1 羅刹の恋

 「昨日、俺に何で戦うんだ?って聞いただろ?」
 「答えは色々だったよな。」
 「ありがとう。ん?なんか変わった匂いがするな。」
 百鬼は竜樹に紅茶の入ったカップを渡した。茶葉は竜樹が風呂に入っている間にこの家の台所から見つけだしたのだ。竜樹はソファの上に胡座をかき、百鬼はテーブルの椅子に腰を下ろした。
 「変わった味だ。」
 竜樹は少し口にして渋い顔をする。それでももう一口啜ったところを見ると嫌ではないらしい。
 「色々じゃないのか?」
 「___ああ、色々じゃない。一つだけだよ。」
 そう言えばソアラが茶に凝っていた時期があった。茶の醸す匂い、中でも鼻に抜けるようなさわやかな香りのする紅茶は飲むと気を静める効果がある。ソアラがそんな話をして、「ならそのお茶はおまえに入れてやる」と言ってからかったものだ。茶を啜るごとに落ち着いていく竜樹に、百鬼はそんな情景を思い出した。
 「俺が戦う理由は、少しでも強くなるため。自分の中にいる化け物に負けないためだ。」
 「化け物___?」
 「羅刹って言う。そいつは殺戮の鬼神で、女だ。もし俺が女じゃなかったら取り憑かれることもなかったんだ。」
 百鬼はピンと来て指を鳴らした。
 「それで男になりたがっていた。」
 竜樹が頷く。小さな間をおいて、彼女は徐に口を開いた。
 「俺の話を聞いてくれるか?それで考えて欲しいんだ。俺がやってきたことは間違っていたのか。」
 百鬼もまた頷いた。竜樹はその瞬間だけ、ほっとしたような笑みを見せた。
 それから竜樹は自分の過去を語りはじめた。黄泉のある小さな集落で生まれたこと、小さい頃は普通の少女だったこと、そしてあの日のこと、さらに老婆に羅刹のことを教えられたときまで、竜樹は一気に話した。ただ彼女は自分が未熟児でしかも秘伝の薬のおかげで生き延びたことを知らない。
 「なんでおまえに羅刹なんてものが宿ってるんだ?」
 「それは分からない。それが分かれば俺はいまここにはいないと思う。」
 竜樹には自分が目指すべきものが見つけられなかった。しかしもう一人の自分が略奪者を残らず駆逐したのは分かっていた。生きていた集落の仲間たちまで巻き添えにしたことも分かっていた。
 悲劇を繰り返したくない。結果として彼女は羅刹に抗うために女を捨て、不毛な戦いを続けることになった。自分がなぜ鬼神を宿しているのか、その理由だけでも分かれば彼女は進むべき道を見つけることもできただろう。
 「おまえはその婆さんのいうことを今でも信じているのか?」
 「信じるしかねえだろ。」
 「それもそうか___」
 「それからすぐにまた襲われたんだ。その時に龍風と会ったんだ。」
 「会ったって?」
 「また危なくなってさ、羅刹が出てきた。気が付いたときには辺りは血の海になっていて、俺は手に龍風と鞘を握っていたんだ。俺を襲った連中が持っていたのさ。」
 「あいつとはそれ以来の仲って事か。」
 「ああ。」
 テーブルの上には鞘に収められた龍風がある。竜樹はそれを一瞥し、また話を続けた。
 「それからは戦いの連続だった。で、また訳が分からなくなっていつの間にか周りは血の海。でもそれは俺が弱いからなんだ。だから俺は必死になって強くなるよう努力した。そのためには龍風の力が必要だったんだ。」
 「で、実際に強くなったわけだ。」
 「___どうかな。」
 竜樹は吐き捨てるように呟いて、首を傾げた。素直で快活な彼女らしくない、影のある仕草だった。
