3 復活の死神

 シュバルツァー城のテラス。橙に染まった空は一日の終わりを告げ、天族たちの心を感傷的にさせ、来る夜に恐れを抱かせる。迫る闇、襲いかかる脅威、その全てに目を光らせるため、今日もシュバルツァーの兵は徹宵の番に付くだろう。ただ、この日のテラスには兵ではなく二人の番人がいた。小さな彼らは夜明け前からそこに居続け、決してその場を離れようとしなかった。
 「___」
 リュカとルディーが見つめる空、それは闇が迫る方角ではない。自分たちがここまで飛んできた空だった。二人が信じて待っているのは他でもない、父である。
 「あそこは自分たちが見張ると言って聞いていただけないのです___」
 「そうですか___わかりました、私が話してみましょう。」
 「それは助かります!」
 一方でほとほと困り果てていたのはこのテラスを任された番兵だ。そんな彼の姿をラゼレイの妻、フォルティナが見つけた。そして___
 「リュカ、ルディー。」
 「あ、フォルティナさん。」
 敢然と空を睨み続けていた二人だが、穏やかな呼び声に振り向いたルディーはすぐに笑顔を見せた。フォルティナには人の心を穏やかにする何かがあるのだろう。
 無事シュバルツァーに辿り着いた翼竜の一団、しかし父がいないことに二人はトーザスの声も聞こえないほど恐々としていた。それを優しく言葉を掛け、そっと抱きしめるだけで宥めたのもフォルティナだった。
 「ずっとここにいたそうですね?」
 「そうだよ。お父さんが帰ってくるのを待ってるんだ。」
 リュカも笑顔を覗かせる。子供らしくない気丈な笑みではなく、ごく自然に。母の愛に飢えていたことを差し引いても、二人はフォルティナにすぐに懐いていた。
 「僕たちがここから出ていったら、お父さんが帰ってきたときに心配するもの。そうだよね?」
 「ええ。」
 当初リュカたちは、父を捜すために翼竜を駆ってシュバルツァーを飛び出すつもりだった。しかしそれもフォルティナに諫められ、思いとどまった。彼女がかけた言葉は今リュカが口にした通りで、決して目新しい文句ではない。それでもトーザスが言うのとフォルティナが言うのでは心への響きが違う、それこそが彼女の素養なのだ。
 「でも二人とも、夜になったらお部屋に戻りましょう。」
 「あたしはずっとここにいたい。」
 「ぼくだって!」
 「でもリュカ、ルディー、眠ることもとても大切なことなのよ?生き物は時々眠らないと身体が壊れてしまうの。」
 「でも___」
 「大丈夫、私たち天族はとっても目がいいの。だから心配しないで。お父様が戻ってくるのを見つけたら、すぐに知らせてあげるから。」
 フォルティナの微笑はまさしく聖母の笑みか。意固地になっていた二人の心は解きほぐされ、少し力の抜けた顔になって互いに目を合わせる。
 「ね、休みましょう。」
 「うん___」
 頷いたと思うとルディーの瞼が急に重くなり、しゃがみ込んでいたフォルティナの膝に寄りかかるようにして眠ってしまった。
 「あらあら___」
 彼女の頭をそっと撫でると、今度は逆の膝にリュカが。
 「ふふ___」
 フォルティナはゆっくりとその場に腰を下ろす。彼女の膝枕で眠る子供たちは、とても安らいで見えた。それこそリュカなんて少し微笑んでいる。翼の聖女と二人の天使、夕日に照らされたその姿は絵画の一頁のようでもあった。
 「俺はどうすれば___」
 困り果てていたのは番兵くらいである。
 翌日___
