2 誘い

 闇がシュバルツァーを食い進む。迅、多々羅、幻夢の攻撃にも何とか耐えた天界一巨大で堅牢な島は、あまりにもあっけなく冥府の餌となった。
 「___」
 冥府の中心の神殿。テイシャールが魔力を送り続けていた核に、もう一人手を触れる人物がいた。黒麒麟である。彼女が触れたことで、核はオレンジが黒を纏った焦げ茶色へと変わり、一気に加速した。敵の虚をつき、あっという間に最大の砦であったシュバルツァーを突破した。
 「不愉快だ___」
 しかし黒麒麟に笑顔はなかった。嘲笑さえもない、むしろ愚弄されたかのように口惜しげな顔をしていた。島の住民の多くは危機を逃れ、ドラゴンズヘブンの方角へと逃げおおせたことが不満だったのだ。
 (ジェイローグ___私を挑発しているのか?)
 苛立ちが黒麒麟の魔力を一層高め、核の黒みが濃くなる。すると冥府はさらに加速した。
 「失礼いたします、黒麒麟様。」
 シュバルツァーが全て飲み込まれた頃、カレンが核の部屋へとやってきた。
 「どうかしたか?」
 黒麒麟は核に手を触れたまま、そちらを振り向いた。
 「迅と申す男があなた様にお会いしたいと___」
 黒麒麟は眉をひそめ、目を閉じて小さく念を込めると核から手を離した。

 「いいから黒麒麟の所へ通せって言ってんだろうが!」
 「うっ!ぐああっ!?」
 核の眠る場所へ近づかせまいと立ちはだかる神殿付きの魔族をなぎ倒し、迅はなりふり構わず進んだ。
 「私はここだ。」
 その猛威は黒麒麟が彼の前に現れる瞬間まで続いた。彼女の姿を見ると、迅は手を緩める。それでもたった今まで掴まれていた魔族がまた一人、首をねじ曲げて倒れた。
 「てめえは___!」
 怒りに任せ、床を蹴った迅はその手を伸ばして黒麒麟に襲いかかる。だが彼女は微動だにしなかった。
 グンッ___
 迅の手が黒麒麟の首を掴む。それでも黒麒麟は何一つ変わらない。迅の指がしっかり首筋に食い込んでも、気に留めている風すらなかった。
 「多々羅が死んだ___その間てめえは何をしていた!?俺たちを駒に使って、のうのうと高みの見物か!?」
 迅が力を込めるから、彼女は少しだけ顎を上げる。しかし平静な目で、怒れる迅を見ているだけ。
 「答えろ!へし折るぞ!」
 「彼女の死は油断。それはおまえも含めてのこと。」
 その答えは彼の怒りを買うのに十分だった。迅は躊躇うことなく、その指先に電流を迸らせた!
 「慢心し、油断をするから敗れたのよ。答えはそれだけでしかない。」
 しかし黒麒麟は何事もなかったかのように言う。その声からは息苦しささえ感じない、まして彼女の首が折れ曲がることなど決してなかった。
 「怒り、恨み、憎しみは力となる。力は戦場で使いなさい。」
 迅の手が離れる。黒麒麟の肌には彼の手の後すら残っていない。残っていたのは迅の掌の黒だけだった。
 「てめえも戦え!」
 黒く染められた手を睨み付けて舌打ちし、迅は黒麒麟に怒鳴りつけた。
 「___いいだろう。」
 しばしの逡巡の後、黒麒麟は答えた。

 辿り着いたドラゴンズヘブン。
 ソアラはこの島に優美なイメージを抱いている。その様は竜たちが遊ぶ楽園と言ったところか。ただ、今のドラゴンズヘブンは優美とはほど遠かった。
 「ガジュアンからの避難民が来た!」
 「回復呪文の使い手が足りません!」
 野戦病院さながらの光景。冥府の侵攻が早まったことで竜神帝は慌ただしい対応を強いられていた。多くの島に直属の天族を飛ばし、竜の瞳でできるだけの人々をドラゴンズヘブンへと逃れさせていた。傷つく者、冥府の恐怖に心を病んだ者、いずれにせよ突然の危機に全ての人々が我を失い、嘆き、苦しんでいた。
 そしてドラゴンズヘブンに広がったのは地獄のような風景。
 唯一の救いはここが竜神帝の島であると言うこと。神に全てを託し、自分たちはただひたすらに生きることを思えばいい状況は、人々の心にささやかなゆとりを与えていた。
 「良くぞ無事であった___」
 しかし当の竜神帝は深刻な面持ちを崩すことができなかった。
