1 空中戦

 藍の空の下、四つ足の鳥がその大きな翼を羽ばたかせている。その獣は確かに首から上は鳥、猛禽類の顔をしていた。しかし体は獅子のようで、翼は羽毛とは無縁な背中からはえていた。グリフォンと呼ばれる魔獣である。その数はおよそ十。うち一頭は極めつけに体が大きく、その背には大人十数人が跨がれようかと言うほどだった。
 「まったく、あのように眩しくては満足に立ち回れぬわい。」
 そのグリフォンの背で、白髪交じりの老人が愚痴をこぼしていた。年相応に無駄な肉が削げ落ちこけた頬や、窪んだ目、高い鼻。老人は毒薬作りが得意な魔女のような風体だった。
 彼の名はザキエル。魔族である。
 「しかし夜となれば話は別じゃ。」
 冥府の中では、大勢の魔族や魔獣が暮らしている。何しろ天界を飲み込めるだけの巨大な世界でありアヌビスの故郷だ。そこにいる生命の数は計り知れない。もちろんアヌビスの忠実な僕として、命じられればいつでも戦場に赴く魔族はたくさんいる。しかしこの戦いで前線に立つのは傭兵の新八柱神だけで、魔族たちは内政に腐心していた。なぜか?
 まずは冥府をぶつける以上、危険を冒してまで小さな戦闘を増やす必要がない。
 そして冥府に飲まれた天界の島々は、冥府内で新たな大地として再構築される。つまり、このところ冥府の内側では次から次へと新たな土地が生まれている。野心的な魔族はその土地を自分のものにしようと先を争ってやってきて、激しい戦闘を繰り広げた。冥府はただ天界破滅へと邁進しているわけではない。中でも騒がしい日々が続いているのだ。
 「手柄を立てて我が名を轟かせるぞ!」
 そんな中、このザキエルは外へと出てきた。老齢だが老獪ではないこの男、知略は働くが不器用でどこか間が抜けている。アヌビスに忠実な魔族たちが同族の争乱沈静に飛び回っているのに、彼は持論を貫いた。
 「敵を討ってこそ手柄じゃ!」
 なにはともあれ、年を取ると頑固になるものだ。

 「ん___」
 翼竜の首の上で、リュカの体が少し前のめりになった。
 「おっと。」
 そのままずり落ちそうになったところをすぐ後ろにいた天族が掴まえた。
 「ん〜?」
 「大丈夫かい?」
 「ん。」
 リュカは瞼を擦りながら、それでも体勢を戻してまた前を見た。別の翼竜ではルディーが頑張って前を見続けているが、実際は落ちてくる瞼との戦いを繰り広げている。
 「トーザス!まだつかないのか?」
 子供たちの疲労を気に懸け、先導するトーザスの背に百鬼が呼びかけた。
 「シュバルツァーなら一時間戻れば付きますが___ブランドゥマにはどんなに飛ばしても明日の昼です。途中に休めるような島もありませんし___」
 「ここが最後の一踏ん張りか___リュカ、ルディー、もう少しだけ頑張れ!」
 「うんっ___!」
 百鬼の喝に必死に答える二人。百鬼は二人の背後で翼竜を操る天族たちに「頼む」との思いを込めた目配せをし、また前を向いた。
 そのまま暫く飛ぶ。翼竜の一団の中央を飛ぶバーフェルヘイツも眠気が差してきたか、時折うつらうつらとしていた。
 「クァァァッ!」
 「ぬっ!?」
 突然の叫声にバーフェルヘイツは肩を振るわせて目覚め、翼竜の首にしがみつくようにしてバランスを取る。
 「ギュアゥアッ!」
 「ギュアゥアッ!」
 最初に嘶いたのは先頭を行くトーザスの竜だった。それに呼応して、後ろに続いていた百鬼の竜、そしてリュカとルディーの竜も嘶いた頃には全ての竜が何か会話でもしているように啼いていた。
 「どうしたんだこりゃ?」
 「何か良くないことだと思う!」
 騒ぎ出した翼竜たちに百鬼が戸惑っていると、天族たちよりも早くリュカが言った。
 「良くないこと___そうか、これは警戒警報です!」
 「警戒警報?」
 「たとえば敵が接近してきたときとかの合図です!いや〜良かった〜、思い出せて。」
 ドラゴンズヘヴンの勤務なのだから、トーザスもそれなりに竜のことは理解している。面目を保ったとでも言うように、彼の喋る顔はにこやかだった。
 「笑ってる場合か!」
 「そ、そうですねっ!」
