3 宵闇の裁き
「なんだかしらねえが邪魔しやがって。」
目の前に現れたひと味違う男の姿を睨み付け、迅は苛立った様子で言った。
「まあ、すぐに片づけて___ぐぇっ!」
殺意の滲む笑みを浮かべて男に近づこうとする迅だったが、上半身裸なのに襟を引っ張られたような息苦しさが走った。
「なにしやがんだ!」
体の黒い紋様が蠢いたのを感じ、迅は振り返って黒麒麟に怒鳴りつける。だが彼女の顔つきが今までとは比べ物にならないほど凍り付いていたので、それ以上の言葉は出なかった。
「役目ご苦労。あとは向こうで好きにしていろ。」
「うおっ!?」
突如として迅の体は彼の意志に反し、一直線にドラゴンズヘブンへと飛んでいく。黒麒麟がジェイローグと呼んだ男は、島へ放り込まれる猛犬に一瞥もくれなかった。
「気にはならないのか?あれはおまえの愛するヴィニアを皆殺しにするぞ。」
ジェイローグは答えない。ただまっすぐに黒麒麟を見つめていた。彼女も冷静ではいる、だがジェイローグの口が動くのを待つほど我慢強くはいられなかった。
「人の命なんて大したものではないか?」
嘲るような笑みも不意にされ、黒麒麟の目つきは一層鋭さを増す。
「何も語らない___言い訳の一つもないのか。空を食いつぶす冥府を止めようともせず、私の声にも口を開かない。それがおまえの答えか?」
膨れあがる殺気。それは禍々しい力となって大気を揺さぶり、彼女の周囲に黒い炎のようなものを散らす。
「___」
なおも答えのないジェイローグ。ただまっすぐに黒麒麟を見つめる。その眼差しがまるで哀れんでいるようだったので、彼女はギリリと奥歯をかみしめた。
「ローザ、しっかり。」
トーザスたちをドラゴンズヘブンに運んだ黄金色の輝きは癒しの魔力に満ちあふれていた。地に足を着く頃にはすっかり傷の癒えていたトーザスは、意識朦朧とするロザリオに呼びかけていた。
「う___」
「ローザ。」
ゆっくりと目を開けるロザリオ。その視界にトーザスの顔が飛び込んでくると彼女は驚いたように目を見開いた。
「なにするのよ!」
慌てて彼を突き放そうとする。しかし腕に走った激痛に顔を歪め、トーザスに抱き留められたまま身を縮めて呻いた。
「治癒の魔力でも捻られた腕までは元に戻っていないんだ。無理しちゃいけない。」
「離してよ___あたしたちはもう許嫁でも何でもない!あなたに助けられるなんてまっぴらよ!」
トーザスの優しい言葉にも、ロザリオの苛立ちは治まらない。感情をむき出しに互いの関係を吐露していた。
静かな庭園に彼女の声は良く響いた。さっきまでは多くの避難民がいた庭園には、いつの間にか二人しかいない。人々は潮が引いたように、少しでも遠い場所へ逃れたのである。
「僕は君を守る。今だって怖くて逃げたいけど、君に嫌われたまま逃げるのはやっぱり嫌だから。」
トーザスはそっとロザリオから手を離し、立ち上がる。その時、空から一人の男がやや乱暴に庭園に解き放たれた。
「ちっ!あの女、いつか目に物見せてやる___!」
迅だ。人々はこの悪魔から逃れるために庭園を離れたのだ。そしてロザリオもようやく状況を飲み込む。
「君は逃げて。その腕じゃ戦えない。」
彼女の前に立ちはだかるようにして、トーザスは黒麒麟を睨んでいる迅を見据えた。
「逃げるのはあなたの得意技でしょ。」
だがロザリオは構わずに、捻れた片腕をそのままにして立ち上がった。
「君は僕が殺されたって平気だろ?でも僕は君が殺されたら耐えられない!」
「平気だなんて、人を悪魔みたいに言わないで!」
「そういうことじゃなくて!」
「はい、そこまでそこまで。」
ささやかな言い争いをゆっくりとした拍手が止める。迅の引きつった笑み、額に浮き上がった血管が彼の気持ちを体現していた。