 「ミゼルグェストのみならず、シュバルツァーでも獅子奮迅の働き、心より感謝する。おまえと子供たちがいなければ、ラゼレイもフォルティナも命を失っていただろう。」
 幼い竜の姿をした神は、水晶越しに見たときよりも遙かに大人びた顔をしていた。いや、深い悩みを抱えるあまりに老けた顔になっていると言うべきか。
 「状況は___かなりまずいってところか。」
 自然と百鬼の声も重苦しくなる。いつもなら謁見の間には近衛の天族たちがいるが、このところは天族どころか竜神帝すらいない日々が続いた。今も百鬼と竜神帝、二人だけである。
 「このようなことを言うべきではないと思うが、今の私には冥府を止める力はない。」
 「___」
 その言葉に百鬼はしばし沈黙した。彼も実際に迫る冥府を見て、大きな衝撃を受けた。妖魔たちだって、あの巨大な闇の前では物の数ではないだろう。ただふと思い出したのだ、以前水晶越しに話した帝の言葉を。
 「でも手はあるんだろ?策はあるって言ってたはずだ。」
 竜神帝は百鬼の目をじっと見つめる。幼竜らしくない鋭い眼光に百鬼は一度だけ唾を飲み込んだ。
 「分かった、おまえには話そう。」
 一度だけ髭を撫で、帝はゆっくりと口を開いた。
 「今の私は、単純な力比べではソアラにも片手で捻られるほどに弱い。それこそただの幼竜に過ぎない。それは私が本来持つべき力を捨てたからだ。ただ___私が真の力を取り戻せば、冥府を押し返すこともできる。」
 「ほ、本当よ___」
 冥府の凄まじさを目の当たりにしたからこそ、百鬼は竜神帝の言葉をすぐには信じられなかった。しかし神が「できる」と断言したことに偽りはないだろう。
 「ただし、過度の光は破壊をも生む。」
 そして、続けたこの言葉にも偽りはないはずだ。
 「___なんだって?」
 一瞬の空白ののち、百鬼は眉をひそめて問い直した。
 「私が冥府を押し戻すほどの力を発揮すれば、天界はいずれにせよ滅びの道を辿る。事実、私は過去に悪を滅するために放った光で、多くの島とそこに住む人々を滅ぼした。その出来事を悼み、私は過ぎ足る己の力を捨てたのだ。」
 百鬼は息を飲んだ。状況は全く想像できなかったが、凄まじさだけは伝わった。
 「策は確かにある。私は捨てた力を取り戻す術を知っている。しかしだ、迫る冥府を押し戻したとして天界が滅びていては意味がない。」
 帝はそこで話を終えた。驚きでしばらく考えの整理が付かなかった百鬼だが、かみ砕くうちに疑問が生じ、彼は腕組みをして眉間に力を込めた。
 「なぁ帝さん。確かにあんたの考えは分かった。それは理解できるよ。でもよ、冥府に食われて死ぬよりは帝さんの光に賭けてみたいって思うのが普通だぜ。違うか?」
 「___確かにな。」
 竜神帝もそれは分かっているのだろう、頷く仕草は実に淡々としていた。
 「俺が帝さんにこんなこと言うのはおかしいけど、その力を取り戻せるんだったらすぐに動くべきじゃないか?このまま冥府を引きつけたって死人が増えるだけだ。」
 「そうだな。だが、冥府を押し戻す方法にはより良い策があると思う。だから、私が力を取り戻すのは最後の手段にしたいのだ。わかってくれるか?」
 百鬼は険しい顔で首を捻った。
 「___ちょっと難しいな。」
 竜神帝には多少のあてがありそうだったが、百鬼は腑に落ちない様子だった。前線で多くの人々が命を落とし、冥府が急激に加速している状況では、彼には神の姿勢が暢気にしか見えなかったのだ。
 その頃___
 「あなたたちは竜の瞳の復元を急いで。」
 「はっ!」
 広いフロアの中央で、ショートカットの女性が仲間の天族たちに指示を送る。竜の瞳を持ってシュバルツァーにやってきたロザリオ・クレイ・ベルハースだ。凛々しい立ち居振る舞いは見る物の目を惹きつける。今も、通りかかったトーザスの視線を釘付けにしていた。
 「ローザ。」
 他の天族が散ると、トーザスは少しばつの悪そうな笑顔でロザリオに声を掛けた。互いに知らぬ間柄ではない気軽さで。
 「髪切ったんだね。」
 しかしロザリオが表情を崩すことはなかった。そればかりか颯爽と彼に歩み寄り___
 パンッ!
