3 悲劇の翼と黒麒麟

 黄泉の表舞台は派閥社会と英雄水虎の君臨があり、その後の混乱の世がある。しかしそれとは全く別に暗躍する者たちもいる。彼らが作り上げているのが裏社会だ。
 裏社会の住人たちが表の派閥社会に絡むことはほとんど無かった。しかしその影響力は無視できないものがある。裏社会に根城を置く妖魔たちは、その能力が己が真っ当に生きるための障害になっている場合が多い。彼らは表舞台に立つことができないから、裏で生きるしかない。
 しかし近頃は、いずれ表舞台で頭角を現すためにまずは裏社会で優秀な配下と資財を蓄えようとする者が増えている。なかでも裏社会で最大の金が動くとされているのが妖魔の売買。優れた能力を持ちながら、それを活かしていない妖魔を意志のあるまま、あるいは意志とは無関係に競売にかける。さらに美形の妖魔や妖人は、強欲な者たちにより哀れ極まりない理由で売買がなされていた。
 これが表舞台への介入を狙う裏の妖魔たちの肥やしとなっており、皇蚕の連中の近頃の仕事はオークションの売り手の摘発だとさえ噂されている。
 「ご苦労様でした、今日も完売ですな。」
 「相変わらず、能力云々抜きにしていい女は高く売れるわ。」
 そんな下劣な社会にあって、近頃優れた売人として名をあげているのが「涼妃(りょうき)」だ。彼女は麻酔牙を持つ猟犬「牙狼」の調教能力をもつ背の曲がった男「茶坊」を従え、各地より様々な妖魔を収集している。
 「そろそろ収集を始めないといけないね。牙狼がこの前一つやられただろ。」
 その拠点は地下に拵えた館にある。虫のような生活を彼女は嫌っていたが、皇蚕の目にとまらないためにはこれくらいの苦渋が必要だった。
 「ああ、あの娘早めに売ったらどうです?買い手はいくらでもつきますぜ。」
 「そうだね、それはあたしも考えてる。」
 涼妃は白髪の淑女。だが年老いているわけではなく、白髪の血族なのである。今日はオークションに参加していたため普段よりも化粧を濃くしているが、紫にした瞼と、青みある口紅が彼女の持ち味を現す。
 「でもいい加減固すぎてね、あれじゃただには出せない。」
 目を細め、苦虫を噛みつぶしたようなしかめ面を見せる涼妃。
 「あの手の売り物は男の相手ができてなんぼですからな。」
 「そういうことよ。ま、ちょっと行ってみましょうか。」
 地下の巣窟、その奥底にいくつもの監獄がある。監獄の入り口一つ一つに奇妙な文字が描かれていた。それはどの入り口とも全て同じ、複雑な文字だがあらゆる監獄に同じように描かれていた。
 これは「陣」である。
 「___」
 監獄の中で、彼女は何度となく手を輝かせようとした。拳を格子に叩き込もうとした。土に石を張り巡らせた壁を崩そうとした。しかし、かなわなかった。それが「陣」の効果である。
 陣の効いた空間に押し込められた者は力を発揮できなくなる。能力だけではない、腕力まで失われる。立ち上がったり、手を挙げたり、何かを握ったり、その程度の力しか許されないのが「陣」である。
 全ての妖魔に優位に立てる可能性のある能力だったが、すでにここの陣を描いた能力者はこの世にはない。裏切りを恐れた涼妃によって素早く殺害された。
 「う___」
 暗い監獄。横たわった裸を起こそうと手を伸ばせば、すでに堅くなった肉塊に触れる。そして震えた。逆の手には肌身離さず一本の錆び付いた短刀を持っていた。これが唯一の抵抗手段として与えられていた。
 誰か来た。格子の向こうが明るくなり、光が監獄内にも差し込む。
 「うぁ___」
 光のないうちは、臭いは酷いけれど見えないからまだ正気でいられる。でも光が差し込むと、彼女は己の狂気を懺悔し、その翼で身体を包むようにして震えた。