 百鬼に叱責されるのも無理はない。
 「敵襲か!これぞ我らの力を見せるまたとないチャンス!」
 バーフェルヘイツの声が風切る音を押しのけて百鬼の耳にも届いた。ドラゴンたちの注意は前に集中している。おそらく敵は正面から来るようだ。しかし目的地のブランドゥマもまた正面。
 「トーザス!火炎で閃光弾を!」
 「は___はいっ!」
 トーザスが何かを言いながら竜の首を叩くと、竜は徐に口を開いて火炎弾を放つ。それは風を劈いて花火のように遠くの空で弾けた。光に照らされ、敵の陰影がはっきりと浮かぶ。
 「見えました!数は十くらいです!」
 先頭のトーザスが正面を指さして叫んだ。
 「数では圧倒してるな___だが竜たちの動揺が気になる___」
 百鬼はそう呟いて、ここまで己を導いてくれた勇敢な翼竜の顔を覗き見た。彼は正面の空を睨みながら時折啼いていた。
 「戦闘布陣を取れ!一斉攻撃で一気に片を付けるのだ!」
 若干の迷いを見せた百鬼の不意を付くように、バーフェルヘイツの翼竜が前へと躍り出た。それに併せてそれまで後方を飛んでいた翼竜たちが大きく広がって隊列を取り、百鬼たちを追い越していく。
 「ちょ、ちょっとバーフェルヘイツさん!?」
 「しゃあねえ___戦いに迷いは禁物だ!」
 困惑するトーザスだったが、今回は百鬼もバーフェルヘイツの動きに同調した。
 「本気ですか!?」
 「やるしかないよね!」
 「大丈夫、勝てるよ!」
 リュカとルディーの翼竜も呼応するようにトーザスを追い越していった。
 「___しょうがない!」
 ついには彼も吹っ切れて、未知なる敵に立ち向かう隊列のしんがりへと付く。
 数で勝っているなら炎の一斉射撃で勝てる、そう踏んでの選択。決して彼らが優勢でないことを感じていたのは翼竜たちだけだった。
 「先手を打つ!いいか、私がこの剣を振り下ろしたと同時に火炎だ!」
 バーフェルヘイツは剣を振り上げ、天族たちはそれぞれの竜の位置が重ならないよう編隊を組んでいく。ただ、兵士の数が足りずに自ら竜を操っていた百鬼だけは、うまくいかない。
 「おいどうした、今までは言うとおりに動いてくれたじゃねえか。」
 「ギュアァァゥッ。」
 百鬼が声を掛けると、竜はそれは分かっているとでも言うように啼いた。
 「___やっぱり何かまずいのか?」
 彼の声の意味は分からない。ただ、百鬼には危険を知らせる言葉のように聞こえた。
 「いけぇぇぇいっ!」
 バーフェルヘイツが剣を振り下ろし、翼竜たちが次々と火球を吐いた。まさに一気呵成、数十を数える炎の大砲に敵は寄りつくことさえ出来ないはずだ。百鬼の翼竜だけは火球を吐かなかったが、背上の彼はその攻撃の迫力に目を奪われていた。
 「すげえ、これなら___!」
 勝てる!そう言いかけた百鬼は言葉を飲み込まなければならなかった。炎の眩しさに照らされて見えた敵の影。猛禽類の上半身に獅子の下半身を持つグリフォンの悠然とした顔つきを目の当たりにして、勝てるとは言えなかった。
 「!」
 先頭を行く一際巨大なグリフォンがその体に紫色のオーラを纏ったとき、真っ先に震えたのはルディーだった。母が持っていた魔道師の素質を存分に引き継いでいる彼女は、巨大な魔力に敏感だ。
 「ケェェェェッ!!」
 グリフォンの奇声が轟いた。そして紫色のオーラは大きな魔力のうねりと変わり、黒い輝きを発する。奇声は呪文だったのだろう、突如として突風が吹き荒れ、すぐにそれは身を食らう氷の粒を伴いはじめた。
 「呪文だ!何だっけこれ!?」
 「ヘイルストリーム!」
 強烈な吹雪はすぐさま炎を飲み込み、一瞬で消し飛ばす。その破壊力、そして扇状に広がる吹雪の大きさ、ルディーの言う通り最強の氷結呪文ヘイルストリームに間違いなかった。
 「ギュイィッ!?」
 前方に陣取っていた翼竜が氷の洗礼を浴びる。前に出ていたのはバーフェルヘイツを先頭に、兵隊たちを背にした竜たちだった。
 「ひええっ!」
 騎乗者はバーフェルヘイツが真っ先にそうしたように、竜の背に伏せればそれほどの痛みを負うことはない。しかし翼竜の大きな体、そして命ともいうべき翼はなす術なく氷の餌食となった。
