3 禁句

 朱幻城は実に美しい集落だった。いや、集落というよりひとつの都市とでも言うべきか。まずその広さ。中庸界でももっとも巨大な都市であるゴルガが、少なくとも六つは入るだろう。正方形の集落全体を広大な白い城壁が覆い、均等に、チェス盤のマスのように広大な道が網羅する。集落正面には巨大な朱色の門が構え、そこからまっすぐ先にあの朱色の屋根の巨大な建物が見える。そこまで続く道の両側は、斉一性のとれた白壁の建物が並んでいた。
 「すごい___圧倒されちゃうよ___」
 ソアラは始終目を丸くして、几帳面にさえ思えてくる町並みを眺めていた。
 「朱幻城は大集落の部類に入るがそう大きな方ではない。しかしこの計算された町並みの美しさではどの集落もおよばないだろう。」
 「いや、これだけ個性的だが個性のない町ってのも珍しいぜ。」
 「フッ、言うな。」
 サザビーの憚らない皮肉を仙山は鼻で笑った。確かに、集落全体で見ればこれ以上ない個性だが、住民個々の個性は感じられない。
 「ねえ、棕櫚はどうしてここにいたの?」
 「___」
 今まで多少の壁は残しながらもそれなりに二人の質問に答えていた仙山だったが、棕櫚の名前を出すと急に口を詰むんでしまった。
 「それは気にするな。榊様にも俺から伝えるから、棕櫚のことを話題にする必要はない。それよりもおまえたちのその名前、ソアラとサザビーだったか___それの方が問題だ。郷に入っては郷に従うものだからな。」
 「___」
 あっという間に話題を切り替えてしまった仙山。ソアラとサザビーは顔を見合わせて小さく首を傾げた。

 本城への入り口、府南門を抜けるとより一層広大な空間が広がる。思いっきり走り回っても足りないほどの内庭の奥に、一際目に映る朱幻城。真正面から見る左右均等の紅白の城は、やはり声を奪われるほどの艶やかさだった。
 しかし、何か寂しい。
 (そうか、人とすれ違うことがない___)
 ここに来るまで、意識していなかったからかも知れないが、人とすれ違った記憶がない。妖魔であれ妖人であれ、これだけの都市に人がいないはずがないが___
 「ねえ仙山、妖魔たちはあまり出歩かないのかしら?」
 仙山は少し振り返って横顔でソアラを一瞥した。
 「これだけの大きな集落を歩いてきて、誰とも擦れ違わなかったわ。」
 彼の後ろを歩いていたソアラは小走りになって横に並ぶ。
 「妖人たちは己の身をわきまえている。」
 「?」
 「彼らは畑に出て作物を作る。強力な妖魔の元に縋り、身の保証を得るための最低限の礼儀だ。妖人はどうあがこうと妖魔より上に立つことはできない。彼らはひっそりと辺境で生きるか、妖魔に尽くして生きるか、死ぬくらいしかない。」
 「そんな___」
 種族間格差とは恐ろしいものだ。妖魔が妖人を虐げているかどうかは知らないが、まるで食物連鎖のような上下関係が両者にはあるということになる。妖人は妖魔の肥やしになるためにいる、そうとさえ言えるだろう。
 「なるほど、集落にいるのは妖人ばかりだから個性なんて最初からないわけか。」
 「その通りだ。ここにいる妖人たちは、榊様に与えられた篭の中に入り、精一杯尽くす。そうやって生き延びることを選んだ者たちだ。」
 仙山にとっては当たり前のことなのだろう。だから淡々と話し、サザビーは郷に従える性格だから簡単に理解できる。
 「あたしだったら___そんな人生は送りたくない。」
 だがソアラは納得できなかった。
 「そう思うのも好きずきだ。ただ、そういう奴らは早死にする。下手に妖魔を名乗れば、それはそれで妖魔同士の凌ぎあいに飲み込まれ、朽ち果てるだからな。」
 「___」
 「己を弁えることが必要なのさ。おまえは実力があるから生やさしいことが言えるのだろうが、妖人たちも生きるために必死だから知恵を絞った。それが今の黄泉だ。」
