1 負の歴史

 「ルディー!?」
 そこはルディーとラゼレイが眠る部屋。床に伏す愛娘の姿を見るやいなや、ソアラはベッドに駆け寄って跪いた。
 「魔力の使いすぎでダウンしたんだ。島が揺れても目を覚まさなかった。」
 ルディーの頬に手を伸ばしかけ、ソアラは止まった。もっと安らかな寝顔なら躊躇うこともなかっただろう。しかし、疲弊が染みついたような表情は彼女の胸に戒めとなって突き刺さった。
 「ルディー___」
 それでも困惑はごく短いものだった。ソアラの右手はルディーの額に触れ、少し乱れた前髪を優しく撫でる。そうするうちに頬が強ばり、涙が溢れた。
 「___」
 百鬼は震えるソアラの背中を見つめていた。こうなることが分かっていたから、彼は先に廊下でリュカと再会させた。リュカに我慢をさせたくない___妻子を思う、彼なりの心遣いだった。
 「ソアラ。」
 ソアラの悲しみが一頻り過ぎ去った頃を見計らい、百鬼が呼びかけた。ルディーから視線を外すことに未練を覚えながら、ソアラは顔を上げる。
 「こちらはフォルティナさんだ。そこで眠っているラゼレイさんの奥さん。」
 「はじめまして。高名なる竜の使いとお会いできて光栄です。」
 フォルティナはいつもと変わらず貞淑にお辞儀する。ソアラもルディーの頬に口づけしてから立ち上がり、一礼した。
 「こっちで色々と世話になったんだ。子供たちも彼女を慕っていた。」
 「そうだったんですか___ありがとうございます。」
 精一杯の微笑みで改めて深々と頭を垂れるソアラだったが、フォルティナには痛々しさばかりが伝わった。
 「ソアラさん、お話しがあります。」
 そんな彼女の心情を思えば、今話すことが正しいかどうかは分からない。ただルディーが目覚めたその時のことを思うと、フォルティナは黙っていられなかった。
 「ルディーのことです。」
 彼女が伝えたかったのは、シュバルツァーのテラスでの出来事。ルディーが彼女に母を求めソアラを否定したあの時のこと。傍らに見る百鬼は、僅かとはいえ目を見開いたソアラの動揺を感じた。ただ彼女はいつも気丈だ。その心は決して打たれ強くないのに、いつも強くいようとする。昔からそうだった。
 「無理もありません。私は母親として失格です。」
 きっとその場で崩れ落ちたくなるほど、ソアラの心はズタズタだったろう。それが分かるから、百鬼もフォルティナも胸が痛んだ。嘘が下手な女ではないはずなのに、俯いて吐き捨てた強気な言葉は痛々しいほどギクシャクして聞こえた。
 「ソ___」
 見ていられなくなったのだろう、慰めを口にしようとしたフォルティナを百鬼が制した。
 「ソアラ、顔を上げて俺の目を見ろ。」
 百鬼の厳しい要求にソアラは顔を上げられない。そうさせるのは罪の意識か。
 「できないのか?そんなに辛くなるなら勝手に出ていったりすんなよ。」
 「___ごめん___」
 突き放すような彼の言葉に、ソアラは消え入りそうな涙声で呟くのが精一杯だった。
 「とにかく俺は本当にガッカリした。おまえが残した手紙を見たとき、家族の絆ってこんなものだったのかって心底ガッカリしたよ。」
 「___な___さ___い___」
 零れた涙が床を濡らす。本当に返す言葉が見つからないのだろう、彼女はただひたすらに謝罪を繰り返すだけ。やがて立っていられなくなり、腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまう。
 「うぅ___うぁあ___」
 ついには顔を覆い慟哭する。合わせる顔がないとはよくいったもので、ソアラは本当に申し訳なくて、怖くて、百鬼の顔を見ることができなかった。彼女だけの意志で天界に赴いたわけではない。それでも、何の相談もなく、書き置き一つで飛び出したやり方が正しいとはこれっぽっちも思っていなかった。
 (少しやりすぎたかな?)