 「お、おいどうした!」
 バーフェルヘイツの竜は翼を大きく切り裂かれ、体にも夥しい裂傷を負い、すでに首から力が失われていた。急降下する竜、バーフェルヘイツは慌てて自らの翼を開き宙へと舞った。すると彼の周囲を一頭、また一頭と竜が落ちていく。敵のグリフォンが放った呪文であっという間に六頭の翼竜が命を失っていた。
 「キィァァッ!」
 「ぬおぉっ!?」
 呆然としているのもつかの間、奇声を聞いたバーフェルヘイツはグリフォンがその嘴を開いて間近まで迫っていることに気が付いた。
 「ディオプラド!」
 危機を感じたその時、グリフォンの顔面に白熱球が激突し、爆発した。その光景を硬直して見ているしかなかったバーフェルヘイツ。その体をかっさらうように、翼竜に乗った天族が引っ張り上げた。
 「頭首、ご無事ですか!?」
 「む___あ、当たり前だ!」
 我に返ったバーフェルヘイツはいつもの調子で豪快に言った。
 「別なのが来るよ!」
 翼竜の背ではなく、首の辺りに乗り出して、ルディーはその手に魔力を満たしていた。先ほどのディオプラドも彼女が放ったのだ。
 「ウインドビュート!」
 この幼さにして獅子奮迅、鞭のように撓る突風が迫る小振りなグリフォンに打ち付けた。
 「えいやっ!」
 翼竜の牙を避け、小振りなグリフォンたちは騎乗者を狙ってくる。獅子の爪と鷲の嘴に、リュカは小さな体で巧みに剣を操って応戦していた。
 だが、一番の難敵はあの大きなグリフォンだ。
 「や、やめろ!くるなっ!」
 兵を背にした翼竜が倒され、戦いの訓練すら知らない天族たちを乗せた翼竜に大きなグリフォンが迫る。翼竜もその力強さに気圧されて、首が竦んで見えた。
 「うわあああっ!」
 一撃。獅子の爪が翼竜の首に食い込む。動きを止められた竜をそこそこに、グリフォンは背から逃げ出そうとした天族をその嘴で捕らえていった。嘴に挟みつけられ骨が砕ける音は、酷く耳に残る。
 「力の差がありすぎる___!」
 騎乗者の意志を無視して逃げまどう翼竜も現れはじめた。隊列は統制を失う、狼の群れに襲われた草食獣のように互いの距離が離れ、孤立させられていく。百鬼も迫り来るグリフォンを剣でいなすしかなかった。
 「ケァァッ!」
 また一頭。次々と散りゆく翼竜の姿は、子供たちの心を傷つける。
 「ディオプラド!ディオ___」
 「お嬢ちゃん!?」
 必死の抵抗を続けていたルディーが、突然翼竜の背から転げ落ちそうになった。背後の天族が慌てて支えると、彼女は意識を失っていた。怒りに任せて呪文を連発したためだった。
 「!」
 モンスターでありながら隙を逃さない強かさは獅子よりもハイエナを思わせる。天族がルディーに気を取られていたその時、複数のグリフォンが翼竜の首に食らいついていた。
 「まずい___!」
 天族はルディーを抱いて慌てて宙へと飛び上がる、しかしそこにもグリフォンが待ちかまえていた。
 「やああっ!」
 だが嘴がルディーを襲うことはなかった。リュカを乗せた翼竜が火を放って牽制し、さらに擦れ違いざまに投げつけた剣は見事にグリフォンの目に突き刺さった。振り回すだけでも重い剣、それを投げ槍のように扱えるのもリュカの素質の成せる業か。
 「うわっ!」
 しかし状況の悪さは変わらない。その後はリュカの翼竜も立て続けに襲いかかるグリフォンから逃れるのが精一杯。そうこうしている間にまた別の翼竜が餌食となる。
 「ええい!なにをやっているか!」
 それでもバーフェルヘイツの血気は変わらない。彼の竜は後方で他の竜を盾にするように飛ぶことを強いられていた。それは竜の本意ではない。
 「___もう構っていられない!」
 次々と朽ち果てていく同士の姿、それでもなお攻勢を指示するバーフェルヘイツ。憤りのあまり痺れを切らしたのはトーザスだった。彼はすぐさま己が駆る竜の首筋を叩き、大きな声で聞き覚えのない言葉を掛けた。すると___
 「グルゥゥァァッ!」