 「羅刹ってのはおまえがどんなに拒んでも戦いになると出てきちまうのか?」
 「今までは感情が高ぶったり、危なくなったりすると勝手に出てきた。そうすると俺は抑えが効かなくなって、仲間だろうがなんだろうがそこにいる奴全員を殺そうとしちまう。でも___さっきは出てこなかった。」
 「なんで?」
 竜樹は首を横に振る。
 「わからない。わかったのは___俺は羅刹がいなかったらあんなくそジジイにも負けるって事さ。」
 胡座のまま、ぐったりと首を倒してうなだれる竜樹。膝元で固く握られた拳。もう片方の手もカップを握りつぶさんばかりだった。
 「負けるのは誰でも悔しいもんだ。」
 「それ以上に悔しいのは羅刹より強くなろうとして、結局羅刹を頼りに戦ってたってこと___理性を失わずに戦い切れたのはいつが最後かだってさっぱりわからねえ。なんか馬鹿みたいじゃねえか___なんのために俺はこんな事をしてきたんだ?」
 震える肩。百鬼は顔は見えなくても彼女が歯を食いしばっていると分かった。
 「俺は全然強くなんかねえ___!」
 派手な音を立て、カップが砕けた。破片で少し手を切って、すぐに血が滴り出す。
 「その腕っ節でよく言うよ。」
 「こんなんじゃ全然駄目だ。羅刹無しで戦って、勝てる強さがなかったら___」
 百鬼は小さな溜息をつき、鍛冶作業で使うために調達していた包帯を取って立ち上がった。
 「あんまり思い詰めるなよ。敵の俺が言うのもなんだが、アヌビスに認められたってのは相当なもんだぜ。」
 「でもよ___」
 「手ぇ出しな。」
 「___」
 百鬼は竜樹の手を取り、丁寧に血を拭ってから包帯を巻き付けていく。竜樹は何も言わず、されるがままでただ百鬼の顔をじっと見ていた。
 「なあ、一つ疑問があるんだが。」
 「え?ああ___」
 近い距離、目を見て問いかけられたものだから竜樹はどぎまぎした。不思議な感覚だが、嫌ではなかった。
 「確かに羅刹ってのが出てくるとおまえは理性を失うのかも知れないが、本当にそいつはおまえにとって疫病神なのか?」
 「___そんなの決まってるだろ?百鬼だっていつ殺されるかも分からない。」
 しかし質問が羅刹に及ぶといつもの調子を取り戻す。少し怒ったように、空いてる左手でジェスチャーを付けながら言った。
 「だがよ、さっきの話だとおまえが死んじまったら羅刹はおまえの体を自分のものにできるわけだろ?それだったらおまえのピンチになると出てくるってのはおかしくないか?」
 竜樹は眉間に力を込めて沈黙した。
 「___なんか難しいこと言ったか?」
 「羅刹がおまえを助けるのは矛盾してるってことさ。」
 「そうか___?」
 「よし、こんなもんでいいだろ。」
 「___ありがと。」
 百鬼の手が離れると、竜樹は改めて彼の温もりの心地よさを実感し、少し恥ずかしそうに礼を言った。
 「なんか不思議だよな。」
 「なにが?」
 「俺たちがこうしてるって事がさ。おまえは天界を滅ぼそうとしているアヌビスの部下で、俺はそれを阻むためにこっちにやってきた。それがこうやって同じ部屋で悩みの相談だぜ。」
 「___ふひっ、本当だよな。」
 にやつきながら話す百鬼の言葉に、竜樹も笑った。
 「でもさ、俺こんなの初めてだよ。敵と向かい合ってるのに全然その気にならない。」
 「それが羅刹が出てこなかった原因かも知れないぜ。おまえの闘争心の高ぶりが羅刹を引き出すのかも。」
