2 闇の神官

 当時、天界を治めていたのは二人の神だった。
 一人はジェイローグ。またの名を竜神帝と呼ばれる竜と光をつかさどる神。
 もう一人はレイノラ。絶世の美女であり、闇をつかさどる神。
 そこからさらに遡った遥か昔。天界には多くの神にいて、世界そのものも比較にならないほど広大だった。強靱な大地、広がる海原を有し、空ばかりの世界ではなかった。ただ、今に限ればその時代はどうでも良い。
 知らなければならないのはジェイローグとレイノラ、二人の時代。なぜ二人だったものが一人になったのか。その出来事だった。
 時はさかのぼる。およそ千三百年前に___

 事の発端は二つの種族の争いだった。
 ヴィニアとマジェニア___それはレイノラが黄泉でミキャックに聞かせた話に登場する、翼を持つ天族と、持たない天族を意味する。
 翼を持つのがヴィニア。白く美しい翼は見るものを魅了し、魔力の労をなくして空を飛びまわることができる。
 翼を持たないのがマジェニア。優美さではヴィニアに及ばないが、地の恵みを受けた強靭な体と、優れた知才、魔力を持つものが多かった。
 両者は長い時の流れを共に生きてきた。しかし天界は魔に晒されやすく、また時に内から魔を排出する世界でもある。魔に目覚めるもの、その多くはマジェニアだった。ただそれは致し方ない。マジェニアはヴィニアよりも強く、力のある者は時に道を見誤る。

 時の流れと共に、魔に墜ちやすいマジェニアを蔑んだ目で見るヴィニアが現れた。翼のない種族は堕落する___それは差別の始まりだった。
 さらに、大きな戦いのたびに天界から海が消え、大地が削られたこともマジェニアには災いした。平和が訪れれば人は増える。空にい続けることができないマジェニアの肩身は狭くなっていった。「世界に適応できない種族」と揶揄されるようになり、差別はその火を強めた。
 さらに時は流れ、マジェニアは少数派へと変わっていく。いくつかの島にヴィニアとは離れて過ごすようになる。ただそれでも彼らが懸命に生きたのは、翼を持たないことに誇りを抱いていたから。
 その誇りの拠り所となったのがレイノラであり、竜の使いだった。

 ジェイローグは竜の姿をした神であり、人の姿は化身でしかない。しかしレイノラは化身たる姿を持たず、なにより翼を持たない、すなわちマジェニア。それでいて神々しい艶と美しさ、溢れる知性、母性を併せ持つ彼女は、誰もが羨む才媛である。
 神は人々の諍いに口を挟まない。しかし憂いを覗かせることはする。マジェニアへの差別にレイノラは憂いを示し、暗黙にヴィニアを咎めた。
 差別の火が小さくなる。しかし消えてはいない。再び燃えさかる火種を残していた。

 レイノラに救われた。マジェニアの彼女に対する愛は一層増長した。しかし愛は燃え上がるほどに度を超え、彼女が司る闇そのものへの愛と変貌していく。これが決定的だった。
 愛は思想へ、そして信仰へ。
 光は白き翼を美しく輝かせる。対するようにヴィニアの光への信仰が広がった。
 両者の溝はもはや戻らないほどに深まった。

 戦いが起こった。
 天族と天族の戦い。
 天界にそれまで戦いがなかったかといえば嘘になる。かのシュバルツァーでラゼレイの先々代の頭首、シドマー・キゥ・パドルシンが他島への侵略を試みたように、歴史の中には数々の戦いがある。
 ただ天族同士のぶつかり合いで、神が手を下さなければならなかった戦いは一つしかない。それが千三百年前の戦いだった。