 閉じこめられたミキャックは一糸まとわぬ姿。ただその翼も、身体も、渇いた血でまみれていた。彼女の周りには、男の骸が四つも転がっている。そのいずれもが裸で、刺され、あるいは切り裂かれ、息絶えていた。殺したのはミキャックだった。
 抵抗する手段を与えられなければ、日々計り知れない屈辱を受けることになっただろうが、それでも罪の意識はなかったはずだ。でも___涼妃は彼女に短刀を与えた。それが、強欲な妖魔のために女を売る場合、商品として適性があるか否かを見なす指標になる。
 人殺しをしてまで操を守るか否か。現状を甘受するか。守るのであればどこまで守り通せるか。
 (___同じ___もう嫌___)
 耐えられなかった。裸の自分。周りに転がる血まみれの男。昔___天界のスラムにいた頃、同じような光景にあった。数人の男に辱められて、助けられはしたけども、貪るように跨り続けた男が血まみれになって腹の上に倒れた光景は、今も記憶の奥底に焼き付いて離れない。
 時間と、助けてくれた男の努力で(彼は両親の仇だったが)、男性と笑い会ったり握手を交わしたりできてるようになった。竜神帝に生きる希望を与えられ、心も体も充実してくると過去は本当に隅に追いやられていった。ディック・ゼルセーナに恋することだってできた。サザビーに身体を寄せられても恐怖感はなかった。
 でも、蘇ってしまった。焼き付いていたあのビジョンは心地よい思い出に押し込められていたのに、また前に出てきてしまった。
 「あ〜、こりゃしまいには死肉の布団ができるわね。」
 女の声。顔を上げたミキャックを格子の向こうから涼妃が蔑むように見ていた。
 「頑なねぇ。」
 「へい。」
 「処女?」
 「違うみたいですぜ。」
 「楽しむくらいのゆとりはないのかしら。彼らだってそこまで強引じゃなかったでしょうに。人を殺す方がよっぽど辛くない?」
 そんなゆとりなんてあるものか。男たちはものいわず、ただミキャックの身体を求めていた。確かに力が抑えられる監獄だから強引ではなかったが、それでも意中でない男に抱かれること自体が計り知れない恐怖だった。一人目の男に身体を重ねられ、彼女はたまらずその首に短刀を突き刺していた。無我夢中だった。
 確かに辛かったが、一瞬だけは救われた気になれた。でもその後の甚だしい自責の念と、過去のフィードバックで眠れない夜が続いた。
 「だいぶ参ってるみたいね。」
 翳されたランプがミキャックを照らす。翼で身体を隠した彼女だが、その羽に艶はなく、頬は痩せこけ、目にはくっきりと隈が浮かんでいた。
 「だからこのままじゃ商品価値が下がる一方で。いくら顔と体が良くったって病的になりすぎちまったら買い手も渋りますぜ。」
 「そうだね。こう男を拒んでばかりじゃ売るに売れないし、仕方ないねぇ___茶坊、ちょっと引っ張り出しな。」
 「へい。」
 ミキャックは監獄の中で縮こまり、動かない。むしろ茶坊が格子を開けて入り込んでくると、恐怖で短刀を握った。
 「やめとけ、ここから出たくないのかい?」
 「う___」
 ただ解放するなんて思えない。正直この小男、そして派手な姉御、彼らには恨みと憎しみと恐怖しかない。格子が開け放たれていても、ミキャックはなかなか動こうとしなかった。
 「でないんなら、また男をぶち込むぞ。」
 「いや___血も嫌___男も嫌___!」
 ミキャックは震えながら首を振る。
 「なら出るんだ。」
 「___」
 彼女はゆっくりと立ち上がり、折り重なって倒れる死体を避けるように、よろめきながら格子へと向かった。ただその手には翼に隠すようにして短刀を握ったままだった。
 「そ、おいでおいで。」
 格子の外へ足を一歩___その時、ミキャックは身体に力が巡るのを感じた。それと同時に彼女の中に強さが舞い戻る。そして本能の赴くままに、艱難辛苦を脱するための手段を取った!