 「闘争心___」
 それを聞いた竜樹は急に真面目な顔になり、腕組みをした。
 「あ、深く考えるなよ。軽口だからさ。」
 「ん?ああ、わかったよ。」
 だが闘争心という言葉は竜樹にとって良いヒントとなった。確かに性骨に追いつめられたあの時、自分にどれほどの闘争心があったろうか。口では罵声を浴びせていても、あの老人から連想される過去の悲劇、動きを封じられた事への恐怖は彼女から真の闘争心を消し去っていた。あるのは恐れと屈辱感ばかりで、女であることを体に叩き込まれてからは一切抵抗する気力を失っていた。
 「さて、それじゃあ探りに行こうぜ。」
 竜樹はポンと膝を叩いて立ち上がった。実は性骨と操られていたらしい女天族の骸がまだそのままなのである。加えて、あの女天族はどこからやってきたのか?そして性骨はこの島で何をしたのか?その謎を解き明かすためにも島を歩く必要があった。
 「大丈夫なのか?」
 「ああ。」
 肉体的にはそれほど問題ないだろう。しかし精神的には___
 「___無理するなよ。」
 「分かってるよ。ただ___」
 「ただ?」
 竜樹は少し躊躇して俯き、それでもすぐに顔を上げて百鬼の目をじっと見た。
 「俺がいつもより女々しくても笑うなよ___」
 百鬼はその言葉に一瞬キョトンとしたものの、すぐに白い歯を見せて、竜樹の頭をポンと叩く。
 「いいじゃねえの、それくらいの方が可愛くて俺は好きだぜ。」
 「すっ___!」
 可愛いだの好きだのいう言葉に過剰反応し、竜樹の頬が真っ赤になった。その恥ずかしさを押し殺すためか、自然とパンチが飛ぶ。
 「いってえなぁ!なにしやがる!」
 「う、うう、うるせえっ!」
 とびきり静かなゲンペストラインの居住区に、賑やかな声は一際良く響いていた。

 「___」
 噴水の側へやってきた竜樹と百鬼。夕焼けで橙に染まる空の下、二人はおぞましい光景に息を飲んだ。
 どこからやってきたのか、島に来てからこれといって姿を見なかった大形の鳥たちが、噴水の周りにたかっていた。彼らは性骨と女天族の骸を食い散らかし、惨状を際立たせていた。
 「近づく必要もなさそうだ。」
 「そうだな___」
 性骨の骸はすでに骨も見える状態。その様に竜樹はまだ懐疑的ながらも、二人はその場を離れることにした。性骨の頭がないことには気が付かなかった。
 天族がどこからやってきたのか。それを探るために城や居住区を歩き回った。しかしこちらも手がかり無し。この島に人がいない原因に性骨が一枚噛んでいるのは間違いないだろう。だが島を知る人間がいない状態では、それ以上の詮索も難しかった。
 結果として___
 「よし!今日もやるぞーっ!」
 「気合い入ってんなぁ。」
 翌朝から二人は鍛冶仕事へと戻った。新しい刀もいよいよ焼き入れの時を迎える。竜樹に気合いが入るのも当然のことだった。

 焼き入れとは刀に命を吹き込む重要な作業。まずは刀身の表面に粘土、炭、砥石の粉を混ぜた土を塗る。その作業は土置きと呼ばれ、土の有無や濃淡で刀に波紋を生む。実に絵画のごとく繊細な作業だ。
 その後、刀身が赤らむほどに炎で熱し、水で急冷する、それが焼き入れ。熱の加減、水の加減、それぞれの時間。刀匠の経験と勘に委ねられる要素が多く、刀の善し悪しを左右する作業である。
 幸いなことに材料となるべきものは揃っていた。熱し、冷やす時に刀身を掴む道具は、百鬼が鍛冶屋で見つけた工具を改造し、作り上げていた。