 「過ぎた信仰が邪な闇の帰依を許した___そうとしか思えない。」
 レイノラは日々、酷く憂えていた。長い黒髪の艶に若干の翳りを走らせ、瑞々しい肌の目元には些細な疲労感が滲んでいた。
 「邪悪の付け入る隙を許したということか。」
 かつてのジェイローグは常に人の姿でいた。竜でいることはそれだけで夥しい力の放出につながり、人々に脅威を与え続けることになる。それでは真っ当な世界とはいえない。だから彼は人の姿で居続けた。
 「だが思慮深き人々がこうも容易に___」
 「怒り、憎しみ、力への渇望。すべてが邪悪の付け込みやすい環境を作り出した。闇は邪悪にとって居心地のいいものだから___」
 レイノラの嘆きは、マジェニアが手にした悪しき力に向けられていた。闇に堕ちたマジェニア、それは魔族に等しい。過去にも邪悪の虜となった天族が冥府へと堕ち、天界にとって大いなる脅威となったことがある。
 信仰の食い違いから始まった戦いは、世界を巻き込む大戦争へと発展した。数は少なくとも、力に勝るマジェニアはヴィニアを圧倒していた。力の源となったのは、闇への信仰の果てにたどり着いた邪悪への嘆願だった。
 漲る殺意。迸る鮮血。彷徨える魂。
 それを闇に捧げ、彼らは力を高めていった。

 この時、神にはもう一つの懸案があった。それは更なる太古の時代に、世界を破滅の縁にまで追いやった大いなる力の存在である。
 「感じるか?」
 「ええ。この禍々しさは___」
 ジェイローグとレイノラは世界の中心であるドラゴンズヘブン、竜の形をした島の尾の部分に立っていた。そして眼下の空を睨み付けていた。
 「異世界へ封じたGに動きがあったようだ。もしやではあるが、力が漏出している可能性がある。」
 空に異変はない。だが二人は果て無き空の先に、禍々しい波動の揺らめきを感じていた。
 「我々は同士とともに眠りについたGを知ってはいても、それが眠る世界のことは知らない。一度ユーリスに赴かせてはどうかと思う。」
 「あの子一人では___」
 「ガルフィオンのホルトを付ける。状況が状況ならば、戻ることもままならないかもしれないが___」
 ユーリス、それは竜の使いの名だった。彼女は思慮深く、それでいて肉弾戦に圧倒的な強さを誇っていた。彼女もまた、二人の神と変わらぬほどヴィニアとマジェニアの争いを嘆いていた。自分はどう動けばよいのか、悩んでもいた。
 ガルフィオンとは当時天界で繁栄していた灰色の狼。ホルトは稀代の星の下に生まれた白い狼であり、言葉を操り、被毛を己の武器とする術を持っていた。犬特有の忠誠心を持ち、強きものを敬愛する。
 異世界を知り、Gの現状を把握する___二人には重大な任務が下されようとしていた。
 ただこのときすでに、レイノラにはある決意があった。
 「私がGを調べに行きます。」
 美しい空の下、噴水の音を背に聞く庭園。白い長椅子に腰掛け、二人は手を取り合っていた。世界の喧騒をよそに、陽光目映い朗らかな昼。花の香り広がる庭園には蝶が舞い、何よりそこから見える空の青さ、清々しさは天界広しと言えど右に出るものはない。
 そこでレイノラは決意を口にした。
 「君が?どうして?」