 シュバルツァーの外れに一頭の翼竜が倒れているのが発見された。全身に深い傷を負い、見つかったときにはすでに息絶えていた。それは百鬼の操っていた竜だった。
 「この現実をどう受け止めるべきでしょうか___」
 ダイアンは重苦しい声で言った。隣にいたラゼレイは沈痛を気丈に変えて答える。
 「希望を捨てるべきではない___彼らのためにも。」
 振り返ると子供たちは唇をキュッと噛みしめて、トーザスの手を握っていた。しかし側に寄ったフォルティナが声をかけると、二人の手は彼女へと移る。それでも決して涙を流そうとはしなかった。泣いたら負け、泣いてしまったら希望を捨てることになる。意地にも似た願いだった。

 それからというもの、リュカとルディーはやきもきした日々を過ごしていた。ラゼレイも各地に呼びかけて百鬼の足取りを追ったが成果はない。もっとも各地ともアヌビス軍の襲撃に備えることに精一杯でそんな余裕はないのが実情だった。
 そんな彼らの心配をよそに___
 「それは何をやってるんだ?」
 百鬼は薄く伸ばした鋼を細かく割り、その一つ一つの感触を確かめていた。
 「鋼の選別だ。こうやって皮鉄と心鉄に使う鋼を分けるのさ。」
 「ふ〜ん。」
 竜樹は何となく頷いて、百鬼の手元をじっと見ている。百鬼はチラリと彼女を見やり、ニッと笑った。
 「分かってねえだろ。」
 「う、うるせえなっ!」
 「皮鉄には固いもの、心鉄には柔らかいものだ。刃になるのは皮鉄の方だよ。二つの鉄を組み合わせることで折れにくくなる。」
 竜樹は口を窄め、何度も頷いた。それから百鬼の仕事を見ているうちにふとしたことに気が付く。
 「龍風は使わないのか?」
 「新しい命を作りたいんだ。駄目か?」
 「いや___いいよ、百鬼がそう言うなら。」
 そう言った竜樹だが、正直な彼女の顔には寂しさが滲んでいた。
 「ごめんな、大口を叩いたが俺も名匠なんて器じゃない。今の腕じゃ龍風を素材に戻して打ち直すのは無理があると思ったんだ。」
 「難しいんだな。」
 「そうだぜ〜難しいんだ。俺も鍛冶やるまでは刀一本作る大変さを分かってなかった。」
 「それが分かったらもっと大事に使うようになるって言いたいんだろ?」
 竜樹はフンッと鼻を鳴らして腕組みした。
 「分かってるじゃんか。」
 「からかいやがって___!」
 「悪い悪い、悪いついでにいいもの見せてやるよ。」
 と言って百鬼が竜樹に見せたのは黒い鉱石だった。
 「鉄鉱石か?」
 「俺のいた世界から持ってきたもんだよ。火山の力で地層の奥底から吹き出した純度の高い練鉱石さ。こいつを使えば玉鋼で作る以上の刀が作れる。」
 「へぇ!」
 本来は敵同士であるはずの二人。その上生まれ育った世界も違う。竜樹は誰に対しても自分の素性を話したがらないし、百鬼も一線は画すつもりでいるから内情を語ることはしない。それでも「刀」という共通項だけで二人の距離は簡単に縮まっていた。
 豪快で気遣いが得意でない百鬼と、男勝りで物怖じしない竜樹。もともと気が合うのかも知れない。

 「___」
 熱のこもった鍛冶場。竜樹はじっと百鬼の仕事ぶりを見ていた。鞴を動かすと風が獣のいびきのように響き、火を吹き上げる。百鬼はそこに炭を足し、熱を強めていく。
 「緊張してるのか?」
 百鬼は先ほどからピクリとも動かず鞴の炎を見つめる竜樹に声を掛けた。
 「ああ___暑いけど身が引き締まる。」
 竜樹は若干の汗を滲ませ、凛々しい顔で答えた。気が高ぶっているのか、はっきりとした黒目がより大きく見える気がした。