 「はああっ!」
 左手に隠した短刀が翼の下から飛び出し、勢いのまま涼妃に斬りつける。しかしそれを予測していた涼妃はしなやかに身を翻し、短刀は彼女の身体の前を通り過ぎた。だがさしもの涼妃もそれが囮であることまでは気づかなかった。
 「たああっ!」
 右の拳が体を開いていた涼妃の脇腹を捕らえる。
 「っ!?」
 痛烈な拳だけではない、そこから沸き上がった炎が涼妃の身体に広がる。しかし体力がかなり衰弱していることもあり、ミキャックの呪拳にもいつものような破壊力はなかった。
 スッ___
 涼妃は痛みに顔をしかめていたが、殴り飛ばすでもなくその手をミキャックの額に宛った。
 「惜しかったね。」
 それだけで彼女の勝利は確約される。そういう能力だから。
 「うぅっ!?」
 涼妃の掌が黄金に輝く。するとミキャックの頭に電撃のような、痛烈な衝撃が走った。
 「あああああっ!!」
 頭が痺れ、あっという間に視界が真っ白に変わる。ミキャックの中で何かが軽くなり、身体が空の高見へ舞い上がるような感覚の後、意識が飛んだ。
 「終了。しっかし___強烈な攻撃だわ、いまの。」
 「ご無事ですか?」
 「後で薬草を煎じておいて。」
 「へい。」
 「さて___」
 涼妃の足下でミキャックは倒れていた。彼女の顔色は悪く、病的に衰弱しているのは変わらないが、その寝顔は極めて安らかだった。
 「起きなさい。」
 涼妃は身を屈め、ミキャックの白いお尻を叩く。するとミキャックはすぐにゆっくりと目を開け、半身を起こした。
 「___」
 「おはよう、私があなたの主人よ。分かるわね?」
 涼妃は彼女の前にしゃがみ込み、優しく言い聞かせるように声をかける。ミキャックはまだボンヤリとした意識の中で、涼妃を見つめてこくりと頷く。
 「うん___」
 「うんじゃない、はいでしょ。」
 「はい___」
 「よくできました。あなたのお名前は?」
 ミキャックの頭を撫でながら涼妃が問いかける。しかしミキャックは無垢な顔で首を傾げた。
 「これ動かせるかしら。」
 「___」
 ぎこちないが翼は動いた。しかし今までの彼女ではない。
 「相変わらず完璧でやんすね。」
 露わな胸を隠そうともせず、ミキャックは放心したように座り込んでいた。その後ろ姿を見て、茶坊が嘲笑を浮かべる。
 「まあね。」
 ミキャックの頭に手を乗せながら、涼妃が立ち上がった。
 「でも、これで少し体力を取り戻せば良い商品になる。きっと変態が破格で買ってくれるわよ。何せ___人生で身につけてきたあらゆる汚れを洗い流してあげたんだから。」
 涼妃の右手がボンヤリと光った。彼女の能力は「記憶の消去」である。人の歴史を消失させる、時に不幸を消せる軟弱な能力と揶揄され、時に人を人でなくする醜悪な能力と罵られる。彼女もまた、その能力ゆえに裏社会に身を置かざるを得なかった人物だった。
 そしてミキャックは___記憶と己の意志を失い、涼妃に頭を撫でられてまるで子犬のように目を細めていた。

 一夜が過ぎ、ちょうど天破の処刑の報が表社会を駆けめぐった頃、それとは全く無縁の裏社会ではいつものようにオークションが行われていた。
 今日は涼妃主催の「記憶のない商品」限定のオークションだ。記憶を飛ばす能力により、涼妃の売る妖魔にははずれがない。他の売り主が出品する妖魔は一時の屈辱を甘んじて受け、逆転の機を狙っている者がほとんど。買い手にも危険がつきまとう。
