2 榊の選択
黄泉のいずこ。そこは木々が少なく、所々丈の短い草が生える以外は黒い岩肌が露出した、まるで溶岩流が冷え固まった後の大地のようだった。動物が住むには過酷な地帯だが、黒岩の上を跳ねるように進む男が一人。
決して大柄ではなく、タイトな衣服が細身の体をよりすっきりと見せる。浅黒い肌は運動能力を感じさせるが、その体つきは貧弱にさえ思えた。
(このあたりのはずだな___)
黒い髪は短く、ほとんど丸刈り。外気は肌寒いが、マントやマフラーをするわけでもなく、ごく軽装だった。彼はただ岩石地帯を飛び跳ねるように進む。時折岩を蹴飛ばしながら。
ゴゴ___
「おっ。」
足下の岩が動いたかと思うと、彼を跳ね上げるようにして突き上がり、浅黒の青年は宙を泳いだ。
「ほっ。」
しかし彼は軽やかな身のこなしで宙返りし、足場の悪い岩に降り立つ。振り返るとそこでは岩が立ち上がっていた。
(見つけた。)
立ち上がった岩から黒い固まりがバラバラとはがれ落ちていく。すると茶色い頭髪、傷跡だらけの筋骨隆々で大きな背中が露わになっていった。
「やかましいな___人の寝床を踏み荒らしやがって___」
現れたのは男だ。まるで岩石のような灰色の肌をした大男は、振り返って浅黒い青年を睨んだ。緊迫の対峙___青年は黒岩を蹴りつけて大男を挑発していたのだ。
「えっと、雷電かな?」
だが青年は全く緊張感のない様子で、服のポケットから紙を取り出すと大男に問いかけた。
「なんだ貴様___」
不審に思った大男は威嚇するようにその目つきをより厳しくする。
「名前だよ、雷電ってのははあんたのことか?」
礼節も何もあったものではない。こけにされていると感じた大男の体に力が籠もっていった。
「人の寝床を踏み荒らして挨拶無しとはいい度胸だな___」
「まあいい、雷電で正解みたいだな。いや、このあたりで一目置かれている妖魔は誰かって聞いて回ってたらみんながあんただって言ったんでね、こうして会いに来たわけよ。」
相手の言葉に取り合う素振りさえ見せず、青年は勝手に話を進めていく。取り出した紙に一つ印を付け、再びポケットにしまったとき、彼の頭を雷電の大きな掌が鷲づかみにした。
「軽々しい奴め、何者だ貴様___」
頭を掴んで引っ張り上げられても、浅黒の青年に危機感はない。そのままニッと笑って雷電を見据えていた。
「俺は牙丸。餓門の部下であり、有能な妖魔を捜して同志に引き抜いているんだよ。」
浅黒の名は牙丸。水虎暗殺の場に居合わせた妖魔の一人だった。
「誘いに来たわりには礼儀がないな___」
「挑発でもしないと戦いにならないもんでね!」
実にしなやか。牙丸は掴まれた頭を軸に体を大きくしならせて、がら空きになっている雷電の脇の下に蹴りを叩き込んだ。
「おのれ___!」
的確に痛点を捉えた攻撃に雷電が顔をしかめる。力の弱まった掌から脱出した牙丸はその場に立って両の掌を見せつけた。
「最高の拳を一つくれよ。おまえはどう見ても剛力が取り柄だからそれで判断するわ。」
あまりにも嘗め腐った牙丸の態度に、それなりに冷静だったはずの雷電も怒り心頭の様子。
「いいだろう___肩まで砕いてやる!」
雷電が振りかぶった拳に大量の黒い石が吸い付いてきた。これが彼の能力、体にこの溶岩のような石を吸い付ける。
「おぉぉっ!」
渾身の破壊力が込められた岩の拳。牙丸は避ける素振りさえ見せず、その一撃をあまり大きくない掌で受けた。
「そんなもん?」
弾かれることも、よろめき一つさえない。拳はピタリと牙丸の手で止まっていた。雷電は言葉を失う。岩を纏った拳の威力、これでこの厳しい黄泉を生きてきたというのに。
「残念、おまえは不合格だ。能力もつまらないし、その程度だったら代わりはいくらでもいる。」
牙丸の掌と、雷電の拳の狭間には黒い何かがあった。
「なっ___」
雷電が体の異変に気づいた時は既に遅し。拳に纏った岩が砕け散ると同時に、拳と掌の狭間から黒い炎が吹き出し、雷電の体を包み込んだ。断末魔の声さえ上げることができず、炎は僅かな時間で彼を黒い固まりに変えていた。
「やれやれ、なかなかこれといった奴は見つからないもんだな。」
牙丸はもう一度ポケットから紙を取り出す。そこには噂に聞いた妖魔たちの名と、彼らがいるという地名が記されていた。ただその数人は既に斜線で消され、丸が付いていた名は潮、朱雀、それから百済丸(くだらまる)。