 「ふざけないで、こんな時に。」
 加減無しに頬を平手打ちした。辛辣な眼差しを残し、踵を返した彼女は早足で立ち去ろうとする。
 ドゴォォッ!
 その時、爆音を伴って城が大きく揺れた。いやドラゴンズヘブン全体が揺れたと言うべきか。さらにはあれほど光に満たされていた城の明るさに、翳りが生じたのだ。
 「こ、これは!?」
 突然のことに狼狽するロザリオ。彼女の頭上では爆音に紛れて天窓のガラスが砕けていた。
 「ローザ!」
 「!?」
 先に気づいたのはトーザスだった。ガラスの雨からロザリオを守ろうと翼を広げて床を蹴る。しかし遅れて危機を知ったロザリオは、たちまちその手を輝かせると頭上に向かって猛烈な風を放った。
 「気安く呼ばないで。あなたとの約束は終わったのよ。」
 散り散りに吹き飛ばされたガラスの破片。その一つがトーザスの頬を掠めて浅い切り傷を作った。そしてガラスの鋭敏さよりも鋭いロザリオの眼差しに、トーザスは空中でピタリと静止した。
 「隊長!」
 割れた窓から酷く慌てた様子で兵士が飛び込んできた。
 「何事だ!?」
 「こ、攻撃です!竜神像が破壊されました!」
 「なんだと___!」
 竜神像とは城の頂点に据えられた竜の像のことであり、城の明りはこれに差し込んだ光が城内で反射して作られている。ロザリオは慄然とし、兵士の元へと舞い上がった。
 「敵は!?」
 「定かではありません!」
 トーザスのことなど眼中にない。一瞥することもなく、ロザリオは割れた窓から飛び出していった。
 「ローザ___」
 窓から差し込む日の光にトーザスはロザリオの面影を思う。阿鼻叫喚のごとき外の喧噪に気づくのにはもう少し時間が掛かった。
 「また敵か!?」
 竜神帝との話を終え、百鬼が訪れていた部屋。そこでは傷の深いラゼレイ、魔力の喪失が激しいルディーが眠りに落ちている。激震にも目を覚まさない二人をよそに、百鬼は開いた窓から身を乗り出した。
 「そんな___シュバルツァーが襲われてから一日と過ぎていないと言うのに___」
 フォルティナは悲痛な面もちを浮かべ、死んだように眠るラゼレイの手を握った。
 「挨拶としては十分だろう。」
 ドラゴンズヘブンを遠くに見る空、仮面を付けた黒麒麟は淡々と言った。側には迅がいる。これまでは宙を舞うのに引石を使っていた彼だが、今の彼の足下に石はない。変わりにあるのは身体に刻みつけられた黒い紋様。右の掌から始まり、腕、胸、腹、背中、首筋を抜けて頬まで、漆黒の紋様が描かれている。
 「何でこんな焦れったい真似をする。さっさと上陸して片っ端から始末すればいいじゃねえか!」
 彼は黒麒麟の闇を身に宿すことで飛行に限界を感じなくなった。しかし___
 「ぐっ___」
 声を荒らげようとしても、口が動かない。
 「私の考えには口を挟むな。」
 黒麒麟に逆らえなくもなった。
 「島の上空で、やってくる者を人々に見せつけるように殺す。そうすることに意味があるのさ。私の目的が果たせれば自由にしてもらって構わない。ただ、それまでは付き合って貰うからな。」
 迅は苛立ちを隠さずに黒麒麟と視線を交錯させる。しかし額を一筋の汗が伝うと、目を背けた。
 「ちっ___わかったよ。」
 今までは考えもしなかった。ただの妖艶な美女としか見ていなかった。しかし今こうして戦場で目を合わせると、黒麒麟の放つ威圧感は迅さえ尻込みさせる凄みを秘めていた。それは格の違いか。なんにせよ、多々羅を失い、あげく強者の駒に成り下がった今、迅は牙丸の誘いに乗ったことを後悔した。
 「さあ、もう少し誘いを掛けるとしようか。」
 そんな彼の気持ちをよそに黒麒麟は右手を伸ばした。瞬く間に、黒い波動が掌から迸る!