 ソアラは決して再会の時を楽観していたわけではない。我が身を呪うような嘆きに彼女の胸中に渦巻いていた不安を知った百鬼は、自嘲気味な笑みを見せてゆっくりと近づいた。
 「ソアラ。」
 息づかいが感じられるほど近くで、ソアラの隣にしゃがみ込んでそっと手を掛ける。
 「ごえんなさ___ごめうあ___」
 彼女はまだ謝り続けていた。涙でグチャグチャになった顔で、嗚咽を入り混ぜて、謝った。百鬼は小さなため息をつき、そっとソアラの髪に手を通す。
 「らしくねえぞ。少しは反論しろ。」
 「だっひぇ___だって___」
 「心配するな。俺もリュカもルディーも、おまえのことが好きなのは何も変わってない。」
 そのままそっと頭を抱いてやる。すると彼女の中で関が切れた。
 「うわあああぁぁ!」
 別れてからまだ一年も経っていない。それなのに、この懐かしさは何だろう。この暖かさは黄泉のどこを探しても見つからない。いや、鋼城でソアラを救った光。父と母の温もり。百鬼に抱かれるのにはそれと同じだけの暖かみ、優しさ、愛がある。
 いや、同じじゃない。彼の方がずっと___
 「おまえは俺のことが好き?」
 ソアラは頷いた。彼の胸に顔を押しつけて何度も何度も頷いた。

 「そうか、やっぱりアヌビスは生きてたのか。」
 「うん。」
 ルディーのベッドを前に椅子を並べて座る二人。手を取り合って離さない姿にほほえましさを抱きながら、フォルティナも会話に耳を傾けた。
 「あいつも冥府に帰ったのかな。」
 「それは分からないけど、あたしが知ってるアヌビスはそんなに安直な奴じゃないわ。」
 「ってえと?」
 涙が枯れ果てるとソアラはようやく落ち着きを取り戻した。が、まだ少し虐めただけで泣き顔になってしまいそうなほど不安定。それでも顔を上げ、笑みを見せるゆとりを取り戻しつつあった。目の周りは真っ赤だが。
 「冥府を動かして責める。確かに大胆なやり方だけど、本気だったらもっと容赦しないと思う。アヌビスはきっとまだ黄泉に残っているような気がするんだけど___あ〜、なんだか気が動転しちゃってうまく話せないな。」
 自嘲気味に笑うソアラ。
 「ならそういう話は落ち着いてからにしようぜ。俺はちょっと帝さんの様子を見てくるから。」
 そう言って百鬼はソアラの手を離した。
 「ならあたしも___」
 「おまえは駄目。ルディーの側にいてやれよ。」
 「___そうね!」
 ようやく見せた屈託のない笑み。涙が全ての蟠りを洗い落としてくれたのだろう、ソアラには晴れ晴れしささえ感じられた。
 「そうそう、その笑顔こそソアラだぜ!」
 「ぎっ!?」
 気合いを付けるつもりで、百鬼はソアラの背中を叩いた。だが左肩を痛めているソアラの体には火花が出るような衝撃が走る。そして___
 「なにすんのよ!」
 平手で百鬼の太股を思いっきり引っぱたいた。乾いた音が響き、百鬼は思わず飛び上がった。
 「く〜っ!だいぶおまえらしくなってきたな!」
 「人をじゃじゃ馬みたいに言わないで!」
 「その調子だって事だよ!」
 足をさすりながら、それでも百鬼はにこやかに部屋を出ていく。ソアラも左肩の痛みに顔をしかめながら、落ち着いてくると笑顔に変わっていた。
 「フフッ、なんだかおもしろい関係ですね。」
 「えっ!?」
 熱い熱い二人の世界。側でフォルティナがクスクスと笑っていることには気づかなかったようである。

 「さて、どうしたもんか。」
 竜神帝の元へと言った百鬼だったが、あの負傷で帝が謁見の間にいるとも思えない。廊下を進むうちにそう気づいたものの、他に目指す場所も知らなかった。
 「百鬼!」
 と、向こうからミキャックがやってくる。長身美顔でスタイル抜群、ただでさえ目立つ彼女だがさすがに黒い翼なのは違和感がある。
 「久しぶり。なんだかなぁ、その翼はイメチェンか?」
 翼にばかり目が向くのも仕方のないこと、百鬼は彼女の焦燥に気づかなかった。
 「そんな話してる場合じゃないんだ。ソアラは?」
 談笑にも取り合わず、慌ただしく尋ねる彼女に百鬼も真顔を取り戻す。