 「___」
 土置きには高い集中力が必要。彼の師匠もこの作業の時は鍛冶場を離れ、畳敷きの間で挑む。百鬼もそれに倣い、畳はなかったが鍛冶屋の奥にあった酒蔵に蝋燭を立て、土を置いていた。
 「鞴は___よし、問題なし。」
 百鬼が土置きをしている間、竜樹は焼き入れの用意を調えていた。どうすれば百鬼が作業をしやすいか、火にくべる炭はどれほど必要か、鞴の状態は万全か、水は冷たく清らかか___彼女は甲斐甲斐しく働き、謙虚で、まるで百鬼の弟子のようだった。いやいや、大ざっぱで荒っぽい所作も抑え、少し淑やかにさえ見えるその姿は妻かもしれない。
 「こんなものかな?」
 あらかたの用意を調え満足げに額の汗を拭う。黄泉にいた頃は相手を思いやる気持ちなど持たず、自分しか見ていなかった竜樹。数日とはいえ百鬼と時を過ごすことで、彼女は親思いだった少女の頃に戻っているようだった。
 そして焼き入れの時。
 「正直なところ自信はねえが、出来るだけのことはやってみるぜ。」
 「任せるよ。」
 そのやり取りを最後に二人は沈黙した。百鬼は鞴の火を起こし、焼き入れの適温を見極めようと目を光らせる。竜樹は集中を妨げまいと息を潜め、そして彼の視界に入らない位置からその姿をじっと見つめた。緊迫感が鍛冶場に心地よい気をもたらしていた。
 「よし。」
 やがて百鬼は意を決したように鋼を取り、炎の中へ。鞴のうなりの中で、火の粉を散らし、刀は赤みを帯びていく。頃合いを見て、赤熱した鋼を水へ。水は音を立てて瞬時に沸騰した。そして___
 「___」
 百鬼も竜樹も言葉を漏らすのには時間が掛かった。引き上げた鋼は滑らかな波紋を持ち、美しく反り返っている。それまで真っ直ぐに伸びていた刀の変身。百鬼はただ黙ってその出来映えを確かめ、竜樹は感激で声が出なかった。
 「まずまず___かな。」
 やっと呟いた百鬼の一言が、緊張の糸を断った。
 「すっげぇぇ!すげえよ百鬼!」
 「うわっ!馬鹿、危ねえだろ!」
 「あーっ嬉しい!新しい刀ができた!」
 竜樹は歓喜の叫びを上げて百鬼の背中に抱きついた。刀を落としかけて慌てた百鬼も、肩の横から顔を出した竜樹が嬉しさで頬を寄せると、怒るのをやめた。
 「早まるんじゃないぜ、まだ終わりじゃない。」
 「そうなのか?」
 「まだ細かい調整が必要だ、それに刀は研がなきゃ使えない。分かったら離れてくれっか?」
 「いいじゃねえかよ、気が収まるまでこうさせろ!」
 「___しゃあねえなぁ。」
 竜樹は自らの新たな友を生み出してくれた百鬼への感謝を温もりに込める。彼女に自覚があるかどうかは別にして、それは愛情表現の一つといえた。一方で百鬼は懐かしさを胸に抱いていた。竜樹の感触は、子供たちのそれに似ていたから。

 日が落ちた。百鬼と竜樹はまだ鍛冶場にいた。しかも刀を握っているのは百鬼でなく竜樹。彼女は水桶と砥石を前に、熱心に刀を石に擦りつけていた。
 「この先俺がこの刀と長くつき合うために、研ぎを教えて欲しい。」
 竜樹は真摯にそう訴え、百鬼も彼女の精神の成長を素直に喜んだ。物事の特徴を捉えてそれをすぐに還元できる吸収力と、休むことを知らない未曾有の体力で、竜樹は数時間のうちに研ぎの基本を覚えた。決して上手ではないが、基本に忠実に、時が経とうとも集中を乱すことなく、彼女は刀を研ぎ続ける。
 しかし、その緊張は唐突に絶たれた。
 ガタンッ!