 「緊張するのはいいことだ。その方が刀も締まる。」
 「ああ。」
 「でも肩に力が入りすぎたら藁束も切り損なうぞ。」
 「そうだな。」
 竜樹は背後を一瞥した。視線の先に見える龍風に彼女は何を思うか。
 (ごめんな___俺はおまえを頼っていただけで、大事にはしていなかった。でも俺にとっておまえはただ一人の拠り所だったんだ___俺を強くしてくれたのはおまえだし、おまえがいたから俺は生きてこれた。俺は___そろそろ一歩前へ進まないといけないのかも知れない。俺の体の中にある羅刹を封じ込めるために。)
 凛々しいが、神妙でどこか不安も覗くその横顔に、百鬼は自然とギクシャクしていた頃のソアラの横顔を重ねていた。
 (雑念だな。)
 しかしすぐに振り払い、火中に置かれた台上の鉄を睨み付けた。
 「よし。竜樹、鍛錬をはじめるぞ。」
 「___はいっ!」
 百鬼は手槌を握り、竜樹もまた大きな槌を握っていた。刀匠の向かいから槌を振り下ろす者、すなわち向槌は良い刀を作るために欠かせない。技量の必要な仕事ではあるが、細身のくせに強靱で、なおかつ振り下ろすことに一つの形を持つ竜樹は、僅かな練習で百鬼も驚くほどに手法を会得していた。
 鍛冶場にリズムのいい金属音が鳴る。静寂のゲンペストラインに、快音は良く響いていた。
 「___」
 暗闇で眠っていた者を呼び覚ます音が___

 鉄を打ち、鏨(たがね)を入れて折り返し、また打つ。それを延々繰り返すこと十数回。出会って間もない二人ではあったが、共に高い集中力の持ち主。阿吽の呼吸とは言わないまでも、時が経つほどに鍛錬は順調に進む。
 「よし、これまでだ。」
 「ふ〜___」
 どれくらい鎚を振るったかは分からない。長い時間を経て、鍛錬の終わりを聞いた瞬間、竜樹は長い緊張から開放されて大きく息を吐いた。
 「ご苦労さん、今日はここまでにしよう。」
 二人とも、頭に巻いた手ぬぐいをぐっしょりと濡らし、服には小さな焦げ跡、肌にも細かな火傷の跡が目立った。しかしその表情は実に爽快である。
 道具類の手入れを終えた百鬼と竜樹は、鍛冶屋の外へと出た。目的は風呂と飯である。
 「あの鉄が俺の刀になるんだよな〜。あーっ、早く続きがしてえ!」
 「元気だなぁおまえ。」
 まだまだ体力が有り余っているのか、竜樹はニコニコしながら鎚を振る仕草をして歩いた。百鬼はそれを見て苦笑する。
 「体力には自身があるんだ!黄泉では三夜ぶっ続けで闘っていたこともある!」
 「何でそんなに闘うんだよ?」
 「えぇ?あー、そりゃまあいろいろだよ。」
 「いろいろなぁ。」
 雑談には応じるし、口数も少なくない竜樹だが話が核心に触れると言葉をはぐらかす。しかし共同作業を通じて二人の壁が少なくなってきたのも確かだ。
 「さあ風呂風呂。」
 まずはたっぷりかいた汗を流すために竜樹が見つけた風呂へ。といってもやってきたのは居住区の目抜き通りにあった噴水だ。
 「なんでえ噴水じゃねえかよ___っておいっ!?」
 竜樹が意気揚々と服を脱ぎはじめ、百鬼は狼狽した。
 「なにいきなり脱いでんだよ!?」
 そう言っている間にも竜樹は晒しを巻いただけの姿に。百鬼は顔を赤くして目を隠した。
 「俺は女じゃねえんだから気にすんな。」
 「その体でどこが女じゃねえんだよ!」
 「うるさいな!あんまりごちゃごちゃ言うと百鬼でも殴るぞ!」
 「殺すぞ」じゃなかったところは多少の進歩か彼への敬意か?竜樹は頬を膨らませてさっさと晒しをほどき、噴水へと飛び込んだ。
