2 攻略指令

 冥府は着実に天界を食う。しかしその一方で、作り上げられる新たな土地を巡る内なる戦いも激しさを増していた。
 「あれは俺のものだ!」
 「貴様などに渡すか!」
 冥府の闇に、今まさに新たなる地が生まれようとしていた。引石の核に天界から取り込まれた岩土が次から次へと集結していく。そしてその傍らでは岩の身体を持つ巨人と、燃え上がる炎の髪を持つ男が、互いの配下を引き連れて激しい戦いを繰り広げていた。
 冥府の中に自らの勢力を作るため、拠点は欠かせない。アヌビスの居ぬ間に力を蓄えようとする輩は後を絶たなかった。ここにぶつかり合うストーンゴーレムのボルゴダとフレイムサタンのフェイザーも、冥府では名の知れた実力者であり野心家だ。
 「ドラギレア!」
 凄まじい炎がボルゴダを襲う。しかし岩の身体はびくともしない。炎を蹴散らし、フェイザーの三倍はあろうかという巨体で殴りかかった。岩に親和するボルゴダは、体内に引き石を取り込んでおりこの巨体で空を飛ぶ。配下の土人形たちも同じだった。
 「ゴオオ!」
 フェイザーの配下は揺らめく炎そのもの。だが、よく見れば炎の中に目や口のような影が差す。レッドシャドウと呼ばれるそのモンスターは、ボルゴダの拳に蹴散らされても簡単に再生した。
 「ならばこうしてくれる!」
 ボルゴダは両手を広げ、蚊でも叩くようにレッドシャドウを両手で潰した。空気がなければ火は消える。掌の狭間でレッドシャドウはもみ消されてしまった。
 「ファイアビュート!」
 だがフェイザーも負けてはいない。炎がロープのように伸びて土人形を次から次へと絡め取り、一気に水分を奪っていく。乾ききった土は砂に変わり、土人形たちは崩れ落ちていった。
 激しい力と力のぶつかり合い。だがそれは所詮鬼の居ぬ間の選択であり、アヌビスに反目する行為でもある。
 ゴォッ!
 突然だった。ボルゴダの土人形たちが次から次へと爆発していく。
 「な、なんだ!?」
 上から降り懸かるのは小石ほどの小さな爆弾。痛烈な爆撃はボルゴダをも襲い、岩の身体に亀裂を走らせていく。
 「チャンス!」
 ここぞとばかりにフェイザーが己の炎を高ぶらせる。しかしいつの間にか蔓延った雲が勢いを削いだ。
 「っ___あ、雨だと!?」
 突如降り始めた大粒の雨。戦場の上空にだけ雲が蔓延り、大雨を降らせていた。レッドシャドウたちは蒸気と消え、フェイザーもまた力を失っていく。
 「両者ともそこまでだ。」
 爆撃が止み、雨が弱くなる。そして二人を見下ろしていたのは数人の魔族だった。その中心にいるのは深い緑色の髪と、強い意志を感じさせる瞳が印象的な美女。
 「冥府に生まれる土地は誰の者でもない、冥府の王たるアヌビス様のもの。」
 彼女は表情一つ変えず、厳格に言った。その両脇に二人ずつ、体が大きく豪快な印象の男、二枚目風の冷静な男、小柄で少し落ち着きがなさそうな男、カールしたブロンドが素敵な色気ある女、個性豊かな面々が並ぶ。しかし皆同じ服装をし、その胸には黒犬の横顔が刺繍されていた。
 「貴様はカレン・ゼルセーナ___ヘルハウンドか___!」
 中央の女を睨み、フェイザーが呻いた。
 「アヌビスの近衛団___!」
 そう言ったボルゴダにカレンと呼ばれた女が右手を翳した。その手は金属、そして指先に穴が空いていた。
 ドドドッ!
