4 希望崩壊

 トッ___
 軽い足音を残し、この喧騒の中、フォルティナは城の頂上へとやってきた。そこはシュバルツァーの中で最も高く、最も見晴らしの利く場所である。
 「___」
 強い風が彼女の衣服を激しく揺さぶる。だが彼女は落ち着いた面持ちを崩さず、目の前にある巨大なラッパのようなものを見ていた。
 「音には音___トーザスのアイデアを信じましょう。」
 彼女はその手にヴァイオリンに似た天界に古くから伝わる弦楽器、パルニィトを持っていた。そして迷いを振り切って、弓を構えた。
 バーフェルヘイツが残してくれた「音」というヒント。トーザスは見晴らし塔から発せられる場違いな音楽のことだと気づき、それが混乱の根元だと考えた。だがそれでどうすればいいのか?見晴らし塔で曲を奏でる人物を倒すにも、そこに辿り着くまでに我を失うに違いない。だがトーザスは自信を持って言った。
 「こっちも音楽で対抗するんです。フォルティナさんのパルニィトで!それと___見晴塔の敵は私が倒します!」
 戦場と化したシュバルツァーに流れるメロディー。多々羅が奏でる扇情的な曲を、穏やかで優しい旋律が包み込んでいく。まるで毒を洗い流す聖なる雨のように、美しい音色は人々から血気を奪っていった。
 「ちょ___これってどういうこと!?」
 驚いた多々羅は鳴酌の手を止め、耳を澄ました。パルニィトの優しく良く響く音色。しかし彼女はその中に織り交ぜられたもう一つの音に驚いたのだ。
 「あたしの鳴酌と同じ___」
 パルニィトにも無意識に訴える音が混ざっていた。しかもそれは人の心を静め、穏やかにさせる波長。だが時折乱れもする。
 「でもこれを弾いてる奴は、きっとこの音が混ざっていることを知らない。だから時折意味のない調子を刻む___それだったらあたしがその音を使って混沌の曲を作るまでだ!」
 多々羅は再び、一層力強く鳴酌を奏で始めた。
 フォルティナが弾くパルニィトには多々羅の能力と同じ効果が秘められていた。ただそれは人の心を穏やかにする催眠術であり、フォルティナ自身も無意識で奏でているに過ぎない。ならば、どの音をどう組み合わせることで混沌の曲になるかを知る多々羅は、フォルティナと合奏して平穏の音色を混沌に変えることもできるのだ。
 そしてもう一つ、音の発生源が迅が向かった城だと言うことが彼女を安心させた。
 じきに、もう一つの音楽は迅の手で止められると___
 「これ以上は行かせない!」
 城門をくぐり抜けてすぐのところで、陣の前には十人を超える守護兵が立ちはだかった。
 「おうおう、次から次へと良く出てくるな。」
 怯みもしない迅の態度に守護兵たちは気圧される。
 「面倒だから簡単にすますぞ。」
 立ち止まりもせず、武装した守護兵に向かって真っ直ぐ進む上半身裸の男。
 「かかれ!」
 あまりに不気味だったが、守護兵たちは自分を信じて迅に襲いかかった。
 トトト___
 迅は風に揺れる柳のように、次から次へと襲いかかる剣を回避する。足や腰があり得ない角度に曲がる柔軟性は剣術のイロハを全て覆すものだった。そして彼はなおも前に進んだ。ただし兵士の身体に所々触れながら。
 「お大事に。」
 迅はにこやかに手を振って城を奥へと進んでいく。兵たちは追いかけたい衝動に駆られるが、身体が言うことを聞かなかった。
 「う!?」
 「そ、そんな!?」
