3 美しき目覚め
夕刻が近づくにつれ、ドラゴンズヘブンも仄暗さを増す。百鬼は不橙火虫のランプを片手に、一人で庭園を訪れていた。目指すは帝の寝室だ。
竜神帝の側近でも、まして天族でもない百鬼だが、竜の使いの亭主という立場だけで顔が利く。番兵が彼を阻むことはなかった。
「___」
広がる目映い白。その中心で帝は先ほどと変わらず丸くなっている。眠りを妨げるかも知れないが、そもそも彼が世界の動きを無視して熟睡しているとは思えなかった。だからこうして伝えに来たのだ。
「帝さん、多分聞こえているんだろうし、俺たちが何をしていたかも分かってるかも知れないけど、一応報告しておく。」
帝は微動だにしない。しかし百鬼は構わなかった。
「ミキャックがセサストーンに向かった。帝さんの力の封印を解くためだ。」
何か反応があるか?言葉に間を取った百鬼だったが、帝は変わらない。
「歴史書も読ませてもらった。帝さんが何で力を封じたのか、全部分かったつもりだ。でもだからってこのまま待っていてレイノラが戻ってくるとは俺は思ってない。」
一つ息をつき、百鬼は続けた。
「ミキャックは黄泉でレイノラの世話になった。しかもレイノラの住んでいた屋敷には青空の絵が飾られていて、それに込められた魔力を頼りにこっちに戻ってきたらしい。分かるだろ?レイノラはまだ帝さんを信じてるんだ。」
それでも変化はない。本当に寝むりこけているのか?些細な疑念を胸に、百鬼はため息をついた。
「結局の所、俺が何で帝さんのやり方が気に入らなかったかって___男らしくないんだよ。力ずくで振り向かせるのも男ってもんだろ?」
それだけ言い残し、百鬼は帝に背を向ける。そのまま扉に手を掛けようとしたとき、暖かな風が背を撫でた。
「!」
振り返るとそこでは、竜神帝が首を起こして彼を見据えていた。
「帝さん___」
体を開いたことで露呈した胸の傷は、まだ半分も癒えていない。しかし幼竜の表情は力強く、衰弱など微塵も感じさせなかった。百鬼はしばし立ちつくして帝と対峙する。先に口を開いたのは帝だった。
「男としての助言、感謝する。」
呆気にとられた百鬼。しかし帝が笑みを見せると、彼も照れくさそうに笑った。そして一言。
「どってことねえよ。」
ソアラやミキャックが側にいたら、調子に乗るなと叩かれていたことだろう。ただそんな物言いも彼らしさである。
「セサストーンは特殊な領域だ。ミキャックを追い、彼女の助けになってほしい。」
「俺が?」
「我が書斎の引き出しは分かるな?その三段目に翼の紋様が彫り込まれた黄金の腕輪がある。名はアルバレオンの腕輪。身につければ、翼を持たぬ者でも意志の赴くままに飛行ができる。それをおまえに託そう。」
竜神帝の瞼がゆっくりと落ちていく。彼自身にも妨げようのない眠りが再び始まろうとしていた。
「すまない。私はもう少し眠る。おまえは皆の支えとなってくれ___おまえならばできる___」
百鬼が声を掛ける間もなく帝の首が下がり、彼は深い眠りに落ちた。
「わかった。復活までゆっくり寝てくれ、帝さん。」
神に認められて悪い気はしない。百鬼はこれまで以上に強い意志、ドラゴンズヘブンを、天界を守るために戦う意志を携え、帝の寝室を後にした。