 「っ!」
 リュカが身震いした。彼だけではない、眠っていたルディーも無意識に体を震わせた。ドラゴンズヘブンに再び激震が走ったのはその直後だった。
 「___」
 人気のない謁見の間では、爆音も、人々の悲鳴も一際良く響く。竜神帝は玉座で沈黙し、虚空を見つめていた。五本の見晴らし塔の一つが闇の波動に打ち砕かれ、傾き、倒れた。人々の命の昇華を肌に感じ、竜神帝は悲しみを押し殺すように辛辣な面もちで目を閉じた。
 闇が迸ると聞こえるのだ。
 ジェイローグよ出てこい___我が怒りを思い知れ!
 と。

 「敵は二人!蹴散らすぞ!」
 ロザリオを先頭に、十数人の天族が編隊を組んで黒麒麟たちの漂う空へと舞う。颯爽と飛び立つ様は、人々の心に勇気を与える。しかし、妖魔と刃を交えたものは別だった。
 「あれは___俺たちを助けた姉ちゃんか!」
 部屋の窓から転げ落ちそうになるほど身を乗り出し、ロザリオたちの姿を見つけると百鬼は舌打ちした。
 「ロザリオお嬢様はつい先日メルクラプリュという島から戻られたばかりなのです。あのお年、あの細腕で近衛隊長になられたのですよ。」
 部屋には騒動に怯えて女中が数人駆け込んできていた。その一人が百鬼の隣に顔を覗かせ、希望に胸躍らせた様子で言った。
 「ミキャックよりも強いか?」
 「いえいえ!あの方は別格です!」
 「だったら無理だ。ミキャックでもなけりゃ妖魔には太刀打ちできない。まして___」
 体を室内に戻し、振り返った百鬼はリュカの様子を気に掛けた。いつもなら血気盛んに戦おうとする子が、今はルディーの手を握って縮こまっていた。
 「俺の子供が怖じ気づくような奴が相手じゃな。」
 「そ、そんな___」
 女中は動揺を隠せない。それはロザリオへの信望の現れか、何にせよこのままじっとしているのは百鬼の肌に合わない。
 「どちらへ?」
 剣を手にした百鬼にフォルティナが尋ねた。
 「竜神帝のとこ。帝さんなら空が飛べるようになる道具でも持ってるかと思ってね。」
 百鬼は彼の身を案じるフォルティナの思いを振り払うように、白い歯を見せて笑った。見る物を勇気づける所作、それは彼の「魂」に秘められた力。リュカもまた父の光に触れ、怯えを振り払って立ち上がった。
 「僕も___!」
 「だ〜め。」
 しかし百鬼はニヤッと笑って我が子の頭を押さえた。
 「おまえはここにいろ。ルディーやフォルティナさんたちを守るんだ。」
 しゃがみ込んで強気の中にも不安が覗くリュカと見つめ合い、彼はまたニッコリと笑った。
 「良し、んじゃ行ってくる!」
 スクッと立ち上がり、リュカの頭を軽く叩くと百鬼は最後までにこやかに部屋を飛び出した。
 「お父さん気をつけてね!」
 「お〜!」
 リュカが廊下まで追ってきてそんなことを言う。それこそが今度の相手がただ者でないことを表していた。だからこそ、にこやかに振る舞っていても、百鬼の心中はそれほど穏やかではなかった。
 (リュカが怯えたのはアヌビスと会ったときだけだ。アヌビスクラスの奴がいるってことか___)
 ゾッとする。しかし状況は冷静に受け止めなければならない。
 (さぁて、生きて帰れるかな?)