 突然鍛冶場の窓が開き、一陣の風が吹き込んだかと思うと蝋燭の明かりを消し去った。
 「なんだ!?」
 暗闇に一転する鍛冶場。百鬼が火種を手探りすると同時に、ドアの開く音がする。そして___
 「娘よ、お主の肉をこの老いぼれに捧げよ。」
 嗄れた声がした。その瞬間、百鬼は自分のすぐ近くで夥しい殺気を感じた。
 「性骨___!」
 それは竜樹の殺気だった。薄暗い黄泉で過ごしてきた彼女は暗闇でも目が利く。ドアの向こうに立つ狂気の老翁の影を見て、彼女はいきり立った。まだ刀身だけでしかない半端な刀を握り、竜樹は水桶を蹴飛ばして鍛冶屋から飛び出した。
 「!?___待て竜樹!」
 百鬼が叫んだのも束の間、鍛冶場には人の気配が無くなっていた。
 「どういう事だ?あの爺は死んだんじゃないのか!?」
 龍風を握り、開け放たれた扉の外へ急ぐ。しかしそこに竜樹の姿はない。
 「竜樹!どこだ!?」
 「もし!そこのお方!」
 「!___天族!?」
 呼びかけに答えたのは聞き慣れない声だった。振り向くと、三人の女性天族が空の高見から一気に滑空してくる。
 「光に属する方とお見受けいたします!」
 「我々の同士が城の地下に捕らえられているのです!どうかお助けください!」
 彼女たちは半裸で、深くはないが傷を負っていた。
 「捕らえられてる___どういう事だ!?」
 「悪魔の所行です___男たちは皆殺しにされ、女たちだけが城の地下に押し込められ___」
 「その悪魔は性骨と名乗っておりました___!」
 「!」
 天族の女性たちは体を隠すことも程々に、矢継ぎ早に言い放つ。しかも性骨の名を出されては、百鬼も黙っていられなかった。
 「案内してくれ!」
 「は、はいっ!」
 性骨の巣を暴く、そうすることが竜樹を見つけだし、なぜだか蘇るあの老翁を打倒するための近道に思えた。だから百鬼は先導する天族たちの後へと続いた。
 彼女たちが不適な笑みを浮かべたとも知らず。
 「野郎!待ちやがれ!」
 一方の竜樹は性骨の影を追いかけて走った。思いのほか速い老翁。しかし竜樹がグッと姿勢を前に倒すと見る見るうちに距離が縮まっていく。
 「おおおおお!」
 新しい刀にはまだ柄がない。しかし竜樹の掌に吸い付くように、驚くほど馴染んでいた。
 ザンッ!
 横凪に一閃!寝かせた刀は影の首を食らい、一太刀に切り落とした。
 「!?」
 しかし転がった首は性骨ではない、見たことのない若い女だった。
 「別人!」
 だが体を顧みればそれは紛れもない性骨の体。腰が曲がり、がに股で、腕が長い。
 「っ___!」
 暗闇の中、首を失った性骨の体が竜樹の方へと振り向いた。やはり彼女にとって性骨は恐るべき存在なのか、首のない胴体を前にして竜樹の肩が確かに竦む。
 恐怖感が押し寄せ、闘争心が失われていく。にじり寄るように迫る性骨の体に彼女は後退った。その足下には街路の段差が___
 「ひっ___」
 情けない声を出して尻餅を付く。幼少期の情景を連想させる存在感、つい昨日の屈辱を思い起こさせる肉体。性骨はまさしく竜樹の天敵!
 「来るな___来るなぁ!」
 竜樹はその場で首を振るだけで、腰が抜けたように動けなくなっていた。性骨の体はゆっくりと彼女の目前へと立ち、一気にのし掛かる!
 「うわああっ!」
 そのとき竜樹は目を閉じていた。無意識だったのか、それとも刀が彼女をそう導いたのか、それは定かではない。しかし切っ先は性骨に対して自然と直角を向き、忌まわしき体の中心を貫いていた。
 「う___?」
 刀は自然と捻られ、性骨の体はそれ以上倒れない。竜樹は我が目を疑うように、自分の手に吸い付く未完成の刀を見ていた。
 「___」
 性骨の長い手が串刺しのまま竜樹の両肩を掴む。だが己の両手に宿る暖かさの前に、悪魔の手の冷たさは恐怖の対象にさえならなかった。
 「百鬼___そうだ___俺には百鬼がいる!」
 錯覚かも知れないが、百鬼が手を添えて共に刀を握ってくれているような気がした。それほどに両手が暖かい。
 「うおおおお!」
 竜樹の両腕に忘れかけていた剛力が舞い戻った。性骨の血を浴びようと臆することなく、彼女は刀を力任せに押し下げていく。
 「うおりゃああっ!」
 股まで切り裂かれた性骨の体は竜樹の力に押されて跳ね上がる。それはすでに胸の辺りから縦に両断されているが、度重なる復活劇を知る彼女は容赦しなかった。
 町から差す僅かな光が刀の軌跡を闇に浮かび上がらせた。鮮やかに、無駄のない剣術。次の瞬間には、性骨の体が細切れになって地に転がっていった。
 「___」
 息は乱れていなかった。臆病に打ち克った彼女は刀についた血を払い、落ち着いた面もちで性骨の成れの果てを見下ろした。
 「いや___これじゃ駄目だ、頭がない。」
 そうだ、この胴体の頭が性骨でなかったこと、何度倒しても蘇り続けている事実、こんなものでは性骨は死なない予感があった。
 「百鬼!」
 そして同時に、自分がまんまと百鬼の元から引き離されていることに気づく。
 (填められた!)