 しかし涼妃の売る妖魔は名前さえ覚えていない者から、能力に関する記憶だけを残した従順な戦士まで様々。いずれも危険とは無縁だが、そのなかでも最も金になるのが美しく知名度のある女性妖魔である。
 普通なら近寄るのも命がけになりかねない強豪女性妖魔を「妾」にするために、強欲な妖魔は山ほどの金をつぎ込んでくれる。あるものは無の女性を一から自分の玩具に仕立て上げるために。あるものは己の血族をより強靱にするために。ただ、いずれにせよその目的は鬼畜に他ならない。
 五十夜も前に初老の妖魔が涼妃の元から女性妖魔を数人買いあさった。彼は今日その時に買い取った女性妖魔を連れてこの場に姿を現している。そのお腹は揃って大きかった。
 「今日は皆様ようこそおいで下さいました。今宵も皆様にご満足いただける品をそろえております。」
 館の中で、料理の盛られた円卓を囲みながら見せかけだけは貞淑に行われる涼妃のオークション。しかし、その空間は際だって下世話だ。壇上に引っ張り出される商品は、男も女もみな裸。集まる客は裏社会で強力な地位を築いた外道ばかり。会場の雰囲気はいつも異様。壇上で彼らを見下ろす涼妃は、常にひとしきりの優越感を味わうものだった。
 (___あの女___)
 涼妃のオークションには女性の客も訪れる。変態趣味が紅顔の青年を舌なめずりしながら買い付けるものだ。しかしその日のオークションには、他とは全く異質な空気を放つ女がいた。
 館の一番隅のテーブルで、小間使いであろう女を一人連れ、この異様な空間の中でも己の美学を崩さない。蝶の装飾が施された黒いロングドレスを纏い、ゆったりと時に酒を口にしながら、その女は長い黒髪に手櫛を通した。前髪は彼女の顔の右半分を頬まで隠す。しかし露わな半分の顔の美しさ、いや造形の美しさはもちろん、内面から醸す独特の魅力は全てを虜にしてしまう何かを秘めていた。
 (何で来たんだ___?)
 訪れる客は自然と彼女に目を奪われるが、誰一人として声をかけることはない。そうすることが畏れ多く思わせるほどの淑女なのである。
 無論、こんな彼女が噂にならないはずがない。涼妃も別の機会にその姿を一目見たことがあったが、まさか自分のオークションにあの「黒麒麟」がやってくるとは思ってもみなかった。
 「やらないのか?」
 黒い淑女は色香ある唇で笑みを浮かべ、小間使いの女にグラスを差し出す。しかし女は慎ましやかに断った。
 「あまりこの場を好みません。」
 青紫のシンプルな着物に身を包んだ小間使いは、肩に掛かる長さの銀色の髪をしていた。
 「フフ___それはそうさ。人を人とも思わぬ者たちの集まりに嫌悪を感じないのは同類だけだ。」
 「凛様は同類であらせられるのですか?」
 冗談にしては無礼な問いかけ。しかし黒麒麟は目元に手を添え、小さく笑った。
 「近いものはある。」
 銀髪の小間使いは黙った。彼女も黒麒麟ほどではないにせよ、右目を少し前髪で隠すようにしていた。
 「嫌い?」
 「今日のオークションは特に。」
 彼女の右目は閉じられていた。しかし左目は強い意志と誇り、そして知性を感じさせる。
 「いつもは憮然としていても文句は言わなかったものね。何が嫌い?」
 「商品として出されている人たちが___あまりに残酷すぎます。」
 涼妃の能力は彼女の売り物の価値を向上させるものであり、裏社会ではかなり広く知れ渡っている。この小間使いも、商品が人形と化していることを知っていた。
 「おまえには少し憧れがあるのではないかしら?」
 「___」
 「過去を消したければ涼妃に頼んでみればいい。」