 完全な弱肉強食の世界だ。ソアラはようやく黄泉の恐ろしさを少しだけ実感できた。弱い者は淘汰されるという前提が、この世界には遠い昔から築き上げられている。
 「分かった___ちょっと理解できた。」
 ソアラは小さく頷き、また仙山の後ろへと引き下がる。
 そして麗しき朱色屋根の城へ。
 「うっは〜。」
 城に入り込むなり、サザビーは天井を見上げてため息をついた。それはソアラも同じだ。朱幻城の外見は城塞から頭が飛び出るほどの高さだというのに、何を隠そうこの城は平屋だった。突き抜けるほどの高さの天井はぼんやりと薄暗く見えるが、そこには一面に巨大絵画が描かれている。
 「凄いね___あれってもしかして___」
 「まさか、この朱幻城は黄泉の中でも尊き歴史を持つ城。あれは私も驚くほどの見事な錯覚画方だ。」
 仙山は失笑で答え、天井を見上げる。
 「ど、どういうこと?」
 何が錯覚というのか?ソアラは耳を疑った。
 「これだけの高さだ、空間に見えるかも知れないが、天井までは幾重もの梁がある。その梁それぞれの存在を感じさせず、下からは天井までの筒抜けに見せる。」
 「___」
 もはや開いた口が塞がらない。ソアラは暫く天井を見上げていたが仙山とサザビーの背が遠くなっていることに気づき、白壁の華やかな城を奥へと進んだ。
 やがて通されたのは、屋外を思わせる風情ある庭園だった。玉砂利が敷き詰められたそこは決して広い空間ではなかったが、見たこともないごつごつした樹木と、均整の取れた石が並ぶ不思議と心の落ち着く場所だった。
 「あそこだ。」
 庭園の中に草葺きの小屋があった。質感ある木の扉を開けば、そこは薄暗い畳敷きの部屋。木の薫りがソードルセイドの長屋町をソアラに思い出させる。
 「ここで待て。」
 仙山は二人を庵の中へと導いて行灯に火を入れると、それだけ言い残して出ていった。ボンヤリとした橙の光の中で、ふと安息を感じたソアラは小さく息を付いて畳の上に腰を下ろした。
 「風変わりなとこだな、ここは。」
 サザビーも古めかしい庵の中を一通り眺めると、座り込んだ。
 「ん、でもなんだか安心するわ、この感じ。」
 「たまたま出会えたのが仙山で良かったな。あいつが棕櫚のことを知らなかったらこんなに落ち着いてられなかったぜ、きっと。」
 サザビーは畳に脚を投げ出して、そのまま大の字に寝転がる。
 「ただ気がかりなのは___」
 「ミキャック。」
 ソアラの表情が深刻なものに変わった。
 「無事だといいんだけど___」
 歯がゆい、すぐにでも彼女を捜しに出たいが黄泉のイロハも分からないままではどうにもならないだろう。ソアラは指を噛むような仕草をする。
 「ま、今は無事だって思い続けるしかないな。」
 「ほうほう、殊勝な心がけよのう。」
 声がした、入り口からではなさそうだが___
 「わあっ!」
 第一発見者のソアラが声を上げ、座った姿勢のまま少しだけ飛び上がる。目線を少し上げたところに、逆さまの顔があった。
 「ほほほ、威勢の良い娘よのう。」
 皺だらけの顔とつるつるの頭は、逆さに見てもそれ相応に見えるから不思議だったが、いつのまにやら梁には老人がコウモリのようにしてぶら下がっていた。ただ彼はどこにも掴まっていない、行灯に照らされた梁に逆さで立っていた。
 「何者だ爺さん?」
 サザビーが上半身を起こす。老人はそのまま梁を壁に向かって進むと、今度は壁に垂直になる。そして畳の床へと辿り着いた。
 「わしは門司(もんじ)。」
 普通に立ってみると実に小柄な老人である。背筋は伸びているのだが、ソアラとサザビーが座ったままでも目線の高さは同じだった。
 「朱幻城の掃除人と呼ばれておる。」
 逆さでなくなると、皮の弛んだ門司の顔は随分変わった。
 「掃除人___まさか殺し屋___?」
 「いや、本当に掃除をしておるだけじゃ。」