 ジェイローグは驚き、目を丸くした。重ねる手に力が込められた。
 「調べるには過去にGと向かい合ったことのある人の方が相応しいでしょう?それは私かあなたしかいないわ。そして___人々を目覚めさせるためには、私が行くべきよ。」
 「しかし___」
 それから暫く問答は続いた。終始一貫していたのは、ジェイローグが彼女の旅立ちに否定的だったことだ。
 「今君が去るべきではない。」
 「私が去ればこの大戦も区切りを迎える。私はそう思うわ。」
 「穏便に済むとは思えない。勝敗は決定的な優劣を生み、マジェニアを取り巻く環境は一層厳しくなる。世界がヴィニア優位になる。」
 「それも一時としては致し方のないこと。マジェニアたちは闇に傾倒して我を見失い、邪悪に手を染めた。その罪の深さを知り、悔い改める必要があるわ。もとよりこの大戦が続けば邪悪が天界で地位を高めることになる。それは決して許してはいけないこと。」
 レイノラの意志は揺らがない。先に折れたのはジェイローグだった。
 「分かった。君がそこまで言うのなら私も止めることはできない。異世界に赴くのは確かにGを知る者が相応しいし、この戦を終わらせるには君の言う方法が効果的かも知れない。」
 レイノラが異世界へと旅立ったのはその翌日のことだった。ドラゴンズヘブンの尾には黄金の髪を呈したマジェニアの女、白狼、さらに二人に仕える天族たちが見送りに来ていた。
 「しばしの別れか。」
 「そうね。」
 ジェイローグとレイノラは郷愁的な視線を交わす。そこに込められているのは互いの愛と離ればなれになる寂しさ。いずれにせよ、神と呼ばれる存在でありながら感情を包み隠さない二人に、周囲の者は心地よさを抱いた。
 「これを君に。」
 「まぁ___」
 別れ際、ジェイローグは青い液体が揺らめく小瓶を渡した。
 「竜の涙。これには私たち二人の、そして天界への愛が込められている。」
 「ありがとう。」
 帰巣の魔力が込められている宝石、竜の瞳。竜の涙はそれを液化させたもので、空のように美しい青色を呈していた。
 「母君様、どうぞお気を付けて___」
 「あなたも無理はしないように。」
 レイノラと優しい抱擁を交わした金髪のマジェニア、彼女がユーリスだ。父は天族の勇士、母は先代の竜の使い。決してレイノラの娘ではないが、彼女はレイノラを母君様と読ぶ。
 「ホルト、レイノラを頼むぞ。」
 「はっ。」
 ユーリスの隣にいた白狼がレイノラの元へと歩み出る。忠誠を誓うべく、ホルトは彼女の隣で平伏した。いよいよ旅立ちの時である。
 「私は異界の地で、戦乱が穏やかに終息することを祈ります。人々の命が失われていくのは悲しいこと。ジェイローグ___マジェニアが正しき道に舞い戻れるよう、尽力を。」
 その言葉はジェイローグに向けられたものでもあり、彼を介して世界に向けられる言葉でもある。レイノラの願いが込められた神託だった。
 「約束する。安心して旅立ってくれ。」
 力強い男の言葉にレイノラは柔らかな微笑みを覗かせた。
 二人は再会を誓い、人前とは思えないほど濃密な口づけを交わす。そしてレイノラとホルトは眼下の空へ。
 その気配はやがて天界から消え去った。
 ___