 小間使いは顔色を変えず、ただ沈黙した。その顔立ち、色白の肌___温度を感じさせない彼女の表情から連想されるのは寒い季節。冬、雪舞い散る白き幻想の美しさ。
 「悪い冗談だったね。」
 「いえ。」
 「これも修練。黄泉の汚れを知り、己の気高き心を磨きなさい___冬美(ふゆみ)。」
 「はい。」
 彼女の名は冬美。そう遠からずの昔から黒麒麟がその側に置き、帯同させている小間使いである。年で現せば五年も前くらいからか。
 彼女は銀髪で、隻眼で、美しく、雪に似て、知性に溢れていた。
 「失礼___」
 舞台では、茶坊が首輪に繋いだ裸の男を綱で引いている。首輪には番号札が駆けられ、それが上場番号を示していた。最初の挨拶を終えた涼妃は躊躇うことなく黒麒麟の元を訪れた。
 「お目にかかるのはこれが二度目かと思いますが、ようこそおいで下さいました。私は当会の主催者、涼妃でございます。」
 白髪で、妖艶な化粧を施した涼妃が深々と会釈する。
 「あなたのことは噂に聞いている。優れた力をお持ちだ___」
 「姫凛様にお見知り置きいただけるとは、光栄でございます。」
 「黒麒麟とは呼ばないのかしら?」
 「大切なお客様に粗相があってはなりません。」
 黒麒麟は微笑む。しかし涼妃の心に余裕は生まれなかった。黒麒麟とは、この黒き淑女の本当の名ではない。彼女は姫凛(きりん)であり、黒麒麟とは彼女の美しき黒髪と、黄泉の神獣「麒麟」をあわせ、誰とでもなくそう呼ばれるようになった名である。
 「あなた様のお噂は方々で耳にいたしております。是非一度お会いしたいと思っておりました。」
 「あまり良い噂ではないだろう?」
 「いえ___」
 黒麒麟___彼女に関する多くは謎に包まれている。ただ、裏の住人でありながら黄泉のいずこかへ堂々と屋敷を構え、数人の小間使いと暮らしているという。彼女は偏屈で、世捨て人で、それでいながらあらゆる者を下にする魅力、気高さ、力を秘めているという。無論、その能力がなんたるかは分からない。ただ、誰しもが近寄りがたい存在として認知しているのは確かだ。
 「フフフ___」
 底の計り知れない左の瞳。見る者を吸い込むようであり、気を抜くと額に汗が浮き出そうだった。分からないが、どうしてそう確信したのかは分からないが、このとき涼妃は「彼女には私の力は通じない」と感じていた。
 (そうか___きっとこの右が恐ろしいんだ___)
 なぜかなわないと思うのか。彼女が醸す見えない波動の源はなんなのか。涼妃はそれが髪に隠された右の顔にあると感じた。
 「私はこの会を楽しみに来た。下世話な臭いは嫌いではない、冬美は気に入らないそうだが。」
 「___」
 黒麒麟は小間使いを見やり、ニコリと笑う。涼妃もつられて冬美に視線を送った。慣れだろうか、小間使いは黒麒麟に対してなんの緊張も抱いてないように思えた。そもそも、この女が黒麒麟に仕えられた所以が分からない。
 「気に入った品を見つければ手を挙げるつもりだ。良品を期待する。」
 「ありがとうございます。」
 黒麒麟が普段どんな活動をしているのか。それさえも涼妃は知らなかった。しかし彼女はすでに裏社会で一目置かれた存在になっている。ただ彼女が何をしたという話は聞かない。おそらくその存在感だけで裏社会に風を吹き込んだのだろう。
 「極上の酒を持たせます、なにとぞ良い一時を。」
 「ああ。」
 物腰は柔らかい。笑みだって良く見せる。でもなぜか___緊張は最後まで解けなかった。
 「かなり強ばって見えましたね。」
 他の客にも顔見せに回る涼妃の姿を見ながら冬美が呟いた。