 穴から小石ほどの塊が飛び出す。それはボルゴダに降り注ぐと凄まじい爆発を巻き起こした。
 「様を付けろ。」
 カレンがそう言い放ったとき、岩の巨人はほとんど砕け散っていた。
 ___
 「みんなご苦労だった、私はテイシャール様に報告をしてくるから、各人体を休めてくれ。」
 カレンたちが戻ってきたのは冥府の中心と言われる宮殿だった。そこはテイシャールが冥府の核に魔力を送り続けている場所でもある。
 「ふぃ〜、久しぶりの休みだ〜。」
 小柄な男が心底疲れ切った声を出す。
 「相変わらず軟弱だな、グレイン。」
 二枚目の男が嘲るような笑みで言った。
 「俺はみんなみたいに強くないんだよ。」
 「あんたは努力が足りないの。ディメードだって恰好付けてるけど影では努力してるんだから。カレン、喉くらい潤しなよ。」
 ブロンドの女が水の入った瓶を放り、カレンは生身の左手でそれを受け取った。
 「ありがとう、クレーヌ。」
 そして一時の微笑みを見せ、立ち去っていく。背中に仲間の声を聞きながら。
 「ようクレーヌ、これから酒でもどうだ。」
 「あんたとは嫌よ。」
 「そうだよ、ガッザスは暴れるから飲んでも楽しくない。」
 「なんだとこわっぱ!?」
 カレンをリーダーとするこの五人組はヘルハウンドと呼ばれる。ガッザス、ディメード、グレイン、そしてクレーヌ。個性的で、腕も立つ五人の魔族はアヌビスの近衛団。アヌビスに絶対の忠誠を誓う彼らは、混沌とした冥府には不似合いな「秩序」を守るための集団である。
 冥府の内情が不安定な今を好機と思っているような連中にとって、彼らは目の上のたんこぶ。そういう輩は嫌みを込めて彼らを「八柱神のなり損ない」と呼ぶのだ。とくに、大盗賊の異名を取る魔族ディック・ゼルセーナの娘であり、ライディアとの競争に敗れて八柱神の座を逃したカレンを揶揄して。
 「失礼いたします。」
 オレンジに染められた核と身動きできない女がいる部屋へ、カレンはやってきた。彼女は冥府のために、アヌビスのために魔力を注ぎ続けるテイシャールに畏敬の念を抱いていた。彼女こそ究極の忠誠の塊である___と。そしてここを訪れるたびに、自らもアヌビスへの忠義の心を新たにするのだ。
 ただ、この日は珍しく先客がいた。
 「何者か?」
 「!___黒麒麟___様。」
 テイシャールの元にいたのは黒麒麟だった。黒髪の美女は訝しげにカレンを見たが、その顔をしたいのはカレンの方だった。ここは冥府、すなわちアヌビスが治める世界の心臓部。テイシャールやダ・ギュールなど、一部の者たちしか入れない場所だ。そこに黄泉とか言う世界からやってきた素性も分からない女がいるなど考えられなかった。
 「カレンですね?ご苦労様。黒麒麟様、彼女はカレン・ゼルセーナと申します。この宮殿を守り、冥府に取り込まれた大地を守るよう務めている近衛団のリーダーです。」
 「なるほど、私は黒麒麟だ。以後、よろしく。」
 テイシャールが彼女を許しているのは明らかだったが、カレンは腑に落ちない様子。それが言葉に表れた。
 「お会いできて光栄です。しかし、前線でタクトを振るべき方がなぜこのようなところに?」
 「カレン、口を慎みなさい。」
 「いや、もっともだ。私は本来ここにいるべきではない。」
 テイシャールの叱責と黒麒麟の微笑みを同時に浴びて、カレンは戸惑った。
 「実のところ敵があまりに受け身なのが気になってね、少し揺さぶりを掛けてみることにしたのさ。」
 黒麒麟が言う敵とは竜神帝を指す。彼女は竜神帝が冥府を内側から止めるために、強力な刺客を送り込もうとすると読んでいた。しかしそんな動きはなく、天族たちもまた戦うよりも逃げること、生き延びることを優先しているようだった。それが黒麒麟にとって不可解だったのだ。
 「揺さぶりとは___?」
 カレンは黒麒麟に問い返す。滅多なことでは動じない彼女だが、黒麒麟の存在感に気負って少し汗を滲ませていた。
 「こういう事よ。」