 やられたことさえ気づかなかったのだ。ある者の手首はぶらりと垂れ下がり、ある者の膝は奇怪に折り畳まれ、ある者は首が捻れて後頭部が背中に付いていた。ほんの触れられただけなのに、守護兵たちは一瞬にして関節を外す迅の体術の餌食となっていた。
 その頃、ゲンペストライン上空で頭知坊とザキエルに遭遇した百鬼たちは___
 「ええい儂の邪魔をするなこの蜘蛛男!」
 「俺の獲物だぁ〜!」
 混乱した戦場から逃れられずにいた。
 「こう糸だらけでは手に負えぬ!」
 空中には大量の蜘蛛糸が揺らめき、それは辺り構わず空飛ぶ者の行く手を遮る。炎で焼き払うこともできるだろうが、あまりにも糸の量が多い。糸は翼竜はもとよりそれに乗る天族たちの身体にも大量に巻き付いており、炎が一気に広がればドラギレア以上のダメージになる。
 「ぬおお!」
 だが苦労しているのはザキエルも同じ。連れだったモンスターたちはことごとく糸に絡め取られて身動きもできず、ザキエルも苛立ちながら両手で顔にまとわりつく糸を振り払っていた。
 「おらっ。」
 自由自在に動き回れるのは頭知坊だけ。
 「あーっ!なにをしとるか!それは儂のモンスターじゃ!」
 「なぬ?」
 しかし頭は悪かった。
 「ええい!まず儂を助け出せ!どいつから始末すればいいか教えてやる!」
 「ん〜、どうするかなぁ。」
 「悩むな!」
 頭知坊は渋々ザキエルへと近づいていった。
 「こんなところで時間を取られてる場合じゃねえぞ!なんとかならないのか!?」
 百鬼はまとわりつく糸に苦労しながらも、焦れた様子でダイアンに訴えた。
 「一か八か炎を放つ___それ以外はないかも知れぬ。」
 「危険な賭か___」
 無駄に時間を費やしては後にも先にも最悪の結果しか残らない。ダイアンは覚悟を決めて、グライティエンルンの首を叩く___
 が、その手が赤竜の肌に触れる前に、予想外の出来事が起こった。
 ギュン!ギュギュギュン!
 戦場に光線が走ったのである。それは凄まじい魔力と熱を帯びて、蜘蛛の糸を溶かし切る!
 「な、なんだこりゃ!」
 「凄ーい!」
 百鬼とリュカも驚いて、空を飛び交う無数の光線を見やる。それに夢中になりすぎて、いつの間にか自分たちの身体が白い魔力に包まれたことに気づかなかった。
 「!?百鬼殿!それは!?」
 「え?」
 ダイアンの声で百鬼はようやく自分が白い輝きに包まれていると知った。なぜ違和感がなかったのか、その瞬間には分からなかったが、親近感のある魔力だったからかもしれない。
 「ヘヴンズドア!」
 実際、この声にも聞き覚えがあったのだ。だが百鬼が声の方を振り向いたときには、二人の身体は光の球体となって空の彼方へと飛び去っていた。
 さらに___
 「おろ!?」
 時間にして五秒もかからず、空に蔓延っていた蜘蛛の糸は光線によって千々乱れ、頭知坊の周りからも糸はすっかり消えていた。
 「ぬおっ!?」
 糸を使わずには空を飛べない頭知坊は側にいたザキエルに掴まった。
 「こ、こら!放せ!」
 頭知坊の重い体に引っ張られ、ザキエルは慌てた。飛行のために魔力を膨らまさなければいけない。が、その必要はなかった。
 「む?」
 ザキエルと頭知坊の身体は黒い魔力に包まれ、宙に浮いた。その発生源を上に感じ、ザキエルは見た。そこにいたのは、仮面を付けた銀髪の女___冬美だ。
 「勝手な事情で悪いが、消えてくれ。」
 「な、なな!?」
 「デモンズゲート!」
 ドンッ!