「___というわけだ。詳しいことは帝の奥書斎の歴史書に書いてある。」
書斎へと向かう前に、百鬼はソアラの元を訪れた。ルディーの姿に打ちひしがれた彼女だったが、フォルティナと話し、リュカと戯れるうちに持ち前の活力を取り戻していた。しかもその意気は、百鬼から帝とレイノラを巡る歴史を聞くと一層に高まった。
「やっぱり黒幕がいたわけだ。レイノラは決定的に誤解してるし、帝は自分の力が破滅の引き金だったことに負い目を感じていたわけだ。」
「そういうこと。でもだからってレイノラに誤解されたままでいいわけないだろ?もたもたしている間に天界はとんでもないことになってるんだ。」
「確かに。」
ソアラは納得の様子で何度も頷く。
「レイノラは帝のことを完全に見限った訳じゃないと思うし___」
「男なら脈ありの相手には積極的に行かねえとだめだよなぁ。」
「あなたは浮気に積極的なだけでしょ。」
その言葉が百鬼の肩を竦めさせる。反論しようとした彼だったが、思わぬ横やりが。
「浮気浮気!」
「なんだよリュカまで!」
深刻な話もいつの間にか恋愛談義に変わる楽しさ。竜神帝が力を取り戻す覚悟を決めた、そのニュースこそ二人の笑顔の引き金だったのかもしれない。
「俺はミキャックを手伝いにセサストーンに行ってくるよ。」
「はい?どうやって?」
「帝が空を飛ぶ道具をくれたんだ。」
「へ〜!」
「お父さんすご〜い!」
ソアラは目を丸くして感嘆の声を漏らし、リュカも笑顔で手を叩いた。緊張感の無さはどうにも場違いだが、そうさせるのもホープ一家のもつ気質だろう。なにしろ微笑みは傍らのフォルティナにまで伝染していた。
「だから嫌だってば!あんなその場の勢いに任せたのフェアじゃないわ!」
「そんなぁ。」
夕日差し込むドラゴンズヘブンの廊下。左腕を包帯で固定したロザリオが、右目に眼帯を当てたトーザスの手を振り払う。回廊を早足で逃げるロザリオ、追うトーザス。二人のやりとりは、百鬼一家にも増して場違いな賑やかさだった。
「ならせめて許嫁の約束は有効で___」
「もう!今はそんな話をしてる場合じゃないっ!だいたいあたしはあなたの浮気を許した訳じゃないんだから!」
「いやあれは___」
トーザスが困り顔でロザリオの手を取ろうとしたその時。
ドゴッ!ドタン!
回廊に面した壁の向こうから激しい物音がした。驚いた二人は動きを止め、壁を凝視した後互いに顔を見合わせた。
「ここって___」
「帝の書斎でしょ?」
「だよね。」
入り口はもう少し先だ。二人は恐る恐る、トーザスが手を繋ごうとしてしっぺ返しを喰らいつつ、入り口に近づいていく___その時!
「うおあああ!?」
百鬼が扉を突き破ってきた。そのまま猛烈な勢いで真正面の柱に激突。蛙のように柱に張り付いてしまった。
「ひゃ、百鬼さん?」
戸惑いながら声を掛けるトーザス。百鬼はゆっくりとずり落ちてくる。
「空飛ぶのって難しいのな___」
そう呟いて仰向け転がった彼の腕には、黄金の腕輪が輝いていた。
「そうそう、そうです。慣れるまではゆっくり。」
ロザリオの指導を受けながら、百鬼は城の広場で空を飛ぶ練習に勤しむ。
「難しいなぁ、帝さんは好きなように飛べるって言ってたのに。」
「センスないんですよきっと。」
ガーン。
「ちょっとトーザス!?」