 黒麒麟がまた微笑む。そして、おもむろに冥府の核に手を触れた。

 一方その頃、シュバルツァー城では歓喜の瞬間が訪れていた。
 「それはまことか!?」
 「はい、今は傷を負い休まれておいでですが、命に別状はございません。」
 百鬼発見の報せはすぐにシュバルツァー城へ伝えられた。各方に彼の捜索を懇願していたラゼレイ。その中でゲンペストラインだけは全く音信不通だった。ゲンペストラインはシュバルツァーからそう遠くなく、まだ闇に飲まれるような座位にはない。まして拳聖マガジェアンを招聘して意気上がるオドッティが、前もって島を捨てるとも思えなかった。不審に思ったラゼレイは調査隊を派遣し、百鬼発見に至ったのである。
 「やった!やった!」
 「よかったわね。」
 リュカはフォルティナの周りを飛び跳ね、ルディーも嬉しさを噛みしめていた。二人の喜びを肌で感じ、フォルティナも自然と微笑む。城には久方ぶりに明るい笑顔が溢れていた。
 そんな喜々とした光景の裏で、一人の男が日々鬱積する苛立ちを始末できずにいた。
 「実に不愉快だ!」
 因縁あるラゼレイを嫌う、バーフェルヘイツだ。
 彼はシュバルツァー城で時を過ごすことを拒否し、城の近くの邸宅に住んでいる。ラゼレイは彼との蟠りを解こうと使者を送り続けるが、バーフェルヘイツも生来の頑固者であり自信家。雪解けには大きな壁があった。さらにミゼルグェストの住人たちがラゼレイの寛大さに触れ、もはやバーフェルヘイツのことを忘れかけているのも彼へのストレスになっていた。やり場のない怒りをせめて和らげようと、彼は私兵を連れて酒場へと歩む。
 「こうなれば無理にでもブランドゥマに移るか___いや、私だけではそれこそ負け犬ではないか。」
 酒を片手に自分の身の振り方を思案するその姿は、普段の豪快な気質とはほど遠い。豪快なのは、それだけのために酒場の一角を貸し切ってしまうことくらいか。
 「む?」
 頭悩ます彼の耳に、軽快なメロディと清涼感ある歌声が聞こえてきた。昨日まで人々の談笑する声と雑音しかなかった酒場に、今日は麗しき歌姫の姿があった。緑色の長髪に、白い柔肌。目鼻立ちがはっきりとして見る者を引きつける美しさ。ただ何よりも美しいのはその歌声。バーフェルヘイツもしばし呆然と彼女の姿に見とれていた。一曲終えた頃には___
 「おいマスター!」
 たまらず店主に声を掛けていた。
 「お呼びですか?」
 短いやり取りを経て、歌姫はバーフェルヘイツの元へとやってきた。彼女は白い翼を控えめに閉じて、ギターのような弦楽器を手にニコリと微笑んだ。
 「おまえの歌は実に素晴らしい!いや全くもって聞き惚れた!」
 「まあ、それはありがとうございます。」
 「今日から働いているんでして、タティアナと申します。お気に召していただけて光栄でございます。」
 腰の低い店主は作り笑顔でペコペコと頭を下げた。
 「私のために一曲歌え!良いであろう!?」
 「ええそりゃ勿論!き、君、頼むぞっ。」
 「はいっ!」
 高名な人物に気に入られるのはまたとないチャンス。店主はタティアナに目でプレッシャーを掛けつつ、彼女の側から離れた。いつの間にか店は静まりかえり、バーフェルヘイツの正面に立ったタティアナが弦をつま弾くと、皆自然に目を閉じていた。
 ゆったりとしたバラード。穏やかで、ロマンチックで、波立つ心に静けさをもたらしてくれるような歌。バーフェルヘイツの心を読みとったかのような歌声だった。一曲終わればバーフェルヘイツも他の客も拍手喝采。世界の危機も忘れ、それからの酒場からは美しい歌声と人々の歓声が鳴りやまなかった。
 翌日。
 「心配かけて悪かったな。」
 「お父さ〜ん!」
 水晶に百鬼の姿が映し出されると、リュカはたまらずに自分の顔よりも大きなガラス球に縋り付いて泣きじゃくった。
 「おいおい、男なんだからこんな事ぐらいでピーピー泣くな。」
 百鬼に優しく窘められ、リュカは唇を噛んで涙をこらえようとする。
 「ルディー、おまえは女の子なんだからちょっと泣いてもいいんだぞ。」