 「あらら。」
 門司は手にした雑巾をソアラに見せ、ただでさえにこやかな口元をさらにニッと引っ張り上げた。ソアラは少し拍子抜け。
 「爺さんいま逆さで歩いてたな、あれって能力だろ?」
 「そうじゃ、わしは妖魔じゃ。こんなちんけなことしかできんがの。朱幻城は天井が高いから姫には重宝していただいちょる。」
 門司は自慢げに笑って髪のない頭を擦った。
 「姫ってのは榊って妖魔のことか?」
 「そうじゃぁ。」
 「ねえおじいさん、この世界のことを少し教えてくれないかしら?実はあたしたち別の世界から来てさっぱりこっちのこと分からないのよ。」
 甘え上手なソアラは門司の手を取ってにこやかに頼み込む。すると老翁はホッホッと声を上げて笑った。
 「けったいなことを申す娘っこじゃの。わしで良ければお相手しようぞ。」
 「ありがと!」
 ソアラに微笑まれると門司は少し恥ずかしそうに笑った。サザビーはソアラの媚びた芝居に苦笑する。何はともあれ、榊に出会う前に黄泉の予備知識を得られるのはありがたい。どうも仙山の主からは黄泉に関する正確な知識が与えられるとも限らなそうだから。
 「水虎様っちゅうのは、そりゃあもう素晴らしいお方じゃった。たとえ妖魔であれ妖人であれ分け隔てなく、時に優しく時に厳しく、筋の通らないことは大っ嫌いじゃったのう。」
 ソアラは黄泉の現在の様子、情勢、地理など、実質的なことを聞ければよいと思っていた。しかし門司が懐かしむように語り出したのは「水虎(すいこ)」という妖魔のことだった。
 「水虎様は本当に立派なお方じゃ。わしはもともと水虎様のところで掃除人をしておったんじゃが、あの方がおらんかったら今のわしはないのぉ。」
 水虎は力強く、勇ましく、統率力に長け、夢と野心と理想を持ち、掟を重んじ、裏切りを嫌い、しかし寛大な「黄泉の覇王」。彼は群雄割拠の黄泉において、己の力量と優れた人格で様々な妖魔から信頼と尊敬を得たという。水虎は黄泉の一地域において、真っ当な妖魔のほぼ全てをその傘下におさめる大派閥の長となった。裏切りや、筋違いな行動を取った妖魔には、たとえそれが有力者であっても完全に抹殺してみせる徹底した厳しさ。そして妖人や、妖人とさほど変わらない脆弱な妖魔であっても、門司のように己に誇りを持って真っ当に生きる者は重用した。
 とにかく水虎は偉大な妖魔だそうだ。いや失礼、「だった」そうだ。 
 「その水虎様が亡くなられたのじゃ___」
 門司はまるで空気の抜けた風船のようにシュンと、悲しげな顔をする。この正直な感情、これも水虎という男に好かれた理由の一つかも知れない。
 「なぜ?病気かなにか___?」
 「いやいやぁ、水虎様はまだまだ若さに溢れておった。この黄泉の広大さを以てしても足らぬほどの、活力に満ちあふれていた。」
水虎はまだまだ現役だったという。その覇王が天に召されるとすればそれは___
 「革命か暗殺かってことだな___」
 派閥組織の長は危険と隣り合わせである。彼は身中の虫がいることを許さなかったというが、それでも化けの皮を被り続けて好機を待つ者、何かのきっかけに謀反の種を膨らませる者は必ずいる。そうかつてケルベロスでフュミレイを陥れたザイル・クーパーのように。
 「水虎様は暗殺されたのじゃ。つい五夜も前にな。」
 そのとき庵の扉が開き、門司と変わらないような言葉遣いながら、女性の若々しく柔らかな声がした。
 「おお、これは姫。」
 現れた少女が榊だった。いや少女ではなく、とても小柄な女性といった方が良さそうだ。榊はさすがにリュカやルディーよりは大きいだろうが、背丈はソアラの胸元ほどでしかない。それでも幼児体型ではなさそうだし、猫のように大きな瞳が印象的な顔も、美しく整っている。
 「相変わらずおしゃべりよのう門司は。ここはもう良い、下がれ。」