「さっきも言ったよな。そういうの見せられると腹が立ってしょうがねえんだ。」
迅が地を蹴る。冷や汗を滲ませながら、トーザスとロザリオはその手に魔力を灯した。
空。黒と白の対峙はなおも続く。
黒はその身に黒き波動を剥き出しにしているのに対し、白はただ空にいるだけ。
私はもっと感情の歯止めが利かなくなって、すぐにでも殺しにかかる。黒麒麟はそう思っていた。だが、ジェイローグが取り乱す素振りも見せず、あげく一言も発しない。それでいて彼女を見つめるまっすぐな瞳には引け目などなく、むしろ黒麒麟が沈黙して見つめ返すことに汲々とする部分さえあった。
「なぜそれほどまでに自信を持てる___」
自然と口数は多くなった。
「おまえは私を貶め、マジェニアを滅ぼしたというのに___なぜそれほど厚顔でいられる。」
肯定も否定もしない。ただ黙り続けるだけ。
「いい加減にしろ!おまえには私に言うことがあるはずだ!」
黒麒麟の語気が強まる。
「___」
「貴様___!」
怒りの増幅とともに激しさを増した黒いオーラ。その一端がジェイローグにまで届く。波動が彼の腕、頬などを撫でると、皮膚には小さな黒い染みが残った。
「抵抗もしないつもりか?おまえが私の闇に抗うことなど造作もないはずだ。」
「___」
なおも沈黙するジェイローグに、黒麒麟の表情が変わる。感情を消し、ただ冷徹に、その手を伸ばした。そして闇が迸る。青いキャンバスに黒い絵の具を走らせるように、無数の黒がジェイローグを襲った。
「___」
それでもジェイローグは動かなかった。体中に黒い染みを塗され、なおかつ黒麒麟の鋭気がそうさせたか、皮膚は所々裂け血を滴らせているというのに。
「貴様___」
憎々しそうに、黒麒麟が言う。
「私に殺されたいのか?それで罪滅ぼしのつもりか!?」
黄泉にいたときの黒麒麟とは違う。冷静さは長続きせず、彼女はまくし立てた。
「私は___私は貴様に天界の平和を託し、Gの監視のために暗黒の世界へと去った!人々を諫めるためには私が去るべきだった!だが貴様は___私を敬愛していたマジェニアたちを一人残らず葬り去った!こんな裏切りが許されると思うか!?」
「許されない。」
漸くだった。ジェイローグが口を開いたのだ。久方ぶりに発した声とは思えないほど、彼の言葉は明確だった。
「だが取り返すことも出来ない。それは私の過ちであり、私が永劫背負わねばならない枷だ。だがレイノラ___君には同じ枷を背負って欲しくはない。」
「詭弁を!」
「私の命で君の怒りが収まるのなら、君に捧げる。だが、人々を守るために冥府を止めてくれ。」
黒麒麟の苛立ちは目に見えていた。だがジェイローグは構わずに続けた。曲がることのない自分の意志を、態度と言葉で示すために。
「私は人々を守りたい。だが今の私には守る力がない。そして君の殺意を止める力もない。君の心を解きほぐし、力を借りなければ冥府を止めることは出来ないと思っている。」
「ふざけるな!」
怒りに呼応して、黒麒麟の髪が揺らめく。右の顔を頬まで隠す前髪に綻びが生じると、彼女が放つ黒いオーラは一層強まっていった。
「力を貸せだと!?冥府を止める力を持つのは貴様ではないか!それを___」
「私では無理だ。」
黒麒麟は音が聞こえるかと言うほど強く歯を食いしばった。
「よくもそんな口を___私の心を踏みにじるのも大概にしろ!」
それまではただ燻っていたに過ぎない。いや、歯止めが無くならないよう彼女も力を抑えていたのかもしれない。竜神帝が自分を納得させるだけの言葉を用意していると期待していたのかもしれない。だが、その心が不意にされた今、彼女の怒りは頂点に達した。
ゴオオオオ!