 「そんなこというんだったら早く帰ってきてよ。」
 「む___そりゃそうだな。」
 生意気なことを言いながら嬉し涙をこらえるルディー。ガラス球に映る彼女の姿に百鬼はニタリと笑って頭を掻いた。
 「そうだよ、お父さんいつ頃帰ってこれるの?」
 「そのことでラゼレイさんと話がしたいんだ。換わってくれるか?」
 ガラス越しに顔を合わせ、百鬼はラゼレイの若さに驚いた。
 「ご無事で何よりでした。私がシュヴァルツァー頭首のラゼレイ・ダニス・フォルクワイアです。あなたのことはトーザスから伺いました。」
 「俺も大体聞いたよ。天界じゃ島を捨てるのは御法度だって話だが、逃亡者を受け入れてくれて感謝してる。」
 「私自身は戦う力は持ちません。しかし救う力と戦う者を束ねる力は持っていると思っています。ただ、アヌビスに対して攻める手段はつかめていません。竜神帝の助言を仰ぎながら、あなたの軍策を聞きたいと思っています。」
 しかしそれ以上に彼の落ち着いた物腰、内に秘めた戦いへの強い使命感と闘志に感心させられた。
 「頼もしいな。こっちも期待してるよ。」
 「ゲンペストラインはどのような状況なのですか?人がいないという話は聞きましたが___」
 「ああ___それなんだが___」
 もとより穏やかな話が聞けるとは思っていなかったラゼレイだが、百鬼の言葉は彼を凍り付かせた。だが当の百鬼も、生き残った女性天族から全てを聞いたとき、唖然として言葉も出なかったのだ。
 ___
 拳聖マガジェアンが滅殺したアヌビスの刺客。オドッティは勝利の証として、その首を謁見の間近くに展示した。当時は輪廻と名乗っていた性骨の首、それが全ての災いの発端だった___
 「私は城の魔学者でした___」
 生き残った女性天族たちの憔悴は激しかった。しかしそのうちの一人、ラスターシャ・ジール・ウィンクレットは気丈に口を開いた。鮮やかな金髪の一部に白髪を作り、それでも「生存した者の責任」と言って真実を伝えようとする姿。その痛々しさは百鬼にミキャックを彷彿とさせた。
 「あの首は魔性の首です___」
 謁見の間の前に飾られた首は、夜になり、女が通ると目を開く。首と女の目が合うと、女はたちまち魅入られ、首に唇を寄せる。性骨の虜に落ちた女は体が魔性の薬と化す。唇を重ね、体を会わせれば最後、男もまた性骨の支配に落ちる。
 支配は広がっていく。拳聖マガジェアンはその罠にこそ落ちなかったが、異変に気づいたときにはすでに城の人間全てが性骨の支配下にあった。彼らは傷つくことなど恐れない。捨て身の人形の前に拳聖は不意を付かれ、敢えなく食い殺された。
 邪魔する者は何もなくなった。支配の網はネズミ算のように広がり、翌日の夜には町中の全てが性骨の支配に落ちた。
 「首だけだったあいつはどうやって再生したんだ?」
 「それは___」
 言葉にしかけて、ラスターシャは嗚咽する。しかしすぐに立ち直り、意を決して言った。
 「私たちが生んだのです。」
 「!?」
 百鬼を襲った数十人の女たち、彼女たちは性骨の首の前で屈強な男と交わったという。すると一晩のうちに下腹部に熱が迸り___
 「私は心臓を生みました。」
 何よりも百鬼が絶句した瞬間だった。女たちは次々と性骨の体の部位を産み落としたという。それは重ね合わさり、性骨は復活した。
 「とんでもねえ___」
 あまりにも非常識な能力。頭を灰と化そうとも、また蘇るのではないか?現実に奴はもう二度蘇っている。いや、黄泉で竜樹に殺されていることを思えば三度か。頭が肝だと分かっていても百鬼の不安は煽られた。
 ___
 「島の人々はどこへ___?」
 「城の地下壕だ。広い地下壕の隅から隅まで人で埋め尽くされていた。ラスターシャの話だとあいつの体を生んだ女たち以外は全員が自分の足でそこに入り込んだらしい。んで入り口を封鎖して空気がなくなって___ってことだ。残念だが、地下壕の様子はさっき見てきた。いま火葬の準備をしている。」
 「なんと___」