 大砲が発射されたかのように、ザキエルと頭知坊を包んだ魔力が高速で吹っ飛んだ。方向は下。天界の底なき空に向かって、二人を包んだ魔力の球はあっという間に見えなくなった。
 そして戦場に残ったのは、グライティエンルンとダイアン、天族たちを乗せた他の翼竜、百鬼たちと頭知坊たちを戦場から消し去った冬美、そして___
 「借りを返しに来たぜ。」
 新調した刀を握る女侍、竜樹。
 「いつぞやの___」
 「今度は負けねえ。もう一度勝負しろ。」
 竜樹はダイアンとグライティエンルンだけを睨み、言った。新しい刀はまだ柄がなく、その部分には厳重に布を巻き付けただけだった。それでも竜樹の手にはしっかりとフィットしているが、肝心の彼女の腕には生々しい傷跡がぐるりと一周残っていた。
 「今はそんな時間はない。」
 「だったら他の奴らを殺す。」
 簡潔だが、ダイアンを黙らせるには十分すぎる一言だった。
 「シュバルツァーには百鬼とリュカを飛ばした。戦力の補充にはなったはずだ。」
 さらに冬美が続ける。その言葉にダイアンは驚いたと同時に、訝しげな顔をした。
 「なんと___貴様らどういうつもりか?」
 「つもりもクソもねえ。俺はこの世界がどうなろうとしったこっちゃない、ただおまえに負けたのが悔しいだけだ。だからもう一度勝負がしたい。」
 竜樹は力強く言った。翳りなどない、正直者ならではの真っ直ぐな眼光に、ダイアンも息を飲んだ。しばしの沈黙の対峙を経て、ダイアンは口を開いた。
 「彼らを先に行かせてくれ。そうすれば対決を飲む。」
 その言葉を聞いた竜樹は思わず頬を緩めた。
 そして___
 「おまえを倒すのはこの俺だ。もしおまえが頭知坊にやられたら、俺は一生おまえに負けたままになる。そんなのは許せない。」
 「下らん。」
 他の翼竜たちが去ると、風吹く空に竜樹とダイアンの空間が生まれた。互いの緊張を妨げないよう、冬美は己の気配を殺して傍観者となった。彼女はダイアンが不意を付いて逃げるのではないかと警戒していたが、誇り高き竜騎士は微動だにしなかった。
 「下らないもんか、俺はおまえに親友を殺された。今日は敵討ちの日でもあるんだ!」
 竜樹は引石の上で、グッと腰を落とした。そしてダイアンも、グライティエンルンの首に手を触れて、じっと竜樹を睨み付ける。グライティエンルンもまた、主の意志を感じながら極限の緊張の中で竜樹を睨む。
 勝負は一瞬で決まる。竜樹の刀がグライティエンルンを切れるのか。食い止められれば、竜樹の負けだ。
 激突の合図は___グライティエンルンの翼の端に引っかかっていた糸が、風で飛ばされた瞬間だった。
 「ゴオオオオ!」
 「うらあああ!」
 放たれた巨大な火炎。しかし竜樹の刃はそれを簡単に切り裂いた。そしてグライティエンルンは牙を、背上のダイアンも槍を、そして竜樹は刀を煌めかせた。
 「___」
 冬美はその激突に固唾をのんだ。一瞬の交錯で入れ違った互いの身体。
 「っ___」
 刀を振り下ろした状態のまま、硬直していた竜樹の肩で血が弾けた。そして刀を握る右腕も、完治していない傷跡から血を噴いた。また腕ごと転げ落ちんばかりの勢いで。
 「___」
 ダイアンが握る槍、その刃には竜樹の服の切れ端と、血が付いていた。これが彼女の肩を抉ったのだ。だが、彼は誇らしげに振り返ることができなかった。それはグライティエンルンも同じである。
 ズ___ズズ___
 グライティエンルンの顔に筋が走る。そしてまず、輝かしい牙が綺麗な断面を残して落ちた。そして、口の両端から血を迸りながら裂け目が走り、それは頬から頭の後ろへと伸びた。竜樹の一撃は、グライティエンルンの頭を上顎と下顎の境で真っ二つに斬っていた。
 「見事___」
 そしてその直線上にいたダイアンの身体もまた、胸に真一文字の線を走らせ、血を噴き出して分断した。