 「どうかしたのか?」
 「教えて。」
 「今は駄目だ、子供たちの側にいさせたい。帝さんの事だったら俺が代わりに聞いてやる。」
 百鬼の断固とした態度には強い意志が滲む。短い逡巡を経て、ミキャックは頷いた。
 「こっちよ。」
 「悪いな。」
 辿り着いたのは竜の庭園。城の中なのに、草木も水も生き生きとしている空間。そこはソアラがはじめて竜神帝と出会った場所でもあるが、状況は一変していた。
 「酷いもんだな。」
 竜神像が破壊されたことで城が取り込める光が激減し、庭園も夕闇のように暗い。美しい造形の石像もそこかしこで倒れ、砕けている。水にも土の濁りが混ざっていた。
 「早く。」
 「あ、おい待ってくれ。」
 あまりの有様に呻いている彼をそのままに、ミキャックは庭園を奥へと進む。百鬼は思い詰めた様子の彼女に違和感を覚えながら、後を追った。確かに黄泉から帰っていきなり「これ」では辛かろう。しかし庭園の汚れに何の感傷も抱かない態度を見ると、悩みのわけはもっと深いところにあるようだ。
 「ご苦労。」
 庭園の奥には扉があり、番兵が二人ほど立っていた。だが不思議なことにそこにあるのは扉だけ。壁や小屋があるわけでもない、石畳の上に扉が立つだけだった。百鬼は知らないが、その様は鵺の扉によく似ている。
 「これは?」
 「帝の寝室。」
 「は?」
 彼が呆気にとられている間にミキャックはノブに手を掛けた。
 「うっ!?」
 扉が僅かに開くと目映い輝きが百鬼の目を打った。隙間から漏れる光は庭園にも彩りを広げていく。
 「なんだこの光は!?」
 「入って。大丈夫、モンスターでもなければすぐに目が慣れるから。」
 ミキャックは彼の腕を取って光り輝く扉の中へ。引かれるままに進み、彼女が立ち止まると百鬼は少し苦労しながら目を開けた。
 「!?」
 そこは光り輝く部屋。ヘル・ジャッカルの山頂にアヌビスが設けた闇の部屋、それと対をなすような場所だった。その目映さ、暖かみに一瞬の居心地の良さがある反面、やはり光は刺激だ。あまり落ち着ける空間ではない。百鬼はキョロキョロと辺りを見回し、正面の台座に横たわる幼竜に気が付いた。
 「帝さ___」
 「静かに、今はお休み中よ。」
 ミキャックは口元に指を立て、声を遮った。
 「お休みっておまえ。」
 状況が今ひとつ飲み込めない百鬼は困惑して苦笑する。
 「ここは帝の寝室、でも実際は治癒室と言った方が良いわ。」
 竜神帝は尾で鼻面を隠すようにして、丸まって眠っている。しかし固く閉じられた瞼には強ばりが感じられ、穏やかではない。
 「さっきの___黒麒麟との戦いで帝は深い傷を負った。それこそ一つ間違えば息絶えていたほどの重傷。だからここで治癒することにしたの。」
 「この光は?ここはどこなんだ?」
 「ドラゴンズヘブンの中心よ。ドラゴンズヘブンは天界の中心であり、同時に天界の光の源となる場所でもある。ここには多くの光が集い、またこの島から多くの光が放たれるわ。」
 それはすなわち、天界の核と言っても良いのかもしれない。
 「ここの光は帝に癒しの力を与えるのよ。」
 百鬼は足音を忍ばせて竜神帝に近づいてみる。横に回り込むと、痛々しい背中の傷、失せてしまっている片腕片足がはっきりと分かった。ただどの傷も朧気に光り、少しずつだが治癒が進んでいた。
 「酷いな。」
 「冥府の侵攻で天界そのものの光の力も弱くなっているから、回復までにはかなり時間がかかるかもしれない。」
 「でもあの時の帝さんの気持ちは分かる。いくら自分が戦う力を失ったって言ったって、部下があんな仕打ちを受けたら黙っちゃいられないさ。ただ、相手の攻撃を受けてばかりなのは歯がゆかった。何か考えがあったんだろうけど。」
 「___」
 ミキャックは押し黙った。その考えは黒麒麟と竜神帝、いやレイノラとジェイローグの関係に拠るところだと彼女は知っている。そして黄泉にいる間、彼女は黒麒麟に揺れ、帝に僅かでも疑念を抱いた。
 だが今の帝の姿を見る限り、黒麒麟の語った歴史が全て真実だとは信じられない。
 竜神帝がレイノラを裏切り、翼無き天族を滅ぼしたなんて___