 悲痛な面もちのラゼレイは胸元で小さく十字を切った。
 「この島はそこからそんなに遠くないそうだな。」
 「はい。優秀なドラゴンなら一晩で辿り着くこともできましょう。」
 「アヌビス八柱神の一人がこの島にいたんだから、そっちだってもう安全とは言えない。むしろ天界中の人間を簡単に始末できるように、奴らが尻を押してそこに集めているのかも知れない。」
 シュバルツァーには各方面の島々から、人々が逃げてきている。兵士にそう聞いた時から百鬼は疑念を抱いていた。
 「私もその不安は感じていました。しかし人々は結集することでより強い力を発揮できます。確かに彼らは逃げてきたのでしょうが、その中には戦いの意志を携えた戦士も数多くいるのです。」
 「そうだな___わかった、こっちも敵をまとめて始末できるチャンスだと思うとしよう。」
 ただ、相手は八柱神。性骨や竜樹のような連中があと六人もいる。まとめて倒すなど、言うは易し行うは難しである。

 「やっほ〜!」
 リュカを乗せたドラゴンが陽光の中に舞い上がる。赤い鱗と一際凛々しいその面立ちはグライティエンルンに他ならなかった。手綱を取るダイアン・シス・エンデルバインの前で、リュカはソードルセイドよりも遙かに広大なシュバルツァーの街並みを見下ろし、歓声を上げた。
 「行きますぞ!」
 「うん!」
 グライティエンルンはさらに二頭の翼竜を伴い、一路ゲンペストラインを目指す。彼らは百鬼たちを迎えに行くのだ。
 「お留守番で良かったの?」
 飛び去る翼竜をテラスから見送るルディーにフォルティナが声を掛ける。
 「いいの、待ってれば帰ってくるんだから。それに___」
 まだ翼竜の後ろ姿がよく見えるというのに、ルディーは身体ごと振り返ってフォルティナに駆け寄った。
 「あたしはフォルティナさんと一緒にいる方がいいもの。」
 「あらあら。」
 フォルティナには子がいない。しかし彼女は全ての人々に安寧をもたらす母性を持っている。それはルディーの琴線に触れ、彼女は母に甘えるかのようにフォルティナの腰の辺りに顔を寄せた。
 「フォルティナさんがお母さんだったらいいのに___」
 「ルディー___」
 フォルティナが待つ慈しみの心はソアラに欠けているものかもしれない。そしてルディーは母にそれを求めていた。辛いときだからこそ、側にいて欲しいのに___本当の母はいつもいない。
 「ねえ、お母さんって呼んでいい?」
 リュカよりも思慮深さを身につけているルディーは、ソアラに失望すら抱いていた。フォルティナを母と呼ぼうとするのは、ソアラへの反抗に他ならない。
 「___あなたのお母様は立派な方よ。」
 「でもあたしはもうやだよ___いつもいないんだもの。」
 フォルティナの服に顔を埋め、ルディーはグッと布を握る。フォルティナは彼女の髪に手を伸ばしかけ、思いとどまった。今ここでルディーを抱きしめてしまっては彼女の心をますますソアラから遠ざけてしまう気がしたから。
 「お母さん___」
 しかし、堪えきれなかった。ルディーがフォルティナにしがみついて母と呼ぶと彼女の母性は激しく掻き立てられ、そっとその幼い身体を抱いてやった。
 「おかぁさぁん___」
 「いい子ね、ルディー。」
 幼い少女はテラスで母に縋って泣いた。父の前でもツンとするようになった普段の彼女とは、まったく違う姿。一人になって覗かせた本音だった。

 「ギュゥア。」
 「ほ〜れ、よしよし。」
 シュバルツァーの一角には大きな石造りの建物が並び、時折獣の声がする場所がある。建物からドラゴンが首を覗かせるそこは、竜舎だ。
 「あれ?おいあれは___」
 「珍しいな。」
 テイマーたちは来るべき戦いの時に備え竜の鍛錬に余念がないが、このときばかりは見慣れぬ人物の来訪に気を奪われた。
 「おはようございます頭首殿!」
 「うむ、ご苦労!」
 戸惑いを振り払ってテイマーが礼をする。答えたのはバーフェルヘイツだった。ラゼレイと仲違い中の彼だが、にこにこ顔で意気揚々とやってくる。