 天界最強の翼竜と、最高のドラゴンテイマーはゆっくりと落ちていく。ただダイアンの身体は切り飛ばされようとも最後まで手綱を放すことはなく、グライティエンルンもまた、その翼を閉じることはしなかった。
 無限の空への墜落を見つめていた冬美は目を閉じて、そっと祈りを捧げた。
 (やり過ごすことだってできたはずだ。でもあいつらは俺に真っ向からぶつかってきた___)
 ダイアンとグライティエンルンに戦士の誇りを感じた竜樹もまた、最大の敬意を込めて祈りを捧げた。
 「竜樹、これで満足したか?」
 戦い終えて、一度ゲンペストラインに降り立った二人。冬美は竜樹の傷を治療しながら問いかけた。
 「ああ、満足した。これでもうこの世界では刀を振らない。」
 「勝手な奴め。だからってすぐには黄泉に帰れないぞ。」
 そう言って冬美は笑う。
 「いいんだよ。それを許さねえってなら、八柱神なんかやめてやる。なにがあったって百鬼との約束は守らなくちゃならない。」
 「百鬼か___」
 その名前に冬美が郷愁的な目をするのは仕方がないこと。しかし訳を知らない竜樹は小首を傾げた。
 「わっぷ!」
 その竜樹の顔に大きな葉っぱがへばり付いた。どうやら風で飛ばされてきたものらしい。
 「なんだか風が強いと思わねえ?」
 「そうだな___」
 強いだけでなく、風は全て正面から吹き付けている。まるで後ろに引っ張るように。
 まさか?振り向いた冬美は驚きで言葉を失った。
 「どした?うぇっ!?」
 竜樹も同じだった。
 「まさか___早すぎる!」
 冬美の言葉が全てを物語っていた。

 「ほう、ここが王の間かな?」
 一方、手向かう兵士など全く相手にせず、迅は謁見の間までやってきた。
 「ん?」
 あらかたの守護兵を倒されたシュバルツァー城には静けささえ漂い始めていた。そこでようやく迅の耳にも多々羅とは別の音楽がはっきりと聞こえた。
 「驚いたな___多々羅と同じ能力の持ち主がいるのか?」
 彼にはパルニィトが放つ無意識の音が聞き取れる。だからそう呟いたのだ。
 「多々羅___それが忌まわしき曲の奏者だな。」
 「む。」
 妻の名を気安く呼ばれた迅はムッとして振り返る。玉座の前にはレイピアを手にしたラゼレイが立っていた。呪文で傷は塞いでも、真っ赤に染まった服が痛々しい姿で。
 「雰囲気が違うな、おまえがこの島の王様か?」
 「ラゼレイ・ダニス・フォルクワイア。ここで貴様を倒す。」
 ラゼレイはレイピアを上段に構えた。
 「勝てやしねえよ。」
 迅は綺麗に並んだ白い歯を見せて笑った。
 その時、見晴らし塔では。
 「ふふふ、また騒がしくなってきたわね。」
 一度は静まった同士討ち。しかし多々羅がフォルティナの放つ音を利用して新たなメロディーを生み出すことで、無意識の音は再び狂乱の旋律へと変わる。町では再び味方同士の殺戮劇が始まっていた。
 「あんたたちにもう逃れる術はない。だって、迅でもなければここに来る前に気が狂うもの!」
 そう、幻夢が室内にいるのもそのためだ。彼でさえ多々羅の曲を聴けば術中に填る。だから室内から本の化け物たちを町に送り出している。
 多々羅の能力は無敵だ。頭知坊や竜樹のような単純な連中では、多々羅には決して勝てない。黒麒麟だって罠に填められる自信がある。ただ犬であるアヌビスには彼女の音域が聞こえた。だから彼女も仕えようと思ったのだ。
 とにかく、多々羅の能力は無敵だ。鳴酌をつま弾く間、彼女は支配者になる。ただ、それは慢心の源ともなる。
 「さあ!クライマックスよ!己の命を絶つがいいわ!」
 曲が一層激しさを増した。町で互いに傷つけ会う天族たちが一斉に声を上げ、それが怒号となって町を震わせる。多々羅は言い得ぬ快感を覚え、町では多くの天族たちが刃を自らの胸や、首に押しつけていった。
 「フフフ!」
 演奏には一層の感情が込められ、悦に入る。彼女は目を閉じて、曲を彩るように響く人々の悲鳴を堪能していた。その背後に、殺意を持って迫る人物がいるなど考えもしなかった。
 バチンッ!