 「___って、俺たちが聞いてた話とほとんど同じじゃねえの。」
 期待に目を輝かせていた百鬼は拍子抜けした様子でデスクに身を擡げた。正面には椅子に腰掛けて膝の上で歴史書を開くミキャックが居る。
 「そう、ここまではあたしたちも知っている事よ。二人が愛しあっていて、天族同志の争いがあって、レイノラが黄泉に去った。違ったのはレイノラが自ら去ると決心したことくらいね。」
 彼女の口振りに確信めいたものを感じ、百鬼は身体を上げて腕組みする。
 「裏がありそうだな。」
 「うん。ここから先が大事なんだ。」
 歴史書の頁が捲られる。重大な事実はそこから記されていた。

 ___
 レイノラが天界を去った。それはマジェニアに冷静さを取り戻させ、ヴィニアを活気づけると思われた。しかし結果は裏目に出る。
 ヴィニアの間に「もうマジェニアは身を引くだろう」という安堵感が広がったのは確かだ。しかし彼らは変わらなかった。もはや彼らの信仰はレイノラを離れ、一人歩きしていた。
 「世界を闇に染めろ!」
 結果としてレイノラの決断はヴィニアから戦意を削いだだけに終わる。いつしか指導者まで登場したマジェニアの勢力は、弱体化した相手にも容赦しない。光の世界に住む者にあり得ない思想を掲げ、彼らはヴィニアの滅亡を望んだ。