 「いつ敵襲があるやもわからん!用意は怠るでないぞ!」
 「はっ!心得ております!」
 「うむ、良い返事だ。」
 バーフェルヘイツはいつものように胸を張り、満足げに髭を撫でた。
 「ところで頭首殿、今日はどのような御用向きで?」
 「うむ!今日はそなたらを労うためにやってきたのだ!タティアナ!」
 バーフェルヘイツの呼び声に答え、竜舎の入り口から煌びやかな女性が顔を覗かせた。
 ___
 「?」
 竜舎の方に向いたテラスを通りかかったラゼレイは、爽やかな歌声を耳にして立ち止まった。
 「素敵な歌ですね。」
 「あ、これはラゼレイ様。」
 テラスではトーザスが頬杖を突いて下の様子を見ていた。
 「明日は赤い雪が降るかも知れないですよ。あのバーフェルヘイツが歌い手なんか連れてきてるんです。」
 振り返ったトーザスは不思議そうに首を傾げて言った。ラゼレイはニコリと笑って柵の向こうを見下ろす。いつの間にやら、竜舎の広場にはたくさんのテイマーが集まって、タティアナの歌に聴き入っていた。
 「素晴らしいですね。」
 「確かに良い歌なんですよ、でもあのバーフェルヘイツがねぇ。」
 「先入観で人を見るものではありませんよ。」
 「そりゃそうなんですが。」
 賑やかな曲が始まると自然と手拍子がわき起こる。なんとドラゴンたちまでもが竜舎から顔を覗かせて、楽しそうに首を揺すっていた。
 「ほら、あなただって喜んでる。」
 「え?あっ!」
 同じように足を揺らしてリズムに乗っていたトーザスを見てラゼレイは笑った。
 なにはともあれテイマーたちにとっては、さぞ良い気分転換になっただろう。何しろタティアナのリサイタルは歌に惹かれて城からやってきた天族まで巻き込んで、夕暮れまで続く大盛況だったのだから。

 シュバルツァーにはスラム街がある。ラゼレイの代になって随分と整備が進んできたが、日々精進する術を忘れてしまったスラムの人々が、真っ当な社会に舞い戻るのは容易ではない。広大なシュバルツァーを空から見れば、その一角だけが淀んで見える場所。それがスラムである。
 「へへ。」
 「ひひ。」
 淀みの中にいれば、天族とて汚れゆく。汚い身なりで、灰色になった翼を揺らし、男たちは夜のスラムを颯爽と歩く身の程知らずな女を見ていた。
 「ようねえちゃん。」
 一人の男が翼をはためかせ、彼女の前へと舞い降りた。遅れてもう一人、さらに後ろにも二人。
 「一人でお散歩ってのは誘ってるってことだろ?」
 「俺たちといいことしようぜ。」
 憮然とする女を嫌らしい笑みで見つめ、男たちが手を伸ばす。
 パパンッ!
 しかし女はしなやかに、クルリと一回転して彼らの手をうち払った。
 「ゴミどもが汚い手で触るんじゃないよ。」
 そして勝ち気に一言。薬でも使っているのか、男たちはすぐさま頭に血が上り、懐からナイフを抜き放った。
 「てめえ___大人しくしてりゃあいい気になりやがって。」
 だがそれに答えるかのように、女も自らの武器を手に取った。
 「なんだそりゃ?」
 「一曲弾くからご勘弁をってか?」
 男たちの言葉など意に介さず、女は手にした弦楽器を奏で始めた。琵琶のようなそれは天界にはない楽器。似たような代物はあっても細部が異なる。もちろん男たちにそんなことが分かるはずもないが。
 「かまうことねえ!やっちまえ!」
 リーダー格の男がそう言って、男たちは一斉に女に襲いかか___れなかった。
 「な、なんだ!?」
 「体が動かねえ!?」
 体がピクリとも動かない。女は低音の続くメロディーを奏でながら、男たちの脇をするりと通り抜けていった。そして少し離れたところで立ち止まり、激しい旋律を爪弾く。
 「う!?」
 「おぉっ!?」
 「や、やめろ!」
 彼女の背後では、四人の男たちがそれぞれ隣の男の首にナイフを突き刺していた。血を吹き出しながら輪になって倒れる男たちをそのままに、女は立ち去っていた。