黒麒麟に大きな変化があった。それは前髪が逆立ち、隠れていた右の顔が露わになったときから始まる。白と黒が逆転している右目が露わになったときから___
「___っ。」
平静でいたジェイローグも微かに顔をしかめた。それほどまでに彼女の力は凄まじかった。
「もう十分だ。貴様の力は人を滅ぼすためのものでしかない!」
黒いオーラに銀の輝きが混ざり、黒麒麟の身体を覆い尽くす。長い髪は獅子のように大きく広がって揺らめいていた。
あからさまな変貌、だが目新しくはない。そう、もし百鬼がこの姿を目の当たりにしたなら思うことだろう。色は違えど___竜の使いに似ていると。
「ディオプラド!」
迫り来る迅に必死に距離を取りながらロザリオが呪文を放つ。しかし迅は素早い横移動で白熱球をやり過ごすと、爆煙を煙幕にしてロザリオへ急接近した。
ガギッ!
「なにっ?」
鋭い拳が分厚い氷を叩く。ロザリオの前にはトーザスが立ちはだかり、しかも氷結呪文で氷の盾を作り出していた。先程のディオプラド、狙いは迅の視界を惑わす効果。そして、氷の盾は武器にも変わる!
「ディオプラド!」
ロザリオはトーザスの肩越しに分厚い氷に触れ、その手を輝かせた。氷は瞬時にひび入り、猛烈な勢いで爆発する。破片は散弾銃に変わり、迅を襲った。
「くっ!」
だが二人もまた激しい爆発に弾き飛ばされる。この攻撃は諸刃の剣でもあった。
重なり合ったまま吹っ飛ぶ二人。しかしロザリオが大きく翼を広げると勢いは弱まり、二人の体は宙で止まった。
「トーザス!大丈夫!?」
爆破の瞬間トーザスの後ろにいたロザリオに大したダメージはない。彼女は後ろから健常な片腕でトーザスの肩を抱くようにして、翼の狭間からその横顔をのぞき込んだ。
「大丈夫。どってことないよ。」
トーザスは強がって見せた、しかし声がかすかに震えている。彼女の手を振り払うように地に降りようとしたトーザス。心配したロザリオはそれを追い越して彼の前へ回り込み、絶句した。
「!」
「なに、そんな顔しないでよ。これくらい大したこと無いから。」
「どこが___どこが大したこと無いのよ!」
ロザリオはすぐさまその手を白く輝かせた。トーザスは体中に氷の飛礫を食い込ませ、小さな傷をいくつも作っていた。しかしそのすべてを足しても余りある傷、それが右目からの激しい出血だった。彼は右手で目を押さえていたが、血と、見慣れぬ液体は指の間から滔々と溢れ出ていた。
「すぐに治療するから!」
ロザリオは力ずくでトーザスの右手を引きはがし、またも息を飲んだ。なんと悪い偶然か、悪戯な氷の飛礫はトーザスの右目を集中的に襲っていた。瞼は裂け、眼球は萎縮しきり、血の中に埋没していた。
「やっぱりこんな無謀な攻撃___!」
「でもあれくらいしないと勝てない相手なんだよ。自分が傷つくことを恐れちゃいけないってのは、百鬼さんとか、シュバルツァーのみんなの戦いを見ていて凄く感じた。それに、勇気を持って戦えば勝てるってこともね。」
ロザリオは泣き出しそうなほど顔をクシャクシャにして、それでもすぐに元の強い顔つきを取り戻し、手を輝かせた。
「僕、変わっただろ?」
「___馬鹿!」
ロザリオの知っているトーザスは酷く軽薄で、軟弱な男だった。
恵まれた環境に生まれながら、厳格な両親のもと自分を磨くことを忘れなかったロザリオ。同等の名家の出でありながら、そのぬるま湯に甘んじ続けてきたトーザス。許嫁として結ばれる縁を持ちながら、二人の気質は正反対だった。