 「マジェニアを正しき道に引き戻さなければならない。出来る限り犠牲を抑えて目的を果たすには、彼らの中に強い影響力を持つ者を説得する必要がある。」
 レイノラとの約束を守り、なおかつヴィニアも守らねばならない。難しい対応を強いられたジェイローグは、マジェニアの指導者を懐柔すべく手を打つ。神の遣わす説得役はユーリスが買って出た。
 彼女は素晴らしい身体能力と鋭敏な感覚、真っ直ぐな気性を持ち合わせ、竜の使いの中でも戦士という言葉が似合う人物だった。
 「マクミトゥ氏に物申したい!」
 この時もたった一人で、なんら武装もせずにマジェニアの指導者が住む島へと赴き、堂々と正面から対話を願い出た。
 指導者、マクハン・レオン・マクミトゥはマジェニアの中でも知識に溢れる老翁として知られていた。情熱的な一面はあるが、人の言葉にはしっかりと耳を傾ける人物。ユーリスが闇への帰依の危険性を告げれば考えを改めるに違いない___ヴィニアの誰もがそう思っていた。
 ただ、この対話は思わぬ結末を迎える。
 「貴様___何者だ!?」
 マクミトゥとの対話の席。ユーリスの鋭敏な感覚が邪悪の存在を捉えた。マクミトゥの側に立つ浅黒い肌をした男___彼女は一目でこの男が持つ神髄からの悪を見抜いた。
 ただ、その力量までは見抜けなかった。

 「何だと!?」
 ユーリス殺害。
 その報せにジェイローグは愕然とした。冷静沈着を極める竜の神もこの時ばかりは動揺し、胸の高ぶりを抑えることが出来ないまま彼女が対話に向かった土地へと意識を傾けた。
 「___このおびただしい殺意___それでいて悲壮感はない!」
 マジェニアの勢力の中心都市、レーベルレングは禍々しい殺意の巣窟と化していた。ドラゴンズヘブンにいても肌を撫でられるかと思うほど、隠し立てのない殺意が渦巻いている。
 世界の姿をこの目で見なければならない。
 ジェイローグはその体を朧気に輝かせると、ゆっくり目を閉じた。そうすることで、彼は光指す土地の有り様を見ることができる。
 「___なんたることだ___」
 もとより楽観はしていない。しかしレーベルレングで繰り広げられていた光景は彼の想像を絶していた。自然と脂汗が滲み、心の平静を保っていられなくなった。
 「く___」
 意識の乱れが彼の目を開かせる。その時補佐役をしていた天族は、これほど苦渋と怒りに満ちた帝を見たことがなかったという。
 「帝様___」
 「案ずるな。」
 だがジェイローグはすぐに心を静め、再び目を閉じる。そしてもう一度、今度はある程度の心構えを持ってレーベルレングの様子を見た。

 都市の中心にある広場。そこにはいつの間にやら建立されたレイノラの像が立っていた。右手を天へと伸ばす美しい石像。ただ、今のそれは邪神像さながらの様相を呈していた。
 石像は血の化粧をし、固まった血液で黒く彩られていた。
 血の源流を辿る。すると腕の中途に何かがぶら下がっていることを知る。
 ___ユーリスの体だった。
 彼女は裸で、左胸を刺し貫かれた姿でぶら下がっていた。それは邪神に捧げられた供物なのだろうか、石像の周りでは多くのマジェニアたちが声を上げ、祈りを捧げていた。天界の守護者である竜の使いの死を悼む者は誰一人としていない。
 (彼らは___もはや己を失っている___)
 この戦いはもはや彼らの意志の届かないところで起こっている。ジェイローグは確信した。マジェニアたちの目に光はなく、それこそ人形のようだった。
 人形の糸を引く人物がいるはず___
 ジェイローグは観察を続けた。そして___
 「!」
 広場に指導者のマクミトゥが現れた。しかし彼もまた形骸に過ぎない。ジェイローグの目を引いたのは側近として立つ浅黒い肌の男。彼はこの男のことを良く知っていた。
 「ダ・ギュール!」
 その男は天界の生まれである。まだ世界に数多くの神がいた時代に彼は生まれ、時を経てとある神の神官として仕えた。しかし彼が真に崇拝していたのは邪神。神官となった理由は、神を殺めて骸を捧げ、邪神への目通りを叶えるためである。
 天族から魔族へ。悪に墜ちたマジェニアの急先鋒こそ、このダ・ギュールなのである。
 そして齢を重ね、彼は天界へ帰ってきた。
 「!」
 観察されているのを感じ取ったのだろう。ダ・ギュールは嘲笑を浮かべた。互いが向かい合っているわけでもないのに、ジェイローグは視線の交錯を感じる。その体に秘めたる夥しい邪悪。ジェイローグは彼がもはや一介の天族、魔族を越えた存在になっていることを知った。
 そして、その目的が何であるかを。
 「いよいよだ!闇への門は開かれる!」
 ユーリスの骸を掲げた広場で式典が始まった。マクミトゥが声を張り上げ、マジェニアが喝采する。
 「さあ!祈るのだ!」
 人々は跪き、闇へ祈った。レイノラの石像に殺意、憎悪、闇への畏敬が込められていく。ユーリスの骸を触媒に力を高め、石像の手先から悪しき波動を空へと放つ。全ては邪神のお導き。だが実際に念を像に導き、波動の道筋を付けているのはダ・ギュールだった。
 そして、空に闇が開いた。
 これこそがダ・ギュールの目的。かれはマジェニアを利用し、心の闇につけ込み、同時にそれを隠れ蓑として暗躍していた。そして彼が空に開いたのは、冥府と天界を繋ぐトンネル。それは今冥府が天界を飲み込んでいる脅威にも匹敵する偉業だった。
 もはや手遅れだ。穏便に済ませられるほどの余裕はない。
 「ダ・ギュールめ!」
 忌々しさを吐き捨て、ついにジェイローグが立った。