 今度の笑みは少し引きつっていた。

 「ったく、不愉快だ。」
 迅は終始憮然として、空中で指を鳴らしていた。彼の背後の空では黒麒麟が悠然と城を見つめている。私も戦うと言いながら、結局は見ているだけ。彼女の態度に迅の苛々は募るばかりだった。ただ、苛々のはけ口はもうすぐそこにいる。
 「行くぞ!」
 ロザリオを頂点とした天族の編隊は迅に狙いを定めて急速に展開した。
 「ドラギレア!」
 滑空の最中もロザリオの両手には夥しい魔力が秘められていた。彼女は宙で急停止し、迅に向かって巨大な炎を放った。そして他の兵たちは炎の周囲を取り巻くように広がっていく。
 「かかれ!」
 兵士たちは己の体に氷結呪文の冷気を纏い、まだ炎が残っているうちに火中の迅へと襲いかかった。先手必勝!油断しているうちに大打撃を与えることが、勝ちへの近道。
 「ぐあっ!」
 しかし炎の渦から弾き飛ばされたのはロザリオの兵士たちだった。しかも二人足りない。
 「!」
 炎が消え去ると、ロザリオは息を飲んだ。
 「ふん。」
 最上級の火炎呪文を浴びたにも関わらず、迅は平然としていた。彼が左右の手に掴んだ男の体は惨たらしく焼けただれているというのに。
 「黒麒麟、腹の立つ奴だがこの黒い染みの効果は凄いな。」
 迅はふてぶてしい顔で己の体を見回した。炎は彼の体に宿った黒麒麟の闇に弾かれたのだ。
 「そ、そんな___」
 ロザリオは強い。彼女は名家の令嬢であり、天界でも知られる士官学校を首席で卒業した。戦いの技量に優れ、心も強靱___しかし少々視野が狭く、実戦経験には乏しかった。それ故に、予想外のことが起きたときの動揺も激しい。
 「俺はいま猛烈に腹が立ってるんだ。」
 迅が手を離すと、兵士の骸は黒い燻りを散らしながら空の果てへと落ちていく。その様を見ただけで、ロザリオの体は鉄棒でも植え込まれたかのように動かなくなってしまった。
 「それって、どういう事か分かるよな?」
 静から動へ。静かに語り終えたと思うと迅は敏速に動いた。
 ガクン___
 また一人、兵士の首が捻じ曲がった。彼は迅の接近に身じろぎ一つできなかった。生々しい死を目の当たりにした兵士たちに、もはや統制が保てるはずがなかった。
 「うあああ!」
 怒りか、恐怖か。最も近くにいた兵士が逆上して迅に襲いかかると、その場にいた全員の硬直が弾けた。
 「おおおっ!」
 「てやああ!」
 怒濤となって迅に襲いかかる兵士たち。乗り遅れているのはロザリオだけだった。ただ、それが彼女の寿命を少し延ばした。
 関節を破壊する迅の両手は、恐るべき破壊力を秘めている。ただそれが彼の真の強さではない。彼の強さは自身の関節が自在なところにある。
 「隙あり!」
 訓練の癖か、一人の兵士が迅の背後で剣を振りかざして叫んだ。捉えた確信があったのだろう。しかし、迅の右腕は肩の関節もお構いなしに背後に伸びて、剣を振りかざす腕を殴打する。
 「へ?」
 兵士はその時何を思ったか。振りかざされた腕はグニャリと捻れ、手にしていた剣は偶然にも己の首筋を深く切った。血飛沫は青い空にあまりにも映えた。
 「うおお!」
 兵士たちは挫けずに、迅の虚をついて襲いかかろうとする。だが彼にはそもそも虚がないのだ。絶対に避けられないタイミングを突くことが勝利への道。しかし、非常識な体の前にそれは意味を成さない。
 迅は軽やかだった、そして黒麒麟の要求通り魅せた。できるだけ派手に、惨たらしく、何より完膚無きまでに天族たちを葬り去る。ドラゴンズヘブンの人々を恐々とさせるには十分すぎる演出だった。
 「あ___」
 一分としないうちに、戦場で翼を持つものはロザリオだけになっていた。迅の視線がゆっくりと彼女に向く、すると気丈なはずのロザリオが露骨に震えた。
 「さ、次はおまえだ。目一杯派手にいたぶってやる。」
 「ふざけるな___」
 口はそう動いたが、声は出ていない。体も動かない。浮遊をやめることさえままならない。強気を崩さずにはいても、ロザリオは目前まで迫った迅の手に死の恐怖を体感していた。
 グッ___
