4 羅刹の呪縛
そこは貧しい集落だった。妖魔でも、戦う力に乏しい者たちが寄り集まった集落は概して貧しいものである。ただ貧しいことは決して不幸ではない。自分たちの暮らしを自分たちの仲間だけで控えめに行い、他の妖魔との諍いを避ける。それは争乱が絶えない黄泉では幸せな生活といえた。
そんな集落にある妖魔の夫婦が住んでいた。戦いのための能力は持たないが、強靱な肉体と精神を持つ父は竜幻。病弱だが美しい妻は名を白樹と言った。白樹の体が弱いこともあり、二人はなかなか子宝に恵まれなかったが、誰の目にも幸せな夫婦は集落の多くの人々に愛されていた。そして二人はやっとの思いで子を授かる。生まれたのは女の子、名は互いから一文字ずつを取り竜樹と名付けた。
夫婦は新たなる幸せを手に入れたが、白樹は出産による体力の消耗が激しく、床に伏す日々が続いた。そして生まれた竜樹もまた、赤子としてはあまりにも小さく、健やかとは言い難かった。
生きることは出来ないかもしれない___出産の介添えをした老妖魔は重苦しい声で言った。我が子があまりにも不憫でならない。そのとき白樹は、母から伝えられた秘伝の万能薬のことを思い出した。
「これは白き力の泉の水を固めた丸薬です。どんな病をもたちどころに治しますが、何らかの大きな見返りがあるやもしれません。真に不憫なる命を救いたいときにだけお使いなさい。」
母はそれを祖母から伝えられたものと言い、白き童の子より授かったという。「大きな見返り」という言葉は気になったが、死に勝る見返りなどあるはずもない。夫婦は迷わず、丸薬を竜樹に与えた。
それからというもの竜樹はたちどころに元気になり、すくすくと育っていった。小柄だがそれまでが嘘のように丈夫で、体を動かすことを好むお転婆娘へと育っていった。それでも家に戻れば床に伏す白樹の代わりに料理を作り、洗濯もし、縫い物もする、甲斐甲斐しい娘だった。
それはとても幸せな日々だった。夫婦も「大きな見返り」の事などすっかり忘れ去っていた。
ある日のこと、竜樹は食材を取りに集落近くの山へとやってきていた。美味しいキノコの群生地を見つけ、ニコニコしながらもぎ取っていた。彼女は長い髪を頭の後ろで束ね、着流し姿。年は八つになるが、妖魔の成長力は人それぞれ。このころの彼女は今の竜樹よりもう少し幼いくらいでしかない。凛とした面もちはこのころから変わっていなかった。
(こんなに沢山、今日はキノコづくしね。)
風が木々の狭間を吹き抜ける。すると竜樹の顔色が曇った。
「この匂いは___」
風が焦臭い。山火事か?竜樹はキノコの入った籠をその場に置き、幹がうねり、枝の多い木を見つけて颯爽と登っていった。
「!」
木の天辺から見えたのは煙を上げる集落だった。
駆け足で戻った集落は壮絶な様相を呈していた。頭首の家には火が放たれ、切り裂かれた人々がそこら中に倒れていた。
「これは___こんなこと___」
竜樹は絶句した。その場に立ち止まり、ただ呆然とするしかなかった。しかし遠くで悲鳴を聞くと彼女は自我を取り戻した。
「父上___母上___!」
自分でもこれほど早く走れたのか、その時はそんなことを考えるいとまもなかったが肉体的な強靱さはこのころから備わっていた。一目散に目指す自宅。遠くからでも家の土壁に穴が空いているのが見えた。そして穴から真っ直ぐに離れたところに___
「父上!」
竜幻が倒れていた。駆け寄った竜樹にも父がもう手遅れだということは一目で分かった。胸から腹まで抉られたような深い傷が付いている。ただそれでも、ささやかな希望を頼りに彼女は父の手に触れ、その冷たさに唇を噛んだ。その場で泣き出しそうになった竜樹だが、家の中からも物音がする。
「___母上!」
竜樹は急いだ。この世の誰よりも愛している母の元へ。家の扉は破壊されている。彼女は全速力で我が家へと飛び込んだ。
「母上!」
荒れ果てた家。ここで父が戦ったのだろう、血が飛び散っていた。竜樹はいつも母がいる床の間へ走る。
「___!」
そして慄然とした。床の間で母は熊のような大男に両の腿を抱えた形で組み敷かれていた。夫婦の逢瀬とはほど遠く、母は苦しそうに顎を突き上げ弱々しい悲鳴を上げる。病床の布団がこれ見よがしで余りにも憎い。
「___母上ぇ!」
それでもその場で茫然自失としなかったのは竜樹の心の強さのなせる技か。彼女は母を呼び、勇気を振り絞って熊のような男に噛みついてやろうと歯を剥いた。が、突如として天井からの影が竜樹にのしかかってきた。