 天界に開いた冥府の門。同時にそこから数多の魔族、モンスターが天界に雪崩込んできた。なかには鬼神や魔神と呼ぶのが相応しいほどの力を秘めた者まで___彼らは光溢れる世界に適応するため、光に対する抵抗力を浴する。どうすればいいか?簡単なのは光に強い者を食うことだった。
 手近にいたマジェニアたちの命が次から次へと食らいつくされていく。そしてレーベルレングは冥府の前線基地へと変貌する。
 「貴様に我々が止められるか?」
 目を閉じれば、ジェイローグの脳裏にダ・ギュールの挑発が聞こえる。そして冥府の門が拡大していく様が見える。
 ジェイローグは光を以て闇を滅する決意を固めた。
 そこに大きな落とし穴があるとも知らず。
 ___

 「それで、帝さんはどうしたんだ?」
 重苦しい声で百鬼が尋ねた。
 「冥府の門を蹴散らすために、光の力を放ったわ。もちろん、世界の接点を破壊するくらいだからかなり強烈なのをね。ただダ・ギュールはそれを読んでいた。冥府の門は本物じゃなかったのよ。」
 「何だって?」
 「冥府の門は見せかけの闇の巣。なんて言ったらいいのかな、冥府の一部を切り取って天界に運んできたものだったんだ。ダ・ギュールはそこに手当たり次第魔族やモンスターを集め、さも冥府の口が開いたように見せかけた。」
 「なんで?どういう意味があるんだ?」
 「レイノラがいない今、帝に本気の波動を放たせるためよ。」
 放たれたジェイローグの力は世界を脅かす凄まじさを秘めていた。闇があまりにも脆弱だったことで力は行き場を失い、弾け、天界全体に拡散した。
 「帝はこれを光の暴走と書いているわ。記録によると天界の陸地の半分以上が失われ、海も消え、マジェニアは絶滅し、ヴィニアもその多くが命を失った。」
 百鬼は瞬きをして、唾を飲み込む。はっきりいって情景は思い浮かばないが凄まじさだけは伝わった。
 「凄いな___想像がつかねえ。」
 「そうね。ただ、もしレイノラがいればこうはならなかったそうよ。」
 「どういうことだ?」
 「レイノラは闇を操る。彼女がいれば帝の光の暴走を闇の力で包み込み、止めることもできた___って、そういうことよ。」
 それを聞いて百鬼は手を叩いた。それこそが待ち続ける帝の真意だ。
 「そうか___それで帝さんはレイノラを引き入れたがってる。」
 「帝が力を取り戻せば冥府を押し返せるというのは本当だと思うわ。でも、レイノラの闇がなければ歴史を繰り返すことになる。」
 「なるほどな。だがそれにしたってドラゴンズヘブンが飲み込まれたらおしまいだ。」
 そう。待ち人が来ないなら、自分から近づいていくべき。焦燥に駆られて消耗を繰り返すだけが能ではないはずだ。
 ミキャックは強い決意を胸に頁を捲る。二人が求める答えは、そこにしっかりと記されていた。
 「帝はレイノラが異世界より帰るその日まで、己の力を封じることにした。」
 互いの視線を交錯させ、覚悟を抱いてミキャックは続けた。神の秘密を広言するにはそれだけの緊張が必要だった。
 「封じた場所は神の牢獄セサストーン。」