 性骨の頭が無かった理由___あの鬼畜は百鬼の命を狙っている!竜樹は大きな舌打ちをして駆け出した。沸き上がる怒り、焦り、苛立ち___それは百鬼の身を案じてのもの。破壊ではなく、守護の心。ただ、荒ぶる闘志は彼女の瞳の形を少しずつ変えていった。

 ゲンペストライン城___
 城の前まで辿り着いた百鬼は、入り口で思わず息を飲んだ。場内はまるで黒い絵の具で塗りつぶしたかのように暗い。
 「さあ、どうか我々の同士をお助けください!」
 それまで先導していたのに、天族たちはいざとなると百鬼の後ろへと回る。助けに向かうことに異論はないが、暗闇に突っ込むのは分が悪い。
 「あそこの松明を取ってくれるか?こう暗くちゃ目が利かない。」
 城壁に掲げられた火のない松明を見つけ、百鬼は指さした。しかし天族たちは誰一人翼を広げない。
 「いりませんわ。」
 「は?」
 「性骨様がいらないとおっしゃっております。」
 「!」
 天族の笑みは無理矢理頬を引っ張り上げられたかのように不自然だった。百鬼は後方に一歩飛び、龍風を構える。
 「罠ってことか?情けねえ。何となくそんな気もしていたくせに、まんまと騙された。」
 三人の天族は城の入り口いっぱいに広がって、百鬼を闇の中へ追い込もうとする。だが彼はむやみに下がらない。
 「だがな、あんな事があった翌日だ___俺だって用心はしてるぜ!」
 百鬼は片手を素早く懐に入れたかと思うと、何かを取り出して床に叩き付けた。乾いた音と火花、そして凄まじい閃光が巻き起こる。火薬を詰めて作った癇癪球だ。
 「くっ!」
 天族たちが怯んだ隙に百鬼は城の外へと走る。
 「げげっ!」
 城の前には石畳の庭園が広がる。そこで四人の天族が百鬼の行く手を塞いだ。いずれも女性、そして虚ろな目をしている。
 「こいつらも操られてるのか!?」
 生身の体温を持っているのは間違いないのだ。それは先ほどの三人と接触して分かった。となると、彼女たちを龍風で斬ることはできない。
 「ちっ!」
 忌々しげに舌打ちし、百鬼は左へと逃げた。しかし行く手にまた天族、どの方向へ逃げても次々と女性天族が現れ、ついには庭園のど真ん中で取り囲まれてしまった。
 (何人いるんだ___)
 肩で息を弾ませ、百鬼は腰を低くして前後左右全てに神経を傾ける。彼を取り囲む天族の数は五十人はくだらない。ただその中で、彼の気配を特に引きつけるのは一人。最初に鍛冶屋の前に現れた三人のうちの一人だった。
 「性骨!この島に誰もいないのはおまえの仕業か!」
 その天族を睨み付け百鬼は言い放つ。
 「答えろ性骨!」
 折れたのは性骨だった。
 「よくぞ見破った。」
 天族の顔が崩れ、皮膚や髪が削げ落ちていくと、現れたのは深い皺が刻まれた顔。性骨の頭と女の体を結ぶ首にはくっきりと筋がついていた。何より肌の色が違いすぎる。
 「なぜ儂が化けていると分かった?」
 その問いかけに、百鬼は笑止とばかりに答えた。
 「おまえしか喋ってねえからだよ。これだけいて、俺に口をきいた天族はおまえだけだった。」
 「なるほど、以後気を付けるとしよう。」
 性骨は嫌らしい笑みを浮かべ、スッと手を伸ばした。
 「問答無用か!」
 それと同時に天族たちが一斉に襲いかかる。切迫した状況。しかし百鬼の兵法はいつも一貫している。すなわち___ただ「魂」で突破するのみ!