 「百鬼も入れよ。気持ちいいぜ〜!」
 「入れよっておまえなぁ___」
 指の隙間から見える竜樹の裸体は溌剌としすぎて色気に欠けるが、明らかに女性の線を描く。
 「おまえ自分が女だって認めると何か悪いことでもあるのか?」
 「___そうだよ!だからもうその話はするな!さっさと入れよ、俺は男なんだから気にすんなっ!」
 百鬼はため息をつくと目を隠すのをやめ、半ば自棄になって服を脱ぎ捨てた。確かに炎天下の水浴びはとても気持ちのいいものだった。しかし___
 「うお〜すげえ。」
 「じっと見るんじゃねえの!」
 気恥ずかしさも一杯である。

 その夜。近くの民家のベッドを拝借するつもりが、竜樹が床に布団を敷いて寝たいと言い出したため、布団代わりになりそうな毛布などを拝借して鍛冶屋の隣家で眠る。しかし百鬼はなかなか寝付けずにいた。
 (あいつら___無事にシュバルツァーに辿り着けたかな___)
 目を閉じると子供たちの声が思い浮かび、百鬼の心を俄に焦らす。
 (それにしても俺たちは駄目な夫婦だなあ、ソアラ。物心ついて間もないあいつらを残して旅に出るわ、おまえは家を出るわ、俺はこんな調子だわ___本当、申し訳ねえよなぁ。おまえもきっとそんな気持ちだろ?)
 ソアラがいなくなってから子供たちもどこか無理をしている、我慢をしている風があった。自分まで彼らの前から消えてしまった今はなおさらだろう。早くシュバルツァーに行きたい思いが募る。
 (___帰ってこねえかなぁ。)
 目を閉じ、ソアラが苦笑いして頭を下げる姿を思い浮かべる百鬼。ひょっこりと帰ってきやしないか、淡い期待だった。と、そのとき。
 ドガッ!
 「ぐぇっ!?」
 仰向けで眠ろうとしていた百鬼の腹に衝撃が走る。呻いて顔を起こすと竜樹の脚がデンと乗っかっていた。並んでいるとはいえ少し離れて床を敷いたのに、何とも壮絶な寝相である。
 「このじゃじゃ馬___」
 百鬼は煙たい顔で首を横に傾けた。
 「っ___」
 お返しに少し荒っぽく脚をはねのけてやろうかと思ったが、振り向いたそこに安らかな竜樹の寝顔があって彼は硬直した。
 「___」
 日頃の凛々しさの余韻を残しながら、眠っているその時の竜樹は愛らしい乙女の顔。それほど顔が似ているわけではないのに、よほどソアラが恋しいのか百鬼はその寝顔に紫髪の妻を思う。
 (無警戒な奴___)
 この島に二人きりだからなのか、竜樹は安心しきった様子でスゥスゥと穏やかな寝息を立てている。百鬼は仰向けから竜樹の方へと体を倒した。互いの顔が向かい合うと、すぐ側にソアラがいるような幸福を感じる。
 子供たちを思う焦燥が和らぎ、やがて彼は眠りに落ちた。
 それから___
 「ん〜___」
 竜樹は不意に目を覚ました。なぜだか分からないが寝苦しい。
 (暑い___)
 朦朧としつつも目覚めた彼女。何だか暑くて体が汗ばんでいる気がした。
 「っ!?」
 それもそのはず、自分はいつの間にか百鬼の毛布に入っていて、しかも彼の手に肩を抱かれるような格好。互いの寝息が掛かるほどに接近して向かい合っている。
 「___」
 はね飛ばしてやる!と竜樹もその瞬間だけは思った。しかし竜樹の寝顔がそうであったように、百鬼の寝顔もまた純朴。寝顔を目の当たりにすると彼女から血気が失せた。
 (しょうがねえな___)
 そして何もせず、そのまま目を閉じてみる。スルリと抜け出して自分の毛布に戻ることも出来ただろう。しかし竜樹はそのままでいた。なぜ?男を自負する彼女には分からないようだ。