 緑の髪に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。大きめの口が印象的な彼女は、バーフェルヘイツを虜にした歌い手、タティアナ。その正体は黄泉からやってきた刺客、多々羅。手にした鳴酌(なきじゃく)の音色で、全てを思いのままに操る女である。ただその背には天族の翼があった。
 カランコロン___
 彼女はスラムの一角にあった店へと入り込んだ。入り口の鍵を閉め、明かりのついている二階へと上がる。
 「ただいま。」
 「よう、ご苦労。」
 迎えたのは迅だった。
 「ご苦労様です。」
 「あら幻夢、来てたのね。」
 部屋の中には幻夢もいる。彼の側のテーブルには本が山積みになっていた。
 「うまくいきました?」
 「当たり前じゃない、あたしを誰だと思ってるの?」
 幻夢の問いかけに多々羅は微笑み、鳴酌を壁に立てかけた。
 「ああでもあれ、黒麒麟から聞いてたやつ、竜樹のお嬢ちゃんが負けたっていう赤い鱗の竜はいなかったわ。」
 「それはそれで好都合じゃねえか。敵の大将格がいないなら一層やりやすくなる。」
 迅は背中の翼を滑らかに動かして言った。見れば幻夢の背にも翼がある。彼らは全く天族になりきって少し前からシュバルツァーに潜入していたのだ。
 ___竜樹と輪廻が敗れた。敵は侮れない。万全を期して、敵の中心基地であるシュバルツァーを攻略せよ。
 黒麒麟からの指示である。後方から動こうとしない彼女に不満はあったが、役目自体に嫌気はない。共同戦線は期待しないと言ったはずの彼女が、前言を撤回してこんな指示を出したのだから、やり甲斐はある。そして彼らはシュバルツァーへと集った。
 「とにかくこれで用意は調ったわけだ。明日決行だな。」
 「頭知坊が来てませんよ。」
 「三夜も待って辿り着けないような馬鹿はほっとけ。俺たちだけでやった方がうまくいく。」
 「そういうこと。さあ、そうと決まったら今日はもう寝ましょ。あんた、外して。」
 そう言うと、多々羅は迅に背中を向けた。天族の服を纏う彼女の背は、翼の邪魔にならないよう露わになっていた。
 「へいへい。」
 迅はその背、翼の根本の辺りに手を触れる。小さなスパークと共に多々羅の背で筋肉が躍動した。すると翼の根本の皮膚に小さな裂け目が走り、浮かび上がった。
 「よっ。」
 迅が翼を引っ張ると、多々羅の背から簡単に剥がれた。多々羅の背中は多少赤らんでいたが、綺麗な肌そのままだった。
 「背中に痛みは?」
 「大丈夫。」
 迅が手から放つ微弱電流は、彼の並外れた体術の源となるだけではない。細胞を活性化させ、見知らぬ天族から引きはがした翼を己の背に貼り付けてしまうほどの応用力も秘めている。彼らの背にある翼は、皮膚同士を結びつけるという荒技の賜物だった。

 そして夜が明ける。
 シュバルツァーではまた賑やかな一日が始まろうとしていた。
 ただ、決して穏やかではない一日。
 「それじゃ、いきますか。」
 幻夢はテーブルの上に本を並べていた。そこには数多くの魔獣の絵が描かれている。積み重ねられた本はすべて画集だった。
 「ふんっ!」
 幻夢が本に手を翳して念を込める。本から魔獣たちの姿が消え、外で悲鳴が響くまであっという間だった。
 「はじまったわね。」
 多々羅は町の中心部近くにある見晴らし塔の上にいた。そこには緊急時の警報を伝えるために、ラッパ型の巨大拡声器が付いている。その巨大ラッパの横から身を乗り出して、町中に現れた大量のモンスターの姿を見下ろし、微笑んだ。
 「んじゃこっちも始めるか。」
 迅も同じ場所にいた。彼の足下には塔の番人が首をUの字に折り曲げて倒れていた。
 口づけを交わし、妖魔の夫婦は持ち場へ着く。多々羅はラッパの前で鳴酌の調弦を始め、迅は多々羅のリサイタルを邪魔する輩が来ないように塔から目を光らせた。
 三人の目的はただ一つ。
 破壊と殺戮だ。




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