 「いくぞおおおおっ!」
 怒号と共に足下の石畳みに斬りつけると、砕けた石が飛礫となって天族たちを襲った。見つけた隙、それに向かって百鬼は突貫する。三人まとめて肩で突き倒し、後ろから掴みかかってきた天族は左手一本で投げ飛ばす。次から次へとなぎ払うようにして前への活路を開いていった。しかし如何せん多勢に無勢。
 「ぐっ!」
 背後から襲いかかった天族の爪が百鬼の背中に食い込む。すぐさま翻って弾き飛ばしたが、そこには別の天族が歯を剥いて待っていた。
 「この野郎___!」
 包囲から抜け出そうと懸命に進んでいた百鬼の動きが止められた。そうなれば餌に群がるピラニアのように、天族たちが爪と歯を突き立ててくる。
 「ぐああああ___!」
 激しい悶絶さえも人の波に飲まれていく。大勢の天族に埋もれ、百鬼の姿は高みの見物をしていた性骨の目にさえ届かない。
 が、その時間はごく短いものだった。
 ギュン___!
 戦場に一筋の光が走ると、天族の体が無数に宙を舞った。高く跳ね上げられた体は輪切りにされており、血の雨を降らせ、時折朧に輝く彼女を血で染めていく。
 「シュルルル___!」
 光の正体は竜樹だった。しかしその風体、獣のような息づかい、牙、角、猫のような瞳___紛れもなく羅刹竜樹だ。
 「フゥゥ___」
 だが羅刹は怒りに満ちたその表情のなかに、時折柔らかさを覗かせる。それは朧気な輝きの強弱と同調していた。殺気の満ち引きは、理性との葛藤なのかもしれない。
 ただ微かな理性も、群がる天族たちの狭間から血に濡れた百鬼の腕が飛び出しているのを見ると、簡単に失せた。
 「グアアア!」
 竜樹の殺気が爆発し、夥しい波動となって周囲の大気を冷やす。そして壮絶な殺戮劇が始まった。天族が一人また一人と血を噴射して吹っ飛ばされる様は地獄の演舞。しかし見境無しのようで、気絶している百鬼には傷一つ付けていなかった。
 「おい___!」
 「あれは!」
 竜樹が朧気に輝くものだから、その様は夜の空からはっきりと見えた。武装した数人の天族が偶然それを見つけたのは幸運と呼ぶべきか。彼らの武具には天界文字で「シュバルツァー」と記されていた。
 「う___」
 全身、それこそ顔から足先まで、百鬼の体には裂傷が刻まれていた。一つ一つは浅いが断続する痛みに彼は意識を失っていた。
 しかしその痛みも、目覚めたときの衝撃に比べれば物の数ではなかった。
 「!」
 視界に飛び込んできた光景、それは竜樹が性骨を脳天から真っ二つに叩き切っている姿だった。ただそれよりも今の彼女の容姿、そして広がる血と肉片の海が百鬼を愕然とさせた。
 これこそ鬼神羅刹が生む光景___竜樹自身が恐れるのも無理はない。
 「シャアア!」
 まだ女性天族が片手の指で足りる程度だが生き残っているようだ。しかし彼女たちは性骨が倒されたためか、糸が切れたようにその場で立ちつくしたり、座り込んだりしていた。そこに竜樹が襲いかかる!
 「やめろ竜樹!」
 ビクンッ!百鬼の一喝に竜樹の体がピタリと止まった。朧気な輝きが激しく波打ち、彼女はまるで機械仕掛けのようなギクシャクとした動きで、怒りに満ちた顔を彼に向ける。
 「見ろ!俺はもう大丈夫だ!」
 百鬼は全身からの出血で目も眩むほどだった。それでも気丈に、よろめくこともなく立ち上がり、血で桃色に濡れた歯を見せて笑った。
 「グゥ___ウウウッ___!」
 竜樹の殺気に翳りが走る。と、同時に彼女は片手で頭を掻きむしり、呻き始めた。
 「自分を取り戻せ!竜樹!」
 声を張り上げた百鬼も立っているのがやっとの状態。しかし竜樹が懸命に自分の中の鬼神を抑えようとしている姿は、彼を踏ん張らせた。そして___
 「ぐぅぁああっ!」
 叫びと共に光が竜樹の体内に吸い込まれ、消えていく。滝のような汗にまみれ、酷い疲れを露呈してはいたが、彼女は元の利発な顔を取り戻した。
 「百___鬼___」
 弱い声で彼の名を呼んだのが羅刹を押さえ込んだ証だった。
 「良かった___正気に戻ったな___」
 百鬼の体から力が抜け、その場で腰から砕けそうになる___と、その時。
 ズドンッ!