 「それで?なんで俺___じゃねえや、ソアラをここに連れてきたかったんだ?」
 「ああ、出て話そう。」
 二人は光の部屋を後にする。残された竜神帝がほんの一度だけ瞼を上げたことには全く気づかなかった。

 「なんだって!?」
 百鬼の声が寂しいほど静かな庭園に響いた。庭園内、二人は石造りのテーブルを挟んで座っている。
 「ドラゴンズヘブンが飲まれたら天界は終わりなんだよ。この島が失われれば、天界が持つ光の力は激減する。あたしも色々聞いてこちらの事情は把握しているつもりだけど、多分冥府のスピードは光の力が弱まれば弱まるほど早くなる。もしドラゴンズヘブンが飲み込まれれば___」
 ゾッとする。百鬼は冷や汗を感じた。どうやら知らない間に崖の瀬戸際まで追いつめられていたらしい。
 「俺は天界の地理はよく分からないが、冥府は昨日シュバルツァーを飲み込んでいる。しかもトーザスが言うにはさらに加速してるって話だ。」
 「ドラゴンズヘブンに迫るまでもう時間がないわ。それこそ明日にはここから見えるかもしれない。ならどうするか?帝があの状態じゃあたしたちが何とかするしかない。だからソアラに相談したかったんだ。」
 「何か考えはあるのか?」
 「___ないことはないんだけど、強気にはなれない。」
 ミキャックは深いため息をつき、テーブルに半身を擡げた。流麗な金髪と黒い翼が力無く揺らぐ。
 「なんだよ。」
 気怠そうに顔を上げ、憮然とした百鬼と目を合わせるとまたテーブルに突っ伏す。短い沈黙を経て、ミキャックはくぐもった声で続けた。
 「竜神帝が対峙していた女性、あの人は帝の昔の恋人、しかも女神なんだ。」
 「は!?」
 突飛な話しに百鬼は唖然とする。だらしなく開いてしまった口を勢いよく閉じ、同時にミキャックもゆっくりと姿勢を戻した。
 「名前はレイノラ。でも黄泉では黒麒麟と名乗っている。」
 「詳しいな___」
 「___黄泉で世話になったから。」
 ささやかな迷い、憂いと翳りが滲む横顔。百鬼はミキャックとレイノラの関係を気にしながらも、声を飲み込んだ。
 「彼女は帝を恨んでいる。」
 「何で?恋人だったんだろ?」
 「彼女が言うには昔の天界にはあたしみたいな翼のある天族と、そうでない天族がいて、天族同士の争いがあったんだって。」
 それは天界の負の歴史。
 「翼を持つ人々は帝を愛し、翼のない人々はレイノラを愛していた。それが争いの要因になっていたから、悲しみに暮れた彼女は天界を竜神帝に託し、自らが黄泉に去ることで事を諫めようとした。でも帝はレイノラが去った後、島もろとも翼無き人々を滅亡させた。」
 ミキャックは竜神帝を信じている。しかし黒麒麟との間で揺れているのも確かだ。帝を信じられるだけの決定打、後押しが黄泉にはなさ過ぎた。レイノラの影響を受けたソアラにもなかった。だから謹厳実直な百鬼に、「なにをいってるんだ!」と浮ついた自分を正して欲しかった。
 「彼女を突き動かしてるのは怒りと憎しみなんだ。あたしもその話は凄くショックだったし、帝を問いつめたいとも思った。でも今の帝の姿を見ると、やっぱり間違ってるんじゃないかって___」
 「間違ってねえよ。」
 しかし彼の言葉は辛辣だった。
 「帝さんが滅亡させたのは確かだし、そうなっちまったことを悔やんでいた。」
 「本当なの___?」
 そう問いかけるミキャックの声は震え、陽炎のように儚い。テーブルに置かれた不橙火虫の光が徐々に潤む彼女の瞳を照らす。
 「だが今の話で大体のことが読めてきた。帝さんはそのレイノラを説得して冥府を止めるつもりだ。」
 「あたしもそう思っていた。あの人はまだ天界に未練を残しているから___」
 それはあの青空の絵が証明している。天界への強い帰巣の力が込められた絵が。
 「でも彼女は無抵抗の帝を相手に本気で命を奪おうとした。だから強気になれないんだ___」
 思い悩む彼女は俯き、ビロードのように煌めく髪が顔を隠す。煮え切らないその姿は、レイノラを信じるがゆえに手を拱いている竜神帝と重なるものがあった。
 ドンッ!