潮と朱雀はあの二人だが、百済丸とは牙丸が見つけた新戦力。牙丸は派閥社会と無縁に己の力で黄泉を生きてきた者たち、つまり裏寄りの実力者をかき集め、餓門の私兵としている。潮も朱雀も元は裏社会で暗殺を稼業としてきた。
「能力的におもしろい潮と朱雀、ただ単純に強い百済丸、両方揃った奴なんてそうそういるもんじゃねえな〜___」
彼のリストの中に夜行の名はない。
「さて次は___どいつにするか。」
紙に記されたいくつかの名前に点を打ち、牙丸はふわりと舞い上がった。
一方そのころ、意気あがる赤辰の居城「火霊城(かれいじょう)」からは、餓門派の妖魔が収める近隣集落へと兵団が進んでいた。隠し立てせず、真っ向勝負。兵団は赤辰を先頭に、弔いの意味を込めた白と黒の旗を靡かせていた。
榊の元へは火霊城の薫族から出撃の報せが届いていた。赤辰はあらゆる天破派の同志にこの報せを送り、奮起を促していたのだ。
「我々の周りも騒がしくなりそうですな。」
すっかりここに集まるようになったいつもの庵にて、対応に頭悩ませる榊を前に仙山が腕組みした。
「ここの近くの集落は餓門派ばかりなの___?」
ソアラが難しい顔で仙山に問いかける。
「そうだ。ただ集落同志の交流があるわけではないからそれも大きな問題にはならなかった。元は同じ派閥だしな。」
「姫。一つ気になるんですけど、なぜ水虎が___」
「様をつけろ。」
仙山に指摘されてソアラは「あっ」と声を漏らして口元を抑える。
「水虎様は今でこそ亡くなられましたけど、それだって最近の話じゃないですか。何でこんなに急に、しかもはっきりと餓門派と天破派に別れたんです?みんなが尊敬していたのは水虎様なんでしょう?今ひとつ納得がいかないんですけど。」
「野心じゃ。」
上座の座布団の上で、黙り込んで考えを巡らせていた榊が即答した。
「餓門も天破も、いつかは自分が水虎の立場になってやろうという野心を持っていた。ただ餓門はそれを己の向上心とし、水虎様の前でも公言していた。水虎様は奴のそういうところを気に入っておられたから、咎めはしなかったのじゃ。水虎様も実際覇王の座から身を引く考えを持っておられたしの___」
「そうなんですか?」
ソアラは掌を上に向け、信じられないといったような仕草をする。榊はそんな彼女を見て口元を歪めた。
「おぬしも同類じゃろう?一つの場所に落ち着いているのは嫌いな口じゃ。」
「あ〜、それはそうですね。」
ソアラは苦笑いして頷く。実際そんなだから今ここにいるわけで___
「真正直な餓門の挑戦に賛同する者は少なくなかった。ただ一方で、今の水虎が治める泰平の黄泉を崩したくないという者も多かった。それらを束ねたのが天破なのじゃ。」
少し策略めいたものを感じる。天破はそうすることで自分の勢力を作り上げたことになるのだから。
「それが天破の野心ですか?」
問いかけに榊はしっかりと頷いた。
「天破派の思想は、水虎様に身を捧ぐほど心酔していた者たち、つまり根っからの水虎派の支持を集めた。実際、私は天破派ではあるがあくまで水虎派のつもりじゃ。」
「なるほど、だからまず水虎殺害の犯人を突き止めたいわけですね。」
憎むべきは餓門と今決めつけるのは早計。彼女は天破が白でない可能性も踏まえて、己のあり方を熟考している。ソアラには榊の苦悩がよく分かった。
「餓門という男はのう、到底悪い男ではない。いや、悪いことに知恵の働く男ではないのじゃ。悪事とあってもそれをうぬが正しいと思えば迷わず実行に移す男。もし水虎様に挑むとしても暗殺、ましてや手だての分からぬ暗殺ができるほど知恵の働く男ではない。」
そういう気性の男が急に変わることなんてあり得ない。直感に訴える人はいつだって直感が優先されるし、理論の構築で事を進める人は自然と頭がそう動くものだ。しかし___
「ただ実際に天破は餓門の手で殺されています。」
仙山の言うとおり、その点は揺らがない事実だ。
「なら仙山は本当に天破が水虎様を殺したと思う?」
「思わないな、天破は自分に疑いがかかるような方法は取らない。」
策略家だから余計にである。ソアラは二人の話だけでしか餓門も天破も知らないが、天破という男が一筋縄でいかないというのはよく分かった。その男を単純明快な餓門が周到に捕らえ、処刑したというのがまず矛盾である。
「姫、あたし思うんですけど___もし天破がそれだけ知略の働く人だったら、ただ殺されて終わりって事はないと思うんです。」