「あ、す、すみません。」
「いやいや、気にしてねえから。」
取り繕うような笑顔が痛々しい百鬼。ただ結果としてトーザスの言葉が彼から肩の力を取り払い、飛行の上達に繋がった。ミキャックを追いかけなければ!という焦る気持ちが、加速のコントロールを悪くしていたようだ。
「いいですよ、その調子です。」
時間と共に、百鬼はそれなりに不自由なく空を飛べるようになっていた。
「上手です。やっぱりセンスありますね。」
「そうか?」
ロザリオの露骨なフォローに苦笑いし、身を翻してゆっくりと床に降り立つ。
「よし、もう大丈夫だ。助かったよ。」
「お力になれて光栄です。」
百鬼は快活な笑顔で手を差し出し、ロザリオも憧憬を交えた笑みで応える。トーザスは疎外感を覚えて、外に目を移した。空はすっかり暗くなっていた。
「夜になっちまったか___こりゃだいぶ後れをとったぞ。」
「お出かけになるんですか?」
「ああ。急用だからな。」
今の天族たちにとって夜ほど怖いものはない。暗黒の空は冥府を加速させ、アヌビスの軍勢を躍動させる。夜はまさに悪魔の時間だ。
「夜は危ないですよ。いつぞやのグリフォンみたいのが出てくるかも。」
「んなこと言ってられるかよ。もたもたして冥府に飲まれたら元も子もないぜ。」
トーザスの腹に軽く拳を当て、百鬼は力強く言った。そして夜空を見上げる。
「確かに、冥府は刻一刻とドラゴンズヘブンに迫っていますが___」
ロザリオもまた夜空を見上げた。
「ん?」
冥府が迫ってくると思われる方角、そちらの空が一瞬光った。三人揃って気づいたのだから間違いない。何事か?しかし議論するいとまは無かった。
ドゴオオオッ!
城が島ごと激しく揺れた。昼間、レイノラがやってきたときと同じように。
「また来たのか!?」
夜空を睨み付ける百鬼。先ほど発光した辺りの空に何か見えた気もするが、定かではない。
「三人___この前の女と、男と___もう一人!」
視力に優れる天族も暗がりでは勝手が違う。しかしロザリオが賢明に目を凝らして敵を見つけだした。やはり光の方角からこちらに迫っている。
「敵さんもフットワークが軽いぜ!返す刀で帝さんを仕留めに戻ってきたわけか!」
百鬼の決断は早かった。腰にくくりつけた剣を確認すると、腕輪を輝かせて空に舞い上がる。迎え撃つつもりなのだ。
「百鬼さん!?」
「私も手伝います!」
「その腕じゃ無理だ!それよりも帝さんを守っていてくれ!」
そう言い放つと百鬼は迷いなく空の高みに昇っていく。その姿は実に勇猛果敢。ロザリオは彼の背中に勇気を感じた。それに比べて___
「何もたもたしてるの!百鬼さんを手伝って!」
百鬼の後を追うべきか、それともここにいるべきか。決めかねて右往左往するトーザス。情けない男の背を叩き、ロザリオは声を荒らげた。
「ええいもう自棄だ!」
迷いを断ち切ってトーザスも空へ。一目散に百鬼に追いつくのを怒り顔で見届けると、ロザリオの表情は悲哀に豹変する。
(ごめんね、トーザス___)
敵の強大さは肌身で感じた。だからこそ二人に勝機があるとは思えない。許嫁である男に、百鬼のような気高さを求めるあまり、彼の背中を押してしまった。それが死出のはなむけとなるかもしれないのに。
(___絶対に死なないで!)