 「なんだか腹が立ってきたな。」
 その煩わしさを断ち切るように、百鬼は力任せにテーブルを叩く。驚いたミキャックが顔を上げると、弾みで涙が零れた。
 「帝さんがもたもたしてる間に大勢の天族が死んだ。トーザスは片目を潰し、ラゼレイは生死の境を彷徨い続けている。ルディーだって目を覚まさない。レイノラ一人引き込めれば他の連中はどうなってもいいってのか?」
 「でも確かに彼女の力を借りなければ冥府を止めるのは難しいと思う。帝は力を捨ててしまっているから___」
 「それだよ!俺が腹が立ってるのはそこなんだ!」
 もう一度、百鬼は一段と強くテーブルに拳を打ち付けた。ランプが倒れ、開いた蓋から不橙火虫がユラユラと飛び出す。
 「帝さんは力を取り戻す方法を知っているんだ!力さえ取り戻せば冥府を押し返すこともできると言っていた!」
 「___」
 その言葉を聞いた瞬間、ミキャックは硬直した。声が出ないまま唇が少しだけ動き、やがて瞳に力が舞い戻る。それこそ眼差しが強ばるほどに。
 「それ___本当?」
 「本当だ!帝さんから聞いたんだから間違いない!」
 ミキャックは席を立つと強引に百鬼の腕を取る。
 「お!?」
 「来て!」
 百鬼は腹立たしさの原因をうまく言葉にできなかったが、ミキャックの胸中でそれは明確になった。
 (凛様に誠意を見せるためにあえて力を取り戻さずにいるのなら、それはとんでもない愚行だ!そんなの___あの方は望んでいない!)
 黒麒麟の怒りは一枚岩ではない。我が身も省みず、天界を滅ぼす気で掛かっている相手に無力で対峙するなんて馬鹿げている。ましてそのために多くの天族が命を失った。
 そんなの誠意じゃない。彼女の心をさらに傷つけるだけだ。
 多くの天族が死に逝く様をおまえはただ傍観しているだけなのか!___と。

 「ここは___?」
 ミキャックが百鬼を連れてきたのはとある部屋。重厚な扉の向こうにはシックな木製のテーブルと、それを取り囲むように本棚が並ぶ。
 「帝の書斎だよ。」
 「書斎?」
 「帝は天界の歴史を記録者でもあるの。記録を紐解けば、全てが分かるはず。」
 竜神帝の記録。そこには「負の歴史」も、その後彼がどんな行動を取ったかも、全てが記録されているはずだ。たとえ誰も知らない出来事であっても史実には変わりない。ならば帝はきっと記録を残している___ミキャックの閃きだった。
 「なるほど、そうと分かれば早速。」
 納得の様子で一つ手を叩くと、百鬼は本棚の前へ。
 「って、駄目か。」
 しかし背表紙に記されているのは天界文字ばかり。百鬼はばつが悪そうに頭を掻いた。
 「そっちじゃないよ。」
 一方でミキャックは本棚に目もくれず、部屋の中心に位置するデスクへ。構わずに引き出しを開けると、中から白液の入った小瓶を取り出した。
 「なんだそりゃ?」
 「光の滴。光の力を溶け込ませた水さ。」
 蓋を開けると白い光が拡散する。決して強くはないが、その水は確かに輝いていた。ミキャックはデスクにあったインク壺の蓋を開けると、その中へ滴を垂らす。すると黒いインクがたちまち白に変わった。
 「この滴に込められているのは帝の力。」
 インク壺から光の柱が立ち上る。天井に小さな窪みがあり、そこに光が差し込むと異変はすぐさま起こった。部屋の突き当たりにある本棚が仰々しい音を立てて持ち上がり、現れた石壁に亀裂が走ると勢いよく奥手へと開いた。
 「へえ、凄いもんだな。」
 百鬼は興味津々の様子で小瓶を受け取ると、上から下からと眺める。
 「うわっ。」
 彼が光を目に当てて呻いているのもそこそこに、ミキャックは奥へと足を進めた。百鬼は目を擦ってから瓶の蓋を閉め、後を追った。
 本棚の裏から続いていたのは螺旋状の階段。城から光が失われていることを差し引いても暗く、階段そのものも急でかなり危ない。
 「今思うとなんだけど。」
 声だけは良く響いた。
 「ああいう道具は、帝が力を封じる前に作ったものなのかもしれないわ。」
 「へ〜。年代物ってわけだ。」
 「あっ、なに持ってきてるの。」
 百鬼がポケットから小瓶を取り出すと、辺りに朧気な光が広がる。
 「後で返すよ。」
 「もうっ。」
 「怒ったの?意外に可愛いじゃん。」
 その言葉にミキャックは立ち止まり、ふてくされた顔で振り返った。
 「___サザビーみたいなこというのね。」
 「え?」
 妙な沈黙が流れる。それがミキャックの胸を気恥ずかしさでいっぱいにした。
 「なんでもない!」
 「わっ!?」
 後ろを歩く百鬼の顔を翼で叩き、彼女は小走りで階段を駆け下りていった。
 (何言ってるんだあたしは!あいつのことなんて全然関係ないのに!)