 「!?」
 竜樹が握っていた刀が落ちた。しかも___彼女の右手ごと。
 大地にヒビを走らせるほど深く、槍のような巨大な矢が突き刺さっていた。
 「がはっ___」
 竜樹は目を見開き、血を吐き出す。腕を射抜かれただけではない。背に打ち込まれた太い矢は、彼女の腹にも風穴を開けていた。
 慄然として空を見上げる百鬼。そこには五人の天族が竜樹を狙って特大のボウガンを構えていた。
 「撃てぇっ!」
 「やめろ!」
 疲弊した彼女には逃げる力がない。羅刹後の竜樹は消耗が激しく、いつものような強健さを持たない。無論、稲妻のごとき矢から自力で逃れるのは不可能だった。
 「やめろおおっ!」
 傷ついた百鬼には止める力がない。叫ぶことはできても、体を前へと傾けることはできても、放たれた矢の盾となるのはもう無理だった。
 竜樹が死を逃れる術はないかに思えた。
 パアアアァァッ!
 「!?」
 その時、戦場に目映い光が広がった。辺りは闇、突如の閃光に天族も百鬼も視界を失った。光は壁となって全ての矢を防ぐ。そして何者かが竜樹の元に寄ると、彼女を柔らかな魔力で包んだ。
 「生きているな?」
 優しい声で囁いたのは光の中で銀髪を煌めかす女、冬美だった。
 「竜樹!?くっ、なんだこの光は!」
 眩む視界の中で百鬼は竜樹の名を呼んだ。その姿を見て、冬美は少しだけ厳しい顔になる。たった一言ではあったが、彼の口から竜樹の名がごく自然に出たことで、ある程度の状況を察したのだ。
 そして彼女は一時だけ、フュミレイ・リドンに戻った。
 「おまえはまた、女を惑わすのだな___」
 その声に百鬼は耳を疑った。
 「竜樹は大切な仲間だ。死なせはしない。」
 「お、おい___待ってくれ!」
 必死に目を開けようとするが、それは叶わない。目映い光の中で彼女のシルエットさえ見られなかった。分かったのは、竜樹の気配と危機的な息遣いが消えたことだけだった。
 「今のは___」
 忘れるはずない。もう十年近く耳にしていなくとも、幼少の頃を共に過ごし、互いに愛を感じていたその人の声を。だが、だとしたらなぜ彼女がここにいるのか?
 苦悩するうちに傷の重みが体にずしりとのし掛かり、百鬼はその場で意識を失った。

 それから___
 「不気味なつらしやがって___」
 血の池地獄と化した城の前の庭園で、百鬼は両断された性骨の頭を訝しげに見下ろしていた。左右に分かれた顔は不気味な笑みを浮かべている。殺されることなど屁でもない___そうとでも言いたそうな顔だった。
 「よろしいですか?」
 彼の側には火のついた松明を手に天族が立っていた。屈強な彼はシュバルツァーからやってきた五人のうちの一人だ。
 「ああ、やってくれ。」
 百鬼は数歩後ろへと下がり、天族は松明を投じた。若干の油を撒いた血の池に、火は一気に広がった。天族は燃えさかる同志の骸に敬礼し、百鬼は手を合わせて目を閉じた。火の中で性骨の骸もまた、溶け落ちていった。
 溶け落ちないのは耳から離れないあの声だけ___
 (フュミレイ___なのか?)
 性骨を倒してもなお、彼の心中は穏やかにはならなかった。




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