜の声を上げそうになって、喉元で押しとどめる。
 「姫、天破の能力は物体を自在に操ることですよね。」
 「ああ。」
 ニキビに手を触れる。その赤い粒は、間違いなく針の頭。
 「こんなところにあえて差し込むっていうのは___死者の伝言と思いたいです。」
 「なに?」
 榊は手にしていた資料をテーブルにばらまき、すぐさま飛び上がってソアラの横へ。ソアラの指さす先、天井の隅にしっかりと深く刺さった二本の針。
 「夜行___牙丸___」
 針に記された名を呟き、榊はそれを抜き取った。
 「知っている妖魔ですか?」
 「いや___」
 榊は首を横に振る。
 「なら餓門派___」
 「鵜呑みにはできぬ。しかしこの二人が鍵ということじゃな___天破は暗殺の手法までは解けなかった。しかし___この二人が重要であるということは突き止めたのじゃ。が___」
 榊は針を丹前に差した。
 「これで誰かを動かせるかは分からぬ。」
 「あたしなら動きません。」
 はっきりとしたソアラの物言いに、榊は頷いた。
 「そうじゃな。」
 そして机に散らかしてしまった資料の元へと舞い戻った。榊が心を決めるだけの決定打はない。ソアラにしてもせっかく掴んだ手がかりを、それだけで終わらせてしまうのはあまりにも惜しいと感じていた。
 「あたしが金城に行きます。」
 「たわけ。」
 ソアラの思いつきに、榊の態度は冷ややかだった。
 「お願いします、行かせてください。」
 だがソアラはピカピカに磨いた床に跪き、食い下がる。だが榊は出会ってそれほどの時を過ごしたわけでもない彼女のそこまでの献身に疑問を感じた。
 「由羅___おぬしの意欲は誠か?なぜそこまでしようとする。それとも金城が本来の居場所か?」
 彼女には何か策略があり、私は利用されているのでは?過ぎた親切は猜疑心を駆り立てる。だがソアラは戸惑いもせず、ただ榊をじっと見据えた。確かに___気に入られようと上辺で着飾っていた部分はあった。
 「あたしは___少しでも自由になる時を得たら、はぐれてしまった二人の仲間を捜したいんです。だから、自由を許されるだけの信頼をできるだけ早く得たいと思ってます。」
 ソアラの本音を榊は沈黙で受け止める。
 「そして何よりあたしが黄泉に来た目的は、あたしたちの世界を脅かす邪悪がこちらにやってきたみたいだから。そして水虎様の元で安定が生まれようとしていた黄泉を掻き乱した存在、それは___あたしたちの敵じゃないのかって、そう思っています。」
 榊からどれだけの信頼を得ているのか、それは分からない。だがソアラはあの男の名前を出すことでそれを計るのも悪くないと思っていた。
 「あたしは棕櫚との接点があります。姫も棕櫚とは接点があると聞いています。それもあたしが姫の側にいたい理由の一つです。」
 榊は憮然とした態度を変えなかったが、ソアラに対して激高することもなかった。
 「これが心情を抜きにして、あたしがあなたの側にいる理由です。利用しているというなら、それはそう言われても仕方のないことだと思います。ただ___」
 「もうよい。」
 さらに続けようとしたソアラを制し、榊は空間に文字を描き始めた。闇を開き、朱幻城に帰るのか___そう思ったソアラは少しだけ肩を落とした。しかし___
 「私は___部下としておぬしを引き留めたい。しかし、おぬしが己の目的のために金城へ向かいたいというのなら、それを止めることはできぬ___」
 「姫___!」
 驚いて声を上げたソアラを、榊は柔らかな目で見ていた。
 「しばしの自由を与える、しかし私に礼を尽くせ。」
 「もちろん!」
 闇が開き、笑顔のソアラだけを飲み込んでいった。
 榊は、ソアラが見せかけだけで自分に諂っているわけではないことに満足し、ソアラは榊に部下として求められたことに喜びを感じている。利害を別にして互いが互いを頼ることで、二人の間には確かな絆が生まれ始めていた。




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