 心で己を叱責するその顔は真っ赤。なにはともあれ階段が暗くて良かった。
 「なんだありゃ?」
 そしてライほどではないにせよ鈍感な百鬼が相手で良かった。

 竜神帝の奥書斎。そこに眠るのは膨大な天界の記録。そして偉大なる一族の記録。神のみぞ知る出来事が、人の一生で読破できるか定かでないほど記されている。
 「凄いな。」
 百鬼は天井を見上げた。まず驚かされたのが天井の高さだ。先程の書斎から下った螺旋階段、その分の高さがある。下からではランプの光も満足に届かない。そして並ぶ本棚も天井に届くほどの高さ。まるで巨大な針葉樹の森に入り込んだような感覚だ。
 「いくら飛べるからって、これは高過ぎだろ。」
 「そうでもしないと収まらないんでしょ。記録はこれからも増え続けるんだし。」
 確かに空っぽの本棚もある。だがそれにしても莫大な本の量には圧倒される。
 「そこのテーブルで待っていて、記録書を持ってくるから。」
 「いつ頃の話か分かるのか?」
 「私が読んだことのある天界の歴史書にない時代を探せばいいのよ。きっとすぐに見つかる。」
 ミキャックの推測は当たった。天界で一般的に扱われている歴史書、その中で空白になっている時代がある。それはおよそ千三百年前。不思議なほどにぽっかりと空いた空間、しかもその前と後ではあったはずの都市が無くなっていたりと、世界の様相が変貌する。
 鍵はここにある。アヌビスが生まれる幾ばくか前の時代に。
 「見て、この表紙。」
 それは全ての歴史書がそうだった。皮で作られた表紙、そこには竜の姿が。そして裏表紙には、麗しき乙女の姿が。
 「帝とレイノラか。」
 ミキャックは頷いた。分厚い書物を開き、肝要な場所を探して目を通していく。マジェニア、ヴィニアという見慣れない言葉に戸惑いを抱きながら。
 「___」
 暫くするうちに彼女の動きが止まった。ページを捲ることなく、酷く深刻な面もちでごわついた紙面を睨み付けている。
 「見つけたのか?」
 変化に気づいた百鬼が尋ねた。
 「___うん、見つけた。でも結構手応えがありそう___読み終わったら内容を話すからどこかで時間を潰しててよ。」
 振り返って笑みを浮かべたミキャックだが、頬は明らかに引きつっている。葬られた歴史を暴くことへの緊張感が滲んでいた。

 一つ、一つ___ミキャックはじっくりと綴られた言葉に目を通し、時折息を飲む。心を静めるように胸に手を当てる。そしてこの世界で唯一、古の歴史を知る天族となる。
 霧に隠れた事実。
 ちぐはぐな二人の神。
 竜神帝の力の行方。
 動かない彼、怒れる彼女___
 全ての疑問が確信に変わる。
 ミキャックの心からは惑いが消え、何をどうするべきかの答えを知る。
 答えは、彼女を強くした。

 コツコツ___
 「お?」
 天族らしい軽い靴音を聞き、百鬼はデスクに突っ伏した体を起こす。ソアラの元に戻ることもできたが、彼は書斎で微睡みながらミキャックを待っていた。
 「読み終わったみたいだな。」
 現れたミキャックの面持ち。帝とレイノラの間で揺れ、冴えなかった彼女の顔つきが変わっていた。
 「うん。」
 真実は心の混沌をかき消していた。




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