 トーザスの翼竜が嘶いた。今までと少し違う甲高い声は戦場に良く響き、翼竜たちの耳を打った。そして騎手の指示も構わずに、トーザスの翼竜を先頭としてグリフォンの集団に背を向けて飛び出したのだ。
 「な、なにごとだこれは!?」
 驚いたのはバーフェルヘイツ。しかし彼が何を言おうと竜の意志は変わらなかった。
 「逃亡の指令を出しました!」
 竜たちは竜の言葉を知るものを尊重するという。だからテイマーの修行はまず竜の言葉を覚えることから始まる。
 「おいトーザス!貴様、この方角は!」
 「シュバルツァーです!」
 バーフェルヘイツは後ろで何かをわめいている。しかしトーザスは聞く耳を持たず、ただ真っ直ぐ前を見た。おかげでバーフェルヘイツのさらに後ろで起こった騒ぎは、彼の耳に届かなかった。
 「お父さんがいないよ!」
 「本当だ___さっきまで一緒に闘ってたのに!」
 リュカと意識の戻ったルディーは竜の背の上で不安に駆られていた。逃亡する翼竜たちの背に、父の姿がなかったのだ。

 「思ったんだけどさ、おまえあいつらのボスだろ?」
 夜の風を感じながら、百鬼は落ち着いた声で翼竜に語りかけた。
 「だからここに残ったんだろ?時間稼ぎのために。」
 二人を取り囲むグリフォンのけたたましい声。しかしそれが気にならないほど、百鬼と竜の間には整然とした空気があった。覚悟を決めた者というのは得てして達観し、全ての雑音を断ち切れるものなのだ。
 「巻き添えなんて言わないぜ。俺もおまえの気持ちは分かる、だからとことん付き合うよ。」
 百鬼は竜の上で剣を握り直した。刀ほどしっくり来るものでもなかったが、贅沢は言ってられない。少しでも多くのグリフォンを倒す___あわよくば大物を倒し、敵の戦意を喪失させたい。
 「狙いはあいつだ!俺があいつに飛び移れるようにしてくれ!」
 翼竜の反応は素早かった。偶然か、それとも竜が風を誘ったのか百鬼には分からない。突然吹き付けた上昇気流が竜の体を一気に空の高見へと舞い上げた。
 「ギィアッ!」
 小振りなグリフォンたちが血相を変えて翼竜に追いすがる。風に乗った翼竜はそのまま体を伸ばしていく。
 「お、おいっ!?」
 百鬼は竜の鱗に爪を引っかけて必死にしがみつく。しかし腰は今にも浮き上がらんばかりだ。挙げ句の果てに竜はどんどん体を反らし___
 「うおぁぁっ!?」
 ヒラリと宙返り。逆さまになると百鬼の爪はあえなく鱗から離れた。
 ガシッ___
 しかし彼の体は宙を泳ぐことはあっても、果てのない空の底へと落ちることはなかった。一回転した竜がその脚で百鬼の胴を掴まえたのだ。
 「ひぇ〜___!」
 なるほど、首の上にいるよりはこうした方が大きなグリフォンに飛び移りやすい。分かれば納得できるものの、百鬼の額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいた。にしても大胆な竜だ。
 「おまえソアラみたいだな!」
 大胆にも家族を捨てて黄泉に行ってしまった妻の顔を思い浮かべ、百鬼は少しにやけながら剣を握りなおした。
 「よぉし!いくぜぇぇ!」
 自分の体を掴まえていてくれる竜がソアラだと考えると、百鬼の心も自然と鷹揚になる。もともと敵に恐れをなすタイプではないが、大量のグリフォンを前にしても立ち向かうことに不安はない!
 竜は追いすがるグリフォンの群れへと急降下した。体を真っ直ぐにして風を切り裂き、錐揉みのように回転しながらグリフォンの群れをすり抜けていく。その先に待ちかまえるのは巨大グリフォン、突貫してくる翼竜に対して獅子の爪を放った。しかし翼竜は爪が触れるか触れないかすれすれのところで弧を描いて急上昇し、その瞬間、百鬼を掴む脚が緩んだ。
 「おりゃあああっ!」
 その勢いのままに飛び出した百鬼。グリフォンは翼竜が抱いていた小さな存在に全く気づいていなかった。
 「ギュィィッ!!」
 グリフォンの額にとりつくと同時に、百鬼の剣は巨鳥の片目に深く食い込んでいた。巨大グリフォンは苦悶の声を上げ、その体に青白いオーラを纏う。
 ゴオオオオッ!