 鳴酌の弦が切れた。
 「___!!」
 全ての弦が切れていた。切ったのは大きな槍だった。槍は多々羅の背から、鳩尾へと抜け、鳴酌をも貫いていた。
 「はぁ___はぁ___!」
 握っていたのは息を切らすトーザスだった。
 「ここに来るまでに___仲間に襲われた___彼らを助けたかったけど、ここに辿り着いておまえを倒さないともっとたくさんの仲間が死んでしまう___間に合ったかどうかは分からない、でもせめて敵は討つ!」
 いつもはおっちょこちょいで温柔な男である。しかしこのときのトーザスの気迫は尋常でなかった。彼は同士討ちを引き起こした魔性の曲の正体を知ったときから、この奏者を倒せるのは自分しかないと思っていた。汗と共に滲む気迫は使命感の現れだった。
 「なぜ___ここまでこれた___」
 多々羅はゆっくりと、トーザスに横顔を向けた。敏感になっているトーザスは槍を捻り、多々羅は呻いた。しかし泣き出しそうな彼女の顔、消え入りそうな声は彼の気迫を少しだけ和らげた。
 「なぜ___お願い___教えて___」
 「曲に合わないピーピーした音が聞こえたからさ。フォルティナさんがパルニィトを弾くときも聞こえた。でもみんなには聞こえていないみたいだった。それで気づいたんだ、このピーピーが決め手なんだって。」
 それを聞いた多々羅は悲哀な笑みを浮かべた。
 「なんてこと___こんなところで運命の人と出会うなんて___」
 自分のあまりもの不運を呪う思いだった。そしてそのまま目を閉じる。倒した___と思ったトーザスは槍を引いた。ゆっくりと多々羅の身体が抜け、彼女は___
 「えっ!?」
 倒れなかった。妖魔ならではのしぶとさで、振り向き様にトーザスに撥を投げつける。だがトーザスも反射的に槍を突きだしていた。
 「ちっ___手元が狂ったか___」
 再び槍にその胸を刺し貫かれてなお、多々羅は悔しそうな笑みを見せた。トーザスの喉笛を狙った撥は、手についた血で彼の肩を掠め、見晴らし塔の天井に突き刺さっていた。
 「はあっはあっ___!」
 一瞬の気の緩みも許されない。トーザスは肩の激痛に敵の恐ろしさを思い知った。掠めただけで彼の肩には深い裂傷が走り、血が迸っていた。
 「うああああ!」
 緊張感が限界に達したかのように、トーザスは素早く槍を抜いて一突き、さらに一突き、多々羅の身体を刺した。美しかった女の身体が血で真っ赤に染まる。そして彼女は言葉一つ発せられなくなって、見晴らし塔の策から転げ落ちた。
 「___迅___」
 落ち際に、そう微かに唇を動かして。
 「___」
 トーザスはまだ肩で息をしながら、赤く濡れた柵から身を乗り出した。下には多々羅が血の花を咲かせていた。
 「は___」
 勝った___その安堵感に彼の腰は砕けた。こぼれた涙は酷く痛む肩のせいではない。重大な使命を全うできた喜びのためだった。
 ___
 ドゥッ___
 ラゼレイが倒れた。その右腕、左足は奇妙に捻れていた。服が破れ、胸には紫の痣がくっきりと浮いていた。
 「もう立ち上がってくるなよ。この邪魔な曲を止めたらすぐにとどめを刺してやるから。」
 そう言い残し、迅は謁見の間の奥に見える階段から、フォルティナのいる場所に向かおうとする。
 「まだだ___」
 だがラゼレイは掠れた声で言った。
 「ちっ___」
 迅は振り向いて舌打ちした。そこにはレイピアを握った左手と、右足だけで立ち上がろうとするラゼレイの姿があった。
 「しつこいねえ。肺の機能も片方止めてるんだ、もう息をするのだって辛いはずだぜ?何でそんなに死にたがる。」
 「うおお!」
 ラゼレイは身体を棒立ちにさせ、倒れ込むように迅に襲いかかった。だが迅はひらりとやり過ごし、その際にラゼレイの左肘と右膝を突いた。
 糸を切られた操り人形のようにラゼレイの身体が崩れる。しかし彼はこのとき腰の回転で身体を捻っていた。倒れながら仰向けになる身体。遠心力で大きく振られる両腕。肘は壊されても、手にはレイピアをしっかりと握り、倒れる直前に親指が柄の金具を押した。
 バシュッ!