残酷な自分を呪い、ロザリオは涙さえ浮かべて庭園へと走った。
「百鬼___」
迫り来る気配を感じて空を睨んだソアラは、百鬼が飛び出していく姿を見つけて一度は立ち上がった。しかし思い留まって腰を下ろし、ルディーの手を握る。ただ、視線はなかなか窓の外から離せなかった。
だから彼女が握る可愛い手にグッと力が籠もったことも、すぐには気づかなかった。そればかりか外の様子に気を取られ、無意識に優しく握り返していた。
「!」
事の重大さに気が付いた瞬間、ソアラはベッドに目を移して言葉を失った。そこでは愛娘がまるで苦しみに耐えるような顔でソアラを見ていた。
「ルディー___」
彼女の表情に苦渋が滲んでいたから、ソアラは「拒否されるかもしれない」と感じた。僅かでもそう思ったのだから、彼女はよぼど自信を喪失していたのだろう。ただそんなものは杞憂に過ぎない。
「うわああああん!」
言葉にならず、体を起こすこともできず、ルディーはソアラの手に縋り付いて号泣した。
「ルディー___」
彼女を満たしたい。ソアラはその一心で我が子に頬を寄せる。溢れ出たルディーの涙がソアラの頬をも濡らし、ソアラの紫色の髪はルディーの鼻先を優しく撫でた。
「馬鹿ぁ___お母さんの馬鹿ぁ___!」
「ごめんね___」
宿していた怒りは圧倒的な嬉しさ、喜びに掻き消される。それでもルディーは母から受け継いだ向こう気の強さを発揮して、涙混じりに罵声を叫んだ。その声はソアラの胸中に響き渡り、彼女は全身でルディーの全てを受け止める。と、そこに潤んだ眼差しがもう一つ。それに気づいたソアラは、彼に微笑みを送った。
「ほらリュカ、あんたもおいで!」
「ぐひっ!びすっ!ぅぅあぁあぁあん!」
ソアラをルディーに独り占めさせるため、必死に涙を堪ていたリュカ。ソアラが僅かに抱擁を解いて彼を導くと、鼻水を垂らしながらリュカもルディーとソアラの抱擁に飛び込んだ。壊れていた家族の絆が、輝きを伴って蘇った瞬間だった。
「良かった___」
苦境の中に生まれた安らぎはフォルティナの胸にも響く。それはパルニィトの響きのように穏やかに、彼女の身体を、手を取るラゼレイの身体を響き渡った。
「美しい目覚めだ___」
大らかなる若き君主。ラゼレイ・ダニス・フォルクワイアは微笑みの元に目覚めた。その時、フォルティナはただ彼を見下ろし、口元を抑えて息を飲むしかなかった。しかしラゼレイの手がゆっくりと彼女の頬を撫でると、思いの丈は弾けるように解き放たれた。
暖かなる二つの抱擁。
悪魔の夜、脅威にさらされるドラゴンズヘブン。その渦中にあっても、この部屋だけは陽光煌めく花畑のような清々しさに包まれていた。
しかしたった一枚の壁を隔てた向こうで、戦慄の瞬間が迎えられようとしていたことを忘れてはならない。
「今度は首輪無しか?」
迅は嫌みを込めて黒麒麟の横顔に言った。彼の身体には黒い紋様が残っているが、今回はまだ黒麒麟に行動を抑制されていない。
「好きにやっていいって事だな?」
「そういうことだ。」
挑発するように尋ねる迅に、黒麒麟は至極冷静に答えた。随行する仮面姿の冬美に至ってはそれ以上に冷ややかな目をしている。気にくわない!その言葉を舌打ちに変え、迅は憮然として前を向いた。
「早速来やがったな___!」
城の方から飛んでくる二つの影を見つけると、彼は魔性の笑みを浮かべる。口元をいびつに歪ませ、眼差しには極度の苛立ちが残る。それは行き場のない己を具現化した表情ともいえた。
「片っ端からぶち殺すぜ!」
今の彼に目的などない。多々羅の血を血で洗うために、殺し続けるだけだ。