 再び猛吹雪が戦場に吹き荒れる。それは燕のように素早く舞う翼竜を闇雲に狙っていた。
 「ギュギィィッ!」
 奮闘していた翼竜も、小さなグリフォンの包囲網に逃げ場を失っていた。広範囲に吹き荒れる乱雑な吹雪はその隙を逃さない。それどころか同族までをも一網打尽に飲み込んでいく。
 「いけねえ!」
 氷の弾丸が愛竜に打ち付ける様を目の当たりにした百鬼は、力任せにグリフォンの片目から剣を抜き去る。左手で巨鳥の下瞼を掴み、ぶら下がるようにして右腕を目一杯に伸ばすとその喉笛に剣を突き刺した!
 近づかれると脆い___定石は正解だった。
 百鬼は持ち前の強力で剣を捻り、傷口をさらに切り開く。大量の青い血飛沫が噴き出し、氷の粒と相まって鮮やかな煌めきを戦場にもたらした。
 「ガッアァァッ___!」
 破壊された喉で絞り出した断末魔の叫びは、同族たちから戦意を奪う。グリフォンの翼から力が失せていくと、百鬼は勝利を確信した。
 「ソアラ!」
 名前も性別も知らない愛竜を百鬼は妻の名で呼んでいた。何しろ翼竜は、グリフォンごと果て無き空への落下をはじめた百鬼を救おうと、賢明に傷ついた翼を羽ばたかせていたのだ。愛おしさが彼に自然とソアラの名を呼ばせていた。
 だが、二人が再び手を取り合うことはなかった。
 「せっかくわしが呼び出した高級なモンスターを___」
 「!?」
 背中に声を感じた百鬼は、剣でグリフォンの首にぶら下がったまま振り返った。そこはグリフォンの背。羽毛に腰まで埋めて、老人が立っていた。ザキエルである。彼は巨大グリフォンの羽毛の中にその身を隠し、戦況を見守っていたのだ。
 「てめえは___!」
 「___目障りな勇者気取りめ___」
 百鬼はザキエルの歪んだ笑みに怒りを、その手に灯った朧気な黒に危機を感じる。しかしこの状況ではどうにもならなかった。
 「消えろ!イーヴルゲート!」
 黒い輝きが広がり、百鬼の体を包み込む。身を引き裂かれるような痛みを想像していた百鬼は、その瞬間目を閉じて歯を食いしばった。
 「ん?」
 しかし苦痛は全くない。黒い輝きは彼の体を包んだだけで、熱も、冷気も、痺れさえももたらさない。ただ本番はこれからだった。何しろその呪文はソアラも使いこなす「あれ」と対をなすもの。
 グンッ!
 「う___おぉぉぉぉぉぉぉ!?」
 突如、百鬼の体が弾けた。大砲に弾のように天界の空へと打ち出されたのだ。雲を劈き、黒い光は瞬く間に空の果てへ。終いにはザキエルの目にも届かないほど遠くへ百鬼は消えた。
 「イーヴルゲートは移動呪文ヘヴンズドアと対をなす。ヘヴンズドアは自らが目的地へ飛ぶ呪文、イーブルゲートは邪魔者を地の果てへと飛ばす呪文。まあどこへ辿り着くかはしらんが、そのまま底のない空を落ちて行くだけが関の山じゃな。」
 ザキエルは満足げな笑みを浮かべ、魔力を働かせて宙に浮いた。喉に剣を突き立てられた巨大グリフォンの躯が、あるかも分からない空の底へと消えていく。
 「む___」
 もう一つ憎きはあの翼竜。しかし抜け目無く、理知的な竜はすでに遠い空へと逃れていた。しかもその先から朝の日差しが顔を見せようとしている。
 「___やむを得ぬ、出直すか。」
 ザキエルは目一杯の煙たい顔をし、生き残ったグリフォンを呼びつけるとその背に跨った。
 やがて、闇の侵攻に怯える世界とは思えぬほど輝かしい朝が訪れる。百鬼の奮闘により追撃を逃れた翼竜たちがシュバルツァーへと辿り着いたのは、それから少ししてのことだった。




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