 為す術のないまま左腕を掴まれたロザリオ。すぐさま尋常でない痛みが走った。
 「うあああああっ!?」
 ロザリオの絶叫がこだまする。ただの痛みではない、体を内側から切り刻まれているような感じたことのない激痛が左の肘で起こっていた。見れば彼女の左腕は肘を境に内外が逆転をしていた。二の腕までは普通なのに、真っ直ぐ腕を下ろせば親指は背中側を向いている。しかもそれでいて関節は外れていない。無理矢理かみ合わされていた。
 「人の体ってのは、神経っていう筋で物事を感じる。んで、こいつがじかに傷つけられるのが一番痛い。肘をぶつけただけなのに痺れるくらいに痛いときがあるだろ?今俺は、おまえの肘を外して捻ってくっつけた。腕の中で神経は骨に擦れている。どうだ?目から火が出るほどいたいだろ?」
 迅はそう言ってロザリオの肩を叩いた。そんな些細な衝撃でも今のロザリオには激痛となる。見ていられない___ドラゴンズヘブンで彼女に希望を託した人々は、皆顔を伏せ、耳を押さえていた。
 「酷すぎる___!」
 その頃、残虐な仕打ちに苛立ちを募らせ、百鬼は謁見の間へと急いでいた。
 「帝さん!」
 はやる気持ちを胸に駆け込んだ謁見の間。
 「帝さん?」
 しかし玉座は空だった。
 「あぐっ___」
 もはや意識朦朧として、双眼から涙を流すロザリオ。彼は迅の腕に抱かれてグッタリとしていた。肘に刺激を与えれば大きく痙攣して口を開けるが、もう声が出ない。
 「ご苦労さん、良い声だったぜ。」  
 役を果たしたと感じたか、迅は彼女を空高くに放り上げた。
 「ひと思いに殺してやるよ。」
 落下を見計らって腹を貫いてやろう。そう目論んでいた迅だが、空を駆け抜けた一陣の風がロザリオをかっさらった。
 「ローザ!しっかりするんだローザ!」
 トーザスだ。彼はロザリオの体を抱き、ぐったりと動かない彼女に必死に呼びかけた。城の兵士たちが敵のあまりの強さに尻込みする中、妖魔との対峙を経験したトーザスの体は躊躇いなく動いていた。
 「悪いなぁ、そういうの見せられると___」
 「!」
 だがロザリオの安否に気を取られすぎたか、顔を上げたトーザスの前にはすでに迅が回り込んでいた。
 「今の俺は無性に腹が立つんだよ!」
 迅の魔性の手が伸びる。逃れられない___そう分かればせめてロザリオを守るために背を向けるだけ。
 迅の拳がトーザスの背中を激しく打つ。その一つ一つが彼の体を破壊する。それでもトーザスはロザリオのことを決して離そうとしなかった。が、数発食らううちに翼から力が失せ、トーザスの体は支えるものを失ったように真っ逆様に自由落下を始めた。
 (体が___)
 体が痺れていた。翼の関節をはずされても、魔力があれば飛べるはず。なのに体が痺れ、精神の統一がままならない。空の底へと落ちることは止められそうになかった。せめてロザリオだけはドラゴンズヘブンに返したかった。
 「___」
 腕は痺れて離れない。でも、ロザリオをより強く抱きしめることはできた。彼にとってかけがえのない彼女を。
 「ん?」
 ロザリオを抱きしめ、目を閉じていたトーザス。しかし風の冷たさを感じなくなったことに気づき、呆気にとられて目を開けた。
 「あれ?」
 彼は黄金色の光の玉に包まれていた。そしてゆっくりと、ドラゴンズヘブンへと運ばれている。この光の感触、高貴で、穏やかで、暖かさに溢れた感触、トーザスは普段から遠からずの場所で感じていたことを思い出した。そして空を見上げたのである。
 「なんだてめえ?」
 突如として空に現れ、トーザスたちを光に包み込んで救った男。黄金の頭髪、力強い眼差し。端正だが華奢ではない面立ちには、強い意志と、気高さと、優しさが宿る。白いローブを身に纏い、日の光を浴びて彼は神々しく輝いているようだった。
 「出てきたな___」
 訝しげにその姿を見る迅の後ろで、仮面を外しながら黒麒麟が呟く。
 「ジェイローグ。」
 男の名を。




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