 レイピアの刃が飛んだ。まともに戦って勝てる相手でないことははっきりと分かっていた。しかし、だからこそ敵が油断をする瞬間がある。その時に意表を突く飛び道具で、一撃必殺を狙った。
 「あっぶねえ〜。」
 だが希望は打ち砕かれた。照準は確かだったが、刃は迅の顔の手前で、彼の手に握られていた。
 「驚いた、一瞬の隙を狙ってたわけだ。おかげで手を少し切ったぜ。」
 刃を掴んだ迅の手を血が伝う。が、彼は気にせず先へ進もうとした。しかしラゼレイはそれを許さない。
 「行かせない___」
 満足に動かないはずの手を伸ばし、ラゼレイは迅の足首を掴んだ。それまでは呆れながら薄ら笑いを見せていた迅も、さすがに憮然として立ち止まった。
 「分かったよ、そんなに死にたければ先に殺してやる。」
 迅は立ったまま前屈してその手でラゼレイの顎を掴んだ。
 「顎には神経が詰まっている。だからここを殴られるとクラッと来るわけだ。今からおまえの顎をぶち壊す。すぐに死ねるか分からないが、立ち上がるのは絶対に無理だ。」
 まず電撃が走り、ラゼレイの顎関節が外れた。それから迅はゆっくりと力を込めていく。ラゼレイの目は大きく見開かれ、喉の奥底から突き上げるような声を轟かせた。
 「おやめなさい!」
 透き通る声に芯の強さを加え、フォルティナは言い放った。彼女は曲を奏でるのをやめ、謁見の間へと戻ってきた。ラゼレイの苦悶の叫びに耐えられなかったのだろう。
 「ほう、あんたがその楽器であの音を?」
 迅はラゼレイの顎から手を離し、背筋を正した。ラゼレイは半ば砕けた顎で、それでも懸命に声を絞り出す。
 「なぜ戻った___おまえはパルニィトを奏で続けなければ___」
 「いいえ、もうその必要はありません。忌まわしい曲は消えました。」
 「___なんだと?」
 冗談を。そうとでも言わんばかりに、迅は冷笑を浮かべる。
 「フリーズブリザード!」
 「!?」
 だがその横顔が本当に冷却された。今度は意識を失っていたはずのルディーが駆けつけたのだ。その体にはもうほとんど魔力が残っていないはずなのに、彼女は必死の形相で迅に呪文を放っていた。
 「ウインドランス!」
 好機と見たフォルティナは氷に手間取る迅に、風の呪文を放った。
 「くっ!」
 殴りつけるような圧力を秘めた風は、迅にぶち当たると彼を謁見の間の壁際まで吹っ飛ばした。その隙にフォルティナはラゼレイに駆け寄り、すぐさまその手を回復の光で満たす。その間もルディーは呪文を途切れさせなかった。
 「はああ!」
 両手で放っていたフリーズブリザードの魔力を左手に集め、右手には別の白い輝きを蓄える。もちろんそんな技術をソアラやミロルグに教わったことはない。ただ、できると思ったからそうしただけだった。
 「ディオプラド!」
 小さな右手が目映い白熱球を放った。腕の立つ魔法使いが放つディオプラドほど大きくはなかったかもしれないが、それでも彼女は放ってみせた。それだけで凄いことだった。
 ドゴォォッ!