「あいつに殴られたら身体が壊れます!気を付けて!」
「ソアラの腕をやったのもあいつか!」
「ちょっ___百鬼さん!?」
トーザスの警告に怯む素振りすら見せず、百鬼は迫り来る迅に真っ向から突っ込んでいく。飛行のコツを掴みはじめてはいるものの、まだ曲線的な動きはままならない。ただそれを差し引いても、彼の動きはあまりに真正直だった。
「ふん!」
闘牛士のように、迅は百鬼を引きつけてから右に体を逸らす。その動きを見極めた百鬼は両手で上段に構えていた剣を右手一本で横薙ぎに振るった。
「ちっ!」
刃は迅の髪を数本切り落とす。剣を振った遠心力そのままに、百鬼は独楽のように回転して迅の反撃を妨げる。空に出て間もないというのに、彼はまるで熟練者のような芸当をやってのけていた。ただ迅も甘くはない。素早く百鬼の下に回り込むと、瞬時にタイミングを見定めて彼の足にしがみついた。
「終わりだな!」
両の脚をがっしりと抱えられ、百鬼の回転が止まる。掴まれたら最後、迅に挑む者は皆そう考えるから必死に距離を取ろうとする。ただそれでは彼に勝てない。トーザスが片目を犠牲にしたように、傷つく勇気を持つこと。それが必要だ。直接刃を交えるのは初めてでも、歴戦の経験は彼にすぐさま迅攻略の糸口を編み出させていた。
「そりゃどうも。」
「!?」
両足に異様な感覚が走っても百鬼は冷静だった。回転の余韻を腕に残し、膝の辺りに抱きつく迅に刃を振るう。その行動は迅を仰天させた。何度も轍を踏んだ相手ではない、初めて戦う相手に「攻撃中が最も隙だらけ」と見破られたのは衝撃だった。
「くっ!」
その代償が片腕。必死に百鬼から離れようとした迅だが、無理な体勢から的確に放たれた太刀筋に片腕を切り落とされた。
「俺の足はどうなったんだ?ちょっと見たくねえな___まあ空で戦う分にはどうでもいいか。」
百鬼の足には全く力が入らない。そればかりか激しい痛みの元凶となり、たちまち額に脂汗を浮かび上がらせた。実際彼の足は膝が伸びきり、異様に捻れている。そのままでは立つことさえできないだろう。ただそれでも百鬼は怯むことなく、薄ら笑いを浮かべて迅を挑発した。
「きっと足に来ると思ったぜ。惜しむらくは切ったのがおまえの首じゃなかったって事だな。」
回転は足に狙いを向けさせるための罠。これが空中戦であることを踏まえ、足を犠牲にして攻めの糸口を見いだした___
「てめえ___」
駆け引きに負けた。その事実が迅を燃え上がらせる。彼の意志に関わらず、怒りと共に皮膚に塗された黒い紋様が蠢く。
敗因は油断___黒麒麟の嘲笑が脳裏を駆け抜けた。
「許さねえ!」
百鬼と迅の距離は離れている。にもかかわらず彼は左の拳でパンチを放った。
「!?」
まるで紐をつけて放り投げたかのように、肩、肘を外した迅の拳が飛んできた。予想外の攻撃に怯んだ百鬼は反射的に横へと動く。そこで視界が暗転した。
「くっ!」
顔になま暖かい液体がへばり付いていた。百鬼の逃げる軌跡を読みきり、迅は右腕を振るって血の弾丸を飛ばしていた。
「終わりだ!」
夜空を劈く声。百鬼は狼狽したが瞬時に平静を取り戻し、迫り来る殺気を探した。一か八かの一太刀を放つべく。
ゾクッ!
背中に感じた悪寒。百鬼は振り返って剣を振るう。しかし手応えは皆無だった。
「終わりだ。」
斜め後ろから声がした。気配はもう逃れられない近接にあった。百鬼の名を呼ぶトーザスの声も遠い。
刃が届く前に迅の手が首を捉えるだろう。ただそれでも希望を捨てず、百鬼は剣を走らせる。
ドゴォァッ!