「!」
それは巨大な蛇だった。突然のことによろめいた彼女の体に巻き付くと、竜樹は前のめりに転倒した。
「竜樹___逃げて___ぐっ!」
首を娘の方へと倒し、母は切実な声を絞り出した。しかし娘は蛇に全身を絡め取られて身動きが取れない。
「やめろ!母上を離せこのけだもの!」
竜樹は男に怒鳴りつける。自らに及ぶ危機など顧みもせずに。
「ひっ!」
蛇に首筋を嘗められ、彼女は息を飲んだ。見れば蛇の頭は人のそれへと変わっている。
「悪趣味なやつめ、そんなガキの何がいい。」
熊のような男が低いだみ声でいった。蛇はいつの間にか人へと姿を変え、俯せの竜樹の上に覆い被さっている。
「あんたの方がよっぽど悪趣味よ。わちきは壊さないように大事に扱うもの。」
「やだ!離せっ!」
口調は女のようだが声は太く、背中を通じて感じられる筋肉の感触はおぞましいほど。竜樹は必死に手足を動かそうと藻掻くが、どうにもならなかった。
「そいつは容姿がいい。人買いに売れば相当な金になるぞ。」
「そうさ、これだけの上玉なんだもの、処女じゃなくたって高く売れるじゃないのさ。」
「けっ、勝手にしろ。」
男は短い痙攣の後、白樹から離れた。
「竜樹___」
立ち上がることなど到底不可能。愛しい娘はとても手の届かないところにいる。それでも白樹は懸命に、震える手を伸ばした。
「母上___!」
竜樹もまた、執拗に首を嘗められようとも怯むことなく、母の手を取ろうと指で畳を掻いた。しかし届かない。その指は永遠に、暖かい母の手に届くことはなかった。
聞いたことのない音がした。
血飛沫が竜樹の顔にまで飛んできた。
悲鳴も出ない。竜樹は意識を喪失したかのように、ただその光景を視界に入れたまま真っ白になった。
「あ〜悪趣味。」
蛇に化けていた男が嫌気混じりに言う。熊のような男は白樹の腹を割き、たった今まで蹂躙していた女の女たる箇所を引きずり出し、喰らっていた。地獄絵図にもないような、人食いの鬼をも絶する下劣な所業。その衝撃は竜樹を真っ白にした。
その時に白樹がまだ生きていたかどうか定かではない。だがもし生きていたならば、彼女は死の瞬間、「大いなる報い」の意味を知ったに違いない。
「さあお嬢ちゃん。わちきと楽しみましょう。」
蛇男は失神したかと思うほど体の力が抜けた竜樹を仰向けにした。振り返った彼女の瞳の変化。男がそれに気づけたかどうかは定かではない。
「ひゅるる___」
笛を吹き損ねたような音が鳴る。それは蛇男の首で鳴っていた。喉元の肉が根こそぎはぎ取られ、切断された気管が飛び出して音を立てていた。肉は仰向けになった竜樹の左手の爪に引っかかっていた。次に右手。蛇男の首がえぐられ、今度は脈を切り、頸椎を砕いた。母の鮮血が蛇男の鮮血で上塗りされる。
「このガキ!」
熊のような男が慌てて竜樹に向き直る。振り向いた彼女の瞳は猫のように細く、両の犬歯は牙のように伸び、肉をそぎ取った爪は鋭く、額にも角を生やしていた。鬼神の形相だけでなく、目鼻立ちさえ少し変わっているようだった。男はそんな竜樹を目の当たりにし、恐怖の余り一歩も動けなくなった。
「___」
気が付いたとき、竜樹は血の海の中にいた。男の肉片は元が何であったか分からなくなるほど砕かれ、そこら中に散らばり、男ほどではないとはいえ母もまたバラバラだった。
「母上___!」
それでも首は綺麗に残っていた。残された苦痛の面が竜樹の慟哭を呼ぶ。彼女は母の首を抱き、嗚咽し続けた。
外に出ると、男の仲間たちがいた。彼らに襲撃されるとなぜか分からないが竜樹は一瞬だけ意識を喪失した。それは極度の興奮で精神の針が振りきれる感覚、絶頂とでも言おうか。とにかく我に返ったとき、彼女の目の前には男の骸が転がっているのである。それが立て続けだったからか、彼女は我に返ると酷い疲労を覚えた。そしてそのまま荒果てた集落の真ん中で倒れ、眠ってしまった。
夢に違いない。実際、この惨劇が夢だったという幸せな夢を見た。しかし真に目覚めると現実は違う。冷たい雨に叩き起こされた竜樹は真っ赤に染まった服と、そこら中の骸が放つ異臭にまた嗚咽するしかなかった。
___
「もう抵抗せぬのか?」
性骨に陵辱されたことで、あの日のことを思い出した。いや、黄泉ではじめてこの気色の悪い老翁に出くわしたあのときも、あの日の光景が頭をよぎった。あの時だって、本当は自分から冬美にこの忌まわしき思い出を話し、同情し、慰めてもらいたかったのかもしれない。