 濃紺の装束に茶の丹前を羽織った黒髪の美女、榊はたった一人でやってきた。門司は榊に笑顔で会釈しながら、ソアラとサザビーにも愛嬌を振りまいて庵を後にする。榊も彼を見送る時には笑顔を見せていた。
 「さて。」
 しかし振り向いた時には笑顔を捨て、仏頂面というわけではないにせよ隙のない表情を見せていた。
 「待たせたの。まあ門司のおかげで暇はしていなかったようじゃが。」
 榊は音もないほど静かに畳へと上がる。
 「上座。」
 「あっ___はい。」
 庵の奥に座っていたソアラは一睨みされて場所を移る。榊は小さく頷いてから、二人に向き直るようにして腰を下ろした。長い黒髪が畳に広がらぬよう、身体の前へと運んで。
 「思わぬ来客に私も少々驚かされた。まずは名乗ろう、我が名は榊。この朱幻城の頭首じゃ。」
 「私は___」
 ソアラが名乗ろうとすると榊は手を付きだして制する。
 「言わずともよい。ぬしらにはそれ相応の名を私が授ける。黄泉で生きようと思うのであれば、珍妙な名は不要じゃ。」
 仙山からあらかたのことは聞き及んでいるのだろう、榊は事務的に話を進めていく。
 「女。由羅、紫暮、蒼雷、どれがよい?」
 「えっ?選ぶんですか___?」
 突然選択を迫られて戸惑いを見せるソアラ。榊は真っ黒の目でじっと彼女を見つめて頷いた。
 「___じゃあ、最初ので。」
 「由羅(ゆら)か?」
 「はい___」
 いつもはもう少し威勢のいい返事ができるものだが、特に理由もない選択だったので今は歯切れが悪かった。
 「よし、由羅とは阿修羅女を意味する名じゃ。仙山と渡り合ったおまえの力強さを現す。」
 なんだか失敗だったか?腕っ節自慢のような名前を選んでしまったソアラの口元が少しだけ引きつった。
 「ちなみに紫暮(しぐれ)はぬしの色、蒼雷(そうらい)はソアラとの響きから考えた名じゃ。ぬしは最も意味のある名を選んだことになるのぅ、由羅。」
 「ありがとうございます。」
 黄泉にいる間は「由羅」となる。慣れなければいけないと思ったソアラは、意識して榊に返事をした。そうすると榊も少し視線を和らげたように思えた。
 「男、ぬしは砂座(さざ)じゃ。」
 「俺は選択の余地無しってか。」
 サザビーはガクッと首を折れるが、彼にとっては名前など大した問題ではない。何しろ偽名には慣れているから。
 「響きもあるが砂の吸収力を意味する言葉でもある。悪い名では無かろうぞ。」
 柔軟性、崩れてもすぐに元に戻せる修復性、なるほど仙山はサザビーの性格を十分に見抜いて榊に報告したことがよく分かる。
 「これで名は決まった。」
 「あの___」
 何かを話そうとしたソアラだったが、榊は再び彼女の発言を止める。
 「ぬしらが我と問答ができるとすれば、それは我の言葉を聞き、従うことを決めてからの話しじゃ。それまでは黙れ。」
 小柄な榊が放つ妙な威圧感。彼女の高圧的な態度は様になっていて、それが深い自信を感じさせる。
 「まずは水虎様が何者かの手に落ちたこと、それがこの世の混沌の根元じゃ。私も含め、集落を仕切る妖魔とその派閥、そのほぼ全てが水虎派であると考えよ。その党首が急逝した、それがどれほどの危機かくらいはぬしらにも分かるであろう?」
 絶対的な指導者を失ったその時、元はバラバラだった者たちから鎹(かすがい)が外される。再び群雄割拠になるのは目に見えていた。朱幻城の静けさ、仙山の緊張感、隙のない榊、関係がありそうだ。
 「水虎様の側近が二人いる、それが天破と餓門じゃ。大幹部たる両者は、いま互いが互いを水虎暗殺の首謀者であるとして争っておる。水虎派は真っ二つに別れ、いまこの二つの派閥の戦いが始まったというわけじゃ。」
 無駄は語らず、榊はソアラたちに警戒心を残したまま事実を述べていく。ソアラもサザビーも彼女の姿勢に不満はなかった。開戦間際というのは常に不安がつきまとうものだ。