 「そうだな___それだけ感じやすいということ。あれくらいでなければこの仕事で名をあげることもないよ。」
 酒を口にし、黒麒麟は舞台に目を移す。無垢な目をした女性妖魔の競りに声が飛び交っていた。
 「見ろ冬美、また児玉(こだま)だ。」
 買い付けたのはお腹の大きい女性妖魔を連れていたあの初老の男だった。
 「浅ましいものですね。」
 「いや、己の歴史を塗り替えさせまいと我が子を殺める者もいる。それに比べれば己の血と、力を後世に伝えようとする正直さは讃えられよう。」
 冬美は彼女の言葉を飲み込むように頷いた。
 「冬美、子を産んでみたいとは思わないのか?」
 「思いません。」
 きっぱりと言い切った彼女の姿に強がりは感じられない。黒麒麟は失笑した。
 「続きまして商品番号十二、翼を生やした女性妖魔であります。」
 現れたのはミキャックだった。美しく、何より見慣れない白い翼を生やした妖魔の登場に会場がどよめいた。彼女は茶坊に綱で引かれ、舞台の真ん中で座り込むと呆然として荒んだ会場を見ていた。
 「一万結から。」
 「五万!」
 「十万!」
 次から次へと声が掛かる。人格を失った彼女は、子供のように舞台の上で怖がっているようだった。
「___」
 意識的にではない。偶然に、彼女と黒麒麟の目があった。黒麒麟は舞台から一番遠いテーブルにいたのに、その一瞬だけ間が全く筒抜けになり、二人の目があった。本能か?ミキャックの翼が膨らむ。
 「冬美、競り落とせ。」
 そして黒麒麟が動いた。
 「上限は?」
 「いくらでもつぎ込んで良い。彼女は素晴らしい才能の持ち主だ。」
 冬美は頷き、競りの状況に神経を傾ける。
 (あたしの時と同じか___)
 まだ競りは半ば、声に耳を傾けながら彼女は過去を思いだしていた。
 (行き倒れていたあたしを救ってくれた時と___)
 頃合い。冬美が手を挙げた。
 「一千万結。」
 競り値を一気に倍額につり上げた。会場は水を打ったように静まりかえり、すぐさま涼妃が壇上に飛び乗った。
 「一千万結で姫凛様が落札いたしました!」
 ため息と拍手が会場に広がった。
 「凛様、なぜ彼女を?」
 「あの娘はおまえと同じ、異世界の住人だ。」
 「___なるほど。」
 こちらに連れてこられるミキャックを隻眼で見つめ、冬美は頷いた。異世界と聞くと、忘れていたことを思い出しそうになる。
 冬美ではなく、フュミレイでいたころを。
 「この方がこれからのおまえの主人だ、しっかりと言うことを聞けよ。」
 茶坊はミキャックに黒麒麟を良く見せてやりながら、綱を冬美に渡した。
 「天族か。」
 黒麒麟はそう呟いてミキャックの頬を撫でてやる。ミキャックはくすぐったそうにしながら微笑んでいた。冬美はその様を見て、思いを巡らせていた。
 (触れてはならぬものと分かっていても___凛様がいったい何者なのか、それは気になるところだ。しかし、あたしは冬美。新たな人生を与えてくれた女神のために生きる。)
 黒麒麟に関して、冬美だけが知っている事実がある。それは___彼女も「異世界」からこちらへやってきたということだ。それは、出会って間もないうちに彼女自らが語ってくれた。
 「記憶がないのは少し惜しいが、良い買い物をした。」
 ただそれ以上の詮索は許されない。今も、彼女がなぜ簡単に「天族」と言ってのけたのか、それを問うことだってできないのだから。




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