ただロザリオも、彼がやるときはやる人だと信じていたし、何より優しい心根を持っていると感じていた。互いに年頃になり、許嫁であることも一層意識していた。しかし如何せん考えの甘いトーザス。近衛隊長を任された自分、一方で竜神帝付きでありながらミスばかりして怒られる彼、人望はあるが彼は笑われ者の範疇にあった。難しい仕事からは逃げ、すぐに誰かに助けを求めていた。
彼と結ばれることに疑問を感じていたロザリオ。自分を見つめ直す機会が欲しいと感じていたとき、修練のためにしばらく他島へ赴任する話を持ちかけられた。
「いいんじゃない?」
相談したトーザスの態度があまりに軽薄だったので、ロザリオは怒り、その日の内にドラゴンズヘブンを去った。だが離れてしばらくすると、張りつめた環境の中で彼の存在が一つの安らぎとなっていたことに気づいた。あの別れの時の軽薄さも、彼なりのエールだと。
ロザリオは結婚を心に決め、ドラゴンズヘブンに戻った。しかしトーザスは、事もあろうか別の女といちゃついている。やはりただの軟弱男だ!ロザリオは彼に決別を宣言し、赴任期間の延長を決めた。
再会はそれ以来だった。
「今こんなこというのもおかしいけどさ。最近、少し自分に自信がもてるようになったから言うよ。」
治療を受けながら、トーザスは微笑んだ。右の頬が引きつった無様な笑みに、ロザリオは痛々しさを感じた。
「今までのことはごめんなさい。でも君が許してくれるなら、この戦いが終わったら結婚しよう。」
「___」
ロザリオは少しだけきょとんとした顔をして、一瞬止まった魔力をまたトーザスの傷に注いでいく。
「ローザ?」
何も答えない彼女に、トーザスは問いかける。
「考えさせて。」
躊躇いがちに答えたその時、トーザスの顔つきが一変した。
「危ない!」
ロザリオを突き飛ばすと、彼の目の前にはいまだ燻っていた爆煙を突き破った迅の姿があった。彼もトーザスと同様に全身に傷を負っていたが、迸る殺気には一切の翳りもなかった。
「このおっ!」
下手に逃げては迅の思うつぼ。急所に食らえば一撃でも終わり。それを狙う時間を少しでも短くするため、トーザスは勇気を振り絞って攻めた。しかしそれはあまりに無謀だ。
迅はトーザスが放った拳を掌で受け止めた。その瞬間、トーザスの右手は内側で崩壊する。さらに迅は拳を掴んだまま飛び上がると、体を捻って彼の腰に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐぎっ!?」
吹っ飛ぶほどの破壊力だったが、拳を捕まれているトーザスの体は、その場でグンと肩まで伸びただけで地に崩れ落ちた。
「く___力が___!」
すぐに立ち上がりたい。しかし腰に全く力が入らなかった。
「トーザス!」
助けなければ!ロザリオはそれだけの思いで迅に食ってかかる。だが迅の拳は彼女を一蹴した。
「っ!」
まともならば到底届かない距離でも、己の関節を外せば可能となる。迅の拳は肘、肩をも無視したロケットパンチとなってロザリオを襲い、咄嗟に身を捻った彼女の右肩を痛打した。ロザリオは仰け反って倒れ、右腕は付け根が窪み、あらぬ方へ曲がっていた。
「おまえは後回しだ。先のこいつから始末する。」
立ち上がれないトーザスを見下ろし、迅は冷徹に言った。