「そうか、屈したか。」
竜樹は涙を零していた。
___
竜樹は路頭に迷っていた。とにかく、一刻も早く集落を離れたかった。血染めの赤い服でふらふらと街道を歩き続けた。いっそ、このまま野垂れ死んでも良いと思っていた。それほど生きる希望がない。
「死相じゃ___」
そんな彼女に街道沿いに腰掛けていた老婆が声を掛けた。長い白髪、鼻が高く、大きな口。折り畳まれて見えるほど腰が曲がっていて背丈が小さい。
「死相___しかし殺しの相が出ている。」
「___」
竜樹は老婆を振り向いただけで声は出なかった。
「そなたは人殺しの化身じゃ。多くの命がそなたの手にかかり、葬り去られよう。」
占い師か?老婆は手に数珠を握っていた。
「そう思うのならあなたが私を殺してください。そうすればたくさんの人が助かるんでしょ___」
竜樹は投げやりに言った。声には力がなかった。
「絶望に打ちひしがれし娘___そなたが死ねばその身に巣くう殺戮の神に骸を乗っ取られよう。鬼神羅刹として命を食い尽くすに違いない。」
「鬼神___羅刹___?」
しかし老婆の言葉を聞くごとに、悲観的な顔つきではあるが表情に力が戻ってきた。
「左様___羅刹は人を食う殺戮の女神。」
「___人を食う___」
その言葉から連想されるのはあの惨劇でしかない。鬼神と化した自分が母の陰部を喰らう様が浮かび、竜樹は膝からその場に崩れ落ちた。
「それは___それは絶対に嫌だ!」
「羅刹に抗うのか___?」
答えは決まっていた。
自分に同居する鬼神「羅刹」。殺戮の女神は人を殺し、人を食う。
どうしたら羅刹の呪縛を断ち切れるのか?老婆は答えた。
羅刹をも凌駕する力を手に入れて完全に封殺するか、女であることを捨て去るかしかない___と。
その教えを信じ、竜樹は今の今まで戦い続けてきた___
___
「ん___」
不本意ではある。しかし体は火照り、汗ばんでいた。不覚にも声が漏れた。
反吐の出る話だが、性骨の手並みは実に丁重であった。
次第に竜樹はもうどうでも良いと感じるようになっていた。
彼女の負の悟りがその境地に達させた。
(俺は___全く強くなんてなっていない___)
性骨の前に成す術なく、危機に瀕したその時彼女は「羅刹」を呼んでいた。この時ばかりではない、あれほど忌み嫌いながら危機に瀕すれば羅刹の存在を頼って助けを懇願する___
何と弱いことか。
戦いの日々にしても、名刀龍風におんぶに抱っこ。意味もなく人を殺め続けるだけの殺戮鬼、己こそが羅刹に成り下がっていた。それに気がついた瞬間から、竜樹からは一切の戦意が消えた。絶望だけが胸に残るこの気持ち。血みどろの集落でたった一人雨に打たれていたあの時と同じだった。
ただ___
胸の隅にひとかけらだけ小さな光がある。
その光は人を愛おしむ気持ち___その人はまだ死んでいない。
「美しく、若く、瑞々しく、力に満ちあふれた主の雌を食したならばさぞ美味じゃろうて。しかしそのために死なすのは惜しい。わしの母となれ、娘よ。」
性骨の言葉の意味は分からなかった。徐々にではあるが、高揚感と共に意識が朦朧としはじめた。黄泉の河原で見た性骨に寄り添う女たちの姿を思いだし、自分もああなるのだなぁと曖昧模糊の中で思っていた___その時!
ザンッ___!
一筋の光が竜樹の目を覚まさせた。それは性骨の胴に真一文字に走っていた。老翁の体、上半身が真横にスライドする。血の圧力がそれを加速し、上半身が転げ落ちた。性骨の体は上下で真っ二つに切り裂かれていた。背後に立つ百鬼の手には、刀身半ばまでの龍風があった。今は肩で息をしながらも、刃を振るその瞬間、彼の剣に一切の乱れはない。だからこその見事な居合いだった。
「竜樹___!」
百鬼は悔恨の面もちでその名を呼んだ。すぐに彼女の元へと跪き抱き起こす。その間も百鬼は必死に竜樹に呼びかけ続けていた。しかしその言葉は竜樹の耳にはほとんど残っていなかった。胸がいっぱいで残る隙間もなかった。
「うわああああ___!」
百鬼の体温が心に火を与えてくれると竜樹の感情の堰が切れた。彼女は百鬼の胸に縋って号泣した。それは悲しみではない。安堵と、感謝の涙だった。
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