 冥府の核が眠る神殿。飾り気などまるでなく、ただ中央にロッキングチェアが一つある部屋にレイノラはいた。竜神帝を殺め損ねて舞い戻り、彼女はこの無味な場所で椅子に身を任せていた。それは心の平穏を取り戻すためだった。
 「___」
 しかしどうにも気分が晴れない。頭に焼き付いて離れないのは、無抵抗な彼の姿。深い傷を負い、息も絶え絶えになりながら最後まで微塵の輝きも発しなかった竜の神。
 冥府を止める力はない。守る力はない。殺意を止める力もない。
 その言葉が真実に思えるほど、ジェイローグは非力だった。古の時代より世界に秩序をもたらしてきた神の姿とは似ても似つかなかった。例え力を押さえ込んでいようと、かつての彼を知るレイノラには肌に感じる何かはあるはずなのに。
 「どういうつもりなんだ___」
 酒でもあれば呷りたいところだ。せめてこの混沌を微睡みの内にもみ消してしまうために。
 (私の心を揺さぶるためだとしたら、おまえの行動は成功だった。だがこういうのは好きじゃない。)
 怒りは迷いに溶けて若干薄らいだ。しかし不愉快な、胸の周りに蔓延るような不快感は一層強まった。無防備を決め込み、心の隙をつこうとする姿勢は実に薄ら寒い。
 (私の怒りを理解しているのは分かった。だが、だからといって天界を滅ぼそうとする私を受け入れるのか?世界を犠牲にしてでも私を懐柔したいというのなら、それは大きな間違いだ。)
 ___だから、抵抗しないことが気に入らないのだ。
 レイノラは己が納得できる理由を探し、乱れた心を整理しようと腐心した。
 「俗だな___」
 そうするうちに掻き乱されたままの自分に嫌気が差してくる。不意に冷淡になった彼女は、考えるのをやめた。
 (どちらにせよもう私に戻る空はない。天界は滅び、私は黒麒麟として黄泉で枯れていくだけだ。)
 黄泉の屋敷での、歪んではいたがそれなりに満たされていた暮らしを思い出そう。冬美や小鳥と微睡む日々を。
 「小鳥か___いや、待てよ。」
 そうするうちにレイノラは疑問に気づく。記憶を無くした翼の彼女がなぜ天界にいるのか?
 (小鳥は黄泉にいたはず。しかも涼妃の手で記憶を失っていた。それなのになぜ天界に現れ、ジェイローグを守ったんだ?)
 あの挙動を思えば、記憶を取り戻しているのは間違いない。ただそれにしてもジェイローグを守った姿___あの時、彼女はなぜジェイローグが宵闇の裁きを「避けない」と思ったのだろう。
 (知っている___のかもしれない。)
 避けられない理由を。
 「レイノラ。」
 そのとき、密室に声だけが響いた。
 「貴様にその名で呼ばれるのは不愉快だ。」
 レイノラの気配があからさまに鋭敏さを取り戻す。しかし彼女は姿勢を変えず、意識だけが背後に向けられた。
 「あそこまで追いつめておきながら、なぜ退いた。」
 意識の先、背後に暗がりが走ると浅黒い肌をした老翁が現れた。ダ・ギュールだ。
 「___脅威を感じた。」
 なぜ?レイノラも答えはわからなかった。彼女自身の迷いが極限に達したと言うべきか、とにかくあの場に居続けるのが辛かったのは確かだ。
 「脅威?奴は明らかに無力だった。」
 その通りだ。それには反論の言葉もない。
 「殺しに行け。それがおまえの務めだ。」
 「貴様如きが私に指図するな。」
 レイノラが首を傾ける。ダギュールに向けた右の横顔は長い前髪に隠されていた。しかしその奥から醸す波動は、全てを威圧するだけの威圧を秘める。
 「今の我らは同志だ。それを忘れるな。」
 黒がりが薄れ、ダギュールの姿が消えた。レイノラは暫く背後を睨み続け、やがて気怠いため息をついて振り返るのをやめた。
 (同志?志を共にした覚えはない。私はアヌビスを利用し、アヌビスも私を利用している。それだけじゃないか___)
 そう、それだけのことだ。私はジェイローグを倒し、アヌビスは天界を滅ぼす。ただの利害一致だ。
 「寂しそうですね。」
 いつの間にか部屋の扉が開いていた。縁に寄りかかり、幻夢はいつものように筆を走らせている。
 「幻夢か。」
 「でもあなたのそんな表情が新鮮で、僕にとっては喜びです。」
 幻夢の力は新八柱神の中でも最下位であり、ただ戦いを得意とするだけなら彼以上の実力者は黄泉に五万といる。しかし彼はアヌビスに好まれた。新しい刺激に対する欲求と、尽きることのない興味。それがアヌビスに好まれ、彼との共感を呼んだのだ。
 「また私の絵を描いているのか?」
 「僕はあまり女性の絵は描きません。ですが、あなたを見ているととても意欲が沸く。お付きの冬美さんにも掻き立てられるものはありましたが、やはりあなたには及ばない。」
 最後に紙の端にサインを走らせ、幻夢は絵をレイノラに示した。物憂げな女神の面持ちはデッサンだというのに匂い立つような雰囲気を醸す。
 「あなたは冷静であるように見えて、とても感情豊かな方です。何かお悩みなのでしょう?」
 絵に描かれた自分にさえ深い混沌を感じるのだから、幻夢の言う通りなのだろう。レイノラは自嘲気味に微笑んだ。
 「心配してくれるのか?」
 「あなたには無意味かも知れませんけどね。」
 嫌みのない彼の態度は、今のレイノラにとってこれ以上ない清涼剤だった。包み隠さず思うままを表現する姿勢に好感を抱いた。
 「優しい男だ、君は。」
 レイノラは立ち上がり、幻夢に歩み寄った。
 「真正面から向かい合って私を描いてくれるか?そして力を貸して欲しい。」
 幻夢は一瞬面食らったものの、すぐに目を輝かせて満面の笑顔になった。