「どうやらてめえは俺たちと戦うのが初めてじゃなく、しかもシュバルツァーだったか?あの島から来たって言うじゃねえか。」
彼は一つの確信を得ていたのだろう。隠し立てない殺意は一心にトーザスに向けられていた。多々羅の仇である彼に。
「決めた。てめえは全身をバラバラにしてはらわたぶちまける!」
助けたい!ロザリオの思いは叶いそうにない。彼女にしろ、トーザス自身にしろ、迅を止める術は全くなかった。もうあきらめるしかない状況だった。
ただ、偶然は時に正しき者に味方する。この時、二人が偶然を勝ち取った鍵はこの「場所」だった。
ドラゴンズヘブンでもっとも美しい空が見える庭園。
恋人たちが愛を高めあう場所。
恋人たちの思い出の場所。
そこから見える空は、あの淑女にとってもかけがえのない景色だった。
「あれ?」
俯せで倒れたまま動けないでいたトーザス。覚悟を決めて目を堅く瞑っていたが、いつまでたっても痛みがないのに気がついた。
「なに___?」
ロザリオも驚いていた。
「な、なんだこいつは!?」
だが一番驚いていたのは迅である。彼の腕の肘から先がない。放った拳はトーザスに届かず、突如として現れた黒に近い藍色の円に突っ込んでいた。そうすると、腕は円の中に埋没するように消えていた。
「ぐ!?」
円に飲み込まれた肘から先に四方八方から引き裂かれるような力を感じ、迅は面食らった。慌てて円から腕を引き抜き、大げさに宙返りしながら飛び退いた。それと同時に、円は大きく広がり空間に闇色の口が開いていく。そして___
「プハッ!」
まるで水中から脱するように、闇から人が飛び出してきたのだ。
「ふひ〜、死ぬかと思った。」
紫色の髪をした女。体を引き裂かれかけたか、ボサボサの髪をそのままに両肩をさする彼女の名は言うまでもない。
「あ、あなたは確か!」
「なにもんだてめえ!?」
「え〜!?誰!?」
が、彼女を知っている男トーザスは俯せである。
「く〜っ!はぁっ!」
遅れてもう一人、黒い翼の美女が現れる。彼女のことはロザリオも良く知っていた。
「レネ様!?」
そう、ソアラとミキャックである。晴れて二人は天界に戻ってきたのだ。
「限界じゃ!閉めるぞ!」
「ありがとう姫!」
闇の中から聞こえた「あの人」の声と短いやりとりを交わし、闇は唐突に消え去った。そしてソアラは正面に立つ迅を見つめる。
「___うまくいったみたいね。」
青空の絵、それに秘められた帰巣の魔力、そして榊に導かれ、ソアラとミキャックは黄泉からの生還を果たした。あの青空を描いたであろう庭園に。
「いいところにも出くわしたみたいだ。」
状況を飲み込むのに手間がかかるだろうと思っていた。だが正面から浴びせられる露骨な殺気で誰が敵かすぐに掴むことが出来た。
そして___
ゾクゾク!
まずソアラが、一瞬遅れてミキャックが震えた。そして空を見上げる。
「あれは!」
「凛様!?」
黒麒麟の醸す壮絶な波動に、ソアラは身の毛のよだつ思いがした。戦意をかき消されてしまうほど、黒麒麟の力は圧倒的。アヌビスが相手でもここまで臆することはなかった、そう思えるだけの存在感。黒く輝く彼女に近づいただけで体が闇に蝕まれ、傀儡と化す己の姿が目に浮かんだ。
「あの白い服の人は___」
「帝様!?」
「え!?」
その闇の女神に立ち向かう男、いや立ち向かうというよりはサンドバッグのように攻撃を受け続けている。まさかあれが竜神帝とは!