 爆発は謁見の間の壁を壊した。陽光が直に差し込み、粉塵の中に立つ迅の影を浮き上がらせた。
 「やるねぇ。でも弾切れみたいだな、お譲ちゃん?」
 迅は頬に霜をこびり付かせ、両腕に赤い腫れを作っていたが、追い込まれてはいなかった。
 「はぁはぁ___」
 むしろ追い込まれたのはルディーである。立っていることができず、気を失うようにしてその場で尻餅をついた。何とか前を見ているのがやっとだった。
 「ん?」
 だが、この開いた壁が迅を当惑させた。
 「馬鹿な___多々羅の曲が消えている!?」
 正気を取り戻したからこそ、町は騒然としていた。澄んだ空に悲鳴や慟哭がよく響いていた。ただその中に、愛する妻のメロディーはなかった。
 その時、謁見の間の天窓を打ち破って巨大な光の玉が飛び込んできた。何事か?ルディーやフォルティナ、迅さえも目を丸くした。
 「いててて___」
 現れたのは二人して同じように頭をさすっている親子。
 「お父さん!」
 「あ?おっ!ルディーじゃねえか!」
 「あれぇ?帰ってきちゃったんだ。」
 父百鬼は久方ぶりに見る愛娘の姿に笑顔になり、リュカはまだ状況を飲み込めない様子だった。
 「お父さん!あいつを倒して!」
 だがルディーの必死の形相、そして城の惨憺たる有様を見て、百鬼も今を理解する。後ろを振り向き、そこにいる男が敵だとすぐにわかった。
 「妖魔か!」
 「ほう、詳しいな。だがちょっと気になることができた。馴れ馴れしく会話をするのはもうやめだ。」
 迅はいつになく真剣な面持ちで、すっと身構えた。百鬼も剣を構え、隣ではリュカも負けじと臨戦態勢。ただ、ルディーの呪文が開けた壁の穴から、九官鳥のような黒い鳥が舞い込むと状況は一変する。
 「ジン!モドレ!」
 鳥は迅の前でホバリングし、言った。生き物のようではあるが、迅は鳥にはっきりとした生命エネルギーを感じなかった。
 「幻夢の紙か?」
 「タタラガヤラレタ!ジン!モドレ!」
 「なっ!?」
 その一言が迅を絶句させる。
 「まさか___そんな馬鹿な!」
 「ジン!テッタイダ!」
 迅は九官鳥の首を掴み、苛立ちをこめて引き契った。リュカは「あっ」と声を上げたが、紙の鳥から出血はなく、青白い光に包まれて消えてしまった。
 「畜生が___」
 多々羅がやられた?そんなことあるわけがない!迅は憤りを胸に秘め、壁の穴から飛び出していった。彼が去っても、百鬼とリュカ、ルディーはしばらくその余韻を睨み付けていた。ひとまずの危機は去ったのである。
 が、次の危機はもはや目前に迫っていた。それも妖魔三人とは比べ物にならないような脅威が。
 「あ___ああ___」
 見晴らし塔から飛び立って城に向かっていたトーザスは、妙に強く吹き続ける風に疑問を抱いた。空模様が怪しいわけでもない。ただ雲が妙に早く流れているのが気になって、風の行き先を振り返った。そして彼は硬直した。
 「嘘だ___早すぎる___」
 風の行き先は闇が迫り来る方角だった。そして闇は、すでにその姿を空の彼方に覗かせていたのである。天界には海がないが、青い空を海と見立てれば黒い大津波が迫るような感覚に似ている。そちらの方角、視界一杯まで黒が広がり、確実にこちらへと迫ってきていた。
 ただ、早すぎるのだ。
 冥府はゆっくりと天界を蝕んでいた。しかしその速度は遅く、シュバルツァーに迫るまではまだ十日は掛かると思われていた。ただどうだろう、実際の冥府はもうゲンペストラインを飲み込んでいるに違いない。
 「た、大変だぁぁ!」
 出血が酷いのを差し引いても青白い顔でトーザスは城へ飛んだ。この計り知れない危機を伝えるために。
 妖魔を追い払うことに成功し一度は掴んだかに見えた希望、しかしそれがとうに崩壊しきっていたことを伝えるために。




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