その時、突然百鬼の身体が弾き飛ばされた。視界を潰された中では何が起こったのかさっぱり分からないが、ただ熱を帯びた爆発が胸の辺りで起こり、強い痛みが走ったのは確かだ。
「百鬼さん!」
宙を泳ぎ、百鬼の身体はトーザスに受け止められた。
「なに邪魔してやがる!」
「すまない、好機に見えたものだから___」
迅が仲間を罵倒し、弁明するのは女の声。百鬼は目を潰した血を袖で拭い、顔をしかめながらもようやく視界を取り戻した。そこでは仮面を付けた黒髪の女に、迅が睨みを利かせていた。
「埋め合わせはしよう。」
仮面を付け、髪を染め、声色を変えているのは顔を知る相手が出てくるのを想定してのこと。ただ百鬼を目前にしても、冬美はいつも通りの自分を崩さずに両手が輝かせた。
「くっ!」
白熱球が夜空を駆ける。次から次へ、空に目映い爆発を連発する。だが百鬼とトーザスは賢明に空を舞い、直撃を免れ続けた。
「___」
その目映さはドラゴンズヘブンに戦いの様子を映し出す。夜空に走る閃光の連続にソアラも目を奪われ、それから逃げ惑う百鬼の姿に彼女は焦燥した。ルディーの手を握る力が少し強まったとも知らず。
「お母さん。」
ルディーが掠れきった声で言った。先ほど水で潤しはしたが、長い間眠り続けていた彼女の喉は焼け付くように傷んでいた。
「ん?」
ソアラは不安を掻き消してルディーに微笑む。何があっても彼女の側を離れない、優しい母でいるために。しかしそれはルディーの求めるソアラの姿ではなかった。
「戦って。」
「え___」
愛情に飢えていた愛娘が発した言葉に、彼女は驚きを隠せなかった。
「戦ってよお母さん。あたしはもう大丈夫だから。」
外の様子に気を取られている姿から悟ったのだろう。しかしまた無理を、我慢をしているのではないか?そう思うとソアラは頷くことも首を横に振ることもできなかった。
「あたし___戦ってるお母さんが好きだから。」
「ルディー___」
自信を失っている母の葛藤を無意識のうちに感じ取ったのだろうか。小さく咳き込みながらも激励の言葉を投げかけるルディーの姿は、ソアラの胸を打つ。
「お母さんが勝ったらあたしも元気になれるよ。」
「ルディーは僕が守る!」
覇気のない母を奮い立たせたいのだろう、リュカもいつも以上に大きな声を出して胸を張った。
「リュカ___」
どうすることが正しいのかは分からない。ただいつまでも迷っている姿を子供たちに見せたくないと思ったのは確かだ。優しいだけだったソアラの微笑みに、精悍さと躍動感が舞い戻る。それこそルディーが大好きな母の笑顔だった。
「もういいやめろ!」
爆煙が肌を撫でる戦場。苛立ちがピークに達し、迅は一喝した。怒りの矛先は同胞のはずの冬美に向けられていた。
「___」
掌の輝きを止め、冬美は仮面の下の隻眼で迅を一瞥した。戦場には輝きの余韻と立ちこめる煙だけが残る。風が吹き付けると、煙の中から煤で顔を汚した百鬼とトーザスが現れた。
「もう手を出すな!てめえの攻撃は邪魔だ!」
激しい爆発は見た目こそ派手だが威力に欠けたのか、それとも彼女の照準があまりに稚拙すぎたのか、百鬼たちはほとんど無傷だった。しかも連続する爆発は接近戦しか手がない迅の動きを殺し、彼を酷く苛立たせた。
「なるほどそうか、すまなかった。」
指を一つスナップし、冬美はさもらしく無能な女を演じてみせる。だが迅は短いつき合いでも彼女の思慮深さ感じ取っていたから、黒麒麟に反抗的な自分に対する当てつけだと受け取った。
「嫌味な女だ。てめえは黒麒麟によく似てる。」
「フッ、光栄だな。」
その答えは確信犯の証だ。迅は呆れと怒りを込めた舌打ちを残して冬美に背を向け、百鬼とトーザスを睨み付ける。
「てめえらなんざ片腕で十分だ!今度はすっきり始末してやるから覚悟してろ!」
「くっ___」
爆発から逃れるために散々動いたことで足の痛みが顕著になったか、百鬼は飛行の集中力を保ちながらもトーザスに肩を借りざるを得ない状態だった。これではさすがに分が悪い。二人は苦心の面持ちで迅と対峙していた。