「なんじゃと?」
経験談だ。リドンの姉妹にしろ誰にしろ、一筋縄でいかない人物は最後まで一筋縄ではいかない。
「死者の伝言ってご存じですか?」
「死者の伝言だと___?」
仙山が眉間に皺を寄せて問いかけた。
「誰かに殺された人が、いまわの際に犯人への手がかりを気づかれないように残すことです。天破が知将なら、あり得ると思うんですよ。」
「殺されたのは金城だという。そんな余裕はないと思うが。」
仙山は否定的だが、ソアラは構わなかった。
「残すなら自分が捕らえられた場所___えっと___」
「銀城。」
「そう、そこに残すと思うわ。無傷で捕らえられたわけないでしょう?金城に連れて行かれた時点ではきっと戦えないほどに傷ついていたと思わない?」
無表情だった榊も、大きな目をパチクリとさせてソアラの話しに耳を傾けていた。
「銀城は餓門派に制圧されたと聞くが___」
「行って調べてみたいね___」
大胆なことを軽々しく言うソアラに、仙山と榊の視線が集まった。それに気づいたソアラは照れたようにはにかむ。しかし榊は意外にも積極的だった。
「行くか?由羅。」
「姫!」
仙山は飛び上がらんばかりに驚いて、叫んだ。
「いや、たとえその死者の伝言がなかったとしてもじゃ、餓門がこうも唐突に天破を殺めた一つの要因は、天破が水虎様暗殺のからくりを解き明かしかねないと思ったからではなかろうか?然も有なん、天破は己の考察を何らかの形で書き残しておるかもしれぬ。」
「そうですよ!」
「由羅、軽々しいぞ!」
手を叩いて榊の判断を喜ぶソアラを仙山が一喝する。
「危険すぎます___あるかないかも分からぬものを探しに、敵の懐に飛び込むなど!」
「だが私でなければできぬことじゃ。気づかれぬように銀城に潜伏することができるのは、天破派の有力妖魔では私くらいなもの。」
榊がゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を揺らめかせる。
「餓門が水虎様殺害の首謀者である確証が欲しい。その謎に手をかけている者がいるとすれば、それは死した天破じゃ。彼の意志が無駄にならないよう最善を努めるのも、同志の役目じゃろう?」
「しかし___」
一理はある。だがそれを榊がやることはない。代償の大きな賭は、派閥を越えて重要な人物がやるべきではない。闇を開く能力、それはこの黄泉で少なくとも彼の知る限りは榊だけの能力なのだから。
「止めてくれるな。私も自我を持って動きたいのじゃ___」
「姫___」
特殊な能力をもつからこそ、彼女には高いモラルが求められ、軽はずみな行為は許されない。しかし彼女が本来持つ行動力に朱幻城では狭すぎるのも確かだ。
「おまえは私の居ぬ間この城を守れ。」
榊は仙山の顔を見上げ、しっとりとした優しい声で言った。彼女は仙山の心遣いを嬉しく思い、敏感な女らしさを少しだけ見せていた。そんな顔をされては仙山も黙るしかなかった___
「支度をしてくる。由羅、おぬしも武具を忘れるでないぞ。」
「___はい。」
榊がいなくなるとソアラはすぐに仙山を振り返って頭を下げた。
「ごめんなさい。あたしが軽はずみなことを言ったから___」
「私に謝っても仕方のないことだ。」
ソアラも感じていた。仙山は榊の忠実なる部下であると同時に、男として一人の女を守りたがっている。
「おまえは責任持って姫を守れ、いいな。」
「もちろん。」
力強い声の余韻を残し、ソアラもそれ以上は何も言わず支度に向かった。榊のことが好きか?なんて、こんな時に聞くのは百鬼のような男のやることだ。
「___」
一人残った仙山は畳に座り込み、難しい顔をしていた。
(銀城に忍び込むのは姫の能力があれば難しくない___しかし誰かに顔を見られれば、餓門の次の狙いは姫になる。朱幻城とて安泰ではない___)
榊はその能力ゆえ、黄泉の中で特殊な地位を得ている。この朱幻城が戦いの矢面に立たされることなどあり得なかった。だからここには戦える妖魔が仙山しかいない。あとは黒塚たちが警戒の目を光らせてくれればそれで十分だった。
(戦力が必要だ___姫はお怒りになるかも知れないが、あの男なら必ず手を貸してくれる___)
仙山もまた密かな決意を胸に、立ち上がった。
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