 「私は天破派じゃ。しかしここから最も近い集落には餓門の息がかかっておる。だから仙山には周辺の警備を任せておる。」
 仙山の能力は常に先手が打てるという点で暗殺向きである。この任務は適役だろう。
 「しかしそれだけではすまない巨大な戦いになると私は考えておる___つまり戦力が必要じゃ。」
 ソアラとサザビーの腹は決まっていた。居場所としてここは悪くない。棕櫚の足取りも追えるかも知れないし、何よりミキャック探しには拠点が必要だ。もっとも自由はなかなか与えられないだろうが。
 「我のために働け。それができぬと言うならば生きてここからは出さぬ。」
 本気だ、榊が示した細くて白い指先がボンヤリと光る。勘に過ぎないが、庵の入り口にはきっと仙山がいるだろうとソアラは思っていた。それはそうだ、餓門派に落ち着かれるくらいならここで殺すだろう。
 「私たちも居場所が欲しいの。力になれるかどうかは分からないけど___協力させて貰うわ。」
 ソアラははっきりとそう言いきった。
 「裏切れば死が待っておる。」
 「覚悟しておく。」
 ソアラは真っ直ぐに榊を見つめた。
 「良い心がけじゃ、おまえのような娘は水虎様に好まれる。」
 ようやく榊が笑みを見せた。ソアラはホッとした様子で肩の力を抜き、微笑み返した。
 「我への問いを許そう。」
 榊が門を開いた。ソアラはポンッと手を合わせ、話の間に考えておいた質問疑問の引き出しを開ける。しかし口火を切ったのはサザビーだった。
 「棕櫚との関係を聞かせて欲しいな。」
 冗談のつもりではないだろう。しかし仙山は「棕櫚のことを話題にするな」と言っていた。しかしサザビーはいきなりその禁句を持ち出したのだ。彼らしいと言えば彼らしいが、榊は大きな目を見開いて彼を見た。
 「___なに?」
 そして問い返す。
 「何か思うところがあるんだろ?俺たちは棕櫚のことは良く知っているつもりだからな、ちょっと気になったのさ。」
 「ぬしは人を食ったような男だと仙山から聞いたが、確かにそうらしいのう___」
 榊は明らかに不機嫌に、大きな目が半分になるほどはっきりした伏し目でサザビーを睨み付けた。ただそれでもサザビーは続けた。
 「十日前まであいつをここに引き留めてたっていうじゃねえの。」
 「ちょっとサザビー___」
 ソアラが止めようとしたその時、榊はすでに空間に文字を描き出していた。それは彼女の能力の引き金である。
 ギュオオッ!
 「えっ!?」
 ソアラが驚いて上擦った悲鳴を上げた。己のすぐ隣に黒い円が浮かび上がると、それは瞬時にサザビーを飲み込み、そして消えた。一瞬のうちに、庵には榊とソアラだけになっていた。何事もない、ただサザビーだけが消えていた。
 「な、何?サザビーはどうしたの!?」
 ソアラは慌てて立ち上がり、辺りを見渡して榊に問いかけた。
 「消した。」
 「!?」
 榊の冷淡な答えを耳にした時、ソアラの背筋に強烈な寒気が走る。
 「不愉快な奴は不要じゃ。礼節を知らぬ者はな___」
 「そんな、消したってサザビーはどこに行ったの!?」
 「さぁ、闇は全てを吐き出す。黄泉のどこかへ吐き出されようぞ。」
 ソアラは絶句した。これが榊の能力。そういう妖魔がいることを棕櫚から聞いていた。こちらに来る前からソアラが知っていた能力の使い手がこの榊だった。黄泉の永遠の闇に「出入り口」を開くことができる妖魔が___
 「由羅、ぬしは私に仕えるな?」
 榊の脅迫にも似た言葉。彼女は空間に文字を描きはじめている。ソアラは息を飲み、錯乱した心を必死に宥めながら「はい」と答えた。サザビーのことを思うといてもたってもいられなかったが、いま妖魔「由羅」が生き延びるにはそうするしかなかった。




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