「百鬼さん___」
「大丈夫だ。それよりもこのまま追いつめられたふりをしてろ。」
ただ、実際には裏がある。トーザスの片手は百鬼の腰に宛われ、できるだけ輝きを弱めながら回復呪文を放っていた。彼の足の痛みはそれなりに和らいでいたのだ。
「そこを動くなよ!」
迅が爆発的な勢いで二人に突っ込んでくる。一兎をを追うか、欲張って二兎を狙うか、迅の思惑は読めなかったがどちらにせよ百鬼の腹は決まっていた。
「今だ!」
敵が一人、こちらが二人、ならば数を生かすのが戦いの定石。百鬼は満足に動けないように見せかけて迅を引きつけ、タイミングを図ってトーザスと対極に動き、挟み撃ちにする手はずを立てていた。並の相手なら戸惑っただろう。しかし定石は言い換えればありきたりであり、生来のハンターに通じるほど高度な策ではない。
「なっ!」
迅は刹那の迷いもなくトーザスを追った。挑発を繰り返していた自分でなくトーザスに狙いを付けたこと、それは百鬼にとって大きな誤算だった。
トーザスを守らなければいけない!その思いで百鬼は宙を蹴って迅の背に追い縋る。だが本当の罠はそこにあった。
「近づいたな。」
振り返りもせずにそう言ってのけた迅に百鬼は何を思っただろう。彼はトーザスを追う素振りを見せただけで、百鬼が自分から射程距離に飛び込んでくるのを待っていたのだ。
「しまっ___!」
もっとも体よく挟み撃ちにできたところで関節不問の迅には通用しない。それに気づかなかった時点で百鬼の負けである。
ビシッ!
鞭のようにしなやかに、迅の拳が百鬼の胸を打った。力はいらない。ただ電流を走らせて心機能に異変を与えれば事は済む。
「ぐあぁ!?」
しかし悲鳴を上げたのは迅だった。喘ぎながら、仰け反るように拳を突き上げる。何が起こったのか、迅はもちろん百鬼もすぐには分からなかった。ヒントになったのは胸に走った鋭い痛みと、服に広がった輝かしい染みと、迅の拳の僅かな光。
「小瓶___書斎にあった小瓶か!」
百鬼は左胸のポケットに光の雫が詰まった小瓶を忍ばせていた。迅の拳がそれを打ち砕いたのだ。
「な、なんだこれは!?手が焼ける!」
迅の指にこびり付いた光。それは輝きながら、彼の体に浮かぶ黒い紋様を脅かす。
(今までなら無害だったろう。しかし今のおまえは凛様の闇に全身を染められている。強い光の力が苦しいのはそのためだ。)
彼の苦しみの訳を知る冬美は、相変わらず冷静な傍観者でいた。ただ背後からただならぬ気配を感じるとさすがに顔色が変わる。
「!」
振り向いたそこでは、黒麒麟が百鬼に向けて手を伸ばしていた。その指先に黒いオーラを満たして。
(くっ___!)
百鬼を助けたい、しかし黒麒麟に背きたくもない。かつて愛した男と命の恩人、瞬く間に壮絶な葛藤が彼女の胸中で膨れあがる。ただ、ゆっくり天秤に掛けていられる時間はなかった。
「百鬼さん!後ろ!」
彼女の思いが通じたわけではないだろうが、トーザスが黒麒麟に気づいた。百鬼が振り返るのと闇の波動を放たれるのはほぼ同時だった。
「!」
迫り来る壮絶な破壊の力。避けられないタイミングではないはずだが、百鬼は飛行に慣れていない。俊敏に飛び退くことはままならず、己の筋力で身体を捻るのが精一杯だった。
「ぐぁっ!」
黒いうねりが腕を掠め、彼の体は錐もみになって飛ばされる。そして波動は___
「ぐぉぉぉ!?」
迅を直撃した。壮絶な爆音と共に黒が破裂する。魔獣の雄叫びのような轟きを伴って、夜の闇よりもさらに黒い息吹が広がると瞬く間に迅を飲み込んでいく。
「あ、相打ちか___!」
止まれ!と強く念じると百鬼の身体は空中で急停止した。闇の爆裂に慄然とするのも束の間、彼は自分の身体がゆっくりとだが下降していることに気が付いた。
「あっ!」
闇を食らったのはアルバレオンの腕輪をはめた左腕。腕に塗された闇もさることながら、黒に蝕まれて罅入った腕輪を見ると百鬼は大いに焦った。しかしつい気が急いて腕輪に触ってしまったのが命取り。
パァァァンッ!