「レネ様!」
ロザリオの叫びに二人は我に返る。黒麒麟に気を取られているうちに迅が襲いかかってきていた。
「ちっ!」
迫る迅の拳をソアラは腕でガードする。
「ソアラ!ここは任せた!」
「えっ!ミキャック!?」
ソアラをそのままにミキャックは神の対峙に向かって舞い上がった。そしてソアラは___
「う!?」
迅の攻撃を受けた腕に違和感を覚え、素早い身のこなしで追撃をかわしながら後方へと飛んだ。
「ふん、こいつらよりは出来そうだ。」
その動きに迅が鼻息を荒らげる。
「!?___うそ!」
一方のソアラは手首の先でブラブラと垂れ下がる自分の左手に驚きを隠せずにいた。
「気をつけてください!そいつの攻撃を食らうと体の内側から壊されます!」
名前が聞こえて知った心強すぎる助っ人の登場に、トーザスの声も上擦る。
「なるほど___厄介な能力ね。って、その声はトーザスか!」
「頼みますソアラさん!僕たちを守ってください!」
「了解。先制パンチが効いたけど何とかしてみせるわ!」
ソアラはすっと腰を落とし身構える。ブラリと垂れた左手が情けないが、これしきでは追いつめられない。
「小賢しい。」
迅もそういうツンとした鼻っ柱をねじ曲げてやるのが大好きな男。ニヤリと笑ってソアラを睨み付けていた。
そのころ、神の対峙は再び一時の静寂を迎えていた。
「___」
だが、空に留まるジェイローグの姿は、静かだが凄惨と呼べるものだった。
「なぜだ___」
やりきれない思いが黒麒麟の顔を歪める。
「なぜ抵抗しない!」
ジェイローグの体、全身に黒い染みが蔓延っているのは言うまでもない。だが、目に見える傷も酷いものばかりだった。右腕は肘から先を、左足は膝から下を削ぎ取られ、胸には骨が露出するほどの傷口が開き、腹も醜く歪んでいる。それでもジェイローグは、可能な限り平静に、ただ黒麒麟を見つめ続けていた。
「私のためを思うなら抵抗しろ!ジェイローグ!」
それはもはや切実な訴えだった。かつての恋人、しかも無抵抗な相手を痛めつけること、怒りと躊躇いが激しい葛藤を繰り返している。
「それはできない。」
だがそんな彼女の混沌をよそに、終始一貫して不変のジェイローグ。ついには黒麒麟も見切りを付ける。
「___わかった。もういい、もう構うものか___」
一時は弱まった黒麒麟の輝き。しかしそれが再び沸々と力を増していく。彼女が葛藤に疲れるとともに、力は強まっていった。
「そうやって弄ぶのだな___私が貴様を殺した後、私の心を病ませるために。」
黒麒麟はジェイローグに向かってまっすぐに両腕をつきだした。その手先だけ、奇妙な印を結ぶようにして。
「ひと思いに消し飛ばしてやる___その方がお互いに楽だ!」
黒麒麟の体を覆い尽くしていた闇の輝き、それが突如として流れ、彼女の両手に集結していく。右目の白い瞳をカッと見開くと、闇の輝きは夥しいエネルギーとなる。
それは紛れもない破壊の力!
「さらば___宵闇の裁き!!」
黒麒麟が叫んだ瞬間だった。
「凛様やめて!」
ジェイローグの前にミキャックが割って入った。
「ミキャック!?」
「小鳥!?」
黒麒麟の手から放たれたのは、差詰め黒い竜波動。しかし力の絶対値はソアラとは比にならないほど巨大だった。それだけにこの力を制御するのは難しい。それでも黒麒麟は硬直する腕の角度を無理矢理ねじ曲げ、軌道を変えることに腐心した。黒い翼の彼女を巻き込みたくない一心で。
「危ない!」
ジェイローグは咄嗟に健在な左手でミキャックの体を引き、庇うように黒い波動に背を向ける。黒麒麟の意志に沿い、波動はその背中を掠めて矛先を空の高見へと変えていく。
そして、空の果てで行き場を無くした波動は壮絶に弾けた。
ゴオオオオオオ!