 抱きしめるとはいかないまでもそれに近い格好。彼女の頬がポッと赤らんでいたのは暑かったからだろうか。結局、百鬼が寝返りをうつまで約一時間。竜樹は眠るどころか落ち着いて目を閉じ続けることさえままならず、そのままでいた。
 それから自分の毛布に戻っても、暫く寝付けなかった。彼女自身はその原因を暑さとしか考えなかったが___

 「すげえなぁ、刀の形になってきた!」
 心鉄を皮鉄で包むような形で鍛接する、いわゆる甲伏せで二つの鉄を一つにし、それをまた丹念に打って伸ばす。竜樹が向かい槌を振るうのはそこまで。ここからは百鬼一人で伸ばした鉄を刀の形に整えていく。
 そこからは無言だった。
 百鬼は自らの仕事に全神経を傾け、張りつめた空気を知る竜樹もその集中をかき乱すことはしない。
 (___)
 最初のうちは彼の手元を、やがて額に汗しながら一心に槌を振るう彼の横顔を、じっと見つめていた。その時間はとても長いものだった。しかし竜樹はいつしか百鬼の姿だけをただその目にとどめていた。
 「おい。」
 「え?」
 百鬼の姿に惚けていた竜樹は、久しぶりに声を掛けられて少し驚いた顔になる。
 「疲れたのか?なんかボーっとしてたぜ。」
 微笑する百鬼の手元にはすっかり刀の形となった鉄があった。次の行程は刀身の表面に泥を塗り、焼き入れを施すこと。刀に命を吹き込む大事な瞬間である。
 「そ、そんなことねえよ。」
 しかし竜樹はそちらよりも百鬼の笑みに気を取られ、知らず知らず照れるようにして首を竦めた。
 「?___見てただけなのに焼けたなぁ、顔が赤くなってる。」
 「うっ、うるせぇ!」
 竜樹はますます顔を赤くして、急に鍛冶場から飛び出してしまった。
 「なんだありゃ?」
 百鬼は手の甲で鼻の下にたまった汗を拭う。
 「なかなか良い出来になりそうだ。」
 「飯の材料を取ってくる!」
 改めて完成が近づいてきた刀を眺めていると、竜樹が一瞬舞い戻り、それだけ告げてまた外へと飛び出していった。
 「変な奴だな。」
 百鬼はちょっとおかしな竜樹に首を傾げるばかりだった。ただもっと首を傾げていたのは竜樹本人である。
 「なんなんだ___妙に気持ちが高ぶってやがる。」
 竜樹は自分の異変を不思議がりながら一目散に噴水を目指した。そして辿り着くなり頬を叩くように、力を込めて顔を洗う。なにかが熱い、それを冷ましたい一心で。
 「ふう___」
 ようやく少し落ち着きを取り戻したときには、髪も服もびしょ濡れになっていた。
 「飯だ飯。」
 頑張ってくれる百鬼のために食事の用意だ___とそんなことを考えると、また煤けた百鬼の顔が頭に浮かんで離れない。
 「う〜。」
 そうするとモヤモヤが湧いてくる。でも決して不快ではない。ただ、今までの自分には全くなかった感覚だった。
 「う?」
 もう一度顔を洗おうと身を乗り出したとき、波立つ水面に別の顔が映っていたことに気が付いた。
 「!?」
 咄嗟に身を翻して噴水から飛び退いた竜樹。視線の先には翼の生えた女がいた。女は目の焦点が定まらず、足下もおぼつかない。
 「た___すけ___て___」
 そして噴水に凭れかかるようにして倒れてしまった。
 「おい___おいっ!」
 なぜこの島に人がいないのか、彼女を助ければその答えが分かるかもしれない。竜樹はぐったりとして動かない女性の元へと駆け寄った。
 「やべえ!」
 彼女は顔を噴水に沈めて気を失っていた。竜樹は慌てて引き上げてやる。
 「なっ___?」