それはシャボン玉かと思うほど簡単に砕け散ってしまった。
「うっ!おぉぉぉ!?」
その途端、百鬼の身体を支えるものが一切消えた。妨げるものは何もない。唐突に、一直線に、彼は稲妻の如き速さで落下を始めた。
「百鬼さん!」
黒麒麟の放った闇を前に、トーザスは飛び出すことができなかった。いやもとより追いかけたところでどうなるものでもない。青ざめた顔で見送るしか道はなかったのである。
「ちっ___」
壮絶な風が身体を打ち、目はすぐさま渇いて開けていられなくなる。もはやどうにもならない。視界が暗転すると、百鬼は覚悟を決めた。
(ソアラ、後は頼むぞ。)
最後に見えたのは遠ざかるドラゴンズヘブン。母なる竜の島に妻の、子供たちの姿を思う。思い出を抱けない死よりもよっぽど幸せだ___そう思えるだけ自分は年を取ったのかもしれない。
覚悟は達観へ。肌を劈く大気の摩擦が消え、急に体が軽くなる。これが死か?彼はゆっくりと目を開けた。
「あれ?」
見えたのは夜の空だった。さっきより小さくなっているがドラゴンズヘブンも、トーザスも迅も黒麒麟もいる空だった。
「浮いてる___?」
百鬼の身体は青白い光に包まれ、仰向けで宙に止まっていた。その魔力は冷気のような冷たい輝きとは裏腹に、人肌の暖かみがある。
それはケルベロスの冬に咲く一輪の薔薇のような、美しく、凛として、優しい魔力。
暖かい息吹に導かれるように百鬼は首を傾けた。そこには自責の念に駆られ、仮面の下で取り乱している彼女がいた。触れてはいない、しかし同じ魔力の輝きの中に二人はいた。
「う___」
彼の眼差しに女は呻く。なぜ助けてしまったのか?自分でも答えを出せないから、彼女は当惑した。
「___」
そして彼の眼差しが、安穏から覚醒へ、さらに懐古、鳴動へと目眩く移りゆく様に、身を強ばらせた。もはや仮面も黒く染めた髪も意味を成さない。
肌知る温もりが込められた魔力の中で百鬼は身を起こし、金縛りにあったように動けなくなってしまった冬美に向き直った。そしてゆっくり両手を伸ばす___
その時、ほんの一瞬だけ冬美は我を取り戻していた。百鬼の手が触れようとする瞬間、彼女の硬直は確かに解けていた。そこで魔力を振り絞るなりすれば、彼女は冬美でいつづけることができたはずだった。
「あ___」
しかし彼女は動かなかった。いや、動けなかった。冬美でいるよりもフュミレイに戻ることを選んだ。彼女にとって特別な男___純情な幼き日々を、氷の籠手に血塗られた青春を、思いを滾らせ愛を叫んだ一瞬を、彼女の全てを知る男の手で取り戻すために。
「!」
唇を震わせながら手を伸ばし、百鬼は彼女の華奢な両肩に触れる。そのとき偶然にも仮面が外れた。それは妖魔の冬美がフュミレイ・リドンに戻った瞬間。
そして、二人のたがが外れた。
「フュミレイ!」
百鬼は絶叫し、身の底から突き上げる情熱に任せて叫んだ。構わずに力ずくで彼女の身体を抱きしめる。そんな乱雑な歓喜の表現こそ彼らしく、フュミレイの心を震わせた。
「___」
柄にもなく声が詰まってしまった。
震えが止まらない両手をそっと彼の背に伸ばすのが精一杯だった。
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