それは冥府がやってきたかと錯覚させるほどの凄まじさだった。轟音とともに空の高見を源に大気が揺らぎ、壮絶な圧力の波が一帯に降りかかる。
「くっ!」
ドラゴンズヘブン全体が揺れるほどの圧力にソアラも呻く。そして空には___あれほど青く燦々としていた空には、漆黒の絵の具が広がっていた。それはドラゴンズヘブンを覆い隠すほどの影を落とし、人々をさらなる恐怖に陥れた。
「帝様!ご無事ですか!?」
「大丈夫だ___」
ジェイローグの背中を掠めた「宵闇の裁き」。その破壊力の凄まじさ。掠めただけでジェイローグの背中は真っ赤に染まっていた。皮など残るはずもなく、赤い肉が血を纏い、惨たらしい蠢きを晒すのみ。さしものジェイローグも、声色から生気が消えかけている。
「凛様!もうおやめ下さい!」
「く___」
ミキャックの悲痛な叫びはこの戦いで何よりも効果的だった。黒麒麟の戦意が急速に萎え、同時に逆立っていた前髪が白黒逆の右目を隠すと彼女から黒い輝きが消えた。
「ええい!」
悲しげにこちらを見つめるミキャック。そしてその黒い翼。哀れみと忠誠心の同居に黒麒麟は限界を感じ、踵を返した。
(後ろ取った!)
呪文で牽制し、迅の背後に回ったソアラ。勝機を確信した彼女だが___
「えっ!?」
迅の腕に常識は通じない。体の構造を無視し、背を向けながらに放たれたストレートにソアラは不意を突かれた。それでも咄嗟に身を捻って、心臓に向かってきた拳を左腕に受けたのは大したもの。
「ちっ!」
「もらった!」
左腕に再度の違和感。怯んだ隙に迅が身を翻して襲いかかる。
「お?」
だが空中で彼の体はピタッと制止してしまった。
「おおおおお!?」
そして猛烈な勢いで空へと引っ張られていく。
「て、てめえ黒麒麟ふざけんな!後一歩のところで!」
迅の姿が見えなくなるまで、それほどの時間はかからなかった。
「___どういうこと?」
小首を傾げるソアラ。だがとりあえず危機は脱したようなので、ホッと胸を撫で下ろす。ミキャックが傷ついたジェイローグに肩を貸して降りてくる姿も見えた。
「久しぶりに帰ってきて、少しは安らぐかと思ったら___甘かったわね。」
ピクリとも動かない左腕を見て、ソアラは苦笑を浮かべた。休息を期待して帰ってきた訳じゃない。ただ、黄泉よりもシビアな状況に面食らっただけだ。
カラン___
もっとも、ソアラ以上に面食らっている男もいた。島の上に降り立った敵を倒すために、遅れながら戦場にはせ参じて、まさか武器を落とすほど驚くことになるとは。
「あ、百鬼。」
ソアラも振り向いて彼に気づいた。そして、自然とばつの悪い顔になる。一方の百鬼はただ呆然として彼女を見ていた。
「___お久しぶり。」
まっすぐ見つめることに負い目があったか、ソアラは少し俯いて、苦笑しながら申し訳なさそうに手を振った。すると百鬼は開いた口を勢いよく結び、険しい顔でツカツカと歩み寄ってくる。
「___」
そして互いの息づかいを感じられる距離でピタリと止まった。並々ならぬ気迫、力強い視線と険しい表情。彼の怒りを感じたソアラは怒鳴られることを覚悟しつつ、呟いた。
「ごめんなさい。」
その瞬間だった。
「え?」
がっしりとした腕が彼女の体を包む。きつく、少し息苦しいくらいに抱きしめる。言葉はいらない。片手を彼女の後頭部に宛い、互いの頬をつけあって温もりを確かめ合う。
「百鬼___」
別れたといってもあれから一年もたっていない。もっとお互いに冷静でいられると思っていたのに、ソアラの予想は外れていた。
「やだなぁ、髭がチクチクするよ。」
照れ隠しか、ふざけたことを言うソアラ。それでも構わずに百鬼は彼女を抱きしめ続けた。そして___
「もう___勝手にいなくなるんじゃねえぞ___」
耳元で一言。彼らしい、男臭い言い方だった。熱い男の滴がソアラの頬に伝わる。するとソアラも、自然と涙が溢れてきた。
「勝手にいなくなるんじゃねえぞ!」
強く抱きしめられると壊れた左腕が痛む。ただ、そんなものはどうでも良かった。
「うん___」
今はただ、互いの温もりを感じあう。それだけで良かった。
前へ / 次へ