 思いも掛けないことだった。顔と一緒に水に沈んでいた女の両手。竜樹が彼女を起こしてやった瞬間、その腕が鋭く突き出された。
 トッ___
 竜樹の左の二の腕。そこに短刀が突き刺さっていた。
 「こいつ!」
 竜樹は呻きながらも鉄拳を放ち、天族の顔面に打ち付ける。女天族は朦朧とした顔のまま、噴水の中へと倒れ込んだ。
 「ぐぅっ!?」
 突如竜樹は激しい動悸を覚え、よろめいた。すぐさま左手が痺れはじめる。
 「毒か___!」
 何とか短刀を抜いたものの、右手にも痺れを感じて傷口を押さえることすらままならない。徐々に脚から力が失せ、舌先にも刺激を感じる。竜樹は噴水の縁に手を付いて、必死に体を支えた。
 「はっ!?」
 その時、水面に映り込む一人の影。後ろを振り返りたいが体が思うように動かない。
 「巨獣を死に至らしめる猛毒___じゃがお主にはちょうど良かろうて。」
 背後に聞く声。揺らぐ水面に映る男の輪郭。竜樹は背筋に寒気を感じ、力任せに体をねじ曲げて尻餅を付きながら後ろを振り返った。
 「___!」
 その時、竜樹は確かに震えた。それは武者震いなどではなく、純然たる恐怖のためだった。
 「て、てめえは___!」
 そこにいたのは老人である。顔は骸骨に皮膚を張り付けただけというほど痩せていて、片目が潰れている。痩身の体は餓鬼のように腹が飛び出し、腰は大きく曲がり、両手は地面に擦るほど長い。竜樹はその老人をはじめて見たわけではなかった。そして、まさかこんなところで再会するとは夢にも思わなかったから恐怖を抱いた。
 「久方ぶりじゃのう、娘よ。」
 なにしろ、性骨は竜樹が黄泉で殺したはずなのだから。
 「なんで生きてやがる___!」
 「それは愚問じゃ。我が人生は輪廻転生のごとし。お主の仲間にそれを思わせる名を持つ者がいたであろう。」
 確かにいた。補欠として遅れてきた男が。
 「輪廻___!」
 「気が付いたようじゃな。」
 「あれがてめえだったのか___だったらてめえの能力は___!?」
 「いずれお主にも分かる。」
 性骨が己の腰巻きを剥ぎ取った。竜樹は必死に体を起こそうと力を込める。
 (毒ぐらいがなんだ___俺の力はこんなものか!?)
 しかし手足が動かない。
 「動けぬのう、じゃがそれは毒の性か?わしを恐れるあまりでないのか?」
 「ふざけんじゃ___ね___え___」
 呂律さえ巧く回らない。出来ることはただただ震えを殺し、目の前の性骨を睨み付けるだけ。
 「お主のように若々しく力強いおなごが欲しい。わしがこの戦いに身を投じる理由はそれだけじゃ。そのためならば、敵も味方もない。」
 性骨はその長い手を伸ばし、竜樹の服の襟元を掴む。
 「ぶっ殺してやる___!」
 竜樹は歯を食いしばり、怒りを滾らせる。怒りに我を忘れれば、自分の中に潜む鬼神が顔を出してくるはずだ。そうすればこんな爺___
 「威勢が良いのう___じゃが、すぐに法悦の叫びを漏らすようになる。」
 竜樹を逆上させる言葉が続く。服を剥ぎ取られ、晒しが解かれ、肌を撫で回される。
 「殺してやる___殺してやる___!」
 竜樹の怒り、憎しみ、殺意はすでに頂点まで達している。だが、何も変わらない。彼女の瞳が猫のように縦になることもなければ、額に小さな角が生えることもない。
 「殺し___っ!」
 苦しみを逃れる術はなかった。




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