 「本当に大丈夫なのか?俺あの姉ちゃん少し苦手だよ。」
 核の神殿に久方ぶりの顔が舞い戻っていた。
 「心配するな、私が説明する。」
 「でもよ〜。」
 竜樹の着物の袖を引き、冬美は黒麒麟の元へと向かっていた。
 「この世界で戦う気はない!___って通用するのか?」
 「だから私が説明すると言っているんだ。」
 竜樹は百鬼との約束を守るため、戦列に戻ることを拒んでいた。しかしいつまでも天界に身を隠していられるわけがないし、事が済んだ後に黄泉に帰れなくなる。結局冬美の言葉に負けて核の神殿に戻ってきたわけだが、黒麒麟に会うのはとにかく気が引けて仕方なかった。それは彼女なりの敬意か?逆らえない力の差を潜在的に感じているのだろう。
 「やっぱり勘弁!」
 竜樹は諦めて冬美に付いていくと見せかけ、突然力を込めて袖を振り払った。しかし___
 「おわっ!?」
 足にはしっかりと魔力の紐が巻き付いていた。

 コンコン。
 核の神殿に用意された黒麒麟の部屋。冬美が扉をノックする傍ら、結局ここまで引きずられてきた竜樹は足下に寝転がってふて腐れていた。
 「誰だ?」
 扉の向こうから凛とした声が返ると、冬美は黄泉の屋敷を思い出した。
 「冬美です。」
 「入れ。」
 竜樹の頭を足先で小突き、彼女を立たせると冬美は扉を開けた。その瞬間である。
 ゾクッ___
 ノブを掴んでいた指先から足、脳天を巡って背中の中心まで寒気が走る。すぐ後ろでは竜樹もごく短い悪寒を感じていた。
 「___凛様___」
 緊張の原因はすぐに分かった。部屋の中心で整然と椅子に腰掛ける黒麒麟、その右の顔が露わになっていたのだ。
 「できるだけ気配を抑えていたつもりだが、驚かせたようだな。」
 白黒逆の右目から発せられるオーラ。言葉にするのは難しいが、冬美から動作を奪い、竜樹に汗を滴らせるほど彼女の気配は他を圧倒する。
 「___驚きました。凛様が力を抑えているのは分かっていましたが、これほどとは___」
 真正直な物言いをしない冬美にこう言わせたことが黒麒麟の笑みを誘う。
 「その気配をずっと浴びている僕の気分になってご覧。本当に大仕事だよ。」
 部屋の中に幻夢がいたことに二人はようやく気が付いた。それほど黒麒麟に気を惹かれていたらしい。
 「今は絵を描いて貰っている。用件は何だ?」
 「はっ、長らくお力になれなかったことの詫びに参りました。」
 冬美の目配せで前に出た竜樹は黒麒麟に頭を下げる。しかし黒い気配から目を離せず、前を凝視したままのお辞儀は不格好だった。
 「今日は大人しいのだな。」
 「___ちょっとだけ蛇に睨まれた蛙の気分が分かったもんで。」
 「フフッ___」
 「あんたアヌビスよりも強いよ、きっと。」
 竜樹は自分の力を高めるために強者との戦いを求めている。しかしアヌビスにしろ黒麒麟にしろ、まだ到底力及ばないと感じた相手に挑もうとはしない。それは彼女なりの賢さとも言えた。
 「私は戦列に戻りますが、竜樹はまだ戦いの傷が癒えておりません。彼女は飛行も苦手ですし、前線ではない役目を与えていただきたいのです。」
 「いいよ冬美。やっぱこの人には誤魔化そうとしたって駄目だ。」
 一言発したことで吹っ切れたか、竜樹は冬美を制してその場にひれ伏した。
 「すみません。俺、百鬼っていう人に世話になって、その人とこの世界ではもう戦わないって約束しちまったんです。それでその約束を守りたくて___お願いします!どうか冥府に帰らせてください!」
 土下座して頼み込む竜樹。黒麒麟はキョトンとしてその様子を見つめ、やがて失笑した。
 「フッ、何を言い出すかと思えば。」
 手を差し伸べて幻夢の筆を止めさせ、彼女は竜樹の前へと跪く。
 「顔を上げなさい、竜樹。」
 竜樹は勢いよく顔を上げた。すぐ側に黒麒麟の白い瞳があった。
 「___」
 呼吸が止まるかと思った。竜樹は至近距離で真っ直ぐ自分にだけ浴びせられる暗黒の息吹に硬直する。しかし今度は鼻腔が開いたくらいで、震えは無かった。
 「私を前にしても戦意を掻き立てられないのか?おまえはあんなにも戦いたがっていたのに。」
 「今の俺じゃあんたには勝てない。」
 「いずれは勝てる?」
 「勝ってみせる。」
 竜樹の強い眼光と黒麒麟の白黒の眼差し。暫く続いた睨めっこ、先に負けたのはレイノラだった。
 「フフ___ハハハッ!」
 破顔一笑。立ち上がって突然笑い出したレイノラを、竜樹は呆然として見上げた。
 「その闘志でもう天界では戦いたくないだって?どうやらその男はおまえにとって大事な存在のようだな。」
 「いや___それは___」
 乙女らしい恥じらいを見せる竜樹、一方でレイノラは悪戯っぽい笑みで冬美を見つめ、彼女は口を結んで視線を逸らした。
 何しろレイノラは冬美、いやフュミレイの百鬼に対する感情を知っている。
 「分かった。おまえは前線から外す。」
 「本当ですか!?」
 「ただし私のために働いてはもらう。冬美、おまえも私の手元に帰れ。」
 「はっ。」
 他を圧倒する力強さを内に宿しながら、それでいて周囲を和やかにする気質も持ち合わせている。そんなレイノラを見て幻夢は思うのだ。
 彼女に殺伐とした場所は似合わない___と。




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